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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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失敗の味 ―― 泣きながら笑う。それでいいと思えた。

 公爵邸の奥まった廊下にある、小さなサロン。

 来客用ではなく、家族と使用人がときおり気軽に使う、少しだけ肩の力の抜けた部屋だった。


 陽のよく入る窓辺の丸テーブルの上に、書き物用の紙が何枚も広げられている。


「ええと……小麦粉、卵、蜂蜜……こちらはバター……」


 リリアンヌはペン先で、それぞれの単語をそっとなぞった。

 一枚には「簡単な焼き菓子」と題されたレシピ。

 別の紙には、街のパン屋で見た丸パンの成形を、拙い図で描き写したメモ。

 さらに隅には、「お茶会時の会話例」と端正な文字で書かれた、お茶会マナーのノート。


 きっちりと揃えられていたはずの紙束は、今やあちこちが重なり合って、まるで持ち主の胸の内をそのまま映したかのような散らかり方をしている。


 リリアンヌはふうっと小さく息を吐き、ペンを置いた。


(今までのわたくしは、“用意されたもの”を綺麗に食べることしかしてこなかった)


 サロンの奥に控えた侍女が、心配そうに一歩だけ近づく。


「お嬢様、何かお探しで……?」


「いいえ。探しているのは、紙の上ではなくて――」


 そこまで言いかけて、リリアンヌは苦笑して首を振る。


(わたくし自身、ですわね)


 思い出すのは、あの図書室の午後。

 机を挟んで並んで座った特待生エミリアの、インクで指先を染めた手。

 街のパン屋で分けてもらった、焼き立てのパンの匂い。

 「誰かの暮らしを良くしたい」と、ごく当たり前のように口にした、少年少女のまっすぐな眼差し。


(あの子たちに――いつか、わたくしの手で作ったなにかを出してみたい)


 図書室での勉強会。

 本の山の合間に、そっと置かれた小皿。そこに、自分の焼いた素朴な焼き菓子が乗っている光景を想像して、リリアンヌは胸の奥がくすぐったくなる。


(“庶民の友”などと大仰な名前は、まだまだ相応しくありませんけれど……)


 ペンダントのように、ポケットの中で粗い布のハンカチが揺れる。

 あの森の夜にもらった、温もりの象徴。


(同じパンを食べただけで終わらせたくない。“分け与える側”にも、なってみたいのです)


 そう思ったとき、迷いはもうほとんどなくなっていた。


「――レティシア」


 名を呼ばれた侍女が、背筋を伸ばして一礼する。


「はい、お嬢様」


「厨房に参りますわ。料理長のレオンに、お時間を少しいただけるか伺ってきてくださる?」


 侍女は目を丸くした。


「お、お台所へ、でございますか?」


「ええ。わたくし、自分の手で焼き菓子を作ってみたいの。誰かに命じるのではなく、自分で」


 その言葉には、冗談の余地はなかった。

 レティシアは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに恭しく会釈する。


「かしこまりました。レオン料理長にお伝えして参ります」


 侍女が足早に出て行くと、サロンは再び静けさを取り戻した。

 壁の時計が、静かに時を刻んでいる。


(“お嬢様がそんなご苦労を”――きっと、そう言われるでしょうね)


 リリアンヌは、自嘲気味に笑う。


(でも、“苦労”と呼ばれることを、わたくしはほとんどしてこなかった。

 その結果が、あの婚約破棄の結末なら……少しくらい手を汚しても、今度は自分で選びたい)


