光の中へ ―― 白薔薇は、自分の足で歩き出した。
いつもより少し早く、まぶたの裏がわずかに明るくなる感覚で、リリアンヌは目を覚ました。
寝台の上で、しばらくのあいだ天蓋の模様をぼんやりと追う。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の空気をうっすらと金色に染めていた。
――昨夜のことが、ふっと胸をかすめる。
静かな部屋。ソファに向かい合って座る自分とアルベルト。
「今度こそ、君を僕の意志で選びたい」と告げられた声。
そして、自分の口から確かにこぼれた言葉。
『ありがとう。でも、わたくしは今はまだ、自由でいたいのです』
そこで、思わず小さく笑ってしまいそうになる。
(……まるで、夢の中での出来事のようですわね)
しかし、胸の奥の感覚はあまりにも生々しくて、夢だとはっきり否定していた。
少しだけ痛くて、でもその痛みごと、自分のものだと受け入れられるような、不思議な重み。
上体を起こし、寝台の縁に腰掛ける。足先が床に触れる感触とともに、昨夜の自分の言葉をゆっくりと、心の中でなぞった。
(わたくしは……アルベルト様の手を、取らなかった)
その事実を、ひとつひとつの音を確かめるように反芻する。
(殿下のお気持ちは、軽いものではありませんでしたわ。
あの頃、喉が裂けるほど欲しかった“言葉”を、昨夜のわたくしはちゃんと受け取って……それでも、“はい”とは申しませんでした)
胸の奥が、きゅう、と小さく縮む。
あの手を取っていれば、どれほど分かりやすく未来が定まっただろう――その想像が、全く浮かばないわけではない。
王妃候補としての立場。
家の安泰。
「やはりリリアンヌ様が」と囁く周囲の安心した顔。
どれも、かつての自分なら、迷うことなく飛びついていたはずのものだ。
けれど。
(……あの選択が、間違いだった気はしませんの)
そっと胸に手を当てる。鼓動は、驚くほど落ち着いていた。
昨夜の部屋で感じていた緊張は薄れ、代わりに、静かで、じんわりとした温かさが残っている。
(“正解”だと、胸を張って言えるほど強くもありませんわ。
これから先、どのような噂が立つのか、家にどのような影響が及ぶのか――不安がないと言えば、嘘になります)
学園の視線。
王宮の思惑。
父や母の心境。
考え始めればきりがない未来の景色が、ぼんやりと浮かんでは、霧のようにほどけていく。
(それでも――)
リリアンヌは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
朝の冷たさをわずかに含んだ空気が、肺の内側をさらりと撫で、頭の中を澄ませていく。
(昨夜のわたくしは――たしかに、臆病でした)
アルベルトの差し出した手を、取りたくなかったわけではない。
その先に広がるであろう眩しい未来に、心が揺れなかったわけでもない。
(けれど同時に、逃げずに選んだのだとも思いますの)
誰かに決められた幸せに身を任せるのではなく、
自分で「今はまだ」と言うこと。
王妃候補としての名誉を手放す可能性まで引き受けて、それでも「自由でいたい」と口にすること。
それは、あの頃の自分なら、到底できなかった選択だ。
窓辺へ歩み寄り、カーテンの端を指先でそっと持ち上げる。
細い布の隙間から差し込む朝の光が、彼女の白い指と頬を柔らかく照らした。
昨夜、灯りの落ちた部屋で決めた言葉。
闇の中で震えながら、それでも絞り出した自分の意志。
それが、今――光の中にさらされても、色褪せずそこにある。
リリアンヌは、そのことを確かめるように、もう一度、小さく微笑んだ。
(……ええ。大丈夫ですわ、リリアンヌ・エルンスト)
(わたくしは、選ばれなかったのではなく――
自分で“選ばないこと”を選んだのですもの)
胸の奥に静かに灯ったその思いを抱きしめながら、彼女はカーテンを開ききった。
春の朝の光が、部屋いっぱいに広がる。
その光の中へ、一歩、足を踏み出すように。
今日もまた、自分の足で歩いていくために。
学園の正門をくぐった瞬間、空気のわずかな違いを、リリアンヌは肌で感じ取った。
いつもの朝と同じはずのざわめき。
けれど、そのざわめきの中で、いくつかの視線だけが、ほんの少し温度を変えてこちらへ向けられている。
廊下を歩けば、すれ違う令嬢の一人が、ほんの一拍だけ微笑むのを忘れたように口をつぐみ、隣の友人と目配せをする。
談話室の前を通れば、カップを持つ手が止まり、笑い声が一瞬だけ細くなる。
(……もう、広がっていますのね)
予想していたことだ。驚きよりも、どこか諦めに近い静けさで、リリアンヌは心の中で呟く。
背後で、かすかな囁き声が重なった。
「ねえ、聞いた? 昨日の放課後……」
「殿下と、リリアンヌ様が、だいぶ長いこと二人きりでお話していたって」
「まあ……! ついに“正式なご婚約の確認”かしら」
「学園中が見守る中で、あらためてお約束を交わされるなんて……さすがリリアンヌ様、やっぱり王妃様ね」
悪意の棘は、どこにもない。
むしろ、その声音にはうっとりとした期待と、恋物語を楽しむ乙女らしい高揚が混じっている。
(殿下と長く話していた――という事実は、たしかにその通りですわね)
リリアンヌは横顔だけで微笑みを作り、あえて振り返らない。
