庶民の少女 ―― あの子とも、もう敵ではなかった。
昼下がりの図書室は、紙の匂いと、小さな咳払いの音だけが浮かんでいた。
窓際の長机の一角に、リリアンヌたちはいつものように陣取っている。
開きっぱなしの資料、領地経営の教本、数字を書き連ねたノート。机の端には、小さな包みから出された焼き菓子が、ひと口大に切られて並んでいた。
「ここの税率の推移を見ますと……ほら、ここで一度、極端に下げておりますわね」
リリアンヌが細い指でグラフをなぞると、隣のエミリアが身を乗り出す。
「本当ですわ。収穫の悪い年に合わせて、でしょうか……?」
「かもしれませんわね。うちの領でも、来年以降は不作の年を想定した案を――」
そこで、ふとリリアンヌの視線が焼き菓子に落ちた。
薄く色づいたきれいな焼き目。前に焦がして泣きながら食べた失敗作を思い出し、思わず口元が緩む。
「……味見、なさいます?」
「よろしいのですか?」
「ええ。今度は、ちゃんと焼けましたのよ」
そんなささやかなやりとりの最中だった。
教科書とノートを胸に抱えたひとりの少女が、ためらうような足取りで近づいてくる。
栗色の髪を後ろでまとめた、地味な制服姿。袖口は少し擦り切れているが、その両手は教科書を離すまいと、ぎゅっと力がこもっていた。
「……ここ、空いてる?」
控えめだが、はっきりした声だった。
エミリアが顔を上げる。
「あ、はい。ご一緒しますか?」
少女は、ほっとしたように息をつき、こくりと頷く。
その視線はまずエミリアに向かっていて、緊張はしているものの、話しかけようとしている気配があった。
だが、その目が、机の反対側――リリアンヌに向いた瞬間。
わずかに、その表情が固くなる。
リリアンヌの金の瞳と、少女の琥珀色の瞳が、短く交差した。
(……公爵令嬢)
少女――ミラは、喉の奥で小さくつぶやいた。
声にはならない、唇だけの独白。
(噂の、あの人)
“氷の令嬢”。
“特待生を庇った、よくわからない人”。
“庶民のためにパンを配っているらしい、公爵令嬢”。
誰かの口から流れてくる、形の違う噂が、ぐしゃぐしゃに混ざったまま頭の中に渦巻いている。
目の前に座っているのは――その名前の持ち主。
「ごきげんよう」
リリアンヌは、椅子に座ったまま、静かに微笑んだ。
貴族としての礼儀は守りながらも、どこか“試験の答案”ではない、柔らかさを含んだ笑み。
「お席が足りていて、よろしゅうございましたわ」
ミラは、一瞬だけ言葉を失い、それから慌てて会釈を返す。
「……お、お邪魔します」
それだけ言うのが精一杯だった。声は固く、視線はすぐに教科書へと逃げる。
リリアンヌの耳には、その硬さが確かに届く。
(今のは……わたくし個人というより、“公爵令嬢”という肩書きに向いた警戒、でしょうか)
刺すような敵意ではない。
けれど、「距離を置いておきたい」と告げる、見えない線がそこにあった。
ミラは、リリアンヌの斜め向かいの席に腰を下ろし、教科書を開く。
ページをめくる指先は、慣れた動きだ。きっと勉強自体には慣れているのだろう。
その指が、一瞬だけ机の端の焼き菓子の皿に触れそうになって――慌てて引っ込められた。
「よろしければ、どうぞ」
リリアンヌが、そっと声をかける。
「学びながら食べても差し支えない程度の、大きさにしてありますの」
ミラの肩がぴくりと揺れる。
視線が、皿とリリアンヌの顔の間を、ためらいがちに往復した。
「……ありがとう、ございます」
今度の礼は、さっきより少しだけ、素直だった。
エミリアが空気を和ませようと、微笑みながら続ける。
「とても美味しいんですよ。リリアンヌ様、ご自身の提案で焼いていただいたものですの」
「提案、って……」
ミラが思わずこぼした小さな疑問の一言に、リリアンヌはほんの少しだけ首をかしげる。
「ええ。領地で分けているパンの配給と同じで……
“誰かと一緒に食べられるもの”を、最初から用意しておきたいと思いまして」
図書室の空気が、少しだけ揺れる。
ミラは何も言わず、それでも皿から焼き菓子を一つつまみ上げた。
口に運ぶ前に、そっとリリアンヌの方を見る。
その瞳には、まだ溶けきらない警戒と、「噂どおりなのか、違うのか」を測ろうとする、慎重な光が宿っていた。
(――個人的な恨みでは、ないのですわね)
リリアンヌは、胸の内で小さく息をつく。
(わたくし自身ではなく、“貴族”という枠を、試されている……そんな目)
焼き菓子をかじる小さな音が、ページをめくる音に紛れて消えていく。
いつもの勉強会の席に、“迷い込んだ客”がひとり増えた。
ぎこちない沈黙と、まだ馴染まない空気。
