白薔薇が再び咲いた。
ChatGPT:
春はいきなり訪れるのではなく、少しずつ、冬の隙間から滲み出してくるものらしい――と、リリアンヌは思った。
その日の午前、講義と講義の合間のわずかな空き時間。
彼女はマントの前を軽く合わせながら、学園の庭園へと足を向けていた。
吐く息はまだ白い。
けれど、頬を撫でる空気は、真冬のように肌を刺す冷たさではない。
どこか、水の底でゆっくりと温度が上がっていくような、柔らかな気配が混じっている。
足もとの石畳の隙間から、まだ頼りない色の草が顔を出しているのが見えた。
雪と霜に覆われていたはずの花壇も、今はところどころ土が覗き、黒い土の上から、薄緑の芽が押し上げるように現れている。
低木の枝には、小さな蕾のような膨らみがいくつも並び、遠くでは園丁がしゃがみ込んで、堅くなった土を丹念にほぐしていた。
――冬の間、ここはただ「眠っているだけ」だと、庭師の方が仰っていましたわね。
ふと、以前交わした会話が胸の内で甦る。
“枯れたのではありませんよ、お嬢様。
地面の下で、次の季節の支度をしているだけです”
――終わったのではなく、芽吹く準備をしているのだと。
(それは、少し前のわたくし自身にも、当てはまるのかもしれませんわね)
噂に追い詰められて、失った友を思い出して、涙を流した冬。
あの時間も決して「無駄だった」と切り捨てることはできない。
冷たさの中で縮こまりながらも、どこかで次の一歩のために心を耕していたのだと、今なら思える。
ゆっくりと歩を進めながら、リリアンヌは視線を巡らせた。
探している場所がある。
それは、庭園の中央からは少し外れた、陽当たりのいい一角。
大仰な噴水やパーゴラからは距離を置き、けれど、散歩の道筋からはよく見える位置。
――たしか、この辺りでしたわね。
記憶の中の光景が、早春の庭と重なる。
前の人生で、王宮の庭を歩かされた時。
「殿下と婚約者のために整えられた一角」として、白い薔薇が惜しげもなく咲き誇っていた場所。
清らかさと高貴さの象徴。
瑕疵ひとつ許されない、完璧な花。
(あの頃のわたくしは――あの白薔薇のようであれ、と望まれておりましたわね)
胸の奥が、少しだけきゅうと縮む。
しかし、そこに滲む痛みは、以前ほど鋭くはなかった。
リリアンヌは、立ち止まってそっと息を吐く。
白薔薇のあったはずの一角を、まだ何も言葉にはせずに見つめた。
――今年も、あの白薔薇は咲くのかしら。
その問いは、唇まで上ってきて、そこで留まる。
声にすれば、過去の自分を呼び戻してしまいそうで。
彼女はただ、胸の内にそっと抱え込むように、その思いをしまい込んだ。
柔らかな日差しが、まだ冷たい庭の土の上に、静かな光の筋を落としていた。
白薔薇の記憶に導かれるようにして、リリアンヌは庭園の奥まった一角へと足を向けた。
人通りの多い中央の小径から、ほんの少し外れた場所。
以前は大輪の薔薇が咲き誇り、遠くからでも白の眩しさが目を引いた区画――の、はずだった。
今そこにあったのは、慎ましい土の盛り上がりと、小さな支柱に寄り添うように立つ、細い枝ぶりの苗木だけだった。
棘のまだ柔らかい茎が、冷たい風にふるふると揺れている。
ところどころに、小さな芽のふくらみがあるが、花の気配はまだどこにもない。
(……本当に、まだ“これから”なのですわね)
しゃがみ込むほど近くに寄るのは憚られて、花壇の縁からそっと覗き込んでいると、背後から穏やかな声がかかった。
「お嬢様。この区画にご興味がおありで?」
振り返ると、土で汚れた手袋を外しながら、園丁が一礼していた。
年配とも若いとも取れる、落ち着いた顔立ち。目尻には、外の風に晒されてきた人特有の皺が刻まれている。
「以前、ここに白薔薇が植えられていたと聞きましたわ」
リリアンヌが問うと、園丁は「おや」と目を細めた。
「ええ、よくご存じで。
冬前に、あの古い株は随分弱っておりましてね。花こそ咲いておりましたが、根がもう限界だったんです」
彼は、苗木の根元を傷つけないように、そっと土を指先で崩して見せる。
「ですから、いったん挿し木を取って、新しい苗木として育て直しているところなんですよ。
