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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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王妃の候補 ―― 名誉は戻るが、心は動かない。

王家の紋章が、赤い封蝋の上で重々しく光っていた。


 父の指先が、その封をゆっくりと外していく。執務室の空気が、紙一枚の向こう側にある「何か」を察して、わずかに緊張したように感じられた。


 ペリ、と蝋が割れ、上質な羊皮紙が机の上に広がる。


「……王宮より、公爵家へ」


 父は一度、黙読する。皺の刻まれた眉間が、読み進めるほどにかすかにほぐれていくのが見えた。


「学園での近時のご活躍および品行方正な態度に鑑み――」

 低く、落ち着いた声で、父は一節を読み上げる。

「殿下の婚約者としてのご評価は、王宮内においても改めて高まっております。……ふむ」


 羊皮紙の行を、視線が滑っていく。


「今後、王妃教育の一環としての行事参加の機会を増やしたく、ついては……」


 父はそこで読み上げるのをやめ、代わりに紙から目を離して、まっすぐこちらを見る。


「――殿下の側近筋からも、最近よく君の名を耳にする」

 机に肘をつきながら、少しだけ口元を緩めた。


「学園での慈善活動、特待生との交流、いずれも王宮に伝わっているらしい。家としては、この上なく喜ばしいことだ」


 そう言って、父は文書を軽く持ち上げ、机の中央に置き直す。

 王家の紋章が、昼下がりの光を受けて柔らかく反射した。


(“王妃候補としての評価が戻った”――)


 羊皮紙の上で、整然と並んだ文字を見つめながら、わたくしは心の内でゆっくりと言葉をなぞる。


(かつてのわたくしなら、胸を撫でおろしていたはずの知らせですのに)


 肺の中の空気が、ひどく静かだ。高鳴りもしない代わりに、沈みもしない。ただ、水面に一枚の葉が落ちて、輪が広がるのを眺めているような感覚。


(今は、ただ一枚の紙が、静かに机の上に置かれただけのように感じますわ)


 名誉ある文面の重みと、胸の内側の軽さ。その差が、かえって奇妙だった。


「……近く、宮中の茶会が開かれる」

 父がゆっくりと続ける。

「文書には、それにも同席を願いたいとある。王妃教育の一環として、という名目だが――実質は、“君を表舞台に戻す”意図と見てよいだろう」


 そこで、父はわずかに声を落とした。


「……不安かね? リリアンヌ」


 わたくしは、顔を上げる。

 父の瞳には、ただの当主としてではなく、娘の心を気にかける親の色が宿っていた。


 その視線を正面から受け止めてから、静かに首を振る。


「いいえ」


 一度だけ呼吸を整える。喉の奥で言葉を味わってから、そっと続けた。


「ただ――心の準備が必要だと感じているだけですわ」


 父の眉が、少しだけ緩む。


「心の準備、か。それならば、時間を取るといい」

 彼はペン立てから一本を取り、文書の隅に軽く触れる。

「王妃候補としての評価が戻ったことは、家にとっても、確かに大きな意味を持つ。だが、それをどう受け止め、どう歩むかは――君自身の問題でもある」


 重ねた手の上で、指先に力が入るのを感じる。


「……ありがとうございます、お父様」


 そう答えながら、もう一度机の上の羊皮紙に目を落とす。


 王家の紋章。その下に連なる、美辞麗句に満ちた文言。

 そのどれもが、以前のわたくしなら「救いの証」として輝いて見えただろう。


 けれど今は、ただ静かにそこに在るだけだった。


 ――名誉は戻りつつある。

 その事実だけが、執務室の空気の中に、確かな形をとって漂っていた。



王宮からの文書が届けられた日の、少しあと。


 午後の光がやわらかく差し込むサロンで、母と向かい合って椅子に座っていた。テーブルには春らしい柄のティーセットと、焼き菓子がいくつか。母の傍らには、先ほど父が見せてくれたものと同じ文面の写しが置かれている。