 ほんの数分後。

 扉がノックされ、レティシアに続いて、白いコック服の男が姿を現した。


「お呼びと伺いました、公爵家料理長のレオン・グランヴィルにございます」


 年の頃は四十代半ば。

 がっしりとした体格に、よく日に焼けた腕。

 厳しそうな眉に似合わぬ、どこかおっとりした茶色の瞳が印象的だ。


 公爵家に長く仕えるレオンは、公の場では常に一歩下がり、完璧な料理を出すことしか見せない男だ。

 だが幼い頃のリリアンヌは、たまに厨房に忍び込んでは、彼が裏でこっそり味見をしている姿を見かけたことがある。


 リリアンヌは椅子から立ち上がり、ドレスの裾を軽く持ち上げて会釈した。


「お忙しいところを、わざわざありがとうございます、レオン」


「いえ、お嬢様のお呼びとあれば、いつでも」


 レオンは深々と頭を下げる。その声と所作は、いつも通り控えめで堅い。

 けれど、その瞳にはかすかな好奇の色が浮かんでいた。


「それで……ご用件とは?」


 リリアンヌは、机の上の紙束を指で整えながら、真正面から料理長を見つめる。


「レオン。わたくし、自分の手で焼き菓子を作ってみたいのです」


 レオンの眉が、ぴくりと動いた。


「……お嬢様ご自身の、手で、でございますか?」


「ええ」


 迷いなく頷く。


「今までわたくしは、あなた方が用意してくださったものを、ただ“美味しいですわ”といただくだけでした。でも――」


 窓の外を、ちらりと見やる。

 街のパン屋の、あの粉っぽい床と熱気のこもった空気が脳裏に蘇る。


「一度くらい、“自分の手”で誰かに食べてもらうものを作ってみたいのです。

 図書室でご一緒している子たちに……ささやかな焼き菓子をお出しできるようになれたら、と」


 レオンは腕を組み、しばし沈黙する。

 その表情は、反対とも賛成ともつかない。

 ただ、公爵令嬢の“本気の目”だけをじっと確かめているようだった。


「……お嬢様に、そんなご苦労をおさせするのは、わたくしども使用人の本分に反するとも思いますが」


 口調こそ硬いが、その声音は先ほどよりも柔らかい。


「しかしながら、“誰かに食べていただきたい”という気持ちは、料理人にとって何よりの出発点でもございます」


 レオンはやがて、ゆっくりと息を吐いた。


「そこまでのお覚悟であれば――よろしいでしょう」


 彼はかすかに口元を緩める。


「では、まずは簡単な焼き菓子から始めてみましょう。

 粉と卵の扱い方から、みっちり覚えていただきますぞ、お嬢様」


「……みっちり、ですの?」


 思わずオウム返しになった自分に、リリアンヌは小さく笑った。

 どこか、勉強熱心なエミリアのノートを覗き込んだときと似た、緊張とわくわくの入り混じった感覚。


「みっちりで構いませんわ。どうか、ご指導くださいませ、レオン」


 そう告げて、リリアンヌは深く丁寧に頭を下げる。


 その姿を見て、レオンは少しだけ目を丸くし、すぐに表情を引き締め直した。


「畏まりました、お嬢様。では、このあと厨房へお越しください。

 “お貴族様の指先”ではなく、“作る人間の手”を覚えていただきましょう」


 リリアンヌはそっと、自分の手のひらを見つめる。

 ペンだこ以外の傷ひとつない、白く整った指先。


(この手で――失敗も、成功も、ちゃんと掴めるようになりたい)


 胸の奥で、静かにそう呟きながら、彼女は立ち上がった。


 “完璧に用意されたお茶会”の客席から、

 “不格好でも何かを差し出す側”へと、一歩だけ踏み出すために。


 昼の仕込みで熱気を帯びた公爵邸の厨房は、リリアンヌにとって、ほとんど未知の世界だった。


 扉をくぐった瞬間、鼻先をくすぐったのは、上等な茶葉の香りではない。

 煮込まれた肉の香り、骨から出た旨味のこもったスープの湯気、炒められた玉ねぎの甘さ、ハーブと香辛料のつんとした匂い――幾つもの匂いが複雑に絡み合い、むっとするほど濃い空気を作っている。


 大きな鍋の中で、銀色のスープ杓子がぐるぐると回る音。

 木のまな板を叩く、包丁の一定のリズム。

 オーブンの扉が開くたびに、焼き立ての香りと熱がどっと押し寄せる。


 貴族のサロンで耳にするような優雅な音は、ひとつもなかった。

 ここにあるのは、「生活を動かすための音」ばかりだ。


「お、お嬢様……?」


 大鍋の前にいた若いコックが、振り向いて目を丸くする。

 パン生地をこねていた年配の女中も、粉だらけの手を慌ててエプロンで拭いながら、急いで頭を下げた。


「リリアンヌお嬢様が厨房に……?」


 ざわり、と視線が一斉に集まる。

 普段、彼らが目にするリリアンヌは、出来上がった料理の向こう側――遠く上座の食卓に座る“公爵令嬢”だ。


 視線を感じながらも、リリアンヌは背筋を伸ばしたまま一歩進み出る。

 サロンで教え込まれた、乱れひとつない優雅な足運び。


 その後ろから、レオン料理長が低い声を響かせた。


「皆、手を止めるな。今日は特別なお方がおいでだが、仕事はいつも通りだ」


 その一言で、ざわつきは少しだけ収まる。

 包丁の音が、また規則正しく台の上を打ち始めた。


「お嬢様、こちらへ」


 レオンに促され、リリアンヌは長いスカートの裾に気を配りながら歩き出す。

 だが――


「あっ……失礼」


 大皿を運ぼうとした女中とぶつかりかけ、慌てて身を引く。

 引いた拍子に背中が別の調理台に当たり、そちらでは刻んだ野菜を抱えた少年が慌てて足を止める。


「す、すみませ……」


「わ、私のほうこそ」


 謝る声が三重に重なり、近くの火の番の男が苦笑まじりに眉をひそめた。


 レオンが小さく咳払いをする。


「台所では、“見栄えよりも身軽さ”ですぞ、お嬢様」


「……身軽さ」


 リリアンヌは、はっとして自分の立ち姿を見下ろした。

 背筋を一直線に伸ばし、肩はしとやかに開き、顎の角度も完璧――


(お茶会では、“姿勢の美しさ”を褒められたのに)


 銀のポットを持つために整えられた指先や、カップを口元に運ぶときの微笑みの角度。

 それらを評価する人間は、この厨房にはいない。


(ここでは、綺麗さより“動きやすさ”のほうが、ずっと価値がある)


 靴音さえなるべく立てないようにと教え込まれた歩き方が、今は調理場の動線を塞いでいるのだと、痛いほど理解できてしまった。


「お嬢様」


 レオンが、近くの棚から白い布を取り上げた。

 厚手の、使い込まれた布――エプロンだ。


「よろしければ、これをお着けください」


「……エプロンを、わたくしが?」


「はい。粉も油も飛びます。袖口も――」


 レオンはちらりと、レースのついたドレスの袖先に目をやる。


「少々、上げさせていただいたほうがよろしいでしょう」


 リリアンヌは一瞬、ためらった。

 幼い頃から「肌を見せすぎてはしたない」ときつく言われてきた。その教えが、腕まくりという動作に自然とブレーキをかける。


 だが、すぐに浮かんだのは、粉にまみれてパン生地をこねていたパン屋の夫婦の姿。

 そして、熱い鉄板を前に汗を光らせて笑っていた少年少女の顔だった。


(あの人たちは、こんなこと気にも留めず、当たり前のように腕を使っていたわ)


 リリアンヌは、そっと息を吸い込む。


「……汚れてもよい服装、というわけですわね」


 自分でそう言ってみると、胸の内の迷いがほんの少し軽くなった。


「もちろん、限度はございますが」


 レオンが、僅かに口元を緩める。


「“作る人”としてここに立たれるなら、まずはその身支度からですな」


「――承知しましたわ」


 リリアンヌは、侍女レティシアの助けを借りて、ドレスの上からエプロンを身につけた。

 真っ白だった布は、ところどころ薄く染みがついている。

 それは、この場で積み重ねられてきた“実務”の痕跡だった。


 袖口を少しだけ肘の上までたくし上げる。

 白い肌が、熱気に当たってひやりと震えた。


 鏡はない。だが、窓ガラスに映った自分の姿をちらりと見て、彼女は思う。


(この格好でサロンに座れば、きっと眉をひそめられるでしょうね)


