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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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雨上がり ―― 空を見上げることを覚えた。

朝から途切れることなく、空は水を落とし続けていた。


 窓の向こうで、石畳はすっかり黒く染まり、細い路地はところどころ小さな川のようになっている。いつもなら子どもたちの足音が聞こえる中庭も、今日はしんと静まり返っていた。


 孤児院の廊下には、濡れたマントや上着がずらりと吊るされている。ぽたり、ぽたりと袖口から雫が落ちて、床板に小さな丸いシミを増やしていく。どの布も、乾く気配は薄い。


 空気は湿り、重かった。


 寝室では、干してある布団がしっとりと冷たく、子どもたちが「なんか、いやな匂い」と鼻をひくつかせる。台所の薪置き場は目に見えて隙間が広がり、院長は帳面と薪棚を見比べて、小さく息を吐いた。


「今夜分は、なんとかなりますが……明日以降は、少し抑えねばなりませんね」


 誰に聞かせるでもないひとりごとのように漏れた言葉を、リリアは廊下の端から耳にした。


 窓辺に立ち、薄く曇ったガラスに指先を添える。外から叩きつけるような雨粒が、ガラスを伝って細い筋になり、ゆっくりと流れ落ちていく。その軌跡を、リリアはぼんやりとなぞった。


 背後では、行き場をなくした子どもたちが、狭い室内で走り回っている。


「こら、廊下は走らない!」


 侍女の鋭い声が飛び、すべりかけた子どもの腕をとっさに支えながら、彼女はため息まじりに続けた。


「こんな日に怪我なんてしたら、治療用の薬草まで減ってしまいますからね」


 叱られた子は、しょんぼりとうなだれて、今度はとぼとぼと歩き出す。その足元にも、吊るされたマントから落ちた雫が小さな水たまりを作っていた。


 ミラはといえば、部屋の片隅に山のように積まれた濡れた服と格闘中だった。大きめのたらいに押し込んだ布から水を絞り、近くの縄に掛けていくが、湿った空気の中では乾くよりも先に、また別の濡れ物が運び込まれてくる。


「……終わりが見えないんですけど」


 半ばぼやき、半ば笑いながら、ミラは肩を回した。


「乾く前に、次のが来るんですよねえ。薪も、これ以上火を強くできないみたいですし」


 リリアは振り返り、濡れた服の列と、薪棚に向かって険しい顔をしている院長の横顔を見やった。窓の外では、相変わらず灰色の空が低く垂れ込めている。


(冬の厳しさは、雪だけではありませんのね)


 指先を伝うガラスの冷たさに、彼女はそっと息を重ねる。


(雨ひとつで、薪も、布団も、人の心も、少しずつ削られていく)


 屋根を叩く雨音は、時おり強く、時おり弱くなりながらも止む気配を見せない。外へ一歩踏み出せば、たちまち裾は濡れ、靴は泥を吸い込み、冷えが足元から這い上がってくるだろう。


 だからこそ、今日は誰もが建物の中に押し込められていた。


 狭くはないはずの廊下も、部屋も、いつもよりずっと息苦しく感じられる。窓の外に広がるはずの街並みも、雨の帳の向こうに溶けてしまっているようで、境界があいまいだ。


 リリアは、窓の外に目を凝らしながら、胸の奥に広がる感覚に気づく。


(……まるで、この狭い世界の中に、そっと鍵をかけられてしまったようですわ)


 雨音が、外の道と空を閉ざす音に聞こえた。


 足元にばかり視線が落ち、顔を上げる理由を、なかなか見つけられない――

 そんな一日が、静かに、けれど確かに始まっていた。


 階段を上るたびに、きしり、と古い木の段が鳴く。


 孤児院の階段の途中には、小さな四角い窓がひとつだけあった。背の高くない子どもでも外が覗けるほどの高さで、そこからは、雨に煙る街の屋根と、低く垂れこめた空の切れ端が見える。