「……本当に、よくここまで頑張りましたわね」


 母は、その紙にそっと指先を添えながら、穏やかに微笑んだ。


「王宮からの正式なお言葉。かつて一度失いかけたものが、こうして戻ってくるなんて――そうそうあることではありませんもの」


 カップを持つ手に、ほんの少しだけ力が入る。

 薄い磁器の温もりが、指先から掌へと伝わっていく。


「……お母様」


 わたくしは、カップを両手で包んだまま、小さく息を吸った。


「わたくし、本当に“それ”を取り戻したかったのでしょうか」


 母の睫毛が、ふるりと揺れる。


「リリアンヌ?」


 問いかけはたしなめる調子ではなく、ただ「続きを聞かせて」という柔らかな響きだった。


 窓の外で、春先の風が枝をわずかに揺らす。さっきまで当たり前のように飲み込んでいた考えが、ようやく言葉の形を取ろうとしている。


「以前のわたくしは、“王妃候補の座”そのものを、自分の価値と同じものだと思っておりました」


 自分で口にしてみて、その幼さに少しだけ苦笑が漏れる。


「殿下の婚約者でいられなくなったら、わたくしには何も残らないのだと。

 そう信じ込んでいたからこそ、あの時はあれほど必死に、立場にしがみついてしまったのだと思います」


 母は、途中で一度も遮らない。ただ、膝の上に置いた自分の手をぎゅっと重ね合わせる。


「けれど今は――」


 カップの中の琥珀色を見つめながら、ゆっくり言葉を継いだ。


「“王妃候補”と呼ばれることそのものよりも」


 あの学園の図書室で、エミリアと肩を並べて文字を追った時間。庭で、ミラと並んで白薔薇の苗木を眺めた光景。庶民の子どもたちと一緒に食べた、まだ少し形のいびつなパンの味。


「誰かを見下さずにいられる自分であることのほうが、ずっと大切に思えるのです」


 視線を上げると、母の目がこちらをまっすぐ捉えていた。驚きではなく、じっくりと噛みしめるような色。


「……そう感じるようになったのね」


 母は小さく頷き、カップを一口だけ含んでから、静かに笑った。


「王妃になれば幸せ。なれなければ不幸――」


 言いながら、ふっと目を伏せる。


「そんなに単純なものではないのかもしれませんわね」


 その声音には、自分自身の若い頃を振り返るような、遠い響きが混じっていた。


(この子はもう、“王妃かどうか”だけで物事を測れる年頃ではないのね)


 そんな思いが、言葉にはならないまま、サロンの空気に溶け込んでいく。


 わたくしは、カップの縁にそっと唇を寄せながら、胸の内側でゆっくりと確かめた。


(そうですわ――わたくしが本当に取り戻したかったのは、“王妃候補の座”ではなく)


(その座を失ってもなお、自分で自分を嫌いにならずに済むだけの、生き方だったのかもしれませんわね)


 母と向かい合って飲む紅茶は、不思議といつもより少しだけ温かく感じられた。


ChatGPT:


 学園の午後、授業と授業の合間。


 女学生たちの談話室には、薄く甘い香水と、焼き菓子の匂いと、ひそやかな噂話が交じり合った空気が満ちていた。


「ねえ、聞きまして?」

 レースの襟元を指で整えながら、令嬢Aが声を潜める。だがその「ひそひそ話」は、部屋の半分には届くくらいにははっきりしている。


「王宮から、公爵家に正式な書状が届いたって。最近のご活躍を踏まえて――って」


「まあ、やっぱり本当だったのね」

 すかさず令嬢Bが目を輝かせる。


「“やはり殿下のご婚約者はリリアンヌ様しかおられない”って、皆仰っていてよ。社交サロンでも話題になっていましたもの」


「そうそう」

 令嬢Cが扇子をぱたぱたさせながら、楽しげに頷いた。


「少し前まで“氷の令嬢”なんて言っていた人たちが、今では“理想的な王妃候補”って。人の言葉って、すぐ変わりますわね」


 視線が、自然とソファの端に座るわたくしへ集まる。


「きっと将来は、素晴らしい王妃様になるのでしょうね」

 令嬢Aが期待を含んだ眼差しを向ける。


「庶民の子をも気遣う、優しい王妃様――なんて」

 令嬢Bが夢見るように両手を合わせた。


 わたくしは、癖になった微笑みをそっと浮かべる。


「お褒めにあずかるには、まだまだ未熟でございますわ」


 口元だけ、礼儀正しく上げる。

 けれど胸の内側では、別の言葉が、静かな水音のように広がっていた。


(“理想的な王妃”――)


