古びた礼拝堂 ―― 神ではなく、過去の自分に祈る。
丘を登る足元で、ぐじゅ、と鈍い音がした。
雪解け水を吸い込んだ土が、ブーツの底を離すのを名残惜しそうに引き留める。
「……ずいぶん、滑りますわね」
リリアは裾を少し摘み上げ、前を行くミラとの距離を詰めた。坂の途中から、街の屋根と孤児院の煙突が、灰色の空の下に小さく見える。
「すみませんねえ、公爵家のお嬢様に、こんな泥道歩かせちゃって」
振り返ったミラが、いつもの軽口を言いかけて、肩をすくめる。
「……いや、“リリアさん”でしたっけ、ここだと」
「ええ。ここでは、どうぞ“リリア”と」
そう答えると、後ろからついてくる少年が、わざとらしくため息をついた。
「だから言っただろ。あんなボロいとこ、わざわざ見に行くもんじゃないって」
「昔は、人が集まっていた場所なのでしょう?」
リリアは、ぬかるみを避けるように一歩ずつ位置を選びながら、穏やかに問い返す。
「ええ。暇つぶしに院長に聞いたら、教えてくれたんですよ」
ミラが口を挟んだ。
「“むかしは、祭りの前とか、大事な話の前にはみんなで祈りに行ったもんですがねえ”って。今はもう、ほとんど使われてないって」
そのときの院長の、どこか寂しそうな笑顔が、リリアの胸に蘇る。
『今は誰も、大きな声では“神様に助けてくれ”とは言いにくい時代ですからね』
苦くかすれたその声の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。
坂の上に、石造りの小さな建物が見えてくる。
壁には亀裂が走り、屋根の端はところどころ欠けている。色ガラスをはめ込んだはずの窓は、割れた部分に板が打ち付けられ、残った小さな破片だけが、弱い光を鈍く返していた。
「あれですか?」
「そう。礼拝堂。……って、もう礼拝なんかしてる人、ほとんどいないけど」
少年の声は、年齢に似合わぬ諦めを帯びている。
近づくと、重い木の扉が、錆びた蝶番をきしませてわずかに開いた。
中から、冷えた空気と、古い木と蝋の匂いが流れ出してくる。
ミラが先に足を踏み入れ、後に続いてリリアも中へ入る。
そこは、静寂そのものだった。
両脇に並ぶ木製の長椅子は、誰かの体重を恋しがるように、ちょっと押しただけでぎい、と軋んだ。座面には薄く埃が積もり、ところどころに、子どもの靴跡がかすかに残っている。
正面には簡素な祭壇。かつては鮮やかだったのだろう布は、色を失い、端がほつれている。
脇の蝋燭立てには、溶けきらずに固まった白い蝋の塊が、垂れた涙のようにこびりついていた。
高い位置の窓から差し込む光は弱く、しかし細かな埃の粒を浮かび上がらせるには足りていた。
そこに漂うのは、今を生きる人々の気配ではなく、かつてここで誰かがひざまずき、肩を寄せ合っていた頃の、薄い残り香だけ。
リリアはゆっくりと長椅子の間を歩きながら、指先で背もたれをなぞる。
木肌には、何度も触れられて磨かれた場所と、長く放置され、ざらつきが戻ってしまった場所が混ざっていた。
少年は、入口近くの柱にもたれながら、つまらなそうに天井を見上げるでもなく、床を睨んでいる。
「ここで、祈っていたのですね?」
問いかけると、少年は一瞬だけ目線を上げて、祭壇を横目に見た。
「ここで祈っても、冬は毎年ちゃんと来た」
淡々とした口調だった。
「だから、みんなそのうち、来なくなったんだって」
ミラが、苦笑ともつかない表情で肩をすくめる。
「……なんか、そういう話、どこの家からも聞こえてきますよね。“祈っても薪は増えない”“祈っても腹はふくれない”って」
リリアは祭壇の前で立ち止まり、古びた布の端にそっと触れた。
布の下には、何千回、何万回と重ねられたであろう、人々の祈りの手の形が、見えないはずなのに確かに感じられる気がする。
(“祈りが届かなかった場所”――)
彼女はまぶたを伏せ、かすかな息を吐いた。
(この街の人々にとって、ここはそんな記憶を宿した場所なのですわね)
