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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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静かな拒絶 ―― 「ありがとう。でも私は自由でいたいの」

回廊を渡る風は、すっかり夕の色を帯びていた。


 差し出された手に「はい」とも「いいえ」とも答えぬまま、リリアンヌはその手と並んで歩いていた。

 人通りの少ない階段を上がり、学園の片隅にある小さな応接室――来客も少なく、滅多に使われることのない部屋の前で、アルベルトが足を止める。


「ここなら、人目はない」


 そう告げて扉を開くと、ほの暗い室内に、沈みかけた夕陽の名残が細く差し込んでいた。分厚い絨毯と簡素なソファ、壁際の本棚。必要以上の装飾はなく、けれど静けさだけは十分に用意されている。


 アルベルトが先に一歩入り、軽く肩越しに振り返る。


「入ってもらえるだろうか」


「……お邪魔いたしますわ」


 リリアンヌはスカートの裾を指先で摘まみ、控えめな会釈をしてから足を踏み入れた。


 机を間に置くことを互いに選ばず、斜めに向かい合うようにソファに腰掛ける。

 正面ではない分、視線がぶつかり過ぎず、それでもそらすのも難しい微妙な距離だ。


 扉が静かに閉まる音がして――部屋に、ふっと沈黙が降りた。


 壁の時計の針が、小さく時を刻む。

 窓辺のカーテンを透かして入る光は、橙から薄い紫へとわずかに色を変えつつある。


 アルベルトが何か言葉を探すように唇を動かしかけ、しかし飲み込む。

 リリアンヌもまた、手袋越しに自分の指をそっと組み直しながら、胸の内で言葉を選んでいた。


 沈黙が、もう少し続けば重さに変わってしまいそうな、その直前で――先に口を開いたのは、リリアンヌだった。


「……殿下。まず、一つだけお願いがございます」


 ふつふつと湧きかける緊張を、丁寧な微笑みで覆い隠しながら、静かに切り出す。


 アルベルトがわずかに目を見開く。


「お願い?」


「はい」


 リリアンヌは視線をそっと彼に向ける。逃げることなく、正面から。


「今夜ここでお話しすることは――“王太子殿下”と“婚約者候補”としてではなく、」


 一拍、言葉を整えるように息を吸う。


「アルベルト様と、リリアンヌ・エルンストとしての対話にしていただきたいのです」


 肩書きを一つずつ外していくみたいな口ぶりだった。

 王太子という冠も、公爵令嬢という飾りも、一時だけ扉の外に置いてきてほしい――そんな願いが、硬い敬語の奥に淡くにじんでいる。


 アルベルトの表情に、ほんの一瞬だけ驚きが走る。

 すぐにそれは、何かに納得したような、少しだけ息をついたような色に変わった。


「……分かった」


 短くそう答えたあと、彼はわずかに姿勢を正し、言い直すように続ける。


「なら……僕も、“殿下”ではなく、“僕”として話すことにしよう」


 “殿下”という言葉を自ら外したその声音には、王太子としての硬さではなく、一人の青年としての決意と不器用さが混じっていた。


 リリアンヌは、安堵とも、覚悟ともつかぬ息を胸の奥でそっと吐き出す。


(そうですわ……今夜交わす言葉を、“立場”のためのものにはしたくありませんもの)


