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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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庶民の友 ―― 紅茶よりもパンが美味しいことを知る。

午後の陽射しが柔らかく傾き始めた頃、公爵邸の一番日当たりの良いサロンには、完璧に整えられた「優雅さ」が並んでいた。


 磨き上げられた丸テーブルには、白磁のティーセット。

 金の縁取りと繊細な蔦模様が描かれたカップ、その横には、小さく宝石のように飾り立てられた砂糖菓子と焼き菓子の皿。


 銀のティーポットの中で、選び抜かれた茶葉が静かに蒸されている。


「――では、公爵令嬢様。もう一度、“招く側”としての手順をおさらいしましょうか」


 細身の家庭教師が、背筋を伸ばしたまま穏やかに告げる。

 年若いが、その目には「宮廷の作法はすべて心得ております」という自負が滲んでいた。


「はい、先生」


 リリアンヌは、淀みなく微笑んで立ち上がる。


 ポットの柄をとる角度。

 左手は決して宙に浮かせず、ポットの蓋にそっと添える。


 茶を注ぐとき、カップの縁すれすれで注ぐのは下品。

 けれど高く持ち上げすぎれば、音が立つ。


 ――最初の一滴から最後の一滴まで、まるで“落ちる音”すら計算されているかのように、静かな紅茶の線がカップへと収まっていく。


「たいへん結構ですわ、公爵令嬢様。殿下のお側に立たれても、まったく遜色ありません」


「恐れ入りますわ」


 口元だけで柔らかく笑みを刻み、リリアンヌは恭しくカップを差し出す。


 受け取る側の仕草も、先生の役目だ。

 カップの絵柄を真正面に来るよう回してから置いたかどうか、相手が一口含んだあとに、どのタイミングで砂糖菓子を勧めるのが最も美しいか――そんなことまで、細部にわたって確認されていく。


「最近は、こちらの銘柄が宮廷でも流行なのですよ。殿下もお好みだとか」


 家庭教師が誇らしげに語ると、侍女がうやうやしく小さな缶を持ってきた。

 蓋を開ければ、確かに高級茶葉特有の、花々と果実を混ぜたような甘い香りがふわりと立ち上る。


「殿下は、少し渋みのある味を好まれます。ですから砂糖は控えめに、その代わりに焼き菓子で甘さを補うのが――」


「殿下にはこの銘柄、王妃殿下にはこちらの軽やかな香り……覚えておいて損はありませんわ」


 話題は、当然のように“上”へ向かう。


 王宮で流行の焼き菓子の名。

 どの伯爵家の令嬢が、どれほど優雅にティーカップを傾けたか。

 誰の微笑みが「王妃候補として申し分ない」と陰で褒めたたえられているか。


 リリアンヌは、そのどれもを聞き逃さない。

 適切な相槌のタイミング、感心すべきところと謙遜すべきところ――すべて心得ている。


 カップを持ち上げる。

 小指を立てるのはかえって無作法。指先は揃えて、手首の角度だけで優雅さを演出する。


「……」


 香りは、たしかに良い。

 舌に落ちる液体も、渋みと甘みの調和がとれているのだろう。

 家庭教師は、にこにこと満足げにこちらを眺めている。


 ――それでも。


 喉を通り過ぎる紅茶の温度と、胸の内側は、不思議なほど結びつかなかった。


(わたくしは、何度でも“優雅なお茶会”を演じることができる)


 笑みを崩さないまま、心の中でそっと言葉を落とす。


(ティーポットも、カップも、会話も。

 殿下のお好みの銘柄も、宮廷で流行の菓子も――すべて、間違えずに並べてみせられる)


 再び紅茶を一口含む。

 舌の上を滑るそれは、教本どおりの「洗練された味」なのだろう。


(でも――この紅茶の味を、“本当に美味しい”と思ったことが、どれほどあったかしら)


 身体は、完璧に覚えている。

 どの角度でカップを傾ければ、もっとも美しく見えるか。

 どんな笑い方をすれば、「あのリリアンヌ様はさすが」と囁かれるか。


 けれど、「美味しい」と心から思った記憶は――案外、指で数えられるほどしかないのではないか。


「こちらの焼き菓子は、最近王宮でも評判でして……。

 殿下のお隣でお召し上がりになれば、きっと話題の一つにもなりますわ」


 家庭教師の声は、今日も“上”を向いたまま。

 その視線の先にあるのは、いつだって王宮と王族、そして「それにふさわしい令嬢」であるべきリリアンヌだ。


「まあ、それは心強いですわね」


 言葉通りの返事をしながらも、胸の内側は、どこか空洞を撫でられているような感覚だった。


 どれだけ香り高い紅茶を注いでも、その空洞に満ちていくのは、自分の笑顔を上から眺めているような、薄いガラス片ばかりだ。


 ふと、視線が窓の方へ吸い寄せられる。


 レースのカーテン越しに、午後の日がやわらかく揺れている。

 その隙間から、公爵邸の塀の向こう――屋敷の外の通りが、わずかに覗いていた。


 石畳。

 行き交う行商人。

 籠を肩に担いだ少年が、大きな布をかけた荷を何度も持ち直しながら歩いていく。


 その布の隙間から、こんがりと焼けたパンの表面がちらりとのぞいたような気がした。

 同じ通りの角では、小さな台車の上から、薄い煙とともに香ばしい匂いが立ちのぼっている。焼き立ての何かを売る露店だ。


 ガラス越しにも届くほどの、あたたかい香り。


(……あの人たちは、どんなものを“美味しい”と思って暮らしているのかしら)


