王子の戸惑い ―― 「君は、昔と違うね」
朝の光が、まだ柔らかい角度で庭園に差し込んでいた。
石畳の小径の両脇には、露を含んだ花々。噴水の水音と、まだ本格的には騒がしくなっていない学園のざわめきが、遠くでまじり合っている。
リリアンヌは、中庭の一角のベンチに腰掛けていた。膝の上には、一冊のノート。
――領地の救済策メモ
――配給案(仮)
丁寧な字で書かれた見出しが、朝の光を受けて薄く反射する。ページのあちこちに、小さな書き込みと矢印が飛び交っていた。
(昼の配給を増やすなら、厨房の人手を……。いえ、曜日ごとに分ければ――)
ふと、ノートの余白に、“エミリアの意見を聞く”と小さく書き足す。そこまでしてようやく、少し息を吐いたその時。
「……殿下がお通りですわ!」
「道を――」
庭園の端のほうで、小さなざわめきが起こる。空気が、すっと一段引き締まった。
歩いていた生徒たちが自然と道の端に寄り、スカートの裾や制服の裾を整えて、進路を開ける。
聞き慣れた気配に、リリアンヌもノートをそっと閉じ、立ち上がった。
視線を上げると、朝の光を背にした青年が、側近たちを従えて庭園を横切ってくる。
金の髪は夏の陽よりも淡く、整えられた横顔は、これまで幾度となく「理想の王子」として絵に描かれてきた顔。その中心にいるのが、第二王子アルベルトだった。
彼が通り過ぎるたび、周囲の令嬢たちの頬がわずかに紅くなる。「殿下……」という囁きが、花の香りのようにそこかしこで揺れた。
リリアンヌは、石畳から半歩下がり、スカートの両端をつまむ。
「アルベルト殿下。ご機嫌麗しゅうございます」
背筋を伸ばし、淀みない所作で礼を取る。
それは、何度も繰り返してきた“正解の挨拶”。
――かつての人生でも、何百回と行った儀式のような動き。
(この姿勢、この角度。この距離。
前のわたくしは、そこにばかり気を配っていたのですわね)
冷静なもう一人の自分が、内心で淡く笑う。
いつものように、このまま殿下は軽く頷き、いくつかの社交辞令を交わして通り過ぎていく――そのはずだった。
けれど、今日は違っていた。
アルベルトの視線が、ふとリリアンヌの手元に落ちる。
彼女の指先がまだ、先ほどまで開いていたノートの端をかすかに押さえているのに気づいたのだろう。何気ない一瞥のはずが、その目がわずかに細められる。
表紙の隅から、インクの文字が覗いていた。
――領地の救済策メモ
――配給案
舞踏会の流行色でも、宮廷音楽家の名でもなく。
高位貴族の系譜でも、茶葉の銘柄でもない言葉たち。
アルベルトは一瞬だけまばたきをし、それから口を開いた。
「……おはよう、リリアンヌ」
「殿下も、よき朝をお迎えのようで、何よりでございますわ」
リリアンヌは、いつもの調子で微笑みを返す。だが王子は、そこで会話を切らなかった。
「ずいぶんと、真剣な顔をしているね」
彼は、ノートから彼女の表情へと視線を戻す。
「舞踏会の衣装の相談……という雰囲気でもなさそうだ」
その声音には、からかい半分、興味半分――かすかな探りが混ざっていた。
近くの花壇のそばにいた令嬢たちが、ぴくりと肩を揺らす。
(殿下が……リリアンヌ様に世間話を?)
(いつもの“お茶会の話題”が始まるのかしら)
期待と羨望のまなざしが、一斉にこの小さな一角に集まるのを、リリアンヌは横目で感じ取る。
――前の人生なら、ここで迷わず、あの台詞を口にしていた。
『ええ、殿下。次の舞踏会で、殿下のお側にふさわしい色を、侍女と相談しておりましたの』
そう答えれば、殿下は「君は本当に準備がいいね」と笑ってくれる。
周囲は、「やはりリリアンヌ様こそ婚約者にふさわしい」と囁いてくれる。
それが、用意された“正解”。
けれど、リリアンヌの指先は、さっき閉じたばかりのノートの感触を、まだはっきりと覚えていた。
領地。裏門。パンを待つ人々の顔。
エミリアと図書室で交わした、小さな作戦会議の声。
胸の奥で、その記憶がゆっくりと重なり合う。
(……もう、“噂のための正解”だけを選ぶのは、やめましょう)
そう決めた自分を、裏切りたくなかった。
リリアンヌは、一拍だけ小さく息を吸い、柔らかく首を傾げる。
「殿下がお見立てくださる衣装なら、きっとどれも素敵でしょうけれど――」
ほんの少しだけ、言葉を外す。
「今朝は、そのお話ではございませんの」
アルベルトの青い瞳が、意外そうに瞬く。
「では……何か、難しい課題かい?」
「領地のことを、少しだけ考えておりましたの」
リリアンヌは、そっとノートを胸もとに抱き直す。
「パンの配り方と……余った分ではなく、最初から“分けるために焼く”方法を」
庭園の空気が、わずかに揺れた。
花壇の陰で様子を窺っていた令嬢たちの笑みが、きゅっと固くなる。
(パン……?)
