自由の旅 ―― 王宮を離れ、未知の地へ。
公爵家の執務室には、夕刻の光が静かに沈みかけていた。
高い窓から差し込む橙色のひかりが、書棚の背と書類の山の端を淡く照らし、長く伸びた影が床をゆっくりと侵食していく。
扉をノックすると、内側から聞き慣れた低い声が返る。
「入りなさい」
「失礼いたします、お父様」
リリアンヌが一礼して部屋へ入ると、父は執務机の向こう側に座り、ちょうど一本の書簡に目を通し終えたところだったらしい。
硬質な銀のペーパーウェイトが、読み終えた紙束を静かに押さえ込んでいる。
「座りなさい」
促され、彼女は机の斜め前に置かれた椅子へ腰を下ろした。
窓の外で、かすかな鳥の羽音がする。
学園で過ごす日々が長くなっていたせいか、この執務室の空気には、久しぶりのような心地よい緊張があった。
「定期休暇の予定について、話をしておこうと思ってね」
父がそう切り出した時点で、何となく内容の見当はついていた。
王妃候補としてのリリアンヌに、王宮が「何か」を求めてくるのは、むしろ自然な流れだ。
公爵は、手元の一通の封書を指先で軽く叩く。
「王宮からだ。……君にも、おおよその中身は想像がつくだろう」
「宮中行事の……お手伝い、でしょうか」
「そうだ」
父はわずかに口元を緩め、それから書簡を持ち上げて読み上げるでもなく、要点だけを言葉にした。
「この休暇中、リリアンヌ嬢には、王宮関連行事の予習を兼ねた“宮中研修”に参加してほしい。
宮廷の茶会の補佐、文書整理の現場の見学、王妃教育としてふさわしい場に立ち会わせたい……大体、そのようなことが書かれている」
――やはり。
胸の奥で、軽く予感が形を持つ。
驚きは薄い。
断られた婚約が、再び「あり得るもの」として語られ始めてから、こうした動きが出るのは時間の問題だった。
父は、そこで一拍置いてから続ける。
「王宮としては、“王妃候補としての君”を、もう少しはっきりと見極めたいのだろう」
低い声が、夕暮れの光に縁取られた書棚にこだまする。
リリアンヌは、指先に力を入れないよう注意しながら、膝の上でそっと手を組んだ。
「……はい」
「だが――」
その一言とともに、公爵は、机上の別の書類の山を、こん、と指先で軽く叩いた。
王宮からの封蝋とは違う、素朴な封筒、小さな村の印が押された紙片、学園の教師の署名で添えられた報告書……。
夕陽が、その束の端だけを金色に染める。
「学園での君の様子は、王宮だけでなく、領地の者たちにも伝わっている」
公爵の目線が、その紙束からリリアンヌへとゆっくり移った。
「『一度、あの方に村の現状を見ていただきたい』という手紙も、少しずつ増えてきていてな。
寒さが厳しい村からの嘆願、配給が追いつかぬ街からの報告……。すべてが君の名を挙げているわけではないが、学園での活動と結びつけて書かれているものもある」
「……わたくしに、村を、ですか」
思わずこぼれた問いに、公爵は否定も肯定もせず、小さく息を吐いた。
「君が“冬を案じる令嬢”だという話は、王都だけで語られているわけではない、ということだ」
部屋の中に、ひととき静寂が満ちる。
窓の向こうで、太陽が水平線に近づき、空の色が一段と濃くなった。
父はしばらく沈黙したまま書類の束を見つめていたが、やがて視線を上げ、真正面からリリアンヌを見据えた。
「リリアンヌ」
名前を呼ばれた瞬間、彼女は背筋を正す。
父の瞳には、公爵としての厳しさと、父親としての迷いが、細い線で同居していた。
「“王宮の中で、自分の形を探す”ことも一つの道だ」
低く、はっきりした声だった。
「宮中研修に参加し、王妃としての務めを肌で知ることは、決して無駄にはならない。
王として国を支える伴侶となるのであれば、いつかは通るべき場所だろう」
リリアンヌは黙って頷く。
その道が「正しい」とされる世界を、彼女はよく知っている。
かつてなら、迷わず飛びついていたはずの道だ。
しかし、父はそこで言葉を切り、ほんの少し口調を変えた。
「だが、“王宮の外で、自分の目で世界を見てくる”という選択肢も、君にはあるのだと――」
机に添えられた手に力がこもる。
「そう、伝えておこう」
夕陽が、父の横顔の輪郭を柔らかくなぞる。
それは、公爵としての計算だけではなく、一人の父親としての思いが混ざった表情だった。
リリアンヌは自分の胸の内で、ゆっくりと言葉を反芻する。
――王妃としての自分を磨くための“研修”。
――それとも、王妃かどうかを一度離れて、“わたくし自身の目で世界を見る旅”。
どちらも、間違いとは言えない。
どちらも、それぞれに責任と意味を伴っている。
けれど、昨夜――
「ありがとう。でも私は自由でいたいの」と告げた自分の声が、静かに蘇る。
(あのときわたくしは、“選ばれない自由”を望みました)
(では今度は――
“自分から選んで、歩き出す自由”を、試されているのでしょうか)
視線を上げると、父はただ、決断を急かすことなく、娘の目を見つめ返していた。
その視線の中に、「外へ出ていってもよい」という許しと、
「どの道を選ぶにせよ、自分の足で立て」という厳しさが、きちんと同居しているのを感じる。
