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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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許しの言葉 ―― 「私も、あの時は弱かったの」

寮の消灯時間はまだ先だというのに、廊下のざわめきはすでに薄く遠い。

 リリアンヌの部屋には、ベッド脇のランプがひとつ、柔らかく灯っているだけだった。


 机の上には、今日使った授業ノートと、領地の資料がきちんと揃えて積まれている。

 最後の一枚をそっと揃え終えると、リリアンヌはふう、と小さく息を吐き、窓辺の椅子へと腰を移した。


 窓ガラスの向こうには、夜に沈みかけた学園の屋根と塔の影。

 少し前まで夕焼けを染めていた空は、もう群青と黒の境い目へと変わりつつある。


 膝の上で指を組み、リリアンヌはそっと目を細めた。


(“敵ではないと言える相手”が、こんなにも心を軽くするなんて――

 以前のわたくしには、想像もできませんでしたわね)


 夕暮れの通学路。

 少しぶっきらぼうな声音で「敵ってほど嫌いではいられなさそう」と告げた、ミラの横顔。

 その横顔が、窓に映る自分の姿の向こう側で、薄く重なる。


(庶民の少女――)


 胸の内で、ことさら慎重に、その輪郭をなぞる。


(かつて、わたくしを“物語の悪役”に変えた、あの子の姿と)


 ミラの短い黒髪が、別の少女の少し長めの髪と重なっていく。

 制服の襟元、手の握り方、震えた唇。

 細部までは霧がかかったように曖昧なのに、感情だけが鮮明によみがえってくる。


 王宮の大広間。

 あの時、真正面から自分を指さした、庶民の少女――“あの子”。


 窓の外は静かなのに、胸の内には、過去のざわめきだけが、かすかな残響となって響いていた。



ランプの灯りが、ページの余白に揺れる。

 リリアンヌは膝の上で指を組んだまま、そっとまぶたを閉じた。


 ――記憶は、まるで古い劇場の幕のように、静かに持ち上がる。



 そこは、王宮の大広間だった。


 高くそびえる白い柱。

 磨き上げられた大理石の床に、無数の燭台の光が揺れている。

 その中央に、前世の「公爵令嬢リリアンヌ」が立っていた。


 隙ひとつないドレス。

 完璧な所作。

 今の彼女から見れば、息苦しくなるほど「作り込まれた」立ち姿。


 玉座の前に続く赤い絨毯の上で、若き王子が静かに口を開く。


『――リリアンヌ・○○。

 この場をもって、君との婚約を解消する』


 ざわ、と空気が揺れた。

 大臣たち、貴族たち、侍女たち――その全ての視線が、一斉に彼女へと突き刺さる。


 その横に、一人の少女が立っていた。


 質素なドレス。

 少し大きめの靴。

 それでも真っ直ぐ前を向こうと、必死に背筋を伸ばしている庶民出の少女――あの子。


 少女は、震える指先をきゅっと握りしめながら、喉の奥から言葉を絞り出した。


『わたくし、ずっと見ていました』


 大広間に、その声が響く。


『あなたが、どれほど冷たく、人を見下してきたかを』


 ざわめきが、さらに強くなった。

 少女の頬には、恐怖と緊張の汗がにじんでいる。

 それでも、彼女は続けた。


『そんな方が、この国の王妃になるなんて――

 わたくしには、耐えられません』


 玉座の段差から見下ろす王子。

 見物するような、同情するような、好奇の視線を向ける貴族たち。

 誰もが、その言葉を「正義の告発」として受け取っていた。


 そして、当時のリリアンヌもまた――。


(……あの時のわたくしは)


 窓辺の椅子に腰掛けた「今」のリリアンヌが、ゆっくりと息を吐く。

 記憶の中の自分が、きつく唇を噛みしめている姿が、はっきりと見えた。


(その言葉を、“刃”としてしか受け取れませんでしたの)


 王子の前で。

 臣下の前で。

 そして、やがて国中に広まっていく「噂」の前で。


(わたくしを断罪するための、“正しさの宣告”だと)


 あの言葉をきっかけに、宮廷でも、街でも、「冷たい公爵令嬢」の話は一人歩きを始めた。

 自分の行動のまずさも、未熟さも、確かにあった。

 それでも当時の彼女は、それを認めるより先に――ただ「裁かれた」という感覚に押し潰されていた。


 けれど。


 ミラの、少し尖った声と、その奥にあった諦め混じりの怒りを思い出す。


『善人ぶる貴族様にも、ちょっと構えてしまうんです』


(……けれど、ミラさんのお話を聞いたあとで思うのです)