(いつものリリアンヌ様と、少し話題が違うような……)
王子は、しばらくその言葉を飲み込むかのように沈黙した。
朝の光の中で、彼の表情に、ほんのわずかな戸惑いの影が差す。
――形式張った挨拶で終わるはずだった数秒が、静かに別の方向へとずれ始めていた。
わずかに風が出てきて、庭園の木々の葉がさらりと鳴った。
アルベルトは、腕を組むでもなく、肩に力の入っていない「余裕ある王子」の立ち姿のまま、いつもの調子で口を開く。
「そうだ、リリアンヌ」
呼びかけに応じて、リリアンヌは自然に視線を上げる。
「最近、宮廷で新しい茶葉が流行っているそうだけれど……君も、もう試したかい?」
さらりと言ったその言葉には、彼自身も気づいていない「いつものパターン」が染み込んでいた。
宮廷の流行――
茶葉――
「君なら、もう押さえているだろう?」という、半ば確信めいた期待。
かつてのリリアンヌなら、淀みなく続けていただろう。
『もちろんでございますわ、殿下。
殿下のお好みにも合うかと存じますの』
そう応じれば、会話は「どの茶葉が合うか」「次の夜会で出される銘柄は」へと流れていく。
周囲の令嬢たちは、「さすがリリアンヌ様」とさらに囁きを強める。
――決まりきった道筋。
噂にとって都合のいい、“公爵令嬢リリアンヌ像”。
けれど今、その台本は、彼女の手の中にはもうない。
リリアンヌは、一瞬だけ言葉を探すようにまばたきをし、それから小さく首を横に振った。
「いえ、まだですの」
アルベルトの眉が、ごくわずかに動く。
「……そうなのかい?」
「ええ」
彼女は、自分でも少し不思議に思いながら、口元にだけ淡い笑みを浮かべる。
「最近は、茶葉よりも――街でいただいたパンのことを、よく考えておりますので」
王子の表情が、はっきりと止まった。
「……パン?」
その一語に込められた戸惑いは、周囲の生徒たちの耳にも届いたらしく、花壇の陰で聞き耳を立てていた令嬢がそっと顔を見合わせる。
(パン……? 紅茶ではなくて?)
(今まで、殿下とリリアンヌ様の会話といえば、いつも宮廷のことでしたのに)
リリアンヌは、その視線を正面から受け止めることはしない。ただ、目の前の青年だけを見るようにして、静かに言葉を継いだ。
「はい。紅茶よりも、今はそちらのほうが気になっておりまして」
膝の前でそっと抱え直したノートの感触が、握った指先に確かさをくれる。
「領地で、余ったパンを分けるだけではなく、最初から“配る分”を焼いてみることにしたのです」
「……配る分を、最初から?」
アルベルトは、すぐにはその意味を掴みかねたように、言葉を反芻する。
彼にとって「パン」と言えば、朝食の一品にすぎない。軽い会話の中でわざわざ話題にするようなものではなかった。
ましてや、婚約候補として育てられた公爵令嬢と話をする時に。
「それは……慈善、ということかい?」
ようやく見つけた言葉を、彼は慎重に選ぶように口にした。
「施しのようなもの、かな」
“上から与える善意”。
王族として、時折儀礼的に行う「慈善活動」と同じカテゴリーに、彼はとりあえず置こうとする。
リリアンヌは、その言い方に否定はしない。ただ、少しだけ視線を伏せ、裏門で見た光景を思い返す。
朝の配膳室で見た、余ったパンの籠。
裏門で、それを受け取っていた少年の、ほっとした表情。
皺だらけの手でパンを受け取り、「今日も助かるよ」と頭を下げた老女の声。
胸の奥で、そのひとつひとつが、紅茶の香りよりも強く蘇る。
「“慈善”と呼べるほど、立派なものではございませんわ」
彼女は穏やかに首を振る。
「ただ、わたくしが“美味しい”と感動したパンを――」
言葉を探し、いったんそこで区切る。
アルベルトの視線が、彼女の横顔に静かに注がれる。
「“助かった”と受け取ってくださる方がいらっしゃるのだと知りまして」
朝露を含んだ空気の中、その一文だけが、やけに重く響いた。
王子の喉が、小さく動く。
「……助かった、か」
彼の世界では、「美味しい」かどうかは食卓の話題になっても、「助かった」かどうかが問題にされることは少ない。
余るほど並ぶ料理。
食べきれないほどの菓子。
そこに「飢え」と結びついた実感は、ほとんど存在しない。
「余ったものを回すだけでなく、最初から“その方々のために”分を用意するのは――」
リリアンヌは、言葉を選びながら続ける。
「殿下のお言葉をお借りするなら、少しだけ“施し”ではなく、“約束”に近づけるのかもしれませんわ」
「約束?」
「ええ。たとえ小さなものでも、“今日ここに来れば、必ずひとつはパンがある”と知っていただければ……」
彼女は、右手の指先をそっと握る。
「それだけで、明日を少しだけ“待てる”人がいるかもしれません」
庭園の噴水の音が、二人の間を静かに流れていく。
アルベルトは、その水音を聞きながら、リリアンヌの言葉を噛みしめるように沈黙した。
彼の頭の中には、今も強固な「リリアンヌ像」がある。
――社交の花。
――宮廷の流行に敏く、完璧なマナーで殿下を立てる、公爵令嬢。
噂が形作った、便利で、扱いやすい「婚約候補」。
パン。
裏門。
“助かった”と受け取る人々。
約束としての配給。
そのどれもが、これまでのイメージからは大きくはみ出していた。
(……君は、そんなことを考える人だったか?)