 かつてなら、その一言に胸が高鳴り、安堵と誇りが入り混じった熱が喉元までこみ上げてきたはずだった。


(その響きに、もう心が踊らない自分がいるだなんて)


 令嬢Cが、楽しげに続ける。


「でも本当に、最近のリリアンヌ様はお変わりになりましたわ。特待生の方々とご一緒に勉強会をなさっているとか、領地の救済策を自らまとめていらっしゃるとか」


「“完璧な淑女”に、“庶民を思いやる優しさ”まで加わったら、もう敵なしですわね」

 令嬢Bが、半ば冗談、半ば本気の声音で笑う。


「ねえ、“優しい王妃様”というのは、女の子の憧れですもの。小さい頃から絵本で育ちましたわ」


 わたくしは、紅茶のカップの縁に指先を添えながら、軽く頷いた。


「憧れを口にしてくださるお気持ちは、とても光栄ですわ」


 そこまでは、きっと以前のわたくしと大差ない返しだ。

 けれど、その先に続く心の言葉は、もう同じではない。


(わたくしが本当に目指したいのは、“王妃”という称号そのものではなく――)


 霜の降りた朝に、凍えた指でパンを受け取っていた子どもたちの顔。

 配給所の外に残されていた、名簿に載らなかった人々の背中。


(領地で寒さに震える子どもたちのために、きちんと動ける人間であること)


(噂の中の“優しい王妃候補”ではなく、目の前の誰かの空腹や不安を、少しでも軽くできる自分であることの方が――わたくしには、ずっと大切に思えるのです)


「ねえ、リリアンヌ様」

 令嬢Aが、ふと身を乗り出した。


「王妃様になられたら、やっぱり最初のうちはとてもお忙しいのでしょうね。でも、きっと素敵ですわ。舞踏会の主役で、慈善事業を率いて、“国の母”と讃えられて」


「“王妃になれたら、それが最高のゴール”ですものね」

 令嬢Cが何気なく言い添える。


 ――王妃になれたら、最高のゴール。


 その言葉に、部屋の空気が当たり前のように同調していく。誰も疑わず、誰も立ち止まらず。それが「良家の令嬢たちの共有する夢」として、いつの間にか前提になっている世界。


 わたくしは、微笑みを崩さぬまま、そっと長い睫毛の陰に視線を落とした。


(きっと、彼女たちは間違っているわけではないのです)


(王妃という役目を夢見ることも、それを幸せと呼ぶことも――誰かの大切な願いであることに違いありませんもの)


 けれど、その「当たり前」の輪の中に、自分の心だけがすっと馴染まずにいるのを、わたくしははっきりと感じていた。


(わたくしは、もう“王妃かどうか”だけで、自分の幸せを測ることができない)


 エミリアと肩を並べて難しい単語に首をかしげた日。

 ミラが不器用に「敵ではない」と言ってくれた夕暮れの道。

 裏門で配給を待っていた母親が、「これで今夜は少し楽になります」と小さく笑った瞬間。


 あの一つひとつが、今のわたくしの心の重りを、静かに別の場所へと移してしまったのだ。


「リリアンヌ様?」

 令嬢Bの声に、わたくしは顔を上げる。


「失礼。少し考え事をしておりましたわ」


「まあ、きっと“これからのご予定”のことでしょう?」

 令嬢Cが、どこか楽しげに言う。


「舞踏会やお茶会が増えたら、またお話を聞かせてくださいませね。王妃教育のお稽古のこととか、殿下のお側で見える景色とか」


 わたくしは、喉元まで上がってきた別の言葉――“それだけが未来ではありませんの”――を飲み込み、小さく笑った。


「……お話できる範囲であれば、喜んで」


 談話室には、王妃の衣装の色だとか、宮廷のどの部屋が美しいだとか、夢見るような話題が咲き乱れ続ける。


 その輪の中で、わたくしは礼儀正しく頷きながらも、ふと心のどこかで、まだ小さな白薔薇の苗木の姿を思い浮かべていた。


(あの花が咲く頃――)


(わたくしは、“王妃候補のリリアンヌ”としてではなく、一人の人間として、どこに立っていたいのかしら)