けれど、その中心で、リリアンヌは静かにペンを取り直した。
(よろしゅうございますわ。
“敵”と決めつけられているわけではないのなら――
ここから先は、わたくしの選ぶ言葉と、積み重ねる行動次第ですもの)
その日の自習テーマは、「領地の財政と救済策」だった。
窓から差し込む午後の光が、机の上の紙束を白く照らしている。
リリアンヌの席には、他の生徒より明らかに多い資料が積まれていた。
教本、領地経営の参考書、それから――彼女自身がまとめたノート。
「こちらをご覧になって。
この部分が、パンの配給にあてる予算の試算ですの」
リリアンヌは、エミリアにノートを押しやった。
丁寧な字で、『配給モデル案』『税の軽減措置と収支』といった見出しが並んでいる。
「余りものを回すのではなく、最初から“配る分”を焼いた場合のコスト……
それから、細かい税の軽減を組み合わせたときの、領地全体の収支ですわ」
「こんなに詳しく……」
エミリアが目を丸くしていると、その隣から視線がふと滑り込んでくる。
ミラだった。
教科書にペン先を走らせていたはずの彼女の目が、いつの間にかノートの端に吸い寄せられている。
リリアンヌの書いた『救済策メモ』という文字を見つけたのだ。
「……それ、“救済策”の本?」
ミラが、ぽつりと問いかけた。
問いというよりは、思わず漏れた感想に近い調子で。
リリアンヌは顔を上げ、穏やかに頷く。
「ええ。
領地で試している配給の案と、教科書に載っている施策を、照らし合わせておりまして」
その返答に、ミラの眉がわずかに動いた。
「貴族様は、そういう“策”を立てるのが、お好きなんですね」
ほんの少しだけ、棘が混じる声。
エミリアが慌てて小声で呼びかける。
「ミラさん……?」
だがリリアンヌは、眉をひそめたりはしなかった。
軽く瞬きをしてから、真正面からその言葉を受け止める。
「好き、というより……“必要だと思うから”ですわ」
ミラはすぐには反論しない。
代わりに、教科書のページを一枚めくり、視線を文字の海に落としたまま、ぽつりと続けた。
「……たしかに、こういう案があるのは、ないよりずっとましだと思う」
ペン先が、教科書の欄外に小さな印をつける。
その手は、紙の上で止まらない。
「でも――」
ミラの声が、少しだけ低くなる。
「本に書いてある“救済策”の裏で、外された人たちの顔は、きっと載らない」
リリアンヌの手が、ページをめくる途中で止まった。
「外された人たち……?」
問い返すと、ミラは一度だけ息を吸い込み、言葉を選ぶように続けた。
「“貧民対策”とか“配給”とか、“救済策”って、立派な名前がついてるけど……
実際に配れる数には限りがあるでしょう?」
教科書の欄外に書かれた「対象:寡婦・孤児・重病者」という文字に、ミラの指先が触れる。
「王都の下町にも、似たような配給所があるんです。
でも、そこに並べる人は、条件に当てはまった人だけ」
ミラの瞳が、教科書から離れ、今度はまっすぐリリアンヌを見る。
「列に並んで、ぎりぎりで人数からあふれた人の顔は、ずっと覚えています。
“今日はもう、配れる分がありません”って言われたときの」
図書室の空気が、すっと冷えたような気がした。
リリアンヌの胸の奥に、別の光景がよみがえる。
領地の裏門でパンを受け取っていた、名も知らぬ人々。
「今日も助かるよ」と笑った老人の皺の深さ。
そして――自分の焼いた失敗クッキーを、泣きながらかじった夜。
(わたくしが考えていたのは、“どれだけ配れるか”という数字まで……)
ミラの言葉は、その外側を突いてくる。
(けれど、“こぼれ落ちた人たち”の顔までは、想像していなかったかもしれませんわ)
ミラは、感情的に責め立てているわけではなかった。
むしろ、その声は不思議なほど淡々としている。
「だから、こういう案を考える人がいるのは、大事だと思う。
何もないより、ずっとましだから」
そこで一度、ミラは言葉を切る。
ペン先が、紙の上で小さな点をつくった。
「でも、本に載っているのは、“うまくいった時”の話だけ」
教科書の余白に、彼女は短く書き込む――『対象から外れた人は?』と。
「うまくいかなかった時、誰が、どこまで責任を取るのか。
配給に間に合わなかった人を、誰が見てくれるのか。
そういう話は、教科書にはあまり出てこないでしょう?」
リリアンヌは、言葉を失ったまま、ノートに視線を落とす。
そこには、自分が誇らしく思っていた“策”が並んでいる。
余ったパンを回すのではなく、最初から配る分を焼く。
税の軽減で、働けない人たちの負担を減らす。
(“案があること”に、安心していた……?)