 その窓の前で、リリアは足を止めていた。


 ガラスの向こう側を、細かな雨が斜めに流れていく。よく見ると、空は一色の灰ではなく、濃いところ、薄いところ、雲の厚みによって微妙に色を変えていた。


「雨の日の空も、よく見ると……少しずつ、色が違うのですわね」


 思わずこぼれた独り言だった。


 そのとき、背後から軽い足音が近づいてきて、彼女の横をすり抜けようとする気配がした。例の少年だ。腕には、乾ききらない布の束を抱えている。


 リリアが振り向くより早く、少年は窓辺に立つ彼女をちらりと見やり、足を止めた。


 視線の先を追うように、彼も小窓の外へ一瞬だけ目を向ける。


 そして、肩をすくめた。


「……空なんて、見ないよ」


 投げるような口調だった。


 リリアは瞬きをする。


「見ない、のですか?」


「見たって、腹はふくれないし、薪も増えないし」


 少年は、当たり前のことを言うように続けた。


「雨がどれくらい降ってるか見るのは大事だけどさ。

 “きれいだ”とか“色が違う”とか、そんなの、見てても役に立たない」


 言葉を返そうとして、リリアは口を開きかけ――そのまま閉じた。


 確かに、と認めざるをえない。


 この孤児院の暮らしにとって、空の色の微妙な違いは、薪の本数にも、明日のパンの数にも直結しない。ここで生きる彼らに必要なのは、乾きそうな場所、滑りやすい石、濡れたままの布団――そうした「足元」の情報なのだ。


 少年は、窓辺から視線を外しながら言った。


「足元だけ見てないと、すぐ滑る。

 川に落ちたり、泥にハマったりしたら、笑いごとじゃすまないんだ」


 その声音には、実際に見てきたものの重さがにじんでいた。


 リリアは、そっと自分のつま先に視線を落とす。階段の端には、小さな靴から落ちた泥が乾ききらずに残り、踏み損ねれば滑りそうな光沢を帯びている。


(この子にとって、“空を見上げる”という行為は――)


 リリアは、胸の内でゆっくりと言葉を組み立てる。


(足元の危うさから目をそらす、危険な無駄なのですわね)


 空を見ているあいだに、足を滑らせてしまうかもしれない。

 雲の形を数えているあいだに、薪をくべるタイミングを逃すかもしれない。


 ――そんな恐れが、彼の言葉の底には確かにあった。


 少年はそれ以上何も言わず、抱えていた布の束を持ち直すと、やや乱暴に階段を下り始める。


 その途中で、ふと、ほんの一瞬だけ振り返った。


 小窓の向こうの空を、横目で、ちらりと見る。


 雨にかすむ灰色と、わずかに薄く明るい筋――

 彼の瞳に、それが映ったかどうかを確かめる前に、少年はすぐに顔を戻し、何事もなかったように足早に降りていった。


 残されたリリアは、小さな窓越しの空と、少年の背中の両方を思い浮かべながら、静かに息をつく。


(……本当は、この子も、一瞬だけ“見てみたい”と思ったのかもしれませんわね)