 だが、同時に胸の奥が、少しだけ軽く、自由になった気もした。


 周囲では、相変わらず包丁の音と鍋のぐつぐつと煮える音が続いている。


「さて、お嬢様」


 レオンが、粉袋の前で腰を下ろしながら言った。


「ここから先は、“公爵令嬢”ではなく、“レオンの弟子”として扱わせていただきますが――よろしゅうございますな?」


 今度は、リリアンヌは迷わず頷いた。


「ええ。どうか、そうしてくださいませ、師匠」


 その言葉に、近くの若いコックたちが、思わず顔を見合わせる。

 そして、小さく笑いをかみ殺した。


(お茶会で学んだ“優雅な所作”は、この台所ではほとんど役に立たない)


 それは、決して惨めな発見ではなかった。

 むしろ――新しい場所に、一から立たせてもらえるような、不思議な高揚感を連れてきた。


(ここでは、綺麗に座っているだけでは誰の役にも立てない。

 だからこそ、わたくしの“これから”を試す場所としては、ちょうどいいのかもしれませんわね)


 エプロンの紐をきゅっと結び直し、リリアンヌは粉袋に向き直る。


 優雅さが通用しない場所で、彼女の“失敗の一日”が、静かに幕を開けようとしていた。



 メモの上なら、とても簡単に見えた。


「小麦粉を、この量。卵を二つ。蜂蜜を――大さじ、三杯……」


 リリアンヌは、きちんと揃えられた材料の列を前に、すっかり勉強机の気分でレシピを読み上げていた。


 今日挑戦するのは、素朴な蜂蜜クッキー。

 街のパン屋で食べた丸パンほど本格的ではないが、「紅茶の席に添えられる、庶民寄りのお菓子」として、レオン料理長が選んでくれたものだ。


「では、まず粉をふるってくださいませ、お嬢様」


 レオンが、金属のボウルとふるいを差し出す。


「はい。ええと……こう、ですわよね?」


 リリアンヌは、見本通りにふるいを両手で持ち、優雅に上下させ――


「わっ」


 ちょっと力を込めすぎた。

 ふるいの中の小麦粉が、ふわっと白い霧になって立ちのぼり、彼女の顔めがけて飛んできた。


「くしゅっ……!」


 思わず上品でないくしゃみがこぼれ、鼻の頭に粉がつく。

 近くで野菜を刻んでいた若いコックの少年が、慌てて視線をそらして肩を震わせた。


「お、お嬢様、ふるうときは、もう少し優しく、ですな。そう、腕で振るのではなく、指先で小刻みに」


「……な、なるほど」


(ふるいひとつに、“強すぎる”“弱すぎる”なんてあるのね)


 サロンでティーカップを持つときに、「角度が少し違いますわ」と注意されたことはある。

 だが、小麦粉にまで力加減を見られるとは思わなかった。


「粉がボウルに入ったら、はい、ここに卵を二つ」


 レオンが、卵を二個コトリと並べる。


「卵を割るくらい、わたくしにも――」


 リリアンヌは、自信満々に卵を持ち上げた。

 使用人がテーブルの端で割る手つきは、何度も見てきたはずだ。


 コン、と器の縁に当てて、ぱかっと――


 ……いかない。


 殻が割れたかと思えば、今度は力を入れすぎて、中身がどろりと指に伝っていく。

 慌ててボウルに落とした瞬間、殻の欠片がぽちゃんと沈んだ。


「っ……!」


「殻が入ったら、慌てずに。指でつまむと、卵白に引っ張られて取りづらいので……こうして、殻同士を近づけると、ほら」


 レオンが小さな破片を、殻の縁で器用にすくい上げて見せる。


「……魔法みたいですわ」


「厨房の魔法というやつですな」


 からかうでも、見下すでもない声。

 リリアンヌは、少し頬を赤らめながら、二つ目の卵に挑戦する。


(今度こそ、静かに――)


 慎重になりすぎて、こんどはコン、と当てる力が弱すぎた。

 ひびが入った卵は、なかなか殻が割れず、中身がじわりとにじむばかり。


「お嬢様、力を入れるのでも抜くのでもなく、“切る”ように当てるんです」


「き、切るように……?」


「ええ。手首だけ、ちょっと鋭く」


 言われた通りにやってみると、今度はきれいに割れた。

 ボウルの中に、卵黄がぷかりと浮かぶ。


「やりましたわ!」


 小さな成功に、思わず声が弾む。

 すぐそばでスープをかき混ぜていた年配の女中が、ふっと目を細めた。


「最初からうまくやれる人なんておりませんよ、お嬢様」


 彼女はそう言って、何事もなかったように自分の鍋に視線を戻す。

 その自然さが、リリアンヌの胸のこそばゆさを、少しやわらげてくれた。


「さて、次は蜂蜜ですな」


 レオンが、金のように輝く琥珀色の液体が入った小瓶を取り上げる。

 とろり、と匙を伝うその様子に、リリアンヌは思わず目を奪われた。


「大さじ三杯、と教本にはありますが……」


 計量スプーンに蜂蜜をすくいながら、ふと疑問が浮かぶ。


「この“山盛り”というのは、どこまでが山なのでしょう?

