.小さな慈善 ―― 人のために動くと、心が軽くなる。
朝食の席に並ぶパンは、今日も整然と美しかった。
表面にほんのり艶を帯びた白パン、香草を練り込んだ丸パン、焼き色の具合まで計算されたようなクロワッサン。
銀のバスケットの中で、それらはまるで飾り物のように、皿の縁を彩っている。
リリアンヌは、ナイフで端を少し切り取り、口に運んだ。
昨日と同じ――いえ、きっと今日のほうが焼き加減は上等なのだろう。
もちりとした食感と、ほのかな塩気。そこに、バターと蜂蜜の甘さが重なる。
「……ごちそうさまでした」
ナプキンを畳み、椅子から立ち上がる。
見れば、バスケットの中にはまだ手つかずのパンがいくつも残っている。
けれどそれは、いつもの光景で。
(このパンたちは、いつも――そのあと、どうしているのかしら)
ふと浮かんだ疑問は、しかし、長く形を持たなかった。
今までは、そうだった。
ここで考えが途切れ、「きっとどこかへ片づけられるのでしょう」と当たり前のように背を向けてきた。
けれど今日は、足が自然と、別の方向へ向かっていく。
朝食用の大広間を抜け、隣の配膳室へ続く扉の前を通りかかると――
中から、使用人たちのひそやかな声が聞こえてきた。
「今日もパンが少し余りましたねえ」
「裏門のほうに来る子たちに回しましょうか」
リリアンヌは、思わず足を止めた。
(……裏門? 子どもたち?)
扉の隙間から、バターと小麦粉の混じった匂いがふわりと漏れてくる。
誘われるように、そっと扉を押し開けた。
「失礼いたしますわ」
中にいた使用人たちが、一斉にこちらを振り向く。
「お、お嬢様!」
驚いて頭を下げる者たちの間を、リリアンヌは邪魔にならぬよう気をつけながら、少し覗き込むように歩み寄った。
配膳室の片隅。
大きな柳の籠の中に、見覚えのあるパンがいくつも入っている。
けれど、それは先ほどまでテーブルに並んでいたものとは、少し違っていた。
形がいびつで、片側が膨らみすぎているもの。
切り分ける際に端が欠けてしまったもの。
焼き色がほんのわずかに濃く、さきほど料理長が「これはお嬢様方の卓には出せん」と苦笑していたもの。
どれも、まだ十分に食べられる。
ほんの少し、見栄えが悪いというだけで。
「その籠は……?」
問いかけると、近くにいたメイドが、慌ててエプロンの裾を整えながら二歩、三歩と前に出た。
栗色の髪を後ろでまとめた、若いメイド――マリアだ。
「お嬢様。あの、その……余ったパンでございます。
お屋敷の食卓にはお出ししづらいのですが、まだ十分に召し上がれますので」
「余ったパン……」
リリアンヌは、籠の縁に手を添え、中身をもう一度見下ろした。
昨日、街のパン屋でかじった、あの温かなパンの記憶がよみがえる。
焼き窯の熱、粉の香り。
「どれほどお腹をすかせた人でも、きっと笑顔にできる味」と思った、あの素朴な丸パン。
目の前のパンも、きっと同じように、誰かのお腹を満たすのだろう。
「このパンたちは……どうなさるおつもりでしたの?」
マリアは、少しほっとしたように微笑んだ。
「はい。裏門まで来る子どもたちに、お配りしております。
近所に、少し暮らし向きの苦しいお宅がございまして……」
言いよどむマリアの表情には、遠慮と、どこか誇らしさが混じっていた。
「料理長のご厚意で、“捨ててしまうくらいなら”と。
それを聞きつけた子たちが、時折、時間になると待っていてくださるのです」
リリアンヌは、瞬きを一度、ゆっくりとした。
(そういえば――)
「そういえば、食べきれなかったパンがどこへ行くのか……
考えたことすら、ございませんでしたわ」
口に出してみると、その言葉は自分でも驚くほど、軽く、しかし刺さるように胸に沈んだ。
いつだって、食卓から姿を消した料理たちは、「片づけられた」の一言で終わっていた。
その先に続く物語を、想像したことはなかったのだ。
マリアは、少し恐縮したように目を伏せる。
「勝手なことをして、申し訳ありません、お嬢様。
本来は、正式な命令のもとで行うべきことなのでしょうが……」
「いいえ」
リリアンヌは、首を横に振った。
「責めるために伺ったのではございませんの。
ただ……わたくし、知らなかっただけですわ」
籠の中のパンを、そっと指先でなぞる。
焼き上がってから少し時間が経っているのか、ほんのりとした温もりだけが残っている。
「“屋敷の外”で、それを待っている人たちがいるなんて」
胸の奥で生まれたその実感は、紅茶の香りに酔っていたころの自分には、決して届かなかったものだ。
昨日、自分が「美味しい」と感動したパン。
その延長線上に、今日のこの籠がある。
そのパンを――
誰かが、どんな顔で受け取るのか。
リリアンヌは、顔を上げ、マリアに問いかけた。
「……裏門に、わたくしもご一緒してもよろしくて?」
マリアの瞳が、驚きに大きく見開かれる。
「お嬢様が……ですか?」
「ええ。
このパンが向かっていく先を、わたくしの目でも確かめてみたいのです」
それは、ほんのささいな一言が開けた扉だった。
けれど――