リリアンヌは、胸の奥でそっと息を吸い込んだ。
「……わたくしに、その選択肢をお示しくださって、ありがとうございます、お父様」
丁寧に頭を下げながら、彼女は思う。
――今、目の前に差し出されたのは、「名誉のための道」ではなく。
昨日までの自分が望んだ「自由」を、行動として証明できるかどうかを問う、分かれ道。
夕刻のひかりが、執務室の窓辺からゆっくりと傾いていく。
そのひかりの中で、リリアンヌはまだ答えを口にはしない。
けれど、心のどこかで、確かにひとつの扉が開いた音を、静かに聞いていた。
リリアンヌの部屋の窓の外では、王都の灯りが、まるで遠い星座のように瞬いていた。
学園から戻ったばかりの体には、まだ一日の余韻が残っている。
けれど机の上に並んだ三つの束が、その余韻をそっと押しのけていく。
真っ直ぐに整えられた書き物机の上――
銀のペン立てとランプのあいだに、封書やメモがきちんと三列に並べられていた。
一つ目は、王宮からの封蝋が押された書簡。
上質な厚手の紙、整然とした文字。
二つ目は、領地の執事が送ってきた、見慣れた筆跡の手紙。
きっちりとした字体の中に、どこか柔らかい気遣いがにじんでいる。
三つ目は、学園経由で届けられた小さな束。
教師の署名が添えられた報告メモや、慈善活動で関わった教会筋の人物からの短い書き付け――
そこには、王都から離れた地方都市の名前と、その街の現状を訴える言葉が重ねられていた。
リリアンヌは椅子に腰掛け、指先で一つめの封書の端をそっとなぞる。
(王宮からの“宮中研修”の案内――)
「定期休暇中、王宮への出仕日を何日か設けたい」
「王妃教育の一環として、茶会や文書業務に触れてほしい」
文面は礼儀正しく、どこまでも整っている。
そして、それが「王妃候補としての自分」を、自然と前提にしていることも。
「王都に残り、王宮へ通って“王妃候補としての自分”を磨くのか」
声には出さず、心の中でそっと言葉を置く。
その横にある二つ目の手紙へと視線を移す。
封蝋は質素だが、丁寧に押し固められていた。
――『今年の冬は、昨年よりも凍死者の数が減りました』
――『ですが、山間の村々では、まだ暖炉の火を絶やせない家が多く……』
執事の文面は事務的でありながら、端々に現場の苦労への気遣いが見える。
『お嬢様が学園でご多忙なのは承知しておりますが、
もしご都合がよろしければ、一度お顔をお見せいただければ、
領民たちもどれほど励まされましょう』
「領地へ戻り、施策の進捗をこの目で確かめるのか」
それは「帰省」と呼ぶには、少し重たい響きを伴っている。
自分の名を頼りにしてくる人々の姿が、ぼんやりと胸の内に浮かぶ。
そして――三つ目の束。
紙そのものは少し粗く、ところどころインクが滲んでいた。
学園の教師の署名の下、短い追伸が添えてある。
『先日ご相談した地方都市の件、補足の報告を同封します』
その後ろには、地方の教会関係者や小さな孤児院の世話役からの書き付けが、いくつか重ねられていた。
『冬になると、街道沿いの旅商人や孤児たちが行き場を失います』
『城下から少し外れた一帯では、配給が届きにくい地区があり……』
『いつか、どなたかに見ていただければと願っておりました』
具体的な地名と、見慣れない地図の簡略なスケッチ。
そこは、リリアンヌが一度も足を踏み入れたことのない場所だった。
「それとも――まだ一度も訪れたことのない場所へ、足を伸ばしてみるのか」
三つの束が、机の上で静かに並んでいる。
どれか一つが明らかに“正解”、ほかが“不正解”というふうには見えないからこそ、やっかいだ。
「……自由、ですのね」
思わず、小さくつぶやいていた。
(わたくしが、あの夜“選ばれない自由”を選んだことで――)
王太子の差し出した手を取らなかった自分。
あのときはただ、「誰かに決められる道ではなく、自分で選ぶ道を歩きたい」と願っただけだった。
(代わりに、こうして)
視線を落とす。
王宮からの案内文。
領地からの帰郷の願い。
遠くの都市から届いた、見えない誰かの声。
「選ばれない自由を選んだわたくしは――
代わりに、“自分で選ばなければならない責任”を、抱え込みましたのね」
王宮に残れば、「王妃候補としての自分」を分かりやすく磨くことができる。
領地へ戻れば、数字と報告書の向こうにいる人々の顔を、この目で確かめられる。
未知の都市へ向かえば……きっと、今の自分には想像もつかない現実が、待っているだろう。
窓の外では、王都の灯りが、ひとつ、またひとつと増えていく。
その光は、どの道を選んだとしても、自分がこの街の一部であることを示しているようで――
同時に、「ここに留まらない選択」も、確かに存在しているのだと囁いているようでもあった。
リリアンヌはそっと立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。
薄いカーテンを指で持ち上げると、夜の気配が少しだけ流れ込んだ。
(王都に残るのも、領地へ戻るのも――
たぶん、どちらも“安全な選択”と呼べるのでしょう)
(では、まだ見ぬ土地へ向かうことは?)
