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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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彼の手 ―― 「今度こそ、君を選びたい」

 雨あがりの中庭には、薄い霧のような湿り気が残っていた。


 石畳にはまだところどころ水たまりが鏡のように光り、枝先からこぼれる雫が、時折「ぽとり」と澄んだ音を立てて落ちていく。授業と授業のあいだの時間帯だというのに、さすがにこの天気では、庭を歩く者の姿は少ない。


「殿下、足元にお気をつけください」


 少し後ろを歩く側近の声に、アルベルトは短く頷いた。


 何の気なしに視線を上げ、正面のアーチ状の回廊を見やる。その瞬間、胸の奥で、何かがひゅっと縮む。


 ――ここだ。


 理由もなく、そう思った。


 雨を吸った石造りのアーチ。そこを縫うように走る、幾筋もの視線の感触。ざわめき。押し殺した笑い。震える膝で立ち尽くす、ドレスの裾。


 ひざまずく少女の姿が、脳裏に焼きつく。


(……誰だ?)


 自分でも分からない問いが、心の中に浮かぶ。けれど、その問いに答えが出るより早く、指が勝手に動いた。


 アルベルトの右手が、無意識のうちに胸の前から少し持ち上がる。


 誰かに向けて伸ばしかけるように――そこまで上がって、ぴたりと止まった。


「……っ」


 掌に、あの日の重みがよみがえる。


 群衆の前で、王子として立っていたはずの自分の視線。庇うべきと選んだ、涙に震える庶民の少女の肩。その陰に隠れて、床に視線を貼り付けられていた、もう一人の少女の横顔。


 彼女の方へと、伸ばしかけた手。


 そして、観衆の空気を読んで、引っ込めた指先。


『……殿下がそう仰るのなら、きっと理由がおありなのでしょう』


 誰かがそう言った。誰かが肯き、誰かが「やはり」と囁いていた。


 ――あのときも。


 アルベルトは、自分の口の中でかすかに呟く。


(あの時も――

 伸ばしかけた手を、最後まで伸ばせなかった)


 肩越しに、さっと冷えた風が通り抜けた。雨雫を含んだ風が襟元に入り込み、思わず小さく身震いする。


「殿下?」


 後ろから、側近の問いかける声がした。


 アルベルトははっとして、自分の右手を見下ろす。空中に取り残されていた指先を、何事もなかったかのように下ろして、軽く首を振った。


「……何でもない」


「ですが、お顔色が」


「少し、雨のせいで冷えただけだよ」


 そう答えて、自分でも分かるほどぎこちなく笑う。側近はそれ以上追及せず、「かしこまりました」と一歩下がった。


 歩みを進めながらも、アルベルトの胸の中には、さっきの感覚がしつこく残り続ける。


 石畳を打つ自分の靴音が、妙に遠く聞こえた。


(“夢”のはずだ。

 見た覚えのない光景の、見たことのある恐怖)


 ひざまずく少女――その顔は、霧の向こうにあるように輪郭が曖昧だ。それでも、ドレスの白さと、握りしめられた拳の震えだけは、妙に生々しく指先に残っている。


 自分の手は、あの時もこうして空中で止まり、恐れと迷いと「王子でなければならない」という声に縛られて、そのまま下ろされてしまったのだ――そんな確信めいた感覚だけが、胸に爪を立てていた。


 雨上がりの中庭を抜けるまで、アルベルトは何度も指を握っては開き、確かめるように自分の掌を見つめた。


 その手が、かつて誰に向けて伸ばされ、そして途中で止まってしまったのか。


 今の彼にはまだ、「夢のような既視感」としてしか、言葉にできないままに。


中庭を抜ける回廊は、まだ雨の匂いを引きずっていた。


 開け放たれた窓から、しっとりと湿った風が吹き込んでくる。石畳は足元だけ乾き始め、壁際には水滴が細い筋を描いて流れている。


 そんな中を、アルベルトと側近の一人――真面目な方の青年が、並んで歩いていた。


「先ほどの中庭、少しお足を止めておられましたが……お疲れでしょうか、殿下」


 控えめな問いに、アルベルトは「いや」と首を振る。けれど、その声色にはどこか力がない。


「ただ、少し考え事をしていただけだ」


「学園でのご状況について、でございますか?」


 側近は、話題を切り出す好機と見たらしい。そのまま、淡々と報告を続けた。


「リリアンヌ様のご活動は、王宮でも評判でございます。

 特待生の方々との勉強会、領地での配給制度の整備……いずれも、“殿下の婚約者として相応しい”と」


 アルベルトは、苦笑ともつかぬ表情を浮かべる。


「……“として相応しい”ばかりだね」


「ええ。そして同時に、“では殿下はどうなさるのか”という噂も、日に日に増えております」


 回廊の向こうで、学生らの笑い声が微かに聞こえた。雨上がりの光が、窓から斜めに差し込んでいる。その光の中に、アルベルトはさっきまで中庭で見えた横顔をありありと思い浮かべた。