 周囲の笑い声を聞きながら、答えのまだ出ない問いだけが、胸の奥で静かに息をしていた。



 図書室の午後は、ページをめくる音と、インクと紙の匂いに満ちていた。


 いつものテーブル。

 積み上げられた教本の山の向こうで、エミリアが何度も口を開きかけては閉じている。その様子に、向かいのミラが露骨なため息をついた。


「そんなに飲み込みすぎると、言葉が喉で詰まって死にますよ」


「し、死にませんよ……」

 エミリアは顔を赤くしながら、しかし意を決したように背筋を伸ばした。


「あの……リリアンヌ様」


「はい?」

 わたくしはペン先を拭い、視線をエミリアへ向ける。


「王宮からの文書の噂、耳に入りました。

 本来なら――“おめでとうございます”と申し上げるべきなのでしょうけれど」


 「本来なら」という言葉を選ぶ声音は、慎重で、どこか申し訳なさそうだった。


 途端に、隣のミラが眉をひそめる。


「“本来なら”って、便利な言葉ですね」

 さらりと毒を混ぜるように呟く。


「その枕ことばをつけておけば、本人がどう思ってるかなんて、まるっと置いてけぼりにできますし」


「ミラさん……!」

 エミリアが慌ててたしなめようとするが、ミラは肩をすくめただけだった。


 わたくしは、そのやりとりにふっと笑みをこぼす。


「いいえ、エミリアさんの“本来なら”は、優しさから出た言葉ですもの」


 彼女が、決まりきった祝福の言葉をそのまま口にするのではなく、「それでいいのか」と迷ってくれたことは、よく伝わっていた。


「……ありがとうございます」

 わたくしがそう付け加えると、エミリアは少しホッとしたように表情を緩める。


 けれど、そこで話題を切ってしまっては、彼女たちの問いかけを誤魔化すことになるのだろう。

 わたくし自身も、もう“笑ってやり過ごす”だけで終わらせたくなかった。


「家の者にとっては、たしかに喜ばしい知らせですわ」

 わたくしは、ペンを机の上にそっと置き、二人を順に見つめた。


「公爵家として、王宮から正式に評価を改められることは――おそらく、これ以上ない朗報でございます。

 わたくし自身も、“名誉を取り戻した”ことを、誇らしく思えなくはありません」


 そこまで言うと、ミラがじっとこちらを見た。


「でも?」


 短く挟まれた一言に、くすりと笑って頷く。


「ですが――」

 言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。


「心が跳ね上がるような喜びかと問われれば、そうではないのです」


 エミリアが、困ったように眉を下げる。


「……やっぱり、その……複雑、なのですよね」


「ええ。複雑、ですわね」

 わたくしは素直に認める。


 ミラが、机の端で消しゴムを弾きながら口を開いた。


「じゃあ、“おめでとうございます”じゃなくて――」

 少し考えるように視線を宙に泳がせてから、


「“よかったですね、困らなくて済んで”くらい、ですかね」


「ミラさん、それはさすがに……」

 エミリアがあわててたしなめるが、途中で言葉を止めた。


「……でも、なんとなく分かる気がします」


 リリアンヌは、二人の顔を見比べる。


 “本来なら”という枠組みの外側から、わたくし自身の気持ちを探ろうとしてくれる、この二人の存在が――胸の中に、静かなあたたかさを灯していた。


「そう、ですわね」

 わたくしは小さく息を吐き、心の内側をさらけ出す決心をする。


「肩書きや名誉は、たしかに大切です。

 それがなければ届かない場所、動かせないものがあることも、理解しております」


 王宮の文書、家の期待、王妃候補としての評価。

 それらは、領地のために動くとき、きっと大きな武器になる。


「けれど、それらは――わたくしにとって、“誰かを守るために使う道具”であってほしいのです」


「道具……ですか?」

 エミリアが繰り返す。


「ええ。わたくしの心が本当に動くのは、その“使い道”を思い描けた時なのでしょうね」


 裏門で震えていた子どもたち。

 「書類が間に合わなかった」だけで配給から漏れた人々。

 ミラが話してくれた、善人ぶる男爵の“漏れた名簿”の話。


「“王妃候補に戻れましたよ”と言われることそのものよりも――」

 わたくしは、自分の胸元をそっと押さえる。


「その立場や名誉を使って、“どれだけ具体的な誰かの暮らしに手を伸ばせるか”を考えたときにこそ、ようやく少しだけ、嬉しいと感じるのです」


 ミラが、ふっと口の端を上げた。


「……やっぱり、貴族様っぽくないです」


「まあ」

 思わず笑ってしまう。


「だってふつう、“王妃候補の座が戻りました”って言われたら、それだけで勝ち組って顔するんじゃないですか」

 ミラは肩をすくめる。


「その上で“どう使おうかな”って考える人はいても、“どう使うか分からないうちはそんなに嬉しくない”って顔をする人は、あんまり見かけません」


「ミラさんの仰る“ふつう”は、きっと世間の常識なのでしょうね」

 わたくしは、どこかおかしくなって笑った。


 エミリアが、静かに言葉を紡ぐ。


「でも……わたしは、リリアンヌ様が、そうやって“使い道”を一緒に考えてくださる方でいてくださるのが、嬉しいです」


 その瞳は真剣で、少しだけ潤んでいる。


「“王妃候補だからすごい”のではなくて、

 “わたしたちと同じ机で悩んでくださる方が、その肩書きを持っている”ことが……心強いと、思ってしまいました」


 その言葉に、胸の奥で何かがやわらかくほどけていく。


(ああ――)


(そうか。わたくしは、こういう瞬間のために、もう一度この立場を使いたいのかもしれませんわね)


 噂が名誉を連れ戻してくれたとしても、

 わたくしの心を動かすのは、その名誉が「机を並べる人たち」のために何ができるか、という問いだ。


 ペン先にインクを含ませながら、心の中でそっと言葉を重ねる。


(肩書きや評価は、風見鶏のようにくるくると向きを変える)

(けれど、その風をどう使うかを決めるのは――やはり、わたくし自身)