しん、と冷えた礼拝堂の空気が、その心のつぶやきを飲み込んでいった。
礼拝堂の中は、どこを見ても「止まった時間」の色をしていた。
割れたステンドグラス越しにさし込む光は弱々しく、長椅子の列は、もう何年も誰も座っていないかのように、薄い埃をまとっている。祭壇の上の布は色あせ、端はほどけ、神を象った簡素な飾りの金具さえ、鈍く曇っていた。
リリアは祭壇の前まで歩み寄り、祈祷台の縁にそっと指先を当てる。
木は、長い年月に擦り減って丸くなっていた。無数の手がここに重ねられ、涙と共に押し付けられてきた、その痕跡だけが確かに残っている。
「……前の冬」
背後で、少年の声がした。
彼は長椅子の端に腰をかけ、靴の先で床の埃をなぞるようにしながら、視線をどこにも定めずに続ける。
「弟が熱を出したとき、母さん、ここでずっと祈ってた」
リリアは振り向かないまま、そっと耳を傾けた。
「手、こんなふうに組んでさ」
少年は、自分の膝の上で、ぎこちなく指を組んでみせる。
その形は、どこか見様見真似のぎこちなさを含んでいた。
「声がかれるまで、なんとかしてくれって言ってた。
でも……」
そこで言葉を切ると、少年は鼻で短く笑う。
「村の人たちは、みんな知ってるみたいな顔してたよ。“祈っても薪は増えないし、薬も湧いてはこない”ってさ」
リリアの胸に、小さな痛みが走る。
少年は、祭壇の方を一瞬だけ見やり、すぐに目をそらした。
「だから、もう来ない。
ここにいても、冬は冬のままだったし」
「あなたも、祈ったことが?」
リリアが静かに尋ねると、少年はほんの少し、肩をすくめた。
「一回だけ。母さんの真似して、ここに座って、目ぇつぶって」
彼は長椅子の背もたれに背中を預け、天井を見上げるふりをして、目だけを閉じた。
「“弟の熱が下がりますように”って、ちゃんと言った。
でも、朝になっても変わらなかった」
瞼が開き、暗い瞳が礼拝堂の空虚な天井を映す。
「だから、もうしない。
お願いしたって、何も変わらないなら、時間の無駄だろ」
最後の一言は、まだ年若い声には似つかわしくないほど、冷めていた。
長椅子の別の列には、小さな手跡のような埃の筋があった。
指でなぞったように、そこだけが細く拭われている。
「ときどき、ちっちゃい子が来るんですよ」
ミラが、小声で説明を添える。
「“お腹いっぱい食べられますように”とか、“お父さんがけほけほしませんように”とか。
でも、大人たちが“そんなことしてないで手ぇ動かしな”って追い返す。――仕方ないんですけどね」
リリアは視線を落とし、祈祷台に重ねられていたであろう、小さな手の数を想像する。
(“祈っても何も変わらない”――)
少年の言葉が、冷たい礼拝堂の空気に溶けていく。
(そう言わざるをえないほど、ここで過ごした冬は、厳しかったということ)
けれど、と彼女はそっと目を閉じた。
(本当に、祈りは何ひとつ残さなかったのでしょうか)
冷えた木の感触が、掌に確かに伝わる。
ここに膝をつき、言葉を吐き続けた誰かの時間も、震える指先も、もう誰も覚えてはいないかもしれない。
それでもこの木だけは、確かに覚えている――そんな気がした。
形だけになってしまった祈り。
口だけが覚えている定型句。
大人たちが「どうせ変わらない」と言い聞かせて、子どもから早々に取り上げてしまう願いごと。
祈りそのものが、空っぽになったのではない。
あまりにも届かなかった冬の中で、「信じて裏切られる痛み」を避けるために、ここに足を運ぶ心のほうが先に凍りついてしまったのだ――そんな気がしてならなかった。
リリアは祈祷台からそっと手を離し、少年のほうへ振り返る。
彼の指は、祈りの形を解いてしまっていたが、その手元には、さっきまで組まれていた跡のように、うっすらと白い線が残っている。
(お願いが叶わなかった祈りも――)
彼女は胸の奥で、静かに思う。
(ここに来て、誰かを必死に案じた時間までもが、すべて無駄だったとは、どうしても思えませんわ)