 白薔薇の苗木のそばで、誰かと笑い合う、茶色の髪の令嬢――。


 彼は、小さく息を吐く。


「僕はさ」


 ぽつりと、独り言のように零した。


「僕は、いつだって“誰かの正しさ”の影に隠れてきた気がするよ」


 側近が、ちらりと横目で主を見る。その横顔には、苦い自嘲が浮かんでいた。


「父上の“国家のため”という言葉の下で、

 君たち側近の“政治的な得失”の計算の下で……」


 アルベルトは一拍置き、足を止める。


「そして、あの頃は――“彼女の正しさ”の陰にも」


 “あの頃”が、どの頃なのか。

 自分でも、はっきりとは説明できない。ただ、胸の奥底で、膝をつき涙を堪える少女と、その向こうで毅然と顔を上げていた“もうひとり”の少女の姿が、奇妙な二重写しとなって揺れている。


 側近は歩みを合わせて立ち止まり、まっすぐに主を見た。


「“誰かの正しさ”の陰に隠れるのは、確かに楽でございます」


 穏やかながら、芯のある声だった。


「父君の御名の下であれば、“国家のため”と言えます。

 我々が用意した理由に従えば、“最も合理的な選択だ”と胸を張れます」


 そこで、わずかに声を落とす。


「そして、あの時の“彼女の正しさ”の陰に隠れれば――

 殿下は、“彼女がそう言ったから”と、責めを免れた」


 アルベルトの指先が、ぴくりと揺れた。

 握りしめた右手のひらに、さっき中庭で感じた感覚がふたたび蘇る。


 伸ばし損ねた手の、空っぽの重み。


「……そうだね」


 低く認めるように呟く。


「僕は、いつも誰かの“正しさ”を盾にして――

 自分で選んだと言える選択から、逃げてきたのかもしれない」


 回廊の窓の外で、木の葉から落ちた雫が、石畳を打ってはねた。その小さな音が、妙に大きく響く。


 側近は、少しだけ息を吸い込んでから、問いを投げる。


「では今は、“殿下ご自身の正しさ”は、どこを向いておられるのです?」


 アルベルトは、言葉を失ったように黙り込んだ。


 問いは、単純だ。

 けれど、それに即答するだけの言葉が、今の彼にはまだない。


 代わりに、頭に浮かぶのは断片的な光景ばかりだった。


 誰も見ていない早朝の教室で、特待生と机を並べて、難しい問題に眉間に皺を寄せている令嬢。


 慣れない手つきでパンの分配の表を作り、配り漏れがないか確かめるために、何度も何度もペンを走らせている姿。


 庶民出の少女と向き合い、まっすぐな疑念に、嘘をつかずに答えようとしていた、あの日の横顔。


(誰も見ていないところで――

 机を並べて、誰かの冬を案じている彼女を)


(僕は、どうしたいのだろう)


 「王妃として相応しいかどうか」ではなく。

 「政治的に得かどうか」でもなく。


 ただ人として、その隣に立つのか。

 それともまた、誰か別の“正しさ”の陰に隠れてしまうのか。


 喉元まで込み上げてきた答えは、まだ形を成さない。

 それでも、さっきまでとは違う痛み方で、胸の奥を刺していた。


 側近は、主が沈黙を続けているのを見て、それ以上急かすことはしなかった。ただ、静かに一礼する。


「今すぐお答えいただかなくて結構でございます」


「ですが、いつかは――

 “殿下ご自身の正しさ”でお決めにならねばならない時が来ましょう」


 アルベルトは身じろぎをし、窓の外へ視線を向けた。

 雨雲は、いつの間にか薄くなりつつある。雲の切れ間から、白い光が差し込み、濡れた石畳を細く照らしていた。


「……ああ。分かっている」


 ようやく、そう絞り出す。


「今度こそ――誰かの正しさの陰に隠れて、手を引っ込めるような真似は、したくない」


 右手のひらを、そっと開いてみる。

 そこにまだ、誰の手も重なってはいない。それでも、その掌を見つめる彼の目には、先ほどまでよりも、わずかに強い色が宿っていた。


貴族生徒用のサロンには、珈琲と香草茶の匂いが薄く漂っていた。


 磨き上げられたテーブル、窓辺に飾られた季節外れの切り花。

 壁際の棚には、当番の生徒が持ち込んだ新しい盤遊びの駒が並んでいる。


 その一角――ひときわ陽当たりのいい丸テーブルに、アルベルトは数人の男子生徒と共に腰掛けていた。


「殿下、聞きましたかな?」


 やや能天気な声で、貴族男子Aが話を切り出す。

 彼は興奮した様子で身を乗り出し、声量だけはやたらと立派だった。


「王宮からの正式な書状の件です。

 “やはり殿下のご婚約者にはリリアンヌ様がふさわしい”と、皆が申しておりますよ」


 隣の男子Bが、カップを揺らしながらにやりと笑う。


「“氷の令嬢”と呼ばれたお方が、今や“慈愛の王妃候補”ですからな。

 冷たさと優しさを兼ね備えた、完璧な王妃――物語としても申し分ない」


「物語としても完璧ですな」


 そこで二人は顔を見合わせて、愉快そうに笑い声を上げた。


 アルベルトは、手にしていたカップを口元まで持ち上げたまま、ぴたりと動きを止める。


(物語として、か)


