噂の再来 ―― 今度は彼女を讃える声が広がる。
ChatGPT:
午前の講義が終わり、次の鐘までのわずかなすき間。
学園の廊下は、教室からあふれ出した生徒たちのざわめきで満ちていた。
廊下の端、窓際の小さな机に――一人、静かにノートを広げる少女がいる。
栗色の髪を素朴なリボンで束ねた特待生、エミリアだ。
彼女の指先は、ペンを走らせながら、何度も同じ頁へ視線を戻している。
書き込まれた文字列の横には、少し癖のある、しかし整った筆跡で添えられた小さな注釈があった。
──《税率の上限には、必ず“人の顔”がついて回る。数字だけで決めてはいけない》。
その一行を見るたび、エミリアは、くすぐったいような誇らしいような気持ちで胸を押さえたくなる。
(リリアンヌ様……本当に、真面目に一緒に考えてくださったのですわね)
そんな彼女の前を、制服のリボンやドレスの裾を揺らしながら、数人の令嬢が通り過ぎていく。
「ねえ、あの子よね」
「リリアンヌ様が“身分だけで測りたくない”って仰った特待生」
ひそひそ声は、本人に聞こえないつもりなのだろう。
だが、距離はそれほど離れていない。エミリアの手元のペン先が、ほんの少しだけ震える。
「この前、一緒に図書室から出てくるところを見たわ」
「ええ、しかも楽しそうに話していて……。なんだか、意外だったのよ」
「“氷の令嬢”が、ね」
最後の一言が、溶けかけた氷のかけらのように、エミリアの耳にも触れる。
(……“氷”どころか、クッキーを焦がして、わたくしより先に涙目になっていらしたのに)
胸の内でそっと苦笑しながら、彼女は何も言わない。
ただ、ページの端に書かれた、少し不器用な丸文字――リリアンヌの筆跡を指先でなぞって、静かに息を吐いた。
◇ ◇ ◇
少し離れた中庭への通路では、今度は男子生徒たちの声がひそひそと飛び交っていた。
「おい、聞いたか?」
「公爵家の領地でさ、余りものじゃなくて“最初から配る分のパン”を焼いてるって話」
「また適当な噂じゃないのか」
「違うって。うちの父上が、あの領の役人から聞いたんだ。“屋敷の裏門に、週に何度か人が集まるようになった”って」
「しかもあれ、リリアンヌ様の提案らしいぞ」
その名が出た瞬間、もう一人の少年が鼻を鳴らした。
「冗談だろ。“氷の令嬢”が?」
「お前、まだその呼び方してるのかよ」
「でも、そういう噂だっただろ。王子殿下の前でだけ、絵に描いたみたいに完璧で……」
「だから、その噂が最近変わってきてるって話なんだって」
少年は身振りを交えながら続ける。
「裏門でパン配ってる時の顔がさ、“宮廷の仮面”って感じじゃなかったって。
“よくわからないけど、結構楽しそうにしてた”ってさ」
「……なんだそれ。“よくわからないけど”って一番困る言い方だな」
「だな」
軽口混じりの会話は、鐘の音にかき消されて中庭の方へ流れていく。
◇ ◇ ◇
一方、女子たちの情報は、もっと細く、しかし早く、学園中を駆け巡っていた。
更衣室前の廊下。授業の合間にリボンを結び直している令嬢たちの輪の中で、一人が声を潜める。
「先日の噂合戦の時もね」
「“特待生を貶してくれ”って雰囲気だったじゃない?」
「ええ、“庶民が調子に乗っている”って、誰かが言い出したあれね」
「でもリリアンヌ様、逆だったのよ」
「逆?」
「“彼女より勉強していない公爵令嬢だって噂される方が怖い”って、笑って仰ったの。
“身分で守られているからこそ、努力を怠ってはならない”って」
周囲の令嬢たちの手が、ぴたりと止まる。
「そんなこと……本当に?」
「誇張じゃなくて?」
「わたくし、その場にいましたの。
あの場で、あんなふうに言える方、そうそういませんわよ」
「“特待生を庇った”って噂は聞いたけれど……
庇うというより、自分も同じ土俵に立つって宣言に聞こえるわね」
鏡越しに目を合わせ、彼女たちは小さく息を飲む。
「……“氷の令嬢”って呼ぶには、少し違ってきたのかもしれないわね」
「ええ。“冷たい”というより、なんだか……」
「“よくわからない”?」
「そう。よくわからない方」
笑い混じりのその評は、やがて「よくわからないけれど気になる人」という新しい形の噂へ姿を変え、
別の教室へ、また別の廊下へと、細い糸のように広がっていった。
◇ ◇ ◇
かつて――
婚約破棄の顛末とともに学園を駆け巡った、単純な一行。
“王子の婚約者にふさわしくない、公爵令嬢”。
