名前を隠して ―― リリア、とだけ名乗った。
夕方の光が、孤児院の窓ガラスを薄くオレンジ色に染めていた。
石壁の冷たさをやわらげるように、談話スペースには粗末ながらも布が掛けられた長椅子が置かれ、子どもたちの気配が遠くに残っている。
リリアンヌは、その一角で湯気の立つマグを両手に包み込んでいた。熱は指先に、しかし心までは届かない。
――今日、一日で、何度「公爵令嬢様」と呼ばれたかしら。
井戸端で話しかけようとした婦人。市場の隅で目を伏せた青年。
誰もが、礼儀正しくはあるけれど、その言葉の裏に一枚、透明な板を挟んだような距離があった。
と、そのとき。
「……お嬢様」
向かいの椅子に座る院長が、少し困ったような笑みを浮かべて口を開いた。
優しげな皺の刻まれた目元が、どこか言いにくそうに揺れている。
「ここで“公爵令嬢リリアンヌ様”として振る舞われることが、
かえって、見えなくしてしまうものもあります」
リリアンヌは、そっと瞬きをした。
「……見えなく、いたしますの?」
「はい」
院長はマグを両手で包み、言葉を選ぶように一拍置く。
「この街の者にとって、“公爵家”や“王都”というのは、
遠くの高い窓からこちらを見下ろしている光のようなものです。
ときどき手紙や命令が降ってくる。時には、視察も」
そこで、少しだけ肩をすくめた。
「ですが、その光に向かって、素直な顔を上げられる者は、多くありません。
眩しすぎて、目を細めるか、伏せるか……それしか知らない者も多いのです」
遠くの権力。たまにやって来て、何かを決めていく存在。
言葉にされれば、リリアンヌにも思い当たる光景があった。
王都の大広間で交わされる議論。地図の上で線を引き、数字を動かす誰かの指。
その向こうにいる人の顔は、いつも「数字」でしかなかった。
そこへ、背凭れにだらりと寄りかかっていたミラが、片手をひらひらさせて口を挟む。
「正直、“公爵令嬢様”ってだけで、話しかけるの躊躇する庶民、多いですよ」
「ミラ?」
「いや、だってそうじゃないですか」
ミラは腰を起こし、テーブルに身を乗り出す。
「同じテーブルでパンかじる想像、あんまりできないですもん。
“公爵令嬢様のご尊顔の前でパンの粉を散らしてはならぬ”って、
勝手に肩に力が入るんですよ、庶民サイドは」
冗談めかした言い方なのに、その奥にある本音は、冗談ではないことをリリアンヌは知っていた。
彼らにとって――わたくしは、やはり「高い窓の向こうの光」なのですわね。
胸の奥に、きゅ、と小さな痛みが走る。
院長は、そんな二人のやりとりを見守りながら、静かに言葉を継いだ。
「ですから。もし差し支えなければ――」
彼女はマグを置き、まっすぐリリアンヌを見つめる。
「この街では、“リリア”とだけ名乗られてはいかがでしょう」
湯気の向こうで、その提案がふわりと宙に浮かんだように感じた。
「……リリア?」
思わず、リリアンヌは自分の口からこぼれたその響きを繰り返す。
短く、軽やかに舌の上で転がる名前。
けれど不思議と、それはまったく知らない誰かの名ではなく――
自分の中から、小さく削り出された欠片のようにも思えた。
「もちろん、公的な書類や役人とのやりとりでは、本当のお名前をお使いください」
院長は柔らかく続ける。
「けれど、井戸端で話しかけるとき。
この孤児院の子どもたちと、一緒に机を囲むとき。
街の小さな店で、誰かの愚痴を聞くとき。
――そういう場では、“公爵令嬢リリアンヌ様”よりも、
“リリアさん”のほうが、ずっと言葉を引き出せるでしょう」
ミラがすぐさま頷いた。
「いいと思いますよ。
だって、“リリアンヌ・エルンスト様”って札ぶら下げて歩いてたら、
話しかけてくるの、だいたい商人か役人か、野心ある誰かですもん」
「ミラ、あなたは本当に包み隠さずおっしゃいますわね……」
苦笑しながらも、否定しきれない自分がいる。
――“公爵令嬢リリアンヌ”という名を、誇りとして守りたい気持ちも、あります。
家の歴史。父と母の期待。
あの名があったからこそ、届いた声も、重ねてきた努力もたくさんある。
けれど。
ふと、昼間出会った青年の顔が脳裏をよぎる。
冷たい風の中、「どうせ、すぐ帰るんだろ」と吐き捨てた唇。
あのとき彼は、わたくしではなく、「貴族様」とだけ話していた。
(その名が、誰かの言葉を奪ってしまうのだとしたら――)
指先に残るマグの温もりを、少し強く握りしめる。
(たとえ誇り深いものであっても、一度、外してみることも)
(“自由でいる”選択のひとつなのかもしれませんわね)
そっと息を吸い込み、リリアンヌは顔を上げた。
「……わかりましたわ、院長様」
その瞳に、かすかな決意の光を宿す。
「この街では、わたくしは“リリア”と名乗らせていただきます。
リリアという名で、ここに暮らす方々のお話を伺い、手をお貸ししたいのです」
院長は安堵と共に微笑み、深く一礼する。
「ありがとうございます、リリアさん」
呼び方が変わった瞬間、胸の奥で何かがかすかに外れたような、ひらりと軽くなる感覚があった。
ミラがにやりと笑う。
「じゃあこれからは、“お嬢様”じゃなくて“リリアさん”って呼んでもいいですか?」
「……それはそれで、少しむず痒いですわね」
そう返しながらも、口元には自然と笑みが浮かんでいた。
窓の外では、早い冬の雲が、ゆっくりと街の上を流れていく。
“公爵令嬢リリアンヌ”という名前を、ひととき椅子の背に預けて。
ここではただ、「リリア」として歩き出す自分を、彼女は静かに受け入れ始めていた。
翌朝。
薄く雲のかかった空から、冷たい光が中庭へと降りていた。
孤児院の裏手、小さな薪置き場。
昨日と同じように、細い肩に束ねた薪を抱えた少年が、ぎこちない足取りで往復している。
リリアンヌ――いや、まだ自分の中では「リリアンヌ」と「リリア」がはっきり分かれていない彼女は、マントの裾を押さえながら、その様子を少し離れた場所から眺めていた。
少年は、彼女に気づいても、特に会釈するでもなく、ちらりと一瞥をくれただけだ。
昨日と同じ、どこか醒めた、距離を測るような視線。
その背後から、落ち着いた靴音が近づく。
「おはようございます、リリア……いえ、お嬢様」
声の主は院長だった。最後の一語で、苦笑混じりに言い直してしまうあたりに、まだ互いの慣れなさが滲む。
「おはようございます、院長様」
リリアンヌが軽く会釈すると、院長は視線を少年へと向けた。
「あなたも、おはよう」
「……おはようございます」
少年は薪を下ろさず、短く返事だけをする。
院長は一歩、二人の間に踏み出し、穏やかに告げた。
「この方は、王都から来られたお客人ですが――
ここでは、“リリア”さんとお呼びなさい」
少年の手が、薪の上でぴたりと止まった。
顔を上げ、じろりとリリアンヌを見上げる。
「……ほんとの名前じゃないんだろ?」
真正面から突き刺さるような一言に、思わず胸の奥が揺れる。