 心の中で、皮肉に唇が歪んだ。


(まただ)


 彼らの口調は悪意に満ちているわけではない。

 むしろ善意と憧れが混ざった、「理想の筋書き」を語るときの声音だ。


 ――氷のように冷たいと囁かれていた令嬢が、庶民をも慈しむ王妃へと生まれ変わる。

 そんな劇的な変化を「殿下の婚約者の成長物語」として語りたいのだろう。


(また、彼女を“僕の物語を飾る役”として語る声が増えていく)


 前世の記憶など知らない、無邪気な友人たち。

 だが、その言葉はどこか、かつての自分が口にしていた台詞と重なって聞こえた。


「リリアンヌ様のようなお方が隣に立たれるなら、国中の誰もが納得いたしますとも」

「殿下の物語に、これほどふさわしい伴侶はありませんな」


 “殿下の物語”。

 そこに、彼女の意思という要素は含まれていない。


 アルベルトは、カップを静かにソーサーに戻した。

 金属と陶器が触れ合う小さな音が、やけに耳に残る。


「……君たちは」


 ぽつり、と。

 思考の途中で漏れた言葉を、そのまま声にしていた。


 男子たちが揃ってこちらを見る。

 サロンのざわめきのなかで、そのテーブルだけ、すっと空気が変わった。


「君たちは、“彼女自身がどうしたいか”を、考えたことがあるかい?」


 一瞬、沈黙。


 AとBは、顔を見合わせる。

 その後、真っ先に吹き出したのはAだった。


「殿下、何を仰いますやら。

 リリアンヌ様ほどの方が、王妃になられて不満があるはずが――」


「まさか。“王妃になりたくない”なんて令嬢、聞いたことがありませんよ」


 Bも、半ば冗談めかして続ける。


「殿下。ご謙遜はほどほどに。

 誰もが羨む地位と、誰もが憧れる婚約者――これ以上、何を望む必要がありましょう」


 彼らは本気でそう信じている。

 “王妃になる”ことを迷うという発想そのものが、彼らの世界には存在しないのだ。


 アルベルトは、それ以上問いを重ねなかった。


「……そうか」


 短くそう返し、微笑らしきものを形だけ浮かべる。

 話題はすぐに別の方向へ逸れ、学園祭の催しや、最近導入された新しい実習科目の愚痴へと移っていく。


 彼も、必要な相槌だけは打った。

 いつも通りに見えるように。

 “物語通り”の王子であり続けるために。


 だが、テーブルから離れ、サロンのドアをくぐった瞬間――胸の奥に残った感覚は、先ほどの笑い声とはまるで違うものだった。


(昔の僕なら、「そうだね」と頷いて終わらせていた)


 廊下に出ると、窓の向こうでは雨雲がゆっくりと流れている。

 濡れた中庭の石畳に、薄く陽が差し始めていた。


(“僕の物語にふさわしい王妃だ”と言われることを、疑いもしなかった)


 頷いて、受け入れて。

 その「正しさ」の中に自分をしまい込んでしまう方が、ずっと楽だった。


(でも今は――)


 足を止める。

 指先が、わずかに握りしめられていた。


(その頷き方を、もうしたくない)


 “物語として完璧”な選択。

 “皆が納得する”選択。


 そのどれもが、「誰かの正しさ」を借りた言葉だ。


(僕が選ぶべきなのは、“昔通り”ではないのかもしれない)


 胸の内側で、固く凝り固まっていた何かが、じわりと軋んだ。

 痛みを伴いながら、ほんの少しだけ形を変えはじめる。


 窓の外、中庭の片隅――

 まだ小さな白薔薇の苗木が、雨上がりの光を受けて、かすかに揺れているのが見えた。


 あの花が満開になる頃、自分はどんな選び方をしているのだろう。


 アルベルトはその問いを胸の奥に沈めたまま、静かに歩き出した。


夕暮れの庭園には、しっとりとした土の匂いが漂っていた。


 日中の喧噪が引き、学生たちの姿もまばらになった時間。

 アルベルトは、一人で石畳の小径を歩いていた。


 風が、枝先の若い葉を揺らす。

 先ほどまで講義室にいたとは思えないほど、ここだけ空気が柔らかい。


 ふと、視線の先に、見慣れた区画が目に入る。


 ――白薔薇の一角。


 前に通りかかったときよりも、苗木はわずかに背を伸ばしていた。

 細い枝先に、小さな蕾がいくつも膨らんでいる。


 その手前のベンチには、誰かがさっきまで座っていた気配が残っていた。


 背もたれに、開きかけの本が伏せられて置かれている。

 脇には、小さく畳まれた焼き菓子の包み紙がひとつ――丁寧に折り畳まれているあたり、持ち主の几帳面な性格がうかがえた。


(さっきまで、ここにいたのだろう)