喉の奥まで上がってきた問いを、その場で言葉にすることはない。
けれど、彼の瞳の奥に浮かんだ微かな揺らぎが、それを雄弁に物語っていた。
リリアンヌは、その揺らぎを、真正面から見ることはしない。ただ、穏やかな微笑みを保ちながら、ほんの少しだけ視線を和らげる。
(殿下の中の“わたくし像”が、今、きっと少しだけ軋んでいる)
(前なら、その軋みを怖れて、慌てて「いつもの公爵令嬢」に戻ろうとしたでしょうね)
だが、胸の奥に忍ばせた粗い布のハンカチの感触が、静かに背中を支えていた。
(今は――このズレを、ちゃんと受け止めてみたいのです)
噂と違う話題を口にしたこと。
王子の期待していた“型”を外したこと。
その小さな一歩が、確かに何かを変え始めている。
アルベルトは、やがて短く息を吐き、形ばかりの微笑ではない、少し探るような笑みを浮かべた。
「……君は、ずいぶんと、難しい朝の話題を選ぶようになったね」
「申し訳ございませんわ、殿下。紅茶の香りではなく、パンの焼ける匂いで朝を考えてしまうものですから」
軽い冗談めかした言葉に、彼は小さく肩をすくめる。
「いや……悪くはない。少なくとも、“どの茶葉が流行か”よりは、ずっと目が覚める話だ」
それは、たしかに褒め言葉の形をしていた。
ただ、その裏側に――
「君は、昔と違うね」と言いかけた言葉の、まだ言語化されていない重さが、静かに沈んでいた。
庭園を離れ、石畳の小道を抜けていくうちに、側近たちの報告の声は耳に入っていても、内容はほとんど頭を滑り落ちていった。
(……パン、ね)
アルベルトは、何気ない歩幅を崩さないように気をつけながら、内心で苦笑した。
(紅茶の銘柄でも、舞踏会の招待状の話でもなく、裏門で配るパンの話とは)
さっきベンチに座っていた彼女の姿が、脳裏に浮かぶ。
膝の上に開いていたのは、舞踏会のメモでも、新作ドレスのデッサンでもない。
「領地の救済策」「配給案」――そんな文字が、ちらりと見えた。
(……昔のリリアンヌなら、ありえなかったな)
彼は、ふと視線を空に上げる。
穏やかな青。どこまでも整った、絵に描いたような空だ。
――かつての彼にとっての、リリアンヌのように。
思い出すのは、数年前の舞踏会の光景だ。
煌びやかなシャンデリアの下、白いドレスの裾を滑らせて、完璧な角度で一礼する少女。
誘えば、常に教本どおりのステップで踊り、どんな話題を振っても、微笑みとともに「正しい答え」を返してきた。
『殿下のお耳に心地よい音楽が、わたくしの好みでもありますわ』
『殿下がお気に召されるのでしたら、きっと素敵な本に違いありませんわ』
彼女に好きな音楽を尋ねても――
好きな本を尋ねても――
返ってくるのはいつも、「自分に寄せた答え」だった。
(……あの頃の彼女は、まるで、答えの決まった問題集のようだった)
複雑な問題でも、正解欄を開けば、必ずそこに模範解答が載っている。
安心で、便利で、間違いがない。
婚約候補としては、これ以上ないほど「扱いやすい」令嬢。
正直に言えば――少し、退屈でもあった。
舞踏会の度に、似たような褒め言葉をいくつ並べても、彼女は同じような笑みで受け止める。
その笑みが本心かどうか、考えたことすらなかった。
(“王子妃としてふさわしい令嬢”という枠から、一歩もはみ出さない――そういう印象だった)
リリアンヌ本人に「何が好きか」を尋ねたときさえ、彼女は必ず、王家の趣味と重なるものを挙げた。
宮廷で流行の音楽。
王族も愛飲していると噂の茶葉。
王家が寄付している慈善団体の活動報告書。
どれも、アルベルトにとって「不愉快ではない」話題ではあったが――
(……あれは、彼女自身の好みだったのか?)