だが、その目には嘲りよりも、「確かめたい」という色のほうが濃かった。
「ええ」
リリアンヌは、わずかに息を整えてから答えた。
「ええ、本当の名前ではありませんわ」
そこで、一度言葉を切り、ゆっくりと少年の視線を受け止める。
「けれど、“ここであなたたちの話を聞かせていただくわたくし”としては――
この名前が、ちょうど良い気がいたしまして」
少年の眉が、ほんの少しだけ上がる。
「ちょうど、いい?」
「はい」
彼女は自分の胸元にそっと手を添え、微笑を浮かべた。
「“公爵令嬢リリアンヌ”という名は、とても重くて、大切なものです。
家の誇りでもあり、わたくしを守ってきた鎧でもあります」
王都の舞踏会、宮廷の視線。
その名があったから、立っていられた場は数えきれない。
「ですが、その鎧のままでは――
こちらの方々の本当のお声を、聞き漏らしてしまうかもしれませんわ」
自分でも驚くほど、すらすらと言葉が出ていた。
「だから、この街では」
彼女は、一歩少年に近づき、裾をつまんで丁寧に一礼する。
「リリアと申します。どうぞ、よろしくお願いいたしますわ」
いつもの「公爵令嬢の自己紹介」より、わずかに肩の力を抜いたつもりだった。
それでも、背筋は自然と伸び、仕草には長年の訓練による優雅さが滲み出てしまう。
少年は、その様子をじっと見上げ、鼻を鳴らした。
「……なんか、“さん”付けで呼ぶには、やっぱり偉そうだな」
「まあ!」
思わぬ直球に、リリアンヌは思わず目を瞬かせる。
そこへ、薪置き場の隅に腰掛けていたミラが、堪えきれないとばかりに吹き出した。
「ほらね。
名前は軽くなったんですから、肩の力ももう少し抜いてくださいよ、“リリアさん”」
「ミラ!」
「だって今の、『ごきげんよう、ごきげんよう』って鐘が鳴ってるみたいでしたよ。
もっとこう、“おはよー、リリアだよー”って感じで――」
「そんな軽さで名乗れる性分ではございませんわ!」
半ば本気、半ば照れ隠しに声を上げると、少年の口元がわずかに揺れた。
笑った、と呼ぶにはまだ小さな、しかしたしかな変化。
院長はその様子を見守りながら、微笑を含んだ眼差しでうなずいた。
「では、これからは――リリアさん、ですね」
「……はい」
そう返事をした瞬間、胸の奥で何かがふっと軽くなる。
(名前をひとつ短くしただけなのに――)
リリアンヌは、自分の内側に生まれた感覚を、ゆっくりと言葉にしてみる。
(鎧を一枚、外したような心地がいたしますわね)
公爵家の娘であることも、王都で積み上げてきたものも、何ひとつ消えてはいない。
けれど、そのすべてを前に突き出して「これがわたくしです」と名乗らない自由が、今ここにはある。
少年が、薪を抱え直しながらぼそりと言った。
「……じゃあ、“リリアさん”」
「はい?」
「薪、これ以上運ぶと腕ちぎれそうなんで、手伝ってください」
その言い方は、貴族への遠慮とも、へつらいとも無縁だった。
ただ、同じ場にいる“少し年上のお姉さん”に向けるような、素朴な頼み方。
リリアンヌ――いや、リリアは、ふっと笑みを浮かべる。
「承知いたしましたわ。では、こちらをお持ちになって。
わたくしも、もう一束……いえ、半束から挑戦いたしますわね」
「最初から無理しないあたりは、偉いです」
ミラの軽口に、少年の口元がまた、ほんの少しだけ緩んだ。
吐く息が白くほどける冷たい朝。
「リリア」と名乗った新しい一日が、静かに動き出していた。
石畳の細い路地を抜けた先に、その建物はあった。
王都の仕立屋とは違う、低くて、どこか歪んだ屋根。
壁には煤がこびりつき、窓枠からは干した布切れが、旗のようにひらひらと揺れている。
「ここです。街の人たちが古布を持ち込む仕分け場」
案内役の院長がそう説明すると、ミラが「おお……」と感嘆とも溜息ともつかない声を漏らした。
「思ったより、“工房感”ありますね。貴族の倉庫っていうより、完全に庶民の現場だ」
扉を押し開けると、むわっとした布と埃の匂いが飛び込んでくる。
中は意外なほど広く、天井近くまで積み上がった布束が、壁際を埋め尽くしていた。
ところどころ、ほつれたコート、袖のちぎれたシャツ、色あせた毛布。
それらが無造作に積まれているのに、不思議と全体には一定の秩序がある。
「おーい、入るよ!」
院長の声に応じて、奥で何かを叩いていた音がぴたりと止まる。
「誰だい、朝っぱらから……って、あんたか、先生」
現れたのは、腕まくりをしたたくましい女性だった。
日焼けした肌に、乱暴にまとめた髪。指先の節は太く、布と糸とを相手に生きてきた年輪が刻まれている。
「今日は、お客さんを連れてきたの」
院長が一歩横に退くと、彼女の視線がリリアとミラに向いた。
ほんの一瞬、その目が細くなる。
上等な布のマント、質のいいブーツ――身なりを一目で見抜いたのだろう。
だが院長は、さりげなく言葉を挟んだ。
「こちら、王都から来てくださった“リリア”さんと、そのご友人。
古布の件で、少しお手伝いをしてくださるそうよ」
「……ふうん?」
女職人は、じろりとリリアの全身を見上から下まで眺め、それから顎をしゃくった。
「手は二本あるのかい?」
「え?」
「あるなら、突っ立ってないでこっちを持っておくれ」
言うが早いか、どさりと大きな布束がリリアの目の前に押し出される。
「こ、こちらを、ですのね?」
「ほかに誰がいるんだい、“リリア”」
迷いのない指示に、リリアは半ば反射的に「はい」と返事をしていた。
重い。
思った以上の重さに、腕がぐっと引かれる。
ドレスの裾で優雅に歩くことには慣れていても、布束を抱えて小走りに動くことなど、これまでの人生で何度あっただろう。
(……これは、なかなかの手強さですわね)
足元が少しふらつき、脛に布が当たる。
だが、後ろからミラの「いけます? いけます?」という半笑いの声が飛んできて、意地でも踏ん張った。
「こちらへ? それとも、あちらの台の上でしょうか?」
「あの台だよ。色ごとに分けるんだ。赤っぽいのはこっち、灰色や茶色は向こう」
女職人は手を休めることなく、次々と指示を飛ばす。
「ほつれてる端は内側に折り込む。足元に垂らすなよ、踏んづけて転ぶからね」
「は、はい!」
「そこの黒髪の嬢ちゃんは、こっちの山。紐で束ねて。ほどけないように、ぎゅうっとね」
「了解です!」
ミラは慣れた調子で返事をし、器用に布を束ね始める。
動きやすい庶民服の裾をからりとさばきながら、すぐに場のリズムに馴染んでいく。
リリアは、息を整えながら、ひとつひとつの布に手を伸ばした。
それは、王都の店ならとうに捨てられているような古びた布ばかりだ。
だが、端をよく見れば、まだ使える部分が多い。
袖口だけが擦り切れているもの、片側の裾だけが裂けているもの。
(これなら……ここを切り取って、縫い直せば、まだ)
王都で仕立て屋に教わった基礎の知識が、頭の片隅から顔を出す。
気づけば、裾を気にしていたはずの足取りは、布の重さに合わせて自然に変わっていた。