見た目は小さくなりましたが、根は今、しっかり張り直している最中です」
リリアンヌは、その言葉を胸の中でゆっくりとなぞった。
――古い株は弱って。けれど、完全には捨てず、新しい形で育て直す。
(前のわたくしの記憶も……本当は、そういうものなのかもしれませんわね)
かつての「王子の婚約者」という役割も、噂に塗り潰された日々も。
すべて切り捨ててしまいたいと思った時期もあった。
けれど今は、その記憶から小さな挿し木だけをもらうようにして、
別の土に植え替え、別の形の“わたくし”として育て直しているのだ、と。
園丁が、土についた手を軽く払ってから、にこりと笑った。
「ちゃんと根付けば、春の終わり頃には、きっとまた可愛らしい花をつけますよ。
前のような見事な大輪……というよりは、“少しだけ控えめ”になるかもしれませんがね」
「控えめな白薔薇――」
リリアンヌは、その響きを口の中で転がし、ふっと微笑む。
「それも、きっと素敵ですわね」
完璧で、人を寄せつけない象徴ではなく。
小さくても、よく見ると柔らかな色と香りを持つ花。
(もし、ここにまた白薔薇が咲いたなら――
今度は、“婚約の象徴”としてではなく、
冬を越えて芽吹いた、小さな再生の証として眺めてみたいですわ)
まだ蕾さえない苗木を前に、リリアンヌの胸の内には、静かな期待だけが柔らかく灯っていた。
――春の終わり頃。
「白薔薇が再び咲く」その時を、彼女はまだ知らない未来への約束として、そっと心にしまい込んだ。
ふと、指先が白薔薇の苗木から離れた瞬間――胸の奥で、別の白が揺れた。
視界の隅に、幾重にも重なった花弁。
今はまだ蕾すらつけていないこの苗木より、ずっと大きく、完璧に形の整った白。
それは、前世の王宮の庭園で見た、あの白薔薇だった。
◇ ◇ ◇
陽光を受けてきらめく噴水。
磨き上げられた白い大理石のテラスに、金と紺のタペストリーが揺れている。
王子との婚約披露の宴の日、庭園には季節外れと言ってよいほど、見事な白薔薇がこれでもかと飾られていた。
長いテーブルの中央には、花器から溢れんばかりの白薔薇のアレンジメント。
柱の根元には低く丸く整えられた白薔薇の束。
歩けばどこかで、淡い香りが裾を撫でる。
『白薔薇は殿下の婚約者にぴったりですわ』
『瑕疵ひとつない、完璧な花――まさに公爵令嬢様そのものですわね』
笑い声混じりの賛辞が、何度も耳に届いた。
リリアンヌ――かつての彼女は、微笑みながらグラスを持ち上げ、淑女として正しい返答を繰り返していた。
(瑕疵ひとつない、完璧な花)
(そうでなければなりませんわ――)
白薔薇の花弁一枚一枚に、“期待”が貼りついていた。
萎れてはならない。傷がついてはならない。
ひとたび茶色の斑点が見つかれば、誰かがすぐに摘み取って、見えない場所に隠してしまうだろう。
その様子を眺めながら、彼女は自分にも同じことを言い聞かせていた。
(表情を崩してはだめ)
(弱音を見せてはだめ)
(殿下の隣に立つ者として、欠けてはならないのです)
王宮の白薔薇は、土に根を張っているというより――
「王子妃にふさわしい象徴」として、台座の上に飾られているだけの花だった。
◇ ◇ ◇
現在の庭園に、風が戻る。
リリアンヌは、足元の小さな苗木を見下ろした。
前世のテーブルを飾っていた、あの完璧な白薔薇とは違う。
ここにあるのは、土の匂いとまだ頼りない枝ぶりと、柔らかい棘。
(あの頃の白薔薇は、“飾りとしての花”でしたわね)
(今、ここにあるのは――“これから土に根を張ろうとしている花”)
胸の奥に、静かな対比が浮かび上がる。
飾られていただけの白薔薇と、育て直される白薔薇。
完璧であることを求められた花と、まだ不格好なままの苗木。
(前のわたくしも、きっと同じでしたわ)
(台座の上に置かれた“王子妃の候補”としての公爵令嬢と――
今、土を踏みしめながら、自分で根を張り直そうとしているわたくし)
リリアンヌは、そっと息を吐いた。
かつては、傷一つも許されなかった白薔薇。
今は、小さな芽にさえ「どうか無事に」と願いをかけることができる。