 ふいに、そんな問いが胸の奥に浮かんだ。


 殿下の好む茶葉でも、宮廷で流行の菓子でもない。

 名前も知らないパン屋の、焼き窯の奥から出てきたばかりのパン。


 粗末な布に包まれたそれを、きっとあの少年は、誰かのために運んでいるのだろう。

 家族か、店か、あるいは飢えた誰かのところへ。


「リリアンヌ様? どうかなさいまして?」


 家庭教師の声に、リリアンヌははっとして微笑みを整えた。


「いいえ、なんでもございませんわ。

 少し、窓の外の匂いが……気になっただけですの」


 紅茶の香りに満たされたサロンに、外の世界の匂いが、ほんのわずか混ざり込んだ気がした。


 それは、どの高級茶葉よりも、まっすぐに「お腹が空きました」と告げてくるような――そんな、温かい匂いだった。



 お茶会指導がようやく終わり、レースのカーテン越しの光が少し傾き始めた頃。


 リリアンヌは、整えられた笑顔をそっとほどくようにして、サロンを後にした。

 静かな廊下に出ると、赤い絨毯が真っすぐ奥まで延び、その先に重厚な扉がいくつも並んでいる。


 ――そのひとつ、執務室の扉が、ちょうど内側から開いた。


「っと」


 書類の束を片手に抱えた男が姿を現す。

 公爵家当主にして、リリアンヌの父。その眉間には、つい先ほどまで数字と判子を相手にしていた者特有の疲れがうっすらと刻まれていたが、娘の姿を認めた途端、その色が少しだけ和らぐ。