 王太子と婚約者候補として向き合えば、きっとどこかで「正しい答え」が用意されてしまう。

 礼儀と慣習に従った、波風の立たない返答が。


 だからこそ、今だけは。


 王妃候補として選ばれるかどうかではなく――

 アルベルトというひとりの人と、リリアンヌというひとりの人間として。


 その前提を確かめ合うように、二人は互いを見つめ合った。


 部屋の外に置いてきたはずの肩書きが、扉の向こうでひそやかにざわめいている気配を、背中に感じながら。



 静かな了承が交わされたあと、再び短い沈黙が部屋を満たした。


 窓の外では、夕焼けがほとんど色を失い、群青へと溶けていく途中だった。

 その移り変わりを、視界の端に感じながら――先に息を吸い込んだのは、アルベルトだった。


「……どこから話せばいいのか、少し迷うけれど」


 彼はそう前置きしてから、膝の上で組んだ両手を見つめた。

 指先に、目に見えない緊張がうっすらと宿っている。


「僕は……ずっと、“王妃として相応しいかどうか”で君を見ていた」


 穏やかながら、逃げ場のない告白だった。


 リリアンヌは瞬きをひとつ落とし、その言葉を飲み込む。

 責めるでも、肯定するでもなく、ただ静かに受け止めるように視線を向ける。


「君が領地でしている慈善活動も、学園での振る舞いも……」


 アルベルトは言葉を探すように、少しだけ言いよどむ。


「『王妃候補として完璧だ』と評価することでしか、受け止めてこなかったんだと思う」


 それは、彼自身に向けた批判でもあった。


「“立派だ”“相応しい”って、そうやってラベルを貼れば……

 僕は、自分の責任を果たしているつもりでいられた。

 君を、ちゃんと見ているつもりになれた」


 けれど実際は――と、彼は目を伏せる。


「君がどんな顔で、どんな気持ちでそれをしているのかまでは、ろくに考えてこなかった。

 それが、どれだけ君自身をすり減らしていたかなんて、想像もしないままに」


 リリアンヌの胸の底が、きゅっと小さく痛む。


(……殿下)


 否定しようと思えば、いくらでも否定できる告白だった。

 「そんなことはありません」と微笑むこともできる。

 けれど、今ここで欲しいのは慰めではないと、彼の表情が物語っている。


 アルベルトは小さく息を吐き、言葉を継いだ。


「覚えているわけじゃない。……少なくとも、はっきりとは」


 視線が、窓の外の薄闇へと流れる。


「ただ、時々、夢を見るんだ。

 たくさんの視線とざわめきの中で、誰かが膝をついていて……

 僕は、その人に向かって伸ばしかけた手を、途中で止めてしまう夢だ」


 リリアンヌの指先が、ほんの僅かに震えた。

 だが彼の視線は外に向けられているままで、その微かな震えには気づいていない。


「誰の手かも、誰に向けたのかも、うまく思い出せない。

 けれど……“あの時、伸ばさなかったことを、今も悔やんでいる”という感覚だけが、妙に生々しくて」


 彼は自嘲気味に笑い、首を振る。


「滑稽だろう? 記憶も曖昧なのに、後悔だけはやけに鮮明でさ」


 リリアンヌは首を振らなかった。否定も、肯定もしない。

 ただ、膝の上で指を組み直し、そっと彼の言葉の行き先を待つ。


「だからこそ、かもしれない」


 アルベルトは、ようやく彼女に視線を戻した。

 その瞳には、迷いと決意が混じり合っていた。


「今度こそは――誰かの正しさに隠れるのではなく、僕自身の意志で君を選びたい。そう思った」


 「今度こそ」という言葉に、夢の中の“伸ばしかけた手”の影が重なる。


 彼は続ける。


「君は、王妃にふさわしい人だと思う。

 それは、変わらない。君の知識も、気高さも、視野の広さも――どれも、この国にとって大きな力になる」


 そこまでは、これまでと大差ない評価だ。

 けれど、次の一息には、今までとは違う温度が宿っていた。


「でも、今の僕が言いたいのは、それだけじゃない」


 アルベルトは、言葉を選ぶように、ひとつひとつを丁寧に紡いでいく。


「講義の合間に、庶民の子たちと机を並べている君を見た。

 パン配給の仕組みを、難しい顔で計算しながら、それでも子どもたちの話をちゃんと聞いていた君を見た」


 リリアンヌの胸に、数日前の光景がよみがえる。

 ノートを広げ、ミラとエミリアと一緒に頭を抱えながら、配給ルートの図を描いていたあの時間が。


「誰も見ていないところで、君は誰かの冬を案じていた。

 肩書きではなく、名前も知らない誰かの──震える手や、空っぽの食卓を思っていた」


 その言葉に、リリアンヌの喉がきゅっと詰まる。


「僕は……そんな君と、一緒に国を見ていきたいと思った」


 王太子としてではなく、一人の青年としての願いが、そこにはあった。


「王妃にふさわしいから、という順番ではなくて。

 “君となら、この国を見ていける”と思ったから――君を隣にいてほしい、と」


 言い終えたあと、室内の空気が、僅かに揺れた気がした。


 リリアンヌは、ずっと黙って聞いていた。

 表情は穏やかだが、その穏やかさの下に、苦しさの影が淡く滲んでいる。


(殿下は……いいえ、アルベルト様は)