その違いに、ほんの少しだけ、救われたような気がしていた。
ChatGPT:
春の光が、さきほどより少しだけ強くなっていた。
白薔薇の苗木から視線を上げたところで、足音が近づいてくる。
「リリアンヌ様、こちらにいらしたのですね」
振り向けば、エミリアが教科書を胸に抱え、息を弾ませて立っていた。
「次の授業まで少し時間がありましたので、お散歩でも、と思いまして」
リリアンヌが微笑むと、エミリアもほっとしたように表情を緩める。
「ご一緒しても、よろしいでしょうか」
「もちろんですわ。ちょうど、この子を眺めておりましたの」
視線を戻すと、エミリアもつられて白薔薇の苗木を見下ろした。
「白薔薇……の苗、でしょうか?」
「ええ。冬の前に古い株を挿し木にして、育て直しているのだと、先ほど園丁の方が教えてくださいましたわ」
「そうなのですね。咲いたら、きっととても綺麗でしょうね」
エミリアが素直な憧れをにじませる声で言う。
リリアンヌは、少し迷った末に、ぽつりと口を開いた。
「……わたくし、以前は白薔薇があまり好きではなかったのです」
エミリアが目を瞬かせる。
「えっ。そうなのですか? てっきり、お好きなのだとばかり……。リリアンヌ様といえば、白薔薇のイメージがございましたから」
「そう、見えますわよね」
どこかおかしそうに、リリアンヌは小さく笑った。
「白薔薇はいつも、“殿下にふさわしいわたくし”を飾るために並べられていましたの」
「……飾る、ために」
「ええ。瑕のない花であることを求められて。
萎れた花はすぐに捨てられて――それは、まるで『こうあるべき婚約者』というお手本のようで」
言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「ですから、白薔薇を見るたびに、『そうでなければならない』という声が聞こえてくる気がして……正直、すこし息苦しい花でした」
エミリアは、驚いたようにリリアンヌを見た。
いつも凛としている彼女から、そんな本音が出てくるとは思わなかったのだろう。
「今、ここにあるこの子は――」
リリアンヌは、そっと苗木の上で指を組み合わせる。
「殿下の隣を飾るためではなく、この庭を歩く人たちの目に、少しだけ白を添えるために咲くのでしょうね」
「庭を歩く人たちの、ですか?」
「ええ。たとえば、午前の授業で数字に頭を抱えた特待生の方や」
エミリアを見ると、彼女は照れたように笑った。
「長い自習のあとで、ここでお茶を飲む生徒たちの、休憩時間をほんの少しだけ華やがせるためとか」
「……それは、とても素敵です」
エミリアは、胸の前で本を抱きしめるようにして、苗木を見つめる。
「同じ白薔薇でも、“誰のために咲くか”が違うのですね」
「きっと、そうなのでしょうね」
自分で言いながら、リリアンヌはゆっくりと息を吸い込んだ。
「殿下にふさわしい花として飾られるのではなく――
ここで学ぶ人たちが、『今日も頑張りましたわね』と自分に言ってあげるための、ささやかな一輪として咲くのだとしたら」
「その時の白薔薇は、きっと今までとは違って見える気がいたします」
エミリアの心に、小さな驚きが波紋のように広がる。
(リリアンヌ様は、花にさえ“誰のために咲くか”を考えてしまわれる方なのだ)
(きっと、ご自分のことも――“誰のために、どう在りたいのか”を考え続けてこられたのだろう)
彼女は、そっと苗木に会釈するように頭を下げた。
「わたくしも、楽しみにしております。この子が咲く日を」
「ええ。春の終わり頃には、きっと」
リリアンヌは、風に揺れる細い枝を見つめながら、柔らかく笑った。
かつては、自分を飾るための白薔薇。
今は、自分と、隣で学ぶ誰かの時間を、そっと支えるための白薔薇。
同じ花でも、「誰のため」に咲くのかが変われば――
その意味も、きっとまるで違ったものになるのだと、彼女はようやく気づき始めていた。
春の光が、庭の奥まで届き始めた頃。
別の小径を、アルベルト王子と側近たちがゆっくりと歩いていた。