「リリアンヌか。ちょうどいいところで会ったな」


「お父様」


 リリアンヌは自然にスカートの裾をつまみ、淑女の礼をする。

 完璧な角度。完璧な所作。――さっきまで繰り返し指導されていた動きだ。


 父は一歩近づき、娘の顔をちらりと見下ろした。


「さきほど、マナーの先生が来ていたな。お茶会の練習は順調か?」


「はい、“順調”ではございますわ」


 返事は教本どおり。

 だが、父の視線は、その言葉よりも速くリリアンヌの瞳の奥を捉えていた。


 そこに滲む、わずかな退屈――

 そして、自分でもまだうまく言葉にできていない、別の色。


「……そうか」


 父は短く頷いたが、その目は「それだけか?」と問いかけているようにも見える。


 リリアンヌは、一瞬迷った。


 「完璧ですわ」と笑ってやり過ごすこともできる。

 実際、前の人生ではそうしてきた。

 父の前でも、教師の前でも、「期待どおりの公爵令嬢」を演じ続けていた。


 けれど今日は、喉の奥に引っかかった小さな違和感を、そのまま飲み込む気になれなかった。


「……お茶会には、きっと意味があるのでしょうけれど」


 ゆっくりと、言葉を選びながら口を開く。


「わたくしにはまだ、“誰のための優雅さ”なのかが、よくわかりませんわ」


 父の眉が、わずかに動いた。


 咎めるような色ではない。

 むしろ、意外なものを見せられた人間の、それを隠しきれない仕草に近い。


「ほう」


 彼は抱えた書類を持ち直しながら、苦笑を浮かべる。


「“誰のための優雅さ”か。……なかなか、手厳しい見解だな」


「そのつもりはございませんわ。ただ――」


 リリアンヌは、先ほどのサロンの光景を思い出す。


 殿下の好みの銘柄。

 宮廷で流行の焼き菓子。

 王妃候補としてふさわしい笑み方。


「殿下や、上の方々のお好みは理解しておかなければならないでしょうし、公爵家としての面目もありますもの」


 そこまでは、頭でわかる。


「けれど……カップを持ち上げる角度ひとつまで、細かく整えていくうちに、ふと考えてしまいましたの。

 ――この優雅さは、どなたの空腹を満たしているのかしら、と」


 それは、貴族の娘としては、やや不遜な問いかもしれない。


 しかし父は、すぐには首を傾げなかった。

 彼は考えるときの癖で、人差し指で書類の端をとんとんと揃え、そのまま宙を見つめる。


「……お前の祖父を、思い出したよ」


 ぽつりと落とされた名前に、リリアンヌは目を瞬く。


「祖父様を、ですの?」


「ああ。あの男はな――公爵にしては口が悪くてな」


 父の口元に、ふっと少年めいた笑みがよぎる。


「『腹の足しにならぬ礼儀は、飢えている者には毒だ』などと、よく言っていた」


 リリアンヌは、その言葉を喉の奥でゆっくり転がした。


「……飢えている者には、毒」


「礼儀は大事だ。立場が高ければなおさらだ。

 だが、腹を空かせている者の前で、延々とカップの角度を語ってみせるのは――礼儀ではなく、ただの残酷だと、あの人は思っていたらしい」


 父の声には、どこか敬意と苦笑の入り混じった響きがある。


「だからだろうな。視察に出るたびに、『まずは自分の茶ではなく、街のパン屋の煙を見ろ』と言われたものだ」


 リリアンヌの胸の内で、さきほど窓の外に見えたパンの香りが鮮やかによみがえる。


 パン籠を担いだ少年。

 石畳に漂っていた、焼き立ての匂い。


 ――自分がさっき口にした紅茶の味より、その匂いの方が、よほどはっきりと記憶に残っているのは、どうしてだろう。


 父は、書類を抱えたまま少し視線を落とし、娘の顔を見つめた。


 さっきまで退屈を隠しきれていなかった瞳に、今は別の色が宿り始めている。


 好奇心。

 戸惑い。

 そして、まだ名前のない小さな渇きのようなもの。


「……ちょうどこれから、街へ出るところだった」


 父は静かに告げた。


「税徴収の報告を受けて、数件、店を回らねばならん。視察というほど大げさなものでもないがな」


「視察……」


「お前も、一緒に馬車に乗ってくるかい?」


 さらりと言われて、リリアンヌは瞬きをする。


 前の人生でも、父の「視察」に同行したことはあった。

 だがそれは、あくまで“公務の一環”として――王子妃候補としての社交訓練の一つとして。


 決められた場所で笑い、決められた感想を述べるだけの、退屈な行事としてしか覚えていない。


 今回、父の口調は、それとは少し違っていた。


「窓から見えるものが、少しは答えになるかもしれん」


「答え……?」


「“誰のための優雅さか”――その問いの、な」


 父はそう言うと、書類を片手に軽く肩をすくめた。


「もちろん、断ってもいい。

 お茶会の練習は、まだ山ほどあるだろうしな」


 廊下に、しん、と静けさが戻る。


 リリアンヌは、自分の胸の内を探った。


 サロンの銀器たちの光。

 窓の外の、パン屋の煙。

 祖父の言葉。

 父の、ほんの少し期待を含んだ眼差し。


 そして――前の人生で、炊き出しの列に並ぶ人々を、ただ「見ないふり」をして通り過ぎた自分の姿。


「……参りたいですわ」


 自分でも驚くほど、答えはすぐに口からこぼれた。


「お父様とご一緒に、街の様子を、“わたくしの目で”見てみたいと思いますの」


 父の目が、ほんの少し丸くなる。


 次の瞬間には、いつもの穏やかな微笑みに戻っていたが、その目の奥に走った光を、リリアンヌは見逃さなかった。


「そうか。それは、私としても心強いな」


 父は満足げに頷くと、執務室の中へ向けて声をかける。


「――リヒャルト。馬車を二人分の支度にしてくれ。ついでに、街に出たついでに買うべき物の一覧も確認だ」


 扉の向こうから執事の返事が響く。


 リリアンヌは、胸の奥に小さく灯った火を、そっと確かめるように息を吸った。


 前の人生で、「公務」としてしか見なかった街。

 今度は、“知りたい”という理由で、その中を覗きに行く。


 窓から見えるパン屋の煙が、紅茶の香りとは違うかたちで、彼女の空っぽだった場所を温めてくれる気がして――


 リリアンヌは、父の隣に並んで歩き出した。



 馬車が城下の石畳に下りた瞬間、空気が変わった。


 公爵邸の庭では決して混ざり合うことのない、いくつもの匂い――

 濡れた石の匂い、露店の果実の甘さ、干し肉の煙、革をなめした匂い、香辛料の刺激。


 そして、そのどれよりも真っすぐ、喉とお腹を直撃してくる香りがあった。


「……お父様」


 思わず、窓の外に身を乗り出してしまう。


 通りの少し先。

 木の看板に麦の穂の印。

 店先には、籠いっぱいのパンが山のように積まれている。


 ふわり、と。

 風に乗って、焼き立ての小麦とバターの香りが馬車の中まで流れ込んでくる。


(……なんて、あたたかい匂い)


 胸の内で、言葉がこぼれた。


(どの高級茶葉よりも、はっきりと“お腹が空きました”と告げてくる香りですわ)


 さきほどサロンで淹れられた紅茶は、たしかに上等だった。

 香り高く、渋みも複雑で、マナー教師は銘柄と産地を誇らしげに語っていた。


 けれど、いま鼻先をかすめるこの匂いは、もっと単純で、もっと正直だ。


 ――今、ここで、誰かが食べるものが焼き上がった。

 ただそれだけを、迷いなく伝えてくる。


 隣で書類に目を通していた父が、娘の視線の先を追い、ふっと目を細めた。


「気になるか?」


「……少し、いえ、かなり気になりますわ」


 自分でも苦笑したくなるほど正直な返答だった。


 父は手にしていた書類を閉じ、前方の御者台に軽く声をかける。


「ここで一度止めよう。時間にはまだ余裕があるはずだ」


 馬車がきゅっと軋んで止まり、御者が外に声を張る。

 近衛たちがさりげなく周囲を確認しつつ、扉が開かれた。


 リリアンヌは裾を持ち上げ、父の差し出した手を取って馬車を降りる。


 石畳に、熱が残っている。

 そして、パンの匂いは――馬車の中で感じたよりも、ずっと濃かった。


「こちらの店には、昔から世話になっていてな」


 父はそう言いながら、パン屋の扉を押す。


 小さな鐘の音が、からん、と鳴った。


 途端に、焼き窯から溢れる熱と、香ばしい小麦の香りが全身を包み込む。

 粉が舞ったのか、光の筋の中で白い粒がふわりと踊っている。


「おや、旦那様。今日はずいぶんとお早いお出ましで」


 カウンターの向こうで、エプロン姿の男が顔を上げた。

 がっしりとした腕、粉だらけの指先。

 その後ろには、丸い背中の妻が生地を成形している。


「仕事のついでだ。……邪魔をしたな」


「いえいえ、旦那様に寄っていただけるなんて光栄で。――お嬢様もご一緒とは」


 パン屋の夫婦は慌てて手を洗い、簡素だが精一杯の礼を取る。

 父はいつもの公的な微笑みよりも、少しくだけた表情で首を振った。


「いつもの視察の途中だ。肩肘張らずにいてくれ。

 今日は、娘にお前たちの“焼き立て”を見せてやりたくてな」


 その言葉に、リリアンヌの胸がくすぐったくなる。


 棚を見渡すと、丸い白パン、少し黒みがかったライ麦パン、

 砂糖をまぶした甘いパンに、固そうな保存用のパンまで、所狭しと並んでいた。


 店の隅では、小さな子どもたちが銅貨を握りしめて列を作っている。


「おばちゃん、今日のおつとめのパン、まだある?」


「あるよ、あるよ。昨日の黒パン、まだ柔らかいからね」


 子どもたちは、硬貨数枚を差し出すと、大事そうに包みを抱えて店を飛び出していく。

 その後ろ姿を、パン屋の夫婦は目を細めて見送った。


 ――粉っぽい床。

 温度の高い空気。

 奥の窯では、まだ赤い火が生きている。


 どれもこれも、公爵邸の整えられた厨房にはない“ざらつき”だった。


「リリアンヌ」


 父に名を呼ばれ、我に返る。


「好きそうなものを選べ」


「わ、たくしが、ですの?」


「ああ。どうせ視察先に行く前に軽く腹も満たしたい。私の分も含めて、いくつか選んでくれ」


 ――パンを、自分で選ぶ。


 それは、紅茶の銘柄をマナー教師に指定されるのとはまるで違う行為だった。


 リリアンヌは、一歩棚に近づき、そっと指先を伸ばす。

 まだほんのり温かい丸パンに触れると、驚くほど柔らかく沈み込んだ。


「まあ……」


 思わず小さな声が洩れる。


「ついさっき、窯から出したばかりでね」


 パン屋の妻が、気恥ずかしそうに笑った。


「旦那様のところの兵隊さんがよく買いに来てくれるから、昼前後は多めに焼くんだよ」


 焼き立ての表面は薄く張った皮のようで、指で押すとすぐに戻る。

 その質感だけで、口の中にまだ知らない柔らかさが広がる気がした。


(サロンの焼き菓子は、“崩れないように”作られていた)


