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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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86/88

古びた礼拝堂 ―― 神ではなく、過去の自分に祈る。

丘を登る足元で、ぐじゅ、と鈍い音がした。

 雪解け水を吸い込んだ土が、ブーツの底を離すのを名残惜しそうに引き留める。


「……ずいぶん、滑りますわね」


 リリアは裾を少し摘み上げ、前を行くミラとの距離を詰めた。坂の途中から、街の屋根と孤児院の煙突が、灰色の空の下に小さく見える。


「すみませんねえ、公爵家のお嬢様に、こんな泥道歩かせちゃって」


 振り返ったミラが、いつもの軽口を言いかけて、肩をすくめる。


「……いや、“リリアさん”でしたっけ、ここだと」


「ええ。ここでは、どうぞ“リリア”と」


 そう答えると、後ろからついてくる少年が、わざとらしくため息をついた。


「だから言っただろ。あんなボロいとこ、わざわざ見に行くもんじゃないって」


「昔は、人が集まっていた場所なのでしょう?」


 リリアは、ぬかるみを避けるように一歩ずつ位置を選びながら、穏やかに問い返す。


「ええ。暇つぶしに院長に聞いたら、教えてくれたんですよ」


 ミラが口を挟んだ。


「“むかしは、祭りの前とか、大事な話の前にはみんなで祈りに行ったもんですがねえ”って。今はもう、ほとんど使われてないって」


 そのときの院長の、どこか寂しそうな笑顔が、リリアの胸に蘇る。


『今は誰も、大きな声では“神様に助けてくれ”とは言いにくい時代ですからね』


 苦くかすれたその声の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。


 坂の上に、石造りの小さな建物が見えてくる。

 壁には亀裂が走り、屋根の端はところどころ欠けている。色ガラスをはめ込んだはずの窓は、割れた部分に板が打ち付けられ、残った小さな破片だけが、弱い光を鈍く返していた。


「あれですか?」


「そう。礼拝堂。……って、もう礼拝なんかしてる人、ほとんどいないけど」


 少年の声は、年齢に似合わぬ諦めを帯びている。


 近づくと、重い木の扉が、錆びた蝶番をきしませてわずかに開いた。

 中から、冷えた空気と、古い木と蝋の匂いが流れ出してくる。


 ミラが先に足を踏み入れ、後に続いてリリアも中へ入る。


 そこは、静寂そのものだった。


 両脇に並ぶ木製の長椅子は、誰かの体重を恋しがるように、ちょっと押しただけでぎい、と軋んだ。座面には薄く埃が積もり、ところどころに、子どもの靴跡がかすかに残っている。


 正面には簡素な祭壇。かつては鮮やかだったのだろう布は、色を失い、端がほつれている。

 脇の蝋燭立てには、溶けきらずに固まった白い蝋の塊が、垂れた涙のようにこびりついていた。


 高い位置の窓から差し込む光は弱く、しかし細かな埃の粒を浮かび上がらせるには足りていた。

 そこに漂うのは、今を生きる人々の気配ではなく、かつてここで誰かがひざまずき、肩を寄せ合っていた頃の、薄い残り香だけ。


 リリアはゆっくりと長椅子の間を歩きながら、指先で背もたれをなぞる。

 木肌には、何度も触れられて磨かれた場所と、長く放置され、ざらつきが戻ってしまった場所が混ざっていた。


 少年は、入口近くの柱にもたれながら、つまらなそうに天井を見上げるでもなく、床を睨んでいる。


「ここで、祈っていたのですね?」


 問いかけると、少年は一瞬だけ目線を上げて、祭壇を横目に見た。


「ここで祈っても、冬は毎年ちゃんと来た」


 淡々とした口調だった。


「だから、みんなそのうち、来なくなったんだって」


 ミラが、苦笑ともつかない表情で肩をすくめる。


「……なんか、そういう話、どこの家からも聞こえてきますよね。“祈っても薪は増えない”“祈っても腹はふくれない”って」


 リリアは祭壇の前で立ち止まり、古びた布の端にそっと触れた。

 布の下には、何千回、何万回と重ねられたであろう、人々の祈りの手の形が、見えないはずなのに確かに感じられる気がする。


(“祈りが届かなかった場所”――)


