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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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自由の旅 ―― 王宮を離れ、未知の地へ。

 石造りの橋を渡る車輪の音が、きぃ、と冷えた空気の中に伸びていく。


 馬車の窓ガラスが、吐息に曇った。


 リリアンヌは手袋をした指先で、そこに小さな丸を描くようになぞってから、そっとカーテンを持ち上げた。


 そこに広がっていたのは、王都の石畳とは違う色をした街並みだった。


 低く肩をすくめるような家々。壁は煤け、屋根の縁には、溶けきらない雪が薄くこびりついている。軒先には乾かしかけの日干し肉と、束ねた薪。往来する人々の吐く息が、白く途切れなく立ちのぼっていた。


 大通りと言うには心もとない幅の道を、厚手のマントを二重三重に重ねた人々が足早に行き交う。


 ふらつくような足取りで木箱を運ぶ男。片腕に薪を抱え、もう片方の腕に幼子を抱いた女。薄いマントの裾を押さえながら、足先を擦るように歩く子どもたち。


 その足首が、ぞくりとするほど細い。


 風がひときわ強く吹き抜け、通りの隅に残った雪をさらってゆく。舞い上がった粉雪が、子どもたちの頬を打つたび、彼らは無意識に肩をすくめた。


 ――絵本で見た「雪景色」は、もっと、静かで、澄んでいて、美しいものだと思っていましたけれど。


 胸の奥が、きゅう、と小さく鳴った。


 石造りの門が近づく。王都の城門のような威厳はない。けれど、冬の風をせき止めようとするように、両側からぎゅっと街を抱え込んでいる。


 門のそば、粗末な外套を纏った番兵が、凍てつく指先をこすり合わせながら馬車へ視線を向けた。公爵家の紋章を認めると、慌てて姿勢を正し、敬礼を送る。


 馬車は速度を落とし、小さな門をくぐった。


 その瞬間、外気が一段と冷たくなったように感じたのは、気のせいではないのだろう。高い建物が減り、風が、遮るものなく通り抜ける。


 道端では、子どもたちが木箱を積み上げて遊んでいた。遊ぶ、と呼ぶにはあまりにも不器用な動き。箱はすぐに崩れ落ち、彼らはまた黙々と積み直す。


 その足元には、雪解け水と泥が混ざった、小さな水たまり。


 濡れた靴のつま先から、きっと容赦なく冷えが這い上がっていくのだろう。


(これは……“物語の中の厳しい冬”ではなく、ここで生きている方々の“今日を越えるための冬”ですのね)


 幼い頃に読んだ物語の中で、冬は試練であり、劇的な転機であり、最後には必ず「春」というご褒美が約束されている季節だった。


 けれど今、窓の外で行き交う人々にとっての冬は、誰かが物語として綺麗に締めくくってくれるような章ではない。ただ、今日を生き延びて、明日も同じように寒さと付き合っていくための現実だ。


 胸の奥のどこかが、ひやりとする。


「お嬢様、風が入ります」


 向かいに座る侍女が、静かに声をかけた。リリアンヌははっとして、開いていた窓を少しだけ下ろし、カーテンをゆるやかに戻す。


「ごめんなさい。……少しだけ、見ていたくなってしまって」


「初めての街ですものね」


 ミラが、隣の席で身を乗り出すようにカーテンの隙間を覗き込んだ。庶民出身の彼女にとっても、ここは「別世界」らしい。瞳の色が、王都での軽口とは違う真剣さを帯びている。


 やがて、馬車が徐々に速度を落とした。


 窓の外の景色が、同じ場所で揺れ始める。停車だ。


「到着のようです、お嬢様」


 侍女の言葉に、リリアンヌは深く息を吸い込んだ。手袋の内側で指を軽く握りしめ、馬車の扉が開けられるのを待つ。


 軋む音と共に扉が開き、ひやりとした空気が一気に流れ込んできた。


 踏み出した一歩目で、石畳の冷たさが靴底越しに伝わる。王都の舗装よりも粗く、ところどころ欠けた石。その隙間に入り込んだ霜が、白く光っていた。


「ようこそお越しくださいました、エルンスト公爵令嬢殿」


 柔らかな、それでいてよく通る声がした。


 顔を向けると、そこには簡素な法衣をまとった人物が立っていた。中年の女性――肩まで伸びた灰色混じりの髪を後ろでひとまとめにし、深い皺の刻まれた瞳は、疲れと、それでも消えない強さの両方を宿している。


 事前に手紙でやりとりをしていた、孤児院長であり、この街の神殿を任されている神官だ。


 彼女は、寒風の中でも背筋を伸ばし、リリアンヌに向かって丁寧に一礼した。


「遠い道のりをお運びいただき、感謝申し上げます。……本日は、教会の客間をご用意しております。決して広くはございませんが、どうかおくつろぎいただけますよう」


「こちらこそ、お招きいただきありがとうございますわ」


 リリアンヌもスカートの裾をつまみ、礼を返す。王都で身につけた完璧な所作が、ここでは少しだけ場違いなほど、周囲の空気は質素で、切実だ。


「リリアンヌ様」


 後ろから、公爵家の紋章をつけた護衛騎士が、控えめに声をかける。周囲の視線を確かめ、警戒に抜かりがないことを示す合図だ。


 街の人々が、遠巻きにこちらを見ている。


 珍しいものを見るような好奇心と、「また貴族か」という諦めにも似た色とが、複雑に混ざった視線。


 リリアンヌは、その全てから目をそらさないようにと心に決めて、微笑を浮かべた。


「お世話になりますわ。――どうか、わたくしに、この街の冬を教えてくださいませ」


 神官は、わずかに目を細める。


 それは、王都でよく向けられた「期待」の視線とは違う。もっと慎重で、相手を測るようで、それでもどこかに「希望」の名残を含んだ目だった。


「……ええ。こちらへどうぞ」


 そう言って、彼女は教会の方角へ歩き出す。


 リリアンヌは、マントの前をしっかりと合わせ、冷たい風の中、その背を追った。


 この街の冬が、自分の想像していた「物語の冬」とは違うのだと、最初の一歩で告げられたままに。



孤児院は、街の石造りの家並みが途切れた、少し先にぽつんと建っていた。


 背の低い石壁。ところどころ違う色の石が嵌め込まれているのは、ひび割れを埋めた跡なのだろう。外壁をなぞるように伸びた白い筋は、冬の湿気と風が長年刻んできた傷のようにも見えた。


 軋む音を立てて、木の門が開く。


「こちらが、子どもたちの暮らす場所です」


 案内役の院長――先ほどの神官が、静かに言った。


 小さな中庭を挟んで、L字型に細長い建物が連なっている。庭の隅には、雪に半ば埋もれた木製のベンチと、割れた植木鉢。その横には、薪が乱雑に積まれていたが、山というにはあまりにも心細い量だった。


 リリアンヌは、思わずそこに目を留める。


(……これで、この冬を?)


 言葉には出さない。けれど、胸の内側で数字が弾かれていく。


 この街の寒さ、子どもの人数、薪の消費量。領地で見た冬の備蓄とは、比べ物にならない乏しさ。


 建物に入ると、鼻腔をくすぐる匂いが変わった。


 スープと干し魚の匂い。湿った布の匂い。それから――身体を寄せ合って眠る子どもたち特有の、あたたかいのにどこか乾ききらない、密度のある空気。


「こちらが食堂、あちらが寝室です」


 院長は淡々と説明を続ける。


 食堂と呼ばれた部屋には、長机が三つ。その周りに、背の低い椅子がぎゅうぎゅうに並んでいた。机の表面には無数の傷と、こぼしたスープの染みが残っている。


 壁際には、半分ほど空になった小さな樽。塩や穀物を入れているのだろう。蓋の隙間からのぞく量は、目に見えて少ない。


「今年は、例年より早く寒くなりましてね。秋の市で買い付けた分では、春までもたないかもしれません」


 院長の声は、嘆くでもなく、怒るでもない。ただ事実を述べる音だった。


「子どもたちの数も、増えています。周りの村から流れてくる者もいれば、親御さんを病や事故で亡くした者も。……この冬中に、さらに増えるかもしれません」


 視線を向けると、部屋の隅で丸くなっている小さな背中がいくつも見えた。


 こちらをじっと窺う瞳。興味と警戒が入り混じった、暗いビー玉のような目。


 リリアンヌと目が合うと、慌てたように視線を逸らす子どももいる。逆に、じっと見つめたまま瞬きすら忘れている子もいた。


 ミラが、横で小さく肩を竦める。


「……思ったより、ぎゅうぎゅうですね」


「ミラ」


 侍女がたしなめるように名を呼ぶが、ミラは唇を尖らせて続けた。


「いや、その。王都の孤児院も見たことありますけど、あっちはもう少し……余裕がある、っていうか。ここは……本当に、足りてない感じです」


 その言葉に、院長がふと目を細めた。


「ええ。こちらでは、“足りている”という言葉に、なかなか手が届きません」


 廊下を進み、別の扉が開かれる。


 そこは寝室だった。


 細長い部屋に、二段ベッドが隙間なく並んでいる。毛布は一人一枚――と言いたいところだが、ところどころで二人が一枚を分け合っている様子が見えた。毛布の端はすでに擦り切れ、ほころびを縫い合わせた跡が何度も重ねられている。