所作の優雅さではなく、ここで求められる「動きやすさ」に合わせた一歩に。
ひと仕事終えた頃、女職人がふと手を止める。
「……へえ」
低く漏れたその声に、リリアは思わず背筋を伸ばした。
「お、怒られますの?」
「なんで怒るんだい。あんたら、文句ひとつ言わないでよく動くじゃないか」
女職人は、腕を組んでリリアをじっと見つめた。
「最初に見た時は、“またお偉いさんの使いかね”って思ったけどね。
布の山を前にして逃げないだけ、たいしたもんさ」
「……あの」
「ふうん、口だけじゃなくて、手も動くんだね、“リリア”」
あまりにもあっさりとした言い方に、リリアはきょとんと目を瞬かせた。
その横で、ミラが小声で肘でつついてくる。
「今の、けっこうな褒め言葉ですよ」
「え、そうなのですの?」
「はい。庶民界隈では“ちゃんと働く”って、かなり高評価ですから」
ミラの半ば茶化すような囁きに、リリアはふっと笑みをこぼした。
(ここでのわたくしは、“公爵令嬢リリアンヌ”ではなく――)
布を運び、仕分け、端を揃え、たまに紐で束ねる。
その一つ一つの作業に、誰も家名を絡めてこない。
(布を運び、針を通す、“手”のひとつに過ぎませんのね)
そこには、「貴族だからすごい」も「貴族だからダメ」もない。
名札も、肩書きも、ここでは役に立たない。
あるのは、目の前の布束が、少しでも早く、少しでもきれいに片付くかどうか――それだけ。
(けれど、だからこそ見えてくるものも、きっとありますわ)
王宮の大広間からは決して見えなかった、埃っぽい光景。
冷たい床、裂けた布の手触り、職人たちの短い息遣い。
そのすべてが、「リリア」としての彼女の中に、静かに折り重なっていく。
「よし、今日はこのくらいにしとこうか」
女職人が腰に手を当てて言うと、周囲からほっとした息が漏れた。
「ありがとね、リリア。あんたの手がひとつ増えただけで、だいぶ違ったよ」
「いえ、こちらこそ。……少しは、お役に立てましたでしょうか」
「少しどころじゃないさ。
その調子で動けるなら、“公爵様ごっこ”より、こっちのほうが似合ってるかもしれないよ」
冗談とも本気ともつかない言葉に、リリアは思わず苦笑した。
工房を出ると、外の空気が少しだけ冷たく感じた。
だが、腕に残る布の重みと、指先に残るざらりとした感触は、不思議な温かさを伴っている。
「どうでした、“名札のいらないお仕事”は?」
隣を歩くミラの問いかけに、リリアはゆっくりと頷いた。
「ええ……とても、心地の良い疲れですわ」
そう答えながら、胸の内でそっと言葉を結ぶ。
(“リリアンヌ・エルンスト”としての責任も、きっとここへ持ち帰ることになる。
けれど――)
(こうして“リリア”として、ただのひとつの手として動いた時間が、
いつか、わたくしの選ぶ政策や言葉を、確かに変えてくれるはずですわね)
その確信とも願いともつかない思いを抱えながら、
リリアは、煤けた冬の空をひとつ、深く仰いだ。
夕暮れの光が、裏庭の洗い場に斜めに差し込んでいた。
石をくり抜いたような簡素な水場に、冷たい水がちろちろと流れている。
リリア――この街での彼女の名は、今日一日分の埃と布くずを落とすように、指の先まで丁寧に洗っていた。
赤くなった手の甲に、水がしみる。
(針に慣れた指でも、布束を運ぶのは、また違った疲れ方をいたしますのね……)
そんなことをぼんやりと考えていたときだった。
背後に、小さな気配が立つ。
「……」
振り向くと、薪置き場の影から、昨日の少年がこちらをじっと見ていた。
腕には細い薪を二、三本抱え、そのまま動こうとしない。
「おかえりなさいませ。薪運び、お疲れさまですわ」
いつもの調子で声をかけると、少年はわずかに眉をひそめた。
返事はない。代わりに、ゆっくりと歩み寄ってくる。
水音だけが、しばし二人のあいだを満たした。
やがて、少年はぽつりと言った。
「……本当の名前、教えてくれないの?」
リリアの指先から、水が滑り落ちる。
「……本当の、名前?」
一瞬、胸がきゅっと縮むのを感じた。
院長からの「この街では“リリア”で」との言葉が、頭の中で蘇る。
少年は、じっと彼女を見上げていた。
その瞳には、好奇心というよりも、慎重な警戒の色が強くあった。
「前にも、偉い人が来たことがある」
少年は、薪を抱えたまま、ぽつりぽつりと言葉を続けた。
「みんなにいろいろ聞いてさ。
『困ってることはないか』とか、『何が欲しい?』とか。
優しいこと言って、あったかいスープ飲んで、どこかへ帰ってった」
声には、感謝も懐かしさもない。
ただ、冷えた事実だけをなぞるような響きがあった。
「名前だって、たぶん本当じゃなかった」
少年は視線を横にそらす。
「あとから大人たちが、ぜんぜん違う呼び方してたから。
“あの方が来てくださって”とか、“殿なんとか様が”とか……」
リリアは、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
(……偽名で訪れた方が、いたのですわね)
少年にとって、「名前を隠して現れる大人」は、すでに一度経験した存在なのだ。
リリアは、濡れた手をそっと振り払い、布で軽く押さえた。
それから、逃げるように視線をそらさないよう、まっすぐ少年を見る。
「わたくしには、たしかに――」
言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「ここではない場所で、呼ばれている“本当の名”がありますわ」
それは、否定できない事実だ。
エルンスト公爵家の長女としての名――リリアンヌ。
「けれど、ここであなたと話をしているわたくしは、
リリアと呼ばれることを、自分で選んだのです」
少年の眉間に、きゅっと皺が寄った。
「……自分で?」
「ええ。わたくしの本名を口にした途端、
あなた方のまぶたに“貴族”や“公爵家”という、重たい影が落ちてしまうのなら」
リリアは、胸元で両手をそっと重ねる。
「まずは、その影を少しだけ脇にどけて。
“ここで話を聞きたい一人の人間”として、そばにいられたらと、そう思ったのです」
少年は、むっと唇を尖らせた。
「じゃあ、やっぱり隠してるじゃないか」
その言葉には、怒りというよりも、にじむような悔しさが混ざっていた。
「名前を隠すなら、本当のことなんて言わないだろ」
そこまで言ってから、少年は視線を落とす。
抱えた薪の先が、かすかに震えた。
リリアは、少年の横顔を見つめた。
(“名前を隠す”ことは、この子にとって――)
彼の中の「過去の誰か」の影が、言葉の端々から滲み出ている。
(“嘘をつく大人”の印なのですわね)
優しい言葉を並べて、あたたかいスープを飲んで、
けれど本当の名も、本当の顔も明かさぬまま去っていった誰か。
その背中を見送るしかなかった、小さな目線の高さ。
(わたくしは、また誰かの心に、同じ傷をなぞってしまうところでしたの?)