古びた礼拝堂の静寂の中で、リリアのその問いだけが、まだ言葉にならないまま、ひそやかに生まれ始めていた。
礼拝堂の中に、夕刻の冷たい光が薄く沈んでいた。
ミラと少年の足音が遠ざかり、ぎい、と扉が閉まる音が最後にひとつ響く。
それきり、世界から音が抜け落ちたかのような静寂が降りた。
リリアは祭壇の前に立ち、しばらく何もせずにいた。
ひび割れた壁、色あせた布、溶けきれずに固まった蝋の塊。
かつてここに満ちていたはずの「声」は、今はどこにも見当たらない。
「……先に戻っていてくださいませ」
さきほど、ミラにそう告げたとき、自分の声が思ったよりも穏やかだったことを思い出す。
『そろそろ戻りません? 寒くなりますよ』
そう心配するミラに、リリアは微笑んで首を振った。
『わたくし、少しだけ――ここに残りたくなりましたの』
ミラは一瞬だけ彼女の顔をじっと見て、それ以上何も言わなかった。
扉が閉じる直前、振り返りもせず片手だけ軽くひらりと振って。
その何気ない信頼の仕草が、今も背中に温度として残っている。
リリアは、祭壇の前に置かれた膝置きに、そっと膝をついた。
膝が古い木に沈み、ひんやりとした感触が伝わる。
両手を組む仕草は、身体に染みついた癖のように自然だった。
王宮の礼拝堂で、何度も何度も繰り返した、貴族に教え込まれる「正しい祈り方」。
ただひとつ違うのは――
その視線が、祭壇の奥に掲げられた神の象徴ではなく、自分の指先の辺りに落ちていることだった。
(神様。……いえ)
リリアは、胸の内でそっと言葉を正す。
(今日はあなたにではなく――“あの頃のわたくし”に、問いかけるためにここへ来ましたの)
瞼を閉じると、すぐに過去の光景が浮かび上がった。
温かな王宮の礼拝堂。
磨き抜かれた大理石の床に、色鮮やかなステンドグラスの光が落ちていた。
豪奢なドレスの裾を整え、背筋をぴんと伸ばし、誰の前でも曇ることのない笑みを貼りつけていた少女――リリアンヌ。
(王宮の温かな空気の中で、“選ばれたい”と願い――)
指先が、自然と組まれたまま、かすかに震える。
(“誰よりもふさわしいわたくしでいなければ”と、必死に背伸びをしていた頃のわたくしへ)
あの頃の自分は、誰よりも真面目に、「期待」に応えようとしていた。
少しでも気を抜けば、誰かに後れを取るのではないか。
少しでも欠点を見せれば、「王妃候補」としての価値を失うのではないか――それが怖くて、いつも拳を見えない場所で握りしめていた。
礼拝堂の冷たい空気の中に、リリアはそっと問いかける。
(あのときのあなたは――こんな冬の冷たさを、知りもしませんでしたわね)
雪の夜に軋む床。
薪が足りなくなって、子どもたちが咳をこらえる音。
靴下の穴から忍び込む冷気、薄い毛布と、空腹を紛らわせるための薄いスープ。
王宮の中の「冬」は、美しく飾られた窓越しに眺める景色でしかなかった。
暖炉の火は絶えず燃え、食卓から食べ物が尽きることはなく、ドレスの袖を通る指は、ひび割れることもない。
(けれど今のわたくしは、その冷たさに触れてみたいと願って――)
彼女はゆっくりと息を吸い込む。
(自分から王宮を出てまいりましたの)
選ばれなかった。
王妃候補として、最後まで残れなかった。
その事実は、きっと一生消えないだろう。
けれど、その「選ばれなかったこと」があったからこそ、今この礼拝堂の床に膝をついている自分がいる。
(だからどうか――)
リリアは、組んだ指に力を込めた。
手袋を外した素手は、村や街で風に晒され、いつのまにか小さな傷やささくれが増えている。
(“選ばれなかったわたくしは価値がない”なんて言って、これからの歩みを縛らないでいてくださいませ)
それは「神」に赦しを乞う祈りではなかった。
王宮の高い天井の下で、いつも「もっと頑張りなさい」「ふさわしくあれ」と自分を追い立てていた、あの幼い自分に向かって投げかける言葉。
(あなたが必死に守ろうとした誇りや礼儀や、誰かの期待に応えようとした心は――)