「夜は、子どもたちをなるべく同じベッドにまとめます。身体を寄せ合えば、少しは暖かいですから」


 院長は、ごく当たり前のことを言うように説明した。


「ですが、その分、ひとたび熱の出る病が入り込めば、あっという間です。昨年の冬は、それで何人か……」


 そこで言葉を切る。続きを言う代わりに、彼女は寝室の窓枠に触れた。


 隙間風を防ぐための布が、幾重にも巻かれている。その布の端にも、何度も繕った跡。


(増え続ける子どもの数。足りない薪。病が広まりやすい部屋)


 言葉で聞いていたはずの現実が、今、目の前の光景として重なり合う。匂いと、湿り気と、冷たさを伴って。


 リリアンヌは、無意識に胸元を押さえていた。


「……あの」


 ふと、彼女は侍女に目配せをした。侍女が頷き、小さな包みを差し出す。


 王都を発つ際に用意してきた、甘い焼き菓子の詰め合わせと、小ぶりな手袋やマフラーが入った包みだ。


「ささやかなものではありますが、子どもたちに――」


 言い終える前に、院長が一歩前に出た。


 その顔には、拒絶ではないが、困惑が滲んでいる。


「お気持ちは、とてもありがたく存じます」


 静かに、だがはっきりとした声音。


「ですが……今日だけ満たされても、明日、同じものがないと知れば、その落差が、かえって子どもたちの心を傷つけることもあります」


「……落差、が」


 リリアンヌの指先から、包みを包む布の感触がすべり落ちそうになる。


「飢えている時に一度だけご馳走を食べれば、舌はその味を覚えてしまう。けれど、明日からまた塩気の薄いスープに戻れば、その差を知った分だけ、今までよりもつらく感じる」


 院長は、遠くを見るような目で続けた。


「温かい手袋を一冬だけ使えば、次の冬、古い穴の空いた手袋に戻った時、指先の痛みは、前よりも鋭くなります。……それを知っていて、なお与えるのだという覚悟があるなら、私は止めません」


 リリアンヌは、言葉を失った。


 王都では、「今日を少しでも温かくする」ことは、迷いなく善だと教えられてきた。慈善茶会で配られる菓子も、孤児院への寄付の毛布も――どれも、あればあるだけ良いものだと。


(“今日を温かくすること”さえ、簡単にはできない……?)


 胸の中で、ひそやかな驚きが膨らんでいく。


 ミラが、腕を組んだまま、ぽつりと呟いた。


「まあ……そういうもんですよね」


 リリアンヌが思わず振り向くと、彼女は少しだけ気まずそうに笑った。


「うちの辺りでも、たまに“気まぐれな金持ちさん”がやってきて、お菓子配ってくれたりしましたけど。……ああいうの、もちろん嬉しいんですけどね。帰った後が、ちょっとキツいんですよ」


「キツい、とは?」


「周りの子が“また来てくれないかな”って言うの、聞きたくなくなるんです」


 ミラは、寝室の二段ベッドの梯子を指先で軽くつつきながら続けた。


「来年も来てくれる保証なんかないし。誰かの“いいことしたい欲”が満たされたあと、残されるのは、前よりちょっとだけ贅沢を知っちゃった口と、手と、期待だけで……」


 言いながら、自分で言い過ぎたかと思ったのか、言葉を飲み込んだ。


「でもまあ、だからって“何もしないほうがいい”って話でもないんですけどね。難しいところです」


 院長が、ふっと口元を和らげる。


「ええ。何もかも、難しいところなのです」


 その声は、ミラの言葉を責めるのではなく、肯定していた。


「一時の満足と、長く続くやりくり。その両方を考えながら、私たちは毎日、足りないものだらけの場所で、どうにかこうにか回しているのです」


 足りないものだらけ――その言葉が、重く落ちる。


 食料も、薪も、寝床も、薬も、布も。おそらくは、人手も。


 そしてきっと、「明日への見通し」も。


 リリアンヌは、そっと包みを抱え直した。


 今ここで開いてしまうことが、誰かの心にどれほどの影を落とすのか――まだ計りきれない。けれど、目の前の現実を知ってしまった以上、王都での“貴族の慈善”と同じ調子で配ることは、もうできない。


「……まずは、ここの暮らしを教えていただけますか」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


「子どもたちが何を食べて、どこで眠って、どんな時に笑って、どんな時に泣くのか。……そのうえで、わたくしにできることを、一緒に考えさせていただきたいのです」


 院長は、じっとリリアンヌを見つめた。


 その視線は試すようであり、同時に、どこか救いを求めるようでもあった。


「……分かりました」


 やがて、彼女は小さく頷いた。


「では、まずは一緒に、今日の昼食の準備から見ていただきましょう。足りないところを隠す暇もない、いちばん正直な時間ですから」


 外では、風がまたひとつ、木の葉を揺らす音を立てた。


 足りないものだらけの場所で。


 リリアンヌは、自分の中の「足りない理解」を、少しずつ埋めていかなければならないのだと、初めてはっきりと自覚した。


孤児院を出ると、空の色はすっかり鈍い鉛色に変わっていた。


 風が、王都よりもひとつ冷たく頬を撫でていく。吐き出した息は白く、すぐに風に千切れて消えた。


「少し、街の様子もご覧になりますか?」


 院長の申し出に、リリアンヌは静かに頷いた。


「はい。もし差し支えなければ……」


「ええ。ですが、あまり“貴族らしく”歩かれないほうがよろしいかもしれませんね」


 院長の口元が、僅かに苦く歪む。


「この街の者たちは、貴族という言葉に――あまり良い思い出を持っておりません」


 その忠告に従って、リリアンヌはマントのフードを深くかぶった。刺繍も宝石も、なるべく目立たないように。侍女も地味な外套を纏い、護衛騎士たちも紋章の入った上衣をマントで隠す。


 ミラはと言えば、いつもとさほど変わらぬ粗布のコート姿だ。冬の街に、よく馴染んでいる。


「じゃ、ちょっと“お嬢様感”は抑えめでお願いしますね」


「ミラ?」


「いや、目でバレますから。歩き方とか」


 からかうような囁きに、リリアンヌは苦笑を洩らした。


 孤児院から少し歩くと、共同井戸のある小さな広場に出た。


 石で縁取られた井戸のまわりには、あちこちから集めてきたような木桶や壺が並んでいる。女たちや年若い少年たちが順番を待ち、重い水を汲み上げては、肩や背に載せて帰っていく。


 井戸のそばの壁には、薄く雪が貼りついていた。誰かが何度も触ったのだろう、部分的に溶けて黒い手形のような跡が残っている。


「この井戸は、街の半分以上の家が使っているんです」


 院長が小声で説明する。


「冬の間は、湧きが弱くなる日も多くて……。朝から並んでも水を手に入れられない時もあります」


 リリアンヌは、列をなす人々の顔をじっと見つめた。


 頬を赤くして息を吐く幼い少年。腕の中で赤子をあやす若い母親。無言で桶を持ち上げる、痩せた肩の青年。


(領地でも井戸は見てきましたけれど……)