 ランプの光が、長い睫毛の影を頬に落とす。

 リリアンヌは、自分の胸に手を当てた。


(“善人ぶる貴族への怒り”を抱えていたのは――

 あの子も、きっと同じだったのではないか、と)


 偽善的な笑みを浮かべる男爵。

 書類一枚で切り捨てられた家。

 配給の列から漏れた子どもたち。


 ミラが語った光景と、前世の少女が見てきたであろう光景が、重なっていく。


(あの子は、わたくしを“悪役”にしたのではなく――

 “自分の知る正しさで、必死に世界を守ろうとした”だけだったのかもしれませんわ)


 かつては、ただ痛みとしてしか感じられなかった記憶が、少しだけ違う色を帯びる。


 あの時の自分も、少女も、王子も。

 誰もが、弱さを抱えたまま、「正しさ」という名の盾と刃を振り回していた。


(……あの時、弱かったのは、わたくしだけではなくて。

 きっと、あの子も、王子殿下も――みんな、同じだったのでしょうね)


 リリアンヌは、そっと目を開けた。


 窓の外には、静かな夜の学園。

 でも胸の内では、長く凍りついていた前世の場面が、少しずつ溶けて流れ出していくのを感じていた。



机の上に置いたペンを、リリアンヌは指先でころりと転がした。

 カチ、と小さく当たる音が、静かな自室にひときわよく響く。


「もし、あの子にも――」


 ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟く。


「ミラさんのように、寒さに震えたご友人がいて。

 理不尽な扱いを受けたご家族がいて」


 ペンの転がる軌道が、机の端で止まる。

 リリアンヌはそれをまた指先で押し出しながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「そのたびに、“貴族はみな同じだ”と、自分に言い聞かせないと――

 やりきれない日々があったのだとしたら」


 目を閉じると、前世の少女の顔が浮かぶ。

 大広間で震えながら、必死に声を張り上げていた庶民出の少女。


 リリアンヌは、そっと息を吐いた。


「そんな彼女にとって、わたくしは――」


 自嘲とも違う、少しだけ苦い笑みが、自然と唇ににじむ。


「“王子の婚約者らしい、公爵令嬢”という、最も分かりやすい“敵の顔”だったのかもしれませんわね」


 煌びやかなドレス。

 王子の隣に立つ未来を約束された身分。

 彼女が憎んできた「貴族」の象徴として、これ以上ないほど、分かりやすい的。


 そう考えると、あのときの少女の台詞が、少し違って聞こえてくる。


 ――『そんな方が、この国の王妃になるなんて、わたくしには耐えられません』


(あれは、わたくし個人に向けられた刃であると同時に)


(“今まで自分を傷つけてきた世界”そのものに向けて振り下ろした、一振りだったのかもしれませんわ)


 それでも、リリアンヌは首を横に振る。


「もちろん、だからといって――」


 机の上に両手を重ね、その上にそっと額を預けるように前かがみになる。


「あの場で、わたくしを断罪なさったことが、すべて正しかったとは思いません」


 王宮の真ん中で、一人の令嬢を「悪役」に指さすこと。

 その後に広がった噂と嘲笑。

 それが、どれほど一人の人生を追い詰めるかを、彼女は身をもって知っている。


「ですが――」


 顔を上げる。

 ランプの灯りが、瞳の奥で小さく揺れた。


「彼女だけが一方的な加害者で、わたくしだけが完全な被害者だった、と言い切るのも……」


 そこで言葉を区切り、ほんの少しだけ肩の力を抜いて、ふっと笑う。


「もう、やめにしたいのです」


 あの少女にも、あの少女なりの「正しさ」と「恐れ」と「怒り」があったのだと思う。

 自分にも、自分なりの「傲慢」と「弱さ」と「無知」があったのだと認める。


(誰か一人を“悪”にしてしまえば、物語は簡単になりますわね)


(けれど、わたくしはもう――自分の前世を、そんな雑な物語として片づけたくはありませんの)