それは、ひとつのラベルで彼女を塗りつぶす、平板な物語だった。
今、彼らの口の端に乗るリリアンヌの名は、
裏門のパン、図書室の特待生、噂合戦での一言――
ばらばらの“断片”に結びつきながら、少しずつ違う輪郭を描き始めている。
まだそれは、明確な像にはなっていない。
「聖女」でもなければ、「悪役令嬢」でもない。
ただ、「よくわからないけれど、噂どおりではないらしい誰か」という、途中経過のかたち。
――点だったはずの出来事が、いつの間にか、線になりかけていることに。
このときのリリアンヌは、まだ気づいていなかった。
夕方前の教室は、まだほんのりと昼の熱を残していた。
窓際には鞄が並び、鏡代わりのガラス越しに、令嬢たちがリボンの結び目を整えている。
その一角。
以前、婚約破棄の噂や「氷の令嬢」だのなんだのと、好き勝手に言い合っていた三人組――クラリッサ、ベアトリス、セレナが、今日も机を寄せて小さな輪をつくっていた。
「正直に言うとね」
クラリッサが、髪飾りの位置を直しながらぽつりと口を開く。
「最初は“また噂よね”って思っていたのだけれど」
「“また”って、どの噂のこと?」
ベアトリスがくすりと笑う。
「“氷の令嬢が庶民のパンを褒めた”とか、“裏門でパンを配っている”って話?」
「そう、それ」
クラリッサは少し肩をすくめる。
「“今度は慈善家ぶりですの?”って、内心で思っていたのは、わたくしだけではないでしょう?」
セレナが、そこで小さく咳払いをした。
「……でも、この前ね」
彼女は視線を窓の外から教室の扉に移し、少し声を落とす。
「図書室で、少しだけ話しかけてみたのよ」
「え?」
「あなたから?」
二人の視線が一斉にセレナに集まる。
「ええ。領地経営の本を、同じ棚から取ろうとして」
セレナは、そのときの光景を思い出すように、指先で本の形をなぞる。
「思っていたより、ちゃんとこちらを見て話してくださる方だったわ」
「“ちゃんと”?」
ベアトリスが眉を上げる。
「今までは、こっちなんて見ていないって印象だったものね。殿下のほうばかり見ている感じで」
「そういう言い方はどうかと思うけれど……」
セレナは苦笑しつつも、否定はしない。
「でも、本当にそうだったのよ。“王子妃としての正解”みたいな言葉ばかりで」
彼女は、図書室での会話を思い出す。
――“領地の税を一度上げたら、戻すのはなかなか難しいのですね”
――“本に書いてあっても、実際に暮らしている方々のお顔を想像すると、簡単には決められませんわ”
「ねえ、それ、本当にリリアンヌ様が仰ったの?」
クラリッサが身を乗り出す。
「“暮らしている方々のお顔”なんて言葉、以前なら絶対に出てこなかったでしょう」
「だから、驚いたのよ」
セレナは頷き、指先をそっと組んだ。
「こっちを見て、ちゃんと聞いて、考えてから返事をなさるの。あの方が“噂どおりの冷たい方”だって言うのは……もう違う気がするわ」
ベアトリスは、机に肘をつきながら考え込むように唇を尖らせる。
「まあ、それでもやっぱり、どこか近寄りがたいところはあるけれど……」
「前より柔らかくなったとはいえ、“公爵令嬢”っていう壁はあるじゃない?」
「それはそうね」
クラリッサが苦笑する。
「“気安く腕を組んで笑い合える友達”って感じでは、まったくないもの」
「でも――」
セレナが言葉を探しながら続ける。
「“怖いから近寄らない”っていうのとは、ちょっと違うと思うの」
「じゃあ、どういう感じ?」
ベアトリスが首を傾げる。
「そうね……」
セレナは少しだけ考え、ぽつりとこぼした。
「“距離感がまだ掴めない”って感じ、かしら」
クラリッサとベアトリスは、顔を見合わせる。
「……わかるような、わからないような表現ね」
「でも、“近づきたくない”じゃなくて、“どう近づけばいいのかわからない”っていうのは、確かに違うかも」
「少なくとも」
セレナは小さく笑う。
「“噂どおりの冷たい方”っていうのは、もう当てはまらないと思うわ」
「そうね」
クラリッサも、窓の外――中庭のベンチに座る、金の髪の少女の横顔を思い浮かべる。
「この前も、特待生の子と一緒に本を抱えて出ていらしたでしょう。
あんな顔で話す人を、“氷”とは呼びづらいわ」
「じゃあ、今のリリアンヌ様って、何て呼べばいいのかしらね」
ベアトリスの問いに、三人とも答えに詰まる。
しばしの沈黙ののち――クラリッサが、少し照れたように肩をすくめた。