胸の奥で、かすかなざわめきが生まれる。
恐れと、同じくらいの興味と。
「自由」を望んだ自分に、今まさに突きつけられている問い。
再び机に戻り、三つ目の書類の束にそっと指を伸ばす。
紙の端が、わずかに指先に引っかかった。
今夜のうちに答えを出す必要はない。
しかし、自分の視線が、どこにいちばん長く留まっていたのか――それだけは、もう誤魔化せなかった。
ランプの光が、三つの束を等しく照らしている。
そのなかで、リリアンヌはまだ言葉にしないまま、一つの方向へと心が傾き始めていることを、静かに自覚していた。
学園の図書室は、昼下がりの光に満ちていた。
高い窓から差し込む陽が、本棚と机の上に四角い明るさを落とし、その中で紙の白さだけがいっそう際立っている。
いつものテーブル。
向かい合うように座るエミリアとミラの前で、リリアンヌは一枚の封書を指先でいじりながら、少しだけ息を吸い込んだ。
「……お二人に、少し相談したいことがございますの」
本を閉じたばかりのエミリアが、ぱちりと瞬きをする。
「休暇のご予定、でしょうか? 先ほど、皆さんその話題で……」
ミラは椅子の背にもたれ、あからさまに興味深そうな顔をしてみせた。
「どうせ、“王都の華やかなサロン”か、“ご領地の立派な本邸で優雅に過ごす”とかじゃないんですか? 選択肢からして高貴でうらやましいですよね」
「ミラさん……」とエミリアが苦笑交じりに制するが、ミラは肩をすくめるだけだ。
リリアンヌは、そんな二人に穏やかに微笑みかけると、持っていた封書をそっと机の上へ置いた。
王宮からのものでも、領地からのものでもない、少し質素な紙の封筒。
「実は――迷っているのは、その二つだけではありませんの」
封を切った中身を、慎重に取り出す。
便箋には、きちんとした字ではあるが、ところどころインクが滲んでいた。遠い土地から届いたことを思わせる、かすかな疲れのようなものが滲む筆跡。
「これは?」とエミリアが身を乗り出す。
「以前、学園に講義にいらしたでしょう? 地方都市で孤児院を運営しておられる神官様が、おいでになりましたわ」
「ああ、あの方ですか。冬場の配給事情についてお話ししてくださった……」エミリアの表情に、記憶の色が浮かぶ。
ミラも、あっと小さく声を漏らした。
「寒い地方の街で、屋根裏部屋みたいなところに子どもたちがぎゅうぎゅうで暮らしてるって話、してましたね」
リリアンヌは頷き、便箋をそっと開いて、声に出さずに目で追っていく。
何度も読み返したせいで、ところどころ折り目が深くなっていた。
「そこに、どのようなことが?」エミリアが遠慮がちに問う。
「お礼と……現状のご報告ですわ」と、リリアンヌは小さく説明してから、指先で一行を示す。
「『近年、冬の寒さが厳しく、周辺の村から流れ込む子どもたちも多くなっております』――」
読み上げる声は、自然と柔らかく、けれどどこか張り詰めていた。
「『城下の配給所からは少し外れた一帯であるため、
支援の網からどうしてもこぼれてしまう人々がおります』」
ミラの眉が寄る。
「配給の“網からこぼれる”……」
エミリアは、両手をぎゅっと重ね合わせるようにして、リリアンヌの言葉を静かに待つ。
リリアンヌは、便箋の下の方に書かれた一節へと視線を滑らせた。
そこには、少しだけ震えたような字で、こう綴られている。
「『もし、あの“冬を案じる貴族令嬢”が本当におられるのなら――』」
そこまで読んで、リリアンヌは一度、息を整えるように視線を上げた。
「『いつか、この街の冬も見に来ていただきたい。
ここにも、まだ“名も知らぬ小さな手”がたくさん伸びているのです』」
読み上げた最後の言葉が、図書室の静けさに溶けていく。
しばし誰も口を開かず、紙の擦れる音さえ聞こえない時間が流れた。
先に口を開いたのは、リリアンヌ自身だった。
「領地の冬が気がかりでないと言えば、嘘になりますわ。
数字として届く報告書の一行一行にも、救いきれていない誰かの姿が浮かびますもの」
そう言って、一瞬だけ微笑む。
けれどそれは、すぐにほんのりと陰りを帯びた。
「けれど……この『配給の網からこぼれる人々』という言葉が――どうしても、心から離れませんの」
「……“網からこぼれる”か」と、ミラが腕を組む。
「つまりそこは、リリアンヌさんの家の領地でもなく、王宮の傘の下、ってわけでもない場所なんですね」
視線が、便箋の端に書かれた地名と簡略な地図へ落ちていく。
「誰かの“はっきりした責任”から、少し外れたところにいる人たち、って感じがします」
「はい」と、リリアンヌは穏やかに同意した。
「領地であれば、公爵家としての責務として介入できますわ。
王宮の事であれば、“王妃候補”としての立場を用いる道もあるでしょう」
細い指が、紙の上でそっと止まる。
「けれど――ここは、そのどちらからも、ほんの少しだけ外れているように思えるのです。
知らず知らずのうちに、『誰かがきっと何とかしてくださるはず』と、皆が思い込んでしまうような場所」
エミリアは真剣な眼差しで、リリアンヌを見つめ続けていた。
「そういう場所を……リリアンヌ様ご自身の目で、見たいと?」と、静かに問う。
リリアンヌは、真っ直ぐに二人を見た。
「はい」
その一言には、迷いと同じくらいの決意が宿っていた。
「王宮に残れば、“王妃候補としてのわたくし”を磨く機会に恵まれますわ。
領地に戻れば、“公爵令嬢としての責務”を果たすこともできるでしょう」
そこで一拍置き、言葉を変える。
「けれど――」
便箋をそっと胸の前で重ねる。
「“公爵令嬢だから”“王妃候補だから”ではなく――
わたくし自身が選んだから、という理由で、そこへ赴いてみたいのです」
図書室の高い天窓から、柔らかな光が差し込んでいた。
紙の白さと、リリアンヌの横顔が、その光を受けて淡く照らし出される。
ミラは、ふう、と小さく息を吐いて笑った。
「……まあ、リリアンヌさんらしい選び方ですね」
「らしい、でしょうか?」とリリアンヌが目を瞬かせると、ミラは少し肩をすくめる。
「“一番楽で安全な道”じゃなくて、“いちばん気になって眠れなさそうな場所”に行くあたりが。
たぶん、放っておけないんでしょう? その『名も知らぬ小さな手』ってやつを」
エミリアも、ふっと頬を緩めた。