 彼女と、その友人たちが。


 アルベルトは、ベンチには近づかず、そのまま苗木の前で立ち止まる。


 夕陽を受けて、蕾の輪郭が薄く光っていた。

 まだ固く閉じた、小さな、小さな白。


(白薔薇)


 胸の奥で、その名が響く。


 前世の記憶――

 王宮の庭園。婚約披露の宴。

 テーブルを埋め尽くす大輪の白薔薇。

 「殿下とご婚約者様にふさわしい花」と笑う大人たち。


 その中心で、完璧な微笑みを貼りつけて立っていた少女。


(あの頃、白薔薇は“僕と婚約者の物語”を飾るための花だった)


 “王子と、公爵令嬢と、清らかな白薔薇”。

 誰もが納得する、美しい一枚の絵。


 そこには、彼女自身の息遣いや怯えや疲れなど、描き込まれる余地はなかった。


 アルベルトは、ゆっくりと息を吐き、視線を今の苗木へと戻す。


 土は、まだ新しい。

 古い株を抜いた跡を埋めるように、黒い土が盛られている。


 そこから、頼りなげな枝が伸び、固い蕾がいくつも空を向いていた。


(でも今、ここでこの花を待っている彼女は――)


 頭の中に、昼間の光景が浮かぶ。


 机を並べて、特待生と肩を寄せ合って問題を解いている姿。

 焼き菓子の失敗談を語って、庶民の少女を笑わせていた姿。

 領地の報告書に目を通しながら、「この冬は凍えた子どもが減った」と静かに喜んでいた横顔。


 そこにいるのは、

 「王妃候補」である前に、一人の人間として誰かの冬を案じているリリアンヌだった。


(もう、“僕の婚約者”という枠だけで語れる人ではない)


 彼女には、彼女自身の物語がある。

 庶民の少女とぎこちなく笑い合う物語があり、特待生の友人とペン先を汚す物語があり、遠い領地の子どもたちのために頭を悩ませる物語がある。


 それらは、“王子の物語を彩る役”として用意された筋書きではない。

 彼女が、自分で選び直して手に入れてきた日々だ。


 風がひとしきり吹き抜け、まだ開かぬ蕾たちを小さく震わせた。


 アルベルトは、自分の胸の内に問いを落とす。


「……僕は、どの彼女を選びたいのだろう」


 声に出した瞬間、それはもう曖昧な思考ではいられなかった。


「“王妃にふさわしいから”選ぶのか」


 かつてのように。

 誰もが納得する「正しい選択」として。

 自分の迷いを、周りの期待の中に隠すようにして。


「それとも――」


 彼は、蕾から目を離さず、ゆっくりと言葉を続ける。


「たとえ王妃でなくとも、“彼女だから”選びたいと思うのか」


 肩書きや物語の筋書きではなく。

 誰かの正しさではなく。

 自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の心で判断した結果として。


 胸の奥が、静かに痛んだ。


 伸ばしかけて止めた手。

 前世で、膝を折った彼女に向けて、最後まで差しのべられなかった右手の感覚が、ふと蘇る。


(あの時の僕は、“皆の前でどう見えるか”ばかりを気にしていた)


(今度は――)


 蕾が、微かな風に揺れた。


 まだ何も咲いてはいない。

 けれど、確かに「これから咲く」という気配だけが、そこにある。


(今度こそ、自分の手で、自分の意志で選びたい)