 彼女は心の中で訂正する。


(本気で、変わろうとなさっているのですわ)


 “王妃にふさわしいから”“皆が納得するから”という理由を、言おうと思えばいくらでも口にできただろう。

 実際、それだけで世の中の多くは納得する。


 けれど今、彼が差し出しているのは、もっと個人的で、不器用な言葉だった。


 王子としての正しさではなく、アルベルトという一人の人間としての願い。


 それはあまりにも誠実で、あまりにも真っ直ぐで――

 だからこそ、このあと自分が口にしようとしている答えが、いっそう重く、苦く感じられていく。


 リリアンヌは、そっとまつ毛を伏せた。

 微かな痛みとともに、胸の奥で何かが軋む音がする。


(……ありがとうございます、殿下)


(けれど――わたくしの心は、もう、あの頃と同じ場所には戻れませんの)


 まだ、その言葉は声にならない。

 けれど、避けては通れない答えが、確かに彼女の喉もとまで上がりかけていた。



 しんとした静けさが、部屋の隅々にまで染み込んでいた。


 アルベルトの言葉が途切れ、窓の外からは、宵の鳥の声がかすかに聞こえてくる。

 リリアンヌは膝の上で指を組み直し、ひとつ、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「……殿下のお気持ちが、軽い憧れや義務感ではないことは、よく伝わってまいりましたわ」


 柔らかな声音だった。

 その中に、彼の誠実さを決して軽んじてはいない、確かな敬意が含まれている。


 アルベルトの肩が、ほんのわずかだが緊張をゆるめる。

 それでも、その瞳の奥には、まだ答えを待つ不安が残っていた。


 リリアンヌは一拍置き、視線を膝から彼へと戻す。


「もし、わたくしが“あの頃のまま”のリリアンヌでしたなら――」


 自嘲にも似た微笑みが、そっと唇に浮かぶ。


「今すぐにでも、『光栄ですわ』と微笑んでいたことでしょう」


 アルベルトの瞳が、かすかに揺れた。


「“殿下に選ばれること”だけを、わたくしの価値のすべてだと信じていた頃なら」


 その頃の自分を思い出すように、リリアンヌはふっと目を伏せる。


「王妃候補として相応しいと言っていただけることが、

 息をする理由であり、明日を耐える支えであり――

 それ以外のものなど、見つめることも恐ろしかったあの頃でしたなら」


 静かな苦笑が、喉の奥でほどけた。


(あの時なら――)


 心の中で、彼女はそっと続ける。


(この言葉は、夢が叶った証として、涙が出るほど嬉しかったに違いありませんのに)


 王太子が、自分の名を呼び、自分を「選びたい」と口にする。

 かつての彼女にとって、それは物語の最終ページに書き込まれるはずだった「幸福な結末」そのものだ。


 だが、今は。


 リリアンヌは、ゆっくりと目を開ける。

 その瞳には、ほんの少しの寂しさと、確かな静けさが宿っていた。


「けれど今のわたくしは……」


 言葉を選びながら、ひとつひとつを丁寧に紡ぐ。


「あの頃とは、少しだけ違う場所で、世界を見てしまっておりますの」


 アルベルトが、息を呑む気配がした。


「領地の冬のことを知りました。

 パンの重さを計算するとき、数字の向こう側に、震える小さな手を思い浮かべるようになりました」


 自分自身の変化を、静かに言語化していく。


「庶民の学生たちと机を並べて、字の読み書きに苦労する姿も、

 それでも諦めずにノートを開く姿も、見てしまいました」


 その一人ひとりの顔が、心の中に浮かぶ。

 ミラの、少し不器用な笑い。エミリアの、真剣にペンを握る横顔。

 名前も知らない子どもたちの、硬く荒れた手。


「そうしているうちに……“殿下に選ばれること”だけが、

 わたくしの世界のすべてではなくなってしまったのです」


 それは、アルベルトへの想いが冷めた、ということではない。

 けれど「それだけでは足りない」と気づいてしまったことを、意味していた。


「殿下のお言葉が、どれほど真摯で、どれほど重みを持つものかも分かりますわ。

 わたくしを“肩書き”ではなく、“一人の人間として”見ようとしてくださっていることも」


 そこでリリアンヌは、ほんの少しだけ視線をそらし、窓の外の淡い宵の光を見つめた。


「だからこそ、揺れてしまいますの」


 胸の奥で渦巻く感情に、そっと名前を与える。


「昔のままのわたくしなら、迷うことなく頷けたでしょう。

 けれど今のわたくしは――殿下のお気持ちを嬉しいと感じる一方で、

 別の何かを、どうしても手放せずにいるのです」


 アルベルトは、黙って彼女を見つめていた。

 押しつけることも、急かすこともせず、ただ、その揺らぎごと受け止めようとしている。


(殿下の誠実さを、わたくしは軽んじたくありません)