ふと、かつて図書室で読んだ一文が頭をよぎる。
数字だけを見て救済策を語る危うさ――「数値の裏側には、人がいる」という言葉。
ミラの一言は、それを現実の重さをもって突きつけてきたのだ。
「……ミラさん」
エミリアが、おそるおそる口を開く。
「でも、リリアンヌ様は、本気で領地の人たちのことを――」
「責めているわけじゃないんです」
ミラは、エミリアの言葉を遮らないように、しかしはっきりと言う。
「ただ、気になるだけ。
“救済策”って言葉がきれいなぶん、こぼれた人たちがどんどん見えなくなっていくのが」
その視線が、再びリリアンヌに向かう。
「貴族様が、“策”を立てるのは、きっと本当に必要なことなんだと思います。
でも――その外側にいる人たちを、見ないままには、しないでほしい」
図書室の静けさの中で、ミラの言葉だけが、まっすぐ落ちていく。
リリアンヌは、そっとノートを閉じた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……ありがとうございますわ」
ミラが、少し驚いたように瞬きをする。
「わたくし、今のご指摘が――とても、ありがたく思っております」
リリアンヌの声は、いつもよりほんの少しだけ低かった。
噂に合わせて整えた声音ではない、自分自身の重みを乗せた声。
「本に書かれているのは、“形”ばかり。
“誰がこぼれ落ちるのか”という話を、もっと、見て、考えてみますわ」
ミラの瞳がほんの少しだけ和らぐ。
完全な信頼でも、和解でもない。
けれど、「この人は、ちゃんと聞いた」という手応えだけは、確かにそこにあった。
(理屈の上に立つわたくしと、“現場”からものを見る彼女)
リリアンヌは、ペンを取り直す。
(その差を、埋めようとしない限り――“救済策”など、ただの自己満足に終わってしまいますもの)
机の上のノートに、新しい欄が一つ増える。
『配給に“間に合わなかった人”のために、できること――』
その文字は、ミラの刺すような一言と、図書室の静かな空気の中で、ゆっくりとインクを染み込ませていった。
休憩の鐘が、小さく鳴った。
図書室の空気が少しゆるみ、あちこちで椅子の軋む音がする。
エミリアが「お水を汲んできますわ」と席を立ち、特待生たちもそれぞれ伸びをしたり、本棚へ向かったりしはじめた。
テーブルには、リリアンヌとミラの二人だけが残される。
ページをめくる音も止まり、微妙な沈黙が降りた。
窓の外から差し込む淡い光だけが、机の上のインク壺を鈍く照らしている。
(……このまま黙ってやり過ごすことも、できますけれど)
リリアンヌは、膝の上で指先をそっと組み替えた。
胸の奥では、さきほどのミラの言葉――「本に載らない人たち」が、まだ静かに刺さっている。
彼女は、おずおずと口を開いた。
「先ほどのお話……」
ミラが、顔を上げる。
「“本に載らない人たち”というお話ですわ。
もし、差し支えなければ――もう少し、聞かせていただけますか?」
ミラの目が、わずかに細められた。
警戒、というほど強い色ではない。
それでも、簡単には踏み込ませまいとする線が、そこにある。
数拍の沈黙ののち、彼女はふっと、諦め混じりのような笑いを漏らした。
「……公爵令嬢様に話すようなことじゃない気もするんですけど」
「それでも、お聞きしたいのです」
リリアンヌは、視線を逸らさなかった。
噂に合わせた笑顔ではなく、ただ真っ直ぐに。
ミラは小さく肩をすくめる。
「わかりました。
どうせ、黙っていても、私の中でずっとくすぶってる話ですし」
そう前置きしてから、ぽつり、ぽつりと言葉を落としはじめる。
「……うちの地区にも、いたんですよ」
窓の外で、風が枝葉を揺らした。
「“慈善家”として有名な男爵様が」
リリアンヌの指先が、わずかに動く。
“慈善家”という単語は、本来なら心強い響きであるはずだった。
ミラの視線は、遠いところを見ていた。
図書室ではなく、冬の町のどこかを。
「冬になると、広場で配給があったんです。
パンとか、毛布とか。ほら、本にも“寒冷期の救済策”って出てくるでしょう?」
教科書のページのどこかに載っていた章のタイトルが、リリアンヌの脳裏をかすめる。
「たしかに、配られていました。
――“見栄えのするところ”には、ね」
「見栄えのする……?」
聞き返すと、ミラは口の端を少しだけ吊り上げた。笑いとも、冷笑ともつかない表情で。
「男爵様が広場にいらっしゃる時間、舞台みたいな高台が用意されて。
そこからよく見える場所に並んだ人には、ちゃんとパンも毛布も渡されたんです」
淡々とした口調だった。
「でも、名簿に載っていない家は、後回しでした。
顔の知られていない子どもも、“まずは登録済みの方から”って」
ミラの指が、机の端を軽くなぞる。
その仕草は癖のようで、話の重さをやわらげるには足りない。
「うちの近くに住んでた家族がいました。
父親が仕事をなくして、母親も病気がちで。小さな子が二人」
リリアンヌの喉が、からんだ。
「その家、事情を聞いた人が役所に話を通そうとしてたんですけど……