その向こう側には、「自分だけが味わう美味しさ」ではなく、「誰かの一日を支える一片のパン」の世界が広がっている。
リリアンヌは、籠の中のいびつなパンを見つめながら、胸のどこかがふっと軽くなるのを感じていた。
裏門へ続く石畳は、表門とはまるで別の顔をしていた。
馬車の轍よりも、人の足音が刻んだような、こまかな傷。
荷車の車輪が擦れた黒ずみ。
朝露がすでに乾きかけた地面には、ところどころ泥の跳ねた跡が残っている。
「こちらでございます、お嬢様」
案内役のマリアが、両腕で大きなパン籠を抱えながら歩く。
リリアンヌも、その横にそっと並んだ。
風に乗って、焼き直されたパンの香りがふわりと漂う。
裏門の前に差しかかると、そこにはすでに、いくつもの影が待っていた。
背の低い少年が二人、門の石柱に背中を預けて座り込んでいる。
少し離れたところには、痩せた青年が腕を組んで立ち、
その隣には、背を丸めた老女が杖をつきながら門扉にもたれていた。
粗末な上着。擦り切れた靴。
けれど、その目は皆、門の向こう――つまり、こちら側をじっと見つめている。
「お待たせしました」
マリアが声をかけると、少年たちはぱっと顔を上げた。
「今日は来ないかと思った!」
「姉ちゃん、今日はどんなパン?」
パン籠の蓋が開く瞬間、空気が一段あたたかくなるように感じられる。
マリアは慣れた手つきで、パンをひとつずつ取り出した。
「怪我の具合はどうだい? この前、転んだって聞いたよ」
「じいさん、今日は奥さんの分も持っていくかい?」
言葉は軽く、流れるように。
パンと一緒に、短い会話が手渡されていく。
少年の掌に丸パンが乗せられた途端、その顔が、ぱあっと花が開くように明るくなった。
「わあ……今日のは、まだあったかい!」
「母ちゃんと半分こだ」
老女も、深い皺の刻まれた口元をほころばせる。
「今日も助かるよ。歯が悪くてねえ、柔らかいパンはありがたいよ」
節くれだった指が、パンをそっと撫でる。
大切なものを扱うときの、あの慎重な手つきで。
リリアンヌは、パン籠のすぐ後ろで立ち尽くしていた。
ほんの数歩前へ出れば、自分もそのやり取りの輪に入れる。
でも、今は――その前に、見ておきたかった。
(……これが)
屋敷の食堂では「余り物」と呼ばれていたパン。
形が少し崩れているというだけで、テーブルから外されたパン。
「わたくしが“庶民のパンは美味しい”と感動していた、その影で――」
少年が、パンを胸に抱いている。
まるで宝物を守るように。
青年が、「これで今日はちゃんと腹を満たせる」と、誰にともなくつぶやく。
高価な紅茶の銘柄でも、流行の菓子の名前でもない、ただの一切れのパンが、彼の一日を区切る目印になっている。
「このパンを、“美味しい”より先に“助かった”と感じる人たちがいる」
胸の内で言葉にしてみると、その重さに、自分の喉が少しつまる。
あの日、街のパン屋で食べた焼き立ての丸パン。
「紅茶よりも、このパンのほうが――」と、母と笑い合った、素朴な味。
あの時の自分にとって、パンは「新しい美味しさ」であり、「世界の広がり」だった。
けれど今、目の前でパンを受け取る人たちにとっては、それはもっと直接的な――
今日一日をつなぐ、安全な橋の一歩なのだ。
「お嬢様」
マリアが、振り返った。
腕の中の籠には、まだいくつかパンが残っている。
「……ひとつ、お渡しになってみますか?」
背の低い少年が、こちらをきょろきょろと窺っている。
リリアンヌと目が合うと、驚いたように慌てて視線を逸らし、
それでも、パンを見るたび、ちらりとこちらに目を戻してくる。
リリアンヌは、そっと息を吸った。
「ええ。もちろんですわ」
籠から、少し不格好な丸パンをひとつ手に取る。
昨日、自分の手で焦がしてしまったクッキーと似た、お世辞にも完璧とは言えない形。
けれど、その重みは確かだ。
数歩、少年の前に歩み出る。
彼は緊張したように身を縮め、しかし逃げはしない。
「お待たせしてしまいましたわね」
できるだけ、サロンで客人を迎えるときのような「形だけの微笑み」ではなく、
パン屋の少年たちに向けたときのような、素直な笑顔を心がける。
「よろしければ、これを。
……少し形は悪いですけれど、味はきっと悪くありませんわ」
少年は、目を丸くした。
そして、おそるおそる手を伸ばし、両手でパンを受け取る。
「あ、ありがとう……ございます」
敬語がたどたどしくて、少し噛んでしまう。
そのことに自分で気づいて、少年は気まずそうに笑った。
リリアンヌも、つられて口元を緩める。
「どういたしまして。
ちゃんと、よく噛んで召し上がってくださいませね」
言葉にしてみると、それは驚くほど当たり前で、
けれど今まで自分が一度も口にしたことのない種類の「願い」だった。
少年は、パンを胸に抱きしめたまま、何度も何度も頭を下げる。
その背中を見送りながら、リリアンヌはそっと胸に手を当てた。
(わたくしが、あのパン屋で感じた“美味しい”という嬉しさと)
(この子たちが今、手の中に抱えている“助かった”という安堵)