 このぐらい? それとも、もう少し盛り上げるべき……?」


 すくった蜂蜜は、ぷっくりと膨らんでいる。

 だが、角が落ちそうで落ちないその形が、“一杯”なのか“多すぎ”なのか、教本には書いていない。


 レオンは少し笑って、肩をすくめた。


「良い質問ですな。教本には分量が書かれていますが、“天気”や“小麦粉の状態”で、加減は変わることがあります」


「天気、で……?」


「湿気が多ければ粉が重く、乾いていれば軽い。蜂蜜も、寒ければ固く、暑ければ緩む。

 同じ“大さじ三杯”でも、日によって、少しずつ違う味になるのですよ」


「……それでは、正しい答えはどこに?」


 思わず、半分真剣に問い返してしまう。


 レオンは、少しだけ真面目な目になった。


「“正しい答え”は、舌と手が決めるものです。

 何度か失敗して、“自分の加減”を覚えるしかありませんな」


 その言葉に、リリアンヌの胸がきゅっとなった。


(失敗して覚える……?)


 前の人生、彼女の世界では、「失敗しないこと」が前提だった。

 淑女の教育も、舞踏も会話も、誤りなくこなして当然。

 一度でも転べば、「あの公爵令嬢は思ったほどではない」と噂される。


(でもここでは――“失敗しながら味を決めていく”のが、当たり前)


 蜂蜜をそっと垂らしながら、リリアンヌは自分の胸の内に生じた違和感を、まじまじと見つめた。


 ボウルの中で、粉と卵と蜂蜜が重なる。

 レオンが木べらを手渡す。


「では、お嬢様。ここからは、混ぜてください」


「かき混ぜるだけなら、得意ですわ」


 ティーカップの中の砂糖を溶かすように――と、リリアンヌは、ふんわりとした動きで木べらを回す。

 だが、表面だけがくるくる回り、底の粉は固まったままだ。


「……あれ?」


「もう少し、底からすくい上げるように。粉を“引き上げて”、押しつぶす感じです」


 言われた通りに力を込めてみる。


「こ、こうですの?」


 ぐい、と木べらを押しつけると、今度は反動で生地が跳ね、まだゆるい部分がボウルの縁を越えて飛び散った。

 近くのテーブルに、ぴとりと淡い生地のしみがつく。


「っ、ご、ごめんなさい!」


 リリアンヌは慌てて布巾を掴もうとして、置き場所を見失い、くるりと視線を彷徨わせる。


「大丈夫です、大丈夫です。ここは汚れる場所ですから」


 女中がぱっと布巾を差し出し、手早く拭き取る。


「最初はそんなものですよ、お嬢様」


「ええ、最初は皆、ボウルより自分の服を混ぜますからね」


 別のコックの冗談に、周囲から小さな笑いがもれる。

 嘲りではなく、どこか親しみを含んだ笑いだった。


 リリアンヌは、耳まで赤くしながらも、木べらを握り直す。


(完璧にこなせないわたくしを、誰も責めない)


 それが、信じられないほど、不思議だった。


(むしろ、“失敗前提”で見られている……)


 緊張で固くなった指先に、粉の感触が伝わってくる。

 ボウルの底からすくい上げて、押しつぶし、またすくい上げる。


 少しずつ、ダマだった粉が、蜂蜜と卵に馴染んでいく。

 まだ滑らかとは言い難いけれど、さっきよりも、確かに生地らしい重みが腕に伝わってきた。


「……ふう」


 額にうっすら汗がにじむ。

 サロンでの優雅な微笑みよりも、ずっと息の上がる作業だった。


「上々です、お嬢様。初めてにしては、なかなか筋がよろしい」


「ほ、ほんとうに? ええと……どこが、でしょうか」


「その顔です」


「顔?」


「“疲れました”と正直に出ている顔は、厨房では歓迎されます。

 黙って倒れられるより、いくらでもマシですから」


 レオンの冗談に、周囲の使用人たちがまたくすりと笑う。

 リリアンヌも、思わず笑ってしまった。


 頭の中で完璧に描いていた“レシピ通りの動き”は、ひとつとしてその通りにはできなかった。

 粉は舞い、卵の殻は落ち、蜂蜜の匙は迷い、木べらは暴れた。


 けれど――


(こんなにたくさんつまずいているのに)


 胸の奥には、妙な充足感があった。


(失敗しているわたくしを、誰も笑いものにはしていない。

 むしろ、“ここから覚えればいい”という目で、見てくれている)


 それは、貴族のサロンでは得られなかった感覚だった。


 湯気と笑い声と粉の匂いの中で、リリアンヌの“失敗のタネ”は、確かに生地の中に練り込まれていく。


 このあと、オーブンから出てくるものが、思い描いていた「完璧なお菓子」からどれほど遠いものであろうとも――

 彼女はもう、それをただの「みっともない失敗」とは呼べなくなりつつあった。



丸めた生地が、天板の上に並んでいる。


 ――並んでいる、はずなのだけれど。


「……少し、いびつですわね」


 リリアンヌは、自分の並べた列を見下ろして、苦笑した。


 隣の料理人が手際よく丸めた見本は、まるで型を抜いたように、すべて同じ大きさ、同じ厚みだ。

 それに比べて彼女のクッキー生地は、大きいもの、小さいもの、平たいもの、妙に背の高いものと、ばらばらだった。


「揃っていないと、火の通りも揃いませんよ」


 レオン料理長が、穏やかに注意する。


「同じ時間、同じオーブンに入っていても、大きさが違えば、焼け具合が変わります。

 ……人間と、あまり変わりませんな。立場が違えば、同じ時間でできることも違う」


「……生地にまで、人生を重ねられるとは思いませんでしたわ」


 軽口で返してはみたものの、リリアンヌは、へにょりと潰れかけた丸を見つめる。


(これでは、きちんとしたお皿に並べたとき、すぐわかってしまうわね)


 紅茶会の菓子皿には、いつだって寸分違わぬ茶菓子が並んでいた。

 大きさが揃い、形も揃い、焼き色まで完璧にそろった、美しい一列。


(その裏で――どれだけの手が、何度も丸め直してきたのかしら)