書類が間に合わなかった」
ミラは小さく息を吐き出す。
「“次の配給からは名簿に載せるので、その時に”って」
リリアンヌの胸の奥で、何かがきゅっと縮んだ。
「その冬、一番寒かった日に――その家の子が、広場まで走って行ったんです。
人づてに“配給がある”って聞いて」
ミラは、窓の外ではなく、自分の手元を見つめていた。
「でも、列に並んで、ようやく順番が来たときには……もう、パンは残ってませんでした」
図書室の空気が、さらに静かになる。
遠くで誰かが本棚を閉める音がしたが、それすら遠く感じられた。
「“名簿にまだ載っていないから”って、軽く謝られただけ。
“次は必ず”って」
ミラは肩をすくめる。
「その子は、家に戻ってから、しばらく泣いてました。
“助かるはずだったのに”って」
リリアンヌは、膝の上で握った手に力が入る。
「……それでも、町の噂では、“あの男爵様は慈悲深いお方だ”って、そればかりでした」
ミラの口調は、感情を抑え込んだような平坦さを保っている。
「舞台の上からパンを渡していた姿は、人がいっぱい見てましたから。
“ありがたい”って言ってた人も、たくさんいた。
新聞みたいなものにも、立派なことが書かれてた」
リリアンヌは、想像する。
高台から配られるパン。その前で感謝を述べる人々。
そして、その輪の外で、列から外された子どもの顔。
「実際に、寒さで震えてた子の悔しさなんて、誰もわざわざ口にしない」
ミラは、そこでようやくリリアンヌの目を見る。
「だから、正直に言うと――」
言葉の端に、わずかな苦さが乗る。
「“庶民のために動いているらしい”って噂の貴族様にも、ちょっと構えてしまうんです」
その噂の矛先が、自分であることを、リリアンヌは理解していた。
裏門での配給の話。特待生を庇ったこと。
それらが、断片的に学園に広まっている。
リリアンヌは、静かに息を吸う。
「……お気持ちは、よくわかるように思いますわ」
「わかる、って」
「ええ。
“善いこと”をしていると称えられながら、その影で誰かがこぼれ落ちている光景は――」
リリアンヌの脳裏に、別の冬の夜がよぎる。
前の人生、王城の舞踏会の光の外で、ひそひそと囁かれる噂。
“王子の婚約者にふさわしくない令嬢”という、名前だけの物語。
「わたくしもまた、噂の中でだけ、悪役に仕立て上げられた経験がございますから」
ミラが、意外そうに瞬きをした。
「善人に祭り上げられるのも、悪役にされるのも……
どちらも、“都合よく形を決められる”という点では、似たようなものですわ」
自嘲とも、苦笑ともつかない笑みが、リリアンヌの口元に浮かぶ。
「ですから、“庶民のために動いているらしい貴族”と聞いて、構えるお気持ちを、責めるつもりはございません」
ミラは、机の上で指を組み直した。
「……正直に話しても、怒らないんですね」
「怒る権利が、わたくしにあるようには思えませんもの」
リリアンヌは首を横に振る。
「わたくしはまだ、“策を立てている側”でしかございません。
裏門でパンをお渡しして、少しだけ言葉を交わしただけ」
彼女の視線が、自分のノートに落ちる。
『配給案』『税の軽減』と書かれたページ――そこに、ミラの話が重なる。
「貴女のように、“こぼれた人”の顔を実際に見てきたわけではないのです」
ミラの表情が、少しだけ揺れた。
「……それでも、聞こうとするんですね。こういう話」
「聞かなければ、“善人ぶる貴族”のままになってしまいますもの」
リリアンヌの声は、柔らかいが、芯が通っていた。
「噂に“慈善家”と書かれて、そこで満足してしまった男爵様と同じにならないように――
貴女のような方の話を、きちんと聞いておきたいのです」
ミラは、少しだけ目を伏せる。
その横顔には、まだ警戒が残っている。
けれど、それは最初に向けられていた「敵意」そのものではなかった。
「……そんなふうに言われると、こっちの方が構え損ですね」
小さく、苦笑が漏れる。
「私は、貴族様に優しくされたことなんてほとんどないから。
“慈善”って言葉を聞くと、どうしても身構えちゃう」
「それは、とても自然な反応だと思いますわ」
リリアンヌは頷く。
「ですから、今はただ――
“構えていらっしゃる方がいる”という事実を、わたくしの側が忘れないようにいたします」
ミラが、顔を上げる。
「忘れない、って?」
「はい。
どれほど噂が“良い方向”に変わったとしても、
貴女のように、まだ疑って見ておられる方がいるということを」
リリアンヌは、真っ直ぐにミラを見つめた。
「そして――もし、わたくしのしていることが、本当に“まし”ではなく“意味がある”ものになったとしたら」
言葉を区切り、微笑む。
「いつか、貴女に“それなら少しは信じられる”と仰っていただけたら。
それが、わたくしにとっての……一つの目標になる気がいたしますわ」
ミラの目が、わずかに見開かれる。
そこへ、エミリアが水差しを抱えて戻ってきた。
「お待たせいたしましたわ。あの、お二人とも、何か――」