「わたくしも、そう思います。
……リリアンヌ様が向かわれる場所に、“冬を案じる誰か”がいるのは、とても自然なことのように感じます」
「エミリアさん……ミラさん……」
二人の言葉が、胸のどこか深いところに、そっと降り積もっていく。
王都から少し離れた、寒さの厳しい小さな都市。
地図の上では、ただの点でしかないその場所に――
そこにも、誰かの冬があり、誰かの息遣いがあり、
配給の網からこぼれ、名も知られないまま伸ばされた小さな手がある。
リリアンヌは、便箋を大事そうに封筒に戻し、きゅっと指先で押さえた。
「王都から、馬車でどれくらいかかるのかしら……」と、ぽつりと呟く。
それは、ほとんど答えの出た問いだった。
「行かれるのですね」とエミリアが確認するように問うと、
リリアンヌは静かに頷いた。
「はい。
この休暇は――王宮ではなく、領地でもなく」
胸の奥でそっと言葉を結ぶ。
「わたくしが自分の足で選んだ、冬の街へ向かいますわ」
その決意を映すように、窓から差し込む光が、机の上の封筒を明るく照らしていた。
学園の中庭は、休み時間のざわめきが少し遠のいた頃合いだった。
芝生の上には春の名残の陽ざしが柔らかく差し、噴水の水音だけが規則正しく響いている。
その片隅、寮に近い並木道を望むベンチに、リリアンヌとエミリア、ミラの三人が並んで座っていた。
「……というわけで、休暇の間に、その街へ向かうことを考えておりますの」
リリアンヌがそう締めくくると、エミリアは小さく息を呑み、ミラは「ふうん」と唸るように空を見上げた。
「本来であれば――」
リリアンヌは、膝の上でそっと指を組む。
「これは、“公爵家の一人娘”が一人で決めてよい旅ではありませんわ。
護衛も必要ですし、受け入れてくださる方々の負担にもなり得ます」
それでも、と視線を少し落とす。
「だからこそ、まずは“わたくし自身が行く”という前提で、お話ししなければならないと思いましたの。
お二人に、『ご一緒にいかがですか』と軽々しくお誘いするのは……責任の重さを考えると、いたずらに聞こえてしまいますもの」
エミリアは、ぎゅっとスカートの布を握りしめる。
「リリアンヌ様……」
ミラが、そこでぽん、とベンチの背もたれを指で叩いた。
「じゃあ、その“護衛扱いの付き添い人”枠で、庶民枠ひとり、連れて行きません?」
あくまで冗談めかした口調。
けれど、その横顔の瞳は、冗談よりずっと真剣だった。
リリアンヌは、驚きに目を瞬かせる。
「ミラさん……?」
「だって、貴族だけで行くより、“現地の生活目線”で見えるものもあるかもしれませんし」
ミラは肩をすくめる。
「それに……正直な話、“配給の網からこぼれる人たち”って話、他人事には思えないんですよね。
うちの実家、たまたま王都の端っこで商売が上手くいってるだけで、ほんの少し歯車が違ってたら、あっち側だったかもしれないので」
少し照れくさそうに笑ってから、真っすぐリリアンヌを見る。
「だから、護衛さんたちの邪魔にならない範囲でなら。
もし許しが出るなら、わたしもついて行きたいです。……庶民代表として」
エミリアが、慌ててミラの袖をつまむ。
「ミラさん、そんな簡単に……危険な場所かもしれないのですよ?」
「だからこそ、でしょ?」ミラはあっさりと言う。
「危ないかもしれないからって、全部“偉い人たち”の仕事に押し付けてたら、
また“誰かが何とかしてくれるでしょ”って話になっちゃいますし」
その言葉に、リリアンヌの胸の奥が、静かに揺れた。
「ですが……」とエミリアが言いよどむ。
「わたくしは……すぐにとはお返事できません」
エミリアはきちんと背筋を伸ばし、少し苦しげに微笑んだ。
「王都に住む両親は、わたくしに多くを望んではおりませんが、それでも“安全な場所にいてほしい”とは思っているはずです。
遠くの寒冷地へ旅立つとなれば、きっと心配もされるでしょう」
頬にかかる髪を指で耳にかけながら、言葉を継ぐ。
「……ですが、リリアンヌ様を、この王都から遠く離れた見知らぬ街へ、お一人でお送りすることを考えると――それもまた、胸がざわつきます」
「エミリアさん……」
「だから、わたくしは一度、家族とよく話し合いたいのです。
“実際に同行するべきか”、それとも、“こちらに残って、学園や王都でできる支援を整えるべきか”」
エミリアは、迷いを隠さずに言った。
「リリアンヌ様が向かわれる街の情報を集めたり、必要な物資の手配や、王都への連絡窓口を担う人間も、きっと必要になります。
もしわたくしが行かないのだとしたら――その役目を、喜んでお引き受けいたしますわ」
その言葉は、同行の否定ではなく、「別の形でそばにいる約束」のように聞こえた。
ミラが、半分茶化すように笑う。
「つまり、こうですかね。
“ミラが現地で体を動かしてひーひー言ってる間に、エミリアさんが王都で書類や調整でひーひー言う”、みたいな」
「そんな雑なまとめ方を……」とエミリアが頬を染めるが、否定はしなかった。
リリアンヌは、ふと空を見上げる。
若葉が風に揺れ、その隙間から、淡い青が覗いていた。
「公爵家からは、信頼のおける侍女と、少数の護衛騎士を同行させてくださるそうですわ。
“娘を野放しに旅に出すつもりはない”と、父は言っておりましたから」
少しだけおかしそうに微笑む。
「ですから、本当に危険な場面では――きっと、彼らがわたくしを止めてくださいます。
それでも、その道を選ぶ責任は、やはりわたくし自身のものですわね」
ベンチの木目を指先でなぞりながら、心の中でそっと言葉を結ぶ。
――わたくしは、一人で立つことを選んだけれど。
――けれど、一人きりで歩くことを、望んでいるわけではないのだと。
目を閉じれば、そこに浮かぶのは。
冬の街へ伸びていく、馬車のわだちの先に立つ自分の姿――と、その周りにいる人影たち。
「もし、わたくしの旅が……“自由でいたい”などと口にした愚かな娘の、気まぐれな道行きに見えるのだとしても」
リリアンヌは、二人を正面から見つめた。
「その自由を、“誰かの冬を案じるための自由”に変えていけるように。
わたくしは、わたくしなりの責任を果たしていきたいのです」
ミラが、ふっと息を吐き、笑顔で片手を上げた。
「じゃあ、その責任、ちょっとだけ一緒に背負わせてもらってもいいですか?