 彼女はまぶたを伏せ、かすかな息を吐いた。


(この街の人々にとって、ここはそんな記憶を宿した場所なのですわね)


 しん、と冷えた礼拝堂の空気が、その心のつぶやきを飲み込んでいった。


礼拝堂の中は、どこを見ても「止まった時間」の色をしていた。


 割れたステンドグラス越しにさし込む光は弱々しく、長椅子の列は、もう何年も誰も座っていないかのように、薄い埃をまとっている。祭壇の上の布は色あせ、端はほどけ、神を象った簡素な飾りの金具さえ、鈍く曇っていた。


 リリアは祭壇の前まで歩み寄り、祈祷台の縁にそっと指先を当てる。

 木は、長い年月に擦り減って丸くなっていた。無数の手がここに重ねられ、涙と共に押し付けられてきた、その痕跡だけが確かに残っている。


「……前の冬」


 背後で、少年の声がした。


 彼は長椅子の端に腰をかけ、靴の先で床の埃をなぞるようにしながら、視線をどこにも定めずに続ける。


「弟が熱を出したとき、母さん、ここでずっと祈ってた」


 リリアは振り向かないまま、そっと耳を傾けた。


「手、こんなふうに組んでさ」


 少年は、自分の膝の上で、ぎこちなく指を組んでみせる。

 その形は、どこか見様見真似のぎこちなさを含んでいた。


「声がかれるまで、なんとかしてくれって言ってた。

 でも……」


 そこで言葉を切ると、少年は鼻で短く笑う。


「村の人たちは、みんな知ってるみたいな顔してたよ。“祈っても薪は増えないし、薬も湧いてはこない”ってさ」


 リリアの胸に、小さな痛みが走る。


 少年は、祭壇の方を一瞬だけ見やり、すぐに目をそらした。


「だから、もう来ない。

 ここにいても、冬は冬のままだったし」


「あなたも、祈ったことが?」


 リリアが静かに尋ねると、少年はほんの少し、肩をすくめた。


「一回だけ。母さんの真似して、ここに座って、目ぇつぶって」


 彼は長椅子の背もたれに背中を預け、天井を見上げるふりをして、目だけを閉じた。


「“弟の熱が下がりますように”って、ちゃんと言った。

 でも、朝になっても変わらなかった」


 瞼が開き、暗い瞳が礼拝堂の空虚な天井を映す。


「だから、もうしない。

 お願いしたって、何も変わらないなら、時間の無駄だろ」


 最後の一言は、まだ年若い声には似つかわしくないほど、冷めていた。


 長椅子の別の列には、小さな手跡のような埃の筋があった。

 指でなぞったように、そこだけが細く拭われている。


「ときどき、ちっちゃい子が来るんですよ」


 ミラが、小声で説明を添える。


「“お腹いっぱい食べられますように”とか、“お父さんがけほけほしませんように”とか。

 でも、大人たちが“そんなことしてないで手ぇ動かしな”って追い返す。――仕方ないんですけどね」


 リリアは視線を落とし、祈祷台に重ねられていたであろう、小さな手の数を想像する。


(“祈っても何も変わらない”――)


 少年の言葉が、冷たい礼拝堂の空気に溶けていく。


(そう言わざるをえないほど、ここで過ごした冬は、厳しかったということ)


 けれど、と彼女はそっと目を閉じた。


(本当に、祈りは何ひとつ残さなかったのでしょうか)