 彼女が王妃にふさわしいから、ではない。

 彼女が、彼女だから。


 その答えを、今すぐ言葉にできるほど、彼はまだ強くない。

 それでも、胸の内で向きが変わり始めた天秤の重みだけは、はっきりと感じていた。


 アルベルトは、白薔薇の苗に向かって、ほんの少しだけ頭を下げるように視線を落とした。


「咲く頃には――僕も、ちゃんと決めていられるといいのだけれどね」


 誰に聞かせるでもない、かすかな独り言。


 夕暮れの庭は、その言葉を柔らかな風とともに飲み込み、

 まだ色を持たない蕾たちは、静かに「時」を待ち続けていた。




夜の鐘が遠くでひとつ鳴り、静寂が学園の一角を包み込む。


 アルベルトは、貸与された特別室の机に向かっていた。

 壁際の棚には、政務や歴史に関する書物が整然と並んでいる。

 しかし、今彼の前に置かれているのは、分厚い条文集ではなく――一通の封書だった。


 封蝋に刻まれた印章は、王家のものではない。

 小さな森を象った紋――見覚えのある意匠に、アルベルトはわずかに目を細めた。


「……森の、彼か」


 静かに封を切る。

 さらりとした紙を指先で押さえながら、視線を走らせた。


 整った字で、簡潔に状況が綴られている。

 リリアンヌが、領地の子どもたちのための施策を続けていること。

 学園での立場が“王妃候補”として再び扱われつつある中でも、彼女がそれに溺れず、あくまで「自分の弱さごと受け止めようとしている」こと。


 そして、文の途中で、ある一節が目に留まる。


『彼女は、肩書きではなく“選び方”で自分を測ろうとしているように見えます』


 アルベルトは、そこで読み進める手を止めた。


(選び方で、自分を測る……)


 その言葉を、心の中で何度か繰り返す。

 名誉や血筋ではなく――どのように迷い、どのように選ぶかで、自分の価値を決めようとする生き方。


 紙面に視線を戻すと、続きには、さらりとした調子で、もう一行が添えられていた。


『――ただし、誰かを選ぶときに、自分の弱さから目をそらしたままでは、同じ間違いを繰り返しますよ』


 そこを読んだ瞬間、胸の奥で、何かがはっきりと疼いた。


 指先に、紙の縁の感触が強くなる。

 アルベルトは、ゆっくりと手紙を机の上に伏せ、両手をついた。


 顔を上げられないほど、真正面から射抜かれた気がした。


(“自分の弱さから目をそらしたままでは、同じ間違いを繰り返す”)


 喉の奥で、乾いた笑いがこぼれそうになった。


(僕は――まさに、それをしてきた)


 王太子としての責務。

 「国のため」「民のため」という、重く正しい言葉。


 王族にとって、それらは逃げ場のない現実であると同時に、都合のいい盾にもなり得る。


(父上の“国家のため”という正しさの陰に隠れ)

(側近たちの“政治的な得失”の計算を、判断の代わりにして)

(あの頃は――あの庶民の少女の“正しさ”にすら、僕は自分の意志を預けてしまっていた)


 前世の光景が、輪郭を持たない夢のように胸裏をよぎる。


 涙ながらに“正義”を訴える少女。

 それを「民の声」として受け入れた自分。

 ひざまずいたリリアンヌへ向けて、伸ばしかけて――最後まで伸ばせなかった右手。


 あのとき、自分は何を見ていたのか。


(僕は、彼女を、本当に見ていただろうか)


 彼女の怯えた瞳も、噂に傷ついた肩の震えも。


 「王妃らしく」と自分を飾っていた、その仮面の裏側も。


 すべてを見ようとする前に――

 “多数の正しさ”という包装紙で、世界を包んでしまったのではないか。


(あの時、伸ばさなかった手も――)


 ぎゅっと、無意識に机を握る指に力がこもる。


(彼女を、本当に見ていなかった証拠だ)


 誰かの正しさに寄りかかれば、自分で選ばなくて済む。

 自分の弱さ――迷いや恐れや、責任の重さから、目をそらしていられる。


 それを「誤った正しさ」だと、当時の自分は少しも疑っていなかった。


 額に落ちた前髪を指で払いながら、アルベルトはゆっくりと目を閉じた。


 暗闇の中に浮かぶのは、最近のリリアンヌの姿だ。


 冷たい視線の中でも、庶民の生徒の震える肩にそっとマントを差し出したときの、躊躇いに満ちた勇気。

 自分の弱さを認める言葉を、震えながらも紡いでいた、あの瞳。

 「今度こそ、“怖いです”“悔しいです”と言える自分でいたい」と願った横顔。


(彼女は、自分の弱さも含めて、抱きしめようとしている)


 そのことを、この手紙は静かに知らせてくれている。


 ならば、自分はどうだ。


(僕は、まだ弱さから逃げようとしていないか)


 「王妃にふさわしいから」

 「皆がそう言うから」

 「国のために合理的だから」


 そのどれかを言い訳にして――

 “彼女を選ぶ責任”から、また逃げようとしているのではないか。


 胸の内で、答えにならない問いが、ひとつ、またひとつと浮かび上がっては消えていく。


 やがて、彼は静かに瞼を開いた。

 机の上の手紙に視線を落とし、もう一度、その一文を心の中で読み返す。


『自分の弱さから目をそらしたままでは、同じ間違いを繰り返しますよ』


 その瞬間、ぼんやりした罪悪感は、ようやく形を持った決意へと変わり始めた。


 アルベルトは、背筋を伸ばす。

 握りしめていた手を開き、ゆっくりと言葉を落とすように呟いた。


「――今度こそ、逃げない」


 誰かの正しさに隠れて、

 責任を預けてしまうのではなく。


「“王妃にふさわしいから”でも、“皆がそう言うから”でもない」


 机の上の手紙から視線を上げる。

 窓の向こうには、薄い雲の向こうから月明かりが滲んでいた。


「自分の目で見た彼女を」

「自分の耳で聞いた彼女の声を」

「自分の心で感じた彼女を――」


 言葉を紡ぎながら、胸の奥にひとつひとつ、針で留めていくような感覚があった。


「自分の意志で、選びたい」


 前世で伸ばせなかった手を、

 今度は、誰の期待でもなく、自分の選択として伸ばすために。


 その選択が、王妃という道に繋がるのか、そうでないのかは、まだ分からない。

 けれど――


(結果がどうであれ、“誰かの物語の都合”ではなく)