「今年の手入れも、見事なものですね、殿下。冬を越えたばかりとは思えません」
真面目な側近が感心したように言い、王子は何気なく視線を巡らせる。
その時だった。
遠く、白薔薇の区画のそばに、小さな人だかりが見える。
白い苗木の前に立つ、明るい髪の令嬢と、茶色の髪の少女――リリアンヌとエミリアだ。少し離れたところを、ミラらしき姿が通りかかり、何か一言交わしてまた去っていく。
かつて王宮で見慣れていた、“完璧な婚約者”としての彼女ではない。
肩の力を抜き、学生らしい距離感で笑い合う、ただの少女たちの輪。
「おや、殿下」
軽口を叩く側近が、面白そうに目を細めた。
「白薔薇の区画が、また賑やかになっておりますね」
わざとらしく庭の一角を指し示す。
「昔は“殿下とご婚約者様のための庭”だ、などと囁かれていた場所ですが」
「……そうだったね」
アルベルトは、小さく息を吐くように答えた。
視線の先で、リリアンヌが白薔薇の苗木に何かを語りかけるように微笑み、その隣でエミリアがうなずいている。
風に揺れるのは、まだ花をつけていない細い枝――それでも、周囲の空気は不思議と明るい。
(前は、この区画も、この花も)
(“僕と婚約者の物語を飾る舞台”だと、疑いもせずに信じていた)
白薔薇は、自分たちにふさわしいかどうかを測る飾りであり、
庭は、自分と婚約者が並んで歩くためだけの背景だった。
なのに今、彼の目に映る光景は違う。
「……今は、誰の庭なのだろうね」
思わず、本音がこぼれた。
軽口の側近が「と言われますと?」と首をかしげる横で、真面目な側近が小さく咳払いをし、声音を落として続ける。
「最近のリリアンヌ様は、殿下のご婚約者としてだけではなく――」
「“一人の令嬢として”、さまざまな噂が立っておりますから」
王子が横目で見ると、側近は困ったように微笑った。
「特待生の方々と勉強会を開いておられるとか、
領地の慈善の話が授業の題材になっているとか……」
「……聞いている」
アルベルトは短く返し、再び白薔薇の区画に目をやる。
リリアンヌが、何かを言い終えたのだろう。
エミリアがふっと顔をほころばせ、苗木に向かってぺこりと頭を下げる仕草が見えた。
以前なら、その花は“王子と婚約者のためだけの象徴”だったはずだ。
(白薔薇も、役目を増やすのかもしれませんね)
真面目な側近の、先ほどの言葉が胸の中で反響する。
(僕と彼女を飾る花から――)
(彼女と、その隣で笑う誰かのために咲く花へ)
ふと、あの日の会話が蘇る。
『……君は、本当に、変わったね』
戸惑いを隠せず、思わず口をついて出た言葉。
そして、真正面から受け止めた彼女の笑顔。
『“よくわからないから、これから知っていく”と思っていただけるほうが、ずっと嬉しゅうございますもの』
(“君は昔と違うね”と口にしたのは、あの日の僕だ)
(庭も、花も、彼女も――同じ場所に見えて、もう同じではない)
冬を越えても、庭園の位置は変わらない。
白薔薇の区画も、昔と同じ場所にある。
けれど、そこに立つのは、
「王子の婚約者」という役目だけをまとった令嬢ではなく、
失敗して、泣いて、誰かと笑い合い、
噂に振り回されながらも、自分の言葉で話そうとする――
“彼の知らないリリアンヌ”だった。
「殿下?」
側近が呼びかける声に、アルベルトは我に返る。
「……何でもない」
軽く首を振りつつも、目はまだ白薔薇の一角から離れない。
(あの花が再び咲く時、そこに立っているのは)
(本当に“昔と同じ二人”なのだろうか)
答えの出ない問いが胸に残る。
それでも彼は、その問いから目を逸らすことができなかった。
柔らかな春の風が吹く。
小さな苗木の枝が揺れ、それに合わせるように、リリアンヌの髪もふわりと踊った。
アルベルトは、その光景から視線を外さぬまま、ゆっくりと歩みを再開する。
同じ庭を、少し離れた小径から。
白薔薇が再び咲くのを待ちながら、
“昔と違う彼女”を、ようやく自分の目で見ようとしている自分に、静かな戸惑いと興味を覚えながら。
夕方に近い柔らかな光が、庭園の一角を淡く染めていた。
白薔薇の苗木の前で、リリアンヌは足を止める。