 フォークで刺しても、形を保つように。

 皿の上で、美しく見えるように。


(このパンは、“崩れてもいい”のですわね。

 ――だって、すぐに食べられてしまうのですもの)


 見栄えよりも、腹を満たすことが先にある食べ物。


 その価値観を、初めて真正面から突きつけられたような気がして――


 リリアンヌは、胸の奥を小さく殴られたような衝撃を覚えた。


「これを、いくつかいただけますか?」


 選んだ丸パンを示すと、パン屋の妻は嬉しそうに頷く。


「はいよ。お嬢様のお口に合うといいんだけどね」


 そのやり取りを見ていた父が、ふと口を開いた。


「ここのパンはうちの兵舎にも卸しているがな、あいつら、たまに“領主様の屋敷よりこっちのパンの方がいい匂いだ”などとぬかす」


「ま、まあ、旦那様。それは、口が滑っただけでして……」


 慌てるパン屋を見て、父はハハハと声を立てて笑った。


「気にするな。実のところ、私もそう思わんでもない」


「お父様?」


 思わず見上げると、父は肩をすくめる。


「宮廷の菓子は、見た目も味も凝りすぎていてな。

 たまには、こういう真っ直ぐな食べ物の方がありがたい」


 その「真っ直ぐ」という言葉が、パンの香りとともにリリアンヌの胸に落ちてくる。


 包みを受け取りながら、ふと視界の端に、ひとりの少年の姿が映った。


 薄い上着。

 擦り切れた靴。

 だが、受け取った小さなパンを見つめる目は、宝石を見るように輝いている。


 少年が店を出るとき、扉の鐘がまた鳴った。

 その音が、どこか祝福のように聞こえる。


(……このパン一つが、その子の一日を支えているのかもしれない)


 サロンのティーテーブルに山と積まれていた砂糖菓子を思い出す。

 誰にも手を付けられないまま、片付けられていった皿の数々。


(わたくしは、あの皿の上で、どれだけの“お腹の音”を無視してきたのかしら)


 紅茶の香りは、たしかに優雅だ。

 けれど、それは空っぽの腹を、せいぜい一瞬だけ誤魔化す香りに過ぎない。


 いま鼻先を刺してくるこの匂いは――

 胃袋に、手を伸ばしてくる。


「リリアンヌ」


 父の呼びかけに、ハッと我に返る。


「店の中を見るのは、これくらいにしておこう。あまり長居をすると、客の邪魔だ」


「……はい」


 店を出ると、外気が少しひんやりと感じられた。

 だが、両腕に抱えた布包みからは、まだ確かな熱が伝わってくる。


 馬車に戻る途中、リリアンヌは思わず問いかけていた。


「お父様」


「なんだ」


「……このパンを、“美味しい”と感じる人たちは、きっと紅茶の銘柄など知らなくても、幸せになれるのでしょうね」


 父は、少しだけ目を細めた。


「そうだな。

 腹が満ちて、働く力が出て、家族と笑い合えれば――それだけで十分だという者は多い」


 そして、言葉を継ぐ。


「だが、そういう者たちが食べるパンの値段を決めるのは、たいてい我々の側だ」


 リリアンヌは、抱えた包みを見下ろした。


 布越しに伝わる重みは、パンの重量以上のものに感じられた。


(わたくしたちは、紅茶の香りで自分を飾ることもできる。

 でも、同じ頃――誰かは、この一つのパンのために一日働いている)


 その事実が、胸の奥で静かに、でも確かに沈んでいく。


 馬車に乗り込む直前、パン屋の方から声が飛んだ。


「お嬢様!」


 振り向くと、パン屋の妻が、ほんの少し形の悪い小さなパンを掲げている。


「さっき生地を余らせちまってね。形が悪いから売り物にはしないけど……

 “初めてのご挨拶”代わりに、よかったらお嬢様ご自身のお口で、味見してやってくださいな」


 リリアンヌは、一瞬戸惑い、父を見る。


 父は、目だけで「受け取れ」と告げた。


「ありがとうございます。大切に……いただきますわ」


 小さなパンを両手で受け取る。

 その温もりは、先ほどの丸パンよりもさらに直に伝わってきた。


 馬車に乗り込みながら、リリアンヌは思う。


(わたくしは今日――紅茶の香りで飾られた“優雅さ”とは別の、“生きている豊かさ”に触れてしまった)