 そこにいたのは、もっと余裕のある顔つきの人々だった気がする。時間をかけて井戸端会議をしている婦人たち。子どもたちは、汲み上げられた水を見てはしゃいでいた。


 ここでは、笑い声はほとんど聞こえない。水を得ることそのものが、日々ぎりぎりの仕事の一つであるのだと、空気が語っていた。


「何人かに、お話を伺っても?」


 リリアンヌが問うと、院長は少し考えてから頷いた。


「構いません。ただ……」


 言い淀む前に、井戸端の女性の一人が、こちらをちらりと見た。


「……また、視察かい?」


 低く抑えた、けれどはっきりとした声。


 リリアンヌが振り向くより先に、その隣にいた年長の女が肩をすくめた。


「ほら言ったろ。こないだの役人が帰ったと思ったら、今度は別口さ」


「今度はどこのお偉方だかね」


 ひそひそ声ではない。わざと聞こえるように言っているのが分かる。


 リリアンヌは、一歩だけ彼女たちに近づき、裾を軽く摘んで会釈した。


「突然お邪魔してしまい、申し訳ございません。わたくしは――」


 名を告げようとした刹那、その隣で桶を抱えていた青年が、こちらを睨みつけた。


 まだ二十に届くかどうかの年頃。煤で黒くなった手、裂けた袖口。目だけが、冬の空のように鋭く光っている。


「名なんか、聞いてどうなる」


 吐き捨てるような声だった。


「どうせ“貴族様の立派なご報告”のためなんだろ? 俺たちがどれだけ寒くても、お前たちの冬は暖かいじゃないか」


 井戸端が、すっと静まり返る。


 院長が慌てて口を開きかけたが、その前にミラが一歩、にじり寄った。


「ちょっと――」


 彼女の腕が上がる。何か言い返そうとした気配を、リリアンヌは袖をそっとつまんで引き留めた。


 ミラが驚いたように振り返る。


「リリアンヌさん?」


「……いいえ」


 リリアンヌは首を振り、青年に向き直った。


「この言葉を、聞かねばならないのは、まずはわたくしですわ」


 青年の目が、一瞬だけ揺れた。


 それでも彼は、視線を逸らさない。


「今までも、何度か来たよ。王都から、偉い人たちが。役人だの、騎士団だの。きれいな服を着た連中が、帳面片手に“見てきました”って顔して帰って行った」


 井戸の縁に、桶を乱暴に置く音が響いた。


「その度に、何か変わったか? 薪が増えたか? 病気で死ぬ奴が減ったか? ……今年だって、冬の前からもう、ここはギリギリなんだ」


 吐く息が白く、悔しさまで可視化されているように見えた。


「あんたたちがここで何を見て、何を帳面に書き込むのか知らないけどさ。俺たちの暮らしなんか、どうでもいいくせに。どうせ、王都に帰れば、暖かい部屋で旨いもん食って、“可哀想な人たちのために頑張りました”って言うんだろ」


「それは――」


 ミラの喉の奥で、何かが音になりかける。怒りとも悔しさともつかない熱が伝わってくるのを、リリアンヌは袖越しに感じた。


(否定、したい)


 喉の奥で言葉が暴れる。


 わたくしは、そうではないと。あなた方の暮らしを、本当に案じているのだと。


 けれど、その言葉は、今この瞬間の自分の立ち位置を思い出した途端、喉奥で凍りついた。


 彼の言う通りだ、と理解してしまったからだ。


(わたくしの冬は――王都の暖かい部屋で、終えることができますわ)


 ここで数日、あるいは数週間を過ごしたとしても。


 この街の人々にとっては、生まれてから何度目かの、そしておそらくこれからも続いていく「毎年の冬」の一つでしかない。


 対して、自分にとってこれは――自ら選んで足を踏み入れた、「一度きりかもしれない自由の旅」。


 その非対称を、自分は分かっている。


「……そうですわね」


 リリアンヌは、ゆっくりと息を吸い、吐いた。


「あなたのおっしゃる通り、わたくしの冬は、ここにいる方々の冬とは違います」


 青年の眉が、ぴくりと動く。


 リリアンヌは、自分のマントの裾を握りしめた。布越しに、指先が微かに震えている。


「わたくしは、数日か、長くとも数週間で、この街を離れる身です。寒さが骨の芯まで染み込む前に、王都へ戻ることもできるでしょう」


 そこまで言い切ってから、ほんの少しだけ視線を落とす。


「だからこそ――わたくしは、この街の冬を、“物語の背景”としてではなく、ここで生きる皆さまの“今日を越えるための冬”として見に参りました」


 青年が、わずかに目を細めた。信じたわけでも、完全に拒絶したわけでもない、曖昧な揺らぎを含んだ表情。


「……言葉だけなら、いくらでも立派なことが言えるさ」


 吐き棄てる声に、先ほどほどの棘はなかった。代わりに滲んでいるのは、長く積もり続けてきた諦めだった。


「どうせ、すぐ帰るんだろ」


 そう言い残し、彼は桶を担いで背を向けた。


 その背中を、誰も引き留めない。井戸端の女たちも、目だけをこちらに向けて、何も口にしなかった。


 白い吐息が、いくつも空に溶けていく。


 しばらくして、ミラがぎゅっと握りしめた拳を解いた。


「……言い返したくなかったんですか」


 ぽつりとした問いに、リリアンヌは小さく首を振る。


「言い返すだけの言葉を、今のわたくしは持ち合わせておりませんもの」


 苦笑ともため息ともつかない息が洩れる。


「この街の方々から見れば、わたくしの“自由の旅”など――ほんの数日の、“お試しの冬”でしかありませんわ」


 王都の貴族令嬢が、少しばかり寒くて苦しい場所を覗いてみる。


 そこで何を感じて、どれほど心を揺らしたとしても。


 この街の人々にとっては、毎日の水汲みと、薪の残りと、次の食事までの時間のほうが、よほど切実だ。


「それでも、来たんですよね」


 ミラの声は、どこか拗ねたようで、それでいて優しかった。


「“お試し”でも何でも、来なかった貴族様たちよりは、ひとつだけ、違うと思います」


「ミラ……」


「まあ、こっから先、リリアンヌさんが何するかで、もう一段階違ってくるんでしょうけど」


 ミラはそう言って肩をすくめ、わざと軽い調子を装う。


 リリアンヌは、井戸の縁に視線を落とした。


 煤けた石。そこに残る、幾つもの手の跡。寒さと暮らしの重みが染み込んだ場所。


(わたくしは、“選ばれない自由”を選んで、王宮を離れました)


(その自由は――誰かの暮らしにとっては、ただの“数日だけ現れては消える、貴族様の影”でしかない)


 痛いほどの自覚が、胸に静かに沈んでいく。


 それでも。


(それでも、ここで耳を塞いでは……本当にただの“視察”で終わってしまいますわ)


 冷たい風が、マントの裾を揺らした。


 リリアンヌは、ほんの少し背筋を伸ばす。


 足元の石畳は硬く、冷たい。けれど、その上に立つ自分の足は、逃げ出す代わりに、そこに根を下ろすように力を込めていた。



 夜の街は、昼間よりもいっそう冷たく静かだった。


 教会の一室――客人用にあてがわれた小さな部屋には、丸机と椅子が四つ。机の上には、油をしみ込ませたランプが一つだけ灯っている。黄色い光の輪の中に、数枚の地図と、積み上げられた報告書、粗末な帳面が散らばっていた。


 窓の外には、遠く雪雲を含んだ空が張りついている。ガラスは白く曇り、外の気配をぼかしていた。


「では、改めて」


 院長が、静かな声で口を開いた。


 中年のその女性は、昼間と変わらぬ簡素な修道服姿だが、灯りに照らされた横顔には、疲労と、しかしそれ以上に揺るがぬ芯の強さが刻まれている。


「本日は、長旅の後にもかかわらず、子どもたちの様子を見てくださって、ありがとうございました」


「こちらこそ、案内していただき、感謝しておりますわ」


 リリアンヌは、椅子の背筋を正し、丁寧に頭を下げた。


 隣には公爵家から連れてきた侍女――クララが控えている。落ち着いた栗髪をきちんとまとめ、質素ながらよく手入れされたドレスにエプロンを重ねた、頼れるお姉さんといった風情だ。


 向かいにはミラが、机に頬杖をつきたい衝動をこらえるように、ややそわそわしながら座っている。


「まずは、今この街で起きていることを、もう一度整理しておきましょう」


 院長は、一番上の紙を指先でとん、と叩いた。


「先ほどお見せした孤児院の帳簿は、あくまで“ここにいる子どもたち”についての記録です。ですが、街全体で見ると――」


 その指が、隣の紙へと移る。


「冬ごとに、周辺の村から流れ込む人々が増えています。仕事を失った者、家を追われた者、今年の冬を越せないと悟った家族たち……。全員を受け入れる余裕は、残念ながら、この街にはありません」


「……流れ込む方々を、すべて孤児院で?」


「とても、無理です」


 院長は首を振った。


「この孤児院は、あくまで親のいない子どもたち、あるいは保護者の元に一時的に戻れない子どもたちを預かる場所です。ですが、現実には“親がいるのに、家に居場所のない子”や、“家族ごと路地に寝ている者たち”が増えています」