エミリアの問いに、ミラはいつもより少し柔らかい表情で応える。
「ううん。
ただ、公爵令嬢様に、ちょっと昔話をしていただけ」
リリアンヌは、エミリアから受け取った水を一口だけ含み、静かに喉を潤した。
(“善人ぶる貴族”への不信――)
ミラの過去の冬の光景が、彼女の胸の内に重く沈む。
(わたくしが目指すのは、“善人に見える貴族”ではなく……)
(こぼれた人の悔しさを、最初から想像に入れた上で、なお“策”を選ぶ側)
図書室の時計が、次の自習の開始を告げるように、かすかに鳴った。
それは、リリアンヌとミラの間にあった「敵/味方」という単純な線が、
ほんの少しだけ、別の輪郭へと描き変わり始めた合図でもあった。
勉強再開の合図のように、ページをめくる音が図書室に戻ってきていた。
インクの匂いと、古い紙の乾いた香り。
さっきまでの会話の余韻が、机の真ん中にうっすらと残っているような気がする。
ミラは、開いた教科書の端に肘をつき、指先で小さな消しゴムをくるくると回していた。
視線は文字の上を滑っているのに、明らかに内容は頭に入っていない。
やがて、その消しゴムの動きがぴたりと止まる。
「……公爵令嬢様は」
唐突な呼びかけに、リリアンヌが顔を上げる。
「はい?」
ミラは、ほんの一拍だけ言い淀み、それから意を決したように続けた。
「自分の領地で、“配る分のパンを最初から焼いている”って――」
視線が、教科書からリリアンヌへと真っ直ぐ向けられる。
「噂で、聞きました」
リリアンヌは、ほんの少しだけ目を丸くし、それから苦笑を浮かべた。
「……本当に、噂というものは足が速いのですね」
裏門でパンを渡していた日々が、脳裏に浮かぶ。
あのとき交わした、短い言葉と、両手でパンを受け取る人々の表情。
ミラは、消しゴムを握り込み、指の関節に少し力を込めた。
「率直に聞いても、いいですか」
その声音には、もう先ほどの棘はない。
代わりに、「見極めたい」という芯の通った硬さがあった。
「どうぞ」
リリアンヌは、姿勢を正し、受け止めるように頷く。
ミラは、真正面から彼女を見据えた。
「それも――」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「“見栄えのため”ですか?」
図書室の空気が、一瞬だけ張りつめた。
周囲のざわめきは変わらないはずなのに、リリアンヌには世界が少しだけ静かになったように感じられる。
エミリアが、向こうの棚で本を探している気配がする。
けれど、この机の周りだけは、別の密度になっていた。
リリアンヌは、まぶたを一度だけ伏せると、ゆっくりと開いた。
「“見栄えのため”だけなら――」
淡い声が、静けさを切り裂かぬように落ちる。
「余ったパンを配るだけで、十分だったはずですわ」
ミラが、わずかに眉を動かす。
リリアンヌは、ペン先を置き、両手をそっと机の上に重ねた。
「わたくしが“最初から配る分を焼いてほしい”とお願いしたのは――」
あの日の裏門。
ひび割れた手でパンを受け取る老人。
「助かる」と言った少年の、あどけない笑顔。
「余りものではなく、最初から“その人たちのために用意したい”と思ったからです」
声は柔らかいが、その中にある決意は静かに光っていた。
「余った分を“回す”のではなく、最初から“ここまで届けるつもりで焼く”。
それが、少なくとも、あの方たちに対しておこなえる最低限の礼儀だと感じました」
ミラは、視線を逸らさないまま、彼女の言葉を聞いている。
「それが、足りているかどうかは――」
リリアンヌは、そこで小さく首を振った。
「まだ、わかりませんけれど」
その正直さに、ミラの目がわずかに揺れた。
「……足りているかどうか、分からないのに?」
「はい。
パンの数も、来られない人のことも。
貴女が仰った、“名簿からこぼれた人たち”のことも」
リリアンヌの胸に、さきほど聞いた冬の広場の光景が重なる。
「わたくし一人の考えでは、とても追いつきません。
だからこそ、エミリアたち特待生の意見もお借りしているのです」
それから、彼女は少しだけ視線を落とし、言葉を足した。
「……そして、もうひとつ正直に申し上げますと」
ミラが、息をのむように、わずかに身じろぎする。
「そのことで“自分も少しはましな人間かもしれない”と思いたい――」
リリアンヌは、自嘲気味に笑った。
「そんな、わたくし自身の弱さも、きっと混ざっておりますの」
図書室の光が、窓辺から斜めに差し込み、彼女の睫毛の影を机に落とす。
「……え?」
ミラが、素で驚いたような声を漏らした。
「“全部、誰かのためです”って言い切らないんですね」
「言い切れるほど立派でしたら――」
リリアンヌは、苦笑を深める。
「きっと、ここまで迷ったり、躊躇ったりはしなかったでしょうね」
ミラは、しばらく黙ったまま、彼女を見つめていた。
やがて、消しゴムを弄んでいた手をゆっくりと机の上に置く。
「……妙なことを言う貴族様ですね、公爵令嬢様は」
「光栄、なのでしょうか?」
リリアンヌが首をかしげると、ミラは小さく笑った。