「……“よくわからない方”?」
「雑ですわ」
「でも、案外それが一番、近いのかもしれないわね」
三人の笑い声が、夕刻の教室にふわりと広がる。
かつて、“氷の令嬢”と一言で括られていた少女は、
今、“よくわからない人”という、曖昧だが前よりは温度のあるラベルで呼ばれ始めていた。
それは、まだ賞賛でも崇拝でもない。
けれど――否定ではなく、「興味」の混じった噂だった。
昼休み明けの廊下は、次の授業へ向かう生徒たちの足音で、ほどよくざわめいていた。
リリアンヌは教室へ戻る途中、手に小さなメモ帳を抱えたまま、人の流れから少し外れた廊下の端を静かに歩いていた。
そのとき、曲がり角の向こうから、少し浮き立った声音が聞こえてくる。
「ねえ、聞いた?」
甲高い、けれど悪意よりも憧れの色が濃い声。
「最近のリリアンヌ様、まるで聖女様みたいじゃなくて?」
足を止めるつもりはなかった。
けれど、自然と歩みがゆるむ。
リリアンヌは廊下の壁際に軽く身を寄せ、足音を立てないように一歩、また一歩と進む。
視界の端に、レースの多い制服の裾が揺れた。
別の令嬢グループ――ダフネとエリスが、手帳を抱えたまま立ち話をしている。
「聖女様、は少し言いすぎじゃなくて?」
エリスが笑いながらも、否定しきれないという顔をする。
「でも、庶民の子にも優しくして、慈善までなさって……」
ダフネは、うっとりとした目で手を胸の前で組んだ。
「裏門でパンを配っていらっしゃるのでしょう? しかも余りものではなく、最初からそのために焼かせているって」
「きっと裏では一つも失敗なんてなさらないのでしょうね。そうでなければ、あんなに堂々と人の前に立てませんわ」
リリアンヌの足が、ぴたりと止まる。
(……聖女様、ですって?)
胸の奥で、微かな笑いが泡立った。
吐き出してしまえば、きっと少し苦い味がする笑い。
(焦げた焼き菓子を前に、泣きながら味見していた女が?)
粉まみれの台所、エプロンの裾に飛んだ生地、オーブンの中で焼きむらだらけになっていったクッキー。
焦げた端をかじって、情けなさに涙をこぼした自分の顔が、ありありと脳裏に浮かぶ。
――“きっと裏では一つも失敗なんてなさらない”。
その一言が、喉の奥にひっかかった。
(……今度は“聖女様”ですのね)
かつて自分を縛っていた「完璧な公爵令嬢」の枠。
そこから少し抜け出したと思ったら、今度は新しく「慈善に励む清らかな令嬢」の枠を、誰かが用意しようとしている。
(悪役の枠から抜け出したら、聖女様の枠に押し込まれる……)
心のどこかで、くすりと自嘲がこぼれる。
(噂というものは本当に、わたくしに“人間らしくある”間をくれませんこと)
リリアンヌは、小さく息を吐いた。
唇の端には、微かな笑み――けれど、その笑みは、自分自身に向けた苦笑だった。
(失敗して、泣いて、パンを焦がして。
それでも、誰かのために少しだけ動いてみただけ)
聖女のように無垢でも、完全無欠の慈善家でもない。
たまたま目に留まった問題に、手を伸ばしてみたに過ぎないのだ。
(“聖女様”という名札を貼られてしまったら――)
(今度は、“一度の失敗も許されないわたくし”になってしまいますわね)
それがどれほど息苦しい枠なのか、彼女はよく知っている。
「完璧」も、「悪役」も、「聖女」も――形は違えど、どれも“人間を一枚の札に押し縮める”噂の産物だ。
曲がり角の先で、ダフネの声がもう一度弾む。
「一度でいいから、リリアンヌ様みたいに“何もかもできる人”になってみたいものだわ」
その言葉に、今度こそリリアンヌは、はっきりと小さく苦笑した。
(何もかも、ですって)
メモ帳を抱え直す。
そこには、失敗した配給日の修正案や、「この時間帯は人が少なかった」と書き込まれた稚拙な記録が並んでいる。
(知られもしない失敗と、誰にも見せたくなかった顔の上に――)
(“都合のいい聖女様”の噂を重ねられるのは、少しだけ、癪ですわね)
そう思いながらも、足を止め続ける理由にはしない。
リリアンヌは、そっと背筋を伸ばし、何事もなかったように再び歩き出した。
聖女でも、悪役でもなく。
ただの人間として、今日も少しだけ誰かのために動こうとしている自分を、胸の内で確かめるように。
昼休みの図書室は、いつもより少しだけ賑やかだった。
試験前でもないのに、特待生たちが集まっているのは――最近、この場所が「リリアンヌ=アーデルハイト公爵令嬢と庶民出身の特待生が一緒に勉強している」という、妙な噂の現場になっているからだろう。