リリアは、そっと微笑んだ。瞼の裏で、昔の自分と目が合ったような気がした。
(今、ここで誰かの冬に触れようとするわたくしの中にも、ちゃんと生きておりますわ)
だから、と彼女は続ける。
(どうかそれを、“失敗”や“敗北”とだけ呼ばないでくださいませ)
むしろ、そこから先の道を歩いていくための、最初の一歩だったのだと。
王宮の天井の下では見えなかった空を知るための、遠回りの扉だったのだと。
祭壇に掲げられた神の象徴は、黙ったまま何も答えない。
けれど、ひび割れた石壁に反響する沈黙の中で、リリアには確かに、もうひとりの自分の気配があった。
完璧でなければならなかった少女。
傷つくことを怖れて、冷たさから目をそらしていた少女。
それでも、本当は誰かの痛みに手を伸ばしたくて仕方がなかった少女。
その子が、少しだけ肩の力を抜いて、こちらを見ているような気がする。
「――わたくしがここで、誰かの冬に触れようとすることを」
リリアは、唇だけを動かして、ひとつの言葉を置いた。
「どうか、笑わずに見守っていてちょうだいな」
祈り終えた指をほどく。
膝をついていた足がしびれ、立ち上がるときに少しよろめいた。
その不格好な動きさえ、どこか愛おしく感じられる。
完璧な所作だけを求められた王宮にはなかった、たどたどしい「今」の自分の重さ。
古びた礼拝堂の扉を押し開けると、外の空気はもうすっかり夜の気配を帯びていた。
街の方角に、小さな灯りが点々と瞬いている。
リリアは振り返り、一度だけ礼拝堂に向かって会釈した。
神にではなく――
そこでようやく赦されつつある、自分自身に向けるように。
礼拝堂の古い扉に手をかけたときだった。
外からの冷たい空気が、わずかな隙間からすうっと流れ込んでくる。
木の軋む音と一緒に扉を押し開けると、そのすぐ脇の壁にもたれている人影があった。
「……ミラ?」
思わず名前を呼ぶと、ミラは肩をびくりと揺らし、ふり返った。
「わっ。びっくりした……って、こっちのセリフですね」
彼女は耳まで赤くして、そっぽを向く。
「さっき、ちょっとだけ中を覗いたんですけど……
リリアさん、ちゃんと“お祈りしてる顔”してましたね」
リリアは、ふっと苦笑した。
「ええ、“お祈りしているふり”は、王宮で散々身につけさせられましたもの」
「ふり、って言っちゃいましたよ」
半分呆れたように笑いながら、ミラは扉から一歩離れる。
足元を見ると、薄い靴のつま先がしっとり濡れている。どうやら完全には戻らず、この場でずっと待っていてくれたらしい。
「寒くありませんでしたの?」
「ま、ちょっとは。鼻先もげるかと思いました」
そう言いつつ、ミラは自分の腕をさすり、ふうと息を吐く。
その息が白くほどけるのを眺めてから、ふと真面目な顔つきになった。
「正直に言うと、あたし――祈るって、あんまり好きじゃなくて」
リリアは目を瞬く。
「祈ることが、ですの?」
「はい。なんか、“誰かに何とかしてもらいたい”って、サボってるみたいな気がしてたんですよね」
ミラは、礼拝堂の扉を親指で軽く指し示す。
「前のご主人様の家でも、たまにみんなで礼拝とか行かされましたけど……
“神様が助けてくれますように”って言うくらいなら、その前に自分で動けよ、って。
……まあ、口には出せませんでしたけど」
遠い目をして、肩をすくめる。
どこか投げやりな響きの奥に、幼い頃から積み重ねてきた諦めの層が見え隠れしていた。
リリアは、すぐに否定も肯定もせず、しばらく沈黙を挟んだ。
礼拝堂の中に残った冷気が、まだ肌にまとわりついている。
「……たしかに、そうですわね」
やがて、低く落とした声で言葉を紡ぐ。
「全てを神様に委ねてしまえば――
自分の手を汚さずに済む、“都合のよい祈り”もありますわ」
ミラが、じろりと横目で見た。
「やっぱりそう思います?」
「ええ。王宮にも、そのような祈りはたくさんございましたもの」
