失われた友 ―― あの裏切りを、涙で包む
その日、図書室の窓には、淡くにじむ雨粒が並んでいた。
屋根を叩く音が遠くで続いていて、ページをめくる音や、ペン先が紙をなぞるかすかな気配までも、いつもより柔らかく包まれている。
リリアンヌは、腕に数冊の本を抱え、閲覧室の奥へと歩いていた。
領地の税制や、穀物の流通についての地味な装丁の本ばかりだ。背表紙に刻まれた金文字が、雨の薄明かりを受けて、静かに光っている。
(もう少し、保存と配給の効率を……。粉の歩留まりについて書かれた本があったはずですわね)
目的の棚は、図書室の最奥に近い一角だった。
経済学、法制史、その間に、なぜかぽつりと混ざり込んでいる別系統の本の並び。手書きで貼られた小さなラベルには、「劇作・戯曲」とある。
「……戯曲?」
足を止めてしまった自分に、リリアンヌは小さく苦笑した。
今ここへ来たのは、領地経営の資料を探すためであって、芝居の台本を読むためではない――そのことは、誰よりも自分がよく分かっている。
それでも、指先は自然に、その棚の一冊へと伸びていた。
布張りの表紙に、銀色のインクで題名が刻まれている。
『彩られた友情と、その終幕』
少しばかり芝居がかった、けれどどこか惹かれる響き。
リリアンヌは、周囲に人がいないのを確かめてから、そっとその本を抜き取った。
(……少しだけ、立ち読みしても罰は当たりませんわよね)
近くの窓際の机に、抱えていた本と一緒に戯曲集を積み上げる。
ひとつだけ残されたランプの灯りと、曇りガラス越しの薄い昼の光が、ページの上に斜めの影を落とした。
最初から読むつもりはなかった。
ぱらぱらとめくった指先が、ふと、あるページで止まる。
『“親友”だったはずの彼女は、
最後の最後で、私の隣から離れてしまったのです』
黒インクの行が、雨音の中でやけにくっきりと浮かび上がる。
リリアンヌの指先が、紙の上でぴたりと動きを止めた。
喉の奥が、かすかにひりつく。
(“親友だったはずの彼女”……)
読み進めるまでもなく、その一文だけで、胸の奥に何か硬いものが触れた気がした。
ページの余白に、誰かが書き込んだ小さな走り書きがある。
『本当の裏切りは、どちら?』
細く、揺れるような文字。
その問いかけを目で追った瞬間、リリアンヌは、そっと息を呑んだ。
雨音が、遠のいたように感じられる。
図書室の気配も、机に積んだ実務書の存在さえも、一歩後ろへ引いていく。
「“最後の最後で、隣から離れた友人”――」
自分でも驚くほど、声は小さく、かすかに震えていた。
誰もいない窓際で、リリアンヌは自嘲気味に口元をゆるめる。
「わたくしにも、いましたわね」
戯曲の中の“彼女”ではなく、現実にいた“誰か”の姿が、ゆっくりと立ち上がってくる。
同じ貴族の令嬢。
王子の婚約者となった自分に、最初に気さくに声をかけてくれた、あの少女――
名前を呼ぶには、まだ少しだけ、胸の奥がざわつきすぎている。
だからリリアンヌは、その顔を「クラリッサ」とはまだ言葉にせず、ただ「彼女」として思い浮かべる。
雨粒が、窓ガラスを伝ってゆっくりと流れる。
その軌跡を眺めながら、リリアンヌは指を本の上からそっと離した。
(領地のお勉強に来たはずが……厄介な本を開いてしまいましたわね)
そう心の中で軽く冗談めかしてみても、
胸の奥に芽生えた痛みは、簡単には笑いに変わらなかった。
戯曲の一節は、紙の上の物語ではなく、
前世の自分自身の物語へと、静かに扉を開けてしまっていた。
記憶の頁が、そっと巻き戻されていく。
思い出の舞台は、まだ王宮ではなく、前世の「学園」に併設された貴族子女のためのサロンだった。
磨き上げられた床に、陽光を透かす薄いレースのカーテン。
壁際には、小さなテーブルと椅子がいくつも並び、令嬢たちが少人数の輪を作って談笑している。