足取りは乱さず、しかし耳だけは、もう少し先で交わされる会話を拾っていた。
「ねえ、“氷の令嬢”なんて言っていた人たちも、最近は“理想的な王妃候補”って……」
「そうよ。慈善活動に、特待生との交流に、王宮からの正式なお言葉まで。
ここまで揃えば、もはや誰も文句は言えないでしょう?」
「殿下も、ようやく“本心をお伝えになった”ってことね。素敵だわ……」
――本心。
ちらりと胸が痛んだが、その感覚はすぐに静かな波に飲まれていった。
(“殿下が本心を伝えた”という点だけは、きっと間違ってはいませんわ)
ただし、その先に続く物語の形は、彼女たちが想像するものとは、まるで違っている。
階段を上る途中、廊下の向こうから男子生徒たちの声が飛び込んできた。
「おい、聞いたか? 殿下、ついに動かれたらしいぞ」
「やっぱりな。王宮からの文書の噂もあったし、“婚約をはっきりさせる”タイミングって話だったろ」
「これで、余計な派閥も黙るさ。“殿下の婚約者は公爵令嬢リリアンヌ様”って、誰もが認める形になる」
彼らの目に映る世界は、政治と均衡と、物語としての整合性でできている。
そのどれもが、王太子の婚約問題を「元のレール」に戻したがっている。
踊り場で足を止め、窓の外に視線を向ける。
初春の光を受けて、校庭の木々は薄く芽吹き始めていた。
(――そう。何もかも、“そうあってほしい物語”に回収されていくのですわね)
殿下と公爵令嬢。
失いかけた婚約が、困難を経て再び確かに結ばれる。
元・「氷の令嬢」が、慈愛の王妃候補として生まれ変わる――。
誰もが安心して拍手を送れる、分かりやすく美しい筋書き。
その物語の中で、昨夜の応接室で交わされた「いいえ」は、たぶん想像の外側にある。
(わたくしが、昨夜“いいえ”と告げたことなど……)
窓硝子に映る自分の瞳を、リリアンヌはじっと見つめた。
そこに浮かぶのは、後悔ではなく、淡い決意の色だ。
(誰も、想像すらなさらないのでしょうね)
もちろん、彼らを責める気持ちはなかった。
彼らはただ、「物語らしい結末」を望んでいるだけなのだから。
ただ、その物語の主役として名前を呼ばれているはずの自分が、
そこからそっと身を引いていることなど、誰も知らないだけだ。
再び歩き出す。
教室へ向かう途中、何人かの令嬢から、いつもより丁寧な挨拶を受けた。
「ごきげんよう、リリアンヌ様」
「ごきげんよう。……今日も、お美しくていらっしゃるわ」
彼女はいつも通り、穏やかな微笑みで返す。
「ごきげんよう。皆さまも、どうか良い一日を」
目の前の世界は、昨日までと何ひとつ変わらない顔をしている。
けれど、その世界の中でたった一つだけ変わったもの――それは、昨夜、自分が選んだ「いいえ」という言葉だ。
噂が勝手に紡ぎ出す物語と、胸の奥に秘めた現実とのあいだに、静かな距離が横たわる。
その距離を見つめながら、リリアンヌは思う。
(物語は、きっとこれからも“わたくしを選ばれた令嬢”として語りたがるでしょう)
(けれど――わたくしの足が、どこへ向かうのかを決めるのは。
噂でも、期待でもなく、わたくし自身ですわ)
その決意をそっと胸の奥にしまい込み、彼女は教室の扉に手をかけた。
朝の光が、扉の隙間から差し込み、噂に彩られた一日が、静かに始まろうとしていた。
昼下がりの図書室は、いつも通り静かだった。
窓際から差し込む光が、積まれた本の背を柔らかく撫でていく。
紙とインクの匂いに包まれたその一角――いつものテーブルに、リリアンヌはそっと腰を下ろした。
ほどなくして、両腕一杯に資料を抱えたエミリアが姿を見せる。
彼女はリリアンヌを見つけた瞬間、胸の前で本をきゅっと抱きしめるようにして、足早に近づいてきた。
「リリアンヌ様……っ!」
「エミリアさん。そんなに急がれますと、足をお挫きになりますわ」
慌てて椅子から立ちかけるリリアンヌを、エミリアはぶんぶんと首を振って制した。
「だ、大丈夫です。ただ、その……あの……」
言い淀む視線が、明らかに何かを言いたがっている。
そこへ、積んだ本を片手で肩に担ぎながら、ミラが半ば呆れた顔でやって来た。
「そこで固まってても話は始まらないですよ、エミリアさん」
どさり、と向かいの椅子に本を置くと、ミラは遠慮のない目でリリアンヌを覗き込む。
「で。昨日の放課後の話です」
エミリアが「ミラさん!」と小声で抗議するが、ミラは聞いちゃいない。
「普通に考えて、あれですよね? プロポーズか、それに近い話」
図書室の静けさを気にして、さすがに声量だけは抑えている。
けれどその直球ぶりに、リリアンヌは思わず小さく笑った。
「……まあ、そう受け取られても仕方のない内容でしたわね」
エミリアが、机の端に本を置きながら、そわそわと指先をもてあそぶ。
「あ、あの……わたくし、廊下で少しだけ噂を耳にいたしまして……
殿……いえ、アルベルト様と、かなり長くお話をなさっていた、と」
「ええ。殿下――いえ、アルベルト様とは、少し……いいえ、少々長めにお話をしておりましたの」
そこで言葉を切り、リリアンヌは二人の顔を順番に見つめる。
好奇心と心配の入り混じった視線。
この二人には、隠したくない――そう思わせる瞳。
「エミリアさん、ミラさん」
「は、はいっ」
「なんでしょう」
彼女はほんの少しだけ、困ったように微笑んだ。