 そんなことを考えながらも、とりあえず天板はいっぱいになった。


「では、オーブンに入れましょうか」


 レオンが重たい鉄の扉を開く。

 熱気が、ふわりと顔に押し寄せた。


「わ、あつ……」


「これでも火は落としてあります。現場では、これよりもっと熱いところもありますからな」


 リリアンヌは、厚手のミトンをはめた手で、そろそろと天板を持ち上げる。

 重みが、いつも持つティーポットとは違う。腕にずしりとのしかかった。


(落としたら、一瞬で全部台無し……)


 喉がひゅっと細くなる。

 しかし背後から、レオンが軽く天板の端を支えてくれた。


「焦りは禁物です。走らなければ、落としませんよ」


「……はい」


 オーブンの中段に天板を滑り込ませると、鉄の扉が重い音を立てて閉まる。

 レオンは砂時計をひっくり返した。


「焼き上がりは、この砂が落ちきる頃」


 淡い砂が、さらさらと落ちていく。

 それを見つめていると、どこかで覚えのある感覚が胸をよぎった。


(……試験の結果を待つときみたいですわ)


 答案用紙が回収されたあと、廊下に貼り出されるまでの、あの長い時間。

 どんなに考えても、紙の上の文字は変えられないとわかっているのに、何度も頭の中で回答をなぞってしまう、そわそわした落ち着かなさ。


 今も、オーブンの向こうにある生地を、どうにかしてやり直したい気持ちがむくむくと湧いてくる。


(もっと丸くすればよかったかしら。少し平たくしたほうがよかったかしら。蜂蜜を、あと半匙……)


「扉は、開けないほうがよろしいですよ」


 心を読んだかのように、レオンが言った。


「途中で覗くと、熱が逃げてしまう。そうすると、余計に焼きムラが出ます」


「……覗くだけでも、ですの?」


「ええ。心配しすぎも、時には失敗のもとです」


 リリアンヌは、そっと両手を組んだ。

 祈っている自分に気づき、苦笑する。


(クッキーごときに、祈るなんて)


 少しして、砂時計の砂がすべて落ちた。

 厨房の隅に吊るされた小さな鐘が、ちりん、と鳴る。


「さて――結果発表ですな」


 レオンがオーブンの扉を開く。

 立ちのぼる熱気と一緒に、甘く香ばしい匂いが溢れ出した。


 リリアンヌは、胸をどきどきさせながら、中を覗き込む。


 そこで、言葉を失った。


「…………あ」


 天板の手前側。

 彼女が少し小さめに丸めたクッキーは、縁がぐるりと濃い茶色に焦げていた。


 反対に、奥の列――大きめに丸めたものは、まだ心持ち白い。

 ところどころ、焼き色がついているものの、全体的には「あと一歩」の色をしている。


 見事なまでに、均一ではない。


 その上、丸かったはずの形は、あちこちで広がり方が違い、楕円、おかしな三角、謎の雫型になっていた。


「……こ、これは」


 喉の奥がきゅっと締めつけられる。

 目に熱がにじむのを、リリアンヌは自分でも笑ってしまいそうになりながら堪えた。


「これでは、とても……人さまにお出しできませんわ」


 かろうじて、そう絞り出す。


 レオンは、天板を取り出しながら首を振った。


「見た目はさておき、“どこがどう失敗しているか”を確かめるのも、大事な仕事です」


「どう、失敗……」


「はい、お嬢様。まずは、端と真ん中で味見をしてごらんなさい」


 そう言って、手前の一枚を取る。

 縁が一番黒いものを選んだのは、わざとだろう。


 レオンが、それをぱきりと半分に割る。

 割れ目から、ほろほろと崩れた端と、まだ少し湿り気のある中心が見えた。


「焦げたところと、白いところ。両方、口に入れて、舌で覚えるのです」


「……舌、で」


「ええ、“失敗の味”というやつですな」


 差し出された半分を、リリアンヌは震える指で受け取る。

 焦げた縁を、恐る恐るかじった。


「…………っ」


 苦みと、強すぎる香ばしさ。

 甘さは完全に負けていて、歯触りも固く、ほとんど「菓子」というより「間違って焼いた何か」だ。


 思わず眉がひそむ。


「苦いですわ……」


「そうでしょうとも。砂糖と蜂蜜は、焦げればたいてい苦い」


 レオンは悪びれずに頷く。


「しかしその苦さを、舌で覚えておくといい。次に焦げる前の香りがしたとき、“ここまで焼けば苦くなる”と、自然とわかるようになります」


 次に、中心の白い部分を口に含む。


 こちらは逆に、噛みしめても、さっきのような香ばしさはない。

 少し粉っぽく、ところどころでざらりと舌に残る。


「……こちらは、味が、ぼんやりしていて」


「火の通りが足りませんな。粉の味も残っている」


 レオンは、クッキーの断面を指先で示す。


「火が弱く、時間も足りないと、こうなります。

 手前と奥で焼き加減が違うのは、さっきもお話ししたとおり、大きさと位置の問題です」


「……全部、わたくしのつけた“差”のせいですのね」


 リリアンヌは、天板の上のクッキーたちを見回した。

 焦げすぎた者、半焼けの者――そのどれもが、自分の手から生まれたものだ。


 胸の奥で、じわりと悔しさが湧き上がる。


(こんなものしか、作れないなんて)