その中で、ひとつだけ椅子がぽつんと空いているテーブルがあった。
王子との婚約が決まったばかりのリリアンヌは、そこに座っていた。
背筋を正し、手元のカップを丁寧に持ち上げ、完璧な礼儀作法で紅茶を口に運ぶ。
彼女の周囲には、さりげない“半径”があった。
近づきすぎてもいけないし、離れすぎれば無礼になる――そんな、目に見えない緊張の輪。
(殿下の婚約者として、ふさわしくあらねば)
そう言い聞かせながら、リリアンヌは微笑みを崩さない。
けれど、その笑みはどこか、鏡に向けるものに似ていた。
そんなときだった。
「こちら、空いていて?」
涼やかな声が、唐突にその輪の内側へと滑り込んできた。
顔を上げると、栗色の髪をふわりと結い上げた少女が立っていた。
やや控えめな家紋のブローチ。
華美すぎず、しかし上質な布地のドレス。
――クラリッサ。
今ではその名を口にするだけで胸が痛む少女は、そのとき、少し悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「まぁ、クラリッサ様。こちらへ?」
周囲の令嬢たちが、わずかに目配せを交わす。
“殿下の婚約者の隣”に座るのは、なかなか度胸のいることなのだ。
けれどクラリッサは、そんな視線を涼しく受け流しながら、裾をつまんで優雅に一礼した。
「殿下のご婚約者様を、お一人で退屈させるなんて。
わたくしの良心が痛みましてよ」
言葉だけ取り上げれば、どこまでも礼儀正しい。
しかし、その目の奥には、「あなたを“肩書き”だけで見ているわけではありませんよ」と言いたげな、柔らかな光があった。
リリアンヌは、反射的に教科書通りの微笑みを浮かべる。
「お気遣い、感謝いたしますわ。
ですが、わたくしは――」
“殿下のご婚約者として、皆さまのお邪魔にならぬよう”
そう続けようとしたところで、クラリッサが小さく肩をすくめた。
「殿下の隣は、居心地がいいようでいて、苦しい場所でしょう?」
その一言が、完璧に整えられていたはずの笑みを、内側からぐらりと揺らした。
「……どうして、そのように?」
「わたくしも、“端の席”に座ることが多いから、なんとなく分かりますの」
クラリッサは、自分の席を指さして笑った。
それは王族の席からも、主要公爵家のテーブルからも、微妙に距離のある位置。
誰とでも話せるが、誰の「側近」にもなりきらない、中途半端な立ち位置。
「殿下の隣は、きっと“端の席”よりもずっと華やかですけれど――
心の居場所としては、案外似たようなものでしょう?」
リリアンヌは、思わず言葉を失った。
王子の隣に座ることは、栄誉だった。
幼いころからそう教えられ、そのための立ち居振る舞いを叩き込まれてきた。
けれど、誰にも言えなかった本音が、たしかにひとつだけある。
(息苦しい――と、思ったことが、ありますの)
それを口にすることは許されない、と信じていた彼女に、
クラリッサはさらりと続ける。
「もし苦しくなったら、わたくしのところへ逃げてきてくださいな。
同じ“端の席組”として、お茶ならいくらでも淹れて差し上げますわ」
くすり、とおどけるように笑うその顔に、
肩書きに向けられる敬意ではなく、「同じ年頃の娘」としての親しみがあった。
その日を境に、二人が同じテーブルを囲むことは、少しずつ増えていった。
華やかなサロンの隅で、
他愛もない噂話から、つまらない恋愛劇の感想まで。
「殿下は、どのようなお花がお好きなのかしら?」
「さぁ……。“王家の象徴にふさわしいもの”としか仰いませんの」
「まあ、それでは季節の花も落ち着いて咲けませんわね」
そんなやりとりに、リリアンヌは初めて「肩書きを外した自分」として笑うことを覚えた。
ある日のこと、サロンではなく、学園の中庭で二人きりになったとき。
クラリッサは膝の上で本をぱたりと閉じ、空を見上げながらぽつりと言った。