喉の奥に、小さな棘が刺さったような痛みを覚えながら、リリアはゆっくりと息を吸った。
「……そう、感じさせてしまったのなら、すみません」
彼女は、少年の前に少しだけ膝を折り、その目線に近づく。
「わたくしが“リリア”と名乗ったのは、
あなたを騙すためではなく――」
言葉が、そこで一瞬、喉につかえた。
けれど、目を逸らさずに続ける。
「“本当のことを話してもよい場所”を、お互いに見つけるため、でもありますの」
「本当のこと……?」
少年が、怪訝そうに顔を上げる。
「ええ。本当のことを話すには、まず――
名前より先に、“耳を開いてくださるかどうか”が大切でしょう?」
リリアは、自分の胸にそっと手を当てた。
「わたくしは、あなたがここでどんな冬を過ごしてきたのか、
どんな大人に、どんな言葉をかけられてきたのか、まだ何も知りません」
「……」
「ですから。
まずは“リリア”として、ここでご一緒させていただきながら、
少しずつ、あなたが見てきたものを教えていただきたいのです」
少年の指先から、薪がかすかに滑りかける。
慌てて持ち直し、そのまま黙り込んだ。
夕暮れの空が、少しずつ青から紫へと色を変えていく。
遠くで、教会の鐘が一度だけ、小さく鳴った。
「……本当の名前は、いつか教えてくれるの?」
ぽつり、と。
先ほどよりも、ほんの少しだけ柔らかい声で、少年が尋ねた。
リリアは、微笑みを浮かべる。
「ええ。
あなたが、“この大人になら聞いてもいい”と、少しでも思ってくださったときには――」
そこまで言って、言葉を区切る。
「そのときは、きちんとお伝えいたしますわ。
わたくしが、どこから来て、何者であるのかを」
少年は、しばらくリリアを見つめていた。
やがて、ふいと視線をそらし、小さく呟く。
「……じゃあ、今は、まだ教えてくれないんだな」
「今のわたくしでは、あなたの中の“嘘をつく大人”と同じになってしまうかもしれませんから」
リリアは、正直にそう告げる。
「だからこそ、まずは――
“ここで、同じ冬を少しだけ過ごした大人”として、覚えていてほしいのです」
少年は、何かを言いかけて、やめた。
代わりに、薪を抱え直し、ぶっきらぼうに背を向ける。
「……わかった」
その一言には、承諾とも不承諾ともつかない、曖昧な重みがあった。
歩き出した背中に、リリアは静かに頭を下げる。
「お話をしてくださって、ありがとうございます」
少年は振り向かないまま、小さく手を上げた。
それが挨拶なのか、ただの癖なのかは分からない。
やがて彼の姿が物置の角に消えると、裏庭には再び、風の音だけが残った。
リリアは、さきほどまで洗っていた手のひらを、そっと見つめる。
(“リリア”という名を選んだことが、
誰かの言葉を引き出す鍵になることもあれば――)
(別の誰かにとっては、“また名前を隠した大人”の一人に見えてしまう)
その事実の重さが、じんわりと胸に沈んでいく。
(自由でいる、と決めたわたくしは。
その自由な選択が、誰かの古い傷を撫でてしまうことからも、目を逸らしてはいけませんわね)
夕暮れの冷たい風が、濡れた指先を撫でていく。
リリアは、そっと拳を握りしめた。
(――この名でここに立つと決めた以上。
“リリア”として向き合う責任も、最後まで引き受けなければなりませんわ)
裏庭に、鐘の余韻が静かに溶けていった。
夜の孤児院は、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。
廊下の石床はひんやりとして、足音を立てるのもはばかられるほどだ。
リリア――いや、胸の奥ではまだ「リリアンヌ」と呼ばれている自分は、ランプの光が漏れる扉の前で一度だけ息を整えた。
軽くノックをすると、すぐに落ち着いた声が返ってくる。
「どうぞ」
院長室の扉を開けると、そこには古い机と山積みの書類、そして一つのランプの灯りがあった。
ランプの火は小さいが、その周りだけは不思議と温かい。
院長は、眼鏡の上からリリアを見て、ふわりと笑んだ。
「今晩は、“リリア”さん。……顔に、たくさんの迷いが書いてありますね」
図星を刺され、リリアは思わず苦笑をこぼす。
「隠しているつもりだったのですけれど……お見通し、ですのね」
「この建物の中で、子どもたちの次に分かりやすいですから」
院長はそう冗談めかしながら、向かいの椅子を手で示す。
リリアは静かに腰を下ろした。ランプの明かりが、彼女の横顔を淡く照らす。
しばし、紙をめくる音だけが部屋に満ちた。
やがてリリアは、膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめて、口を開く。
「……院長様。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん」
院長はペンを置き、真正面から彼女を見る。
リリアは、一拍の沈黙のあと、正面から問いを投げた。
「わたくしは、この街の方々を……騙しているのでしょうか」
ランプの火が、わずかに揺れる。
院長はその揺らぎを見つめるように目を伏せ、指先でカップの縁をなぞった。
すぐには答えない。軽々しい否定を、彼女が求めていないことを知っている眼差しだった。
やがて、ゆっくりと首を横に振る。
「もしあなたが――」
静かな声が、ランプの灯りの中に落ちていく。
「“身分を隠したまま、権力を行使しよう”としているのなら。
わたしは、きっと止めていたでしょう」
その一言に、リリアは背筋を正した。
「権力を、行使……」
「ええ。『実は貴族様でした』と、あとから名を明かして、
それを相手を縛るための鎖に使うのであれば――それは裏切りです」
院長の目が、静かに細められる。
「けれど、あなたがここでしているのは、そういうことではないでしょう?」
リリアは、迷いの色を残したまま、こくりと頷く。