 目の奥が、また熱くなる。

 彼女はぐっと唇を噛みしめた。


「……っ」


 泣きそうな顔を見て、レオンは小さく息をついた。


「お嬢様」


「っ、申し訳ありません。情けなくて……。

 “図書室のお茶会で振る舞いたい”なんて、身の程知らずでしたわ」


「身の程知らず、ですと?」


 レオンの声に、少しだけ厳しさが混じる。


「では、お聞きしますが――“一度も焦がしたことのない料理人”と、“何度も焦がして、そのたびに味見をしてきた料理人”と、どちらのほうが腕がいいと思われます?」


「……それは、もちろん……後者、でしょうけれど」


「ならば、お嬢様は、今日、ほんの少しだけ“腕のいい人間側”に踏み出されたわけです」


 ぽかんとして、リリアンヌは料理長を見つめた。


「焦げの苦さも、半焼けの粉っぽさも、知らない者には直せません。

 教本には、“こうすればうまくいく”ことしか書かれていない。

 ですが厨房は、“こうするとまずくなる”のほうを、先に覚える場所でもあります」


 そう言って、レオンは自分もクッキーの欠片をひとかけ口に入れた。


「ふむ。たしかに、焦げましたな」


 まるでたいしたことではない、という顔で。


「しかし、蜂蜜の香りは悪くない。粉の量もそう大きくは狂っていない。

 次は、もう少し生地を薄く、同じ大きさに。それから、天板を途中で一度、前後入れ替えてみましょうか」


 リリアンヌは、自分の手の中の欠片を見つめた。

 さっきまで「恥の塊」に見えていたそれが、急に違って見える。


(これは、ただの失敗じゃない)


 焦げの苦さも、半焼けの粉っぽさも、彼女の舌に強烈な印象を刻みつけている。


(――“次に同じ失敗をしないための味”)


 そう思った瞬間、こみ上げていた涙が、別のものに変わった。


 悔しくて、情けなくて、でも、どこかおかしくもある。

 彼女は、クッキーの欠片を握りしめたまま、ふっと笑ってしまった。


「……ひどい味、ですわね」


「ええ、ひどいでしょうとも」


「でも――」


 焦げた端を、もうひとかじり。

 顔をしかめながらも、ちゃんと飲み込む。


「“これを二度と出したくない”と思えるくらい、はっきり覚えられましたわ」


 笑いながら言うその声は、少し鼻声だった。


 周囲で見ていた使用人たちの中から、くすくすと笑いが漏れ出す。

 誰ひとり、彼女を馬鹿にしてはいない。

 むしろ、どこか誇らしげに見ている者さえいた。


 焦げと半焼け。

 その両方を一度に知ってしまったクッキーの初挑戦は、見事に「失敗」だった。


 けれどその失敗は、彼女の舌と心に、確かな“味”として残ったのだった。


指先に、かたくなった感触があった。


 天板の端で、いちばん黒くなってしまったクッキーを、リリアンヌはそっとつまみ上げる。

 小さく割ると、ぱきん、と乾いた音がした。


(……これが、わたくしの“初めての焼き菓子”ですのね)


 そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。


 焦げた欠片を、唇の前まで持っていく。

 ほんの数センチの距離が、やけに遠い。


「お嬢様?」


 傍らで見守っていた料理長・レオンの声が、やわらかく届く。


 リリアンヌは小さく息を吸い込んだ。


(王子殿下との初めての舞踏会も、婚約者としての学園生活も――)


 脳裏に、鮮やかな光景がいくつもよみがえる。

 煌びやかな舞踏会場。

 皆の視線を浴びて歩いた回廊。

 そして、その先に待っていた「婚約破棄」の瞬間。


(あのときの“失敗の結末”を、わたくしはいつも、噂や他人の口から聞かされただけだった)


 誰かが囁く「氷の令嬢」。

 誰かが断じる「殿下にふさわしくなかった女」。


(自分で噛みしめることなんて、一度もしてこなかった)


 だから今だけは――。


 焦げた欠片を、そっと歯で噛む。


 じわり、と苦味が広がった。


「……っ」


 あまりの苦さに、思わず目をぎゅっと閉じる。

 舌の上でざらりとした粉っぽさが残り、ほんのかすかに、蜂蜜の甘さが締め出されるように遠くで揺れている。


 ひどい味だった。


 そのひどさが、妙に胸に堪えた。


(不味い……)


 涙が、にじむ。

 それは舌が驚いたからだけではない。


(こんなものしか作れなかった、自分の不器用さが悔しくて)


(“うまくやりたかった”っていう気持ちが、情けなくて)


 ぽとり、と涙が一滴、エプロンの上に落ちた。


 リリアンヌは慌てて袖で目尻を拭う。


「……申し訳ありません。厨房で泣くなんて」


「いえいえ」


 レオンは、どこか誇らしげな顔で首を振った。


「初めて自分の失敗を食べた人間は、大体そんな顔をしますよ」


「……そんな顔?」


「ええ。悔しくて、不味くて、それでも――ちゃんと食べている顔です」


 そう言って、レオンは別の焦げかけたクッキーをつまみ、自分も一口かじった。


「ふむ。たしかに焦げてますな。苦い」


 あっさりと言って、飲み込んでしまう。


「ですが、“どこをどう間違えたか”さえ覚えていれば、次はきっと今日より美味しくなる」


 リリアンヌは、まだ手の中に残っている半分を見つめた。


 黒ずんだ縁。

 割れ目から覗く、まだ白っぽい生地。


(これは、わたくしの“失敗そのもの”)


 逃げようと思えば、いくらでも逃げられる。

 「これは失敗作ですわ」と言って捨ててしまえば、舌に残るのは香りの記憶だけだ。


 でも――。


「……も、もう一口、試してみてもよろしいですか?」


「もちろん」


 レオンが、少し目を細める。


 今度は、中心に近いほうをそっとかじる。

 さっきほどの苦さはないが、真ん中はまだ、もっさりと重い。

 粉のざらつきが残り、舌に張り付くような感触。


 けれどさっきより、ほんの少しだけ蜂蜜の甘さを感じた。


「……やっぱり、不味いですわ」


 素直にそう言うと、レオンは吹き出しそうになりながらも、笑いを堪えた。


「正直でよろしい。ですが、その“不味い”にもいろいろあります」


 彼は指折り数えるように言う。


「焼きすぎて苦い“不味さ”。焼けきらず粉っぽい“不味さ”。

 蜂蜜が少なすぎる“不味さ”。混ぜ方が足りない“不味さ”。

 それを舌で区別できるようになれば――もう、半分一人前です」


「半分、ですの?」


「ええ。残りの半分は、“それでもまた作ろうと思えるかどうか”ですから」


 リリアンヌは、手の中のクッキーを見下ろし、ゆっくりと息を吐いた。


(――不味い)