エミリアは、窓際のいつもの席で辞書を開き、しおり代わりの紙切れに小さな文字でメモを書きつけていた。
「領地」「救済策」「配給」――貴族の会話にはよく出るのに、庶民の生活ではあまり口にしない単語たち。
向かいの席で、特待生仲間のレオンがそわそわと落ち着かない様子で身を乗り出してくる。
「ねえ、エミリア」
彼は声を潜めているつもりなのだろうが、好奇心が先走って少しだけ音が跳ねる。
「本当にあの公爵令嬢様、君のことを庇ったの?」
エミリアの指先が、ぴくりと止まる。
ペン先からインクが、じわりと紙に染み広がった。
「……庇う、というほど、立派なものではありませんわ」
エミリアは慌てて布でインクを拭いながら、控えめに首を振る。
「ただ、“身分だけで測りたくない”と仰ってくださっただけで」
「それ、十分に立派だと思うけれど」
隣で本を読んでいたマリーが顔を上げ、きっぱりと言う。
「僕たちの立場からすれば、“言わない”ほうが楽なことを、わざわざ言ったんだよ。
周りの目もあるのに」
エミリアは、ページの端をそっと撫でながら、心の中で小さく息をついた。
(庇う、か……)
たしかに、あの日。
教室の空気は、あからさまに「特待生を笑いものにする流れ」に傾いていた。
身分を盾にした遠回しな嫌味も、何度か聞いた。
そこに、リリアンヌ様はすっと立ち上がって――
『わたくし、公爵令嬢である前に“ひとりの学生”でありたいのですもの。
身分だけで人を測って、“あの特待生より勉強していない公爵令嬢”と噂されるほうが、よほど怖うございますわ』
涼しい顔で、そう言ってのけた。
(あの時のわたくしなら、“黙ってやり過ごす”ほうが楽だったはずなのに)
心のどこかで、そんなことを考えていた自分がいた。
それは、自分自身の弱さでもあり――同時に、「あの場ではそうするしかない」と諦めてきた日々の積み重ねでもあった。
レオンが机に肘をつき、「でもさ」と続ける。
「噂だとさ、“完璧な淑女が、冷たい仮面を脱いで聖女になった”とか、好き勝手言われてるよ」
「“庶民に施しを与える余裕のある、高貴な方”って」
エミリアは、思わず苦笑してしまう。
「……噂で聞くような“完璧な淑女”でも、“氷の令嬢”でも、まして“聖女様”でもありませんのに」
「え?」
レオンが目を瞬く。
エミリアは、ふと視線を窓の外に向けた。
中庭のベンチ――先ほどまで、リリアンヌがノートを広げていた場所が見える。
(リリアンヌ様は)
心の中で、そっと言葉を並べていく。
(図書室でペン先を汚して、こっそりハンカチで拭いていらしたり)
最初の勉強会の日、緊張で手が震えていたのだろう。
インクのしずくが白い指先につき、あわてて手元を隠すようにして布で拭っていた。
(難しい単語の発音を、わたくしと一緒に、何度も練習なさったり)
“救済策”“インフラ”“共益費”――舌を噛みそうな単語を、二人で笑いながら繰り返した。
リリアンヌがほんの少し間違えると、彼女は必ず自分で笑って、「もう一度お願いしますわ」と言ってくる。
それは、噂に聞く「失敗とは無縁の完璧な令嬢」とは、まるで違う姿だった。
(そういうところが、きっと噂にはならないのですわね)
エミリアは、胸の奥で、静かに確信する。
裏門でパンを配っていることも、特待生を庇ったことも、たしかに立派かもしれない。
けれど、エミリアが一番「救われた」と感じたのは――
(“公爵令嬢と特待生”ではなく、“同じ机で一緒に悩む学生”として、隣に座ってくださったこと)
そのささやかな事実は、どんな噂にも乗らない。
「エミリア?」
レオンが不思議そうに覗き込む。
「いえ、なんでもありませんわ」
エミリアは、ふんわりと微笑んだ。
「……ただ、皆さまの仰る“リリアンヌ様像”と、わたくしの知っている“リリアンヌ様”は、少しだけ違うのだなと思いまして」
「どんなふうに?」と問われ、エミリアは少し考え込む。
そして、言葉を選びながら、ゆっくりと答えた。
「そうですわね……噂にあるような“なんでもできる完璧な方”ではなくて」
「間違えることも、悩むことも、ちゃんと怖がる普通の方――」
「それでも、“怖い”より“誰かの役に立ちたい”を、少しだけ選んでくださる方、だと思いますの」
その答えは、きっと大きな声で語られることはないだろう。