「昨夜のことですが……わたくし、“はい”とは申しませんでしたの」
テーブルの上の空気が、一瞬きゅっと縮まる。
エミリアの目が、ぱちぱちと瞬きを繰り返し、やがてまん丸になる。
「……あの、その……えっと」
言葉を探している彼女の横で、ミラは一拍の沈黙ののち、ふう、と長く息を吐いた。
「……ですよね」
リリアンヌは、思わず目を瞬かせる。
「“ですよね”、なのですか?」
「はい。“ですよね”です」
ミラは椅子の背にもたれ、天井を仰ぐようにしてから、視線を戻した。
「公爵令嬢としての“最高の選択”と、
リリアンヌさん本人の“したい選択”が、同じはずって決めつけるほうが、変ですから」
その言い方は素っ気ないのに、不思議と胸に優しく響いた。
エミリアは、まだ驚きの余韻を抱えながらも、ゆっくりと小さく頷く。
「わたくし……少し、ほっといたしました」
「ほっと?」
問い返すと、エミリアは慌てて手を振る。
「あっ、いえ、その……殿下のことを否定するとか、そういう意味ではなくて……!」
頬をうっすら染めながら、言葉を選ぶように続ける。
「リリアンヌ様が、“自由でいたい”と仰ったと聞いて……
ああ、やっぱりリリアンヌ様は、リリアンヌ様のままでいてくださるんだ、って……」
胸の前で、ぎゅっと指を握りしめる。
「王妃様になられても、きっと素晴らしいお方になると思います。
でも……どこか遠くに行ってしまわれるような気もして、おそろしくて」
リリアンヌは、そっと目を細めた。
「遠く、ですの?」
「はい。
とても立派で、誰からも尊敬される“王妃様のリリアンヌ様”を、遠くから見上げるだけで……
図書室でこうして一緒に本を開くことも、領地の話や庶民の暮らしを、同じ高さで語り合うことも……
いつか、できなくなってしまうのではないかと」
エミリアの不安は、幼い我儘ではない。
敬意と、憧れと、それでも隣にいてほしいという願いが、ぎこちなく混ざり合っている。
(……わたくしが“選ばれる道”に進めば、きっと誰かがこうして寂しさを覚えるのですわね)
ミラが、ふと口元だけで笑った。
「エミリアさん、言いたいこと言えたじゃないですか。
ちなみにわたしは、ちょっとスッキリしましたよ」
「スッキリ?」
「だって、“殿下に選ばれなかったリリアンヌさん”って図は、
ここの人たちはすぐ“可哀想”とか“失敗した”とか言い出しそうですけど」
ミラは肩をすくめる。
「実際には、“自分の足で選んだリリアンヌさん”なわけで。
そういうの、わたしは好きです」
あまりにもあっさりとした言い方に、思わず笑いがこみあげた。
「ミラさんは、やはりお強いですわね」
「強くないですよ。
ただ、誰かに“選ばれなかった人”を、最初から“負けた側”みたいに扱う空気が嫌いなだけです」
ミラは、机の上の本を指先でとん、と叩いた。
「殿下に選ばれるのが正解って、誰が決めたんですか。
リリアンヌさんが、自分で選んだほうが、よっぽど信用できます」
その言葉に、エミリアもおずおずと頷いた。
「わたくしも……そう思います。
殿下に選ばれなくても、わたくしたちにとって、リリアンヌ様は――」
そこで、エミリアは胸に手を当てる。
「いつだって、“誰かの冬を案じてくださる方”で。
庶民のわたくしにも、同じ目線で声をかけてくださる方で……」
少し照れたように笑って続けた。
「そのリリアンヌ様が、“自由でいたい”と仰るなら……
わたくしは、その自由を応援したいです」
――選ばれなかったわたくしを、どう思う?
喉元まで上がりかけていた問いは、言葉になる前に、胸の中で形を変えていく。
(わたくしが“選ばれない道”を選んでも――)
リリアンヌは、二人の顔をゆっくり見渡した。
真面目で、少し臆病で、それでも勇気を振り絞って言葉をくれるエミリア。
不器用な優しさで、他人の物差しを嫌がってくれるミラ。
(離れていかない人たちが、ここにいる)
それは、王宮からの書状にも、華やかな称号にも書かれない種類の「支え」だった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……ありがとう、ございます」
リリアンヌは、カップも本も持たないまま、そっと両手を膝の上で握りしめた。
「わたくしの“選ばなかった選択”を、そうして受け止めてくださる方々がいるのなら――
きっと、昨夜の“いいえ”も、無駄ではなかったのだと、思えますわ」
エミリアが、ぱっと花が咲くような笑顔を浮かべる。
「無駄だなんて、とんでもないです!」
ミラも、わざとらしく肩をそびやかしてみせた。
「そうですよ。
殿下に“いいえ”を言える人なんて、そうそういませんし。
かっこいいですよ、正直」
「かっこ……?」
「ええ。めちゃくちゃ、かっこいいです」
思わず頬が熱くなる。
王太子の求めに即答で頷かなかった自分を、誰かが「かっこいい」と言ってくれるなど、想像もしていなかった。
図書室の窓から差し込む光が、三人の間のテーブルを柔らかく照らす。
王妃ではないかもしれない未来。
それでも――この光の中で、肩書きではなく名前で呼び合える人たちがいる。
(“選ばれること”だけが、わたくしの価値ではないのだと――)
リリアンヌはそっと瞼を伏せ、胸の中で小さく頷いた。
(そう思わせてくださる方々が、こんなにも近くにいてくださるのですもの)