“庶民のミラ、現地同行を希望”って、ちゃんと書類に書いてもらって」
「ミラさん……本気でおっしゃっているのですね?」とエミリア。
「もちろん本気ですよ。……まあ、親を説得するのは大変そうですけど」
ミラは小さく舌を出した。
「“お貴族様の危険な旅にくっついていきます”なんて言ったら、間違いなく母親にひっぱたかれますね。
でも、“誰かの冬を少しでもましにできるかもしれないから”って理由なら――少なくとも、話を聞く気にはなってくれると思います」
エミリアは、そのやり取りを見て、思わず口元に笑みを浮かべた。
「……わたくしも、父と母に話してみます。
リリアンヌ様がどのような思いで旅に出られるのか、きちんと伝えたうえで」
そして、少し照れたようにうつむく。
「同行できるかどうかは、まだ分かりません。
けれど、“ここでお留守番をする”という選択をするのであれば――
その時は、王都での“拠点役”として胸を張って務めたいと思います」
リリアンヌは、胸の奥から言葉が込み上げてくるのを感じた。
「お二人とも……ありがとうございます」
選ばれない自由を選んだ自分に、なお寄り添ってくれる人たち。
その存在が、これから自分が選ぼうとする“自由の旅路”に、確かなあたたかさを添えてくれる。
ベンチから立ち上がると、ちょうど、塔の鐘が遠くで鳴り始めた。
次の授業の始まりを告げる、いつもの音。
「そろそろ、戻らなければなりませんわね」とリリアンヌが言うと、
ミラが腰に手を当てて笑った。
「じゃ、まずは授業という名の日常から。
そのうえで、休暇の非常識な旅の計画を、じっくり練りましょう」
エミリアも立ち上がり、スカートの裾を整える。
「非常識かどうかはともかく……
きっと、リリアンヌ様が選ばれる道は、誰かにとっての“光”になりますわ」
リリアンヌは、その言葉を胸にそっと収めながら、二人と並んで歩き出した。
――わたくしは、自分の足で立つことを選んだ。
――でも、その隣に、歩調を合わせてくれる誰かがいるのだと知っているからこそ。
王宮を離れ、未知の地へ向かう旅路は、もう静かに始まりつつあった。
王宮の小さな謁見室は、外の喧噪から切り離されたように静かだった。
磨き込まれた床に、午後の光が長方形の窓から斜めに差し込み、絨毯の縁を淡く照らしている。
その中央に、リリアンヌは一歩進み出て、深く一礼した。
その背後には、公爵である父が控え、その正面には王太子アルベルトと、数名の高官たちが席についている。
「本日は、お時間を賜り、誠にありがとうございます」
声はよく通り、しかし決して大きすぎない。
礼を終えて顔を上げた彼女の表情は、緊張もありながら、どこか澄んでいた。
「さて、リリアンヌ嬢の願い出とやらを伺おう」
文官長格の高官が、書類を整えながら促す。
アルベルトは、その傍らで黙ってリリアンヌを見守っていた。
リリアンヌは、手にした封書を一歩前に進み出て掲げる。
「近く訪れる学園の定期休暇の間、わたくしは――」
一度、息を整える。
「王都から北へ向かった寒冷地の小都市へ、短期滞在をさせていただきたく、願い出に参りました」
静かなざわめきが、高官たちの間をかすめる。
「目的は、その街および近郊の村々における、冬季の寒冷対策と、孤児院の運営状況の視察にございます」
手元の手紙を開き、その一節を簡潔に引用する。
「近年、冬の寒さが厳しく、配給の網からこぼれる人々が増えている、と。
“名も知らぬ小さな手”が、街の縁で凍えるように伸びている――と、そう綴られておりました」
リリアンヌは手紙を閉じ、まっすぐ前を見据えた。
「形式としては、公爵家による慈善視察として扱っていただいて構いません。
しかし、わたくしは――」
ここで、言葉を選ぶように、ゆっくりと言う。
「これは、“王妃候補としての義務”ではなく」
一拍。
「リリアンヌ・エルンストとしての責任と興味からの願い出であると、はっきり申し上げたく存じます」
「王妃候補として、ではない……?」
文官の一人が、思わず小声で繰り返す。
別の高官が咳払いをして、表情を整えた。
「しかし、公爵令嬢。
そのような寒冷地への旅は、決して楽なものではない。危険もあろう」
「承知しております」
リリアンヌは即答した。
「ですから、父の許可のもと、公爵家より信頼のおける侍女と、少数の護衛騎士を同道させます。
また、現地の神殿および孤児院の責任者の方々とは、事前に連絡を取り、受け入れの是非を確認いたします」
父である公爵が、小さく頷き、口を開いた。
「娘の願いは、私も聞き届けた。
王都から離れる以上、公爵家としても責任を負う覚悟である」
高官の一人が、慎重な声音で続ける。
「リリアンヌ様は、いまや“王妃候補”として国内外の注目を集めるお立場。
長く王都を離れれば、余計な憶測を呼びかねません。
王宮としては、あまり遠くへ、まして長期のご滞在は推奨しかねるのですが……」
リリアンヌは、ほんのわずかに微笑んだ。
「わたくしがどこにいても、噂はきっと、勝手に歩き回るでしょう」
柔らかく、しかし芯のある言い方だった。
「でしたらせめて、その噂の奥に、ひとかけらでも“事実”を残しておきたいのです」
「事実、とは?」
「はい」
リリアンヌは、視線をすっと上げる。
「王妃候補だから冬を案じたのではなく。
“誰かの冬を案じる人間が、たまたま王妃候補という名で呼ばれているだけなのだ”と――
そう言い切れる自分でありたいのです」
一瞬、場の空気が止まる。