それは、きっと同じ「満たされる」でも、まるで違う形なのだろう。
けれど、そのどちらも、確かにパン一つから生まれている。
屋敷の中で完結していた食卓が、今、裏門を通じて外の誰かの一日へと続いている――
その当たり前を、はじめて自分の目で見た。
胸の奥が、ほんの少し軽くなる。
紅茶の香りに包まれていたときには決して知りえなかった、「誰かのために動いた実感」が、そこにはあった。
「お嬢様は、こちらの日陰でお待ちを。配るのは私どもが――」
マリアが、気遣うように一歩前へ出た。
その手は、いつものように自然にパン籠を抱え直そうとしている。
屋敷の者にとっては、それがきっと“正しい段取り”なのだろう。
けれど、今日は――そこに甘えてしまいたくなかった。
「いいえ、マリア」
リリアンヌはそっと首を振り、彼女の腕に添えられた手を、ほんの少しだけ自分の方へ引き寄せる。
「わたくしにも……一つ、お渡ししてもよろしいかしら?」
マリアは目を丸くした。
「お嬢様が、直々に……?」
「ええ」
リリアンヌは、パン籠の縁に両手をかけた。
朝の日差しで温められた木の感触と、まだかすかに残るパンのぬくもりが、掌に伝わる。
「どうせなら、わたくし自身の手で。
……ここまで来たのですもの」
マリアは一瞬迷ったものの、やがて小さく息を吐いて頷く。
「かしこまりました。でしたら、まずは――」
彼女の視線が、門柱の影に立つ、小さな少年へと向かう。
つられるように、リリアンヌもそちらを見た。
まだ十にも満たないだろうか。
痩せた腕に、ぶかぶかの上着。
尖った肘をぎゅっと抱きしめるように腕を組み、こちらを窺っている。
視線が、ふっとぶつかった。
少年の肩が、びくりと跳ねる。
慌てて目を逸らし、それでもパン籠のほうへ、ちらちらと視線だけが戻ってくる。
(……殿下の前で、初めてダンスのお相手をしたときの、小さな子爵令嬢の顔に、少し似ているわ)
そう思うと、不思議と胸の緊張がほどけた。
リリアンヌは籠から、少し丸く歪んだパンをひとつ手に取る。
そして、少年の前まで歩いていき――わざと、ほんの少しだけ腰を落とした。
高い位置から差し出すのではなく、自分の視線と、彼の視線が自然に合うくらいの高さまで。
「お待たせしてしまいましたわね」
少年の目が、近くで大きく揺れた。
間近で見ると、その瞳は驚くほど澄んだ茶色をしている。
けれど、どこか怯えた小動物を思わせる気配もあった。
「い、いえ……」
掠れた声が、か細く返ってくる。
リリアンヌは、ふわりと口元を緩めた。
「公爵令嬢らしく」などと考えずに――ただ、「どうか緊張なさらないで」という気持ちをそのまま乗せて。
「いつも来てくださっているのかしら?」
問いかけると、少年はきゅっと唇を結び、それから小さく頷いた。
「……たまに、です。
母さんが具合、悪い日は、代わりに……」
言葉の途中で、少年は自分の靴先を見下ろした。
つま先の布は擦り切れ、つぎはぎだらけだ。
「今までのわたくしなら、“公爵令嬢らしく”優雅に振る舞おうとしていたでしょう」
おそらく、柔らかく微笑み、「ご苦労さま」と、上から労わるような言葉をかけていたはずだ。
それが当然だと、疑いもせずに。
「でも今は……“同じ高さ”で言葉を交わしたいと思っている」
だからこそ、リリアンヌはほんの少しだけ、膝を深く曲げた。
少年と、まっすぐ目線を合わせるために。
「そう……お母様のために、来てくださっているのね」
彼女は、パンをそっと少年の手のひらへ乗せた。
冷えた細い手の上に、まだぬくもりの残る丸パンが沈み込む。
「今日は、いつもより少し冷えますわね。
どうか、お帰りの道中で風邪を召されませんように」
少年はハッとしたように顔を上げた。
その瞳に映るのは、“公爵令嬢”という遠い肩書きではなく――
ただ、目の前で自分にパンを渡した、一人の女の子の顔であればいい。
「……母さんの分、ちゃんと持って帰ります。
ありがとう、ございます」
言いながら、少年はパンを胸に抱え込んだ。
そんな仕草が、妙にいじらしくて、リリアンヌも小さく笑う。
「お母様のお加減が、少しでも良くなりますように」
それは祈りというより、願掛けのような短い言葉だった。
けれど、少年は何度も頷きながら、その言葉まで大事そうに抱きしめる。
少年が門の外へ歩き出すと、次に、痩せた青年が一歩、前に出た。
「いつも、お世話になっております」
ぎこちない礼。
けれど、その声には、先ほどの少年とはまた違う、どこか照れくさそうな硬さがあった。
「こちらこそ」
今度は立ったまま、パンを差し出す。
身長差があまりない相手には、わざわざ“屈まない”ほうが、かえって自然だ。
「お仕事の合間で、いらしているのかしら?」
「はい。市場の荷運びを……」
青年は、申し訳なさそうに視線を彷徨わせる。
「余り物を分けてもらっている身で、偉そうなことは言えませんが……
このパンがあると、午後もちゃんと動けます。ありがたいです」
リリアンヌは、ほんの少しだけ目を細めた。
「余り物、ですって?」
青年がぎょっとして、顔を上げる。