 冷えた木の感触が、掌に確かに伝わる。

 ここに膝をつき、言葉を吐き続けた誰かの時間も、震える指先も、もう誰も覚えてはいないかもしれない。


 それでもこの木だけは、確かに覚えている――そんな気がした。


 形だけになってしまった祈り。

 口だけが覚えている定型句。

 大人たちが「どうせ変わらない」と言い聞かせて、子どもから早々に取り上げてしまう願いごと。


 祈りそのものが、空っぽになったのではない。

 あまりにも届かなかった冬の中で、「信じて裏切られる痛み」を避けるために、ここに足を運ぶ心のほうが先に凍りついてしまったのだ――そんな気がしてならなかった。


 リリアは祈祷台からそっと手を離し、少年のほうへ振り返る。


 彼の指は、祈りの形を解いてしまっていたが、その手元には、さっきまで組まれていた跡のように、うっすらと白い線が残っている。


(お願いが叶わなかった祈りも――)


 彼女は胸の奥で、静かに思う。


(ここに来て、誰かを必死に案じた時間までもが、すべて無駄だったとは、どうしても思えませんわ)


 古びた礼拝堂の静寂の中で、リリアのその問いだけが、まだ言葉にならないまま、ひそやかに生まれ始めていた。


礼拝堂の中に、夕刻の冷たい光が薄く沈んでいた。


 ミラと少年の足音が遠ざかり、ぎい、と扉が閉まる音が最後にひとつ響く。

 それきり、世界から音が抜け落ちたかのような静寂が降りた。


 リリアは祭壇の前に立ち、しばらく何もせずにいた。

 ひび割れた壁、色あせた布、溶けきれずに固まった蝋の塊。

 かつてここに満ちていたはずの「声」は、今はどこにも見当たらない。


「……先に戻っていてくださいませ」


 さきほど、ミラにそう告げたとき、自分の声が思ったよりも穏やかだったことを思い出す。


『そろそろ戻りません? 寒くなりますよ』

 そう心配するミラに、リリアは微笑んで首を振った。


『わたくし、少しだけ――ここに残りたくなりましたの』


 ミラは一瞬だけ彼女の顔をじっと見て、それ以上何も言わなかった。

 扉が閉じる直前、振り返りもせず片手だけ軽くひらりと振って。

 その何気ない信頼の仕草が、今も背中に温度として残っている。


 リリアは、祭壇の前に置かれた膝置きに、そっと膝をついた。


 膝が古い木に沈み、ひんやりとした感触が伝わる。

 両手を組む仕草は、身体に染みついた癖のように自然だった。

 王宮の礼拝堂で、何度も何度も繰り返した、貴族に教え込まれる「正しい祈り方」。


 ただひとつ違うのは――

 その視線が、祭壇の奥に掲げられた神の象徴ではなく、自分の指先の辺りに落ちていることだった。


(神様。……いえ)


 リリアは、胸の内でそっと言葉を正す。


(今日はあなたにではなく――“あの頃のわたくし”に、問いかけるためにここへ来ましたの)


 瞼を閉じると、すぐに過去の光景が浮かび上がった。


 温かな王宮の礼拝堂。

 磨き抜かれた大理石の床に、色鮮やかなステンドグラスの光が落ちていた。

 豪奢なドレスの裾を整え、背筋をぴんと伸ばし、誰の前でも曇ることのない笑みを貼りつけていた少女――リリアンヌ。


(王宮の温かな空気の中で、“選ばれたい”と願い――)


 指先が、自然と組まれたまま、かすかに震える。


(“誰よりもふさわしいわたくしでいなければ”と、必死に背伸びをしていた頃のわたくしへ)


 あの頃の自分は、誰よりも真面目に、「期待」に応えようとしていた。

 少しでも気を抜けば、誰かに後れを取るのではないか。

 少しでも欠点を見せれば、「王妃候補」としての価値を失うのではないか――それが怖くて、いつも拳を見えない場所で握りしめていた。


 礼拝堂の冷たい空気の中に、リリアはそっと問いかける。


(あのときのあなたは――こんな冬の冷たさを、知りもしませんでしたわね)