 香りで殴られる、という表現が頭をよぎる。

 焼き立ての匂いに、貴族令嬢としての感覚が、心地よい痛みを覚えている。


 馬車の扉が閉まり、車輪が再び石畳を進み始める。


 膝の上の布包みと、小さなパンの温もりを感じながら――


 リリアンヌは、ふと笑みを浮かべた。


 それは、誰かに見せるための“お茶会用の微笑み”ではない。

 腹の底から湧き上がる、「今、ここで、この匂いに出会えてよかった」と思う、素直な笑顔だった。


ベンチに腰を下ろした瞬間、木の感触がじかに伝わってきた。


 クッションも、刺繍もない。

 ただ削って磨いただけの、簡素な長椅子。


 けれど、いま膝の上にある布包みから立ちのぼる熱は――

 サロンのどんなベルベットのソファよりも、ずっと彼女の意識をさらっていく。


「お嬢様、よろしければ……今、窯から出したばかりで」


 パン屋の主人が、申し訳なさそうに、しかしどこか誇らしげに言った。


「お茶の用意なんて上等なものはありませんが、水ならすぐにお持ちできます。

 井戸水を少し冷まして、うちの小さいのがよく飲んでいるもので」


 以前のリリアンヌなら、「水だけ」という言葉に、心のどこかで小さく身構えたかもしれない。


 今は――むしろ、興味が勝った。


「ぜひ、いただきたいですわ」


 そう答える自分の声が、意外なほど弾んでいる。


 パン屋の妻が、木のコップに注いだ水を運んできた。

 ほんのり冷たく、底にわずかに気泡がひっついている。


「熱いですから、どうぞお気をつけて」


 布包みの上のパンに指先を伸ばした瞬間、熱でびくりと肩が揺れた。


「っ……」


 貴族令嬢用に整えられた細い指は、普段、こんな“焼き立て”に触れることがない。

 慌てて掴み直し、親指と人差し指で端をつまんで、そっと裂いていく。


 薄く張った表皮が、ぴんと鳴るように裂けた。

 その裂け目から、白い湯気がふわりと立ち上がる。


 ちぎった断面には、細かな気泡がぎゅっと詰まっていた。

 それは、きっちりと計算された菓子職人の層とは違う、素朴で、不揃いな膨らみ。


 だが――だからこそ、いかにも「生きて膨らんだ」という感じがした。


(こんなに、柔らかいのね……)


 指で軽く押せば、すぐにもとの形に戻る。

 湯気とともに、小麦と酵母の匂いが、さらに強く鼻をかすめた。


 息を吸う。

 それだけで、喉の奥がきゅう、と鳴った。


 リリアンヌは、ちいさく裂いた一片を、そっと唇に運ぶ。


 ――かり、と、表面がわずかに歯に触れる。

 すぐに、内側の柔らかさが歯を受け止めた。


 熱い。


 思っていたよりずっと熱くて、舌が驚く。

 だが、火傷しそうなぎりぎりのところで、小麦の甘みがとろりと広がった。


「……」


 言葉が、すぐに出てこなかった。


 噛めば噛むほど、口の中にじわじわと甘みが滲み出てくる。

 砂糖ではない。蜂蜜でもない。

 ただ、小麦そのものが持っている、静かな甘さ。


 そこに、焼き窯の香ばしさが薄くまとわりついている。


 喉の奥に押し込むと、胸のあたりがじんわりと温かくなるような気がした。


「……美味しい」


 ようやく絞り出した声は、自分で驚くほど、掠れていた。


 パン屋の夫婦が、ほっと胸を撫で下ろすように笑う。


「お口に合ったなら、何よりで」


 リリアンヌは、木のコップを手に取り、水をひと口含んだ。


 冷ました井戸水は、何の香りもしない。

 色もない。甘くもない。

 けれど、さきほどの熱を帯びたパンと混ざり合うと、喉を通る瞬間――


 ぐう、と腹の奥が鳴りそうになるほどの「満たされていく感じ」があった。


(……不思議)


 サロンで飲んだ紅茶は、香りの層がいくつもあった。

 渋みを甘い焼き菓子が中和し、それをまた別の香りが包み込む。


 それはたしかに優雅で、複雑で、「こうあるべき」と教えられてきた味だった。


 いま、口の中にあるのは――

 パンと、水だけ。


 香りも、味の重なりも、ほとんどないはずなのに。

 満足感は、比べ物にならないほど強かった。


(砂糖菓子のような華やかさはないのに)


(ひと口ごとに、胸の奥まで、あたたかくなっていく)


 パンをもう一片ちぎる。

 指先に、また熱が移る。

 それすら、なんだか嬉しい。


 噛むたび、歯の動きに合わせて、パンの繊維がほぐれていく。

 そのたびに、小麦の甘さが、少しずつ、少しずつ増幅されていく。


(紅茶の香りに酔っていたときには、知らなかった満たされ方ですわ)


 紅茶と菓子は、舌と鼻を喜ばせる。

 でも、このパンと水は――胃と、胸と、全身を喜ばせている。


 それが、はっきりと分かる。


「お嬢様」


 ふと、小さな声が聞こえた。


 顔を上げると、店の奥の影から、さっき外で見かけた少年がこちらを覗いていた。

 先ほどとは違う、小さめのパンを手に握って。


 目が合う。


 少年は、びくっ、と肩を跳ねさせ、あわてて柱の影に隠れた。


 ――が、半分だけ体がはみ出している。


 リリアンヌは思わずくすりと笑ってしまった。


「まあ」


 ちぎったパンを手にしたまま、そっと片手を振る。


「こんにちは」


 少年は、ちら、とだけ顔を出す。

 琥珀色の瞳に、警戒と好奇心が混ざっていた。


「……お、お嬢様」


 かすれるような声。

 きっと、こんな身なりの客を目の前にすることなど、そう多くはないのだろう。


 リリアンヌは、あえていつもの“公爵令嬢の笑み”ではなく、素直な顔で微笑んだ。


「そのパン、美味しそうですわね」


 少年は、きゅっと手の中のパンを握りしめる。


「……あ、あの、これは……、今日のおつとめの……」


「そうなの。いい選び方をなさるのね」


 褒めると、少年の耳まで真っ赤になった。


 パン屋の妻が苦笑まじりに口をはさむ。


「ごめんなさいね、うちの子、人見知りで。お嬢様なんて、街の行列でしか見たことないから」


「いえ。わたくしのほうこそ、こんなふうにパンをいただくのは初めてで……

 どう話してよいか、少し緊張しておりましたもの」


 思ったまま言うと、妻も主人も、目を丸くした。


「お嬢様が、緊張?」


「ええ。“公爵邸のサロン”にはないものばかりで、とても新鮮ですわ」


 そう言いながら、またパンをひと口齧る。


 噛むたびに、さきほどの言葉が胸の奥で形を変えていく。


 紅茶は、格式と会話のための象徴。

 誰と、どんな席で、それを飲むか――それが評価の全て。


 パンは、“生きるため”の象徴。

 誰が、どんな一日を送るために、それを食べるのか――それが全て。


(わたくしは今まで、“紅茶の席でどう見えるか”ばかりを気にしていた)