「リリアンヌ様は、殿下の婚約者でいらっしゃる前に、
一人の“女の子”でもいらっしゃるはずでしょう?」
「……“女の子”、ですか」
「ええ。お好きなお菓子とか、
誰にも言えないくらい嫌いな勉強とか。
そういうお話を、もっと聞かせていただきたいですわ」
そのときのリリアンヌは、胸の奥が温かくなるのを感じながら、
それでもまだ少しだけ戸惑っていた。
(“殿下にふさわしいわたくし”ではなく、
“ただのリリアンヌ”を知りたいと言ってくださる人が、本当にいるなんて)
恥ずかしさと嬉しさが、ひどく不器用に混ざり合う。
「……甘いものは、実は少し苦手ですの。
ですが、焼き立てのパンだけは、つい食べ過ぎてしまいますわ」
「あら、意外。
では、今度一緒に市場へ抜け出して、屋台のパンを試してみませんこと?」
「し、市場へ、ですって……?」
そんなささやかな“共犯めいた約束”に、二人で声を殺して笑った。
――あの頃のわたくしにとって、クラリッサは。
雨音に重なるように、現在のリリアンヌの心の声がそっと響く。
(本当に、“友”と呼べる、数少ない人でしたわ)
戯曲の一文に刺された胸の痛みは、
ただ裏切られた記憶だけではなく、
たしかにそこにあった「温かい時間」をも呼び覚ましていた。
記憶の幕が、いくつもの場面を縫い合わせるように揺れ動く。
――最初の、ほんの小さなずれは。
とある夜会の、眩しいほどに照らされた舞踏会場だった。
大広間の中央、王子とリリアンヌが、完璧な距離と姿勢で並び立つ。
楽団が奏でる緩やかな旋律。
視線を集めるべき「王家と公爵令嬢」の象徴的な光景。
その少し離れた場所で、クラリッサは扇を口元に当てながら、穏やかに微笑んでいた。
「まぁ、本当にお似合いですわね、あのお二人」
「ええ……将来の国の姿そのものですもの」
周囲の令嬢たちも、その光景を“完成された絵”として眺めている。
けれど、その輪の中で、ふと空気が変わった。
「クラリッサ様だって、負けてはいらっしゃいませんわよ?」
「そうですわ。次の舞踏会では、もっと前に出てみたらいかが?
殿下もきっと、あなたのドレスに目を留めますわ」
半ば冗談、半ば本気のささやき。
クラリッサは「またご冗談を」と笑ってみせたが、扇の陰で、わずかに視線が揺れた。
中央で微笑むリリアンヌと王子。
少し離れたところで、からかい半分の期待を向けられる自分。
――そこに、“ほんの少しだけ違う線”が引かれ始める。
*
別の日。
昼下がりのサロンで。
「……また妙な噂が立っているようですわね、リリアンヌ様」
クラリッサが、控えめな声で切り出した。
テーブルの上には香り高い紅茶と、可愛らしい焼き菓子。
しかし、その甘さとは対照的に、空気にはわずかな緊張が漂っている。
「“公爵令嬢様は、庶民に冷たくていらっしゃる”とか、
“殿下のご婚約者として、他の令嬢を見下している”とか……」
言葉を選びつつ伝えられる、刺のある噂の数々。
リリアンヌは一瞬だけ目を伏せたものの、すぐに顔を上げ、いつもの笑みを浮かべてみせる。
「大丈夫ですわ。噂など、気にしておりませんの」
本当は、胸の奥がじくじくと痛むのに。
喉元までこみ上げてきた「悔しい」を飲み込んで。
言い切らなければならない気がしていた。
(“殿下の婚約者”が、噂くらいで取り乱してはなりませんもの)
クラリッサは、その横顔を見つめながら、そっと唇を噛む。
――本当に、気にしていない人の笑顔ではなかった。
けれどリリアンヌは、「心配をかけたくない」と思うあまり、
その視線に気づきながらも、さらに言葉を重ねる。
「それに、こうしてクラリッサ様が気にかけてくださるなら、それだけで十分ですわ」
“心配してくれて嬉しい”
そう伝えたいのに、口から出てくるのは、いつも整えられた台詞ばかり。
クラリッサは何か言いかけて、結局、紅茶に口をつけるだけにとどめた。