王太子アルベルトは、その言葉を噛みしめるように黙っていた。
やがて、高官たちが視線を交わし、誰からともなく彼のほうへと視線を向ける。
「殿下は、いかがお考えですかな」
文官長が、問いかけた。
アルベルトは、静かに椅子から身を乗り出す。
先ほどまでの沈黙とは違う、はっきりとした意志の色が、その瞳に灯っていた。
「……僕は」
口を開く前に、一瞬だけリリアンヌを見た。
それから、あくまで「王太子として」の立場を踏まえながらも、どこか「ひとりの人間」としての声音で続ける。
「彼女は、王都の中に閉じ込めておくだけの存在ではないと思う」
高官たちの視線が、一斉に王太子へと集まる。
「誰かの正しさに隠れて生きるのではなく、自分の目で見て、自分の足で選びたいと願う者を――」
アルベルトは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「この国が、許さない理由があるだろうか」
文官の一人が、おずおずと口を挟む。
「しかし殿下、もし道中に不測の事態があれば、それは……」
「だからこそ、護衛をつける」
アルベルトは遮るのではなく、穏やかに重ねる。
「そもそも、この国のどこにいても、不測の事態の可能性はゼロではない。
王都であろうと、寒村であろうと、それは同じだ」
少しだけ目を伏せ、それから再び上げる。
「ならば――“王妃候補だから”という理由で、彼女の歩みたい道ばかりを塞ぐことこそ、
僕には、この国の未来を狭める行いに思える」
その言葉に、リリアンヌの胸が微かに震えた。
これは告白ではない。
けれど、以前の彼なら決して口にしなかった種類の言葉だ。
「王都にいてもらうことが、王家にとっての安心ではありましょう」
アルベルトは、静かに続ける。
「けれど、彼女が自分で選んだ場所で見てきたもの、聞いてきた声は――
いずれ、僕たちの政策を形づくるための、何よりも貴重な糧になる」
「……将来を見据えた行動として評価できる、というわけですな?」
文官長が、わずかに口調を和らげる。
「はい」
アルベルトはきっぱりと頷いた。
「これは、“王妃候補としての視察”ではありません。
だが、“王妃になるかどうかに関わらず、この国の冬を共に見つめていく一人の人間の行動”として――
僕は、歓迎したいと思います」
リリアンヌは、胸の内でそっと息を吸い込む。
――“王妃としての彼女”ではなく、“彼女自身”の旅を認める言葉。
高官たちは再度視線を交わし、やがて文官長が結論を口にした。
「では、公爵家の責任のもと、“一定期間”“護衛付き”という条件で、地方都市への滞在を許可する、ということでいかがでしょう」
別の高官が、追加するように言う。
「加えて、滞在中および帰還後、現地の状況についての報告書を、王宮にも提出していただきたい。
今後の施策立案の参考とさせていただきます」
「もちろんですわ」
リリアンヌは、迷いなく頷いた。
「現地の方々のお名前を、ひとつひとつ記し、
“数字”だけでは見えないものも、できる限りお伝えいたします」
文官長が満足げに頷く。
「よろしい。では、準備が整い次第、正式な許可証を発行しよう」
謁見の場の緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
「リリアンヌ」
アルベルトが、個人として声をかけるような響きで名を呼ぶ。
「君の旅路が、危険なものにならぬよう――王宮としても、公爵家とも協力して備えを整えよう」
その言いかたは、「守るために閉じ込める」のではなく、「守ったうえで送り出す」という約束に近かった。
リリアンヌは、静かな笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、アルベルト様」
そして、ほんの少しだけ言葉を添える。
「わたくしは、“王妃候補の外”へ出てまいります。
けれど、そこで見てきたものを、“この国の未来”のために返してくるつもりですわ」
アルベルトの表情に、かすかな寂しさと、それを上回る誇らしさが浮かぶ。
「ああ。君の目で見てきた冬のことを、僕はきっと、必要とするだろう」
かつて「君を隣に置くため」に手を伸ばした彼が、
今は「君の歩く自由を守るため」に、その言葉を差し出している。
それが、リリアンヌには、何よりも静かで確かな“見守る覚悟”に思えた。
彼女はもう一度、深く一礼する。
「では、許可に心より感謝申し上げます。
リリアンヌ・エルンストとしての旅の責任を、たしかに背負って、行ってまいりますわ」
午後の光が、謁見室の床を少しずつ移動していく。
その光の中で交わされた、短いが決定的な約束。
――こうして、“王妃候補”の枠を一度離れたリリアンヌの、自由の旅への扉が、正式に開かれたのだった。
王都の朝は、まだ少し冷たい。
それでも空の色は冬の灰ではなく、淡い青に向かおうとしていた。
城門へと続く石畳の道に、旅装の馬車が一台停まっている。
その周囲を、数名の護衛騎士と、公爵家の紋章をつけた従者たちが静かに行き来していた。
リリアンヌは、馬車のそばに立ち、浅く息を吸い込む。
いつもの絢爛なドレスではない。
動きやすさを重んじた落ち着いた色のワンピースに、膝下まで覆うマント。
裾は地面を引きずらない丈に調整され、足元は繊細な刺繍靴ではなく、しっかりとした革のブーツだ。
「……本当に、旅の装いですわね」
自分で選び、自分のために整えた服。