「わたくしは、まだ何もできておりませんわ。
ただ、こちらの皆さまのお話を伺い、少し手を動かしているだけで……」
「“ただ”――とは言いませんよ」
院長は小さく笑う。
「話を聞くこと、手を動かすこと、この場所の痛みを知ろうとすること。
それは、ここへ来た多くの“大人”が、途中で放り出してきたものです」
リリアの胸に、少年の言葉が蘇る。
『前にも、偉い人が来たことがある。
優しいこと言って、あったかいスープ飲んで、どこかへ帰ってった』
唇を噛む気配を感じ取ったのか、院長は柔らかな視線を向けた。
「“公爵令嬢”という名は、この街では大きすぎるのですよ」
「大きすぎる……」
「その名があるだけで、言えなくなる本音が、たくさんある」
院長は、自分の胸の高さあたりに手をかざした。
「たとえば――
『貴族は信用できない』と口にしたいとき。
『あなたの家があれをしてくれなかった』と責めたいとき。
『助けてほしいけれど、恨み言も言いたい』という、矛盾した気持ちを抱えているとき」
リリアは、息を呑む。
それは、昼間の井戸端で向けられた視線と、重なる言葉だった。
『どうせ“貴族様の立派なご報告”のためなんだろ?』
「そんなとき、“エルンスト公爵家のご令嬢”という名は、
この子たちにとって、言葉を封じる蓋になってしまうんです」
院長は、机の上の紙に視線を落としながら続ける。
「今の“リリア”という名は――それを一時的に外して、
ここにいる人々の言葉を引き出すための、仮の衣装のようなものだと、わたしは思っています」
「仮の……衣装」
リリアは、自分の名前を胸の内側で何度も転がしてみる。
(“公爵令嬢リリアンヌ”という名は、たしかにわたくしの誇り――
けれど、この街では、それが誰かの本音を封じてしまうこともある)
院長は、そこで言葉を切り、ランプの灯りを見つめるように目を細めた。
「ただ――」
その声色には、厳しさも混ざる。
「だからこそ、です」
リリアは、思わず姿勢を正す。
「いつか“真名”で向き合わねばならないときが来たなら。
そのときは、決して逃げてはいけませんよ」
「……真名、で」
「この街の誰かが、あなたにこう問うときが来るかもしれません」
院長は、少年の声をなぞるように、低く静かに言った。
『本当の名前、教えてくれないの?』
「そのときに、あなたが“まだ早いから”と誤魔化すのか。
“もう隠す理由はない”と、真正面から名乗るのか」
院長は、まっすぐにリリアを見た。
「“隠すこと”が、ずるさになるか、優しさになるかは――
結局、あなたがその先で何を選ぶかで決まるのです」
リリアの心に、その言葉が深く沈んでいく。
(“隠す”ことは、ずるさにも、優しさにもなりうる――)
(今のわたくしは、どちらの側に、立っておりますの……?)
「あなたは、今日、あの子と話をしてきたのでしょう?」
院長が、問いかけるように言う。
「はい……。
“名前を隠すなら、本当のことなんて言わないだろ”と、言われましたわ」
「痛いところを突かれましたね」
院長はくすりと笑うが、その目は真剣だ。
「けれど、その痛みを受け止めて、こうして話に来た。
それだけで、あなたは少なくとも、自分の選んだ“隠し方”を疑うことのできる人だと分かりました」
リリアは、胸の前で組んだ手を少し緩める。
「……わたくしは、自分の名を誇りたいのです」
絞り出すように、本音がこぼれた。
「公爵家の娘であることも、“リリアンヌ”と呼ばれてきた年月も。
本当は、どれも大切に抱きしめていたい」
「ええ」
「けれど、その名が……誰かの言葉や怒りや、助けを求める声を奪ってしまうのだとしたら――
それをそのまま押しつけるのは、違うのではないかと」
院長は、静かに頷いた。
「だからこそ、“一時的に置いてきた”のでしょう。ここに来るとき」
「……はい」
言葉にしてみると、それが自分の選択だったのだと、改めて実感する。
院長は、椅子の背にもたれながら、穏やかに続けた。
「あなたがここで“リリア”として過ごしていることを、
裏切りと呼ぶか、守るための工夫と呼ぶかは――」
ランプの火が、ぱち、と小さく音を立てる。
「この先、あなたがどれだけ真剣に、この街と向き合うかで決まるのですよ」
リリアは、はっと目を見開いた。
「向き合い方、で……?」
「ええ。“リリア”という名を、ただ安心できる仮面として被るのか。
それとも、ここで聞いた声や見た冬の景色を、
いつか“リリアンヌ”として背負い直すための、準備期間にするのか」
院長は、優しくも厳しい声で言う。
「それを選ぶのは、あなたです」
静寂が、部屋に降りた。
リリアは、自分の胸の奥で、何かが静かに定まっていくのを感じた。
(わたくしは、この名を――)
(“誰かを欺くための仮の名”ではなく。
いつか真名で向き合うための、短い橋渡しとして使いたい)
そっと、口を開く。
「……ありがとうございます、院長様」
リリアは椅子から立ち上がり、深く一礼した。
「わたくし、“リリア”としてここにいるあいだ――
逃げるためではなく、きちんと聞き取るために、この名を使います」
院長の目が、柔らかく細められる。
「そしていつか、“リリアンヌ”として名乗るべきときが来たなら――」
リリアは、自分の胸元に手を当てた。
「そのときは、決して背を向けずに、名乗りましょう。
この街の冬と、ここで出会った方々を、わたくしがどう見つめてきたのか。
自分の言葉で、お伝えいたします」
院長は、満足げに頷いた。
「それでこそ、“名を持つ側”の責任です」
リリアは、胸の内側に、少しだけあたたかいものが満ちていくのを感じた。
(隠すことも、守ることも――
どちらも、ただの行為ではなく、“選び続ける姿勢”なのですわね)
(わたくしがどちらへ傾けるかは、これからの一日一日の中で、決まっていく)
「今夜は、よくお休みなさい」