(僕自身の弱さごと抱えた上で、選びたい)


 その願いだけは、確かな輪郭を持って胸の内に根を下ろした。


 窓の外の月光が、机の上の紙を淡く照らす。


 アルベルトは、ペン立てから一本の羽根ペンを取り、別の紙を引き寄せた。


 森の青年への返信か、それとも、まだ名前のない“未来の約束”か。

 その行き先を定める前に、彼はまず、今の自分の言葉を書き留め始める。


 ――逃げないこと。

 ――誰かの正しさに隠れないこと。

 ――彼女を「肩書き」ではなく、「一人の人間」として見ること。


 小さな文字が並んでいく。


 それはまだ誰に見せるでもない、

 彼の、彼自身への誓いのようなメモだった。


 夜は静かに更けていく。


 伸ばしかけて止まっていた彼の“手”は、

 ようやく、向かうべき方向を見つけつつあった。




夕暮れの光が、長い回廊に斜めの影を落としていた。


 授業を終えた生徒たちの足音は、もうほとんど遠ざかっている。

 カツ、カツ、と石畳の上に響くのは、ひとり分の足音だけ。


 リリアンヌは、窓辺に沿って歩きながら、外の空を眺めていた。

 茜から紫へと移ろう空。

 塔の先端にかかった薄い雲が、燃えるような色に縁取られている。


(……明日は、もう少し冷え込むかもしれませんわね)


 領地の子どもたちの冬着のこと。

 図書室に積まれた報告書の数字。

 そんなことをぼんやりと思い浮かべながら、彼女はゆっくり歩を進める。


 そのとき、回廊の先から、別の足音が近づいてきた。


 振り向く前から、誰の靴音かは分かった。

 規則正しく、無駄のない歩調。

 護衛たちの少し離れた位置で鳴る、複数の足音の気配。


 視線を前に戻すと、やがて角を曲がって、アルベルトの姿が現れた。


 王太子としての整った立ち姿。

 けれど、その表情は、いつもよりどこか硬い。


 リリアンヌは、胸の前でスカートの裾をつまみ、礼を取る。


「殿下」


 アルベルトも、すれ違う位置で立ち止まり、軽く会釈を返す。


「リリアンヌ」


 ――このまま、互いに礼を交わして通り過ぎる。


 それが、今まで何度も繰り返してきた“学園での距離”だった。


 だからリリアンヌは、礼を終えると、そのまままた二、三歩、前へ進もうとした。


 だが、その背中に、短く名前が呼びかけられた。


「……リリアンヌ」


 足が止まる。


 振り向けば、アルベルトもまた、歩を止めていた。

 夕陽を受けた横顔が、ゆっくりとこちらに向き直る。


「はい、殿下」


 一瞬の沈黙が、二人の間に落ちる。


 アルベルトは小さく息を吸い込むと――ためらいがちに、右手を持ち上げた。


 肩の高さまで上がったその手は、空中でほんの一瞬、揺れる。


 リリアンヌの胸の奥で、言葉にならない既視感がさざ波のように広がった。


(――この光景を)