 ミラが眉をひそめる。


「家族ごと……?」


「ええ。王都で暮らしておられると、あまり想像しにくいでしょうが――この街の冬は、“誰かひとり”を救えば済む話ではないのです」


 ランプの炎が、院長の瞳に小さく揺れた。


「だからこそ、まずお話しておきたいのです。貴族の方々が“何かをしてくださる”ときに、よく起こるすれ違いについて」


 その言い方は、責めるというより、自分の喉にひっかかった棘を、慎重に取り出して見せるような響きを帯びていた。


「……“よく起こるすれ違い”?」


 リリアンヌが問い返すと、院長はゆっくり頷いた。


「はい」


 一枚の地図が、彼女の指先でこちらに回された。街の簡略な見取り図。その周囲に、小さな村の名前がいくつも書き込まれている。


「例えば――王都から物資を持ってきてくださる方は、これまでも何度かおられました。毛布や、保存食や、薬。どれも、本当にありがたいものです」


 言葉には、嘘のない感謝が乗っている。


「ですが、それを“どこに、どのように配るか”を、事前に私たちと相談してくださらなかった方も少なくありません」


 クララが、すっと姿勢を正した。


「それは……勝手に配られてしまう、ということでしょうか?」


「はい。“困っている人に渡せばいい”とおっしゃるのです。お気持ちは分かります。ですが、この街には、この街なりの“配り方の網”があります」


 院長は指で、地図の一点――孤児院の印を示す。


「孤児院、教会、街の施療院、そして市井の有志たち。それぞれがやりくりしながら、“一番危ない者たちから順に”支えるように、細い細い糸を繋いでいるのです」


 別の指が、地図のあちこちを軽くつついた。


「そこへ、王都式の善意が、“一時的な大波”になって押し寄せると、どうなるか」


 ミラが、腕を組み直した。


「ぶっちゃけた話、“善意の爆撃”が降ってきて、地元がぐちゃぐちゃになるパターン……少なくないらしいですよ」


「ミラ」


 クララが苦笑まじりにたしなめるが、院長は淡く微笑んだ。


「いえ、いい表現です。実際、その通りですから」


 リリアンヌは、膝の上で組んだ手に力を込めた。


「“善意の爆撃”……」


 言葉の響きは皮肉めいているのに、妙に胸に残った。


「例えば、ある冬に、ある貴族の方が大量の毛布とパンを持ってこられました。“好きなだけ持っていきなさい”と、広場で配られたそうです」


 院長の視線は、ランプの炎を透かして過去を見ているようだった。


「その日、広場には長い列ができました。いつもは孤児院すら訪れない顔ぶれも並びました。路地裏からも、人が出てきました。皆、その日だけは温かく眠れたでしょう」


「それは……良いことでは、ないのですか?」


 リリアンヌの問いに、院長は小さく首を振る。


「もちろん、その日だけを見れば“良いこと”です。ですが、その波が引いたあと――“こちらが、日々少しずつ配っていた毛布やパン”は、明らかに価値を失いました」


「価値、を……?」


「『あの貴族様は、あんなにたくさんくれたのに』『孤児院は、これしかくれないのか』と」


 院長は淡々と言う。


「比較は、どうしても生まれます。わたしたちの配給が“細く長く”続けるためのものだと説明しても、“昨日あれだけもらえた”記憶は消えません」


 ミラが、肩を落としてため息をついた。


「そりゃ、そうなりますよね……」


「その結果、どうなったか」


 院長は、机の上の帳面を指で叩いた。


「広場の配布会が終わった数日後から、孤児院の門を叩く人は減りました。“またそのうち、大きな波が来るかもしれない”と期待したのでしょうか。あるいは、“孤児院はケチだ”と噂になったのでしょうか」


 声に、ほんの少しだけ自嘲が混じる。


「ですが、次の大きな波は、結局来ませんでした」


 ランプの炎が、ぱち、と音を立てる。


「その冬の終わり――路地裏で凍えて亡くなった者は、例年よりも多かったと聞いています」


 リリアンヌの胸の奥で、何かがぎゅっと縮んだ。


 善意が、誰かを助けるどころか、別の誰かの首を静かに絞めてしまう。


 そんなことが、現実に起こり得るのだということを、自分は本当には理解していなかった。


「ですから」


 院長は、穏やかながらもはっきりとした声で続ける。


「こちらに来てくださったこと自体は、とてもありがたいのです。これだけの距離を、寒い中を、わざわざ。わたしたちは、そのお気持ちを決して軽んじているわけではありません」


 リリアンヌは、はっと顔を上げる。


 院長の瞳は、あくまでまっすぐだった。昼間の井戸端で浴びた、冷たい視線とは違う。ここには、期待も、慎重も、そしてかすかな希望も混じっている。


「ですが、“何をしてくださるか”を急いで決めるよりも――」


 一拍置き、言葉を選ぶように続けた。


「まずは、“何がここに既にあって、何が足りないのか”を見ていただきたいのです」


 クララが、静かに頷いた。


「お嬢様」


 彼女は、柔らかな声音でリリアンヌに向き直る。


「物事は、“持ち込む前に、聞き取る”ほうが、後々うまく運びます。王都でも、領地でも、それは同じでした」


「クララ……」


「王都の施策でも、似たようなことがありましたでしょう?」


 クララは、リリアンヌの視線を受け止めたまま続ける。


「書類の上では完璧な案でも、現場の声を聞かずに導入して、かえって混乱した例が。あの時、お嬢様は――まず“声を集めるところからやり直しましょう”と、おっしゃった」


 リリアンヌの脳裏に、以前の会議室の光景がよぎる。暖かな室内、整えられた資料。そこで、机の上の数字だけでは見えない現場の声を、集めなおそうと提案した自分。


(わたくし、あの時は……)


 「机の上だけの正しさ」に、疑問を持てていた。


 なのに今、自分は――。


「ぶっちゃけた話」


 ミラが、気まずそうに頭をかきながら口を挟んだ。


「王都から“善意の爆撃”が降ってきて、地元がぐちゃぐちゃになるパターン、少なくないらしいですよ。うちの近所でも聞きました」


 リリアンヌとクララ、そして院長の視線が、一斉にミラに向く。


 ミラは肩をすくめた。


「食糧配るにしても、毛布配るにしても、そこまでの“線路”が現地にはもうあるのに、上からでっかい運搬車が突っ込んできて線路ぶっ壊す、みたいな」


「線路……?」


「ええと、“流通の道筋”ってやつです。あと、地元の商売とか、顔なじみの助け合いのバランスとか」


 ミラは、指で机の上に線を描くしぐさをした。


「そこに、王都の偉い人がドーンって大量のタダの物資流すと、“買ってくれてた客”がそっちに行っちゃって、地元の店が潰れたりとか。“タダでくれる人がいる”って噂だけ残って、“いつかまた降ってくるかも”って期待だけ増えたりとか」


「……そんなことまで」


 リリアンヌの声は、思わず小さく漏れた。


 善意が、誰かの商いを壊し、日々の暮らしを歪める。


 頭では、そういう話を耳にしたことがなかったわけではない。だが、目の前で院長やミラの言葉として語られると、その重みはまったく違って感じられた。


「だから、ってわけじゃないですけど」


 ミラは組んだ腕の隙間から、じっとリリアンヌを見た。


「ここで何かするにしても、“まず話聞かないと”って、うちの親父も言ってました。酒場でも孤児院でも、現場はだいたいそういうもんですよ」


「……そうですわね」


 リリアンヌは、膝の上で絡めた指を、ぎゅっと握りしめる。


「わたくしは」


 言いかけて、喉が少し詰まる。


 深く息を吸い、吐いてから、もう一度。


「わたくしは、“善意であれば何をしても許される”と、どこかで思っていたのかもしれませんわね」


 その告白に、部屋の空気が少しだけ動いた。


 院長は驚かなかった。ただ、静かに頷いた。


「それは、とても正直なお言葉です」


 クララも、小さく目を細める。


 ミラは、照れ隠しのように頬をかいた。


「“いいことしたいんだから、細かいことはいいでしょ”ってやつ、ですよね。……正直、私も思ってました。ここ来るまでは」


 リリアンヌの胸の内で、もうひとつの声が、そっと囁いた。


(“自由でいたい”と願ったわたくしが――)


(今度は、“善意という名の我儘”で、誰かを振り回すところでしたのね)


 王太子の「正しさ」に縛られたくないと、あれほど願っていた自分。


 その自分が、いつの間にか「自分の正しさと善意」で、誰かを押し流そうとしていた。


 気づいてしまえば、その構図はあまりにも皮肉で、笑ってしまいたくなるほどだ。


 だが、笑いは喉の奥で渇いて消えた。代わりに、胸の奥に小さな灯がともる感覚だけが残る。


「……ありがとうございます」


 リリアンヌは、院長とクララ、そしてミラを順に見渡した。


「わたくしは、ここへ“何かをして差しあげるために”来たつもりでおりました」


 言葉を一つ一つ噛みしめるように続ける。


「ですが、それでは――また、王都で見聞きした“正しさ”で、この街を塗りつぶしてしまうところでしたわ」


 ランプの炎が、小さな影を机の上に揺らす。


「ですから、まずは」


 リリアンヌは、そっと胸に手を当てた。


「何を持ち込むかではなく、何を聞き取るかから始めさせてくださいませ」


 院長の瞳に、わずかな驚きと、その奥に深い安堵が浮かんだ。


「……それは、とても嬉しいお申し出です」


 彼女は、静かに頭を下げる。


「この街には、すでに小さな工夫や、ささやかな助け合いが、至るところにあります。ですが、それは外からは見えにくいものでもあります」


「だからこそ、“見つけてくださる方”が必要なのです」


 クララも、淡く微笑んだ。


「お嬢様なら、きっと見つけられます。数字だけではなく、人の声を」


 ミラが、にやりと笑う。


「じゃあ、明日から“聞き取り旅”スタートですね。井戸端、酒場、パン屋、薪屋、孤児院の台所――ぜんぶ聞き込み対象で」


「ミラ。酒場は、ほどほどにしてくださいね」


「いやいや、ああいうところの噂話が一番生々しいんですよ、クララさん」


 軽口が交わされ、部屋の空気が少しだけ和らいだ。


 リリアンヌは、そのやりとりを聞きながら、胸の内の灯を確かめるように目を閉じた。


(“王宮の中で自由でいたい”と願ったあの日から――)