リリアは、扉の枠にそっと指先を添えた。
乾きかけた木の感触が、皮膚の小さな傷に引っかかる。
「“どうかこのまま、わたくしの立場が揺らぎませんように”
“どうか、わたくしより優れた相手が現れませんように”」
苦く笑い、かぶりを振る。
「そう願いながら、誰かの影に怯えて何も変えないなら――
それはきっと、ミラがおっしゃる通り、“現実から逃げるための祈り”なのでしょうね」
ミラは、少し驚いたように目を丸くした。
「リリアさん、そんなこと思ってたんですか」
「全員ではありませんけれど、ね。
……もちろん、わたくし自身も、似たようなことを一度も思わなかったとは言いませんわ」
自嘲気味な笑みを浮かべてから、リリアは言葉を継ぐ。
「でも、今、わたくしがここでしたのは――」
礼拝堂の暗がりを振り返る。
膝をついていた場所に、まだ自分の体温がうっすら残っている気がした。
「“神様に任せるため”の祈りではなくて」
胸元に手を置き、静かに言う。
「“自分の足で歩く覚悟を、もう一度確かめるため”の祈りですの」
ミラが、ぱちぱち、と二度瞬きをした。
「自分に向けて、ですか?」
「ええ。過去のわたくしへも、今のわたくしへも」
リリアは、少し照れくさそうに笑う。
「“あなたはこれからも歩くのですよ”と、
自分で自分の背中を、そっと押してみたくなりましたの」
ミラはしばらく黙っていた。
やがて、口を半開きにしたまま、ぽかんとリリアを見つめる。
「……なんか」
「なんか?」
「ずるい言い方ですねえ」
そう言って、ふっと笑う。
「“サボりの祈り”じゃなくて、“自分で歩くための宣言”みたいに聞こえちゃうじゃないですか」
「宣言、ですの?」
「うん。ほら、誰かに丸投げするんじゃなくて――」
ミラは空を仰ぐ仕草をし、手をひらひらさせる。
「“やることやった上で、まだ足りない分だけ”
ちょっと空に向かってお願いする、みたいな」
そのたとえに、リリアは思わず吹き出した。
「まあ。ずいぶんと実務的な祈り方ですこと」
「だって、あたしたち、現実で生きてますから」
ミラもつられて笑い、肩をすくめる。
「……でも、そういう祈りなら、ちょっとアリかもしれません」
「アリ、ですの?」
「はい。“全部どうにかしてください”じゃなくて、
“ここから先へ進む勇気を、もう一回ください”ってお願いするのは――」
ミラは、礼拝堂をちらりと一瞥した。
「それ、サボりじゃなくて、むしろ働く前の深呼吸みたいなもんですし」
働く前の、深呼吸。
その言葉が、リリアの胸にすとんと落ちた。
「……そうかもしれませんわね」
彼女は小さくうなずく。
「祈りは、現実から目をそらすためのものにもなり得ますけれど」
自分の指先を見つめる。
村で泥に触れ、薪を運び、子どもの手を握ったときに刻まれた細かな傷跡。
「同時に、“現実から目をそらさずに歩くために、呼吸を整える時間”にもなりうるのだと――
今日、ここで少しだけ学ばせていただきましたわ」
ミラは、にかっと笑って親指を立てた。
「じゃあ、リリアさんの祈りは……サボり認定、取り消しで」
「まあ、光栄ですわ」
二人でくすくす笑い合う。
冷たい風が丘を駆け上がり、礼拝堂の古い石壁をなでていく。
「さ、戻りましょうか」
リリアが言うと、ミラは「ですね」と頷き、一歩踏み出してから、ふと思い出したように振り返った。
「でも、あたしはやっぱり、祈るより先に手を動かす派ですよ」
「存じておりますわ。頼もしいことです」
「リリアさんは?」
「わたくしは――」
少しだけ考えてから、彼女は微笑んだ。
「まず手を動かしてみて、それでも届かないところだけ、
ときどき思い出したように祈る派、かもしれませんわね」
「やっぱりずるいですね、その立ち位置」
「ふふ。お互い、少しずつ譲り合っていきましょう?」
夕暮れの坂道を、二人は並んで降りていく。
振り返れば、古びた礼拝堂が、静かにそこに佇んでいた。
神ではなく、過去の自分に向けて祈ったその場所を、