リリアンヌは、落ち着いた声で言葉を継いだ。
「わたくしは思いますの。
――お腹の空いている方の手に届くなら、そのパンはきっと、最初から“余り”ではなく、“必要なぶん”だったのだと」
それは、今この場で初めて口にした、自分なりの考えだった。
青年は一瞬、何と返せばいいのかわからないように黙り込む。
やがて、今度はさっきよりも深く頭を下げた。
「……もっと、がんばって働こうと思いました」
その不器用な返事が、なぜかリリアンヌの胸をじんわりと温めていく。
(わたくしは、施しを与えているわけではない)
(この方たちは、パンを受け取る代わりに――
わたくしに、“目に見える暮らしの重さ”を教えてくださっている)
だからこそ、ただ一方的に「恵んでやっている」などという感覚は、とても持てそうになかった。
ひとり、またひとりと、パンを受け取っていく人々。
リリアンヌはそのたび、ほんの一言、二言であっても、必ず言葉を交わした。
「指先がお冷たそう。湯に浸ける時間を、どうか作ってくださいませね」
「お孫さんがいらっしゃるの? きっと、よく笑う子なのでしょうね」
相手の目を見て、同じ高さで。
名前を知らずとも、その人の今日だけは、確かにここにあると認めるために。
最後のパンが籠から消えたとき、裏門の前には、感謝の言葉の余韻だけが柔らかく漂っていた。
マリアが隣で、そっと囁く。
「お嬢様……皆、嬉しそうでしたよ」
「そうかしら」
リリアンヌは、微笑みながら胸に手を添えた。
「わたくしのほうこそ――少し、心が軽くなった気がいたしますの」
“上から与える”のではなく、“目線を合わせて受け渡す”。
それだけで、パンの重さも、言葉の重さも、まるで違うものに感じられるのだから。
裏門からの帰り道、廊下はひんやりとしていた。
さっきまで握っていたパン籠の感触が、まだ指先に残っている気がする。
少年の細い手。皺だらけの老女の笑顔。
ひとつひとつの顔が、胸の奥で静かに揺れていた。
(……“余りもの”だったはずのパンが、あれほど大事に抱きしめられていた)
(もし、最初から“その人たちのためのパン”として焼かれていたなら――
あの子たちは、どんな顔をなさるのかしら)
考え込んだまま曲がり角を抜けたところで、リリアンヌは不意に立ち止まった。
「おっと」
真正面から歩いてきた人物も、同時に足を止める。
公爵家当主――彼女の父だ。
腕には数枚の書類、胸元には執務の合間のわずかな疲労が滲んでいる。
「リリアンヌか。ずいぶん思いつめた顔をしているな」
父は片眉を上げ、ちらりと後方、裏門の方角に視線をやる。
「裏門のほうに行っていたようだが、見学はどうだった?」
問われて、リリアンヌは一瞬だけ迷った。
言うべきか、黙って胸の内にしまっておくべきか。
いつもの自分なら、きっと「よい経験でしたわ」と微笑んで終わらせていただろう。
けれど今、喉元まで上がってきた言葉は、どうしても押し戻せなかった。
「お父様……」
彼女は足を揃え、ゆっくりと頭を下げる。
「ひとつ、お願いがございますの」
父の目が、興味深そうに細められる。
「ほう。
マナーの先生を替えてくれ、ではないのだな?」
冗談めかした声音に、リリアンヌは思わず小さく笑ってしまう。
その笑みが、自分の緊張を少しほぐしてくれた。
顔を上げ、真っすぐに父を見上げる。
「裏門で……“余ったパン”を分けている場面を拝見いたしました」
「うむ。あれは、お前の祖父の代から続けている習慣だ。
屋敷で出せぬ形の崩れたものなどを、捨ててしまわぬようにとな」
「ええ。そのお心は、とても素敵だと思いましたわ」
一度、言葉を切る。
そして、胸の中で形にしてきた願いを、そのまま口に乗せた。
「ですから――」
「余ったパンを分けるのではなく、最初から“分ける分”を焼いていただくことは、難しいでしょうか」
廊下に、静寂が落ちた。
遠くで時計の針が刻む音だけが、やけに鮮明に聞こえる。
父は一瞬、驚いたように目を瞬いた。
だがすぐに、その瞳にじわりと別の色が滲む。
興味。
そして、ごく微かな――誇らしさ。
「……最初から、そのために用意する、か」
彼はゆっくりと書類を片手に持ち替え、空いた手で顎に触れた。
「ただ捨てるものを回すのではなく、“必要とする者のための一部”として焼く。
言葉にすれば、小さな差だが……」
そこで言葉を切り、今度は娘の顔をじっと見下ろす。
「受け取る側にとっては、大きな違いかもしれんな」
リリアンヌは、胸をそっと押さえた。
「裏門にいらした方々は……
“余りもの”としてではなく、ちゃんと“待たれていた先”として、パンを受け取れたなら――」
そこまで言って、言葉を探すように視線をさまよわせる。
「わたくし自身も、きっとそのほうが、胸を張ってお渡しできるような気がいたします」
父の口元に、僅かな笑みが浮かぶ。
「なるほどな」
彼は短く息を吐いた。
「パンを余らせてしまうのは、厨房の段取りの甘さでもある。
それを“慈善”という名で誤魔化している、という見方もできんことはない」
「そんなつもりでは……」