ページをめくる音が、再び静かな図書室に重なっていく。
彼女の選ばなかった道は、決して空白ではない。
そこには、彼女自身の足跡と、それを共に見つめてくれる友の視線が、確かに刻まれ始めていた。
昼下がりの図書室は、今日も静かだった。
高い窓からこぼれる光が、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせる。
紙とインクの匂いに満ちたその一角――いつものテーブルに、リリアンヌはそっと本を置いた。
けれど、開いたページの文字は、さっきからほとんど頭に入ってこない。
(……昨夜のことを、どう話すべきかしら)
ページの端を親指でなぞっていると、ぱたぱたと控えめな足音が近づいてくる。
「リリアンヌ様……!」
顔を上げると、本を胸に抱えたエミリアが、入口のところで立ち止まり、こちらを見つめていた。
目が合った瞬間、彼女は小動物のように肩を跳ねさせ、慌てて駆け寄ってくる。
「そんなに急がれたら、転んでしまいますわよ」
苦笑まじりに告げると、エミリアは頬を赤くしながら、椅子の背に手を添えて小さく息を整えた。
「あ、あの……リリアンヌ様」
その横から、やや乱暴に本の山をどさりと置く音がした。
「はいはい、言いにくいことはわたしが先に聞きますよ」
ミラが、いつもの無遠慮な目でずいっと覗き込んでくる。
「昨日の放課後、殿……アルベルト様と、けっこう長く話してましたよね」
「ミラさん……!」
「だって、皆噂してますし。
まあ普通に考えて、プロポーズか、それに近い話ですよね?」
図書室の静けさに配慮して声こそ抑えているものの、言葉の直球さはいつも通りだった。
リリアンヌは、ほんの少しだけ困ったように目を細める。
「……そう受け取られても、おかしくはない内容でしたわね」
エミリアが、おずおずと口を開いた。
「あの……わたくし、廊下で少しだけ噂を耳にいたしまして。
殿――いえ、アルベルト様と、かなり長くお話をなさっていたと……それで、その……」
言葉の先を探している彼女の様子が、かえって愛おしい。
リリアンヌは、ふっと息を吐き、二人を見渡した。
「エミリアさん、ミラさん」
「はいっ」
「なんでしょう」
「お二人には……お話ししておきたいことがございますの」
そこで一度だけ、視線を落とす。昨夜の自分の言葉を、心の中でなぞるように。
そして、余計な飾りをつけずに告げた。
「殿下のお申し出に、わたくしは――“はい”とは申しませんでした」
空気が、きゅっと張りつめる。
エミリアの瞳が大きく見開かれ、ぱちぱちと瞬きが増える。
「……っ」
声にならない息を飲む音が、小さく響いた。
一方で、ミラは一拍置いてから、ふう、と肩の力を抜くように息を吐く。
「……ですよね」
そのあまりにも素直な一言に、リリアンヌは思わず瞬きをした。
「“ですよね”、なのですか?」
「はい。“ですよね”です」
ミラは椅子の背にもたれ、天井をちらりと見上げてから、視線を戻す。
「だって、公爵令嬢としての“最高の選択”と、
リリアンヌさん本人の“したい選択”が、同じはずって決めつけるの、変じゃないですか」
「ミラさん……」
咎めるように呼んだエミリアに、ミラは肩をすくめた。
「だってそうでしょう?
“王妃になれるんだから当然うれしい”“断るなんてありえない”って、皆勝手に決めてますけど」
机の上の本を指先でとん、と突く。
「王太子殿下に選ばれるのが正解って、誰が決めたんです?」
その問いは、図書室の静謐な空気を乱すことなく、まっすぐリリアンヌの胸に届いた。
エミリアはまだ戸惑いの色を残しつつも、ゆっくりと頷く。
「わたくしは……少し、ほっといたしました」
「ほっと?」
首をかしげると、彼女は慌てて両手を振った。
「い、いえっ、その……殿下をお断りになったことを喜んでいるわけでは決してなくて……!」
「ええ、分かっておりますわ。続きを聞かせてくださる?」
促すと、エミリアは胸の前で両手をぎゅっと組んだ。
「リリアンヌ様が、“自由でいたい”と仰ったと聞いて……
ああ、やっぱりリリアンヌ様は、リリアンヌ様のままでいてくださるんだ、って」
「……わたくしの、まま?」
「はい」
エミリアは、少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「王妃様になられても、きっと素晴らしいお方になると思います。
でも……どこか、とても遠いところへ行ってしまわれるような気がして……」
言葉を探すように、彼女はテーブルの木目を見つめた。
「図書室でこうして本を並べて読んだり、
庶民の暮らしのことを、同じ目線でお話しさせていただいたりすることが……
いつか、許されなくなってしまうんじゃないかって、怖かったんです」
胸の奥で、何かが柔らかくほどけていく。
(そう……わたくしが“選ばれる道”を行けば、
きっと誰かが、こうして寂しさを覚えるのですわね)
ミラが、ため息まじりに笑う。
「それに、“選ばれなかったリリアンヌさん”って図を、
すぐ“可哀想”とか“失敗した”に変換する人、多いですしね」
「……たしかに」
リリアンヌも、苦笑を漏らさずにはいられなかった。
「でも実際は、“自分で選んだリリアンヌさん”なわけで。
こっちのほうが、よっぽど格好いいですよ」
「か、かっこいい……?」