 誰かに取り囲まれた大広間。

 ざわめく声。

 床に落ちた自分のドレスと、伸ばしかけて、止まってしまった彼の手。


 朧げな前世の記憶が、影のように重なる。


 だが、今、回廊には観衆はいない。

 いるのは、夕暮れの光と、遠くの窓越しに聞こえる小鳥のさえずりだけ。


 そして、アルベルトの手は――


 今度は、途中で止まらなかった。


 劇的にその手で彼女を掴み取るわけでもなく、

 ただ、彼女との距離を測るように、そっと差し出される。


「リリアンヌ」


 名を呼ぶ声は、王太子としての響きではなく、ひとりの青年のものだった。


「少し、お時間をいただけるだろうか」


 差し出された手は、慎ましく、けれどはっきりと彼女の方へ向かっている。

 肩書きではなく、“彼女”というひとりの人間へ。


「君と……」


 言葉を選ぶように、わずかに視線が揺れる。


「君自身のこれからについて、きちんと話がしたい」


 リリアンヌは、驚きに目を瞬かせた。


 “王妃教育の一環として”でもなく。

 “公爵令嬢としての立場について”でもなく。


 ――“君自身のこれから”。


 胸の奥に、77話で固めた思いがよみがえる。

 「戻ったのは名誉であって、心ではない」と自分に言い聞かせた夜。

 肩書きよりも、「誰を、どう守りたいか」を大切にしたいと願ったこと。


 だからこそ、彼女は、すぐに頷くことができなかった。


「殿下とのお話であれば、いつでも光栄ではございますが――」


 言いかけて、言葉を飲み込む。

 自分の中で変わりつつある価値観から、目をそらしたくなかった。


 リリアンヌは、まっすぐ彼を見た。


「……“王妃候補として”だけではなく」


 喉の奥が、少しだけきゅっと締まる。

 それでも、逃げないと決めた弱さを抱えるように、ゆっくりと言葉を続けた。


「一人の人間としてのわたくしの話を、聞いていただけますか?」


 その問いは、彼女自身への確認でもあった。

 名誉のために語るのではなく、

 自分の恐れや願いを、ちゃんと言葉にしてもいいのか――という、ささやかな願い。


 アルベルトは、一瞬も目を逸らさなかった。


 夕陽が、その瞳の奥で揺らめく。

 そこに映っているのは、“王妃候補”という仮面を被った令嬢ではない。

 噂に傷つき、領地の冬を案じ、それでも前に進もうとしている、一人の少女だ。


「そのために、お願いしている」


 静かな声だった。

 けれど、その静けさの底には、固く結ばれた意志があった。


「今度こそ、“誰かにとって都合の良い君”ではなく――」


 言葉を区切るたびに、右手がわずかに強く差し出される。


「君自身を、僕の目で選びたい」


 リリアンヌの表情が、ふっと揺れた。


 王宮からの文書を受け取ったときも。

 「理想的な王妃候補」と噂されたときも。

 彼女の心は、静かな水面のように、ほとんど動かなかった。


 だが今、胸の奥で、小さな波紋が広がっていく。


(“選びたい”――)


 「ふさわしいから」「周囲が望むから」ではなく。

 「自分の目で見た君を、自分の意志で選びたい」と。


 それは、名誉とは別の場所にある言葉だった。


 嬉しい、と簡単に言い切れるものではない。

 彼の選択が、彼女の望む未来と重なるのかは、まだ分からない。


 それでも。


(この言葉には――)


 あの回廊で、伸ばされなかった手の記憶がある。

 誰かの正しさの陰に隠れ、責任から逃げてしまった、前世の彼の弱さがある。

 そして、その弱さから、今度こそ逃げまいとする決意が宿っている。


 それを感じ取ってしまったからこそ、胸が静かに、痛いほど熱くなる。


 リリアンヌは、ゆっくりと一歩、彼の方へ歩み寄った。


 差し出されたその手に、自分の手を重ねるかどうか――

 その選択には、まだ少しだけ時間が必要だと感じていた。


 だから、今はただ。


「……でしたら、殿下」


 彼女は小さく息を整え、柔らかく微笑む。


「わたくしも、“都合の良い殿下”ではなく――」


 そう言って、まっすぐ彼を見上げた。


「“弱さも含めて、選び直そうとしておられる殿下”のお話を、聞かせていただけますか?」


 アルベルトの瞳に、驚きと、ほっとしたような光が同時に灯る。


「ああ」


 今度は迷いなく頷いた。


「それでも、君が聞いてくれるなら――」


 差し出された右手は、もう震えていない。

 ただ、彼女の返事を、彼女の選択を待つ手だった。


 リリアンヌは、その手を見つめ――ほんの少しだけ、自分の指先を近づける。


 触れるか触れないかの距離で、彼女は囁くように答えた。


「では、少しだけ。

 ――“わたくし自身のこれから”のお話も、お付き合いくださいませ」


 夕暮れの回廊に、二人分の足音が並んで響き始める。


 前世では途中で止まり、引っ込められてしまったその手は、

 今度は、誰の期待でもなく、自分の意志で伸ばされた。


 まだ、結論は出ていない。

 王妃になるのか、ならないのかさえ、何ひとつ決まってはいない。


 けれど――


 “彼の手”が向かっている先だけは、

 たしかに、昔とは違っていた。



夕陽が、長い回廊をゆっくりと紅に染めていく。


 大きな窓から差し込む光が、床の石畳に帯のような影を落とし、その中に、ふたりの影が向かい合って立っていた。


 アルベルトの右手が、空中に差し出されている。

 それは、儀礼として差し出される、王太子の「エスコートの手」ではなかった。


 ただ、一人の人間として――

 「対等に話をしたい」と願う者が伸ばした、慎ましくも真っ直ぐな手。


 リリアンヌは、その手をじっと見つめていた。


 かつて、観衆に囲まれた大広間で、伸ばされることのなかった手。

 噂と正しさと視線の中で、空中で凍りつき、やがて引っ込められてしまった手。


 今、同じように差し出されているはずなのに――

 そこに重なる気配は、まるで違っていた。


(あの時の殿下の手は、“わたくしを裁く物語”の中で、止まってしまいました)