 そう考えるのは、きっと、彼に甘い見方をしているのだろう。


 それでも。


 灰色の空を背景に、階段の下へと消えていく小さな背中が、ほんの少しだけ迷っているように見えたのは――

 きっと気のせいではない、と、リリアはそっと胸の内で呟いた。


廊下に、ぺた、ぺた、と小さな足音が響く。


 雨の日の孤児院は、どうしても子どもたちの足が余りがちだった。外には出られない。中庭もぐしゃぐしゃ。結果として、狭い廊下と食堂前が、即席の遊び場と化す。


「こら、そこの二人! 滑るってば!」


 雑巾を片手に、ミラが腰を落とした姿勢のまま声を張り上げる。彼女の周りには、濡れた床に残った小さな足跡が点々と続いていた。


 子どもたちは一瞬だけビクリと動きを止め――次の瞬間には、また別の方向へ駆け出していく。


「まったくもう……」


 ミラはため息まじりに、雑巾をぐっと絞り、再び床を拭き始めた。冷えた水が指先を刺すように冷たい。


 リリアは、少し離れたところでその様子を見守っていた。廊下の空気は、濡れたマントや衣服のせいでじっとり重く、石の壁にも薄い湿り気が張り付いている。


 ふと、ミラが顔を上げる。


「ん?」


 彼女の目が留まったのは、廊下の一角――他よりも色の濃くなった床板だった。


 子どもの足跡にしては、形がぼやけている。

 しかも、誰も通っていないのに、その濡れた範囲がじわじわと広がっている。


「ねえ、“リリア”さん。ここ、なんか変じゃないです?」


 呼びかけに応じて、リリアが歩み寄る。ミラが指さした床を見下ろし、首をかしげた。


「……足跡、ではありませんわね。輪郭が曖昧ですし」


 リリアは、濡れた床板の中央に、ぽつりと光る一点を見つける。そこに、また小さな水の粒が落ちてきて、しみが少しだけ広がった。


 彼女は、自然と視線を上へと移す。


 天井の板の一枚、その端に、丸い染みができていた。色の濃い円の中心から、透明な滴が、間隔をあけて落ちてくる。


 ぽたり。


 静かな廊下に、小さな音が紛れた。


「……雨漏り、ですわね」


 リリアが小さく呟く。


 ミラもつられて天井を見上げ、「うわ」と顔をしかめた。


「これ、前からちょっと怪しかったやつだ。

 でも、上なんてあんまり見ないから……気づくの、遅れましたね」


 彼女の言葉は、半分は苦笑、半分は本気の反省だ。


 子どもたちが走り回るのを気にして、床ばかり見ていた。

 転ばないように、滑らないように――足元に注意を払うのは、この場所の大人にとっては当たり前の習慣だ。


 けれど、そのあいだ、彼女たちの頭上では、雨水が少しずつ木を染み込ませ、静かに、確実に、別の危うさを育てていたのだ。


「すぐ、何か器を」


 リリアがそう言うより早く、近くにいた侍女が「こちらへ」と洗面器を持って駆け寄ってきた。

 床の濡れた部分を拭き取り、その上に洗面器を置く。しばらくすると、ぽたり、と水滴が底を叩く音がした。


「子どもたち、このあたりを走ってはいけませんよ」


 リリアが優しく声をかけると、数人の子が「はーい」と返事をし、洗面器を珍しそうに覗き込んだ。


 侍女は懐から小さな帳面を取り出し、さらさらと書き込む。


「屋根の様子は、後日の修繕計画に入れましょう。

 院長にも、早めにお伝えしておきますわ」


 ミラは、天井と洗面器を交互に見ながら、ぽりぽりと頬をかいた。


「足元ばっかり見てたら、こういうの、気づけないんですよねえ……」


 その言葉に、リリアは静かに頷く。


(足元ばかり見ていては、頭上から落ちてくる危うさに、気づくのが遅れてしまう)


 さきほど、少年が言った言葉が胸の中で反響する。


 ――足元だけ見てないと、すぐ滑る。


 あれは、この場所で生きるための、切実な知恵だ。

 けれど同時に、「空なんて見ない」と言い切ってしまうことは、こうした別の危険を取りこぼすことにも繋がりうる。


(“空を見ない”ことは、この場所では生きる知恵でもあり――

 同時に、静かに忍び寄る危険でもあるのですわ)


 ぽたり、ぽたり、と洗面器に水滴の落ちる音が、雨音と重なって響く。


 リリアは、濡れた床と、滲んだ天井と、その間に立つ自分たちを見比べた。


 足元を守る目と、頭上を確かめる目。

 その両方を持たなければ、この雨の季節を、誰ひとり欠けることなく越えることはできないのだと――

 彼女は、濡れた木の匂いの中で、静かに思い知るのだった。


その日の雨は、朝からしつこく降り続いていた。


 窓ガラスに叩きつけられては流れ落ちる水の筋が、何本も、何本も、同じ道をなぞる。孤児院の中は湿った布と薪の匂いに満たされ、子どもたちの「まだ外、出られないの?」という小さな不満が、あちこちでため息に変わっていた。


 昼を過ぎたころ、雨音が、ほんの少しだけ柔らいだ。


「……ねえ、ねえ。なんか、さっきより静かじゃない?」


「雨、やんできた?」


 窓辺に集まった子どもたちが、額をぺたりとガラスにつけて外をのぞき込む。まだ空は一面の灰色だが、水の筋はさっきより細く、数も少ない。


 その様子を見ながら、リリアはふと、胸のあたりが軽くなるのを感じた。


(……少し、外の空気を吸ってみたくなりましたわね)


 彼女はマントをひとつ肩に引き寄せ、静かに階段を降りる。廊下の窓から見える中庭は、しっとりと濡れた石と、黒く暗い土のまだら模様。けれど、その表面には、雨粒に代わって、ところどころ淡い光が転がり始めている。