今になって、ふと疑問が胸を刺す。
少なくとも、そのときの彼は、「自分に合わせてくれているのだ」と都合よく解釈していた。
自分のために話題を揃え、自分のために笑い、自分のために完璧であろうとする少女。
それは誇らしくもあり、「王子としての自分」を肯定してくれる存在でもあった。
(だから、深く考えなかった)
その笑顔の向こうに、本音が隠れているかもしれないことも。
彼女が、どこかで息苦しさを覚えていたかもしれないことも。
今日――
「紅茶ではなく、パンのことを考えている」と言った彼女は、その「問題集」には載っていない答えを出してきた。
裏門に集まる、名前も知らない人々の顔。
余ったパンではなく、最初から「約束として」焼く分。
“美味しい”と感じた自分と、“助かった”と受け取る誰かの存在が、一本の線で結ばれている。
(……いつからだ?)
アルベルトは、歩調を崩さないまま、心の中で問いかける。
(彼女が、そんな話をするようになったのは)
きっかけに心当たりはない。
誰かが入れ知恵したとも思えない。
少なくとも、王宮でそういう話題が持ち上がった記憶はない。
ただ――
彼の知らない場所で、彼の知らない相手と、彼女は何かを見て、何かを食べて、何かを考え始めたのだろう。
粗い布のハンカチの感触。
街のパン屋の香り。
裏門で、パンを受け取る人々の手の温度。
アルベルトはそれらを知らない。
知らないまま、「昔のリリアンヌ像」を握りしめている。
(“公爵令嬢リリアンヌ”という名札の後ろに、本当はどんな顔が隠れていた?)
(それを見ようともせずに、“理想的な婚約者候補”だと、決めつけていたのは――他ならぬ、この俺だ)
胸の奥が、わずかにきしむ。
彼が知っているリリアンヌは、いつも完璧で、いつも正しい。
だが、今日庭園で見た少女は――
余ったパンの行方を考え、裏門で待つ人々のことを案じ、王子に向かって、自分の言葉で話していた。
(……昔と違う)
認めたくない変化ではない。
むしろ、その違いに、妙な引っかかりと同時に、目が離せない感情が混じっている。
(違う、けれど――どちらが“本当”のリリアンヌなんだろうな)
答えはまだ出ない。
だが、ひとつだけ確かなのは――
もはや彼は、「答えの決まった問題集」のような彼女だけを、求めているわけではないのだ、ということだった。
アルベルトは、講義棟へ向かう回廊を、側近たちとともに歩いていた。
磨かれた大理石の床に、朝の光が淡く反射する。
窓の外には、芝生と花壇の緑が並び、いかにも「王立学園らしい」整った風景が続いている。
そんな静かな通路に――
ひそひそとした、しかし耳に残る声が滑り込んできた。
「……聞いた? リリアンヌ様、あの特待生の子を庇ったって」
「“身分だけで人を測りたくない”っておっしゃったんですって」
「“公爵令嬢なのに、あの特待生より勉強していないと噂される方が怖い”とまで……」
アルベルトは、足を止めはしなかった。
王子として、廊下の噂話に反応して顔を向けるわけにはいかない――それは、幼い頃から叩き込まれた習慣だ。
だが、耳だけは、はっきりとその言葉を掴んで離さない。
(……身分だけで人を測りたくない、だと?)
側近の一人が、次の行き先を報告している声が、遠くなる。
(リリアンヌが、そんなことを言うとは)
記憶の中の彼女は、いつも「身分」や「格式」を、人一倍大切にしていた。
舞踏会でのペアの順番。
席次表の並び。
誰が王家にどれほど忠誠を尽くしている家柄か。
そのどれもを完璧に把握し、「殿下が失礼と見なされないように」さりげなく助言するのは、他ならぬリリアンヌだった。
『あの方は、先代陛下のご縁者にあたられますわ。ご挨拶の順番を少し前に』
『こちらの子爵家は、陛下が最近ご関心を寄せておいでの改革案に反対のお立場ですの。言葉選びには、どうかお気をつけくださいませ』
彼女は、いつでも「身分」や「立場」の話を冷静に扱っていた。
そこに迷いは見えず、むしろ誇りすら滲んでいたように思う。
(そんな彼女が、“身分だけで人を測りたくない”――)
噂の中の一文が、何度も頭の中で反芻される。
もし誇張や尾ひれがついているとしても――
少なくとも、そう誤解されるような言い方を、彼女がしたのは事実なのだろう。
(……以前のリリアンヌなら、そう誤解されるようなことは、決して口にしなかった)
王子妃候補として、「不用意な言葉」がどれほど重く扱われるかを、誰よりも理解していた少女だ。
だからこそ、彼女はいつも「安全な正解」だけを選んでいた。
『身分には、それにふさわしい振る舞いがございますわ』
『殿下の周りに相応しくない者が近づけば、周囲がざわめきますもの』
そう言って、「王子の素行」さえさりげなく諌めたこともある。
そのリリアンヌが――
今は、特待生と呼ばれる庶民上がりの少女を庇い、噂の矛先をそらそうとしている。
廊下の角を曲がるとき、アルベルトは、ほんの一瞬だけ視線を横に流した。
先ほど、噂を囁いていた令嬢たちの姿が見える。
こちらに気づいた彼女たちは、慌てて本を抱きしめ、顔を伏せるように一礼した。
彼は何事もなかったように歩みを進める――が、その胸の内は、静かではいられない。
(特待生を庇う、か)
数日前、教師から聞いた報告が頭をよぎる。
「リリアンヌ様が、試験後の講評で、特待生のノートを高く評価なさっていたようです」と。
そのときアルベルトは、「勉学の場で優秀な者を称えるのは、公爵令嬢として当然だ」と受け流した。
だが、さっき耳にした噂は、それだけではないニュアンスを含んでいる。
『“公爵令嬢なのに、あの特待生より勉強していないと噂される方が怖い”』
(……そんな、冗談めいたことまで言ったのか?)