 リリアンヌはペンを真っ直ぐ置き直し、小さく息を吸い込んだ。


「……わたくしも、あの時は弱かったのだと思います」


 その言葉は、過去の少女に向けた責めではなく。

 自分自身を、ようやく真正面から見つめるための、静かな“許し”の準備でもあった。



リリアンヌは、窓ガラスに映る“昔の自分”を思い浮かべるように、そっと視線を落とした。


 王子の隣に立つ自分。

 完璧なカーテシー。

 間違いのない言葉遣い。

 求められた通りの微笑みだけを浮かべている、公爵令嬢リリアンヌ。


(あの頃のわたくしは――)


 心の中で、昔の自分に問いかける。


「……あの頃のわたくしは、自分の言葉で誰かとぶつかることを、ひどく恐れておりましたわね」


 ぽつりと漏らした声は、自嘲ではなく、少しだけ呆れたような優しさを含んでいた。


「“王子妃にふさわしくないと思われること”が怖くて。

 “噂に傷つけられること”が怖くて」


 噂は刃だ。

 一度振り下ろされれば、どれほど取り繕っても、跡が残る。

 その怖さを、誰よりも知っていたからこそ――


「だから、わたくしは、自分の本音を隠す代わりに、“正しさ”の仮面を喜んで被っていたのです」


 王子の期待に応える、模範解答だけを口にする令嬢。

 誰も責めない、誰からも責められない、角のない言葉ばかり選び続けた日々。


 その姿が、庶民の少女の目には、どう映っていたのか。


「結果として、それが――」


 リリアンヌは小さく息を吸い、言葉を結ぶ。


「庶民の少女の目には、“冷たく、人を見下す貴族令嬢”にしか見えなかったのかもしれませんわね」


 王子の隣で、完璧な所作を崩さない令嬢。

 弱音も迷いも見せない、氷のような笑み。


 彼女は、あの大広間で断罪された「悪役」が、どれほど必死で自分を守ろうとしていたかなど、知る由もなかっただろう。


「……あの時のわたくしも――」


 リリアンヌは、窓の外の夜空を見上げる。

 そこに浮かぶ星のひとつひとつを数えるように、ゆっくりと自分の心を辿る。


「ただ、自分を守るのに必死だった、弱い人間でしたのね」


 誰かを見下したくてそうしていたのではない。

 正しさを振りかざしたくて、仮面を被っていたわけでもない。


 ただ――傷つくのが怖くて。

 噂に飲み込まれて、足元をさらわれるのが怖くて。

 自分を守るために、固く固く、全身を鎧で覆っていただけの、ひどく不器用な一人の少女。


(あの子だけが“加害者”で、わたくしだけが“被害者”だったわけではありませんわ)


(あの場には、傷ついた人間が二人――いえ、もっと大勢、立っていたのでしょうね)


 自分を断罪した庶民の少女に向けて。

 そして、大広間で震えていた過去の自分自身に向けて。


 リリアンヌは、胸の奥でそっと呟く。


(……あなたも弱くて、わたくしも弱かった)


 その事実をようやく認められたとき、

 長いあいだ胸を締めつけていた何かが、ほんの少しだけ、ほどけていくのを感じていた。



リリアンヌは、窓ガラスに映る自分の顔を、じっと見つめていた。


 夜の闇を背に、そこにいるのは今の自分――

 けれど、その輪郭の向こうに、もう一人の少女の面影が重なる。


(もし、いつか――)


 言葉にならない想いが喉に触れ、そっと心の中で形を取っていく。


「もし、いつか――

 あの子と、もう一度どこかで出会うことがあるのなら」


 声に出したのはそこまで。

 その先は、誰にも聞かれない場所でだけ紡ぐと決めて、リリアンヌは唇を閉じる。


 胸の内で、静かに言葉を組み立てていく。


(あの時、あなたの言葉は、たしかにわたくしを深く傷つけました)


 王宮の大広間。

 正しさの名を借りた断罪の声。

 その一言一言が、鋭い氷の欠片のように胸に突き刺さった感覚は、今でも忘れていない。


(でも――

 あなたが“誰かを守りたい”と願った気持ちまで、全部否定してしまいたくはありません)


 震える声で、必死に王子に訴えていた少女の姿がよみがえる。

 あれはただ、貴族を責めるための言葉だけではなかったのだろう。

 寒さに震える誰か、理不尽に涙を飲み込んできた誰かを、どうにか救おうともがくための叫びでもあったはずだ。


(わたくしも、あの時は弱かったのです)