「ええ。わたし、そういうの好きです」
あまりにさらりと言われて、今度は頬の熱を自覚した。
「ミラさんは、やっぱりお強いですわね」
「別に強くないですよ。
ただ、“選ばれなかった側”を、最初から“負け”扱いする空気が嫌いなだけです」
エミリアも、慎重に言葉を選びながら口を開く。
「わたくしも……あの、その……」
視線を上げ、真っ直ぐリリアンヌを見つめる。
「殿下に選ばれなくても、わたくしにとってのリリアンヌ様は――
いつだって、“誰かの冬を案じてくださる方”で」
一呼吸おいて、そっと微笑んだ。
「庶民のわたくしにも、同じ高さで本を見せて、声をかけてくださる方です」
胸の奥が、じわりと温かく満たされていく。
(わたくしが“選ばれない道”を選んでも――)
リリアンヌは、二人を交互に見つめた。
(この人たちは、わたくしから離れていかない)
王宮からの書状にも、どれほど立派な称号にも書かれない種類の「支え」が、そこにあった。
「……ありがとう、ございます」
膝の上で、そっと両手を重ねる。
「わたくしの“選ばなかった選択”を、
そのように受け止めてくださる方がいてくださるのなら――」
言葉を噛みしめるように、ゆっくり続ける。
「昨夜の“いいえ”も、きっと全くの無駄ではなかったのだと、思えますわ」
エミリアの顔に、安堵と喜びが一度に咲いた。
「無駄だなんて、そんな……!」
ミラも、大げさに肩をそびやかしてみせる。
「そうですそうです。
殿下に“いいえ”って言える人なんて、どれだけいると思ってるんですか」
「ミラさん、それは少々言い過ぎでは……」
「褒めてるんですよ。めちゃくちゃ」
おどけた口調に、リリアンヌは堪えきれず、小さく笑った。
窓から差し込む光が、三人の間に落ちた影を、柔らかく縁取る。
王妃になる未来を、いったん手放した。
けれど、その手の中が空になったわけではない。
――残っていたのは、選ばれなかった自分を、それでも隣に座らせてくれる友の温度。
(“選ばれること”だけが、わたくしの価値ではないのだと)
リリアンヌは、胸の内で静かに頷く。
(そう思わせてくださる方々が、こんなにも近くにいてくださるのですもの)
やがて、テーブルの上に本が開かれ、ページをめくる音が、再び穏やかに重なりはじめる。
選ばれなかった道の上で――彼女は、確かに自分の足で立っていた。
よく晴れた午後だった。
講義の合間、リリアンヌはひとり、人気の少ない庭園へと足を向ける。
陽を受けて輝く石畳を辿り、小径を抜けた先――そこに、白薔薇の苗木は静かに佇んでいた。
前に見たときよりも、ほんの少しだけ背が伸びている。
枝先には小さな蕾がいくつも膨らみ、若い葉が光を受けて薄く透けていた。
指先で触れれば、簡単に折れてしまいそうなほど頼りない。
それでもその葉は、一枚一枚が確かに、空へ、光のほうへと伸びていこうとしている。
リリアンヌは、その前に立ち、そっと息を吐いた。
(かつて、白薔薇は“殿下と婚約者の物語”を飾るための花でしたわ)
胸のうちで、過去の自分の姿を思い描く。
(“王妃たるわたくし”を証明するための飾り――
そう信じ込んで、花びら一枚一枚にまで、息苦しさを感じていました)
あの頃は、まだ見ぬ満開の白薔薇を夢見ながら、
同時に、その花に自分の価値のすべてを縛りつけていた。
この花が美しく咲かなければ、
自分は“王妃にふさわしくない”と、どこかで怯えていたのだ。
風が、ひとひら葉を揺らす。
光を含んだ緑がちらりときらめき、足元に落ちる影もまた、かすかに揺れた。
かつて――その影の中に立つ自分は、花の下に従属するようにうつむいていた気がする。
だが今、彼女はまっすぐに顔を上げていた。
「……今、この白薔薇が咲く場所を――」
思わず、言葉が小さく唇からこぼれる。
「誰の舞台にするのか。
それを決めるのは、もう“昔の物語”ではなくて……」
彼女はそっと、自分の胸に手を当てた。
制服越しに伝わる鼓動は、驚くほど静かで、けれど確かに温かい。
「ここにある、今のわたくし自身の選択、ですのね」
囁くような声に、蕾は当然ながら何も答えない。
けれど、陽の光を受けた緑の影が、彼女の足元で、花と同じ向きに伸びている。
――昔のわたくしなら、“白薔薇の下”に立っていたでしょう。
花に相応しい姿であろうと、背筋を固く伸ばしながら。
その実、自分の居場所を、花びらに決めさせていた。
けれど今、彼女は花と向かい合って立つ。
白薔薇は、もう「殿下と婚約者の物語」だけを飾る装飾ではない。
学園で学ぶ者たちが行き交い、誰かが本を読み、誰かが笑い合う――
そんな日々の傍らで、静かに咲こうとしている花だ。
「ここは、“誰のための庭”なのかしら」
問いかけて、自分で答えに辿り着く。
「殿下とわたくしだけのもの、ではもうありませんわね。
エミリアさんも、ミラさんも。
そして、まだ見ぬ誰かの歩みも、きっとこの小径を通っていく」
だったら――。
視線を落とせば、薔薇の影と、自分の影が並んで伸びている。
(わたくしは、もう“花の証明”としてここに立つのではありません)
(白薔薇のそばに、自分の足で立つ場所を――
自分で選んで、ここにいるのです)
かつては、花に価値を与えられる自分であろうとした。
今は、自分の選択で花の意味を塗り替えようとしている。