慌てて首を振るリリアンヌに、父は片手を上げて制した。
「責めているわけではない。
だが、お前の言うとおり、最初から“あの人数分を焼く”と決めてしまえば――」
彼は手元の書類をざっと眺め、概算を頭の中で弾いているようだった。
「小麦の使用量が、毎日わずかに増えるくらいの話だな。
コストも、屋敷の家計から見れば微々たるものだ」
「厨房の皆さまのお手を煩わせてしまいますわ」
「そこも含めて、料理長と相談すればよいだろう。
毎日が難しければ、週に二度、三度でも構わん」
父は、軽く肩をすくめてみせた。
「“余りもの”を出すのと、“待っている者のために焼く”のとでは、
パンは同じでも、そこに込められる意味が違う」
そして、からかうように目を細める。
「ふむ。“庶民の友”を名乗るには、悪くない一歩だ」
「お、お父様……!」
火がついたように頬が熱くなる。
「わたくし、そのような大層な名乗りを――」
「名乗ってはいない、か」
父はくつくつと喉を鳴らした。
「だが、屋敷の者たちは既にそう思い始めているかもしれんぞ。
裏門に出向き、子どもと目線を合わせて話す公爵令嬢など、そうはいない」
「それは……」
否定しようとして、言葉が喉で絡まる。
代わりに、リリアンヌは小さく息を吸い直した。
「……もし、そう呼ばれる日が来るとしても」
自分でも驚くほど穏やかな声が、口からこぼれる。
「それは、“恵みを与える方”としてではなく、
同じパンの味を知っている者として――そう思っていただけたら、嬉しく思います」
父は一瞬だけ目を丸くし、それから静かに頷いた。
「よかろう」
短い言葉が、廊下の空気を少しだけ温かく変える。
「料理長と話してみなさい。
余りが出た日はそれを回し、足りぬ日は“最初から焼いた分”を足す。
そのくらいの融通は、この家なら利く」
「……ありがとうございます、お父様」
深く頭を下げると、胸の奥で、ひとつ何かがほどけた気がした。
ただ見て、ただもらって、ただ「よかった」と思うだけではなく。
ほんの少しだけ、こちらからも手を伸ばしてみる。
その一歩が、どれほど小さく見えたとしても――
パンを待っている誰かにとっては、きっと形のある違いになる。
(人のために動くと、どうしてこんなに……心が、軽くなるのかしら)
廊下の先、厨房へ続く扉の向こうには、忙しく立ち働く料理人たちがいる。
リリアンヌはそちらへ向き直り、小さく息を整えた。
「では、お言葉に甘えて――
“パンを一つ、多く焼いていただけないかしら”という相談に、行ってまいりますわね」
父は肩越しに見送りながら、ぽつりと呟いた。
「……本当に、“庶民の友”になるかもしれんな」
その呟きは、娘の背中には届かなかった。
けれど、リリアンヌの歩みは、確かに少しだけ弾んでいた。
午後の光が、図書室の窓から静かに差し込んでいた。
高い本棚の影が、机の上に長く伸びている。
その一角――いつもの勉強テーブルに、リリアンヌはノートと数枚の便箋を広げていた。
向かいには特待生エミリア、その隣には同じく特待生の少年と、細身の少女。
皆それぞれの教科書を開きながらも、いまは視線をリリアンヌに向けている。
「……というわけで、ですわ」
リリアンヌは、少し照れたように息を整えた。
「領地の屋敷で、裏門にいらした方々へパンをお分けしているのですけれど。
その回数を増やしたり、最初から“分ける分”を焼いたりできないかと、父に相談いたしましたの」
エミリアが目を瞬く。
「それは……とても、ありがたいお話だと思います」
隣の少年も、「領主様がそのようなことを」と素直に感嘆の声を漏らした。
けれど、リリアンヌは首を横に振る。
「ありがたいかどうかを、わたくしが決めるのは、少し違う気がいたしまして」
ぺらり、とノートのページをめくる。
そこには、“配布日を増やす”“最初から焼く分を決める”といった箇条書きの下に、余白がたくさん空いていた。
「それで……もし差し支えなければ、皆さんのお考えを伺いたいのです」
エミリアたちが、わずかに姿勢を正す。
「パンをお配りする日を増やすとして、どのような形なら、“本当に助かる”と思われますか?」
少しの沈黙。
先に口を開いたのは、エミリアだった。
「わたくしの村にも、冬場になると似たような施しをしてくださる屋敷がありました」
彼女は指先で、本の端をそっと撫でながら続ける。
「パンは……もちろん、とてもありがたいです。
けれど、柔らかくて美味しいパンほど、すぐに傷んでしまいます」
リリアンヌは、はっと目を見開いた。
自分が街のパン屋で感動した、あのふわふわと温かなパンが脳裏に浮かぶ。
(そう……あれは、今日食べてしまうからこそ美味しいパン)
エミリアは、言葉を選びながら続けた。
「もし、できることなら――」
「パンの中に、少しだけ固めで、保存のきくものを混ぜていただけると、もっと助かるかもしれません」
「保存の、きく……?」
「はい。今日すぐに食べる分と、明日の朝まで持たせたい分。
家族が多い家では、そういうふうに分けて考えることが多いので……」