「……エミリアさん、ミラさん」

 わたくしは、二人に向かって小さく微笑んだ。


「“おめでとうございます”でも、“よかったですね、困らなくて済んで”でも――どちらでも構いませんわ」


「ただひとつ、願いがございますの」


「なんです?」

 ミラが首をかしげる。


「そのどちらの言葉のあとも、どうか遠慮なく、“それで、わたしたちは何ができるでしょう”と、一緒に考えてくださいますか」


 エミリアの目が、ぱっと明るくなる。


「……はい。喜んで」


 ミラも、照れ隠しのように視線をそらしながら、ぼそりと付け足した。


「じゃあ、その時は――“本来なら”なんて枕ことば、抜きにして聞きますね」


「ええ、その方が、わたくしも嬉しいですわ」


 インクの匂いと、窓から差し込む柔らかな光の中で。

 王妃候補に戻ったという噂よりも、目の前の二人の言葉の方が、ずっと確かな重みをもって胸に残っていくのを、わたくしは静かに感じていた。


 中庭へと続く回廊は、昼下がりの光に満ちていた。


 石畳に落ちる木漏れ日の模様を眺めながら歩いていたそのとき、角を曲がった先で、ふと足が止まる。


 向こうから、数人の側近を伴ったアルベルト殿下が歩いてきていたのだ。


 側近の一人が、わたくしの姿に気づき、わずかに目を見開く。

 すぐに空気を読んだらしく、他の者と目配せをして、自然な形で数歩ほど後ろへ下がった。


 回廊の中央に、殿下とわたくしだけの、少しだけ広い空白が生まれる。


「……リリアンヌ」

 立ち止まった殿下が、静かな声で名を呼んだ。


「殿下」

 わたくしはスカートの裾をつまみ、一礼する。


 春の風が、回廊の隙間から吹き抜けた。

 翻るマントの端がかすかに揺れ、殿下の表情に、一瞬の逡巡が走る。


「……公爵家に届いた文書のことは、聞いているね」


 その言葉に、胸の奥がわずかにきゅうと縮むのを感じる。

 顔には出さず、わたくしは丁寧に微笑んだ。


「ええ。

 殿下のお心遣いと、王宮のご配慮に、心より感謝申し上げます」


 昔なら――この一言に続けて、「王妃教育に励む所存ですわ」と、迷いなく付け足していたのだろう。


 だが今、その言葉は口の中で形を成さない。

 代わりに生まれかけた沈黙を、殿下が先に断ち切った。


「本来なら、僕は……」

 殿下はほんのわずか視線を宙へさまよわせ、それから言葉を選び直すように、息を整えた。


「“これからも、王妃としての務めを頼みにしている”と、そう言うべきなのかもしれない」


 一瞬だけ、昔の彼の姿――

 白薔薇に囲まれた婚約披露の庭で、自信に満ちた横顔を見せる少年の姿――が、脳裏をかすめる。


 だが殿下は、その言葉を最後までは紡がなかった。


「けれど、今は別の言い方をさせてほしい」


 真っ直ぐにこちらを見る瞳が、以前よりもずっと慎重で、どこか探るようだ。


「君のしてきたことが、“正当な評価を受け始めている”と、伝えたくて」

 短く、けれどはっきりと告げられる。


「……それだけだ」


 その一言に、わたくしは思わず目を瞬いた。


 “王妃として相応しいから”ではなく。