 雪の夜に軋む床。

 薪が足りなくなって、子どもたちが咳をこらえる音。

 靴下の穴から忍び込む冷気、薄い毛布と、空腹を紛らわせるための薄いスープ。


 王宮の中の「冬」は、美しく飾られた窓越しに眺める景色でしかなかった。

 暖炉の火は絶えず燃え、食卓から食べ物が尽きることはなく、ドレスの袖を通る指は、ひび割れることもない。


(けれど今のわたくしは、その冷たさに触れてみたいと願って――)


 彼女はゆっくりと息を吸い込む。


(自分から王宮を出てまいりましたの)


 選ばれなかった。

 王妃候補として、最後まで残れなかった。

 その事実は、きっと一生消えないだろう。


 けれど、その「選ばれなかったこと」があったからこそ、今この礼拝堂の床に膝をついている自分がいる。


(だからどうか――)


 リリアは、組んだ指に力を込めた。

 手袋を外した素手は、村や街で風に晒され、いつのまにか小さな傷やささくれが増えている。


(“選ばれなかったわたくしは価値がない”なんて言って、これからの歩みを縛らないでいてくださいませ)


 それは「神」に赦しを乞う祈りではなかった。

 王宮の高い天井の下で、いつも「もっと頑張りなさい」「ふさわしくあれ」と自分を追い立てていた、あの幼い自分に向かって投げかける言葉。


(あなたが必死に守ろうとした誇りや礼儀や、誰かの期待に応えようとした心は――)


 リリアは、そっと微笑んだ。瞼の裏で、昔の自分と目が合ったような気がした。


(今、ここで誰かの冬に触れようとするわたくしの中にも、ちゃんと生きておりますわ)


 だから、と彼女は続ける。


(どうかそれを、“失敗”や“敗北”とだけ呼ばないでくださいませ)