まっすぐな視線を向けてきたあと、エミリアははっとして慌てて俯いた。
「し、失礼いたしました。厚かましいお願いを」
「いいえ!」
少し強い声が出てしまい、リリアンヌは慌てて声量を落とした。
「いいえ、エミリア。まさに、そういうお話を伺いたかったのですわ」
ペン先を走らせ、“保存のきく固めのパンを一部混ぜる”と書き込む。
(“美味しい”だけではなく、“持つかどうか”――
パン一つにも、そんな違いがあるなんて)
今度は、向かいの少年が遠慮がちに口を開いた。
「あの……よろしいでしょうか」
「もちろんですわ」
「パンを受け取る時間のことなのですが」
少年は少し困ったように笑った。
「小さい子どもや、お年寄りは、昼前や昼過ぎに来られると思います。
でも、働いている大人は、その時間に屋敷まで来るのが難しいかもしれません」
「……たしかに」
「仕事が終わる頃には、日が落ちています。
その頃には、もう何も残っていない、ということも、あるかもしれません」
リリアンヌは、思わずペンを止めてしまった。
(わたくし……“昼間に来られる人”のことしか、考えていなかったのですわね)
少年は慌てて付け足す。
「もちろん、来られる人だけでも助かるのは、間違いありません。
ただ――もし可能なら、夕方にも少しだけ……」
「夕方にも、パンを?」
リリアンヌが復唱すると、少年はこくりと頷いた。
「保存がききやすい固めのパンを、その時間に、少し分けていただけると。
翌日の仕事に備えて、体力を保てる人が、きっと増えると思います」
それを聞いていた細身の少女が、そっと口を添えた。
「小さい子のぶんは、昼前に柔らかいパンを。
働いている人のぶんは、夕方に固いパンを……というふうに分けていただければ、うまく行きそうな気がします」
リリアンヌは、ペンを握り直す。
ノートの余白に、“昼前:柔らかいパン(子ども・老人向け)”“夕方:固いパン(働き手向け)”と書き込んだ。
線を引き、丸で囲み、矢印を引く。
書き込みの量が増えるにつれて、胸の中の「ぼんやりした善意」が、少しずつ“形のある計画”に変わっていく感覚があった。
(“良かれと思って”したことが、本当に役に立つとは限らない)
(ならば、わたくしがすべきなのは――)
(“決めること”だけではなく、“聞くこと”)
ペン先が、ノートの端で止まる。
「……皆さん、本当にありがとうございます」
顔を上げて告げると、三人は一斉に首を振った。
「そんな、とんでもない」
「こちらこそ、公爵家のご事情などに口を挟んでしまって……」
「でも、もし本当に実現したら……きっと、どこかの誰かが助かると思います」
エミリアの言葉に、リリアンヌは小さく笑った。
「助かる“誰か”の顔を、わたくしは想像しきれません」
「だからこそ――こうして、皆さんの言葉を借りたいのですわ」
エミリアは少しだけ目を伏せ、それから、決意を宿した瞳で彼女を見つめた。
「でしたら、わたくしたちでよければ、いつでも」
「街や村のことなら、教科書より、少しだけ詳しいかもしれませんから」
その一言に、リリアンヌの胸に、温かいものがふわりと広がった。
(わたくし一人で考える“慈善ごっこ”ではなく)
(こうして、“知っている人たちの声”を混ぜていけるのなら――)
ノートの端に、そっと小さな文字を書き足す。
“昼前:柔らかいパン”
“夕方:固いパン”
その下に、もう一行。
“これはわたくしの思いつきではなく、みんなと考えた案であること”
エミリアが、興味深そうに首をかしげる。
「何を書かれたのですか?」
「……秘密、ですわ」
リリアンヌは、少しだけおどけたように微笑んだ。
「けれどいつか、領地でパンを受け取る誰かが――
“これは、どなたかがちゃんと考えてくれた形なのだ”と、
少しでも感じてくださったなら……」
ペン先でノートを軽く叩く。
「そのとき、この図書室での作戦会議は、大成功ですわね」
エミリアたちは顔を見合わせ、くすりと笑った。
静かな図書室の一角。
机の上には、分厚い本と、インクの染みたノートと、
そして――誰かの明日を少しだけ軽くしようとする、小さな計画が広がっていた。
数日後の朝、裏門の前には、いつもより少しだけ賑やかな気配があった。
まだ陽は高くない。
石畳の隙間に残った夜露が、靴の先でしゃり、と音を立てる。
公爵邸の高い塀の陰――
その足元に、小さな人の流れが生まれていた。
「今日は、ずいぶん多いですな」
籠を抱えて裏門に立った料理長・ガストンが、目を細めて列を眺める。
その隣に、リリアンヌも同じように立っていた。
籠の中には、今日のために“最初から計算して”焼いたパンが、きれいに並んでいる。
手のひらに収まる、柔らかな丸パン。
少し硬めに焼いた、細長い黒パン。
端を切り落とさず、そのまま焼いた素朴な形のものもいくつか混ざっている。
「お嬢様、こちらの籠は柔らかいほう。こちらが固めのほうです」
「はい、ありがとうございますわ」
リリアンヌはエプロンの紐をぎゅっと結び直し、一歩前へ出る。
裏門の向こう。