けれど、エミリアにとっては、それがいちばん「本当のリリアンヌ様」に近い言葉だった。
学園の廊下には、昼の光が斜めに差し込んでいた。
磨き上げられた床に、窓枠の影が規則正しく並ぶ。その間を、王子アルベルトと数名の側近たちが歩いていく。
授業の合間の時間帯。行き交う生徒たちは、少し距離を取って一礼しつつ、彼らの通り過ぎたあとに小声で何かを囁き合う。
――その囁きの中に、「リリアンヌ」という名が混じっていることに、アルベルトはもう気づかないほど鈍くはなかった。
「殿下」
隣を歩く、真面目な側近・ユリウスが、声の調子をほんの僅かに落として呼びかける。
報告の前触れだとわかる、いつもの声音。
「最近、リリアンヌ様に関する噂が、以前とは少し違ってきているようです」
アルベルトは、足を止めはしなかったが、わずかに視線だけをユリウスに向けた。
「違っている?」
「はい」
ユリウスは、廊下の先を見据えたまま、言葉を選ぶように続ける。
「かつては、“氷の令嬢”“感情の読めない完璧な公爵令嬢”という評が主でしたが――」
角を曲がるとき、彼はちらりと周囲を見回し、余計な耳が近くにないことを確かめる。
「今はむしろ、“何を考えているのかわからないが、庶民のために動いているらしい方”とでも申しますか」
アルベルトは、短く息を吸った。
驚愕というほどではない。
ただ、その表現が、今朝庭園で交わした会話と妙に噛み合ってしまったのだ。
(庶民のために――パンの話をしていたな)
裏門で余り物ではなく、「最初から配る分のパン」を焼くようにしたこと。
そこに並ぶ人々の顔を、ひとりずつ覚えようとしていること。
あれは、たしかに“噂の中のリリアンヌ”の新しい一ページになってもおかしくない。
「“庶民のために動いているらしい”……か」
アルベルトは、自分でも気づかぬほど小さな声で繰り返す。
するとすかさず、後ろを歩くもう一人の側近・クラウスが、肩をすくめて軽口を挟んだ。
「おまけに、“特待生を庇った”とか“裏門でパンを配っている”とか……」
「最近の噂をまとめますと――“よくわからないけれど、悪い人ではなさそう”という評価が、一番近いかもしれませんね」
ユリウスが「クラウス」とたしなめるように名を呼ぶが、クラウスは悪びれずに続ける。
「否定しようのない悪評よりも、その手の“なんとなく好感度が高い”噂のほうが、かえって厄介ですよ、殿下」
「“氷の令嬢だから婚約破棄もやむなし”という空気のほうが、よほど扱いやすかったでしょう?」
冗談めかした調子ではあったが、その言葉は、かつてアルベルト自身も心のどこかで抱いていた前提と重なっていた。
(……婚約破棄は、既定路線のはずだった)
王家と公爵家の事情。
「冷たい」「感情がない」という噂。
少しばかり退屈ではあるが、お互いに傷の少ない別れ方――そのはずだった。
けれど、今。
今朝、庭園のベンチでノートを閉じた彼女の横顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
『きっと――“ようやく、わたくし自身になり始めた”だけなのだと思いますわ』
柔らかいが、どこまでもまっすぐな声。
あれは“答えの決まった令嬢”の台詞ではなかった。
(“わからないから、これから知っていく”と思っていただけるほうが嬉しい――か)
彼女はそう言って笑った。
そして今、側近は言う。
『何を考えているのかわからないが、庶民のために動いているらしい方』
彼女自身が望んだ「わからなさ」が、そのまま噂の言葉になっていることに、アルベルトは妙な可笑しさと、言いようのないざわめきを覚えた。
「殿下?」
ユリウスが様子を伺うように問いかける。
「……いや、何でもない」
アルベルトは小さく首を振り、歩みを緩めぬまま窓の外に視線を向けた。
中庭が見える。
さきほどまでリリアンヌが座っていたベンチには、今は別の生徒が腰かけている。
だが、その光景に彼女の姿を重ねてしまうのを、止められなかった。
(“氷の令嬢”という噂は、たしかに彼女の一部だったのだろう)
(今の“庶民のために動いているらしい”という噂も――おそらく、もう一つの一部)
噂はどれも、断片でしかない。
庭園でパンの話をするときの、少し楽しそうな笑み。
特待生の名を呼ぶときの、誇らしげな声音。
そんなものは、噂の言葉には乗らない。
(……噂の中のリリアンヌと、目の前で笑うリリアンヌ)
(どちらも、完全な嘘ではないのだろう)