王妃候補として、ではなく。
誰かの冬を案じ、友と机を並べる、一人のリリアンヌ・エルンストとして。
彼女は小さく微笑み、蕾へと軽く頭を垂れた。
「咲く時が来ましたら――どうか、その時は」
囁きを、春の光がさらっていく。
「“誰かが望んだ物語”ではなく、
わたくしが選び続けた日々のそばで、咲いていてくださいませ」
白薔薇の影は、彼女の影と重なりながら、静かに揺れた。
もう、その足は、花に縛られてはいない。
光の中へ――自分の意志で進むために、そこに立っていた。
夕陽が傾きかけたころ、リリアンヌを乗せた馬車が、公爵邸の門をくぐった。
玄関で簡単な挨拶を済ませると、侍女に「あとで部屋にまいります」と微笑み、彼女はその足で父の執務室へ向かう。
扉の前で軽くノックをすれば、「入りなさい」という低い声が返ってきた。
重厚な書棚と書類の積まれた机。
その向こう側で、公爵エルンストはペンを置き、娘へと視線を向ける。
「お帰り、リリアンヌ」
「ただいま戻りましたわ、お父様」
形式的なやり取りのあと、少しの沈黙が落ちる。
父は机の端に置かれた書簡に視線を flick と走らせ、それから娘をまっすぐ見据えた。
「……学園で、殿下と話したと聞いたが」
遠回しな言い方だった。
“何を話した”ではなく、“話したと聞いたが”――噂を耳にしている、という程度にとどめた問い。
リリアンヌは、その配慮を感じ取り、静かに頷く。
「ええ。アルベルト様から……“ご自分の意志で、わたくしを選びたい”と、お言葉をいただきました」
公爵の眉が、わずかに動く。
驚愕ではない。想定の範囲にあった事態を、現実として突きつけられたときの反応だ。
「……そうか」
短い相槌のあと、彼は慎重に言葉を選ぶように続ける。
「殿下は、将来のことについて、どこまで踏み込んでおられた?」
「“王妃として”というお言葉も、もちろん含まれていたと思いますわ」
嘘はつかない。それが、父に対する彼女なりの礼儀だった。
リリアンヌは一度まぶたを伏せ、それから正面から父を見た。
「ですが――今のわたくしは、そのお申し出に、頷くことができませんでした」
その瞬間、公爵の表情が、わずかに固くなる。
瞳の奥に、計算と不安とが一瞬だけ揺れた。
公爵家の立場。王宮との均衡。娘が王妃になる可能性――そのすべてを一度に思い浮かべたのだろう。
「……断った、ということか」
「はい」
はっきりとした肯定。
部屋の空気が、わずかに重くなる。
リリアンヌは、逃げるように視線を逸らすことはしなかった。
父に対してだけは、臆病な自分を隠したくなかった。
「お父様」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
「アルベルト様のお言葉が、軽いものではないことは、よく分かっております。
あの頃のわたくしがどれほど欲しがっていたかも、痛いほど」
そこまで言って、彼女は小さく息を吸い直す。
「それでも今のわたくしは……
“王妃に選ばれるかどうか”だけで、自分の未来を決めてしまいたくはないのです」
公爵は、娘の瞳をじっと見つめていた。
沈黙が数拍、続く。
やがて、彼は深く、長いため息を吐いた。
「……まったく」
呟きとともに、口元にかすかな苦笑が浮かぶ。
「本当に、母親に似てきたな、君は」
不意に告げられた名に、リリアンヌが瞬く。
「お母様に、ですか?」
「ああ」
公爵は椅子の背にもたれ、天井を仰ぐように目を細めた。
「若い頃のあの人も、王妃になろうと思えばなれた。
周囲も、それを望んでいた」
「……そう、だったのですか」
「だがあの人は、『私の望む働きは、王妃の椅子の上だけには収まらない』と言ってな。
“公爵夫人”という立場を選びながら、自分のしたいことを貫いた」
くつくつ、と喉の奥で笑う気配がする。
「王妃になれば、それはそれで家にとって誇りだ」
そこで、彼は改めて娘を見つめた。
「だが、“王妃でないと誇れぬ娘”だと、私は一度も思ったことはない」
その言葉は、決して軽くはなかった。
政治の駆け引きを知る者としての現実感と、
一人の父親としての不器用な愛情とが、ぎこちなく混ざり合っている。
リリアンヌの胸の奥で、なにかがふっとほどけた気がした。
(……わたくしは、家の名を盾にして“選ばされる”のではなく)
(“公爵家という後ろ盾があるからこそ選べる道”も、あるのですわね)
初めて、そう思えた。
公爵は机の上の書類を軽く指でとんと叩き、口調をほんの少しだけ厳しく戻す。
「もっとも、リリアンヌ」
「はい」
「どの道を選ぶにせよ――
自分で選んだ道の責任だけは、決して手放すな」
それは釘であり、同時に信頼の裏返しでもあった。
「迷うことがあれば、私も話を聞こう。
だが最終的に足を踏み出すのは、他の誰でもない、君自身だ」
リリアンヌは、静かに微笑む。
「……はい。肝に銘じておきますわ」
頭を垂れたとき、窓から射し込む夕陽が、彼女の横顔を金色に縁取った。
白薔薇の影のそばで、自分の足で立つと決めたあの午後。
その決意は、家の中でも揺らぐことなく、静かに根を下ろし始めている。
――王妃にならずとも、家の誇りであること。
その言葉が、そっと背中を押してくれるのを感じながら、
リリアンヌは執務室をあとにした。
よく晴れた昼下がり、学園の中庭には、春の光が惜しみなく降り注いでいた。