小さな沈黙が、テーブルの上に落ちる。
*
さらに時間が流れ――。
今度は王宮の一角。
庶民出の少女が宮廷に迎え入れられ、王子のそばに立つ機会が増え始めた頃。
王子と庶民の少女が、庭園で何か楽しげに話している。
少し離れた回廊から、その姿を見守るリリアンヌとクラリッサ。
「……噂は、本当だったのですわね」
クラリッサが、ひどく慎重な声でつぶやいた。
「殿下が、あの娘を“特別視していらっしゃる”というお話」
リリアンヌの手袋に包まれた指先が、わずかに震える。
しかし彼女は、いつも通りの口調で答えようとする。
「殿下は、どなたに対してもお優しいお方ですもの。
特別視、というほどのことでは――」
言いながら、自分でもその言葉が空虚に響いているのを感じていた。
庭園で交わされる視線の柔らかさは、
かつて自分にも向けられていたものとは、どこか違って見える。
クラリッサは、思わず問いを重ねそうになった。
「リリアンヌ様。……お辛くは、ありませんの?」
――辛い。
怖い。
このまま静かに“降板させられる役者”のように、物語から押し出されるのではないかと。
本当は、そんな言葉が喉の奥まで上がってきていたのに。
リリアンヌは、微笑みを崩さなかった。
「大丈夫ですわ。王子妃にふさわしくない姿を、お見せするわけにはまいりませんもの」
それは、クラリッサの差し出した手を、そっと払いのけるような返答だった。
クラリッサの目が、かすかに揺れる。
「……そう、ですわね」
それ以上踏み込めば、
“殿下のご婚約者様のお心に、余計な波風を立てる無遠慮な令嬢”になってしまう。
クラリッサは、自分の立場を量り、
口を閉ざす方を選んだ。
その日を境に、二人で過ごす時間は目に見えて減っていった。
お互いに「迷惑をかけまい」と思うあまり、
少しずつ、少しずつ、距離が開いていく。
*
現在のリリアンヌは、図書室の机の上で、そっとペンを転がしながら、その断片を思い返す。
(今にして思えば――)
雨音が、窓ガラスをやさしく叩く。
(あの頃のわたくしは、クラリッサに心配をかけるたび、
“心配などいりません”と、突き放すような返事ばかりしていたのかもしれません)
噂に傷ついても、「平気ですわ」と笑う。
王子の変化に怯えても、「大丈夫ですわ」と取り繕う。
それは、自分を守るための仮面であると同時に――
差し伸べられかけた友の手を、何度も空振りさせる行為でもあったのだ。
(きっとあの子は、何度も迷われたのでしょうね。
“殿下の婚約者様”であるわたくしに、どこまで本音で踏み込んでよいのか)
裏切りは、一瞬の裏切りだけで出来上がったものではない。
小さなすれ違いが、言葉にされなかった心配や不安が、
何度も積み重なっていった先に――
ようやく、決定的な「離反」という形を取ったのだと。
リリアンヌは、戯曲の一節に視線を落としながら、静かに息を吐いた。
(あの頃のわたくしも、クラリッサも。
きっと、どちらも、自分を守るのに必死だっただけなのですわね)
そう思えるようになるまでに、どれほどの時間が必要だったのか――
雨音は、それに答える代わりのように、ただ優しく降り続いていた。
雨音が、とうに止んだはずの記憶の中でも、なぜか遠くで続いているように思えた。
――あの、大広間の夜。
天井高く吊るされたシャンデリアが、目に痛いほどの光を放っていた。
磨き上げられた大理石の床。
ずらりと並ぶ貴族たちの列。
その、真ん中。
「リリアンヌ・ド・***公爵令嬢との婚約を――」
王子の声が、静寂を切り裂いた。
「ここに、解消する」
ざわ、と空気が揺れる。
視線が、一斉にこちらへ突き刺さってくるのがわかった。
庶民出のあの少女が、王子の少し後ろで震えながらも顔を上げる。
震えているのに、瞳だけは強い光を宿していた。
『わたくし、ずっと見ていました。
あなたが、どれほど冷たく、人を見下してきたかを』