(わたくしの“自由”は、ずっと、わたくし一人のためのものではなかったはずですわ)


 誰かに選ばれるための飾りではなく、自分の足で選ぶための自由。


 ならば、その自由で最初にすべきことは、「自分のしたいこと」を押し通すことではなく。


 ここに生きる人々の声を、正確に聞き取ることなのだろう。


「……明日から、どうか、色々と教えてくださいませ」


 リリアンヌは改めて、院長に向き直って頭を下げた。


「この街に、すでにあるものを。“足りないもの”だけでなく、“守られているもの”も含めて」


 院長の目元に、初めて柔らかな笑みが宿る。


「喜んで」


 その一言が、油ランプの光よりも温かく、部屋の隅々にまで広がっていくようだった。


翌朝の空気は、王都よりも一段冷たかった。


 孤児院の裏庭は、表の玄関とは違い、少しばかり雑然としている。割れた桶が伏せられ、薪小屋の屋根には薄く霜がこびりつき、吐く息は白く立ちのぼる。


 その白い息の中で、リリアンヌは両手に薪を抱えていた。


 旅装の上に、さらに古びた外套を重ねている。院長が「汚れてもよいものを」と貸してくれたものだ。裾はところどころ擦り切れ、袖口もほつれているが、そのぶん厚手で暖かい。


「……思っていたより、重いですわね」


 小さく漏れた呟きは、誰に聞かせるでもなく、白い霧になって消えた。


 細く割った薪を束ねたものを、物置脇の棚に積み上げていく。王都の学院での体育の授業や、領地視察での歩き回りで多少は体力がついたとはいえ、慣れない仕事に腕がじんと痺れる。


「無理なさらず、少しずつでよろしいのですよ」


 近くで古い工具を整えていたクララが、気遣わしげに声をかけてくる。


「いいえ。これくらいは、させてくださいませ。昨日、“まずは聞き取るところから始める”と申し上げたのですもの。聞くだけでなく、見て、触れておきたいのです」


 リリアンヌは微笑んで、もう一束、薪に手を伸ばした。


 そのときだった。


「……ねえ」


 背中のほうから、ぽつりと声がした。


 幼いと言うには少し低く、けれど大人と言うにはまだ頼りない声色。


 リリアンヌが振り向くと、薪小屋の陰から、一人の少年が立っていた。


 年の頃は、十か十二か。そのあたりだろう。痩せ型で、少し大きめのコートを羽織っている。袖口からのぞく手首は細く、指先はあかぎれで赤くなっていた。


 だが何より目を引くのは、その瞳だった。


 黒とも茶ともつかない、暗い色の瞳が、じっとこちらを見ている。好奇心もある。けれど、それ以上に「どこか一歩引いた醒めた色」が混じっていた。


「……おはようございます」


 リリアンヌが、まず挨拶をする。


 少年は一瞬きょとんとしたが、すぐに視線をそらすでもなく、じっと彼女を見つめ返した。


「どうして」


 唐突に、彼は言った。


「どうして、ここにいるの?」


 言葉はまっすぐだった。


 遠慮も飾りもない。


「貴族様なら、暖かいところで本でも読んでればいいのに」


 その言い方に、嘲りの色は薄い。どちらかと言えば、「不思議で仕方がない」という本音がにじんでいる。


 だけど、その奥には「大人の善意」を斜めから見てきた子どもならではの、諦めにも似た警戒がうっすらと見えた。


(……また、“どうせすぐ帰るお偉方”だと思われているのですわね)


 昨日、井戸端で浴びた視線が、リリアンヌの胸によみがえる。


 そして、少年の問いに――かつてなら胸を張って口にしていたであろう言葉が、喉の奥でふっと消えた。


 「王妃候補としての視察です」


 そう名乗ることは、もうできない。


(それを口にした瞬間、わたくしはまた“誰かの物語の飾り”に戻ってしまう)