(でも今、目の前にあるこの手は――)


 視線をそっと上へ辿る。


 夕陽を受けて金色に縁取られた髪。

 迷いと、それでも逃げまいとする意志が混ざった青い瞳。


 その瞳は、肩書きや噂越しではなく、

 一人の少女としての自分を、まっすぐ捉えていた。


 リリアンヌは、ほんの少しだけ息を吸い込むと、静かに微笑んだ。


「……殿下が、本当に“わたくし自身”を見てくださるというのなら」


 自分の中にある恐れ――

 “またどこかで、肩書きのほうが優先されてしまうのではないか”という不安を、噛みしめながら。


「わたくしもまた、“殿下がどなたでありたいのか”を――」


 王太子としてではなく。


 父王のための「理想の後継者」としてでもなく。


 彼自身が、弱さごと抱えながら「選び直そうとしている人間」として。


「たしかめさせていただきたいと思いますわ」


 その言葉に、アルベルトの胸の内で、なにかがほどけるように温かさが広がった。


 王宮から届く報告書。

 側近たちが口にする「政治的な最適解」。

 貴族たちが好む「物語として完璧な王妃像」。


 そのどれもが、「選ぶための理由」のように見えて、

 実際には、自分の弱さを隠すための盾に過ぎなかったことを、彼はようやく認めたばかりだった。


(僕はいつも、“誰かの正しさ”の陰に隠れてきた)


(父上の正しさ。

 臣下たちの正しさ。

 そして、彼女の『完璧であるべき』という正しさの陰にも)


 あの大広間で、伸ばしかけて止まった手。

 あれは、自分の弱さから目をそらしたまま選んだ「正しさ」の象徴だった。


 だからこそ、今、彼は心の中で、はっきりと言葉を刻み直す。


(今度こそ――)


 誰かにとって都合の良い王太子として、ではなく。

 誰かの期待をなぞるだけの選択ではなく。


(誰かの正しさの陰に隠れずに)


 たとえ自分の選択が、誰かにとって都合の悪いものであったとしても。

 弱さを抱えたまま、それでも「選ぶ」側に立とうとする、その覚悟ごと背負って。


(僕は、僕の手で君を選びたい)


 胸の内でそう結びながら、アルベルトは、今度は心の中だけではなく、声にした。


「リリアンヌ」


 名前を呼ぶ声が、夕暮れの回廊に静かに響く。


「今度こそ、君を――僕の意志で選びたい」


 その言葉は、王太子としての宣言ではなかった。


 婚約者に対する華やかな約束でもない。

 ただ、一人の青年が、自分の弱さを認めた上で、それでもなお手を伸ばそうとする、ごく個人的な願いだった。


 リリアンヌは、そっとまつげを伏せる。


(“王妃候補として相応しいから”ではなく)


(“皆がそう望むから”でもなく)


(“殿下ご自身の意志で選びたい”と――そう仰るのですね)


 胸の奥が、静かに疼いた。


 名誉が戻ったと告げられたときには動かなかった心が、

 今、ようやく、ほんの少しだけ震えている。


 リリアンヌはゆっくりと片手を持ち上げ、差し出された彼の手へと近づけた。


 指先と指先のあいだが、あとわずか一息分の距離になる。


 まだ、触れない。


 まだ、その手を「取る」と決めたわけではない。


 けれど――逃げることもしなかった。


 夕陽の光が、二人の影を長く伸ばす。

 伸ばされた彼の手と、その手に触れようとしている彼女の指先が、床に映る影の中で、ほとんど重なりかけていた。


 “選ぶ”ことと、“選ばれる”こと。

 そのどちらもが、もはや一方通行ではないということを、二人とも知っている。


 だからこそ、今はまだ、この「触れる寸前」の距離がちょうどいいのだ。


 リリアンヌは、かすかに笑った。


「……殿下のお言葉が本物かどうかは」


 いたずらを含ませたような、けれどどこか切実な声音で続ける。


「これから、ゆっくりと確かめさせていただきますわ」


 アルベルトもまた、小さく息を吐き、頷いた。


「ああ」


 その一言には、急かす響きはない。

 ただ、「確かめられる側であり続ける」覚悟が滲んでいた。


 窓の外で、春の風が木の枝を揺らす。


 かつて、彼の手は伸ばされぬまま、空中で止まった。

 噂と正しさと恐れに縛られ、選ぶことを放棄した手だった。


 だが今、夕暮れの回廊で差し出されたその手は――

 まだ触れ合ってはいない。


 それでも、確かに“彼自身の意志”で、彼女へと向けられていた。


『今度こそ、君を選びたい』


 その言葉と共に伸ばされた手は、

 もう、誰の正しさにも隠れてはいなかった。


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