その声は、かつてのわたくしの記憶の中で、何度も何度も刃となって突き刺さった。
――けれど今、思い出そうとしているのは、その言葉ではなかった。
(……クラリッサ)
視線を、群衆の奥へと滑らせる。
列の中ほど。
ほかの令嬢たちと並んで立つ、淡い色のドレスの少女。
クラリッサが、そこにいた。
扇を持つ手が、固く握りしめられている。
唇は、白くなるほど噛みしめられて。
王子の宣言が続き、庶民の少女の「正しさ」が高らかに響く間。
わたくしは、ただ呆然と立ち尽くしながらも、彼女から目を離せなかった。
(あのとき――)
鮮明に覚えている瞬間がある。
庶民の少女の声が一度途切れ、場の空気が重たく沈んだ、その一拍。
クラリッサが、わずかに前へ出るように、体を揺らしたのだ。
扇を握る手が、胸の前で震える。
彼女は、喉元まで何かを押し上げるように、口を開きかけ――
そして。
ふっと視線を伏せ、唇を閉じた。
その足は、一歩も前に出ない。
わずかに前傾した身体は、すぐに“列の一人”として元の位置に戻る。
彼女を包むドレスの裾だけが、小さく揺れていた。
――あの時のわたくしは、それをただ、
(わたくしの名を呼ぼうとして、やめたのだわ)
そう理解した。
名前を呼んで、庶民の少女の言葉を遮ることもできたかもしれない。
「それは違う」と、王子に異議を唱えることだって、絶対に不可能とは言い切れない。
けれどクラリッサは、それをしなかった。
代わりに、彼女は、他の貴族たちと同じように――沈黙の列に紛れ込んだ。
*
すべてが決着したあと。
わたくしの名誉は土に落ち、噂が炎のように広がっていた頃。
耳に入ってきた、ある断片的な会話がある。
『クラリッサ様は、どうご覧になっていたのです?』
『殿下と公爵令嬢様のお近くにいらしたのでしょう? なにか……』
問いかけに、クラリッサは、少し困ったように笑いながら答えたのだという。
『わたくしは、真実を知りませんの』
『ただ……殿下がそう仰るのなら、きっと理由がおありなのでしょう』
その言葉が、当時のわたくしには――ほとんど、刃と変わらなかった。
(わたくしの“友”だった人ですら、
あの場で、わたくしの側には立ってくださらなかったのだ)
そう、何度も何度も、胸の中で繰り返していた。
“真実を知りませんの”――だから、どちらの味方もしない。
“殿下がそう仰るのなら”――だから、王子の判断を受け入れる。
それはわたくしにとって、「中立」ではなかった。
“黙って離れていった”という意味での、「裏切り」そのものに感じられた。
けれど――。
今、静かな部屋で息を整えながら、その場面をもう一度なぞると、
別のものが見えてくる。
あのとき、列の中でほんの少し前に出かけて、踏みとどまったクラリッサの肩の震え。
扇を持つ指先の色。
喉を詰まらせたまま、何も言えなかった横顔。
(クラリッサも、きっと怖かったのでしょうね)
わたくしの名を呼ぶことも、王子に異を唱えることも――
どちらも「正しさ」の形を取れないような気がして。
庶民の少女の“正しさ”と、王子の“判断”と、
噂という炎に包まれた空気の中で。
ひとりの令嬢として、そして一人の“友人”として、
どの立場に立てば自分もまた焼かれずに済むのか、わからなかったのだろう。
あの場で前に出ることが「勇気」だというのなら――
それを選べなかった彼女は、たしかに、わたくしを裏切ったのかもしれない。
でも同時に。
沈黙を選ぶしかなかったクラリッサもまた、
わたくしと同じように、“弱さを抱えた誰か”だったのだと。
今なら、そう思える。
大広間に響いた王子の声も、庶民の少女の断罪も、
あの日のわたくしにはすべてが“敵”にしか見えなかった。
列の中で口を閉ざしたクラリッサの姿さえ――
(わたくしを見捨てた、最後の一押し)
そうやって、ひとつの“裏切り”としてしか受け取れなかった。