 むしろ、そこから先の道を歩いていくための、最初の一歩だったのだと。

 王宮の天井の下では見えなかった空を知るための、遠回りの扉だったのだと。


 祭壇に掲げられた神の象徴は、黙ったまま何も答えない。

 けれど、ひび割れた石壁に反響する沈黙の中で、リリアには確かに、もうひとりの自分の気配があった。


 完璧でなければならなかった少女。

 傷つくことを怖れて、冷たさから目をそらしていた少女。

 それでも、本当は誰かの痛みに手を伸ばしたくて仕方がなかった少女。


 その子が、少しだけ肩の力を抜いて、こちらを見ているような気がする。


「――わたくしがここで、誰かの冬に触れようとすることを」


 リリアは、唇だけを動かして、ひとつの言葉を置いた。


「どうか、笑わずに見守っていてちょうだいな」


 祈り終えた指をほどく。

 膝をついていた足がしびれ、立ち上がるときに少しよろめいた。


 その不格好な動きさえ、どこか愛おしく感じられる。

 完璧な所作だけを求められた王宮にはなかった、たどたどしい「今」の自分の重さ。


 古びた礼拝堂の扉を押し開けると、外の空気はもうすっかり夜の気配を帯びていた。

 街の方角に、小さな灯りが点々と瞬いている。


 リリアは振り返り、一度だけ礼拝堂に向かって会釈した。


 神にではなく――

 そこでようやく赦されつつある、自分自身に向けるように。


 礼拝堂の古い扉に手をかけたときだった。


 外からの冷たい空気が、わずかな隙間からすうっと流れ込んでくる。

 木の軋む音と一緒に扉を押し開けると、そのすぐ脇の壁にもたれている人影があった。


「……ミラ?」


 思わず名前を呼ぶと、ミラは肩をびくりと揺らし、ふり返った。


「わっ。びっくりした……って、こっちのセリフですね」


 彼女は耳まで赤くして、そっぽを向く。


「さっき、ちょっとだけ中を覗いたんですけど……

 リリアさん、ちゃんと“お祈りしてる顔”してましたね」


 リリアは、ふっと苦笑した。


「ええ、“お祈りしているふり”は、王宮で散々身につけさせられましたもの」


「ふり、って言っちゃいましたよ」


 半分呆れたように笑いながら、ミラは扉から一歩離れる。

 足元を見ると、薄い靴のつま先がしっとり濡れている。どうやら完全には戻らず、この場でずっと待っていてくれたらしい。


「寒くありませんでしたの?」


「ま、ちょっとは。鼻先もげるかと思いました」


 そう言いつつ、ミラは自分の腕をさすり、ふうと息を吐く。

 その息が白くほどけるのを眺めてから、ふと真面目な顔つきになった。


「正直に言うと、あたし――祈るって、あんまり好きじゃなくて」


 リリアは目を瞬く。


「祈ることが、ですの?」


「はい。なんか、“誰かに何とかしてもらいたい”って、サボってるみたいな気がしてたんですよね」


 ミラは、礼拝堂の扉を親指で軽く指し示す。


「前のご主人様の家でも、たまにみんなで礼拝とか行かされましたけど……

 “神様が助けてくれますように”って言うくらいなら、その前に自分で動けよ、って。

 ……まあ、口には出せませんでしたけど」


 遠い目をして、肩をすくめる。

 どこか投げやりな響きの奥に、幼い頃から積み重ねてきた諦めの層が見え隠れしていた。


 リリアは、すぐに否定も肯定もせず、しばらく沈黙を挟んだ。

 礼拝堂の中に残った冷気が、まだ肌にまとわりついている。


「……たしかに、そうですわね」


 やがて、低く落とした声で言葉を紡ぐ。


「全てを神様に委ねてしまえば――

 自分の手を汚さずに済む、“都合のよい祈り”もありますわ」


 ミラが、じろりと横目で見た。


「やっぱりそう思います?」


「ええ。王宮にも、そのような祈りはたくさんございましたもの」


 リリアは、扉の枠にそっと指先を添えた。

 乾きかけた木の感触が、皮膚の小さな傷に引っかかる。


「“どうかこのまま、わたくしの立場が揺らぎませんように”

 “どうか、わたくしより優れた相手が現れませんように”」


 苦く笑い、かぶりを振る。


「そう願いながら、誰かの影に怯えて何も変えないなら――

 それはきっと、ミラがおっしゃる通り、“現実から逃げるための祈り”なのでしょうね」


 ミラは、少し驚いたように目を丸くした。


「リリアさん、そんなこと思ってたんですか」


「全員ではありませんけれど、ね。

 ……もちろん、わたくし自身も、似たようなことを一度も思わなかったとは言いませんわ」


 自嘲気味な笑みを浮かべてから、リリアは言葉を継ぐ。


「でも、今、わたくしがここでしたのは――」


 礼拝堂の暗がりを振り返る。

 膝をついていた場所に、まだ自分の体温がうっすら残っている気がした。


「“神様に任せるため”の祈りではなくて」


 胸元に手を置き、静かに言う。


「“自分の足で歩く覚悟を、もう一度確かめるため”の祈りですの」


 ミラが、ぱちぱち、と二度瞬きをした。


「自分に向けて、ですか?」


「ええ。過去のわたくしへも、今のわたくしへも」


 リリアは、少し照れくさそうに笑う。


「“あなたはこれからも歩くのですよ”と、

 自分で自分の背中を、そっと押してみたくなりましたの」


 ミラはしばらく黙っていた。

 やがて、口を半開きにしたまま、ぽかんとリリアを見つめる。


「……なんか」


「なんか?」


「ずるい言い方ですねえ」


 そう言って、ふっと笑う。


「“サボりの祈り”じゃなくて、“自分で歩くための宣言”みたいに聞こえちゃうじゃないですか」


「宣言、ですの?」


「うん。ほら、誰かに丸投げするんじゃなくて――」


 ミラは空を仰ぐ仕草をし、手をひらひらさせる。


「“やることやった上で、まだ足りない分だけ”