 心の中でも、同じ言葉を繰り返す。


(でも、“わたくしが失敗した”という事実ごと、今はちゃんと飲み込みたい)


 噂が運んできた失敗の話ではなく。

 誰かが決めた「悪役」の役柄でもなく。


(泣きたくなるような味でも……口にして、覚えて、次に繋げる)


 ぽろり、とまた涙が一粒こぼれる。

 けれど今度の涙には、ほんの少しだけ、笑いが混じっていた。


「今のわたくしには、それが必要ですわ」


 小さく呟きながら、リリアンヌは残りの欠片を全部、口に放り込んだ。


 苦くて、粉っぽくて、でもたしかに、自分の手で作った味。

 それをゆっくり噛みしめ、喉の奥へと送っていく。


 泣きながら、笑いながら。


 その顔を見て、厨房のあちこちから、くすっとした笑いと、温かな視線が集まる。


 失敗の味は、決して甘くはなかった。

 けれどその苦さは、きっと次の一歩を、もう少しだけ前へ押し出してくれる。


 そう思えるくらいには――その一口は、ちゃんと“彼女のもの”になっていた。


涙で滲む視界の向こうで、焦げたクッキーの山がぼやけていた。


「……こんな顔、殿下の前では絶対にお見せできませんわね……」


 鼻をすすると、声まで情けなく震れる。

 自分で言って、自分で少しおかしくなって、くしゃくしゃの顔のまま苦笑した。


 そのときだった。


「ぷっ……」


 かすかな吹き出す音が、右のほうから聞こえた。


 野菜の皮むきをしていた若い下働きの料理人――マルクが、慌てて口元を押さえる。


「す、す、すみませんっ、お嬢様……!」


 包丁をまな板に置き、青ざめた顔で振り向く。


「その、その……“こんな顔”が、あまりにも……いえ、その……」


 ごにょごにょと口ごもるマルクのまわりで、周囲の空気が一瞬で固まった。


「おい、マルク」「今、お嬢様に何て――」


 年長の料理人たちが、あわてて制止しようと身を乗り出す。

 天井近くで立ちのぼる湯気さえ、ぴたりと止まったような緊張。


 そんな中で、マルクは半泣き寸前におびえていた。


「その……少し……子どもっぽくて……かわい……いえ、違う、ええと――」


 しどろもどろになる彼を見て、リリアンヌはふっと肩の力を抜いた。


 次の瞬間。


「ふ……ふふっ」


 自分でも驚くほど、あっさりと笑いがこぼれた。


 涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、リリアンヌはマルクに向き直る。


「そうですわね」


 目元を指先で拭いながら、わざとらしく胸を張る。


「“子どもっぽい顔”を、お嬢様らしくなくてごめんなさいませ」


 きっぱりと言って、ぺこりと頭を下げてみせた。


 一拍の沈黙。


 そして――。


「……ぷっ」


「ははっ……!」


「お嬢様、それは反則ですって……」


 さきほどまで固まっていた空気が、ふわりとほどけていく。

 鍋をかき回す音も、包丁のリズムも戻り、その合間にくすくすと笑い声が混ざった。


 マルクは真っ赤になりながら、胸に手を当てて頭を下げる。


「も、申し訳ありません、本当に……! でも、その……今のお顔、すごく……人間らしくて……」


「まあ。今までわたくし、人間ではございませんでした?」


 リリアンヌが軽く首をかしげて返すと、周囲がどっと沸いた。


「お嬢様、それ以上言うとマルクが泣きますよ」


「マルク、お嬢様に謝るなら、今度は焦がさないクッキーを一緒に焼いてもらえ」


「それはお前の仕事だろう」


 軽口が飛び交う厨房に、レオンがパン、と手を叩く音が響く。


「はいはい、静かに。鍋が拗ねますぞ」


 ひとしきり笑いが落ち着いたところで、レオンは少し真面目な表情になり、みんなの視線をリリアンヌへと促した。


「本日の教訓」


 と、彼はわざわざ宣言めかして言う。


「――“泣きながら味見できるお嬢様は、いい料理人になれる”」


 ぽかん、とする者。

 「はあ?」と苦笑する者。

 そして、その中で、最初にぱちぱちと拍手を始めたのはマルクだった。


「……そう思います!」


 ぎこちないが、真っ直ぐな拍手。


 それにつられるように、一人、また一人と手を叩き始める。


 大鍋の前の年配の料理人が、照れくさそうにぼそりと言う。


「泣いても、逃げなかったからなあ。たいしたもんだ」


「お嬢様のクッキー、たしかに不味かったけど……」


「でも、あの顔で食べられたら、なんだかこっちまで、次は美味しくしてやろうと思いますね」


 言葉とは裏腹に、皆の表情はあたたかい。


 ぱちぱちと鳴る手のひらの音が、失敗の焦げた匂いに、不思議と甘さを混ぜていくようだった。


 リリアンヌは、きゅっと唇を噛んで、それから小さく笑った。


(前の人生では――)


 拍手を聞きながら、そっと目を伏せる。


(“失敗したわたくし”を、誰かに見られることが怖かった)


 舞踏会でドレスの裾を踏みそうになった瞬間も。

 学園で答えに詰まったときも。


 失敗の予感がするたびに、完璧な微笑みを貼りつけて、ごまかしてきた。


(誰かと一緒に笑ってしまう余裕なんて、どこにもなかった)


 今、目の前には――自分の焦がしたクッキーを前に、あたたかく笑う人たちがいる。


 料理長も、下働きのマルクも、鍋を見張る料理人たちも。


(今は……少しだけ)