クラウスが、今度はあえて軽さを抑えた声で付け加える。
「いずれにせよ、“完全に悪役”として扱うのは難しくなりましたね、殿下」
「学園の空気も、以前ほど一方的ではありません。
“あの方は案外悪くないのでは”という感想が、少しずつ増えているようです」
アルベルトは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
(それでも、婚約破棄が必要だとしたら――)
その先の言葉を、心の中で言い切ることができなかった。
ついこのあいだまでなら、容易く続けられたはずの「国のため」「互いのため」という理屈が、喉の奥でひっかかる。
足音が、廊下に規則正しく響く。
そのリズムだけが、彼の胸の揺らぎと無関係に進んでいく。
(僕は、いつの間にか“既定路線”に甘えていたのかもしれない)
誰かが敷いた未来の線路の上を、そのまま歩いていけばいいと信じていた。
彼女が“噂どおりの令嬢”でいてくれる限り、その線路は安全だと。
(でも――)
彼は、窓の外に目をやったまま、心の中で静かに結論を先送りにする。
(“わからないから、これから知っていく”と彼女は言った)
(ならばせめて、噂だけで判断するのではなく、僕自身の目で――)
そこまで思って、アルベルトは小さく苦笑した。
(……まさか、自分がそんなふうに考える日が来るとはな)
廊下の先から、次の授業の鐘の音がかすかに聞こえてくる。
その音に紛れるように、彼は誰にも聞こえないほどの小さな声でつぶやいた。
「リリアンヌは、昔とは違う」
それは、すでに彼女に向けて口にした言葉だ。
けれど今、そのフレーズの最後に、別の一文がそっと重なる。
(……そして、昔のままなのは、きっと僕のほうだ)
揺らぎ始めた「婚約破棄=当然」という前提は、まだ誰の口にも上っていない。
だが、王子自身の胸の中でだけ、確かに“書き換えの余地”を得つつあった。
放課後の図書室には、人の気配がまばらだった。
高い本棚の間に夕陽が差し込み、紙の匂いとインクの匂いが、静かに混ざり合っている。
窓際の一角。
いつもの勉強机に、今日は本の山ではなく、湯気の消えかけたハーブティーと、小さな紙包みが置かれていた。
紙包みの中身は、昼に屋敷から持ってきた、素朴な蜂蜜クッキー――もちろん、前回の“失敗作”ではなく、ちゃんと厨房で焼き上げてもらったものだ。
リリアンヌは、開きっぱなしのノートにペンを置き、そっと肩を回す。
その正面で、エミリアがカップを両手で包み込みながら、何度目かの逡巡をしていた。
「……あの」
ようやく決心したように、エミリアが口を開く。
「リリアンヌ様。少々、お耳触りかもしれないお話なのですが」
「まあ。今さら、“耳触り”を気にする仲でもございませんでしょう?」
リリアンヌは、からかうように目を細めた。
「どうぞ、遠慮なく」
促されて、エミリアは小さく息を吸う。
「最近、“噂”が……少しだけ、優しいものに変わってきているような気がいたします」
言いきったあとで、「やはり言わなければ良かったかしら」とでも言いたげに、彼女は視線を落とした。
「わたくし、お耳に入れない方が良いかと思って黙っていたのですが……
さきほど、廊下で“氷の令嬢はもういないのかも”などと囁いているのが聞こえてしまって」
リリアンヌは、少しだけ瞬きをしてから、ふっと笑った。
その笑いは、どこか肩の力が抜けている。
「ええ、なんとなく耳に入っておりますわ」
「“氷の令嬢”から、“よくわからない人”くらいには昇格したようですもの」
「そ、そんな……“昇格”だなんて」
エミリアは慌てて首を振る。
「決して、そのような失礼な言い方では――」
「いいのです、エミリア」
リリアンヌは、彼女の言葉をそっと制した。
「たぶん、一番最初にそう思ったのは、わたくし自身ですから」
ペンの転がる音が、机の上で小さく鳴った。
リリアンヌはそれを指先で止めながら、窓の外へと視線を向ける。
「噂に、感謝する気はあまりありませんの」
「昔の噂も、今の噂も――どちらも、わたくしの一部しか映しておりませんから」
エミリアが、はっと顔を上げる。
リリアンヌは、彼女のほうに向き直り、穏やかに続けた。
「“氷の令嬢”と言われていた頃のわたくしを、完全な嘘だとは思いませんわ」
「本当に、あの頃のわたくしは、氷みたいに固くて、失敗を恐れるあまりに、笑うことすらぎこちなくなっていたのですもの」