 ちょっと空に向かってお願いする、みたいな」


 そのたとえに、リリアは思わず吹き出した。


「まあ。ずいぶんと実務的な祈り方ですこと」


「だって、あたしたち、現実で生きてますから」


 ミラもつられて笑い、肩をすくめる。


「……でも、そういう祈りなら、ちょっとアリかもしれません」


「アリ、ですの?」


「はい。“全部どうにかしてください”じゃなくて、

 “ここから先へ進む勇気を、もう一回ください”ってお願いするのは――」


 ミラは、礼拝堂をちらりと一瞥した。


「それ、サボりじゃなくて、むしろ働く前の深呼吸みたいなもんですし」


 働く前の、深呼吸。


 その言葉が、リリアの胸にすとんと落ちた。


「……そうかもしれませんわね」


 彼女は小さくうなずく。


「祈りは、現実から目をそらすためのものにもなり得ますけれど」


 自分の指先を見つめる。

 村で泥に触れ、薪を運び、子どもの手を握ったときに刻まれた細かな傷跡。


「同時に、“現実から目をそらさずに歩くために、呼吸を整える時間”にもなりうるのだと――

 今日、ここで少しだけ学ばせていただきましたわ」


 ミラは、にかっと笑って親指を立てた。


「じゃあ、リリアさんの祈りは……サボり認定、取り消しで」


「まあ、光栄ですわ」


 二人でくすくす笑い合う。

 冷たい風が丘を駆け上がり、礼拝堂の古い石壁をなでていく。


「さ、戻りましょうか」


 リリアが言うと、ミラは「ですね」と頷き、一歩踏み出してから、ふと思い出したように振り返った。


「でも、あたしはやっぱり、祈るより先に手を動かす派ですよ」


「存じておりますわ。頼もしいことです」


「リリアさんは?」


「わたくしは――」


 少しだけ考えてから、彼女は微笑んだ。


「まず手を動かしてみて、それでも届かないところだけ、

 ときどき思い出したように祈る派、かもしれませんわね」


「やっぱりずるいですね、その立ち位置」


「ふふ。お互い、少しずつ譲り合っていきましょう?」


 夕暮れの坂道を、二人は並んで降りていく。

 振り返れば、古びた礼拝堂が、静かにそこに佇んでいた。


 神ではなく、過去の自分に向けて祈ったその場所を、

 リリアは胸のどこかでそっとなぞりながら、足を前へと運んだ。



礼拝堂の扉を背に、石段を数段おりたところで、リリアはふと足を止めた。


 夕暮れの空は低く重く、街の上に薄い煤のように垂れ込めている。

 けれど、遠くのほうで、ぽつぽつと灯りがともり始めていた。

 冷えた空気の中で、その灯りだけが、じんわりと温度を帯びて見える。


 少し離れた場所――石垣にもたれるようにして、少年がこちらを見ていた。


「……戻ってこられなかったのかと思いましたわ」


 リリアが冗談めかして言うと、少年はむっとした顔をする。


「別に、待ってたわけじゃない。たまたま通りかかっただけだ」


「はいはい、たまたまねえ」


 ミラがにやにやしながら茶々を入れる。

 少年はそっぽを向き、足先で小石を蹴った。


 しばらく三人のあいだに沈黙が落ちたあと、少年がぽつりと口を開く。


「……祈ったら、何か変わるの?」


 その問いは、夕暮れの冷たい空気と同じ温度をしていた。

 期待というより、諦めに近い色を帯びた声。


 ミラは一瞬、肩をすくめかける。


「さあ……って言いたいところですけど」


 けれど、その前に、リリアが静かに口を開いた。


「祈るだけでは、冬はやわらぎませんわ」


 少年の視線が、じろりと彼女に向けられる。


「薪も、薬も、天からは降ってこないでしょう」


「……やっぱり」


 少年の口元に、意地の悪い笑みが浮かびかける。