昼前よりも、少しだけ膨らんだように見える芽が、枝先にいくつも並んでいた。
「お嬢様」
近くで土をならしていた園丁が、帽子のつばを押さえて顔を上げる。
「その子がお気に召しましたか?」
「ええ、とても。……今日も、よく陽を浴びているようですわね」
リリアンヌがそう返すと、園丁は小さく笑って、苗木に視線を落とした。
「春がもう少し深まれば、この子もきっと一気に花をつけますよ」
「その頃には、ここも学生の皆さんで賑やかになるでしょう。
本を持ってきたり、おしゃべりをしたり。薔薇は、そういう声も案外好きでしてね」
「……賑やかな白薔薇の庭。素敵ですわね」
言葉を交わしながらも、リリアンヌの視線は、枝先のほんのり色づいた芽に吸い寄せられていた。
(春が深まる頃――)
(この細い枝に、本当に花がいくつも咲いているのかしら)
ふと、まぶたの裏に、まだ訪れていない光景が浮かび始める。
白い花が、いくつも、いくつも開いている庭。
今は無骨な支柱にしか見えない棒が、しなやかな蔓と葉に覆われ、やわらかな影を作っている。
その下のベンチで、本を読み合う自分とエミリアの姿。
『この章のここの比喩、素敵だと思いませんか?』
『ええ。……でも、こちらの注釈のほうが、エミリアさんらしくて好きですわ』
ページをめくる音と、くすりと笑う声。
少し離れた花壇の縁では、ミラが紙包みを片手に、半分呆れたようにぼやいている。
『本当に、貴族の庭ってやつは……どこを見ても“綺麗ですね”って言わなきゃいけない顔になりますね』
『まあ。では今日は、“綺麗ですけれど、花よりお菓子のほうが好きです”と正直におっしゃってもよろしい日ということにいたしましょう』
『それなら、薔薇も許してくれますかね』
口ではそう言いながら、一輪だけ、そっと指先で花びらに触れてみるミラ。
その仕草を見て、エミリアが目を細め、リリアンヌは小さく笑う――
さらに、視線を少し遠くへ移した想像の中で、
今度は、庭の入口に立ち尽くすアルベルトの姿が見える。
足を踏み入れるかどうか迷うように、白薔薇の手前で立ち止まり、
こちらに歩み寄るきっかけを探している、どこか不器用な横顔。
(本当に、こんなふうになるかどうかは分かりませんけれど)
(――けれど)
想像の光景を、そっと胸の奥にたたみながら、リリアンヌは小さく息を吸った。
「その時、わたくしは――どんな顔で、この花を見上げているのでしょうね」
隣に立つ園丁が、「きっと、良い顔ですよ」と軽く笑う。
リリアンヌも、つられて少しだけ口元を緩めた。
心の中で、言葉にならない言葉を、一つずつ形にして並べていく。
(また白薔薇が咲いたら)
(今度は、“誰かの期待を映す鏡”としてではなく)
(わたくし自身の選んだご縁と一緒に、この花を眺めていたい)
王子の視線を気にして笑うのではなく。
宮廷の噂に合わせて背筋を伸ばすのでもなく。
エミリアの真剣な横顔と、ミラのぶっきらぼうな笑い声と、
それから――迷いながらも近づいてこようとする人々の気配を、ちゃんと感じながら立つ自分でいたい。
「……咲いたら、また見にまいりますわ」
リリアンヌは、苗木に向かってそっと一礼した。
その仕草を見て、園丁が優しくうなずく。
「ええ、ぜひ。花は、見てくれる人がいると、なおさら張り切りますからね」
西の空は、ほんのりと茜色を帯び始めている。
まだ固い蕾たちは、その光を小さな器で受け止めるように、静かに輝いていた。
それは、過去の婚約を飾るための象徴ではなく、
これからの季節と、これからのご縁を祝うために、少しずつ準備を進めている花の姿。
(白薔薇が再び咲く日までに――)
(わたくしも、もう一度、根を張り直しておきませんとね)
自分自身にだけ聞こえる冗談を心の中でつぶやき、
リリアンヌは最後にもう一度苗木を振り返ってから、庭を後にした。
春は、まだ始まったばかり。
白薔薇が満開になるその日を、小さな約束のように胸に抱きながら。
朝の光が、まだ冷たい空気の上にやわらかく降りていた。
授業前の中庭には、登校してきた生徒たちの足音が、ぱらぱらと石畳の上に散っている。