リリアンヌの口から、自分を下げるような言葉が出ること自体、珍しい。
以前の彼女なら、「公爵令嬢である自分の格」を下げる可能性のある冗談は、決して選ばなかったはずだ。
それは、彼女のプライドのためでもあり、王子である自分の周囲が軽く見られぬようにするためでもある――と、アルベルトは理解していた。
(身分を誇りにしていた娘が、“身分以外のもの”を、今は大事にし始めている……)
庭園で聞いた「パン」と「裏門の人々」の話。
今日耳にした、「身分だけで人を測りたくない」という噂。
それらが、一本の糸でつながっていく。
(……やはり、変わったんだな)
ただ「変わった」と言うだけでは、もはや足りない。
彼女の中で、何かの優先順位が入れ替わっている。
王家の意向や社交界の流行ではなく、「彼女自身が見て、考えたこと」が、言葉として表に出始めている。
歩きながら、アルベルトは無意識に、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せた。
(その変化を――俺は、どれだけ知っている?)
かつては、誰よりも近くで見ているつもりだった少女。
王子妃候補として、「一番よくわかっている」と思っていた相手。
けれど、今、彼女の変化を教えてくれるのは、こうして廊下に流れる噂話だ。
(……領地の裏門で、どんな顔でパンを渡しているのかも)
(特待生のノートを見て、どんなふうに笑ったのかも)
彼は知らない。
知らないまま、「昔のリリアンヌ像」を基準にして、彼女を測ろうとしている。
胸の奥が、わずかにざわついた。
(噂がすべてとは限らない。誇張も、勘違いもあるだろう)
それでも――
(少なくとも、今の彼女は、「誤解されるかもしれない言葉」を選ぶことを、恐れなくなりつつある)
昔なら、決して口にしなかったはずの言い方を、敢えて選んでいる。
それが、誰かを庇うためなのか。
自分自身のためなのか。
それとも、もっと別の理由なのか。
アルベルトには、まだわからない。
ただ、ひとつだけ、はっきりしている。
(“昔と同じだ”と、安易に決めつけているのは――)
彼は、胸の内で小さく息を吐いた。
(……誰よりも、この俺なのかもしれないな)
足音は、相変わらず一定のリズムで、廊下に響き続ける。
しかし彼の耳は、もう一度あの噂の断片を反すうしていた。
――身分だけで人を測りたくない。
その言葉を口にした少女の、今の横顔を、真正面から見たいという衝動が、静かに生まれ始めていた。
昼下がりの中庭には、淡い日差しが降りていた。
石畳の小径の先、噴水のそばのベンチには、開きっぱなしのノートと数冊の本――そして、その持ち主であるリリアンヌの姿があった。
つい先ほどまで、ここでエミリアと並んで勉強の相談をしていた。
彼女が慌ただしく教室へ戻っていったあと、中庭にはふっと静けさが戻る。
リリアンヌは、膝の上のノートをぱたんと閉じた。
表紙には、端正な文字で「配給案」「領地メモ」と書かれた紙が差し込まれている。
そのとき――
「……リリアンヌ」
名を呼ぶ声に、彼女は顔を上げた。
石畳の向こうから、アルベルトが歩いてくる。
いつもなら数歩後ろに控えるはずの側近たちは、今日は少し離れた位置で足を止めていた。
あからさまにはしないものの、「殿下が“二人で話したい”と望んでいる」ことが、空気で伝わってくる。
リリアンヌはベンチから立ち上がり、スカートの裾を整え、礼を取った。
「殿下。ごきげんよう」
「うん、ごきげんよう」
形式的な挨拶は、互いに慣れたものだ。
ただ、そこから先に続く言葉を探して、アルベルトが一瞬だけ視線を迷わせた。
その目が、ベンチの端のノートへと向かう――が、今日はそれを話題にしない。
代わりに、さっき中庭から見えていた光景の方を、口に出した。
「さっき、教室で少し話していただろう。特待生の少女と」
リリアンヌは瞬きし、それから、素直に頷く。
「エミリアのことでしょうか。とても優秀な方ですわ」
名前をすらりと口にする様子に、「もう何度も言葉を交わしているのだろう」とわかる親しさが滲む。
アルベルトは、わずかに間を置いた。
(……名まで覚えているのか。いや、それは当然なのかもしれないが)
王子として、彼は「特待生」という制度の存在は知っている。
しかし、個々の名前と顔までは把握していない。
そこに、少しだけ「置いていかれている」ような感覚が生まれた。
その違和感をごまかすように、彼は「常識的な」切り口から話題を振る。
「公爵令嬢が、庶民の特待生と親しくしているのは……」
いつもの調子で、口が自然と動く。
「周囲から見れば、少し珍しいことかもしれないね」
それは咎めではなく、「わかっているだろう?」という、穏やかな確認のつもりだった。
以前のリリアンヌなら、そこで微笑み、こう返しただろう。
――殿下のおっしゃる通りでございますわ、と。
しかし、今目の前にいる彼女は、「察して合わせる笑顔」ではなく、真っ直ぐな視線で王子を見上げた。
「そうですわね。珍しいと映るかもしれません」
そこまでは、まだ想定の範囲内だった。
だが、その次の一言で、アルベルトの予測は簡単に外れる。
「でも――“珍しいからやめる”理由には、ならないと思っておりますの」
淡々とした口調。
けれど、柔らかい瞳の奥には、はっきりとした芯がある。
アルベルトは、思わず言葉を飲みこんだ。
(……“やめる理由にはならない”?)