集まった人々が、その姿を見てざわり、と小さく息を呑んだ。
やせ細った老人、肩に幼い弟を担いだ少年、
仕事着のままの青年、頭巾を目深にかぶった女性――。
前回よりも、顔の数が多い。
(噂を聞いて、新しく来た方たちもいらっしゃるのね)
そう思った瞬間、列の後ろのほうで、見覚えのある横顔が目に入った。
(あの子は……)
前回、母の代わりにパンを受け取りに来ていた、痩せた少年――
あのときよりも、少しだけ頬に赤みが差している気がする。
「本日は、最初から“皆さまにお渡しする分”をご用意いたしました」
使用人が声を張ると、列のあちこちで安堵の息がこぼれた。
「余りものではなく、ですかい」
「ありがたいことだ……」
柔らかなざわめきが、ゆっくりと列を進ませる。
「では、お嬢様。こちらを」
「ええ。わたくしからも、一つずつ」
最初に門をくぐったのは、背中を丸めた老人だった。
リリアンヌは、籠から柔らかい丸パンを一つ取り、両手で差し出す。
「お寒い中、お待ちいただきありがとうございます」
「い、いえ……こちらこそ、いつも助かります」
老人の手が、パンに触れた瞬間。
その皺だらけの指先が、ほんの少し震えた。
指の節の固さや、手の甲の薄い皮膚の下に浮かぶ血管。
それらを、リリアンヌは“じっと見つめてしまわないように”気をつけながら、それでも目を逸らさずに見た。
(この手で、一日を生きておられる)
(この一つのパンが、“ほんの少しだけでも”支えになるなら――)
次に来たのは、小さな女の子と、その母親らしき女性だった。
「こちら、柔らかいほうをどうぞ。小さい方には、こちらが食べやすいかと存じますわ」
女の子は、パンを両手で抱きしめるように受け取って、ぱっと顔を輝かせた。
「ありがとうございます、お嬢様!」
その笑顔に、リリアンヌの胸の奥がくすぐったくなる。
(前よりも――)
(“覚えている顔”が増えましたわね)
あの老人は、前回も一番に並んでいた。
あの女性は、子どもに先にパンを渡して、自分は一口ずつしかかじらなかった。
列の後ろのほうで、少年が帽子を脱ぎ、ぎこちない礼をした。
「こ、こんにちは……」
「あら。先日は、お母様の代わりにいらしていた……」
「は、はい。今日は、少しだけ母の具合がいいので、一緒に食べられそうで……」
少年の視線が、籠の中をちらりと覗く。
「……今日は、固いパンもあるんですね」
「ええ。皆さまのお声を伺って、少し種類を増やしてみましたの」
リリアンヌは、柔らかい丸パンと、細長い固めのパンを一つずつ手に取る。
「こちらは今すぐに召し上がって。こちらは――明日の朝まで残していただけますわ」
少年は、一瞬言葉を失い、きゅっと唇をかんだ。
「……ありがとうございます」
その“ありがとう”は、前回聞いたどの礼よりも、少し重みがあった。
列はゆっくりと進んでいく。
「今日は固いパンもあるのか。これなら明日の朝まで持つな」
「うちの子は柔らかいほうが好きでね。先にこれを食べさせて……」
「俺は仕事の前に半分食べて、残りは持っていこうか」
パンを受け取る人たちの口から、自然とそんな声がこぼれる。
ガストンが横で小さく頷いた。
「“固いパン”は、贅沢ではありませんが、腹持ちはよいですからな」
「そうですわね」
リリアンヌは、並ぶ顔をひとつひとつ見送りながら、胸の内で言葉を紡ぐ。
(“慈善”という言葉は、どこか大それたもののように聞こえるけれど)
(わたくしたちが実際にしていることは――)
パンを焼くように頼む。
準備してもらった籠を持つ。
列の前に立って、名前も知らない人たちに「どうぞ」と渡す。
それから、少しだけ言葉を交わす。
(ただ、それだけ)
(それだけのはずなのに――)
最後の一人にパンを渡し、籠の底が見えたとき。
リリアンヌは、自分の肩がいつの間にかふわりと軽くなっていることに気づいた。
「本日の分は、以上となります」
使用人がそう告げると、列のあちこちから「ありがとうございました」「また来ます」という声が上がる。
人々がそれぞれの道へ散っていく中。
小さな背中が、パンを抱えたまま駆けていく。
杖をつきながら歩く老人が、空を見上げて一息つく。
その一つひとつが、静かな余韻となって、裏門の空気に残った。
「お嬢様」
ガストンが、空になった籠を掲げて見せる。
「予定していた分は、ちょうど配りきりましたな」
「はい……」
リリアンヌは、籠の中を覗き込む。
そこにはもう、パン一つ残っていない。
けれど、不思議なことに――
“減った”という寂しさより、“届いた”という実感のほうが、強く胸に残っていた。
(わたくしは、何も特別なことなどしていないのに)
(ただ、少しだけ考えて、少しだけ動いただけなのに)
胸の奥が、ほのかに温かい。
邸に戻る足取りは、行きよりも軽かった。
(人のために動くと、こんなふうに――)
(心が、少しだけ軽くなるのですわね)
紅茶の香りに囲まれたサロンでもなく。
学園の噂話に満ちた中庭でもなく。
パン屑の落ちた石畳の上で。
リリアンヌは、自分の中に生まれたその変化を、そっと確かめるように息をついた。