院長の言葉に、リリアは微笑みを返す。
「はい。……おやすみなさいませ、院長様」
扉を閉め、廊下に出ると、先ほどよりも闇が薄く感じられた。
ランプの光は遠ざかったはずなのに、胸の内には、確かな灯りがひとつ灯っている。
(“リリア”という名で、聞き取る言葉がある)
(そしていつか、“リリアンヌ”として、引き受けるべき責任がある)
その二つを抱えたまま、彼女は静かに自室へと歩いていった。
昼と夜のあいだのような、くぐもった光が中庭を覆っていた。
空からは細かい雪がちらちらと舞い、まだ地面を白く染めるほどではないそれが、冷たい空気の中で静かに揺れている。孤児院の中庭の隅には、割った薪が高く積み上げられ、その横には軒下代わりの古い物置が寄り添うように建っていた。
リリア――ここではそう名乗っている少女は、マントの裾を片手で押さえながら、薪の山に目をやった。
(少し、積み方が心もとないように見えますわね……)
侍女が洗濯物の確認に行き、ミラは街の作業場に顔を出している時間だった。中庭には、薪の山と、その前で小さな身体を動かす少年だけがいる。
あの少年だ。
昨日、「本当の名前を教えてくれないの?」と問うてきた、あのまっすぐな瞳。
「……重くないかしら?」
リリアが声を掛けるより早く、少年は肩で薪を押し上げるようにして、上段の一本を引き抜いた。
「平気だよ。こんなの、毎年やってるし」
言い終える前に、薪の山がぐらり、と嫌な音を立てる。
ぱきり、とどこかの木が割れたような音。
その瞬間、リリアの胸の奥まで冷たいものが走った。
「危ない――!」
次の瞬間、自分がどう動いたのかを、彼女はあとでうまく説明できなかった。
気がつけば、スカートの裾も気にせず雪を蹴り、少年と薪の山のあいだに飛び込んでいた。
崩れかけた薪の束に肩を入れ、両腕を広げて支える。乾いた木の重さが、一気に身体へとのしかかった。
鈍い衝撃が肩に走る。思わず歯を食いしばった。
「っ……!」
間に合ったのかどうか、不安なまま、彼女は反射的に後ろを振り返る。
少年が、見開いた目のまま、その場に尻もちをついていた。かろうじて、崩れた薪は彼の頭上を避けている。
「お嬢様!」
いつの間にか駆けつけていた侍女が、後ろから薪を支え、別の方向に引き寄せる。
続いて、扉を蹴飛ばさんばかりの勢いで飛び出してきたミラが、短く悪態をついた。
「だから言ったんですよ、この積み方危ないって! ほら、こっち持って!」
侍女とミラが、手早く崩れかけた薪を別の場所へ移し始める。
リリアも、肩にずしりと残る重みと痺れを感じながら、最後の数本を押し返した。
やがて、ぱらぱらと薪が転がる音が止む。
中庭に戻ったのは、白い息と、荒い呼吸の音だけだった。
「……ふぅ」
リリアは、ようやく肩から力を抜き、息を吐いた。
マントの肩口には木の粉がつき、手袋には小さなささくれが刺さっている。
「大丈夫ですか、お嬢様。お怪我は――」
「ええ、大丈夫ですわ。これくらい……」
リリアは、侍女の心配を手振りでなだめると、すぐに視線を少年へと向けた。
少年は、まだ地面に手をついたまま、震える指先を見つめていた。
頬は雪よりも白く、吐き出される息だけが、彼が無事であることを示している。
リリアは膝を折り、その視線の高さまで身をかがめた。
「……ごめんなさい」
少年の目が、はっとこちらを向く。
「もっと早く気づいていれば、こんな思いをさせずに済んだかもしれませんのに」
彼女はそっと、少年の冷えきった手を両手で包んだ。
細くて軽いその手が、小さく震えているのが伝わってくる。
少年は、しばらく何も言わなかった。
ただ、恐怖の残滓と戸惑いとが入り混じった目で、目の前の少女を見つめる。
やがて、ぽつりと声が落ちた。
「……なんで」
掠れたそのひと言に、リリアは瞬きをする。
「なんで、そこまでしてくれるんだよ」
少年は、彼女の手を振り払うこともできずに、ただ問いを重ねた。
「貴族様なら、誰か別の人にやらせればいいのに。
危ないことなんて、しなくてもいいだろ」
それは責める声というより、理解できないものを前にした驚きの声だった。
リリアは少しだけ目を細めると、ふっと笑みを浮かべた。
「ここでは、わたくしも“誰かの手”のひとつですもの」
「……手?」
「ええ。薪を運ぶ手、針を通す手、皿を洗う手――」
リリアは、包んでいる少年の手に、自分の指先を軽く押し当てた。
「そして、困っている人に、そっと伸ばす手も」
少年の眉が、訝しげに寄る。
「……名前がどうとか、身分がどうとか、関係ないってこと?」
「関係がないとは、申しませんわ」
リリアは苦笑まじりに首を振る。
「わたくしには、王都で呼ばれている本当の名があり、
エルンスト公爵家の娘としての責任もございます」
少年の目が、かすかに揺れた。
「やっぱり、偉い人なんじゃないか」
「ええ。残念ながら、その点は否定できませんわね」
軽く肩をすくめると、少年の目が、ほんの少しだけ丸くなる。
リリアは、その変化を見逃さない。
「それでも、この街で薪が崩れそうなら――
“偉い人かどうか”ではなく、“そこに手を伸ばせるかどうか”のほうが、ずっと大事でしょう?」
少年は、言葉を失ったように黙り込んだ。
中庭に、風の音が混じる。
遠くで子どもたちの笑い声が聞こえ、物置の軒先からは雪解けの滴がぽたぽたと落ちている。
リリアは、少しだけ真剣な色を帯びた瞳で、少年を見つめた。
「ですから――名前よりも先に、覚えていただきたいことがございますの」
「……覚える?」
少年の眉間に、素直な疑問が刻まれる。
「ええ」
リリアは、包んだ手に少しだけ力を込めた。
「“困っているときには、そっと手を伸ばす人間”が、ここに一人いるのだと」
少年は目を瞬かせる。その言葉が、すぐにはうまく飲み込めないようだった。
「それを知っていただけるなら――」