彼女が、真っ向から否定しているわけではないのはわかる。
けれど、「周囲の目」を示唆した自分の言葉を、さらりと越えていくような答えだった。
「珍しいもの」は、学園ではすぐ噂になる。
噂は、ときに王家や公爵家の威信にも影を落とす。
だからこそ、彼は“注意喚起”のつもりで口にしたのだが――リリアンヌは、そこに頷きながらも、踏み留まることを選ばなかった。
沈黙が、ほんの数拍、二人の間に落ちる。
その静けさを埋めるように、アルベルトは別の方向から会話を繋ごうとした。
「……君は、昔から、誰よりも完璧な礼儀作法を身につけている」
それは、今まで何度も口にしてきた“褒め言葉”だった。
舞踏会の後、
公式行事のたび、
客人の前で見事に立ち回った彼女に、ほとんど決まり文句のように告げてきた言葉。
「どんな場でも、語彙も仕草も乱さない。王家として、安心して隣に立っていられる」
褒めているつもりだった。
これまで、彼女はその言葉に、決まって同じ微笑みを返していた。
『身に余るお言葉でございますわ、殿下』
それが、二人の間で長く続いてきた“正解の応答”だった。
だが、今日は――
「ありがとうございます」
リリアンヌは、礼儀正しくそう言いながらも、どこか困ったように口元をゆるめた。
笑っているのに、目の奥に、少しだけ「くすぐったさ」と「居心地の悪さ」が混じる。
それは、以前の「完璧な微笑み」とは、似て非なる表情だった。
「ですが最近は、“完璧さ”よりも――」
そこで一度言葉を選び、彼女は続ける。
「“誰かの役に立てるかどうか”のほうが気になっております」
中庭を渡る風が、二人の間をすり抜けていく。
アルベルトは、それを追うようにまばたきをした。
(……“完璧さ”よりも、“誰かの役に立てるかどうか”)
自分が褒めたものより、彼女が今大事にしているものの方が、少しだけ遠くにある――
そんな感覚が、胸の内にじわりと広がる。
「そう、なのか」
言いながら、アルベルトは自分の声が、思ったよりも低く響いたことに気づいた。
リリアンヌは、彼の反応をうかがうように一瞬だけ視線を動かし、それから穏やかに頷く。
「はい。もちろん、礼儀を疎かにするつもりはございませんわ」
「けれど、裏門でパンをお渡しするときや、特待生の方々と机を並べていると……」
彼女は、自分の胸元にそっと手を置いた。
「“失敗しないこと”より、“誰かが少しでも楽になるほう”が、今のわたくしには大事に思えてしまうのです」
その言葉は、謙遜でも、王子の機嫌を取るための飾りでもない。
ただ、自分の感じていることを、そのまま差し出したような響きがあった。
アルベルトは、返すべき台詞を探して、心の中の棚を慌ててひっくり返した。
(……褒めたつもりだったのに、うまく届かなかった気がする)
以前なら、「完璧だ」と言っておけば、それで十分な誉め言葉になった。
そう思い込んできた。
だが、今の彼女は、「完璧であること」だけを欲してはいない。
(いや、届かなかったのではなく――)
思考が、静かに修正されていく。
(彼女の“本当にほしい言葉”が、以前と変わってしまったのか)
――パンを配る、という話。
――特待生を庇う、という噂。
そして今、自分の前で語られる、「誰かの役に立ちたい」という本音。
それらが重なって、目の前の少女の輪郭が、少しずつ描き直されていく。
「殿下?」
黙り込んだ彼を気遣うように、リリアンヌが首をかしげる。
アルベルトは、はっと我に返り、形ばかりの微笑みを浮かべた。
「ああ……いや。驚いただけだ」
「驚き、でございますか?」
「君が、そういうふうに、自分の考えを――はっきり言うのを、あまり見たことがなかったから」
正直に告げると、リリアンヌは目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「そう、かもしれませんわね」
どこか自嘲めいた、けれど晴れやかな笑みだった。
「以前のわたくしは、“殿下ががっかりなさらない答え”ばかり探しておりましたから」
その一言に、アルベルトの胸が、きゅ、と痛む。
自分が、どれほど「答えの決まった会話」に彼女を閉じ込めてきたかを、突きつけられたような気がした。
何か言い返そうとして――結局、彼は言葉を飲み込む。
「……そうか」
それしか出てこない自分に、無力感すら覚える。
沈黙を破ったのは、校舎の方から響くチャイムの音だった。
次の授業の開始を告げる澄んだ鐘の音が、中庭にまで届く。
「そろそろ、講義のお時間ですわね」
リリアンヌは、ベンチからノートを取り上げ、軽く抱きしめた。
「お話できて、光栄でしたわ。失礼いたします、殿下」