(でも同じくらい――今ここまで歩いてきた、自分自身の変化も、なかったことにはできませんの)


 リリアンヌは、そっと微笑んだ。

 それは、喜びと寂しさとを等しく含んだ、どこか痛みを宿した笑みだった。


「……殿下。わたくし、決して嬉しくないわけではないのです」


 そう前置きしてから、はっきりと告げる。


「“あの頃のわたくし”なら、即答で『はい』と申し上げていた――

 そのことを、どうか信じていただけますか?」


 それは、過去の自分への、そして目の前の彼への、ささやかな誠意の証だった。


 アルベルトの問いかけは、部屋の空気をさらに静かにした。


「……今の君は、何を望んでいる?」


 真正面から向けられた視線を、リリアンヌはまっすぐ受け止める。

 すぐには答えず、膝の上でそっと指を重ね直し、ひとつ息を整えた。


「わたくしは――“自由でありたい”のです、殿……いえ、アルベルト様」


 呼び名を言い直したその小さな揺らぎが、この場が「王太子と婚約者候補」ではなく、「一人と一人」の対話であることを、もう一度確かめていた。


 アルベルトの眉が、かすかに寄る。

 “自由”という言葉に、安易なわがままの響きを重ねまいとするように、黙って続きを待つ。


 リリアンヌは、その視線を感じ取りながら、言葉を丁寧に紡いだ。


「誰の期待にも応えない、気ままな自由ではなくて」


 ゆっくりと首を振る。


「領地で冬を越す人々のことを考え、

 寒さに震える子どもたちのために、何ができるかを――自分の足で選び続ける自由ですわ」


 彼女の視線は、一瞬、遠くを見るように宙をさまよった。

 頭の中には、報告書に記された数字の列と、その向こうで息づく無数の暮らしがよぎっている。


「“王妃候補だから”ではなく、“わたくし自身が選んだから”という理由で、

 庶民の友人と机を並べていられる自由でもあります」


 ミラと肩を並べてノートを開き、エミリアとペン先を汚しながら書類をまとめる光景が、胸裏に温かく広がる。


「その自由を、わたくしは手放したくないのです」


 アルベルトは、静かに息を呑んだ。

 それは「責任からの逃げ口上」ではなく、むしろ責任を抱えたまま、自ら選び続けようとする人間の言葉だった。


 リリアンヌは、少しだけ視線を落とし、それからまた彼を見つめる。


「王妃になれば、そのお立場はきっと、わたくしの世界を広げてくださるでしょう」


 その点は否定しない。

 王妃という地位が持つ権限も影響力も、彼女は理解している。


「けれど同時に、“こうあらねばならない王妃”という形に、

 再びわたくし自身を、きっちりと押し込めてしまうかもしれません」


 そこで言葉を区切り、少しだけ苦笑する。


「かつてのわたくしは、その“形”の中に自分を押し込めることで、

 ようやくここにいてもいいのだと、自分を納得させておりました」


 “完璧な王妃候補”という仮面。

 微笑みも、所作も、発言も、すべて「期待される通り」であるように整えて、ようやく息ができると思い込んでいた日々。


「けれど今は――」


 瞳に、ほんの少しだけ、恐れに似た色が差す。


「同じように自分を押し込めてしまえば、

 せっかく芽吹いたものたちまで、また窮屈な鉢に閉じ込めてしまうのではないかと、恐ろしくなるのです」


 領地で学んだ施策。

 庶民の友との、対等とはまだ言えずとも、少しずつ育ちつつある友情。

 “王妃候補だから”ではなく、“リリアンヌだから”差し出された、ささやかな信頼の手。


「わたくしの望む“自由”は、責任から逃げるためのものではありません」


 そう強く言い切る声音には、迷いがなかった。


「むしろ――責任を、誰かに決めてもらうのではなく、

 自分で選び取り続けるための余地、と申しますべきでしょうか」


 アルベルトの表情が、わずかに柔らかくほどける。

 その言葉が、彼女なりの覚悟から出ていることが伝わったのだろう。