白薔薇の区画のそばには、小さな三人の輪がある。
リリアンヌ、エミリア、ミラ――制服のスカートを揺らしながら、何か楽しげに言葉を交わしていた。
リリアンヌは、昔のように張りつめた背筋で、完璧な「王太子の婚約者」を演じてはいない。
笑うときには肩がほんの少し揺れて、時には首をかしげ、時には眉を下げて困ったように笑う。
それでも、その一つ一つの仕草から、どうしようもなく染みついた気品が、自然とにじみ出ていた。
エミリアが、白薔薇の苗木にそっと触れそうになって、慌てて手を引っ込める。
ミラが「触っても怒られはしないでしょうけど、折ったら一生根に持たれますよ」と冗談を飛ばし、
リリアンヌが思わず吹き出す。
その笑い声が、風にのって少し離れた場所まで届いた。
中庭の一角。
アーチ状の石造りの回廊の陰から、アルベルトはその光景を眺めていた。
側近たちは、少し離れた場所で控えている。
ここからなら、彼がどこを見ているか、はっきりとは分からない距離だった。
(もし、あの日――)
アルベルトは、無意識に胸の奥で言葉を紡ぐ。
(あの日ここで、『はい』という返事を聞いていたなら)
白薔薇のそばに立つ彼女の姿が、
いかにも「王太子の婚約者らしい」物語の一場面として、語られていたのだろう。
学園で語り継がれる、美しい逸話として。
(この光景は、もっと分かりやすく“僕の物語”の一部になっていたはずだ)
王太子と、その婚約者。
白薔薇の庭で未来を約束し合う、誰もが羨む光景――そんなふうに。
だが今、そこにいるリリアンヌは、彼の隣に立つために笑っているわけではない。
エミリアが何かを言えば、同じ高さで頷き、
ミラが冗談を言えば、遠慮なく突っ込みを返す。
庶民出の特待生と、公爵令嬢と、地方貴族の娘。
身分も生まれも異なる少女たちが、同じ机でノートを広げ、同じ庭で陽を浴びている。
そこにあるのは、「王太子の婚約者の社交」ではなく、
ただ、リリアンヌが自分で選んだ友人たちと過ごす、ささやかな時間だった。
(……君は今、僕の隣に立つために、ここにいるんじゃない)
アルベルトは、指先に力が入るのを感じながら、そっと拳を握りしめた。
あの夜の「いいえ」が、胸の奥で静かに疼く。
だが、その痛みには、怒りも恨みも混じっていない。
(あの時の“いいえ”は――)
風に揺れる彼女の髪を眺めながら、彼は考える。
(僕を拒んだだけの言葉じゃなかったのだろう)
王妃として選ばれるためだけに、白薔薇の前に立たされる花ではなく。
自分の足で立ち、自分の選んだ人たちと笑う、その場所を――
自分自身の手で選び取るための、“いいえ”。
(王妃として選ばれるためだけに咲く花から――)
白薔薇の苗木にちらりと視線を移す。
まだ蕾は固く、しかし確かに数を増やしつつある。
柔らかな陽の光を受けて、若い葉が淡く透けていた。
(君自身の足で立つ場所を選ぶための、“白薔薇”へと変わるための言葉だったのかもしれない)
そう思うと、胸の奥の痛みは、形を変えていく。
惜しさも、名残も、確かにそこにある。
けれど、それを理由に彼女の選択を否定しようという気持ちは、どこにもなかった。
(……眩しいな)
気づけば、そんな苦笑が心の中に浮かんでいた。
光の中で笑う彼女は、決して、誰かの腕にすがって立っているのではない。
自分の足で、少しずつ、歩き出している。
その姿を、ただ「惜しい」とだけ言い切るには――
今のアルベルトは、もう幼くはなかった。
「殿下?」
少し後ろから、控えめな声がかかる。
真面目な側近Bが、様子をうかがうように歩み寄ってきていた。
「そろそろ講義のお時間です」
「ああ。分かっている」
アルベルトは一度だけ視線を白薔薇の区画へ戻し、それから回廊の影から足を踏み出す。
光の中で笑う彼女を、連れ出すことはしない。
ただ、その姿を胸に刻んで、背を向ける。
(君の選んだ自由を、僕の手で狭めたくはない)
そう心の中で呟きながら。
――光の中で、自分の足で立つ白薔薇を。
彼は、ほんのわずかな未練と、確かな尊敬をもって見送った。
朝の光は、まだ少しひんやりとしていて、それでも冬とは違う柔らかさを帯びていた。
授業が始まるには、まだ少しだけ余裕がある時間。
リリアンヌは、教室へ向かう途中、ふと足を庭園のほうへと向けた。
白薔薇の区画へ続く小径は、よく手入れされた芝と花壇に縁取られている。
枝先には、まだ蕾のままの花も多い。けれど、全体に漂う空気は、たしかに「冬越え」のそれではなく、「春の途中」の匂いがしていた。
白薔薇の苗木の前まで来て、彼女は自然と歩みを緩める。
その瞬間、息がふっと止まった。
「……まあ」
そこに、一輪だけ。
前に見たときは固く閉じていた蕾が、いつの間にか花開いていた。
大輪ではない。
まだ幼さを残した、小ぶりで素朴な白薔薇だ。
それでも、朝の光をたっぷりと受けて、花びら一枚一枚が、ほとんど透明に見えるほど淡く輝いている。
露の名残が、花の縁にひとしずくだけ光っていた。
「……咲きましたのね」
リリアンヌは、小さく呟き、そっとその姿を見つめる。
手を伸ばせば触れられる距離だが、触れようとはしない。ただ、その存在を、目と心に刻みつけるように。
「リリアンヌ様!」
背後から聞き慣れた声がして、振り向けば、エミリアが息を弾ませながら駆け寄ってくる。