「だって、たいていの“慈善家”は言うんですよ。
“これはすべて、困っている人のために”って。
自分の名前や、評判の話なんて、絶対しない」
「それが正しい姿なのかもしれませんわ」
リリアンヌは、あっさりと認める。
「けれど、わたくしは、そこまで清らかではございませんもの」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「“人のため”と口にしながら、
どこかで“噂が少しでもましになりますように”と願ってしまった時期もありました」
ミラが、息を飲む。
「でも今は――」
リリアンヌは、自分の胸のあたりにそっと手を置いた。
「“人のために動こうとすると、わたくし自身の心も少し軽くなる”と知ってしまったので」
以前、窓辺で噛みしめた感覚が、彼女の中で静かに形を取る。
「きっと、完全に切り離すことはできません。
“誰かのため”と“自分のため”を」
ミラの瞳に、戸惑いと、わずかな共感が混ざる。
「だから、せめて――」
リリアンヌは、真っ直ぐにミラを見る。
「その両方が混ざっていることから、目をそらさないようにしたいのです。
“見栄えのためだけ”にならないように。
でも、“自分も軽くなりたい”という気持ちも、偽らずに自覚しておきたい」
ミラは、長い沈黙のあとで、ぽつりと言った。
「……ズルいですね」
「ズルい、でしょうか?」
「全部きれいにはしないで、“汚いところもあります”って自分で言われたら――」
ミラは、唇を引き結び、少しだけ視線をそらした。
「“善人ぶる貴族”って、簡単に決めつけにくくなるじゃないですか」
リリアンヌは、思わずくすりと笑ってしまう。
「それは、わたくしとしては、望むところですわ」
「……本気で言ってるんですか」
「ええ。本気で」
彼女は柔らかく頷く。
「貴女が“見栄えのためですか?”と問うてくださったように。
これから出会う人たちにも――
“噂どおりの人間なのかどうか、自分の目で確かめてほしい”と思っておりますの」
ミラは、しばらく彼女をじっと見つめていたが、やがて小さく息を吐き出した。
「……少なくとも、さっき話した男爵様とは、同じじゃなさそうですね」
その言葉は、褒め言葉とは言い難い。
けれど、「同じですか?」という問いに対する、彼女なりの暫定的な答えでもあった。
「そう言っていただけるなら、少しだけ、ほっといたしますわ」
リリアンヌが微笑むと、ミラは観念したように首を振る。
「まだ、完全には信じませんけど」
「もちろんです」
即答に、ミラがまた目を瞬かせる。
「……“もちろん”って」
「今日のところは、“同じではなさそう”と思っていただけただけで、十分ですわ」
リリアンヌは穏やかに続ける。
「その先は、わたくしのこれからの行動次第ですもの。
言葉だけで信じていただけるほど、世の中、甘くはございませんでしょう?」
ミラは、ふっと口元を緩めた。
「……そういうところだけ、妙に庶民くさいですね、公爵令嬢様」
「庶民の方々の現実を、少しずつ教えていただいておりますから」
リリアンヌが冗談めかして返すと、ミラはほんの少しだけ笑った。
その笑いは、敵を前にした張り詰めたものではなく、
完全な信頼には遠いが、「これ以上は斬りつけない」という線を引いた笑いだった。
そこへ、図書室の奥から、司書が「そろそろお静かに」と目線だけで注意を送ってくる。
ミラは慌てて教科書に視線を戻し、筆記具を握り直した。
「……質問、してすみませんでした」
「いいえ。聞いてくださって、ありがとうございます」
リリアンヌは、ペン先をインク壺に浸しながら答える。
(“あなたは同じですか?”――)
その問いは、ミラだけでなく、
かつての人生でリリアンヌを噂だけで裁いた人々の影にも向けられているような気がした。
(同じではない、と言うために。
同じになってしまわないように)
彼女は、ノートの余白に小さく書き込む。
――「配給の名簿から、こぼれる人のこと」
(ここから先は、行動で答えていくしかありませんわね)
机の上では、三人分のノートが再び、静かに文字で埋まっていった。
その中には、ほんのわずかではあるが、
“敵ではないかもしれない”という、新しい線が描かれ始めていた。
しばらくのあいだ、ページをめくる音だけが、三人の机の周りを満たしていた。
ミラは、開いたノートの端をじっと見つめている。
視線は文字の上で止まったまま、動かない。
「……正直」
ぽつりと落ちた声に、リリアンヌが顔を上げた。
「“全部きれいな動機です”って言われたら」
ミラは、ノートの端を爪でこすりながら、微かに眉を寄せる。
「きっと、また前みたいに腹を立てていたと思います」
脳裏に、冬の日の広場がよぎる。
見栄えの良い列にだけ笑顔を向ける男爵の顔。
「慈悲深い」と噂されながら、名簿から漏れた家の寒さなんて見ようともしなかった横顔。
完璧に整えられた言葉。
一点の曇りもない「善行」。
その影で凍えていた友達の指先。
「……でも――」
ミラは、息をひとつ吐き、今度は正面からリリアンヌを見る。