リリアンヌは、その流れから少し外れるようにして、白薔薇の区画へと歩み寄った。
(今日は、どうかしら)
ほんの少し、胸が高鳴る。
毎朝ここを通るのが、近頃のささやかな習慣になっていた。
冬を越えた苗木は、枝先に小さな蕾をいくつも抱えたまま、数日前まではただ静かに息を潜めているようだった。
そして――
「……まあ」
リリアンヌの足が、そこでふっと止まった。
細い枝の先。
他の蕾より一歩だけ早く、ふくらみを破った一つが、朝の光を受けて白く開いていた。
大輪とは呼べない。
まだ花びらの枚数も少なく、ほんの少し心許ないほどの小さな白薔薇。
それでも、確かに一輪分の「咲いた」という存在感を、そこに宿している。
「……咲きましたのね」
思わずこぼれた声は、自分でも驚くほど、柔らかかった。
そのとき、背後から控えめな足音がする。
「リリアンヌ様?」
振り返ると、本を抱えたエミリアが、少し息を弾ませて立っていた。
視線の先を追うように、彼女も小さな白薔薇を見つけて、目を丸くする。
「わあ……とても可愛らしい白薔薇ですね」
「ええ。……本当に」
そこへ、少し離れた小径からミラの声が飛んできた。
「おーい、エミリア。あ、また貴族の庭チェックですか?」
ぶっきらぼうな調子で近づいてきたと思えば、ミラもまた花壇の前でぴたりと止まる。
「……意外と、怖くない顔してますね、この花」
まじまじと覗き込みながら、ぽつりと漏らしたその言葉に、リリアンヌは小さく笑った。
「そうですわね。前とは、少し違って見えますもの」
「前?」
エミリアが小首をかしげ、ミラも興味深げに横目でリリアンヌを見る。
リリアンヌは、咲いたばかりの花から目を離さずに、静かに続けた。
「かつて、白薔薇は“王子妃にふさわしいわたくし”を飾るために、用意されておりましたの」
「清らかで、瑕疵がなくて、傷ついてはならない――
そんな“理想の姿”を、花びらに映し出すように」
言いながらも、その声にはもう苦さよりも、どこか遠い昔を語るような穏やかさが混じっている。
「でも、今ここに咲いた白薔薇は……」
リリアンヌは、そっと膝を折り、花と視線の高さを合わせた。
自分の指先ほどの大きさの、一輪の白。
朝露が一滴だけ、花弁の縁に残っている。
「失敗して、泣いて、笑って――」
「誰かと図書室で机を並べて、本の感想を言い合って。
焼き菓子の焦げ具合で、あれこれ文句を言われたりして」
ちらり、とミラを見ると、彼女は気まずそうに頬を掻く。
「いや、だって本当に……前のは炭だったじゃないですか」
「ふふ。ええ、あれは炭でしたわね」
エミリアもくすりと笑い、三人の間に小さな笑い声が弾む。
リリアンヌは、改めて白薔薇を見つめながら、心の中で言葉を重ねた。
(今、ここに咲いた白薔薇は――)
(“王子の隣に立つ完璧な婚約者”を飾るためではなく)
(こうして隣にいてくれる人たちと共に歩く、“わたくし自身の物語”のそばで咲いている)
同じ白い花であっても、
そこに纏わりつく物語が変われば、その意味はまるで違うものになる。
「ねえ、エミリアさん。ミラさん」
立ち上がりながら、リリアンヌは二人に向き直る。
「この花がもっとたくさん咲いたら――
今度は、ここで一緒にお茶をいたしましょうか」
「わたくしの“失敗しなかった方の焼き菓子”を持ってまいりますから」
エミリアの顔がぱっと明るくなる。
「ぜひ! あ、わたくし、今度はお茶の銘柄も選んでみたいです」
「じゃあ、私は……そうですね、花を見ながら愚痴を言う役で」
「まあ。それはミラさんにしか務まりませんわね」
三人で並んで、もう一度白薔薇を見下ろす。
春の庭に、小さく、しかし確かに開いたその一輪は、
王子のためにも、宮廷のためにも咲いてはいない。
それは――
噂に振り回されて傷つき、
それでも自分の言葉と弱さを抱えたまま歩き始めた令嬢が、
新しく選び直した関係と、これから育てていく縁のために、
そっと顔を上げて咲かせた、まっさらな印だった。
冷たい季節を越えた庭に、白薔薇が再び咲いた朝。
その小さな花を見上げる少女の横顔もまた、前とは少し違う光を帯びていた。