「誰かに見せるため」ではなく、「自分の足で歩くため」の装いに、胸の奥が少しだけ熱くなる。
城門前の少し開けた場所には、公爵家の馬車がもう一台止まり、その前に父と母が立っていた。
エミリアと、すでに旅支度を終えたミラの姿も見える。
リリアンヌが近づくと、父が腕を組んだまま、ふっと目を細めた。
「……よく、似合っている」
「ありがとうございます、お父様」
父はしばし娘を見つめ、それから短く息を吐く。
「行ってこい」
それは、いつもの厳格な口調より、少し柔らかかった。
「戻ってきたとき――」
言葉を区切り、彼は娘の肩に片手を置く。
「“王妃候補の娘”ではなく、自分の選んだ道を語れる娘の話を、聞かせてくれ」
リリアンヌは、その手の重みをしっかりと受け止める。
「はい。必ず」
「道中で何があろうと、自分で選んだと胸を張れるように、歩いてきなさい」
父が手を離すと、今度は母が一歩前に出た。
レースのハンカチを指先で握りしめ、目元にはすでに涙が滲んでいる。
それでも、その唇はしっかりと笑っていた。
「リリアンヌ」
「お母様」
「くれぐれも、お体に気をつけて」
母は、娘のマントの留め具をそっと整えながら続ける。
「それから――どれほど遠くへ行っても、あなたが私たちの娘であることは変わりませんわ」
ふわりと、胸の奥に灯がともる。
「……はい。覚えておきますわ」
もし、世界のどこかで迷ったとしても。
“帰る場所がある”と知っていることが、どれほど心強いか。
母がそっと抱きしめてから離れると、今度はエミリアが一歩進み出た。
彼女は、いつもよりきっちりと整えた制服姿で、真っ直ぐに頭を下げる。
「リリアンヌ様」
「エミリア」
「こちらで、できる限りの情報整理と支援をいたします」
顔を上げたエミリアの瞳は、決意に満ちていた。
「必要な書類や報告は、いつでもお申し付けください。
父にも話を通しましたので、王都側の窓口として――精一杯、お力になりたいと考えております」
「……心強いですわ。本当に」
リリアンヌは微笑み、少し声を落とす。
「わたくしが遠くに行っても、ここで“冬の数字”を追ってくださる方がいると思うと――
安心して歩いていけますもの」
エミリアの頬が、少しだけ赤くなる。
「わたくしも、こちらで“自分の足で立つ”ことを学びたいのです。
ですから……どうか、無事に戻ってきてくださいませ。お話を、たくさん伺えるように」
「ええ。約束いたしますわ」
二人が微笑み合ったところで、馬車のそばから、聞き慣れた声が飛んできた。
「さあ、公爵令嬢」
振り向けば、すでに旅装に身を包んだミラが、腰に手を当てて立っている。
彼女の服もまた、平民の少女らしい実用一点張りで、丈夫そうな布と革で出来ていた。
「“自由でいたい”って言った人が、ここで足がすくんでたら笑いますよ?」
口調は軽いが、瞳は真剣だ。
「馬車のステップ、そんなに高くないですから。
一歩出したら、あとは勢いでどうにかなりますって」
「……ミラさんは、本当に」
リリアンヌは、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「こういう時に、背中を押すのが上手ですわね」
「お褒めにあずかり光栄です」
ミラが胸を張る。
「まあ、怖くなったらその辺で騒いでくれていいですよ。
“公爵令嬢がビビってるから一回休憩”って、護衛の人たちにもちゃんと言ってあげますから」
「その表現はやめていただけます?」
思わず返すと、周囲の空気が柔らかくなる。
護衛たちも、わずかに口元を緩めていた。
城門の向こうには、まだ見ぬ地平へ続く道が伸びている。
その手前、街道を見下ろす高台の一角に、王宮の塔が顔を覗かせていた。
ふと、リリアンヌはそちらへ視線を向ける。
塔のバルコニーから、ひとりの青年がこちらを見ているのが、小さく見えた。
アルベルト。
距離があるため、その表情までは分からない。
それでも、視線が交わったような気がして、リリアンヌはそっと会釈をした。
塔の上で、アルベルトは静かに息を吐いていた。
(もし彼女が、“ここに留まりたい”と言っていたなら――)
それは、どれほど甘く、救われる答えだっただろう。
(僕はきっと、それを心の底から喜んでいた)
けれど今、彼女は王宮と学園を背に、城門を出ようとしている。
「誰かに選ばれるため」ではなく、「自分の足で歩くため」に。
(その背中を、止めないと決めたのは……他でもない、この僕だ)
胸の奥が、きゅう、と痛む。
だがその痛みは、かつてのような自己憐憫ではない。
彼女の選択を尊重すると決めた、自分自身の覚悟の重さだった。
リリアンヌの軽い会釈に、アルベルトはゆっくりと頷き返す。
言葉は届かない。
だからこそ、その小さな動きに、今のふたりが交わせるすべてを込めた。
城門の影が、朝日を受けて長く伸びている。
その境界線の手前で、リリアンヌは最後に深く息を吸い込んだ。
「――行ってまいります」
誰か一人にではなく、この場にいるすべての人へ向けた言葉として。
父が腕を組んで頷き、母がハンカチで目元を押さえ、エミリアが真っ直ぐに頭を下げる。
ミラはすでに、馬車のドアを開けて待っていた。
リリアンヌは、旅装の裾を軽く持ち上げ、ブーツのつま先を一歩、城門の影のほうへと踏み出す。
その足取りは、震えていないわけではない。
けれど、後ろを振り返るための震えではなかった。
“選ばれる”ことを待つのではなく。
“選んだ道”のほうへと歩いていくための、一歩。
馬車のステップを上がりながら、リリアンヌは心の中で静かに呟く。