 “ほら見ろ”と言いたげな、その表情。


 だが、その前に、リリアは言葉を重ねた。


「けれど――」


 彼女は一段、石段を上がり、少年とほぼ同じ高さに立つ。

 夕焼けとも夜ともつかない光が、三人の輪郭を淡く縁取った。


「何度も折れそうになる心を、

 もう一度だけ立ち上がらせるための、小さな儀式にはなりますわ」


 少年が、きょとんとした顔をする。


「儀式?」


「ええ」


 リリアは指を絡めるように軽く手を組んでみせる。

 礼拝堂の中で膝をついたときよりも、ずっと柔らかい仕草だった。


「“明日も、もう一日だけやってみよう”と、

 自分に言い聞かせるための、静かな時間になりますの」


 少年は眉をひそめる。


「……よく分かんない」


「そうですわね。わたくしも、つい最近まで分かりませんでしたもの」


 リリアは微笑み、街の灯りのほうへ視線を向けた。


「誰かが全部どうにかしてくれる、なんて都合のいい話はありませんわ。

 けれど、自分の中のどこかが、もう立ち上がるのをやめたくなったとき――」


 そのときだけ、そっと手を組む。


「“大丈夫。あと一日だけ”と、自分で自分に言い聞かせるために、

 祈るふりをして立ち止まる時間が、あってもいいのではないかしら、と思うのです」


 少年は、石段の端をつま先でこつこつ蹴りながら、俯いた。

 完全には納得していない――けれど、さっきまでのように一刀両断する様子もない。


 もしかしたら、自分も一度くらいはやってみるかもしれない。

 そんな揺らぎだけが、沈黙の中に残る。


 その空気を、ミラの明るい声がやわらかく破った。


「じゃあ、リリアさんが倒れそうになったときは、あたしが代わりに祈ってあげますよ」


 リリアは、思わず吹き出す。


「まあ。それは心強いですわね」


「“明日ももう一日やりなさい”って、全力で空に向かってお願いしてあげます」


「でしたら、そのときは――」


 リリアは、いたずらっぽく目を細めた。


「ぜひ隣で、“一緒に立ち上がりなさい”と叱ってくださいませ」


 ミラは肩を揺らして笑う。


「叱るのは得意ですから、任せてください」


「……祈るより、そっちのほうが効きそう」


 ぼそ、と少年がこぼした。

 ミラが「聞こえてるぞ」と睨むと、少年はわざとらしく顔をそむける。


 けれど、その口元は、かすかに緩んでいた。


 礼拝堂の前の小さな石段に、三人の影が並ぶ。

 街の灯りがひとつ、またひとつと増えていく中で、その影も少しずつ長く伸びた。


 神に奇跡を求める祈りではない。

 ただ、“もう一度だけ立ち上がる”と、自分に言い聞かせるためのささやかな儀式。


 そんな祈りの形が、彼らのあいだに、静かに共有されていく夕暮れだった。



 その夜の孤児院は、いつもより少しだけ静かだった。


 子どもたちの寝息が、薄い壁越しにかすかに伝わってくる。

 廊下のランプは落とされ、残っているのは、ところどころで揺れる小さな灯りだけ。


 リリアは、自室の窓辺に立っていた。


 窓ガラスは、昼の名残りの冷たさをまだ抱いている。

 指先でそっと触れると、ひやりとした感触が皮膚を刺し、それがかえって意識をはっきりさせた。


 カーテンを少しだけ押しやると、遠く丘の上に、暗闇に浮かぶ小さな四角が見える。


 古びた礼拝堂だ。


 その小さな窓のひとつに、ほんのわずかな灯りがともっていた。

 揺れるというより、じっとそこにいるだけの、心細いほど小さな光。


 けれど、雪混じりの闇の中で、それは確かに目に映る。


 リリアは、静かに息を吸い込んだ。


(あの古びた礼拝堂で、わたくしは今日――)