 玄関扉を開けると、ひやりとした空気が頬を撫でた。


 軒先まで出てみる。上から落ちてくる水の気配は、確かに弱まっていた。先ほどまで絶え間なかった雨音も、今はぱら、ぱら、と時折思い出したように鳴るだけだ。


 やがて、その音さえもぴたりと途切れる。


 耳に届くのは、遠くの通りを走る荷車の軋みと、家々の隙間を抜けてくる風の、細い笛のような音だけ。


 雲の切れ間から、ほんの少しだけ、色の違う灰色が覗いた。

 そこからこぼれた淡い光が、中庭の水たまりに落ち、揺れる小さな光の帯を作る。


 濡れた石畳のあちこちに、ぼんやりとした明るさの斑点が浮かび上がった。


「……あら。思っていたよりも、やさしい色ですのね」


 リリアは、無意識にそう呟いていた。


 灰色一色に見えていた空にも、よく見れば、青みがかった灰、黄味がかった灰、白に近い薄い雲――いくつもの層が重なっている。

 そのひとかけらが水たまりに落ちて、揺れながら、少しだけ世界を明るくしていた。


 そのときだった。


「……ここにいたんだ」


 背後から、小さな声がした。


 振り返ると、例の少年が、いつのまにか玄関口に立っていた。肩にかけた上着はところどころ擦り切れているが、きちんと紐で結び直されている。


 少年は軒先まで出てきて、雨上がりの中庭を眺め――それでもすぐに視線を落としてしまう。癖になってしまったのだろう。足元、地面、石の段差。危ないものはないかどうかを確かめるように、視線が低いところを彷徨っている。


 リリアは、その様子を見て、少しだけ唇を緩めた。


「空を見上げなくても、今日は許されるかもしれませんわ」


 少年がきょとんとして、彼女を見上げる。


「……どういう意味?」


 リリアは、足元の、丸い水たまりを指さした。


「ほら。水たまりに映った空でも、少しだけ――きれいですもの」


 少年は、つられるように視線を落とす。


 泥と石くれの中に、丸くひらけた薄い鏡。そこには、さっきまでただの灰色だとしか思っていなかった空の、淡い色の変化が滲んでいた。雲の切れ目から差し込む光が、揺れる水面に反射して、小さな光の線を作っている。


「……へんなの」


 少年がぽつりとこぼす。


「空が、足元にある」


 その声音には、戸惑いと、ほんのわずかな興味が混じっていた。


 リリアは、そっと頷く。


「空は、どこにでも映りますもの。

 見ようとさえすれば、きっと」


 雨で濡れた石畳。そこに広がる、水たまりの小さな世界。

 少年はしばらく、その中をじっと覗き込んでいた。


 灰色だったはずの空に、うっすらと淡い橙色が混じり始める。

 雲の端がほどけるように薄くなり、その隙間から、夕刻の光が街を撫でていく。


 顔を上げることなく、その変化を足元の鏡越しに見つめながら――

 少年の肩の力が、ほんの少しだけ抜けたように、リリアには見えた。


(空を真っ直ぐ見上げるには、まだ怖さが勝つのかもしれませんわね)