礼儀正しい言葉。
けれど、その足取りには、以前よりも迷いがない。
アルベルトの前を通り過ぎるとき、ふとノートの端の文字が目に入った。
――「配給の時間帯」「固いパン/柔らかいパン」
彼女は、紅茶の銘柄ではなく、そんな言葉をノートに書き付けている。
遠ざかっていく背中を見送りながら、アルベルトは、ゆっくりと息を吐いた。
(……俺は、まだ“昔のリリアンヌ”に、言葉をかけようとしていたのかもしれない)
完璧さを誉めれば喜ぶと思っていた。
社交の話を振れば、いつもの笑顔で応じてくれると思っていた。
けれど、今彼女が欲しているのは――
きっとそれだけではない。
中庭の風が、さっきより少し冷たく感じられた。
(君は、昔と違う)
さっきまで言葉にするのをためらっていた実感が、ようやく、胸の内で形になる。
(……その“違い”を、俺はどこまで知ろうとしている?)
チャイムの余韻が消えるころ、アルベルトもまた踵を返した。
彼の歩調は、王子としてふさわしい一定の速さのままだったが――
心の奥では、先ほどの会話の一つひとつが、いつまでも、答えの出ない問いとして反響し続けていた。
庭園を渡る風が、ふたりの間をさらりと撫でていった。
噴水の水音と、遠くの校舎から聞こえるざわめきだけが、かすかに耳に届く。
会話が、ふっと途切れる。
アルベルトは、手持ち無沙汰になったわけではなかった。
ただ、さっきから胸の内で形になりかけてはほどける言葉を、どうにか掬い上げようとしていた。
視線を上げると、リリアンヌが静かにこちらを見ている。
かつて舞踏会で見慣れていた、完璧に整った微笑みではない。
どこか、相手の反応をちゃんと受け止めようとする、素のまなざしだ。
(……いつからだろう)
胸の奥の違和感に輪郭を与えるように、アルベルトは口を開いた。
「……君は、本当に、変わったね」
言ってしまってから、「これは王子の台詞として適切だったか」と一瞬だけ迷う。
だが、もう遅い。
音になった言葉は、庭園の空気の中に溶け出している。
リリアンヌはわずかに目を瞬かせ――すぐに、ふわりと微笑んだ。
「そう見えますか、殿下」
問い返しながらも、その声には怯えも虚勢もない。
自分の変化を、誰かに見られることを、もう怖れてはいないような響きだった。
彼女は、胸の前でそっと指を組む。
「きっと――“ようやく、わたくし自身になり始めた”だけなのだと思いますわ」
「……わたくし自身に」
アルベルトは、その言い回しを心の中でなぞる。
(“本当の彼女”……? では、今までのリリアンヌは、何だったのだろう)
完璧な礼儀。
王子の趣味に合わせられる柔軟さ。
王家の傍らに立つのにふさわしい、一切の隙のない「公爵令嬢」。
それらを、彼は「彼女自身」だと信じて疑わなかった。
むしろ、そういう“完成された姿”を求めてきた自覚もある。
だからこそ――今、目の前でパンや慈善や特待生の話をしている少女が、「本物なのだ」と言われると、足場を崩されたような感覚に襲われる。
喉の奥に、別の言葉がからまった。
普段なら飲み込んでしまうそれを、今日はどういうわけか押さえきれない。
「……正直に言おう」
自分でも驚くほど、率直な前置きだった。
「少し――君が、わからなくなっている」
リリアンヌの瞳が、かすかに揺れる。
だが、それは傷ついた色ではなかった。
むしろ、何かを確かめて安堵したような、やわらかな光が宿る。
彼女は肩の力を、ほんの少し抜いた。
「“よくわからない”と仰っていただけるなら、上等でございますわ」
思いがけない返答に、アルベルトは思わず聞き返す。
「上等……?」
リリアンヌは、くすりと喉の奥で笑った。
かつて見せたことのない、年相応の、少し悪戯っぽい笑みだ。
「ええ」
言葉を一つひとつ選びながら、彼女は続ける。
「わたくしを“噂どおりの令嬢”だと決めつけるより――」
そこで一度、アルベルトと目を合わせる。
「“わからないから、これから知っていく”と思っていただけるほうが、ずっと嬉しゅうございますもの」
庭園の空気が、すこしだけあたたかくなったように感じた。
(……これから、知っていく)
その言い回しは、「今まで知らなかった」と告げるのと同じくらい、王子の胸に刺さる。
これまで自分は、彼女の何を見ていたのか。
完璧さと、期待どおりの答えだけを、「リリアンヌ」という人物だと錯覚していたのではないか。
言い返す言葉を探して、アルベルトは口を開きかけ――結局、閉じた。
下手な慰めや、軽い冗談で、この瞬間を安くしたくなかった。
代わりに、ほんの少しだけ視線をそらし、息を整える。
「……君は、本当に、昔と違う」