森で泣き崩れた夜。
婚約破棄の宣告と、拍手のように広がっていった嘲笑。
胸の奥に刺さったままの感覚が、一瞬だけよぎる。
けれど、今はそれに飲み込まれずにいられた。
「だからといって、今さら噂に感謝して、すがる気もございません」
「“聖女様みたい”などと持ち上げられているらしいことも、ちゃんと耳に入っておりますのよ?」
エミリアが目を丸くする。
「そ、そこまでご存じで……」
「ええ。廊下というのは、声がよく響きますもの」
リリアンヌは、くすりと笑う。
「焦げた焼き菓子を前に、泣きながら味見していた女を“聖女様”と呼ぶのは、少々見当違いでしょう?」
あの夜の、苦くて甘い“失敗の味”。
それを思い出して、自分で自分に苦笑する余裕が、今はある。
エミリアは、カップを握る手に少しだけ力を込めながら、恐る恐る尋ねた。
「では……リリアンヌ様は、その“優しい噂”も、お嫌いですか?」
問いかけに、リリアンヌはしばし言葉を探すように唇に指を当て、それから静かに首を振った。
「嫌い、というほどではありませんわ」
「ただ――噂に感謝する気はないけれど、“利用はさせていただく”つもりでおりますの」
「利用……?」
エミリアが小さく繰り返す。
「はい」
リリアンヌは、机の隅の蜂蜜クッキーをひとつつまみ、指先で眺めながら言った。
「噂が、わたくしのことを“よくわからない人”と伝えてくれるのなら、悪くはございません」
「悪くは、ない……?」
「ええ」
クッキーを軽く割り、ぽろりとこぼれた欠片を紙の上に落とす。
その音が、どこか“噂の断片”のように思えて、リリアンヌは小さく笑った。
「“全部わかったつもり”で語られるより――」
「“よくわからないから、会って確かめてみよう”と思っていただけるほうが、少なくとも、昔よりはずっと健全ですもの」
エミリアの瞳が、驚きとも尊敬ともつかない色に揺れる。
「噂だけで“冷たい人”と決めつけられていた頃は、わたくしが何を言っても、“らしくない”と笑われましたわ」
「今、“よくわからない人”と噂されているのなら――
そこに、“これから知る余地”が残っている、ということでしょう?」
リリアンヌは、割ったクッキーの片方をエミリアの小皿に、もう片方を自分の小皿に置いた。
「紅茶の席には、噂という前菜が付きものでしょう?」
「でも、本当に味わっていただきたいのは、前菜ではなく“これから運ばれてくる料理”ですわ」
エミリアは、ふっと表情を緩める。
「では、その“料理”は……」
「わたくしが、自分で決めた言葉と行動で、お出ししていくつもりですの」
リリアンヌは、迷いなく言い切った。
「噂がどう語ろうと、“主導権”だけは渡しません」
前の人生では、噂に怯え、噂に追い詰められ、噂に押し流されていった。
けれど今は――。
「もし噂のおかげで、“会ってみようかしら”と思ってくださる方が増えるのなら、その入口だけ、お借りいたします」
「その先で、何を話して、何を分け合うかは……わたくし自身が決めますわ」
エミリアは、ゆっくりとクッキーを一口かじり、噛みしめながら小さく笑った。
「――噂に流されるのではなく、噂を追い越していくおつもりなのですね」
「まあ、素敵な言い回しですこと」
リリアンヌも、クッキーを口に運ぶ。
蜂蜜の優しい甘さが、噂の苦さとは違うところで、じんわりと広がった。
(噂に怯えていた頃のわたくしには、きっと選べなかった態度ですわね)
焦げた失敗作を夜にひとりで食べたこと。
裏門でパンを渡したときの、誰かの「助かった」という声。
図書室で一緒にページをめくるエミリアの横顔。
それらすべてが、今のこの言葉を支えてくれている。
「だからエミリア」
リリアンヌは、軽くカップを持ち上げた。
「噂の中のわたくしが、“聖女様”でも“氷の令嬢”でも“よくわからない人”でも――
あなたには、図書室でペン先を汚している、かなり不器用なわたくしを覚えていていただけると嬉しゅうございます」
エミリアは、くすりと笑い、同じようにカップを持ち上げる。
「もちろんですわ、リリアンヌ様」
「噂にどれほど飾られても、わたくしは“ノートに蜂蜜のしみを作ってしまって慌てる方”を、ちゃんと知っておりますもの」
「あら、それは早急に噂から隠しておきたい一面ですわね」
二人のカップが、かすかに触れ合って、小さな音を立てた。
その音は、噂話のざわめきよりもずっと静かで、けれど、確かな約束の響きを持っていた。