「王妃というお立場そのものを、否定したいわけではございません」


 リリアンヌは、かぶりを振った。


「ただ、今のわたくしは、まだそこに身を置く覚悟ができておりませんの」


 それは、“王妃になどなりたくない”という幼い反発ではない。

 “王妃である自分”が、今の自分の自由や選択を、どう変えてしまうのか。

 その重さを知ってしまったがゆえの、慎重な一歩後退だった。


「だからこそ――今は、自由でいたいのです」


 静かな声で、もう一度、その言葉をなぞる。


「わたくし自身が歩いてきた道を、急に誰かの物語の都合で塗り替えてしまわないだけの、

 ささやかな自由を、どうかお許しいただけませんでしょうか」


 その問いかけは、「王太子への反逆」ではない。

 一人の少女が、一人の青年に向けて差し出した、精一杯誠実な願いだった。



 リリアンヌは、胸の奥で一度だけ言葉を転がしてから、静かに息を吸い込んだ。

 窓の外の空は、夕焼け色からゆっくりと群青へ移ろい始めている。


「……アルベルト様」


 あえて「殿下」ではなく、ひとりの青年としての名を呼ぶ。

 その響きに、アルベルトの肩がわずかに揺れた。


 リリアンヌは逃げずに、その瞳をまっすぐ見つめる。


「わたくしを、“あなたの意志で選びたい”と仰ってくださったこと――

 本当に、嬉しく思っております」


 言葉の端に、淡い笑みがにじんだ。


「あの頃、わたくしが欲しくて、けれど決して手に入らなかった言葉ですもの」


 前世の断罪の場で、決して伸ばされなかった手。

 “君を選ぶ”という一言を、どれほど渇望していたか――その記憶が、胸の奥で静かに疼く。


 けれどリリアンヌは、その痛みをやさしく撫でるように、まぶたを一度伏せてから続けた。


「だからこそ、今のわたくしは……」


 ゆっくりと視線を上げる。

 瞳には、微笑みと同じだけの真剣さが宿っていた。


「その言葉に、昔のわたくしのように飛びついてしまうことだけは、したくないのです」


 “選ばれること”そのものが、存在価値の証だった頃。

 あの頃の自分なら、迷いなく「光栄ですわ」と笑っていただろう。

 けれど今、その返事をしてしまえば――今まで自分の足で選び取ってきたものを、軽んじてしまうことになる。


 短い沈黙が落ちる。

 部屋の中には、時計の針の音と、窓の外で遠く吹く風の気配だけが流れていた。


 リリアンヌは、胸の前でそっと両手を重ね直し、はっきりと言葉を結ぶ。


「――ありがとう、アルベルト様」


 その一言には、嘘偽りのない感謝がこもっている。

 彼が過去の弱さから目を逸らさず、自分の意志で口にした告白を、決して軽んじていないという証として。


 そして、その感謝のすぐあとに、静かに、しかし揺らぎなく続ける。


「でも、わたくしは……今はまだ、“自由でいたい”のです」


 その「自由」は、彼から逃げるための口実ではなかった。

 王妃という座に縛られることで、自分が守りたいものを見失ってしまうことが怖いから――

 自分の足で選び続ける余地を、もう少しだけ手放したくないから。


「アルベルト様と共に歩む未来を、ありえないものだと決めつけるつもりはございません」


 念を押すように、柔らかく首を振る。


「けれど、“今この瞬間”に、その未来へ飛び込んでしまうことは……

 今のわたくしの生き方を裏切ってしまうように思えてしまうのです」


 それは、“あなたが嫌だから”でも、“王妃になりたくないから”でもない。

 “今ここで頷く自分”が、いちばん嫌いになってしまう――その予感への、静かな抵抗。


 アルベルトは、言葉を失ったように彼女を見つめていた。

 胸の奥に、鈍い痛みが広がる。

 断られたのだから、痛いのは当然だ――と、頭では理解できる。


 だが、その痛みは、鋭く切り裂く拒絶の痛みではない。

 包帯越しにじんわりと染み込んでくるような、静かで、どうしようもなく彼女らしい痛みだった。


(……ああ)