(わたくしは、自由でいたいと願いました)
(ならば――この足で、自由の重さも、責任も、見に行かなければなりませんわね)
扉が閉まり、御者が手綱を鳴らす。
車輪がゆっくりと動き出し、馬車は城門の石畳を軋ませながら進んでいく。
王宮の塔も、学園の尖塔も、少しずつ遠ざかっていく。
それでも心の中には、“戻れる場所”の温度と、“見守る視線”の気配が、確かに残っていた。
こうして――
王妃候補としてではなく、リリアンヌ・エルンストとしての「自由の旅」が、静かに幕を開けた。
馬車の車輪が、一定のリズムで石畳から土の街道へと移っていく。
振動の質が変わり、窓の外の景色もゆっくりと色を変え始めていた。
ついさっきまで、遠くにそびえていた王都の城壁は、もう背後に小さく霞んでいる。
尖った塔の影も、学園の屋根も、白薔薇のある庭園の方向も――
今では、ひとつの点としてさえ見分けがつかないほど、遠くなっていた。
リリアンヌは、馬車の窓からその遠ざかる気配をしばらく見つめてから、静かにカーテンを半分閉じる。
膝の上で、指をひとつずつ組み合わせる。
冷たくも熱くもない、微妙な温度の自分の手が、妙に頼りなく感じられた。
(“選ばれない自由”を選んだわたくしは――)
胸の内で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
(今、こうして、“自分から選んで王都を離れる道”を選んでいるのですわね)
王宮からの打診を断り、
王妃候補としての研修ではなく、
自分で選んだ土地へ向かう旅。
それは、紙の上で言葉にするときよりも、ずっと重い現実として、馬車の揺れとともに身体に響いていた。
不安が、ないわけではない。
未知の地。
まだ会ったことのない人々。
自分に、本当に何かできるのか分からない冬。
(失敗して、誰かをがっかりさせてしまうかもしれませんわ)
(わたくしの浅い知識や経験では、とても追いつかない現実が、そこにはあるかもしれません)
そう思うと、胸の奥がきゅっと縮こまる。
けれど同時に――
自分の心臓が打つ音が、いつもと少し違うことに気づいていた。
(けれどこの胸の鼓動は、恐怖だけの音ではありませんわね)
鼓動は速い。
けれど、それは怯えて逃げ出したいときの早鐘とは違う。
(恐れと、期待と、少しの高鳴りが混ざり合った――
これまで知らなかった種類の“鼓動”ですわ)
窓の向かいの席で、ミラが腕を組んで外を眺めていた。
やがて、ふと視線を窓から離し、ぽつりと呟く。
「なんか、不思議ですね」
「不思議、ですの?」
リリアンヌが首を傾げると、ミラは天井を見上げてから、もう一度窓の外へ目を向ける。
「王都から離れていくのに、ですよ」
揺れる馬車の音に混じって、その声は思ったよりもしっかり届いた。
「これから、“もっと広いところ”へ行く感じがするんですから」
リリアンヌは、一瞬言葉を失い――
それから、ふっと笑みを零した。
「……ええ。たしかに」
彼女は背もたれに軽くもたれ、その言葉を噛みしめるように目を伏せた。
「“王宮の中だけが世界のすべて”だと信じていた頃のわたくしなら――
きっと、想像もできなかった感覚ですわね」
当時の自分にとって、王宮を離れることは、ほとんど「全てを失うこと」と同義だった。
名誉も、未来も、居場所も、愛される価値さえも、そこから切り離されてしまうような恐怖。
けれど今。
窓の外を流れていくのは、「失ったもの」ではなく、「これから出会うかもしれないもの」へ続く道だ。
(王宮を離れることは、かつてのわたくしにとって、“全てを失うこと”でした)
(けれど今、“王宮の外へ出る旅路”は――
わたくしがわたくし自身の目で世界を見つめ、
自分で選び取る未来へと続く道のひとつに過ぎませんのね)
ガタリ、と車輪が少し大きく跳ねる。
思わず身体が揺れ、向かいのミラと目が合った。
「怖いですか?」
ミラが、からかうでもなく尋ねてくる。
リリアンヌは、少しだけ考えてから、素直に頷いた。
「ええ。……少し、いえ、かなり」
「正直でよろしい」
ミラは笑い、続ける。
「でもまあ、“怖いのに行く”ってところに、意味があるんじゃないですかね」
「……そう、かもしれませんわ」
(怖くないふりをして、誰かの正しさの陰に隠れているほうが――
きっと、ずっと楽でしたのに)
(それでも今、こうして馬車の中にいるのは)
(わたくしが“自由でいたい”と願ったから――そしてその自由に、責任を持ちたいと思ったから)
王都の塔の影は、もう見えない。
白薔薇の庭も、どの方向にあるのか判然としない。
けれど、目を閉じれば思い出せる。
冬の光の中で、ようやく開いた一輪の白薔薇。
「王妃候補の飾り」ではなく、「自分の足で選んだ関係」のそばで揺れていた花の姿。
(この旅路で出会うすべてを――)
リリアンヌは、組んでいた手に少し力をこめる。
(“誰かの物語の装飾”としてではなく、
わたくし自身の歩みとして、刻んでいきましょう)
王宮の塔から伸びていた影は、もう届かない。
代わりに、街道の先には、まだ見ぬ街々と、人々と、冬の気配が、薄く輪郭を見せはじめている。
塔の影が小さくなり、白薔薇の庭が見えないほど遠くなっても――
彼女の胸の内には、あの日見上げた白い花の光が、確かに残っていた。
王宮を離れ、未知の地へ。
それは、“選ばれなかった令嬢”が、
今度は自分の足で世界を選びに行く――
自由の旅の始まりだった。