「“きれいごとだけじゃない”って、最初から言ってくれる人にまで」
自分でも確かめるように、ゆっくりと。
「同じ怒りをぶつけるのは……たぶん、違うんですよね」
その言葉を聞きながら、リリアンヌは黙って耳を傾けていた。
責めるでも、否定するでもなく。ただ、受け止める姿勢のまま。
ミラの表情が、ほんの少しだけほぐれる。
「公爵令嬢様」
「はい」
呼びかけに、リリアンヌは自然に応じる。
さきほどまでの緊張とは違う、柔らかい間が落ちた。
「今のところ――」
ミラは、言葉を慎重に選ぶように、ひとつひとつ区切った。
「“敵”ってほど、あなたのことを嫌いではいられなさそうです」
それは、誉め言葉とは程遠い。
けれど、ミラの過去を知る者には、それがどれほど不器用で、どれほど正直な「和解のサイン」か分かる言葉だった。
(“好き”でも、“信じている”でもない)
リリアンヌは心の中で、その言葉をそっと反芻する。
(でも、“敵ではない”と、わざわざ言葉にしてくださるだなんて)
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
彼女はペンを置き、ゆっくりと微笑む。
「それでしたら――上等でございますわ」
「……上等?」
ミラが、思わず聞き返す。
「ええ」
リリアンヌは、穏やかに頷いた。
「“敵ではない”ところから始まるご縁も、案外悪くございませんもの」
その言い方に、ミラはぽかんとした顔をして、次の瞬間、ふっと小さく笑った。
「……やっぱり、変な貴族様ですね」
「よく言われますわ」
くすりと笑いあった、そのささやかな瞬間。
図書室の光景は何も変わっていないはずなのに、机の上の空気だけが、少しだけ柔らかくなったように感じられた。
ページをめくる音が、再び静かに重なる。
“敵”という言葉で分けていた線が、その場で音もなく引き直されていく。
それは、親友でも同志でもない。
ただ、「もう敵ではない」と、ぎこちなく確認しあった距離。
――けれど、その一歩が、どれほど大きな揺らぎなのかを。
リリアンヌもミラも、まだはっきりとは知らないままだった。
勉強会がひと段落し、各々がノートを閉じ始めたころ。
「本日は、このくらいにいたしましょうか」
リリアンヌがそう告げると、机の端に置いていた小さな布包みに手を伸ばした。
中には、さっき三人でつまんだものと同じ、小さな焼き菓子がいくつか残っている。
彼女は、それを丁寧に包み直しながら首をかしげる。
「エミリア、こちらは寮にお持ち帰りになさいます? それとも――」
そのとき、視線の端で、ミラの目がちらりと布包みに向くのが見えた。
「……それ」
ミラが、そっけない調子で口を開く。
「例の、“お屋敷で焼いた焼き菓子”ですか?」
問われたエミリアが、ぱっと笑顔になる。
「はい。今日はちゃんと成功したんですよ。とてもおいしくて」
「まあ、成功と呼んでいただけるなら、光栄ですわね」
リリアンヌも微笑む。そして、ふと思いついたように、さらりと続けた。
「初回は見事に失敗しましたわ」
ミラの手が、片づけていたペンの上で止まる。
「……失敗?」
「ええ。それはもう、見事に」
リリアンヌは、少し遠くを見るような目になった。
「焦げて、半焼けで、とても人様にはお出しできない代物でして」
あの日の、黒くなった端と生っぽい中心が脳裏によみがえる。
焦げた苦みと、粉っぽさと、かすかな蜂蜜の甘さ。そして、どうしようもなくにじんだ涙。
「泣きながら、自分で全部食べましたの」
あくまで淡々とした口調で告げられた一言に――
「ぷっ……!」
ミラは、思わず吹き出した。
慌てて口元を押さえ、咳払いでごまかそうとする。
「……ご、ごめんなさい」
それでも、肩の震えは止まらない。
「貴族様が、“泣きながら焦げたお菓子食べました”って……
想像したら、ちょっと……」
エミリアも、堪えきれずに微笑みを漏らした。
「たしかに、あのときのリリアンヌ様のお顔は、少しだけ……いえ、だいぶ、子どもっぽかったかもしれません」
「エミリア?」
「ほら、こう、眉がへの字で……」
エミリアがそっと手で真似をすると、ミラはさらに笑いをこらえきれず、机に額を近づけた。
「やめてくださいませ、あのときは本気で落ち込んでおりましたのよ」
口調こそ抗議めいているが、リリアンヌの表情はどこか楽しげだ。
「笑っていただけるなら、本望ですわ」
小さく肩をすくめ、続ける。
「あれ以来、“失敗の味”は、忘れられそうにありませんもの」
焦げの苦みも、生焼けのもさも、あの日の悔しさも。
全部まとめて、もう一度噛みしめて、飲み込んだ夜のことを思い出す。
「……変な人」
笑いの残り香をまとったまま、ミラがぽつりとつぶやいた。
「“聖女様みたい”とか噂されてるのに、
そんな話、自分でします?」
「噂になっていない部分こそ、わたくしの大半ですもの」
リリアンヌは、どこか誇らしげに言う。
「それに――完璧なお菓子より、失敗作のほうが、人と笑い合う種にはなりますわ」