リリアは胸のどこかでそっとなぞりながら、足を前へと運んだ。
礼拝堂の扉を背に、石段を数段おりたところで、リリアはふと足を止めた。
夕暮れの空は低く重く、街の上に薄い煤のように垂れ込めている。
けれど、遠くのほうで、ぽつぽつと灯りがともり始めていた。
冷えた空気の中で、その灯りだけが、じんわりと温度を帯びて見える。
少し離れた場所――石垣にもたれるようにして、少年がこちらを見ていた。
「……戻ってこられなかったのかと思いましたわ」
リリアが冗談めかして言うと、少年はむっとした顔をする。
「別に、待ってたわけじゃない。たまたま通りかかっただけだ」
「はいはい、たまたまねえ」
ミラがにやにやしながら茶々を入れる。
少年はそっぽを向き、足先で小石を蹴った。
しばらく三人のあいだに沈黙が落ちたあと、少年がぽつりと口を開く。
「……祈ったら、何か変わるの?」
その問いは、夕暮れの冷たい空気と同じ温度をしていた。
期待というより、諦めに近い色を帯びた声。
ミラは一瞬、肩をすくめかける。
「さあ……って言いたいところですけど」
けれど、その前に、リリアが静かに口を開いた。
「祈るだけでは、冬はやわらぎませんわ」
少年の視線が、じろりと彼女に向けられる。
「薪も、薬も、天からは降ってこないでしょう」
「……やっぱり」
少年の口元に、意地の悪い笑みが浮かびかける。
“ほら見ろ”と言いたげな、その表情。
だが、その前に、リリアは言葉を重ねた。
「けれど――」
彼女は一段、石段を上がり、少年とほぼ同じ高さに立つ。
夕焼けとも夜ともつかない光が、三人の輪郭を淡く縁取った。
「何度も折れそうになる心を、
もう一度だけ立ち上がらせるための、小さな儀式にはなりますわ」
少年が、きょとんとした顔をする。
「儀式?」
「ええ」
リリアは指を絡めるように軽く手を組んでみせる。
礼拝堂の中で膝をついたときよりも、ずっと柔らかい仕草だった。
「“明日も、もう一日だけやってみよう”と、
自分に言い聞かせるための、静かな時間になりますの」
少年は眉をひそめる。
「……よく分かんない」
「そうですわね。わたくしも、つい最近まで分かりませんでしたもの」
リリアは微笑み、街の灯りのほうへ視線を向けた。
「誰かが全部どうにかしてくれる、なんて都合のいい話はありませんわ。
けれど、自分の中のどこかが、もう立ち上がるのをやめたくなったとき――」
そのときだけ、そっと手を組む。
「“大丈夫。あと一日だけ”と、自分で自分に言い聞かせるために、
祈るふりをして立ち止まる時間が、あってもいいのではないかしら、と思うのです」
少年は、石段の端をつま先でこつこつ蹴りながら、俯いた。
完全には納得していない――けれど、さっきまでのように一刀両断する様子もない。
もしかしたら、自分も一度くらいはやってみるかもしれない。
そんな揺らぎだけが、沈黙の中に残る。
その空気を、ミラの明るい声がやわらかく破った。
「じゃあ、リリアさんが倒れそうになったときは、あたしが代わりに祈ってあげますよ」
リリアは、思わず吹き出す。
「まあ。それは心強いですわね」
「“明日ももう一日やりなさい”って、全力で空に向かってお願いしてあげます」
「でしたら、そのときは――」
リリアは、いたずらっぽく目を細めた。
「ぜひ隣で、“一緒に立ち上がりなさい”と叱ってくださいませ」
ミラは肩を揺らして笑う。
「叱るのは得意ですから、任せてください」
「……祈るより、そっちのほうが効きそう」
ぼそ、と少年がこぼした。
ミラが「聞こえてるぞ」と睨むと、少年はわざとらしく顔をそむける。
けれど、その口元は、かすかに緩んでいた。
礼拝堂の前の小さな石段に、三人の影が並ぶ。
街の灯りがひとつ、またひとつと増えていく中で、その影も少しずつ長く伸びた。
神に奇跡を求める祈りではない。
ただ、“もう一度だけ立ち上がる”と、自分に言い聞かせるためのささやかな儀式。
そんな祈りの形が、彼らのあいだに、静かに共有されていく夕暮れだった。