 胸の奥に、昼間の空気がよみがえる。

 ひび割れた石壁、色あせた布、埃を含んだ冷たい光。


(神様ではなく、“過去のわたくし”に祈りました)


 窓から目を離さぬまま、そっと瞼を伏せる。


(“選ばれるためだけに生きていた頃”のわたくしへ)


 王宮の礼拝堂。

 磨き上げられた床、豪奢な装飾、澄んだ香油の匂い。


 幼い自分が、誰よりもまっすぐ背筋を伸ばし、

 「ふさわしいわたくしであらねば」と、固く拳を握りしめていた記憶。


(“選ばれなかったから終わりだ”と、膝を抱えていたわたくしへ)


 婚約解消の報せを受けたあとの、あの夜。

 カーテンも閉め切られた部屋の隅で、小さく丸くなっていた自分。


 世界が狭くなり、視界の端には「終わり」という言葉しか映らなかった頃の自分。


(今のわたくしは、そのどちらの手も取り上げて――)


 リリアは、そっと胸元に手を当てる。


 指先に感じる鼓動は、少し早い。

 けれど、それは逃げ出したい焦りではなく、どこか前へ進もうとする心の高鳴りだった。


(“それでも歩き続けてみましょう”と、そっと言い聞かせたのです)


 机の上には、今日書きかけで残した紙束が広がっていた。


 街の配給の記録。

 村の子どもたちの様子。

 礼拝堂のこと、人々の信仰が薄れていった理由の断片――


 乱れた文字で「祈り」と書かれた行の下に、リリアは小さくメモを添えている。


『奇跡を待つものではなく、“明日も立ち上がる”と決めるための時間』


 自分で書いたその言葉に、リリアは少しだけ頬を緩めた。


(祈りとは、きっと――

 奇跡を待つためのものではなく)


 窓の外に視線を戻す。

 丘の上の礼拝堂の灯りは、まだ消えていない。


 あの灯りは、冬の闇を追い払うには、あまりにも小さい。

 町全体を照らすことも、雪を溶かすこともできないだろう。


(何度でも立ち上がると決めた自分に、

 静かに約束を聞かせるための、ひとときなのかもしれませんわ)


 胸に当てた手の下で、鼓動がひとつ、またひとつと刻まれる。

 そのリズムに合わせるように、リリアは心の中で、あの礼拝堂での言葉をもう一度なぞった。


 ――選ばれなかったからといって、終わりではない。

 ――ここから先の一歩一歩を、どう歩くかは、自分で選んでよいのだと。


 その「選んでよい」という許しをくれたのは、神ではなく、

 ほかならぬ自分自身だった。


 窓の外の灯りが、ふっと小さく揺れたように見えた。


 それは、たぶん風のせい。

 けれどリリアは、自分の胸の中で灯り始めた小さな火もまた、同じように揺れた気がして、そっと目を閉じる。


 消えそうで、でも消えない、か細い光。


 不安定で、頼りなくて――

 それでも、自分の足元だけは確かに照らしてくれる灯火。


 その存在を、彼女は今、はっきりと感じていた。


 丘の上の礼拝堂の灯りは、

 冬の闇を追い払うには、あまりにも頼りなく見える。


 けれど、胸の内側でそっと灯り始めた火は、

 神の奇跡よりも確かに、彼女自身の歩みを照らしていた。


 ――神ではなく、過去の自分に祈ること。

 それは、“選ばれなかった令嬢”が、

 自分の足で進む道を選び続けるための、静かな誓いだった。






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