ミラはしばらく彼女を見つめ、それから小さく息をついた。
「……じゃあ、その“ちゃんと焼けたやつ”、ひとつもらってもいいですか」
「もちろんですわ」
リリアンヌは、新しい布切れを取り出し、焼き菓子を二つ、そっと包んで差し出す。
「お口に合えばよろしいのですけれど」
「焦げてないなら、多分大丈夫です」
そっけなく言いながら、それでもミラの指先は丁寧に包みを受け取った。
遠い世界の、完璧な公爵令嬢。
――その像は、彼女の中で少しずつ形を変え始めていた。
泣きながら焦げたお菓子を食べる人。
失敗の味を笑い話に変えてくれる人。
まだ「信じる」と言えるほど近くはない。
けれど、もう「敵」と決めつけるには、あまりに人間くさい一面だった。
学園の門へ向かう石畳の道は、夕焼けに染まり始めていた。
校舎の影が長く伸び、行き交う生徒たちの足音も、どこか一日の終わりの色を帯びている。
「では、わたくしはここで失礼しますね。寮の門限、少し厳しいので」
エミリアが、荷物を抱え直しながら振り向いた。
「本日もありがとうございました、リリアンヌ様。ミラさんも、また明日」
ぺこりと頭を下げると、小走りで寮の方へ曲がっていく。
その背中が角を曲がり、視界から消えたあと――
石畳の道には、リリアンヌとミラ、二人分の足音だけが残った。
並んで歩くには、少しだけ距離がある。
けれど、はっきりと「離れている」とも言えない、その微妙な間合い。
「……あの」
不意に、ミラが口を開いた。
「はい?」
リリアンヌは足を緩め、横顔に視線を送る。
ミラは、前を向いたまま、言葉を探すように夕焼け空を仰いだ。
橙色の光が、その横顔の輪郭をやわらかく縁取っている。
「たぶん、わたし――」
小さく息を吸い込む音。
「簡単には、“貴族様を信じます”って言えないと思うんです」
その言葉は、責めるでも、突き放すでもなく、ただ事実を述べる調子だった。
「家族のこととか、友達のこととか、いろいろあって」
リリアンヌは、反論の言葉を探さない。
“信じてほしい”と、急かすつもりもない。
ただ、静かに、耳を傾ける。
石畳を踏む靴音が、二拍、三拍と続いたあと――
「でも――」
ミラが、少しだけうつむいて笑った。
「“いつか、信じられるかもしれない相手”として」
一度、言葉を区切り、今度はきちんと彼女の方を振り向く。
「公爵令嬢様を、心のどこかに置いておくくらいなら」
ほんの少し、気恥ずかしそうに目を細めて。
「……別に、悪くない気がしています」
夕暮れの空の下で、その言葉は驚くほど静かに響いた。
リリアンヌの胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
「それは、とても光栄なことですわ」
自然と浮かんだ微笑みが、声ににじむ。
「今のわたくしには、“嫌われていないかもしれない”という評価だけでも、十分すぎるくらいですもの」
冗談めかした一言に、ミラが小さく吹き出した。
「ハードル、低くないですか?」
「前の人生では、もっとずっと低かったのですわよ。“悪役ではないといいのだけれど”くらいには」
「……それは、さすがに気の毒ですね」
ふたりの口元に、同じくらいの大きさの笑みが浮かぶ。
リリアンヌの心の中で、静かな声がつぶやいた。
(かつてのわたくしにとって“庶民の少女”は、物語の中で自分を貶める“敵役”だった)
王子の隣に立つ正しい少女。
自分を断罪するために、用意されたヒロイン。
(今、隣を歩く彼女は――)
靴のかかとが、同じリズムで石畳を叩く。
(まだ“友達”と呼ぶには遠くて。
でも、もう“敵”と呼ぶには、あまりに人間らしくて、あたたかい)
夕日に染まった通学路を、二人は少しだけ歩調を合わせる。
それは、腕を組むほど近くはないけれど、背を向けて別々に歩くほど遠くもない距離。
門の見えるあたりで、ミラが立ち止まった。
「ここから先は、寮とは反対方向なので」
「はい。本日はご一緒いただき、ありがとうございました」
「……こちらこそ。勉強、参考になりました」
そう言って、ミラはくるりと踵を返す。
数歩進んだところで、ふいに振り向いた。
「公爵令嬢様」
「はい?」
「“敵ではない”ってことだけは、今日のところ、ちゃんと覚えておいてください」
それは、不器用で、まっすぐな宣言だった。
リリアンヌは、胸の前でそっと手を重ねる。
「ええ。決して忘れませんわ」
ミラの背中が、夕焼けの向こうに小さくなっていく。
その姿が人混みに紛れたあとも、しばらくのあいだ、リリアンヌは同じ方向を見つめていた。
***
かつて、庶民の少女は、
貴族たちの物語の中で、都合よく選ばれた「正しさの代弁者」として登場した。
そして、公爵令嬢は、王子の物語を彩る「悪役」として配置されていた。
――だが今、学園の帰り道を並んで歩く二人は、
互いを、そんな粗雑な役目だけでは括れなくなりつつあった。
まだ、信頼には遠い。
けれど、もう、敵ではない。
そのささやかな変化こそが、
リリアンヌにとって、新しい物語の一ページになろうとしていた。