 リリアンヌは、胸に手を当てる。


(こうして一緒に、失敗を笑ってくれる人たちが傍にいるなら)


(“怖い”より、“ありがたい”が勝つ気がする)


 涙はまだ完全には引いていない。

 目尻は赤く、鼻も少しぐすぐすしている。


 それでも、さっきとは違う笑みが浮かんでいるのが、自分でもわかった。


「皆さま、本日は……わたくしの、ひどく不出来なお菓子に、お付き合いくださってありがとうございます」


 エプロンの裾をつまんで、ぺこりと頭を下げる。


「次は、“泣かずに笑える味”を目指しますわ」


「いえ、その前に“泣きながらでも美味しい味”を目指しましょう」


 レオンの軽口に、また笑いが起きた。


 焦げと半焼けの残る天板。

 粉だらけの作業台。

 涙の跡の残る頬。


 その全部を、台所の拍手がやさしく包み込んでいた。


その夜の自室は、いつもより少しだけ静かに感じられた。


 机の上には、開きっぱなしの勉強ノートと、今日のできごとをつづった日誌。

 それらの片隅に、小さな布包みがひとつ、ぽつんと置かれている。


 白い布には、うっすらと油じみ。

 ほんの少し、焦げた香りがにじんでいる。


 リリアンヌはペンを置き、深く息を吐いてから、その包みにそっと指をかけた。


 きゅっと結ばれた紐をほどく。

 布をめくると――昼間、厨房で焼いた、あの不出来なクッキーたちが姿を見せた。


 縁が黒くなりすぎたもの。

 焼き色がつききらず、いびつな形のままのもの。


 どれも、サロンの銀盆には到底載せられない代物だ。


(……これを人にお出ししないと決めたのは、意地ではありませんわ)


 胸の内で、ゆっくりと言葉を選ぶ。


(“お嬢様らしくないから”ではなく――わたくしが、自分で選んだ責任)


 まるで、判決を言い渡すみたいに、ひとつをつまみ上げる。

 指先に伝わる、少し固い感触。ところどころ、ざらりとした面。


 リリアンヌは、覚悟を決めて、ひと口かじった。


「……っ」


 思わず、眉が寄る。


 焦げの苦みが舌の上に広がり、奥のほうにざらついた粉っぽさ。

 ほんの少し、蜂蜜の甘さが顔を出そうとするのに、その手前で苦さに押し返されてしまっている。


 お世辞にも、「美味しい」とは言えない。


 けれど、口から出してしまうことはしなかった。


 噛みしめて、飲み込む。


 喉を通るとき、胸のあたりが少しだけ熱くなった。


「……本当に、ひどい味ですわね」


 苦笑いが漏れる。

 自分で自分の作品にダメ出しをするなんて、ついこの間までの自分なら、絶対に口にしなかっただろう。


 でも今は、その言葉のあとに、自然と別の想いが続いた。


「でも、次は――」


 クッキーを見つめる瞳に、そっと灯が宿る。


「きっと今日より、少しだけ美味しくしてみせますわ」


 その瞬間、どこか遠いところから声が聞こえた気がした。


『失敗した夜に食べたパンの味は、案外、一生忘れないものですよ』


 森の夜。焚き火の橙色。

 膝の上に置かれた粗い布のハンカチと、隣で笑っていた“彼”の横顔。


 本当にそんな台詞を聞いたことがあるのか、それとも今の自分が勝手に紡いだ言葉なのか――境目は曖昧だ。


 けれど、その想い出の気配は、不思議と心をあたためた。


「……そう、ですわね」


 リリアンヌは、机の引き出しから、そっとそのハンカチを取り出す。

 指先で布地をなぞりながら、もうひとつ、クッキーをつまんだ。


 今度は、最初より少しだけ覚悟が軽い。


 かじる。

 やっぱり上手くはない。

 顔がしかめっ面になって、思わず肩がすくむ。


 でも、その自分の反応がおかしくて、ふっと笑いがこぼれた。


「泣きたくなるような味ですのに……」


 言いながら、目尻をぬぐう。

 昼間、厨房で流した涙の名残が、まだほんのりと残っている。


「それでも、こうして笑ってしまう夜があっても、いいですわね」


 ぽつりと零した言葉が、静かな部屋の空気にさざ波を立てる。


「だって――」


 手の中の、焦げたクッキーを見つめる。


「そのたびに、少しずつ“自分で自分を好きになれる”気がいたしますもの」


 完璧な微笑みではない。

 口の端がすこしひきつって、涙の名残で目元も赤い。


 それでも、そこにあるのは紛れもなく“本物の笑顔”だ。


 窓の外では、夜風がカーテンをやさしく揺らしている。

 机の上の蝋燭の火が、小さく瞬いた。


 ナイフのように突き刺さる噂から逃げ回っていた頃の自分なら――

 こんな夜の姿を、誰かに見られることを何より恐れただろう。


 けれど今、ここには彼女しかいない。

 失敗作のクッキーと、ハンカチと、日誌と、自分の心だけ。


 彼女はゆっくりと、最後のひとかけらまで食べきった。


 皿の上には、もう何も残っていない。


 代わりに胸の中に残ったのは、焦げた苦みと蜂蜜のようなかすかな甘さ、そして――それを「自分の味」として覚えようとする決意。


 窓の外の夜空を見上げながら、リリアンヌはそっと目を閉じる。


 涙のにじむ苦さと、笑いを誘う甘さが、静かに混ざり合っていく。


 ――かつて、失敗を噂で知らされるだけだった令嬢は、

 今、焦げた焼き菓子をかじりながら、自分の失敗の味を覚えようとしていた。


 泣きながら笑う夜があっても、いい。


 そう思えたとき、リリアンヌははじめて、

 “失敗さえも、自分の物語の一部として抱きしめる”ことを、静かに覚え始めていた。






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