(でも、このパンは――“今日を生きるために必要なものかどうか”で選ばれる)


 その違いが、じわじわと、しかし確実に、彼女の中で価値を逆転させていく。


 パンと水を口に運ぶたび、紅茶と焼き菓子に囲まれた午後が、どこか遠い夢のように思えた。


 ――どれほど香り高い茶葉でも、空腹の子どもには役に立たない。

 けれど、この素朴なパン一つが、その子の一日を支えることはある。


 木のコップの水を飲み干すと、喉から胸へ、冷たさが通り抜け、すぐにパンの熱と混ざり合っていった。


「ごちそうさまでした」


 リリアンヌは、両手を膝の上に揃え、自然とそんな言葉を口にしていた。


 パン屋の夫婦が、照れ臭そうに笑う。


「そんな、たいそうなものじゃ……」


「いいえ。わたくしにとっては、今日一番のご馳走ですわ」


 自分でも驚くほど、本心だった。


 サロンで教えられた「完璧なお辞儀」ではなく、ただの「ありがとう」が、口からすんなり出てくる。


 パン屋の息子が、柱の影からもう一度だけ顔を出し、

 小さく、小さく、頭を下げた。


 リリアンヌも、同じように小さく会釈を返す。


 紅茶の香りでは届かなかった場所に――

 焼き立てのパンと、ただの水が、静かに橋を架けていた。



焼き窯の赤みは少し落ち着き、店内の熱もようやく和らいできた頃。


 パン屋の主人と父が、カウンターの向こうで領地の市場の様子や税の話をしている。

 その横で、さっき柱の影から覗いていた少年――いや、よく見ると少女に近いあどけなさの残る顔立ちの子どもが、粉だらけの手で小さな籠を整えていた。


「ほら、こぼれてるぞ」


 主人が軽く注意すると、子ども――店の息子だろうか――は「あっ」と慌ててパンを並べ直す。


「だって、お父ちゃん。今日の分、前より少ないんだもん」


「小麦が高くなってるからな。全部同じ大きさにしないと、お客に文句を言われる」


 そんなやりとりに、リリアンヌの耳がぴくりと動いた。


(小麦の値段……)


 図書室の本のページが、ふっと脳裏をよぎる。


 ──近年の小麦価格の推移。

 ──飢饉時における領主の備蓄放出と、価格調整の義務。

 ──庶民の主食に課税する際の、負担と反発の例。


 本の中では、すべてが整った字と数で語られていた。


 今、目の前で交わされるのは、粉まみれの手と、汗のにおいと、焼きあがったパンの熱にまみれた、生活そのものの言葉だ。


「でもさ、値段を上げたら、隣の家のおばさん、来られなくなっちゃうよ」


 子どもが、籠の底を覗き込みながらぼそりと言う。


「今日だって、『これでぎりぎりだよ』って、銅貨ぎゅっと握りしめてて」


「だからって安くしすぎたら、今度はうちがパンを焼けなくなる」


 主人の声はきっぱりとしているが、その目には迷いが滲んでいた。


「粉屋にも払わなきゃならんし、税もある。ここをたたむ訳にはいかないだろう?」


 パン一つ。

 その値段を、ひとつ上げるか、据え置くか。

 それだけの話に見える。


 けれど、その背後には――。


(本で読んだ“数値”の裏側に、こうして暮らしている家族がいる)


(パン一つの値段を上げるかどうかで、誰かの夕食が変わる)