 “君のしてきたこと”――領地のことも、学園でのことも含めた、その歩みそのものが評価されつつあるのだと。


 そんなふうに切り分けて言葉を選ぼうとする殿下を、昔のわたくしは想像もしなかっただろう。


「過分なお言葉でございますわ」

 胸の内に生まれた小さな驚きを押し隠しながら、わたくしは穏やかに微笑んだ。


「ですが、わたくしは――ただ、自分にできることを続けてまいります」


 “王妃候補だから”ではなく。

 “リリアンヌ・フォン・エルステッド”という、一人の人間として。


 その意思を、できる限り柔らかな形で言葉に込める。


 殿下は、わずかに目を細めた。

 それが、安堵なのか、戸惑いなのか、わたくしには判別できない。


(……“王妃として相応しいから評価した”と言えば、

 昔の彼女なら素直に喜ぶと、どこかで思い込んでいたのかもしれない)


 殿下は、心のどこかで自嘲する。


(けれど今の彼女の目は、“王妃の座”そのものではなく――)


 ふと視線を庭へ向ければ、回廊の向こうに続く春の花壇が見える。

 白薔薇の苗木がある一角も、遠くにかすかに。


(その先にいる、誰かの暮らしを見ている……そんな気がする)


 かつては、自分の隣で、完璧な笑みを浮かべる花のような婚約者。

 今は、机を並べる誰かのことを思いながら歩いている一人の令嬢。


 同じ“リリアンヌ”という名でありながら、もう同じ存在ではない。


「君は、本当に……昔とは違うね」

 気づけば、その言葉が口からこぼれていた。


 リリアンヌは、少しだけ目を丸くし、それから柔らかな微笑みに変える。


「殿下がそう仰ってくださることも――きっと、昔とは違うことのひとつなのでしょうね」


 ほんの軽い冗談めかして返したつもりだったが、殿下は一瞬だけ言葉を失ったように見えた。


(殿下が、わたくしを“肩書き”だけで語ろうとしないでいてくださること――)


 わたくしは胸の奥で、そっと息をつく。


(本当は、それが一番ほっとするのです)


 昔なら、きっと喜ぶはずだった言葉。

 “王妃として期待している”、“君こそふさわしい”。


 今はそれよりも、“君のしてきたことが評価されている”という、少し遠回りな言い方が――何よりも優しく響いた。


「それでは、わたくしはこれで失礼いたしますわ」

 礼をして、歩き出す。


 背後で、殿下の声が低く呟くのが聞こえた。


「……ああ。無理のない範囲で、頼む」


 それは、これまでのように「完璧であれ」と求めるものではなく、

 「君自身の歩幅でいい」と、どこか不器用に伝えようとした言葉のように感じられた。


 回廊を抜ける風が、春の匂いを運んでいく。


 昔なら嬉しいはずの言葉が、もうそのままでは胸に届かない。

 けれど、言い方を変えようとする殿下の変化は、たしかに心を温める。


 すべてが元通りになるわけではない。

 けれど、同じ場所に立ちながら、違う景色を見ているわたしたちは――

 それぞれの物語の続きを、静かに選び直し始めているのだと、わたくしは思った。

夜の公爵家は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 自室の机の上には、二通の書類が並んでいる。