 ゆっくりと、アルベルトは自分の内側で何かを悟る。


(この人は、本当に――こういう人なのだ)


 誰かの期待だけを見て頷くことができない人。

 自分の足で歩き始めてしまった道を、「選ばれたから」という理由で引き返せなくなっている人。


 だからこそ、惹かれたのだと。

 そして今、自分の望みが静かに退けられていることさえも、どこか納得してしまう。


 “選びたい”と願った相手が、

 自分を選ぶかどうかまで、誰の都合にも預けない――

 そんな自由さを持つ人なのだと、痛みと共に理解してしまうから。


 窓の外の空は、いつの間にか群青から夜の色へと沈み始めていた。

 部屋の中に灯るランプの光が、二人の横顔を、やわらかく照らしている。


 告白としては、たしかに「NO」だった。

 けれどその「NO」は、彼を否定するための刃ではなく――

 自分の生き方を守るために差し出された、小さな盾のような言葉だった。


 アルベルトの胸の奥に、その言葉が静かに沈んでいく。

 痛みと同時に、奇妙な納得と尊敬を伴いながら。



 一瞬、言葉が空気ごと固まった。


 さきほどまで穏やかだった沈黙が、今度はほんの少しだけ重さを持つ。

 否定された――そう理解するには十分な重さだ。


 もし、以前の彼であったなら。

 喉まで出かかったのは、きっとこんな言葉だった。


 ――王妃としてなら、君はもっと多くを助けられる。

 ――僕となら、もっと広い世界を見られる。


 彼女の「自由でいたい」という願いを、

 「もっと正しい未来」で上書きしてしまうような言葉たち。


 アルベルトは、舌の先にまで上ったそれらを、ぎりぎりのところで飲み込んだ。


(それはきっと――

 また“僕の正しさ”で、彼女を縛ることになる)


 誰かの「正しさ」に隠れてきたこれまでの自分。

 今その口から、「僕の正しさ」を盾のように掲げることだけはしたくなかった。


 長くも短くも感じる沈黙のあと、彼はようやく、低く息を吐く。


「……そうか」


 たった二文字の言葉が、驚くほど慎重に選ばれたもののように、静かに落ちる。


 俯かず、逸らさず、彼はリリアンヌを見たまま続けた。


「君が今、そうありたいと願っていることまで、

 僕の望みで塗りつぶしてしまったら――」


 一度、言葉を切る。

 喉の奥の苦さを飲み下し、もう一度、自分で選んだ道を踏みしめるように。


「それこそ、“君自身を見たい”と言った僕の言葉が、嘘になってしまうね」


 “王妃にふさわしいから”ではなく、“君だから選びたい”――

 さきほど自分が口にした、その宣言が、今度は自分の行動を縛ってくる。


 彼女の願いをねじ曲げてまで自分の選択を通そうとしたなら、

 それは結局、「都合のいい彼女」を求めているのと変わりない。


 胸の内で、

 “選びたい”という焦がれるような思いと、

 “選ばない自由も尊重したい”という新しく芽生えた感覚が、静かにせめぎ合う。


 やがてアルベルトは、小さく息を笑いに変えた。

 寂しさを含みながらも、どこかで納得を含んだ微笑みだった。


「君の自由を、僕の手で閉じ込めたくはない」


 その一言に、惜しさと敬意がまじり合う。


「たとえそれが、今の僕にとって、どれほど惜しいことであったとしても」


 “惜しい”――その言葉には、

 今ここで彼女を自分の隣に繋ぎ止められない悔しさと、

 それでも彼女の選択を壊したくないという、どうしようもない想いが滲んでいる。


 リリアンヌは、その言葉をそっと受け止めるように瞬きをした。

 彼の沈黙が、怒りや失望ではなく、「受け止めるための時間」だったことを悟り、胸の奥がかすかに温かくなる。


(この方は、今――

 “わたくしを選びたい”というお気持ちと、

 “わたくしの自由を尊重したい”というお気持ちのあいだで、ちゃんと迷ってくださっている)