 リリアンヌは、膝の上に残ったパンを見下ろした。


 その小さな重みが、さっきよりもずっと重く感じられる。


「……あの」


 不意に、子どもの視線がこちらを向いた。


 粉のついた頬を袖でこすりながら、遠慮がちに口を開く。


「お嬢様のところでは、いつも、こんなパンを食べてるんですか?」


「こら、お客様にそんなことを──」


「いえ」


 主人が慌てて叱りかけたのを、リリアンヌがそっと手で制した。


「聞かれるのは、いやではありませんわ」


 そう前置きしてから、問いを反芻する。


「いつも、こんなパンを……ですか」


 思い返す。

 公爵家の朝食に並ぶのは、しっかり形の整った白パンやクロワッサン、卵やハム、スープ。

 昼や夜は、肉料理やパイ、生地が見えないほど飾り付けられた皿。


 食卓に「パン」がないわけではない。

 だが、それは数ある料理の一つであって、「待ち望むもの」ではなかった。


 少し考えてから、リリアンヌはゆっくりと首を振る。


「いいえ。わたくしの食卓には、おそらく、もっと整えられた料理が並びますわ」


 それは、事実の羅列に過ぎない。


 けれど、そのまま続ける声には、自分でも気づくほどの熱がこもっていた。


「でも――“楽しみに待つパン”を、こんなふうに食べるのは、今日が初めてですの」


 子どもが、ぱちぱちと瞬きをする。


「たのしみに……?」


 聞き慣れない言葉の組み合わせなのだろう。

 パンは毎日そこにあるもの、という顔だ。


「ええ。さっき、馬車の窓から、こちらの店を見かけましたの」


 焼きたての匂い。

 籠いっぱいのパン。

 通りを足早に行き交う人々。


「そのときからずっと、『あの匂いの正体を、口で確かめたい』と思っておりました」


 自分でも可笑しくなるような告白だったが、嘘ではない。


 子どもは、ぽかんと口を開けて、それからふいっと笑った。


「パンの匂い、気に入ったんだ」


 その笑い方は、貴族のサロンで見慣れている“相手を立てるための笑み”とは違う。

 ただの、素朴な、くすぐったさの混じった笑いだった。


「うちのパン、町の誰でも知ってるけど……お嬢様に、楽しみにしてもらえたなら、ちょっと自慢だな」


「まあ」


 リリアンヌも、つられて笑みをこぼす。


 普段の、計算された唇の角度ではない。

 自然に頬がゆるみ、目尻が下がる。


「でしたら、わたくしも胸を張って言えますわね」


「え?」


「“今日は、あなたのお店のパンを楽しみにしていましたのよ”って」


 そう言うと、子どもは照れくさそうに頭をかいた。


「……お嬢様って、へんなこと言う人だな」


「まあ、それは光栄ですわ」


 本気でそう答えると、子どもは声を詰まらせて、また笑った。


 「友達」と呼ぶには、まだ遠い。


 身分の差も、暮らしの違いも、積み重ねてきた日々も、あまりにも違いすぎる。

 互いの名前すら、まだ知らない。


 それでも――さっきまで「お客」と「店の子」だった距離が、

 パン一つと、ひとつの質問で、ほんの少しだけ縮まった気がした。


(本に書かれていた“民”の暮らしは、いつも他人事だった)


(いま、目の前で笑っているこの子の“晩ご飯”が、わたくしの決める税や施策で変わるかもしれない)


 図書室で読んだ文字列と、粉で白くなった小さな指が、頭の中で重なっていく。


「……あの、リリアンヌ様」


 背後から、父の声がした。


「そろそろ行かねばならん。視察先で待たせている」


「はい、お父様」


 立ち上がると、スカートの裾が粉っぽい床をかすめた。


 パン屋の主人と妻に礼を言い、扉へ向かう。


 その途中で、もう一度だけ振り返った。


 子どもが、まだこちらを見ている。


 今度は、隠れようとはしなかった。


「また、パンを買いに来てもよろしいかしら?」


 リリアンヌが尋ねると、子どもはきょとんとしてから、ぶんぶんと首を縦に振った。


「もちろん! あ、でも……うちのパン、そんなに上等じゃ──」


「“美味しい”かどうかを決めるのは、誰かの肩書きではありませんもの」


 軽くウインクをしてみせると、子どもの頬が再び真っ赤になる。


 扉の外の空気は、少しひんやりしていた。


 馬車へ向かう道すがら、リリアンヌはポケットに手を入れ、粗い布のハンカチを指先でつまむ。


 森の夜を思い出す。

 焚き火のそばで差し出された、あたたかいスープと、素朴なパン。


(あの方が守ろうとしていた“誰かの暮らし”が、ようやく少し見えた気がいたしますわ)


 公爵令嬢と、パン屋の子ども。


 “友達”と呼ぶには遠くて、けれど確かに温かい距離。


 それはたぶん、いつか彼女が本当の意味で「庶民の友」と呼ばれるようになる、その最初の一歩だった。




帰りの馬車は、さっきよりもゆっくりと石畳を進んでいた。


 揺れに合わせて、リリアンヌの膝の上の小さな紙包みが、かさりと音を立てる。

 パン屋の主人が「お嬢様のお口に合ったなら」と、こっそり持たせてくれた余りのパンだ。

 まだほんのりと温かく、香りだけでも胸の奥がじんわりと満たされる。


 向かいの席で書類を整えていた父が、その包みにちらりと視線を落とし、ふっと口端をゆるめた。


「気に入ったようだな」


「……はい。とても」


 答えながら、リリアンヌは包みをそっと撫でる。

 貴族の食卓に並ぶ、完璧な形のパンとは違う。

 少しだけ形がいびつで、焼き色も均一ではない。

 けれど、そのひとかけら一つひとつに、さっき見た家族の暮らしが重なっている気がした。


 しばらく沈黙が続いた後、父がふいに窓の外へ視線をやりながら口を開く。


「……紅茶ばかりでは、空腹は満たせんが」


 前置きのような独り言だった。


「パンだけでは、人の心は荒むこともある」


 リリアンヌは、瞬きして父を見る。


 父はすぐにこちらを見返さない。

 通り過ぎる市場の屋根や、人々の列を眺めながら、淡々と続けた。


「紅茶も、パンも。どちらも違う形で、人を支えるものだ」


 紅茶――貴族のサロンで交わされる言葉と、格式と、見栄と、たまの慰め。

 パン――日々の空腹を満たし、明日も働けるようにするための、生活の基礎。


 その二つを、どちらかだけ正しいものとして選ぶことはできない。


 そう言われた気がして、リリアンヌはゆっくり視線を落とした。


「……わたくしは今まで、紅茶の香りばかりにうっとりしていましたの」


 ぽつり、と本音がこぼれる。


「誰かが食べているパンの重さを、考えたことがありませんでした」


 “午後のお茶会”で並ぶ焼き菓子は、話題の添え物でしかなかった。

 けれど、さっきパン屋で聞いた話では、その一個の値段が、誰かの夕食を左右する。


 その違いを、ようやく少しだけ理解しはじめた自分がいる。


 紙包みを抱える腕に、自然と力がこもった。


 父が、そこでようやく娘のほうを見た。


 厳格に見える灰色の瞳の底に、かすかな安堵の色がにじむ。


「それに気づけたなら、今日の視察は上等だ」


 短く、それだけを言う。


 褒め言葉というにはあまりに素っ気ない。

 けれど、公爵としてではなく「父」としての、控えめな賛同がそこにあった。


 リリアンヌは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、小さく頷く。


「紅茶で心をつなぎ、パンで暮らしを支える……」


 ぽつりと、呟きにもならない声で言葉が零れる。


「どちらも、ちゃんと味わい方を知らなければ、わたくしは“令嬢”としても、“誰かの友”としても、半人前ですわね」


 父は、それには答えなかった。

 ただ、窓の外の街並みへ視線を戻す。


 馬車の窓の向こうには、さっきまでいた通りが遠ざかっていく。

 パン屋の看板も、籠を抱えた子どもの姿も、もう見えない。


 けれど、膝の上の紙包みは確かにそこにある。


 薄い紙越しに伝わるぬくもりが、紅茶の香りとは違うかたちで、リリアンヌの心を満たしていく。


(同情ではなく、“知ろうとすること”からしか、何も始まらない)