けれど、あの瞬間を別の角度から見ようとすると、
そこには「迷い」と「恐れ」と、それでも一瞬だけ踏み出しかけた足が、たしかにあった。
それを理解したからといって、傷がなかったことにはならない。
それでも――
(“あの子は、最初からわたくしを裏切るつもりだった”)
と決めつけていた頃の自分からは、
少しだけ、遠くへ歩き出せたような気がした。
静かな自室の空気に、回想のざわめきがようやく溶けていった。
手にしていた戯曲をぱたんと閉じ、リリアンヌは窓辺へ歩み寄る。
薄く開いた窓から、夜の冷たい風がそっと頬を撫でた。
黒に沈みかけた空を仰ぎながら、彼女はゆっくりと問いかける。
「クラリッサは、あの時、わざとわたくしを見捨てたのでしょうか」
声に出してみると、その言葉は思っていたよりもずっと重かった。
胸の奥に沈んでいた石を、手のひらに乗せて見つめ直すような感覚。
少し間をおいて、彼女は続ける。
「それとも――ただ、わたくし以上に“怖かった”だけなのでしょうか」
大広間で、列の中に立ち尽くしていたクラリッサの姿が、まぶたの裏に浮かび上がる。
扇を握った指先の蒼白さ。
踏み出しかけて、止まってしまった、あの半歩。
――噂に晒される怖さ。
――王子の言葉に逆らう怖さ。
――「正しさ」の流れに反対の声をあげる怖さ。
今なら、それがどれほど強い重圧だったか、骨の髄まで理解できる。
「わたくしだって、あの頃は噂に怯え、
誰かの“正しさ”に『待った』をかける勇気など、持ち合わせておりませんでしたもの」
ぽつりとこぼした言葉に、自嘲にも似た微笑が漏れる。
噂が怖くて。
噂に傷つけられることが怖くて。
だからこそ、自分も“正しさの側”に立っていなければ、と必死だった。
王子妃にふさわしい態度。
誰からも責められない答え。
感情をこぼさない完璧な笑顔。
――そのすべてが、彼女自身の「防御」だった。
窓の外で、誰かが遠くを走り抜ける馬車の音が、かすかに響く。
リリアンヌは、ガラスにうっすら映る自分の顔を見ながら、そっと息を吐いた。
「彼女が一歩引いたあの瞬間を、
“冷たい裏切り”と決めつけて――」
言葉を切り、胸の中で、当時の自分を思い返す。
クラリッサが何もしてくれなかった、と責め続けた。
“友達なら、わたくしの味方でいるべきだ”と、心のどこかで当然のように思っていた。
「わたくしもまた、彼女を“物語の悪役”にしてしまったのかもしれませんわね」
戯曲の一節が、さっき読んだままのかたちで蘇る。
――“親友だったはずの彼女は、最後の最後で、私の隣から離れてしまったのです”。
あの一文に重ねてしまったのは、クラリッサの名前。
でも本当は、あの“物語”を書いたのは、わたくし自身だったのではないか。
彼女を、「最後に裏切った友」という役目に押し込めることで――
「裏切られた可哀想な自分」を、必死で守ろうとしていたのだ。
噂の中で悪役にされた自分が、
心の中では、別の誰かに「悪役」の役目を背負わせていた。
「裏切ったのは、本当にどちらだけだったのでしょうね」
問いは、夜空に溶けていく。
答えは出ない。
出なくていいのかもしれない。
クラリッサは、たしかに一歩を踏み出さなかった。
それは、わたくしを傷つけた。
けれど同時に。
噂を恐れ、正しさに逃げ、
彼女の不安や迷いに向き合おうとしなかったわたくしもまた――
彼女にとっての「裏切り」を、どこかで重ねていたのかもしれないのだから。
窓辺から離れ、リリアンヌはそっとカーテンを閉じる。
“裏切り”という言葉は、まだ完全には手放せない。
けれど、その輪郭は、少しだけ柔らかくなっていた。
誰か一人の罪ではなく、
二人の弱さが絡まりあって生まれた、ひとつの結末として。
その捉え方に、ほんのわずかながら、心が軽くなるのを感じながら――