 その迷い方そのものが、かつて彼女が欲しかった「選び方」だった。


 机も机上の書類も挟まない、小さな談話室。

 群青色の宵が窓の外で深まりゆく中、

 ふたりの間には、「拒絶」と「受容」が、静かな形で並んで座っていた。



 部屋を出ようと、取っ手に手がかかる。


 だが、扉はまだ開かれない。

 リリアンヌが、ふと何かを思い出したように、そっと一歩、アルベルトへと近づいたからだ。


「アルベルト様」


 呼びかけられた名に、彼は振り向く。

 先ほどまでの対話の余韻がまだ微かに残る瞳で、静かに彼女を見つめた。


 リリアンヌは、裾をつまんで丁寧に一礼し――

 それから、ほんの少しだけいたずらっぽさを含んだ微笑みを浮かべる。


「わたくしが、“自由でいたい”などと申し上げても――」


 一拍置かれた言葉に、アルベルトの眉がかすかに動く。


「きっとこの学園で、そして領地で……

 どうしようもなく、“不自由なほど誰かを案じる自分”であり続けるのだと思いますわ」


 自由でいたい、と言いながら。

 それでも、誰かの冬を気にかけて眠れなくなる自分。

 庶民の友人たちの顔を思い浮かべて、つい腰を上げてしまう自分。


 それは、“責任から解放された気ままさ”とは真逆の、不器用な在り方だ。


「ですから――」

 リリアンヌは、少し視線を上げ、真っ直ぐに彼を見る。


「わたくしはきっと、“好き勝手に生きる自由”ではなくて」

「誰かを案じずにはいられない、不自由さごと抱えたままの自由を、選ぶのでしょう」


 それは、自分で選び取る不自由。

 誰かに押しつけられた役目ではなく、自分が手を伸ばした場所での、不自由さ。


 小さく息を吸い、彼女は続けた。


「もし、その姿が――」


 言葉を選ぶように、ゆっくりと。


「アルベルト様の目に、なお魅力的に映るようでしたら」


 “王妃候補として”ではなく。

 “誰かを案じて動き続ける、一人の人間として”の姿が。


「その時はまた、殿下の“正しさ”ではなく――」


 わざと、少しだけ強調するように。


「アルベルト様ご自身の言葉を、聞かせていただけますか?」


 それは、未来の「告白」を約束する言葉ではない。

 けれど、「これきりで終わりにしましょう」と線を引く言葉でもなかった。


 彼の選ぶ言葉が、“王太子としての正解”ではなく、

 一人のアルベルトとしての選択であるのなら――

 その時、もう一度向き合う準備はある、と告げるささやかな予告。


 アルベルトは、短く息を呑んだ。

 驚きと、安堵と、胸の奥を少し締めつけるような痛みが混じった息だ。


 そして、ほんの少し口元を緩める。


「……約束しよう」


 静かな声だったが、その響きには迷いがない。


「その時はまた、僕の意志で、僕の言葉で――君と話をしたい」


 “王妃にふさわしいから”でも、

 “皆がそう望むから”でもなく。


 自分の目で見た彼女を、自分の心でどう思うのか。

 その答えを、自分の言葉で伝えたい――という、小さな誓い。


 リリアンヌは、満足げにも、どこか照れたようにも見える笑みを浮かべて、もう一度だけ礼をした。


「その日を楽しみにしておりますわ――“殿下”ではなく、“アルベルト様”としてのお言葉を」


 そう告げて、彼女は扉に手を伸ばす。


 廊下に出ると、夜の空気がふたりを迎えた。

 窓の外には、暮れ残る青の向こうに、星がいくつか瞬き始めている。


 足音は、やがて別々の方向へと分かれていく。

 恋人として並んで歩き出すことはなかったけれど――


 互いに自分の足で立ち、自分の選んだ不自由を抱えたまま、

 それでもまたいつか、同じ場所へと戻ってこられるような。


 そんな、細くて静かな約束が、夜の廊下にそっと結ばれていた。


 その夜。

 公爵家の塔の上の部屋には、ひとつだけ灯りがともっていた。


 リリアンヌは、窓辺のクッションに腰をおろし、両膝を抱えるように座っている。

 窓ガラスの向こうには、遠く学園の灯。

 昼間は賑やかなその場所も、今は点々とした明かりだけが、暗い海に浮かぶ島のように瞬いていた。


 夜空には、雲間からいくつかの星がのぞいている。

 彼女はそれを、少しぼうっとした目で見上げた。


「もし今日、アルベルト様の手を取っていたなら――」