 リリアンヌは、ゆっくりと息を吸い込んだ。


 冷たい空気が胸の奥まで入り込んで、少しだけ痛い。


「……そうですわね」


 薪を抱えたまま、彼女は少年に向き直った。


 真剣な瞳で、目線の高さを合わせるように膝をわずかに折る。


「“そうしていてもよい立場”では、あるのかもしれません」


 暖かな部屋で、本を読むだけの日々。


 王都であれば、それはきっと簡単に手に入る日常だ。


「大きな屋敷の暖炉のそばで、分厚い毛布にくるまって、冬の日をやり過ごすこともできましょう」


 リリアンヌは微笑んだ。けれど、その笑みには、自嘲の色が少し混じった。


「けれど、それでは――」


 一拍置き、言葉を選ぶ。


「“わたくし自身が見たいもの”を、見ずに終わってしまいますの」


 少年の眉が、わずかに動いた。


「……見たいもの?」


 その問いには、純粋な好奇心が宿っていた。先ほどまでの醒めた色が、ほんの少し薄れる。


 リリアンヌは、腕に抱えた薪を静かに棚に置いた。


 手袋を外し、冷たい空気に晒された指先を一度ぎゅっと握りしめる。白くなった指の節が、かすかに痛んだ。


 それから、慎重に言葉を紡ぎはじめる。


「ええ。見たいものですわ」


 彼女は、少年の視線をまっすぐ受け止める。


「王都の暖かな灯りからは、こぼれ落ちてしまう“誰かの冬”を――」


 昨日、馬車の窓から見た、煤けた屋根と薄い雪。


 孤児院の薄い毛布の列。


 院長の帳簿の数字と、路地裏で肩を寄せ合う影たち。


 その一つ一つが、リリアンヌの中で重なっていく。


「わたくしは、それを自分の目で見ておきたいのです」


 少年は、じっと黙っていた。


 その沈黙を、リリアンヌは急いで埋めようとはしない。


 言葉を続ける前に、ほんの少し息を整える。


「それが――」


 胸に手を当てた。薄い外套越しに、自分の鼓動がわずかに早くなっているのが分かる。


「それが、わたくしが“自由でありたい”と願ったときに」


 あの日、王宮の一室で告げた「ありがとう。でも、わたくしは自由でいたいのです」という言葉が、心の奥で静かに響く。


「本当に抱え込むべき責任が、どこにあるのかを知るために、です」


 少年のまつげが、ぴくりと震えた。


「責任……?」


「ええ」


 リリアンヌは頷く。


「“自由でいたい”と願ったわたくしが、本当に何の責任も持たずに済むのだとしたら――それはきっと、どこかで誰かに負担を押しつけているのだろうと思いましたの」


 院長の言葉、クララの助言、ミラの皮肉混じりの警句。


 それらが、昨夜からずっと胸の中で反響していた。


「だからこそ、一度、見に来たかったのですわ」


 声が、少しだけ強くなる。


「わたくしの知らない土地の冬を。わたくしの知らない名前の人たちの暮らしを」


「王都の暖かい部屋では、書類の上の数字でしかなかった“誰かの冬”を、本当に、“ここにあるもの”として知るために」


 少年の瞳から、さっきまでの「斜めから見ている色」が、ほんの少しだけ薄れたように見えた。


 それでもなお、彼は完全には納得していないらしい。わずかに首をかしげ、靴先で地面の霜をかりかりと削った。


「……わかんない」


 しばらく考え込んだ末に、彼は正直な感想を口にした。


「わかんないけど」


 視線が、もう一度だけリリアンヌの顔に戻る。


「でも、そんなこと言う貴族様は……あんまり見たことない」


 それは、褒め言葉でもなく、完全な不信でもない。


 ただの、事実の報告。


 けれど、その一言が、なぜかリリアンヌの胸を温かくした。


「そうですの?」


「うん」


 少年は、ふいと視線をそらして肩をすくめた。


「だいたい、“見てやる”“助けてやる”って顔して来て、ちょっと歩いて、紙に何か書いて、偉そうな人と話して、帰ってく」


 言葉の端々に、幼さと苦さが入り混じる。


「だから、またそういうのかと思ってたけど……」


 そこまで言って、彼は口を閉ざした。


 口籠もった続きの言葉は、結局、最後まで言葉にならない。


 代わりに、「ふうん」と鼻の奥で短く息を鳴らし、小さく背伸びをした。


「まあ、いいや」


 くるりと踵を返し、数歩だけ歩いてから、ちらりと振り返る。


「薪、重いなら、紐でくくって引っ張ったほうが楽だよ」


「紐……?」


「あっちの角の箱の中にあるやつ。昨日、僕がまとめておいたから」


 指さした先には、確かに古い縄が何本か丸めてある。


 リリアンヌが目を瞬かせている間に、少年はまた視線を逸らした。


「じゃあ」


 それだけ言って、今度こそ裏庭の隅のほうへと歩いていく。


 物置の影を抜け、その先の小さな門をくぐり、どこかへ姿を消した。


 残された冷たい空気の中で、リリアンヌはしばらくその背中を見送っていた。


「お嬢様」


 そっと近づいてきたクララが、問いかけるように声を落とす。


「先ほどの少年は……」


「孤児院の子でしょうか?」


「ええ。昨日の名簿に、似た年頃の子の名前がありました。……少々、人との距離を測るのが難しい子だと、院長がおっしゃっていた気がします」


「そう、でしたのね」


 リリアンヌは、少年が消えていった門のほうをもう一度見やる。


 薪小屋のそばには、彼の小さな足跡が残っていた。霜を踏みしめたその跡は、すぐに消えてしまいそうなくらいに頼りない。


(“どうして、ここにいるの?”)


 さっき投げかけられた言葉が、耳の奥でまた響く。


 問いかけられた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。


(かつてのわたくしなら――きっと、別の答えを口にしていたでしょうね)


 「公爵家の娘として」


 「王妃候補として」


 「視察のために」


 どれも、間違いではないかもしれない。


 けれど、それだけを答えとするには、あまりにも足りない。


(今のわたくしは――)


 自分自身に向けて、改めて問いを重ねる。


(本当に“ここにいる理由”を、少しずつでも言葉にしていかなければならないのですわ)


 暖かい屋敷の窓から見下ろす冬ではなく。


 馬車の中から眺めるだけの雪景色でもなく。


 この地に吹く風の冷たさと、薪の重さと、子どもたちの視線の刺さり方を、肌で知ったうえで。


 そのうえで、自分の「自由」と「責任」を選び取る。


 それが、この旅で自分が果たすべきことなのだと――少年の、真っ直ぐすぎる問いかけが、静かに教えてくれた気がした。


「……まずは、紐を借りしてまいりますわね」


 リリアンヌは、ふっと微笑んだ。


「せっかく、教えていただきましたもの。無駄にはできませんわ」


 クララも、口元に柔らかな笑みを浮かべる。


「はい、お嬢様」


 リリアンヌは、少年の示した箱のもとへ歩き出した。


 冷たい空気の中、その足取りは、初めてこの街に足を踏み入れた昨日よりも、ほんの少しだけ、確かな重みを帯びていた。



 昼下がりの孤児院は、外気ほどには寒くなかった。


 石造りの建物の奥まった台所には、小さな窓から淡い光が差し込んでいる。煮込み鍋から立ち上る湯気が、油煙と混ざり合って、ほのかに温かい匂いを漂わせていた。


「では――まずは、数を把握いたしましょう」


 リリアンヌは、粗末な木のテーブルに広げた紙に、ペン先を乗せた。


 その隣には、院長とクララ、向かい側には腕を組んだミラが腰かけている。


「足りないものと、余っているもの。両方を並べてみたいのです」


「足りないもの、ですか」


 院長は少し考え込み、指折り数えるように口を開いた。


「ベッドが、まず足りません。子どもの数に対して、八つほど少ない。今は、交代で寝ている子もおります」


「交代で……」


 リリアンヌのペン先が、紙の上で止まる。


「それから、毛布は数だけならあるのですが……」


 院長は苦笑混じりに肩をすくめた。


「古いものばかりで、もう何度も繕っていて。洗濯も、井戸水で手洗いするしかありませんから、どうしても乾きが悪く、衛生的とは言いがたいのです」


「洗濯設備、ですね」


 クララが、横から落ち着いた筆致で「洗い場・乾かし場の不足」とメモを添えていく。


「他には?」


「薪も、ぎりぎりです。今のままの使い方では、真冬まで持たないかもしれません」


「ベッド、毛布、薪……」


 リリアンヌは、眉根を寄せながら、列を作るように書き連ねた。


 対して、「余っているものは?」と尋ねると、院長は少し首をかしげる。


「……余っているもの、ですか?」


「はい。この孤児院の中で、あるいは街全体を含めてで構いませんわ」


「そう言われましても……この街では、余っているものなど」


 言いかけた院長の言葉に、ミラが「いやいや」と軽く手を振った。


「“いらないもの”“売り物にならないもの”なら、けっこうあると思いますよ」


 リリアンヌと院長が、同時に彼女を見る。


「どういう意味かしら?」


「さっき、ちょっと街の人に聞いてみたんです」


 ミラは得意げに胸を張った。


「うち、庶民ネットワーク(笑)だけは広いんで」


「庶民ネットワーク……?」


 リリアンヌは思わずくすりとし、すぐに真顔に戻る。


「たとえば、布屋のご主人」


 ミラは指を一本立てる。


「売り物にはならない端切れが、倉庫の隅に山になってるらしいです。色も厚みもまちまちで、そのままじゃ商品にはならないけど、“タダで捨てるには惜しい”ってやつ」


「端布……」


「それから、防寒具屋」


 二本目の指が立つ。


「去年の型落ちで、ちょっと縫い目が甘いマフラーや手袋。正価では売れないから、値を付けるのも困る。でも、置き場ばっかり取るって、ため息ついてました」


「そんなものが、あるのですね……」


 院長が、半ば驚いたように呟く。


「ええ、まだ他にも。椅子としては出せないガタついた家具とか、板が一枚割れた木箱とか。街の人たちからすれば“いつか何かに使えるかも”って取ってあるけど、結局ただの荷物になってるもの、いろいろありますよ」


 ミラはテーブルに身を乗り出した。


「そういう“余って困ってるもの”と、この孤児院の“足りないもの”を、何とかうまく組み合わせられないかなー、って」


 リリアンヌの胸に、小さな灯がともる感覚がした。


(足りないもの、余っているもの――)


 紙の上の文字が、急に別の意味を帯びて見えてくる。


「お嬢様」


 クララが、静かに口を開いた。


「端布がたくさんあるなら、それを繋ぎ合わせて、子どもたちの手袋やマフラーに仕立て直すこともできるかもしれません」


「縫い物なら、年長の子たちの手伝いも得られましょう」


 院長も頷く。


「壊れかけの椅子や木箱は、板を張り替えれば、簡易ベッドの土台に使えるかもしれません。高さを少し出すだけでも、冷たい床に直接寝るよりはずっとましです」


「そうなれば――」


 リリアンヌのペンが、すべるように紙の上を走る。


「“買い取る”だけではなく、“直す仕事”“作る仕事”も生まれますわね」


 端布 → 手袋・マフラー

 壊れ家具 → 簡易ベッド・棚

 古い毛布 → 洗浄・縫い直しの作業


 紙の上で、矢印がいくつも交差していく。


「孤児院が、ただ物資を受け取るだけの場所ではなくて」


 言葉を重ねながら、リリアンヌ自身も頭の中で組み立てていく。


「街で“扱いに困っているもの”を、一度ここに受け入れて――」


「必要な手をかけて、別の形で街に返す」


 クララが、補うように続けた。


「たとえば、簡易ベッドをいくつか作って、夜だけ身を寄せる大人の方に貸し出すこともできますね。ほんの少しの銅貨でもいただければ、そのお金で灯油を買うこともできるかもしれません」