彼女はゆっくりと深呼吸をし、夜の静けさの中へ身を沈めていった。
自室の静けさが、ふいに重さを増したように感じられた。
窓辺の椅子に腰を下ろしたまま、リリアンヌはそっと息を吐く。
さきほどまで言葉にしていた記憶が、胸の奥でゆっくりかき混ぜられ、硬く固まっていた何かが、きしりと音を立ててほどけ始めていた。
「――本当に、ひどい話ですわね」
冗談めかして笑おうとした唇が、うまく形にならない。
目の奥が熱くなり、視界の端がじんわりと滲んでいく。
思い出すのは、断罪の大広間だけではない。
――変な形の羽根飾りがついた帽子を見て、二人でこっそり笑い合ったブティックの午後。
――「この銘柄、香りは素晴らしいのに、後味がいまひとつですわ」と言いながら、こっそりお気に入りの紅茶を交換し合ったティーサロン。
――「いつか、一緒に田舎に遊びに行ってみたいですわね。
殿下の目の届かない場所で、ひたすら昼寝をするんですの」
そんな他愛もない夢を、肩を寄せあうようにして語り合った夕暮れ。
ひとつひとつは、なんでもない、ありふれた日常の断片。
けれど、それらが並んで胸の中に浮かぶと――
最後の、大広間での光景と、どうしても切り離せなくなる。
あの日、一歩引いたクラリッサ。
何も言わず、ただ群衆の中に紛れた“友達”。
「クラリッサ」
名前を口にした瞬間、喉の奥が詰まった。
リリアンヌは視線を落とし、膝の上で握りしめた自分の手を見つめる。
「わたくし、本当は――」
言葉を探しながら、ゆっくりと瞬きをする。
まつ毛の先から、ぽたりと涙が落ちた。
「あなたという“友”を失ったことを、
一度も、ちゃんと悲しめていなかったのですわね」
布団の上に、小さな水の跡がひとつ、またひとつと増えていく。
あの日、心を満たしていたのは、悔しさだった。
恥ずかしさだった。
怒りと、屈辱と、どうしようもない虚しさだった。
「あの時は、悔しさと恥ずかしさと怒りに、心の全部を使ってしまって――」
言葉の途中で、声が震える。
胸の奥からこみ上げるものを抑えきれず、リリアンヌは指先で目元を拭った。
「“友を失った寂しさ”まで、抱きしめる余裕がありませんでした」
ぽつり、ぽつりとこぼれていく涙は、思っていたよりも温かい。
それはクラリッサを責めるための涙ではない。
あの頃の自分自身へ向けた、遅れて届いた悼みの涙だった。
――王子の婚約者としてではなく。
――噂に晒された悪役令嬢としてでもなく。
ただ、一人の少女として。
変な帽子を笑い合い、紅茶を分け合い、
「田舎で昼寝をしましょう」と笑ってくれた、あの友を失ったことが――
こんなにも、寂しかったのだと。
「ひどいですわ、クラリッサ」
リリアンヌは、涙に濡れた笑みを浮かべる。
「わたくしに、あんな別れ方をさせておいて……
“寂しい”と泣く時間すら、奪っていかれましたのよ」
責めるような言葉でありながら、その声音には、とげはなかった。
ただ、失われたものの大きさを、ようやく認められた人間の、どうしようもない切なさだけがにじんでいた。
膝を抱え込むようにして身を丸めると、肩が小さく震える。
声を上げて泣くことはない。
それでも、ひとつ、またひとつと落ちる涙が、胸の奥の古い傷を、ゆっくりと柔らかく包んでいく。
――あの頃、泣けなかったぶんまで。
――怒りに上書きしてしまった寂しさのぶんまで。
静かな部屋の中で、雨音のように、細い涙の気配だけが続いていた。
それは、まだ許しには届かない。
けれど、“失われた友”を友として悼むための、大切な時間だった。
ようやく与えられた、そのささやかな喪失の時間の中で――
リリアンヌは目を閉じ、頬を伝う涙を、そのまま受け入れ続けた。
部屋のランプの灯りが、いつのまにか心なしか弱まって見えた。
夜は静かに深まり、窓の外の闇は、とっくに学園の輪郭を飲み込んでいる。
リリアンヌは、涙の跡の残る目元を、そっと指先でぬぐった。