リリアは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「わたくしの本当の名前は、急いで明かさずとも、きっと追いついてまいりますわ。
名前は、あとからいくらでも重ねていけますもの」
少年は、唇を噛んだ。
昨日のように「隠してるじゃないか」と言い返す代わりに、何か別の言葉を探している。
「……そうやって、いいこと言って、どっか行く大人もいた」
ようやく絞り出した声は、小さくて、どこか拗ねた響きを帯びていた。
「少し手伝って、優しいふりして、
結局冬が終わったら、二度と戻ってこなかった」
リリアの胸に、きゅ、と小さな痛みが走る。
(この子の“疑い”は、ただのひねくれではなく――
何度も何度も繰り返された“置き去りの記憶”から来ているのですね)
彼女は、真正面からその視線を受け止めた。
「わたくしが、あなたの心に、同じ傷を増やしてしまうかどうかは――」
そっと微笑む。
「この冬の終わりに、決めていただければよろしいのです」
少年が、驚いたように目を見開く。
「……決める?」
「ええ。“リリア”が、あなたの記憶の中で、
どんな大人として残るのか――それを決める権利は、あなたにありますわ」
リリアは、そっと手を離すと、立ち上がった。
雪混じりの風がマントの裾を揺らし、彼女の髪の先をさらっていく。
「だから今は、名前より先に、わたくしの“していること”を、よく見ていてくださいませ」
少年は、何かを言いかけて、結局飲み込んだ。
昨日までのように、棘を立てた視線ではない。
かといって、素直に信じるわけでもない。
ただ、そこには「様子を見てやる」という、小さな猶予が宿っていた。
ミラが、腕を組みながら口を挟む。
「ほら、あんた。怪我してないなら、ちょっとは片付け手伝いなさいよ。
“さっき助けてもらった分”、働いて返すのが、この街の礼儀でしょ?」
少年は、ふいっと顔をそむける。
「……分かってるよ」
そう言いつつ、立ち上がって転がった薪を拾い始めた。
その横顔は、もう「追い払いたい」相手を見る目ではなく、
「よく分からないけれど、簡単には決めつけられない相手」を見つめる目になっている。
リリアは、その変化を胸の内でそっと抱きしめながら、転がった薪の一本を拾い上げた。
(名前を短くしただけでは、何も変わりませんわ)
(けれど、“リリア”として差し出したこの手を――
いつか“リリアンヌ”として責任ごと引き受けられるように)
雪は、相変わらず静かに降り続いていた。
その白い欠片の一つ一つが、まだ形にならない約束のように、
中庭の冷えた石畳へと、静かに降り積もっていく。
その夜、街外れの宿泊室には、静かな火の音だけが満ちていた。
石造りの壁に沿って置かれた小さな暖炉には、孤児院から分けてもらった薪がくべられている。ぱち、ぱち、と火が弾けるたびに、橙色の光が天井の梁を揺らした。
部屋の隅には、簡素な二段ベッドがひとつ。
上段にはミラが、下段にはリリア――ここではそう名乗る公爵令嬢が、毛布をかぶって横になっていた。
眠りにつくには、まだ少しだけ早い時間。
外は雪まじりの風が唸り、窓ガラスがかすかに震えている。
ふいに、上のベッドから、ぎし、とスプリングの軋む音がした。
「……なんか、変な感じですね」
天井を見上げながら、ミラの声が降ってくる。
「変な感じ?」
リリアが本を閉じ、胸の上で両手を重ねたまま問い返す。
「はい」
ミラはごろりと寝返りを打つ気配だけ伝えて、続けた。
「リリアンヌ様と一緒に旅に出たはずなのに――
今、隣のベッドにいるのは、“リリア”って人で」
くす、と小さな笑い声が、下段から漏れる。
「それは、悪いことかしら?」
「さあ、どうでしょうね」
ミラは腕を枕にしながら、しばし言葉を選ぶように沈黙した。
暖炉の火が、梁の影を少しずつ形を変えていく。
「……悪くは、ないと思いますよ」
「まあ」
「ただ――ちょっと不思議なんです」
ミラの声には、からかい半分、本気半分の色が混ざる。
「こっちで一緒に布を運んで、薪を支えて、
へとへとになってベッドに転がってる“リリア”は」
そこで一拍置き、はっきりと言った。
「どう見ても、ちゃんと“リリアンヌさん”なんですよね」
下段の少女は、目を瞬いて天井を見つめる。
「……それは、どういう意味かしら?」
「そのまんまの意味ですよ」
ミラは、あっさりと言葉を重ねる。
「名前が短くなっても、肩書きが伏せられてても。
今日、薪の山に飛び込んだ人が誰かって言われたら――
そりゃあもう、“リリアンヌ・エルンスト”以外に思えません」
リリアの胸に、じんわりと温かいものが広がる。
それは暖炉の熱とも違う、おだやかな灯りのようだった。
「でもね」
ミラが続ける。
「“リリア”のほうが――たぶん、自分のことをちょっと下に置いて、周りを見てる感じがします」
下段から、そっと息を呑む気配がした。
「自分を、下に?」
「そうです」
ミラは身を起こし、上段のベッドから身を乗り出すようにして天井の梁を指さした。
「前のリリアンヌ様は、“自分がどう見られるか”を、ずっと背負わされてたじゃないですか。
王妃候補としての視線とか、家の名とか」
あの学園での舞踏会、王宮での茶会。
いつも視線の真ん中に立たされていた自分の姿が、リリアの脳裏に浮かぶ。
立ち居振る舞いひとつ、言葉の抑揚ひとつにも、「公爵令嬢らしさ」「王妃候補らしさ」を求められていた日々。
「でも今、“リリア”って名札で動いてるリリアンヌさんは――」
ミラは少し笑う。
「もっと自由に、人のことを見て、ついでに自分も見てる気がします」
リリアは、ゆっくりと瞬きをした。
「人のことと、自分のこと……」
「はい」
ミラの声には、からかいが引き、素直な敬意が滲む。
「今日だって、あの少年に名前のことで突っ込まれてたでしょう?