誰かの一日を、ほんの少し支えるために差し出したパン。
それは同時に、彼女自身の心から、“どうしようもない重さ”を少しだけ削り取ってくれていたのだった。
夕刻の光が、街の屋根をやわらかくなぞっていた。
公爵邸のバルコニーは、日中の喧噪を少しだけ置き去りにしたように静かだ。
高い手すりの向こう、石畳の道がゆるやかに伸びて、遠くの市場の屋根が夕焼けに染まっている。
リリアンヌは、その景色を見下ろす位置に立っていた。
ドレスの袖口を、冷たい風がかすめていく。
その指先には、小さく切り分けられたパンが一切れ。
厨房のガストンが、「お嬢様も、出来栄えをご確認ください」と笑いながら持たせてくれたものだ。
リリアンヌは、手元の小さなパンを見つめる。
さっきまで、同じパンがいくつも籠の中にあった。
それを、裏門で一つずつ差し出していたのを思い出す。
そっと、ひとかじり。
外側は薄くぱりりと音を立てて、内側はふんわりとほどけていく。
小麦の素朴な香りと、ほんの少しだけ混ぜてもらったハーブの香りが、口いっぱいに広がった。
(……美味しい)
思わず、胸の奥でそうつぶやく。
この前、自室でかじった“失敗クッキー”の、焦げた苦さを思い出す。
あのときは、噛むたびに胸が締めつけられるようだった。
今日のパンは、ちゃんと焼けている。
焦げていないし、粉のざらつきもない。
けれど、それだけではなく――口に入れた瞬間、胸の中まで、ひどく軽くなったような気がした。
(お屋敷で、優雅に紅茶をいただいていた頃――)
リリアンヌは、視線を街の方へ投げる。
濃紺の空に、屋根と煙突の影が切り抜かれている。
そのどこかの家で、今頃、さきほど渡したパンがちぎられているかもしれない。
(あの頃のわたくしは、いつも、“足りない何か”を抱えていた気がしますわ)
王子の隣に座るときも、学園のサロンで微笑んでいるときも。
紅茶の銘柄に詳しくなればなるほど、胸のどこかに重石のようなものが沈んでいった。
完璧な令嬢であろうとすればするほど、「まだ足りない」と誰かに言われているようで。
自分で自分を責める声が、静かに増えていった。
今日の裏門での時間を思い返す。
列に並ぶ人たちの顔、こぼれた言葉。
「助かる」「明日の朝まで持つな」と笑った声。
(でも今日、人にパンを渡している間――)
リリアンヌは、もう一度、パンをかじる。
噛むたびに、“裏門の石畳”の感触が、足裏に蘇る。
(不思議と、自分のことを責める暇も、取り繕う暇もありませんでしたの)
誰かが寒そうにしていれば、「少しでも早く渡さなくては」と思った。
少年が「母さんと一緒に食べます」と言ったとき、「どうか本当に一緒に笑えますように」と願った。
(“人のため”に動こうとすると――)
胸の中にあった重石が、ふっと持ち上がっていくような感覚。
(わたくしの心の中の重さが……)
(少しだけ、軽くなる)
夕空を渡る風が、頬を撫でていく。
ふと、その風の中に、森の夜の匂いが混ざった気がした。
黒い木々の間で、焚き火の火が揺れている。
誰かの横顔が、その赤い光で輪郭だけ浮かび上がって――
『貴女が、自分のためだけに動くのをやめたとき――』
どこか遠くで聞いたような、まだ名を知らない彼の声。
『きっと、誰かの明日も変わるんですよ』
それが本当に過去の記憶なのか、それとも夢か想像か。
リリアンヌには、もう判然としない。
ただ、その言葉だけが、焼き立てのパンの香りのように胸に残っていた。
彼女は小さく笑う。
「……そうかもしれませんわね」
自分に向けて、そして、どこか遠くの誰かに向けて。
指先のパンを見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「わたくしは、立派な聖女様でも、完全無欠の王子妃候補でもありません」
森の闇ではなく、公爵邸のバルコニーで。
今度は、自分の意志で続きの言葉を選ぶ。
「ただ――今日みたいな“小さな慈善”を、これからも重ねていけたなら」
街に灯る明かりが、一つ、また一つと増えていく。
炊事の煙が、細く空へと昇っていく。
「いつか胸を張って、“自分で自分を好きだと言える人”になれる気がいたしますわ」
そう口にした瞬間、胸の奥で、何かがかちりと噛み合った。
王子の視線でもなく、
誰かの噂でもなく、
紅茶の銘柄でもなく。
――自分が自分をどう思うか、という尺度。
パンをもう一口。
噛めば噛むほど、素朴な甘さがにじみ出る。
リリアンヌは、それを飲み込みながら、静かに目を閉じた。
ナレーション:
かつて、“自分の価値”を王子の視線と紅茶の銘柄で測っていた令嬢は、
今、小さなパン一つで、人の一日が少しだけ明るくなることを知った。
それは、誰かを劇的に救うほど大げさな善行ではない。
けれど――パンを差し出すたびに、彼女自身の心からも、少しずつ重さがそぎ落とされていく。
人のために動くことは、巡り巡って、自分をも軽くする。
その当たり前の真実に気づいたとき、
リリアンヌの未来は、また一つ、静かに軌道を変え始めていた。