泣きはらしたわけではないけれど、胸の奥に溜まっていたなにかが、少しだけ軽くなっている。
「クラリッサ」
小さく名を呼ぶ。
返事がないことは、とうに分かっているくせに、それでも声に出したかった。
「わたくし、今さらあなたに“許してほしい”とは申しません」
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あの時、あなたがわたくしの側に立てなかった弱さも――」
王子に逆らえなかったこと。
噂の波に飲み込まれたこと。
ただ、怖かっただけかもしれないこと。
「あなたに“心配は要りません”と繰り返した、わたくし自身の弱さも――」
本当は苦しかったのに、「大丈夫」と笑い続けた自分。
助けを求めることを、最初から諦めていた自分。
「どちらも、もう責めるつもりはございません」
言葉にした瞬間、胸の中で、固く結ばれていた糸がひとつ、静かにほどけていくのを感じた。
ランプの光が机の上に落とす影が、少し揺れる。
リリアンヌは視線を伏せ、心の中で、そっと言葉を結んだ。
「だからせめて――」
唇に浮かんだ笑みは、どこか寂しく、けれど柔らかい。
「あなたを“裏切り者”だけで終わらせるのは、やめにいたしますわ」
あの日からずっと、心の中で貼りつけていた、乱暴なラベル。
それを、自分の手でそっと剥がしていくような感覚だった。
「わたくしの記憶の中でだけでも。
あなたは、たしかに“わたくしの友だった人”であり続けてほしいのです」
断罪の場で一歩を踏み出せなかった少女だけではない。
変な帽子を見て笑い合い、紅茶を分け合い、くだらない夢を一緒に語った、“友達”としてのクラリッサ。
その姿を、ようやく同じ場所に並べてあげられた気がした。
胸の奥で、なにかが静かに完了する。
あの時にはできなかった「さよなら」を、今になって言い直したような、不思議な安堵が広がっていく。
――さようなら、裏切り者のクラリッサ。
――こんばんは、わたくしの友だったクラリッサ。
言葉にならない二度目の別れを胸の中でそっと抱きしめていると、ふいに、別の顔が浮かんだ。
夕焼け空の下で、「今のところ、あなたのことを“敵”ってほど嫌いではいられなさそうです」と言った庶民の少女――ミラ。
図書室で、真剣な顔でペン先を汚しながら、難しい単語の発音を一緒に練習してくれた特待生――エミリア。
「今のわたくしには――」
リリアンヌは、小さく息を吸い込み、ぽつりと呟く。
「“敵ではない”と、ぎこちなく言ってくれる庶民の少女がいて」
焼き菓子の失敗談に、思わず吹き出してくれた子。
過去の怒りを抱えながらも、「同じ怒りをぶつけるのは違うのかもしれない」と言葉を探してくれた子。
「一緒にペン先を汚してくれる、特待生の友もいますわ」
淑女としてではなく、一人の生徒として、同じ机を囲んでくれる存在。
噂ではなく、自分の目で見て、考えて、話してくれる存在。
「あの時、失った縁を取り戻すことはできませんけれど――」
クラリッサとの日々は、もう戻らない。
前世の世界も、あの王宮も、二度と同じ形では現れない。
それでも。
「今度は、自分の弱さごと抱えたまま、新しく結ぶご縁を、大切にしていきたい」
完璧な令嬢としてではなく。
“傷ついたことのある人間”として、誰かと隣に立てるように。
ランプの炎が、かすかに揺れ、やがて落ち着く。
窓の外の闇は深いが、不思議と、そこまで怖くはなかった。
リリアンヌは、そっと目を閉じる。
涙で包んだ“失われた友”への想いは――
きっといつか、これから出会う友人たちへの、静かな優しさへと形を変えていくのだろう。
そう信じながら、彼女は布団を引き寄せ、ランプの明かりを落とした。
闇の中に残るのは、ほんの少し軽くなった胸の鼓動と、
まだ見ぬ未来の友を思う、かすかなぬくもりだけだった。