「……ですが」


 院長は慎重な面持ちで、両手を組む。


「それを、すぐに大々的に始めるのは危ういでしょう。人手も場所も限られております。まずは、小さなところから試すべきかと」


「ええ、そのつもりですわ」


 リリアンヌは、しっかりと頷いた。


「わたくしは、“この街すべてを変える約束”など、とてもできませんもの」


 ペンを置き、両手を膝の上で組み直す。


 視線を、院長とミラとクララ、一人一人の顔に向ける。


「ですが――」


 言葉が、自然と強さを帯びる。


「“この冬を越えるための一片”を、一緒に探すことなら、きっとできますわ」


 その一片は、小さすぎて、王宮の地図には載らないかもしれない。


 政策の書類の端にも、名前は残らないかもしれない。


 それでも。


「たとえば、この孤児院の子どもたちが、今年の冬、足先の痛みに怯えずに眠れるようになること」


「あるいは、古布から作ったマフラー一本で、通りを歩く子の頬に、少しでも血の色が戻ること」


 リリアンヌは、胸に手を当てる。


「そんな小さな変化なら――今、この場からでも、きっと始められます」


 院長の表情が、ゆっくりとほどけた。


「……貴女様は」


 彼女は、柔らかく目を細める。


「“冬を案じる令嬢”という話だけの方では、なかったのですね」


「お話だけでしたら、もっと上手にできたかもしれませんわ」


 リリアンヌは、少し照れくさそうに笑う。


「ですが今は、話をするだけでなく、手も動かしてみたいのです」


「わたくしが、ここにいる理由を――“言葉”ではなく、“この冬の景色”に残しておきたいから」


 ミラが椅子の背にもたれ、ふっと口笛を鳴らした。


「……ね、やっぱり来てよかったでしょ」


「ミラ?」


「だってさ」


 ミラは、窓の外を親指で指し示す。


「王都の暖かい部屋で“もっとよい政策を”って言ってるリリアンヌさんも、それはそれで立派だけど」


「こうやって、端布の山とにらめっこしながら“じゃあ、これをどうする?”って考えてるリリアンヌさんのほうが――」


 にっと笑って、続けた。


「……なんか、ずっと楽しそうですよ」


「楽しい、ですって?」


 リリアンヌは思わず目を瞬かせる。


 楽しい、という言葉を、自分のこの感情に当てはめたことはなかった。


 けれど――


(たしかに)


 胸の内で、何かが静かに頷いた。


 不安も、迷いも、責任の重さも、もちろんある。


 けれど、紙の上で矢印を引きながら、小さな可能性を探っていくこの時間は――


(息苦しい“義務”だけではありませんわね)


 気づけば、頬がほんの少しだけ熱くなっていた。


「……そうかもしれませんわ」


 リリアンヌは、照れ隠しのように咳払いをひとつした。


「では、まずは――端布と、型落ちの防寒具から、お願いできますかしら?」


「了解です」


 ミラは勢いよく椅子から立ち上がる。


「庶民ネットワーク(笑)、本気出しますね」


「(……括弧笑いを口に出しておられる……)」


 クララが小さく肩をすくめたが、その口元にも笑みが浮かんでいた。


「わたくしのほうは、壊れかけの家具が置いてあるという倉庫を、商人の方に見せていただけないか交渉いたします」


 クララがきびきびと段取りを口にする。


「お嬢様は、院長様とご一緒に、ここで必要なものの優先順位をもう少し詰めておいてくださいませ。ベッドなのか、服なのか、それとも洗い場なのか」


「わかりましたわ」


 リリアンヌはこくりと頷いた。


 紙の上の「足りないもの」「余っているもの」の列を見下ろすと、さっきまで真っ黒な文字の羅列にしか見えなかったそれが、小さな道筋に見えてくる。


 端布の山。

 壊れた椅子。

 古い毛布。


 どれも、王宮の倉庫なら、ただ「不要物」として片付けられてしまうだろうものたち。


(けれど――)


 それらを組み合わせ、繕い、洗い、作り変えることで、生まれ変わらせることができるのなら。


(それは、きっと“わたくしにしかできないこと”ではありませんわ)


 誰か一人の英雄譚ではなく。


 街に住む人々と、この孤児院と、わたくしたちとで、一緒に紡いでいく小さな物語。


(だからこそ――今、ここから始められるのです)


 リリアンヌはペンを取り直した。


「では、まずは――ベッドと毛布、どちらを優先すべきか、改めて整理いたしましょう」


「はい」


 院長が頷き、彼女の隣に椅子を引き寄せる。


 窓の外では、薄い雲の切れ間から、わずかな陽光が差し込んでいた。


 それは決して強い光ではない。


 けれど、台所の粗末なテーブルの上に広げられた紙と、そこに生まれつつある小さな矢印たちを、静かに照らしていた。


 大きな政策ではない。


 世界を一度に変えるような魔法でもない。


 ただ――この冬を、ほんの少しだけましなものにするための、一歩。


 リリアンヌは、その一歩を、自分の手で書き込みながら、心の中でそっと呟いた。


(“自由でいたい”と願ったわたくしが)


(今、こうして“この場で変えられる一歩”を選んでいる――)


(その事実を、決して見失わないように、歩いていきましょう)



 夜の冷え込みは、石造りの建物の壁をじわじわと伝って、客間の空気に染み込んでくる。


 小さなランプがひとつ。

 その灯りに照らされて、机の上には数枚の紙と、よく使い込まれたペン。


 リリアンヌは肩にショールを掛け直し、深く息を吸ってから、最初の一行を書き出した。


『○○地方都市孤児院 冬季状況報告』


 形式ばった書き出しに、少しだけ自分で苦笑する。


(……少なくとも、“視察は有意義でした”などという曖昧な言葉で終えるつもりはありませんわ)


 横には、昼間に院長とまとめた簡単な一覧表が広げられている。


 子どもの人数。

 年齢ごとの大まかな内訳。

 一日に必要な食糧量の目安。

 現在の備蓄と、そこから逆算される「不足見込み」。

 この一月の平均気温と、風の強い日の体感の冷え込み。


 ペン先は、そこから拾い上げるように、淡々と紙の上を滑っていく。


『孤児院登録児童数:三十七名(うち五歳以下が十一名)

 簡易ベッド数:二十九。交代で休ませている実情あり。

 毛布:枚数は充足しているが、多くが老朽化しており、保温性と衛生面に課題。

 冬季の平均気温は、王都より体感で二〜三度低いとのこと……』


 数字を書き込む手つきは、どこか無機質にも見える。


 けれど、行間に浮かぶのは、昼間見た光景だ。


 床に敷かれた古い毛布の上で、丸くなって眠っていた小さな背中。

 端布を抱えて、「これで本当に温かくなるのか」と不安そうに見上げていた少年の目。


(数字だけでは、伝えきれないものもたくさんありますわね)


 それでも、数字でなければ届かない場所があることも、リリアンヌは知っていた。


 王宮の議場。

 公爵家の会議室。


 そこでは、感情の揺れよりも、まず「どれだけ・何が・どのくらい足りないか」が問われる。


(ならば――せめて、その数字が“この子たちの息づかいから離れたもの”にならないように)


 リリアンヌは、筆の向きを少し変えた。


『現地の院長、および街の住人からの聞き取りより、以下を補足する。』


 そこから先は、昼間、共同井戸や市場で耳にした言葉たちを、できるだけそのままの温度で書き留めていく。


『一部住民より、「貴族による視察は、過去にもあったが、冬の暮らしが楽になった実感は少ない」との声あり。


 「報告用の質問には答えたが、その後も薪の値段は上がるばかりだった」

 「寒さに震える子どもたちを前に、“検討する”と言われても、今夜の火は起こせない」等の意見が聞かれた。』


 ペン先が、そこで一度止まる。


 思い出すのは、あの青年の、刺すような言葉。


『どうせ“貴族様の立派なご報告”のためなんだろ?』


(あの方の言葉も――どこかで、誰かが読めるように)


 短く息を吐き、リリアンヌはそっと書き足した。


『貴族への不信感は、小さくない。

 ただし、それは貴族という身分そのものより、「言葉だけを置いていき、生活の実感に結びつかない介入」への失望に起因している印象を受ける。』


 書きながら、自分でも苦くなる。


(わたくしも、あの方々から見れば、その中の一人でしかありませんわね)


 ペンを置き、指先でこめかみを揉んだ。


 ランプの火が、心許なげに揺れる。


 机に突っ伏したくなる衝動を、ぐっと飲み込んだ。


(ここに、“立派な言葉”を並べることはいくらでもできますわ)


 「心を痛めました」「改善の必要性を痛感しております」――そんな言い回しは、いくらでも書ける。


 けれど、それはきっと。


(“王妃候補として立派に見える報告”にはなっても)


 視線を、紙の上に戻す。


(“ここで生きる方々の明日の選択を、少しでもましなものにするための材料”には、なりません)


 自分で自分に言い聞かせるように、ゆっくりとした字で書き込んだ。


『本報告は、「視察の成果」を飾るためのものではなく、

 当該地域に対する今後の支援・施策検討のための、一次資料として扱われることを望む。』


 そこまで書いて、思わず苦笑が漏れる。


「……少々、生意気かしら」


 王宮の高官たちが読めば、眉をひそめるかもしれない。


 けれど、それでも――


(“こうあらねばならない報告書”を書くために、ここまで来たのではありませんもの)


 ペンを持ち直し、今度は紙の端に、小さく欄を設ける。


『現時点での提案(案)』


 そこに、今日、皆で話し合った「小さな一歩」たちを書き連ねていった。


・街の端布や型落ち品を孤児院で一時的に受け入れ、手袋・マフラー・簡易ベッドへの再加工を行う試み。

・簡易ベッドの貸し出しと、灯油購入のための少額収入の仕組み。

・洗濯と乾燥に特化した小さな「洗い場」を設ける案(井戸水の使用許可・場所の調整が必要)。


『いずれも、現場の負担・人手を考慮しつつ、小規模に試行する段階にある。

 王都からの支援がある場合、「物資の一括送付」だけでなく、継続的に使える設備(洗い場や屋根付きの干し場等)への投資が望ましい。』


 自分の字が、少しずつ熱を帯びていくのを感じる。


 それは、感情に任せた筆の勢いではなく――


(ここで見たものを、“言葉にして渡す責任”)