 足元だけを見ていないと滑ってしまう、この街の冬。

 けれど今、足元の水たまりの中で、空はこっそりと彼に近づいてきていた。


 リリアは、隣に立つ少年と同じように、水たまりの小さな空を覗き込む。


 濡れた石の匂い。消えかけた雨音。遠くで鳴る教会の鐘の音。

 そのすべてを受け止めるように、足元の空は静かに揺れている。


「ねえ、リリア」


 少年が、まだ水たまりから目を離さないまま、ぽつりと呼びかけた。


「……今度、ほんとの空も、ちょっとだけ見てみてもいい?」


 リリアは、胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。


「ええ。足元も、一緒に見守りながら、少しずつ」


 彼女はそう答えて、そっと空を見上げる。


 灰色の向こうで、雲がゆっくりとほどけていく。

 足元に映った小さな空と、頭上に広がる大きな空が、同じ光を分かち合う瞬間だった。


雨が上がったとたん、孤児院の戸口は、押し出されるように開いた。


「わあっ、外だ!」「ぬれるなよーって言われても、もうぬれてるよね!」


 我慢していた子どもたちが、一斉に石畳の中庭へ飛び出していく。

 まだ地面はしっかり濡れていて、泥もところどころ顔を覗かせている。それでも、「屋根の下」ではない、ひらけた空気を吸えるだけで、彼らの顔はぱっと明るくなっていた。


「こけるなよー! 走りすぎるなって言ってるでしょ!」


 侍女の声が、半分は本気で、半分は笑いを含んで飛ぶ。


 中庭には、いくつもの水たまりが残っていた。

 丸く、細長く、割れた陶器のようにいびつな形のものまで――灰色の空がそこかしこに落ちて、地面に貼りついている。


「見て! ここ、すっごく大きい!」


 一人の男の子が、石の段差のそばにできた、ひときわ大きな水たまりを見つけてしゃがみ込んだ。膝が濡れるのも構わずに身を乗り出し、覗き込んで、ぱっと笑う。


「僕の顔が、ゆらゆらしてる!」


 その声に、他の子どもたちもわらわらと集まってくる。


「ほんとだ、へんな顔!」


「お前の顔がへんなだけだよ!」


 笑いが弾ける。そのうち、一人の女の子が首をかしげた。


「ねえ、これ……空も映ってるよ」


 指さした水面には、ちぎれた雲の切れ端と、その奥にかすかな青が滲んでいた。

 さっきまで一面の灰色だったはずの空が、少しずつほどけて、その色を水たまりに分け与えている。


「ほんとだ」「あ、なんか光ってる!」


 子どもたちは、泥をはね散らかしながら、水たまりという小さな鏡を次々に覗き込んでいく。

 自分の顔と、揺れる雲と、じわりと広がる青。

 足を踏み出すたびに水面は歪み、そのたびに空の形も変わる。


 孤児院の玄関前、軒先の影に立って、その様子を見ている影がふたつあった。


 ひとりは、マントの裾を軽く手で押さえたリリア。

 もうひとりは、その隣で壁にもたれかかるミラだった。


「足元しか見てないのに、ちゃんと空も見えてるってのが、面白いですね」


 ミラが肩をすくめ、半ば感心したように呟く。


「この子たちのほうが、よっぽど器用かも」


 リリアは、その言葉に小さく笑みをこぼした。


(そうですわね)


 中庭のあちこちで、水たまりを覗き込む小さな背中が揺れている。

 彼らは皆、濡れた石に足を取られないように、しっかりと足元を見ながら――それでも、同時に、水の底に映る空を覗き込んでいる。


(“空を見上げる余裕なんてない”と、あの子は言いましたわ)


 あの階段踊り場で交わした言葉が、雨上がりの空気の中で静かに蘇る。


(けれどそれでも彼らは、足元の水たまりの中に、ちゃんと空を映し込んでいる)


 見上げることが、ここでは贅沢に思えるのだとしても――

 未来や希望と呼ぶには遠すぎる「空」を、それでも自分たちの手の届く場所へ引き寄せようとするみたいに。


 目の前で、ひとりの子どもが、水たまりの上でぴょん、と跳ねた。

 波紋がひろがり、映っていた雲も、青も、子どもの顔も、すべてがくしゃりと崩れて混ざり合う。


「わっ、僕が二人になった!」


 水面が落ち着くと、今度は少しだけ形を変えた空がそこに戻ってくる。


(空を見ることは、きっと贅沢ではありませんのね)


 リリアは、静かに目を細めた。


(生き延びようとする手の届く範囲で――

 足元の泥と水たまりの中に、こうしてそっと映してみることなら、誰にでも許された行いなのでしょう)