 一通は、昼間、父が重々しく封を切った王宮からの正式な文書。

 王家の紋章が押された、その紙は、蝋燭の灯りを受けて淡く光っていた。


 もう一通は、領地から届いた、冬季の報告書。

 粗い紙にびっしりと書き込まれた文字は、華やかな紋章こそないものの、わたくしにはこちらの方がよほど重く見える。


 リリアンヌは、指先でその二枚の紙をなぞるように並べ替えた。


「……“王妃候補としての評価”が戻った、ですのね」


 王宮の文書に書かれていた文言が、脳裏に蘇る。

 学園での振る舞い、慈善活動、特待生たちとの交流――

 それらが「品行方正」として評価され、「王妃教育の一環としての行事参加」を増やしたいと申し出る文。


 昔のわたくしなら、胸を撫でおろし、安堵と誇らしさで一杯になっていたに違いない。


 けれど今、胸の中に広がるのは、別の種類の重みだ。


 視線を、もう一方の紙――領地の報告書へと移す。


「今年の冬季、主要地区における凍死者、例年比で三割減……」


 声に出さず読み進めるうち、胸の奥でじんわりと温かいものが広がった。


 パン配給の仕組みが、少しずつ根付き始めていること。

 教会や施療院と連携し、体の弱い人から優先して渡せるように工夫していること。


 その一つひとつが、黒いインクの数字や短い文字列に姿を変えて、紙の上に並んでいる。


 ページをめくると、別の行が目に入った。


「……まだ、救えていない村もあるのですわね」


 雪深い山あいの小さな集落の名。

 荷車が入りにくく、配給の数が足りず、結局今年の冬も「間に合わなかった家」があったこと。


 報告書には、凍えた子どもの名までは書かれていない。

 けれど、その空白にこそ、数字だけでは語られない現実が詰まっている気がした。


(“王妃候補としての名誉”が戻ってきたことは――)


 リリアンヌは、そっと目を伏せる。


(たしかに、こうした施策を進めるにあたって、大きな追い風になるでしょうね)


 王宮での発言権。

 他領の有力者たちと、同じ席につく機会。

 「王妃候補」と見なされることで、誰かが、これまでより少しだけ真剣に耳を傾けてくれるようになるかもしれない。


 そのどれもが、領地のためには、あまりにも惜しいほどの道具だ。


「けれどそれは――」


 机に肘をつき、指先で軽く額を押さえながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「“わたくし自身を飾るため”ではなく」