ああいうの、前の“公爵令嬢リリアンヌ様”だったら、
きっと正しい答えを探して、それらしく納めてたと思うんです」
リリアは、思わず小さく笑う。
「耳が痛いですわね」
「今の“リリア”は、ちょっと違います」
ミラは、頬杖をつくようにして、下のベッドを覗き込む。
「分からないことは分からないって顔して。
自分だってまだ迷ってる、ってところまで含めて、ちゃんと相手を見て話してる気がする」
少年の震える手を握りながら、自分の迷いごと差し出した時間を、リリアは思い出す。
王宮の煌びやかな広間では決して許されなかった、不格好な言葉たち。
「“リリアンヌ様”は、いつも舞台の真ん中に立たされてた人です」
ミラは言う。
「でも“リリア”は、舞台の端っこからも、人を見てます。
真ん中に立たなくても届く声があるって、分かってきたのかもしれませんね」
暖炉の火が、小さくはぜた。
リリアは毛布の上から、自分の胸元をそっと押さえる。
(肩書きを外したわたくしを――)
(ちゃんと見てくれている人が、ここにいる)
王宮では、「公爵令嬢」「王妃候補」といった大きな言葉の陰に、自分の輪郭が溶けていくような感覚があった。
けれど今、薄い板壁と古いベッドのきしみの中で、
ミラは「リリアンヌでもあり、リリアでもあるわたくし」を、ひとりの人間として言葉にしてくれている。
それが、どれほど心強いことか。
「……ミラさん」
リリアは、天井に向かってそっと呼びかけた。
「はい?」
「ありがとうございます。
“リリア”と呼ばれているわたくしを――そんなふうに見ていてくださって」
「なにそれ、改まって」
ミラは苦笑しつつ、肩をすくめる気配を見せる。
「でも、まあ。ひとつだけ言うなら」
「ええ?」
「名前を隠してること、自分で気にしすぎなくていいと思いますよ」
リリアは、思わず目を丸くした。
「わたし、けっこうずるい人は嫌いですけど」
ミラは、いたずらっぽく笑う。
「今の“リリア”は、ずるくなる前に、ちゃんと悩んでます。
悩んだぶんだけ、誰かのこと、ちゃんと見ようとしてる」
その言葉が、じんわりと胸に染みていく。
(“名前を隠している”わたくしの――)
(せめてもの救いですわね)
リリアは、心の中でそっと呟いた。
自分の真名を隠している事実が消えるわけではない。
それでも、その名前の重さに押し潰されないように、仮の名で息をついている今この瞬間を、まっすぐ見てくれる人がいる。
それだけで、少しだけ、明日も“リリア”としてこの街と向き合う勇気が湧いてくる。
「じゃあ、寝ましょうか、“リリア”さん」
ミラが、わざとらしく区切って呼ぶ。
「ふふ。ええ、おやすみなさいませ、ミラさん」
「おやすみなさーい」
暖炉の火が、少しだけ小さくなり、橙色の光が柔らかく部屋を包む。
天井の梁に映る影が揺れ、雪の気配が遠くで囁く中――
リリアンヌであり、リリアである少女は、静かに目を閉じた。
仮の名で過ごすこの夜が、いつか真名で向き合う日に続いていくことを、どこかで信じながら。
翌朝の街は、薄い朝日にまだ追いつけない白さで覆われていた。
夜のあいだに降った雪が、通りの石畳をかすかに縁取り、屋根の上に薄い綿のように積もっている。吐く息は白く、空気はきりりと頬を刺すように冷たい。
リリア――今この街で彼女が名乗っているその名は、白い息と共に小さく零れ、すぐに冬の空気に溶けていった。
肩までのマントの裾についた雪を軽く払って、彼女は孤児院から作業場へと続く道を歩く。
手には、昨夜まとめた古布のリストと、院長から預かった簡単なメモ。腰には、動きやすいよう締めた細いベルト。ブーツの裏には滑り止めの金具が打たれている。
王都で身にまとっていた、刺繍だらけのドレスも、煌びやかな装飾もここにはない。
行き交う人々の視線も、「公爵令嬢」ではなく、ただの旅の娘――“リリア”へと向けられている。
曲がり角をひとつ抜けたところで、荷車を押していた商人が彼女に気づき、片手を挙げた。
「おう、昨日の“布運びの嬢ちゃん”!」
たくましい腕に雪を被った荷車の取っ手を握ったまま、男は笑う。
「今日も頼むぜ、リリア!」
リリアは立ち止まり、自然と礼をしそうになる身体を、ほんの少しだけ制してから微笑んだ。
「もちろんですわ。――いえ、ええ。今日も、できることをお手伝いさせていただきます」
言い慣れた貴族の敬語に、自分で苦笑を覚えながら、わずかに肩の力を抜く。
先へ進もうとしたとき、ふとマントの裾が小さく引かれた。
「リリアねえちゃん!」
振り返ると、孤児院の一番小さな女の子が、まだ大きすぎる毛糸のマフラーに顎までうずめながら、こちらを見上げていた。
頬はりんごのように赤く、鼻先まで真っ赤にして、彼女はきゅっとマントの端をつまむ。
「雪、滑らないようにね!」
その言葉に、リリアの胸の奥が、ふっと温かくほどける。
「ありがとう。あなたも、足もとに気をつけて――転んでしまったら、痛いですもの」
しゃがみ込み、少女のマフラーの結び目を直してやる。
小さな手はまだ冷たく、しかし確かにそこに生きている熱を宿していた。
少女は照れくさそうに笑い、友だちの元へ駆けていく。
足もとで、積もりかけの雪がしゃり、と小さな音を立てた。
立ち上がりながら、リリアはふと、自分の胸の内に浮かんだ言葉に耳を傾ける。
(わたくしは今、この街で――
公爵家の名も、“王妃候補”という肩書きも外し)
誰も、彼女を“エルンスト公爵家の娘”とは呼ばない。
行き交う声はただ、「布運びの嬢ちゃん」「リリアねえちゃん」と、素朴に彼女を名指していく。
(ただ“リリア”とだけ名乗って、生きています)
名に込められていた重さを、一度そっと降ろしてみた。
その分だけ肩は軽くなり、代わりに、今まで見えなかったものが視界に入り始めている。
寒さにこわばった子どもたちの指先。
割れた窓ガラスの隙間から入り込む風を、古い布で必死に塞ぐ人々の姿。
そして、貴族への不信と、それでもなお誰かに見てほしいと願う、小さな眼差し。
(それでも、子どもたちの手の温度に胸を痛めて――
足元の雪に滑りそうな誰かに、手を伸ばさずにはいられないわたくしは)
昨日、崩れかけた薪を支えたときの、腕に残る重さがよみがえる。
王宮の階段を降りるときに支えられていた自分の手が、今は誰かを支える側に回っていることが、妙にくすぐったく、そして誇らしい。
(どんな名で呼ばれようとも、きっと同じなのだと――
今は少しだけ、そう思えるのです)
“公爵令嬢リリアンヌ”と呼ばれても。
“王妃候補殿”と持ち上げられても。
今、この街で“リリア”とだけ呼ばれていても。
胸の奥にある痛みと、誰かの冬を見過ごせない性分だけは、変わらずそこにある。
彼女は、白い息をひとつ吐き、空を仰いだ。
灰色がかった雲の切れ間から、かすかな朝日が差し込んでくる。
雪を被った屋根の縁が、薄く光を帯びてきらりと輝いた。
(名前を隠して――リリア、とだけ名乗った)
リリアンヌは、胸の内で静かに言葉を結ぶ。
(その仮の名の下で、わたくしは今ようやく――
“誰かの期待に縛られない自分の在り方”を、そっと確かめ始めているのかもしれませんわ)
雪の街を歩くその背中は、小さく見えるかもしれない。
けれど、その影には、公爵令嬢として培った誇りも、王妃候補として向き合ってきた責任も、薄い影のように寄り添っている。
ただ今、それらは彼女の足を縛る鎖ではない。
“どの名前で呼ばれても、同じように誰かに手を伸ばせる自分でいたい”――
そう願う、一人の少女の覚悟を静かに照らす、見えない灯火だ。
リリアは、小さく息を吐き、白い吐息が朝の空気にふわりと溶けていくのを見送る。
そして、微笑んだ。
その微笑みを胸に、彼女は今日も、“リリア”として雪の街を歩き出す。
名をひとつ隠しただけでは消えない、自分自身のまなざしと、伸ばした手の温度を確かめるために。