少し遅れて、ミラも肩で息をしながら姿を現した。
「お二人とも、おはようございますわ」
リリアンヌが笑みを向けると、エミリアもその視線の先に気づいて、目を丸くした。
「……あっ。白薔薇が……! 本当に、可愛らしい白薔薇ですね」
エミリアは、胸の前でそっと両手を組むようにして、感嘆の息を洩らす。
ミラも腕を組んで覗き込み、ふんっと鼻を鳴らした。
「なんか、前に見たときより、怖くなくなりましたね、この花」
「怖く、ですの?」
「ほら。最初にここに来た時って、“氷の令嬢と王太子殿下の完璧な物語を飾る白薔薇”って感じで……近づくと、自分の凡庸さがばれそうで、居心地悪かったというか」
ミラは、言いながら少し照れくさそうに視線を逸らす。
エミリアが「あの時、そんなふうに思っておられたのですね」とくすくす笑い、リリアンヌもつられて柔らかく笑った。
「ええ。前とは、少し違って見えますわ」
白薔薇から、そっと目を離さずに答える。
(かつて、白薔薇は――)
心の中で、言葉が静かに浮かび上がっていく。
(“王妃にふさわしいわたくし”を飾るためだけに、ここに咲いておりましたわ)
王太子の婚約者である自分を証明するための、
完璧な舞台装置。
花びら一枚一枚が、「こうあらねばならない」という期待の重さに見えた頃が、たしかにあった。
あの頃の自分は、その白さに、自分の息苦しさまで閉じ込めてしまっていた。
(でも今ここに開いた白薔薇は――)
目の前の花は、風に揺れながら、ただそこにある。
誰かの期待を背負った誇示ではなく、
根を張り、土から水を吸い上げ、季節に従って、ごく自然に「咲くべき時に咲いた花」として。
(失敗して、泣いて――)
思い返せば、あの夜の涙は、決して綺麗なものではなかった。
取り繕う余裕もないほど、みっともなく揺らいで、
それでも側にいてくれた友人たちがいて。
(誰かと机を並べて)
庶民の少女と、地方貴族の娘と、同じ高さでノートを広げる自分。
王妃候補としてではなく、ただ「リリアンヌ」として呼ばれる時間。
(自分の足で選んだ関係のそばで、静かに咲いている)
今、この白薔薇は――
王太子と婚約者の物語を飾るためだけに存在しているのではない。
この学園で学ぶ者たちが、
それぞれの一日へ向かう前に通り過ぎる、小さな白い印として。
自分の弱さも、誰かの痛みも、見て見ぬふりをしないと決めた者たちの、
その足元に、そっと添えられた花として。
(同じ白薔薇であっても)
リリアンヌは、そっとまぶたを伏せた。
(どの光の中で、誰と眺めるかによって――その意味は、いくらでも変わっていくのですわね)
かつては、眩しすぎるスポットライトの中で、
「王妃としてのわたくし」を照らす飾りだった白薔薇。
今は、朝の光の中で、
自分と、自分が選んだ友人たちと同じ景色を見ている一輪の花。
「……リリアンヌ様?」
エミリアが、心配そうに覗き込む。
リリアンヌはすぐに目を開き、二人へと向き直った。
「いいえ。何でもございませんわ。少しだけ、昔のことを思い出していただけですの」
そう言って、軽やかに微笑む。
エミリアがホッとしたように胸を撫でおろし、
ミラが「よかった。ここで『もう私、薔薇になります』とか言い出したらどうしようかと」と真顔で言って、
その場がふわりと笑いに包まれた。
白薔薇の影が、三人の足元に、柔らかく落ちている。
かつてのリリアンヌにとって、その影は「花の下に従属させられる場所」だった。
花よりも、一歩下がった位置に立つことを要求される、窮屈な立場の象徴。
けれど今、その影は――
彼女と彼女の仲間たちが、並んで立つ足元に寄り添うだけの、何でもない影だ。
白薔薇は頭上で揺れ、彼女たちは地面に足をつけて立っている。
花のために彼女たちがあるのではなく、
彼女たちが歩く先に、花がひとつ、添えられているだけ。
「さあ――」
リリアンヌは、朝の光を背に受けるように、一歩後ろへ下がった。
「授業に遅れてしまいますわ」
くすりと笑い、スカートの裾をさりげなく整えて、二人の方を見る。
「エミリアさん、ミラさん。ご一緒していただけますか?」
「もちろんです、リリアンヌ様」
「こっちのセリフですよ。勝手に置いていかないでくださいね、公爵令嬢」
三人は、自然と横に並ぶ形になる。
誰が一歩前へ出るでもなく、誰が一歩下がるでもない。
以前のような、「見栄えのための完璧な足運び」ではなかった。
けれどその歩みには、自分の意志で選んだ道を進む人間だけが持つ、
静かな強さとしなやかさが宿っていた。
白薔薇の前を通り過ぎる瞬間、
風が一度だけ、花と三人の髪を同時に揺らす。
振り返りはしない。
けれど、背中越しに感じるそこからの視線を、リリアンヌはなぜだか確かに感じていた。
(かつて、白薔薇は誰かの物語を飾るだけの花でした)
校舎へ向かう石畳を、三人で踏みしめながら、彼女は心の中でそっと結ぶ。
(でも今、春の光の中でそっと開いたその花は――)
それは、自分の足で歩き出したひとりの令嬢の、
新しい一歩を、後ろから見送るように揺れている。
白薔薇は、もう誰かの期待に縛られた飾りではない。
それは、「自分の選んだ光の中へ進んでいく」彼女の物語とともに咲く印なのだと。
リリアンヌは、そう思いながら、仲間たちと並んで歩き出した。