 リリアンヌは、指先をぎゅっと握りしめる。


(自分を守ることで精一杯で、

 誰の声にも耳を傾けられませんでした)


 王子にふさわしい婚約者であろうとすること。

 噂に傷つけられない「正しさの鎧」を着続けること。

 それだけで手一杯で、目の前の少女がどれほど必死に何かを守ろうとしていたのか気づく余裕など、どこにもなかった。


(だから――)


 心の中で、そっと結論に手を伸ばす。


(だから、互いの弱さがぶつかって、あんな結末になってしまったのだと、今は思いますわ)


 あの子だけが悪かったわけでもない。

 自分だけが傷つけられたわけでもない。

 守りたかったものと、守りきれなかったものと、守ろうとして傷つけてしまったものと――その全部が絡み合った結果が、あの婚約破棄だった。


 リリアンヌは、ふっと小さく笑う。


 それは、過去をなかったことにする笑みではない。

 痛みの跡をそのまま見つめたうえで、それでも前に歩こうとする人間の、少しだけ心細くて、けれど確かな微笑み。


(これは、あの子に聞こえる“許し”ではありませんわね)


(まだ、どこにいるのかも分からない相手へ向けた、わたくしの中だけの“準備”)


 いつか本当に再会するそのとき、

 この言葉を口にできるかどうかは、まだ分からない。


 けれど少なくとも今この瞬間――

 リリアンヌは、自分の心の中で、かつての庶民の少女にそっと手を差し出していた。


 届かない場所にいる相手へ向けた、静かな“許しの仮置き”として。

ベッドサイドのランプが、柔らかな光で部屋の隅を照らしている。


 リリアンヌは、掛け布の上に腰を下ろし、しばらく両手を膝の上で組んだまま、ゆっくりと息を吐いた。


(噂に追い詰められたあの頃のわたくしは――)


 静かな声が、胸の内側で響く。


(自分の弱さを認めることも、

 誰かの弱さに気づくこともできませんでした)


 “王子妃にふさわしくあれ”という言葉は、あの頃の自分にとって呪文のようなものだった。

 完璧でいれば、傷つかずに済むと信じていた。

 泣きたいときに泣かず、怖いときに「怖い」と言えず、悔しいときに笑顔で塗り潰した。


 リリアンヌは、そっと目を閉じる。


(今度こそ――)


 そこから先を、心の中でひとつひとつ確かめるように、言葉を紡いでいく。


(弱さを隠して仮面を被るのではなく、

 “怖いです”“悔しいです”と、きちんと口にできる自分でいたい)


 ミラの、少し震えたような本音。

 「簡単には貴族を信じられない」と言いながら、それでも歩み寄ろうとしてくれた不器用な優しさ。

 あの庶民少女もきっと、どこかで同じように震えながら、“正しさ”の言葉を選んでいたのだろう。


(そうすればきっと――)


 リリアンヌは、胸の前で軽く指を絡める。


(誰かの正しさと、誰かの弱さがぶつかる前に、

 もう少しだけ、歩み寄る余地が生まれるはずですもの)


 正しさを掲げて、相手を断罪する前に。

 噂に怯えて、自分を守るためだけに黙り込む前に。

 「怖い」と言える自分でいられたなら。

 「それは嫌だ」と、小さな声でもいいから出せる自分でいられたなら。


 そのとき――遠い森の夜の記憶が、ふっとよみがえった。


『許すっていうのはね、

 誰かを完全に赦す前に――

 まず自分の弱さを、ちゃんと抱きしめることなのかもしれませんよ』


 森の彼の、あたたかくてどこか寂しげな声が、耳の奥で反響する。


 リリアンヌは、微笑んだ。


「……そうですわね」


 小さく呟き、そっと布団を引き寄せる。


「わたくしも、あの時は弱かったの」


 誰にも聞こえない声で、過去の自分に向けて告げる。


「だからこそ――

 今のわたくしは、その弱さごと許せる人でありたい」


 “あの頃の自分”を切り捨てるのではなく、

 震えながら仮面を選んだ自分も、ちゃんと抱きしめて、前へ進む人でありたい。


 ぱちり、とランプが消える。


 闇が部屋を包み込む中で、

 にぎりしめた布団の温もりと、胸の奥に灯ったばかりの小さな火だけが、静かに残った。


 それは、まだ誰にも知られていない――

 けれどたしかに芽生えた、ささやかな“許し”の始まりだった。







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