先ほどの言葉を、今度は自覚的に、もう一度口にする。
リリアンヌは、その繰り返しを否定もしないし、誇るような素振りも見せない。
ただ、静かに頷いた。
「殿下も、いつか“今のわたくし”を、お嫌いになりませんように」
冗談めかして言いながらも、その瞳には、ほんの少しの不安と、本気の願いが揺れている。
アルベルトは、その揺らぎから目をそらせなかった。
(……嫌い、か)
即座に「そんなことはない」と言い切るには、彼の中の戸惑いはまだ大きすぎる。
けれど、「昔のままの君でいてほしい」とも、もう簡単には言えない。
胸の奥に溜まった言葉は、結局、短く削られてこうなった。
「わからなくなっている、というのは――」
言いながら、彼は自分の手を見下ろす。
王子として鍛えられた、癖のない指先。
「君を、もう一度知り直したほうがいいのだろう、という意味でもある」
それが、今の彼に絞り出せる、精一杯の本音だった。
リリアンヌの目が、ほんのわずか大きくなる。
次の瞬間、彼女はふっと表情を綻ばせた。
「……でしたら、やはり上等でございますわ」
その笑みは、氷の仮面ではなく。
噂が塗り固めた「公爵令嬢」の顔でもなく。
アルベルトの知らなかった、けれど、たしかにここにいる――ひとりの少女の素顔だった。
王子は庭園をあとにし、石造りの廊下をひとり歩いていた。
さきほどまでいた中庭の気配は、角を曲がるごとに遠ざかっていく。
代わりに、高い窓から射しこむ朝の光が、床の上に長い四角をいくつも並べていた。
靴音が、一定のリズムで響く。
その単調さに紛れるように、胸の内側では、さっき交わした言葉が何度も繰り返されている。
(リリアンヌは、昔と違う)
心の中でつぶやいてみる。
(噂で聞いていた“氷の令嬢”とも違うし……
僕が知っていた“完璧な婚約者候補”とも違う)
廊下の途中、ふと立ち止まる。
視線を横に向けると、窓の外に学園の尖塔が見えた。
青く澄んだ空を背景に、白い石の塔が、まっすぐ空へ伸びている。
(今、僕の前に立っているのは――)
言葉を探しながら、王子は自分の指先を軽く握りしめた。
(失敗して、泣いて、パンを配って、誰かのために本を読む……
“僕の知らないリリアンヌ”だ)
その連想に、自分で少し可笑しくなって、口元がゆるむ。
「……戸惑っているのは、彼女じゃなくて、僕のほうなのかもしれないな」
誰もいない廊下に、苦笑交じりの声が溶ける。
これまでも、「婚約破棄」という単語は、遠くの将来を語るときに、決まり文句のように出てきた。
王家と公爵家の間で交わされる可能性の一つとして、淡々と受け入れていた。
多少の寂しさはあっても、それ以上、深く考えたことはない。
だが、さきほどの彼女の笑みを思い出すと――胸の奥が、わずかに疼く。
(君は、昔と違うね――)
自分が口にした言葉を、今度は相手ではなく、自分自身へと向けてみる。
(あの一言は本当は、“君を昔どおりの枠にはめておきたかった僕”に向けられるべきなのだろう)
“氷の令嬢”という噂。
“完璧な婚約者候補”という評価。
その二つの間に、王子自身が彼女を閉じ込めていたのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥のざわめきは、戸惑いだけでなく、かすかな後ろめたさを帯びた。
廊下の先から、柔らかい光が差し込んでくる。
最後の窓辺に歩み寄り、もう一度外を覗く。
遠く、さきほどの庭園が小さく見えた。
中庭のベンチに、制服のスカートを整えて座る金髪の少女――リリアンヌの姿が、点のように揺れている。
ノートを開いて、何かを書きつけている。
その横顔は、王子の知らない表情をしているように見えた。
(……もっと、知りたい)
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
(彼女が、どんな顔で“自分のためではないこと”を選ぶのか)
パンを配る時の顔。
特待生を庇う時の声。
自分の変化を、「ようやくわたくし自身に」と言って笑ったときの、あのまなざし。
気づけば、王子の視線は、塔でも空でもなく、小さな庭園の一点をただ追い続けていた。
やがて彼は、静かに息を吐き、窓から身を離す。
靴音が、再び廊下に響き始めた。
――かつて、王子は“答えの決まった令嬢”を、無難な未来として受け入れていた。
だが今、彼の前に立つのは、失敗しながら、誰かのために動こうとする“変わりゆく彼女”だった。
『君は、昔と違うね』――戸惑いから漏れたその一言は、
やがて、リリアンヌの物語だけでなく、王子自身の物語をも、静かに軌道修正していくことになる。