 その重みが、ペン先に乗っていく感覚だった。


 最後の一行を書き終えたとき、紙の端には小さなインクの染みがいくつか落ちていた。


「……ふぅ」


 リリアンヌは姿勢を崩さぬように、そっと背もたれに身を預ける。


 窓の外を見やれば、夜はすっかり深くなっていた。黒い空の向こうに、王都の灯りは見えない。


(この報告が、あの遠い灯りの下まで届いたとき)


(読んだ誰かが、“来年の冬のために何ができるか”を考えるきっかけになれば――)


 それだけで、この夜に費やした時間は、きっと無駄にはならない。


 そう自分に言い聞かせて、机の上を片付けようとしたときだった。


 視線が、空白の一枚に止まる。


(……アルベルト様への報告は)


 形式としては、いま書いた報告書が回るだろう。


 王太子として、彼も目を通すに違いない。


 それなら、わざわざ私信を書く必要はない――そう言い聞かせることもできる。


 けれど、胸のどこかが、静かに疼いた。


(あの方は、“王妃候補としてのわたくし”ではなく)


(“わたくし自身”が、何を見て、何を感じているのかを――知ろうとした人でした)


 ランプの火が、ふっと揺れる。


 リリアンヌは迷いを抱えたまま、そっと新しい紙を引き寄せた。


 あれほど迷っていたのに、書き出しの言葉はすぐに浮かんできた。


『アルベルト様』


 そこで一度、ペンが止まる。


 “殿下”ではなく、“アルベルト様”。


 この呼び方で手紙を書くことに、まだ少しの照れと、くすぐったさが混ざる。


(長く書き連ねるのは、違いますわね)


 これは、報告書ではない。

 昔のように、感情だけをぶつけたいわけでもない。


(今のわたくしが、どこに立っているのか。ほんの少しだけ――)


 迷いをそのまま抱えたまま、短い一文を綴った。


『こちらの街にて、日々、冬の在りようを見ております。

 わたくしが“自由でいたい”と願った意味を、今、この街の冬の中で、少しだけ理解し始めております。』


 それ以上、言葉が続かなかった。


 謝罪も、言い訳も、感傷も――

 書こうと思えば、いくらでも書けた。


 けれど、それらを添えてしまえば、この一文が曇ってしまう気がした。


「……これで、よろしいですわ」


 小さく呟き、封をする。


 王宮宛の正式な報告書の封書と、その下に隠れるように重ねられた小さな私信。


 どちらも、自分が選んだ言葉。


(“誰かの物語を飾るための報告”ではなく)


(“ここで生きる人々と、これから選ぶ誰かのための材料”として――届きますように)


 ランプの火を少し絞ると、部屋の中の影が深くなった。


 その影の中で、机の上の二通の手紙だけが、淡く光を受けている。


 リリアンヌは立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。


 ガラス越しに見る夜空は、王都で見上げたものよりも、少しだけ星の数が多い気がする。


「……自由でいたいと願ったわたくしが」


 自分に言い聞かせるように、静かに囁く。


「こうして“誰かに渡す言葉の形”を、自分で選んでいる――」


 それは、かつて“用意された台本”を読み上げるだけだった頃の自分とは、まるで違う行為だ。


 寒さが指先に降りてくる前に、彼女は窓から離れた。


 机の上の手紙を、丁寧に重ねる。


 これは、この街の冬を見つめた、最初の一通。


 王都へ、そして彼へ届く、小さな報告。


 誰かの飾りではなく――

 次の誰かの選択を、ほんの少しだけましにするための、最初の一歩だった。


翌朝の空は、鉛色とまではいかないものの、どこか重たげな雲に覆われていた。


 薄く差し込む朝の光の中、街の通りには、かすかな白が混じり始めている。


「……雪、ですのね」


 リリアンヌは、マントのフードを軽く引き寄せて頭にかぶり、空を仰いだ。


 舞い落ちてくるのは、まだ本格的な雪ではない。

 溶けてしまうかもしれない、小さな、小さな白い粒。


 それでも、頬に触れた瞬間、きゅっと身を縮めたくなるほどの冷たさを持っていた。


 吐き出す息が白くなる。

 足もとでは、昨夜凍りかけた水たまりが、割れたガラスのようにきらりと光る。


 王都で眺めた“冬の演出”の雪とは違う、ここで暮らす人々の「今日」を冷やす雪。


 そのことを、リリアンヌはゆっくりと噛みしめながら、孤児院へ続く細い道を歩いていく。


 そのとき――ふと、視線を感じた。


 何気なく顔を向けると、通りの向こう側。

 薪を束ねた木箱の影から、昨日の少年がこちらを見ていた。


 年齢に似合わないほど醒めた瞳。

 大人の善意を測るような、あの斜に構えた目つき。


 けれど今は、その奥に、ほんのわずかな変化が宿っている。


 警戒の色はまだ消えない。

 それでも、「よそ者を見る目」だけではない、どこか戸惑いに似た柔らかさが混じっていた。


 目が合う。


 少年は、ほんの少しだけ顎を引いた。


「……おはよう」


 乾いた声だった。

 だが、それは確かに、礼儀としてではなく、彼自身の意志で選び取られた挨拶だった。


 リリアンヌの胸の奥で、何かが、そっとほどける。


 微笑みを浮かべて、一歩だけ近づいた。


「おはようございます」


 自分でも驚くほど、自然な声が出た。


 貴族の娘としての完璧な発音でもなく、

 “上からかける優しさ”でもない。


 ここで息をしている人々と、同じ冷たい空気を吸って、同じ雪を見上げている一人の人間としての挨拶だった。


 少年はそれ以上何も言わず、そっと視線をそらす。

 だが、きびすを返して走り去ることもなく、薪の束を拾い上げる動きは、昨日よりどこか落ち着いている。


 その背中を目で追いかけたあと、リリアンヌは、孤児院の木の扉へと向き直った。


 ノブにかけた手が、少しだけ震いを帯びる。


(わたくしの“自由の旅”は――)


 扉を押し開ける寸前、胸の内で言葉が生まれる。


(誰かを救ったと胸を張れるほど、立派なものでは、まだありませんわ)


 昨日、報告書を書きながら書き切れなかった本音が、静かに形を取っていく。


(大きな政策を決めたわけでもない。

 この街の冬を、一度で変えられる術も、持ち合わせてはいない)


 廊下の向こうから、子どもたちの笑い声と咳き込む音と、朝食の薄いスープの匂いが混ざり合って届いてくる。


 それら一つ一つが、ここで続いていく「今日」の気配だ。


(それでも――)


 扉の内側に足を踏み入れながら、リリアンヌは、そっと目を細めた。


(王宮の中からは決して聞こえなかった、冬の足音と。

 ここで生きる人々の、小さな息遣いを)


(わたくしの耳は、たしかに捉え始めています)


 石の床を踏む靴音が、こつ、こつ、と響く。


 王宮の磨き上げられた大理石とは違う、ところどころ欠けた石畳。

 けれどその不揃いさが、この場所の「現実」の重さを教えてくる。


(王宮を離れ、未知の地へ)


 廊下の先にある食堂から、子どもたちの「おはようございます!」という声が一斉に上がる気配がする。


 それに応えるように、リリアンヌは背筋を伸ばし、歩みを少しだけ早めた。


(それは、“選ばれなかった令嬢”が)


(今度は自分の足で、責任と向き合う場所を選びに行く――)


 自由の旅。


 そう名付けた道のりの、本当に最初の朝。


 薄く降り始めた雪は、まだ音を立てるほどには積もらない。

 けれど、冷たさの向こうに、確かな輪郭を持った「今日」の重みを連れてくる。


(そうですわね)


 リリアンヌは、心の中でそっと結ぶ。


(これは、わたくしの“自由の旅”の――まだ、最初の一歩に過ぎませんの)


 孤児院の扉が、彼女の後ろで静かに閉じる。


 外の通りでは、雪の粒が少しだけ大きくなっていた。


 王宮の塔も、白薔薇の庭も、ここからは見えない。


 けれどその代わりに――

 この街の屋根の上に、今日を生きる人々の息が、白い雲となって立ちのぼっている。


 王宮を離れ、未知の地へ。


 それは、“誰かに選ばれること”から一度降りた令嬢が、

 今度は自分の意志で、どこへ向かうのかを選び続けていく。


 そんな旅の、まだ始まりだった。





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