その夜の孤児院は、いつもより少しだけ静かだった。
子どもたちの寝息が、薄い壁越しにかすかに伝わってくる。
廊下のランプは落とされ、残っているのは、ところどころで揺れる小さな灯りだけ。
リリアは、自室の窓辺に立っていた。
窓ガラスは、昼の名残りの冷たさをまだ抱いている。
指先でそっと触れると、ひやりとした感触が皮膚を刺し、それがかえって意識をはっきりさせた。
カーテンを少しだけ押しやると、遠く丘の上に、暗闇に浮かぶ小さな四角が見える。
古びた礼拝堂だ。
その小さな窓のひとつに、ほんのわずかな灯りがともっていた。
揺れるというより、じっとそこにいるだけの、心細いほど小さな光。
けれど、雪混じりの闇の中で、それは確かに目に映る。
リリアは、静かに息を吸い込んだ。
(あの古びた礼拝堂で、わたくしは今日――)
胸の奥に、昼間の空気がよみがえる。
ひび割れた石壁、色あせた布、埃を含んだ冷たい光。
(神様ではなく、“過去のわたくし”に祈りました)
窓から目を離さぬまま、そっと瞼を伏せる。
(“選ばれるためだけに生きていた頃”のわたくしへ)
王宮の礼拝堂。
磨き上げられた床、豪奢な装飾、澄んだ香油の匂い。
幼い自分が、誰よりもまっすぐ背筋を伸ばし、
「ふさわしいわたくしであらねば」と、固く拳を握りしめていた記憶。
(“選ばれなかったから終わりだ”と、膝を抱えていたわたくしへ)
婚約解消の報せを受けたあとの、あの夜。
カーテンも閉め切られた部屋の隅で、小さく丸くなっていた自分。
世界が狭くなり、視界の端には「終わり」という言葉しか映らなかった頃の自分。
(今のわたくしは、そのどちらの手も取り上げて――)
リリアは、そっと胸元に手を当てる。
指先に感じる鼓動は、少し早い。
けれど、それは逃げ出したい焦りではなく、どこか前へ進もうとする心の高鳴りだった。
(“それでも歩き続けてみましょう”と、そっと言い聞かせたのです)
机の上には、今日書きかけで残した紙束が広がっていた。
街の配給の記録。
村の子どもたちの様子。
礼拝堂のこと、人々の信仰が薄れていった理由の断片――
乱れた文字で「祈り」と書かれた行の下に、リリアは小さくメモを添えている。
『奇跡を待つものではなく、“明日も立ち上がる”と決めるための時間』
自分で書いたその言葉に、リリアは少しだけ頬を緩めた。
(祈りとは、きっと――
奇跡を待つためのものではなく)
窓の外に視線を戻す。
丘の上の礼拝堂の灯りは、まだ消えていない。
あの灯りは、冬の闇を追い払うには、あまりにも小さい。
町全体を照らすことも、雪を溶かすこともできないだろう。
(何度でも立ち上がると決めた自分に、
静かに約束を聞かせるための、ひとときなのかもしれませんわ)
胸に当てた手の下で、鼓動がひとつ、またひとつと刻まれる。
そのリズムに合わせるように、リリアは心の中で、あの礼拝堂での言葉をもう一度なぞった。
――選ばれなかったからといって、終わりではない。
――ここから先の一歩一歩を、どう歩くかは、自分で選んでよいのだと。
その「選んでよい」という許しをくれたのは、神ではなく、
ほかならぬ自分自身だった。
窓の外の灯りが、ふっと小さく揺れたように見えた。
それは、たぶん風のせい。
けれどリリアは、自分の胸の中で灯り始めた小さな火もまた、同じように揺れた気がして、そっと目を閉じる。
消えそうで、でも消えない、か細い光。
不安定で、頼りなくて――
それでも、自分の足元だけは確かに照らしてくれる灯火。
その存在を、彼女は今、はっきりと感じていた。
丘の上の礼拝堂の灯りは、
冬の闇を追い払うには、あまりにも頼りなく見える。
けれど、胸の内側でそっと灯り始めた火は、
神の奇跡よりも確かに、彼女自身の歩みを照らしていた。
――神ではなく、過去の自分に祈ること。
それは、“選ばれなかった令嬢”が、
自分の足で進む道を選び続けるための、静かな誓いだった。