 ぽつりと、言葉がこぼれる。

 自分自身に向けた問いかけのように、静かな声で。


「わたくしの未来はきっと、“王妃候補”として――

 再び、美しく整えられていったのでしょうね」


 王宮から届く礼状。

 “理想的な王妃候補”と囁く、人々の声。

 常に見目を整え、振る舞いを計算し、決して失敗を許されない毎日。


「かつて失いかけた名誉も、安心も……」

「もう二度と揺らがない場所で、守られていたかもしれません」


 手のひらを、そっと見下ろす。

 そこには、誰の手も握られていない。

 けれど、先ほど差し出された温度だけは、まだ確かに残っている気がした。


 ――それでも。


 リリアンヌは、ゆっくりと首を振った。


「けれどその代わりに――」


 胸の奥に浮かんだ光景を、ひとつひとつ、言葉にしていく。


「寒さに震える誰かの、小さな声を。

 “王妃としての務め”の陰に隠して、聞き逃してしまう自分が――」


 雪の日に、薄い上着で耐えていた子どもたち。

 パン配給に並ぶ、こわごわとした目。

 領地から届いた報告書の、数字の裏にある顔を、もう一度思い出す。


「庶民の友人と、同じ高さの机を並べることを――」

「どこかで遠慮してしまう自分が、どうしても目に浮かんでしまったのです」


 “王妃たるもの、誰とどう付き合うべきか”。

 宮廷の婦人たちが好む、その言い回しが、頭の隅をかすめる。


 ミラとくだらない冗談を言い合う放課後も。

 エミリアと、インクで指先を汚しながら資料をまとめる時間も。


 そういったものに、知らず知らず「線」を引いてしまう未来が、想像できてしまった。


 その想像に、胸がきゅうと縮む。


「選ばれることは、たしかに甘美で、誇らしいことですわ」


 リリアンヌは、そっと目を閉じる。

 昔の自分――“選ばれること”だけを願っていた少女の顔が、瞼の裏に浮かんだ。


 王妃候補であり続けることだけが、自分の価値。

 選ばれなくなったなら、自分は空っぽになるのだと、本気で信じていた頃。


「でも――」


 言葉の調子が、ほんの少しだけ柔らかく変わる。


「“選ばれない自由”を選ぶことでしか、守れないものもありますわね」


 王妃としての座を、一度は取り戻せるかもしれない手を、自ら離すということ。

 それは愚かだと言う人もいるだろう。

 勿体ないと、首をかしげる人もいるに違いない。


 ――それでも。


 彼女は、自分が守りたい顔を思い浮かべる。

 名前も知らない子どもたちの笑顔を。

 机を並べる友人たちの、くだらなくて愛おしい会話を。


 それから、静かに呟いた。


「『ありがとう。でも私は自由でいたいの』」


 あの部屋で、彼に向かって告げた言葉を、もう一度、なぞるように。


「そう告げた今のわたくしの心は――」


 窓の外で、風がカーテンをかすかに揺らした。

 遠くの学園の灯りが、夜気の向こうで静かに瞬く。


「かつて、選ばれることだけを願っていた頃よりも……」


 リリアンヌは胸に手を当てる。

 そこから伝わる鼓動は、激しくも昂ぶってもいない。

 ただ、穏やかに、確かなリズムで打ち続けている。


「ずっと静かに――そして確かに、温かく鼓動しているのだと、感じますの」


 選ばれることを諦めたのではない。

 誰かにとって「都合の良い選択」を断り、自分で「選ばない」自由を選んだだけ。


 その先に広がる不安も、寂しさも、責任も。

 全部まとめて、自分の胸に抱きしめる覚悟があるからこそ、今の鼓動は静かで、温かい。


 リリアンヌは、ゆっくりと立ち上がり、窓辺のカーテンへ手を伸ばした。


 外の夜空には、相変わらず、遠い星々が瞬いている。

 あの学園で、これからも彼女は、自由であろうとし続けるだろう。

 誰かを案じて不自由になりながら、自分で選ぶ自由を捨てずに。


「――おやすみなさいませ、アルベルト様」


 誰に聞かせるでもない、小さな声でそう告げると、

 リリアンヌはそっと、夜のカーテンを閉じた。


 静けさの中で、なお温かく脈打つ鼓動だけが、

 彼女が選んだ“静かな拒絶”の正しさを、密やかに肯っていた。




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