 視線の先には、報告書に並ぶ数字の列。


「この数字の一つひとつ……

 名前も知らない、どこかの誰かの冬を、少しでも和らげるためにこそ、使いたいのですわ」


 昔のわたくしにとって、「名誉」とは、自分が傷つかないための盾であり、

 王妃の座へと続く、ただ一本の階段だった。


 今、紙の上に戻ってきたそれは――

 形は同じでも、全く別のものに見える。


 リリアンヌは、王宮の文書と領地の報告書を、もう一度ゆっくりと見比べた。


「戻ってきた名誉は……」


 小さく微笑む。その笑みは、どこか覚悟の混じったものだった。


「もう、“昔のわたくし”のためのものではありませんわね」


 完璧な王妃になるためでも、

 噂に怯える自分を守るためでもなく。


「今のわたくしが守りたいもののために――」


 パン職人に頼んだ、配給用の“最初から焼かれるパン”。

 ミラが語ってくれた、「名簿からこぼれ落ちた子どもたち」の顔。

 エミリアと共に、インクで指先を黒くしながら考えた、数字の裏側にいる人びと。


 その姿が、次々と胸の内に浮かんでは、静かに重なっていく。


「遠慮なく、使わせていただくことにいたしましょう」


 王宮の文書をそっと重ね、丁寧に封筒へ戻す。

 それは、飾り棚へしまうための宝物ではなく、これから使い込んでいく道具のような感触だった。


 窓の外では、春へ向かう夜風が、まだ少し冷たくガラスを叩いている。

 その冷たさを思えばこそ、リリアンヌは小さく息を吸い込んだ。


「――どうか、この名誉が」


 誰にも聞こえない声で、そっと祈るように呟く。


「二度と、誰かを踏みにじるためのものではなく」


「誰かの冬を、ほんの少しでもあたためるための灯りでありますように」


 蝋燭の火が、かすかに揺れた。

 その小さな光を見つめながら、リリアンヌは新しく戻ってきた「王妃候補」という名を、

 自分のやり方で使い直していく決意を、静かに胸の内で固めていった。


夜の帳がすっかり降りた公爵家の一室で、リリアンヌは窓辺に立っていた。


 外には、薄い雲に縁取られた春の月。

 遠くには学園の寮の灯りが、星のようにぽつぽつと瞬いている。


 ガラスに映る自分の姿を見つめるように、そっと目を細めた。


(かつて、わたくしは――)


 胸の奥で、静かに言葉が立ち上がる。


(“王妃の候補であり続けること”を、わたくしの価値のすべてだと思っていましたわ)


 王妃教育、礼儀作法、舞踏会での振る舞い。

 そのどれか一つでも綻べば、「王子妃にふさわしくない」と噂されるのではないかと怯えていた日々。


(その座を追われたときには――

 まるで世界から追放されたような気持ちになっていたくらいに)


 婚約破棄と共に崩れ落ちた前世の記憶と、

 今世で噂に晒された最初の頃の感覚が、うっすらと重なって蘇る。


 リリアンヌは、そっと瞼を閉じた。


(今、こうして“王妃候補としての名誉”が戻りつつあると告げられても)


 父が差し出した王宮の文書。

 学園でひそひそと囁かれる、「やっぱりリリアンヌ様こそ王妃にふさわしい」という声。


(――あの頃のように、胸が震えることはありませんの)


 そこには、かつてのような切実な渇きも、しがみつくような安堵もない。


(それはきっと、心が冷えてしまったからではなくて)


 窓の外に浮かぶ月を見上げる。

 白い光は冷たく見えて、どこか優しい。


(“名誉”という言葉より先に――)


 脳裏に浮かぶのは、紙の上の数字の列ではなく、その向こう側にいる人の姿。


(パンを受け取って、少しだけほっとした表情を浮かべる誰かや)

(まだ救いきれていない村で、長い冬をやり過ごそうとしている家族のこと)


(“守りたい顔”や、“救いたい冬”が先に浮かぶほどに――

 わたくしの心が、別の場所へと歩き出してしまったからなのでしょうね)


 昔は、「王妃」という頂きに憧れて上を見上げていた。

 今は、足元の土を確かめるように、誰かの暮らしへと視線を落としている。


(名誉は戻る。けれど――)


 自分の胸に手を当てる。

 そこに宿る鼓動は、以前とは別のリズムで鳴っているように感じられた。


(わたくしの心は、もう“そこだけ”には縛られない)


 王妃という座に縛られるのでもなく。

 「失われた名誉」に縛られるのでもなく。


(――ならばせめて)


 リリアンヌは、小さく息を吸い込む。


(戻ってきた名誉には、今のわたくしが信じるものを映してみせましょう)


 パンの配給を広げるための言葉に。

 学園で、誰かを下に見ない空気を少しでも増やすための働きかけに。

 そういった「使い道」を思い描くときにだけ、その肩書きを思い出せばいい。


(王妃になるかどうかは、まだ分かりませんけれど)


 それは、もはや「全て」ではない。

 数ある道のひとつに過ぎないのだと、ようやく思える。


(たとえどの道を選ぶのだとしても――)


 月明かりが、窓辺の彼女の横顔を淡く照らす。


(“名誉に追い立てられる”のではなく)


(“心が選んだ先で名誉を使う”わたくしでありたいのです)


 静かに瞼を開けると、窓に映る自分の瞳は、

 不思議と穏やかな光を湛えていた。


 机の上では、王宮の文書が、まだ新しい紙の匂いを漂わせている。


 失われたはずの名誉が、そっと彼女の手元へ戻りつつある。

 だが、その胸はもう、かつてのようにそれだけを求めてはいなかった。


 ――名誉は戻る。


 けれど、その行き先を決めるのは、

 静かに形を変えた彼女の“心”なのだと、リリアンヌは知っていた。








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