 それは、「今を生きること」に精一杯な子どもたちが、それでもどこかで未来を諦めきらないでいる、ささやかな証のようにも思えた。


 雲の切れ間から差し込んだ光が、水たまりごとに違う揺れ方で跳ね返る。

 中庭のあちこちで、子どもたちが自分だけの「小さな空」を、覗き込み、笑い声を上げている。


 空は遠い。

 けれど今、彼らの足元には、手を伸ばせば届きそうな場所に、いくつもの空が並んでいた。



夕暮れの冷えた石段は、長く座っているとじんわりと体温を奪っていく。

 孤児院の入口脇にある、子どもたちの簡易な腰かけ――削れた角が丸くなった石に、リリアとミラは並んで腰を下ろしていた。


 中庭ではまだ、雨上がりの遊びが続いている。


「見て、ここは雲が二つ!」「こっちは青いとこ多い!」「お前、さっき自分の顔が一番多いって言ってたじゃん!」


 水たまりを囲んで、子どもたちの声が跳ねる。

 泥をはねながらちょっとした喧嘩を始めて、すぐにまた笑いに変わっていく、その騒がしさが、石段まで波のように押し寄せては、かさかさと靴底の音になって散っていく。


 ミラは膝を抱え、頬をのせるようにして、ぼんやりとその光景を眺めていた。

 ふいに、ぽつりと言葉が落ちる。


「さっき、少年くん――“空なんて見ない”って言ってましたよね」


 リリアは、すぐにその場面を思い出した。

 階段の小窓の前。灰色の空。足元だけを見て降りていった、小さな背中。


「ええ。“見たって腹はふくれませんもの”と」


 口に出してみると、その冷静さと切実さが、あらためて胸に重く沈む。


 ミラは、ぐっと伸びをしてから、今度は首を反らせて空を見上げた。

 さっきまで水たまりに映っていた空が、そのまま頭上で本物の大きさを取り戻している。

 濡れた屋根の向こう、雲の切れ間は、夕刻の色をうっすらと含み始めていた。


「でもさ」


 ミラは空を見たまま続ける。


「足元を見るのと、ずっと俯いてるのは、違うと思うんですよ」


「……違う、というと?」


「ちゃんと歩くために足元を見るのは、いいことです。

 ここなんて、とくに。ちょっとよそ見したら、すぐ泥にはまるし、階段で転げ落ちるし」


 ミラは、さっき子どもが派手に滑って尻もちをついた場所を顎で示す。


「でも、“どこへ向かうか”って話になると――

 やっぱり、たまに顔を上げないと分からないでしょう?」


 リリアは、一瞬だけ目を瞬かせ、それからゆっくりと視線を持ち上げた。

 水たまりに映っていた雲と同じ雲が、今は空の高いところで、薄くほどけている。


「……そう、ですわね」


 言葉を探しながら、リリアは苦く、しかしどこか納得した笑みを浮かべる。


「わたくしはここへ来てから、足元ばかり見ようとしていましたわ。

 この場所の痛みから目をそらさないようにと、そればかりを考えて」


 少年の「腹はふくれない」という一言が、彼女の意識を足元へと引き寄せ続けていた。

 濡れた布団、足りない薪、冷たい雨。

 その一つひとつを見落とさないようにと、視線を下に固定していた自分がいた。


 ミラが横目でリリアを見て、少しだけ口元を緩める。


「リリアさん、もともと“空のほう”ばっかり見てた人じゃないですか」


「まあ」


 思わず上品に眉を上げるリリアに、ミラは続ける。


「王宮の高い天井とか、舞踏会のシャンデリアとか。

 “どんなふうに見られているか”って視線と一緒に、ずっとそっちを気にしてたように、あたしには見えてましたよ」


 否定しようとして、リリアは小さく息を飲み、そのまま笑いに変えた。


「それも……たしかに、否定はできませんわね」


 きらびやかな灯りの下で、自分の立ち姿や笑みの角度ばかりを気にしていた夜を思い出す。

 あの頃の自分は、空というより、「飾られた天井」だけを見上げていたのかもしれない。


 ミラは、抱えていた膝から顎を離すと、片手で空と水たまりを交互に指さした。


「だから今は、いいバランスを探してる途中ってことで、どうです?」


「バランス……」


「足元も見るし、たまには空も見る。

 どっちか片方だけじゃなくて、“両方見る”って選び方だって、ありだと思うんですよ」


 中庭では、子どもたちがまだ、水たまりに映る空を指差しては、わいわい言っている。

 足元を見て、滑らないように気をつけながら――その足元に映った空に手を伸ばし、笑っている。


 リリアは、その光景とミラの言葉を重ね合わせながら、静かに思う。


(足元だけを見るのでもなく。

 空だけを見上げるのでもなく)


(――その両方を、必要なときに、必要なだけ見ること)


 濡れた石畳の上で、小さな靴が跳ねる音。

 頭上では、雨雲の隙間から、一番星がにじむように光り始めている。


(それがきっと、“現実から逃げない自由”と――

 “未来を諦めない自由”を、同時に抱くための方法なのかもしれませんわ)