(わたくしは、今ようやく──紅茶とパン、どちらの味も、本当の意味で知りたいと思い始めたのですわ)


 窓の外で、日が傾き始める。


 公爵家のサロンで、また紅茶の香りに包まれる時間が来るだろう。

 だが、その香りを楽しむ自分の背後に、今日見たパン屋の、粉だらけの笑顔と、小麦の値段の話が、これからはきっと寄り添い続ける。


 紅茶もパンも、どちらも大事。

 だからこそ――どちらかだけのために生きるのではなく、両方を守れる方法を探したい。


 リリアンヌの指先が、そっと紙包みを握りしめた。


 “庶民の友”として歩き出す彼女の第一歩は、派手な慈善活動でも、大仰な宣言でもない。

 ただ、紅茶の香りに酔う自分から一歩離れ、パンの重さを知ろうとする、小さな気づきに過ぎなかった。



翌日の午後、小さなサロンには、いつも通り上等な紅茶の香りが満ちていた。


 磨き上げられたテーブル。繊細な絵付けのティーセット。

 母が好む、淡い花模様のクロス。


 ――ただひとつだけ、いつもと違うものがある。


 銀の菓子皿の隣に、素朴な陶器の小皿が一枚。

 その上に、こんがりと焼き色のついた、丸いパンが一つちょこんと乗っていた。


 砂糖の衣も、果物の飾りもない。

 粉の香りと、ほんのわずかな焦げ目の匂いだけが、その存在を主張している。


 紅茶を注ごうとしていた母が、それに気づき、ぱちりと瞬きをした。


「まあ。今日はずいぶんと質素なお菓子なのね」


 咎める調子ではない。

 ただ、本当に不思議そうな声音。


 リリアンヌは、わずかに頬を染めて微笑んだ。


「昨日、街のパン屋さんで教えていただいた味ですの」


 母の視線が、パンから娘の顔へと移る。


「街の……?」


「お父様の視察にご一緒いたしましたの。その折に、少しだけ寄り道を」


 そう言って、リリアンヌは小皿を両手で持ち上げ、母のほうへそっと差し出した。


「高価な砂糖菓子ほど華やかではありませんけれど……」


 一呼吸おいて、言葉を選ぶ。


「“どれほどお腹をすかせた人でも、きっと笑顔にできる味”だと思いましたわ」


 母はしばし、娘を見つめる。


 その視線は、パンではなく、パンの話をするリリアンヌの瞳の奥を確かめているようだった。


 やがて、ほんの少し口元をゆるめる。


「そう」


 短い返事とともに、母はパンへと手を伸ばした。


 貴族の婦人らしい、洗練された指先が、素朴なパンをそっとつまむ。

 小さくちぎり、一口だけ唇に運ぶ。


 噛むたびに、さくり、と軽い音がする。

 ぐっと噛みしめた瞬間、中から小麦の甘さと、窯の熱の名残がふわりと広がっていく。


 母の睫毛が、わずかに震える。


 そして――ふっと、柔らかい笑みが浮かんだ。


「なるほどね」


 カップを手に取るでもなく、母はもう一度パンへ視線を落とす。


「紅茶よりも……今日は、このパンのほうが美味しく感じるわね」


 胸の奥で、何かが静かにほどけた。


 リリアンヌは、思わず小さく息を呑む。


 紅茶の香りにうっとりしていた自分。

 パンの匂いに“お腹が空きました”と素直に告げられた昨日。

 父と交わした、「紅茶もパンも、どちらも人を支える」という言葉。


 それらが一度に胸の中で繋がっていく。


(紅茶の香りは、貴族の会話を飾る)


(パンの香りは、人の暮らしを支える)


 どちらか一方だけを知っている自分では、もう物足りない。


「お母様」


 リリアンヌは、自分の前の小皿に乗ったパンを、同じようにひとかけらちぎる。


 指先に残る、わずかな油と温もり。

 高級な茶菓子をつまむときには感じたことのない、生々しい感触だ。


「わたくし……」


 言葉を紡ぎながら、ほんの少しだけ視線を伏せる。


「紅茶の銘柄で自分の価値を測っていたことが、きっとございました」


 “殿下のお好み”“宮廷で流行の茶葉”。

 それを知っていることが、自分の価値だと信じ込んでいた、前の人生の自分と、昨日までの自分。


 その姿を、少しだけ恥ずかしく思う。


「でも今は、こうして――焼き立てのパンの温もりにも、別の豊かさがあるのだと、少しだけわかる気がいたしますの」


 母は何も言わない。

 ただ、紅茶のカップを手に取り、ひと口含んだ後、穏やかなまなざしを娘へ向けた。


 言葉はいらない、とでも言うような、静かな肯定のまなざし。


 リリアンヌは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、初めて自分のパンを口へ運んだ。


 昨日、パン屋のベンチで齧ったときと同じ味。

 けれど、今日は少しだけ違って感じる。


 紅茶の香りと一緒に味わうことで、パンの素朴な甘さが、はっきりと浮かび上がる。


(どちらか一方を否定するのではなく、両方を知っている人でありたい)


(紅茶の話も、パンの話も――同じテーブルで語れる人で)


 サロンの窓の外では、遠く街の鐘の音が響いていた。


 屋敷の高い塀の向こうで、きっと今日も誰かが、あのパン屋の前で食事を楽しみに待っている。


 ここには紅茶があり、そこにはパンがある。

 その両方を、自分の中につなぐことができたのなら――いつか、本当に「庶民の友」と呼ばれる日が来るのかもしれない。


 それは、憐れみでも、施しでもなく。


 同じパンを齧り、同じように「美味しい」と笑える、小さな連帯として。


 リリアンヌは、カップをそっと受け取り、微笑んだ。


 紅茶の香りと、パンの温もり。


 貴族のサロンに「パンを一切れ」乗せる、ただそれだけの変化が――

 彼女の世界の輪郭を、少しずつ塗り替え始めていた。


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