学園の上階へと続く階段は、夕刻になると人影が少なくなる。
授業もほとんど終わり、生徒たちの多くは寮や街へと引き上げていく時間だ。
その途中――屋上へ続く扉の手前の踊り場に、細長い窓がひとつ。
そこから差し込む斜めの光が、石造りの壁を柔らかく染めている。
リリアンヌは、その窓辺に背を預けるように立っていた。
階下からは、遠く微かな笑い声や、靴音の反響だけが届いてくる。
窓の外には、学園の中庭と、その向こうに広がる街並み。
赤く染まり始めた屋根瓦が、夕陽に照らされてきらりと光った。
(……また、どこかで誰かが、わたくしの名前を口にしているのでしょうね)
ここまで届かないざわめきを、想像でなぞる。
それは、かつて何度も彼女を傷つけてきた、あの“形の見えない声”たちだ。
「噂は、いつだって“形の見えない誰か”の口から生まれて」
思わず、独り言が唇を離れた。
「名前だけを、大きく膨らませていきますのね」
前の人生の記憶が、うっすらと胸をかすめる。
「前の人生で広まったのは――
“王子の婚約者にふさわしくない公爵令嬢”という物語」
婚約破棄の場で背を向けられたこと。
そのあと、彼女の知らない場所で「悪役」として語られ続けたこと。
喉の奥がひやりとする感覚は、今も完全には消えていない。
「今、少しずつささやかれているのは――
“庶民のために動いているらしい、よくわからない令嬢”という物語」
裏門でパンを配った日。
図書室で特待生と並んで勉強したこと。
焦げた焼き菓子を、自分で最後まで食べた夜。
そのどれもが、断片的に切り取られて、誰かの口から誰かの耳へと渡っていく。
リリアンヌは、胸の前でそっと手を組んだ。
祈りではなく、自分の心を確かめるための仕草として。
「どちらも――わたくしの全部ではございませんわ」
夕陽が、彼女の横顔を金色に縁取る。
「噂がわたくしを讃えようと、けなそうと」
「最後に“自分で自分をどう名づけるか”を決めるのは、きっとわたくし自身」
誰かに「悪役」と呼ばれても。
誰かに「聖女様みたい」と持ち上げられても。
そのどちらの名札も、そっと指先で外して机の端に置いておくような、そんな感覚。
ふいに、森の夜の記憶がよぎる。
星の少ない空の下で聞いた、柔らかな声。
『噂は風です。
でも、どこへ歩いていくかを決めるのは、“風見鶏”ではなく――そこに立つ貴女ですよ』
あのとき、本当に彼がそう言ったのか。
それとも、今の自分が勝手に付け足した言葉なのか。
もう定かではない。
けれど、その曖昧ささえ、今は心地よく思えた。
リリアンヌは、窓の外の空を見上げながら、小さく微笑む。
「今度こそ――噂に押し流される物語ではなく」
「噂の“波”の上を歩いていく物語を、選んでみせますわ」
階下から、誰かが笑う声が立ち上ってくる。
それが自分の名を含んでいるのかどうか、確かめようとはしない。
ただ、風向きだけを肌で感じる。
冷たさは、あの日より和らいでいる。
頬をなでる空気は、ほんの少しだけ、背中を押すように温かかった。
(噂が、今度はわたくしを讃えようとしているのだとしても――)
リリアンヌは、静かに目を細める。
(その波に浮かんだまま、うっとりと身を任せてしまえば、きっとまた同じことになる)
だからこそ、足元を見て、一歩ずつ、自分の意思で踏み出す。
「わたくしは、噂に救われるつもりはございませんわ」
「ただ――噂に負けないくらい、小さな行動を重ねていくだけ」
そう呟いて、踊り場の石段を一段下りる。
窓から差し込む光が、その足元を照らした。
遠く、学園の塔の向こうに沈みかけた陽が、最後のきらめきを放つ。
いつかまた、噂の風向きが変わる日が来るのかもしれない。
讃える声が、突然手の平を返したように冷たくなることだってあるだろう。
それでも――。
(今のわたくしには、パンを分け合う手があり、勉強を共にする仲間がいて)
(失敗の味を知っている、自分自身の舌がありますもの)
その確かさがあれば、風がどう吹こうと、もう完全には折れない。
踊り場を離れながら、リリアンヌは心の中で、そっと言葉を結んだ。
(噂が再びわたくしの名を運ぶとき――
わたくしはもう、その波に飲み込まれるだけの少女ではありませんわ)
自分で選んだ言葉と、小さな行動を重ねながら。
風向きさえも、少しずつ変えていく“物語の担い手”として。
夕刻の光の中、その決意だけが、静かに彼女の背筋を支えていた。