 リリアはそっと背すじを伸ばした。

 足元の水たまりに映る、自分と子どもたちと、ほどけかけた雲。

 そして、そのずっと上に広がる、本物の空。


 俯いていた視線を、今度は自分の意思で上げ下げしながら――

 彼女は、自分が歩いていくべき道と、その先に続く空の両方を、確かめるように見つめ続けた。



黄昏と夜のあいだ――境い目のような時間だった。


 雨はすっかり上がり、けれど雲はまだ空の大半を占めている。

 孤児院の中からは、夕食の準備を急ぐ声や、皿の触れ合う音、子どもたちの笑い声が、温かな湯気のように漏れ出していた。


 リリアは、その賑わいから少しだけ遅れて、戸口に立つ。


 外は、しっとりと冷たい匂いがした。

 濡れた石畳が、かすかな光を受け止めて、まだ雨の名残りをきらりと返している。

 建物と建物のあいだ――高い屋根に切り取られた、ほんの小さな四角形の空。


 そこだけ、雲がわずかに薄くなり、淡い青と、星になりかけた光の気配が滲んでいた。


 リリアは、そっと顔を上げる。


(わたくしはこれまで――

 王宮の高い天井や、飾られたシャンデリアを見上げて、生きてまいりました)


 磨き上げられた大理石の床、金糸で縁取られたカーテン。

 視線の先にあったのは、決して手の届かない天井の意匠と、計算された光の粒。


(あの光は、美しくはありましたけれど。

 誰かの泥だらけの足元とは、どこか遠く離れた場所にありましたわ)


 ここで見た冬の泥、冷えた指、ちぎれそうな咳。

 そのどれもが、舞踏会の音楽とは結びつかない、別の世界のものだと思っていた。


 けれど今、雨上がりの空の一角を見上げてみれば――


(今、こうして雨上がりの狭い空を見上げると――

 あの高い天井の下よりも、ずっと近くで、

 “誰かの明日”と繋がっている光のように思えるのです)


 雲の裂け目から、かすかな明るさが覗く。

 それは豪奢ではないけれど、濡れた石畳や水たまりにそのまま届いて、冷えた地面をほんのりと照らしている。


「……何してるの?」


 背後から、まだ幼さの残る声がした。


 振り向かなくても分かる声だった。

 リリアは肩越しに微笑みながら答える。


「少しだけ、空を見ておりましたの」


 少年は、戸口の影から一歩だけ外に出て、リリアの隣に並んだ。

 雨で黒くなった石畳を一度見てから、ゆっくりと――本当に、慣れない動作を覚える子どものように――顔を上げる。


「……暗いだけだ」


「ええ。けれど、暗い空にも、星は隠れておりますわ」


 少年は目を細め、狭い空の四角をじっと見つめる。


「ほんとに?」


 小さな疑いと、小さな期待が同じくらい混じった声だった。


 リリアは、空から少年へと視線を落とし、柔らかく頷く。


「ええ。

 見えるようになるまで、何度でも見上げてみましょう?」


 少年は何も答えない。

 ただ、すぐには目を逸らさなかった。

 ほんの短い時間――けれど、これまでの彼が空に向けてきたどの視線よりも、きっと長い時間だった。


 その沈黙を、リリアは壊さない。

 二人して、狭い空を見上げる。

 濡れた石畳には、その小さな四角形の空が、逆さまに揺れて映っていた。


(雨が降れば、屋根は傷み、薪は減り、布団は乾かず――

 ここで生きる冬は、相変わらず厳しいままです)


 屋根のしみ、雨漏りのバケツ、足りない薪の束。

 現実は何ひとつ、甘くはなっていない。


(けれど、雨上がりのこの空を見上げることを、

 わたくしはようやく少しだけ、覚え始めました)


 足元を見続けることは、必要だ。

 滑らないように。転ばないように。

 誰かの震える手を見落とさないように。


(足元の泥を見つめ、誰かの震える手を握りしめるためにも。

 その先に続く道を諦めないためにも――)


 リリアはそっと、胸の中で言葉を結ぶ。


(ときどき顔を上げて、空を確かめることを、忘れないでいようと)


 戸口から漏れるあたたかな灯りが、彼女と少年の横顔を淡く照らす。

 狭い空の四角には、まだ星の姿ははっきりとは見えない。

 それでも、雲の向こうに潜んだ光の気配が、濡れた石畳の上で、微かな反射となって瞬いていた。


 リリアは静かに息を吐き、目を細める。


 ――雨上がりの狭い空には、まだ星の姿は見えない。

 それでも、濡れた石畳に映る微かな光を探しながら、彼女はそっと目を閉じた。


 足元の泥も、頭上の空も、そのどちらからも目をそらさずに生きていくこと。

 それが、“自由でありたい”と願った令嬢が、雨上がりの空の下で新しく覚えた、小さな約束だった。




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