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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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学園再び ―― 噂を恐れず、真実で笑う

馬車の揺れが、車輪を通してじわりと足元に伝わってくる。


窓の外には、見慣れた――けれど二度目の――景色が広がっていた。

白い石造りの塔。高くそびえる鉄柵の門。

門の前には、送迎用の馬車が次々と停まり、制服姿の少年少女たちが入っていく。


笑い声。挨拶。ささやき合う気配。

そのすべてが、朝の光の中でざわめきとなって混ざり合う。


リリアンヌは、窓辺に指先を添えたまま、ゆっくりと瞬きをした。


(ここから、わたくしの“噂”は始まっていった)


貴族子女の学び舎――その名にふさわしい、格式ある学園。

前の人生で、ここは「王子の婚約者」として崇められた場所であり、

やがて「婚約破棄された氷の令嬢」と嘲られた場所でもあった。


門の前に立つ上級生たちが、到着した馬車をちらりと見やる。

誰かが、ひそひそと名前をささやいた気がする。


「……リリアンヌ様よ」「公爵家の……」「殿下の――」


そのすべてが、風の中に溶けていく。

確信はない。それでも、彼女にはもうわかっていた。

名が先に歩き、本人はいつだって一歩遅れて追いかける……

この場所は、そういうところなのだと。


向かいの席に座る父が、膝の上の書類を整えながら一瞥を投げてくる。


「緊張しているかね、リリアンヌ」


「いいえ、お父様」


リリアンヌは、ゆっくりと首を振った。

以前なら、胸の高鳴りをごまかすために、完璧な笑みを浮かべてみせたはずだ。

“殿下の婚約者にふさわしい令嬢”として、振る舞いそのものを演じていた。


今は違う。

制服の胸元に手を添え、そっと押さえてみる。

鼓動は、たしかに少しだけ早い。でも――


(殿下の婚約者として持ち上げられ、

 やがて転落する話題として消費された――前の人生)


噂は、彼女を一度高みに上げ、

飽きたおもちゃのように地面へと落とした。


(でも今度のわたくしは、“噂に怯える側”ではなく……)


ポケットの中で、指先が粗い布の感触を確かめる。

森の夜に、差し出されたパンと一緒に受け取った、あのハンカチ。

上等なレースでも、上質な刺繍でもない。

けれど、この世界でいちばん「生き延びろ」と語りかけてくるような布切れ。


(“噂を踏み台にできる側”でいたい)


もしまた、彼女の名が人々の口に上るのなら。

それは嘲笑でも崇拝でもなく、

「何を選び、どう生きたか」の結果として語られるものであってほしい。


馬車が、かすかに減速する。

窓の外、学園の門がすぐ目の前に迫っていた。


御者の声がして、馬車が完全に止まる。

扉が開かれ、朝の空気がふわりと流れ込んできた。


リリアンヌは深く息を吸い込む。

胸の内側まで、冷たい空気が届くのを感じながら、そっと目を細めた。


(前の人生で傷を負った場所――だからこそ、今度は自分の足で入っていく)


彼女はポケットの中のハンカチから指を離し、

代わりにスカートの裾を軽く摘まんで立ち上がる。


「行ってまいりますわ、お父様」


「うむ。気をつけてな」


父の声は変わらない。

変わったのは、自分の心の向きだけ。


噂が渦巻く門の先へ。

リリアンヌは、一歩を踏み出した。


教室の扉を開けた瞬間――

ざわ、という小さな波が立った。


ほんの刹那。

ページをめくる音も、笑い声も、机を引く音も止まる。


その「一瞬の沈黙」に、リリアンヌは覚えがあった。

前の人生でも、何度も、何度も味わった感覚。


すぐにざわめきは戻る。

だが、耳を澄ませば、名前の破片があちこちで弾けている。


「リリアンヌ様……」「公爵令嬢……」「殿下の……」


それらに混じって、少しだけ熱を帯びた囁きが交じる。


「最近、少し雰囲気が柔らかくなられたって聞いたけれど……」


「でも、やっぱり“殿下の婚約者候補”よ?

 気を抜くと後ろから刺されるわ」


「ねえ、あの特待生の子を庇ったって噂、ほんとうなの?」


笑いながら、ささやきながら。

彼女たちは視線だけをこちらへ滑らせてくる。

正面からは決して見ない。

けれど、彼女の一挙手一投足に、教室の空気の一部が引き寄せられていく。


リリアンヌは、ゆっくりと自分の席に向かいながら、

その断片をひとつずつ拾い上げるように耳に入れた。


(……ああ、そうね)


前の人生の自分なら――


「“殿下の婚約者候補”」の部分だけを、

都合よく甘い蜜として舌の上で転がし、


「後ろから刺されるわ」

「庇ったって噂」など、棘を持つ言葉には怯え、

微笑みで必死に塗りつぶそうとしていた。


“見下されてはいけない”

“嫌われてはいけない”

“完璧でいなければ――”


噂は敵であり、恐怖そのものだった。


今、同じ言葉を聞きながら、

リリアンヌの胸の内は、以前ほど騒がしくない。


(褒めているようで、みんな怖がっているのね)


“殿下の婚約者候補”という存在を、

羨み、怯え、距離を測ろうとしている。


(それに――)


「あの特待生を庇ったって噂、ほんとうなの?」


そのささやきに、彼女の指先がわずかに止まる。


(わたくしの“優しさ”も、“気まぐれ”も、“偽善”も――

 ここでは全部、噂という形で量られる)


それは腹立たしさではなく、

むしろ「この場所のルール」を改めて確認している感覚だった。


席に腰を下ろし、教科書を静かに机に置く。


黒板の前では、まだ先生は来ていない。

教室は、噂話と笑い声で満ちている。


(昔のわたくしなら、ひとつひとつに怯え、

 取り繕い、微笑みで塗りつぶしていたでしょう)


「いいえ、そんなことありませんわ」

「皆さまと同じですわ」

「殿下はただ、ご厚意で――」


耳障りのいい言葉を積み上げ、

“正解の仮面”を被ることだけに必死だった自分が、

どこか遠くに感じられる。


今のリリアンヌは、軽く視線を巡らせる。

自分を見ないふりをしながら盗み見てくるクラスメイトたちの顔。

そこに浮かぶのは、好奇心、警戒、憧れ、打算――

さまざまな感情の混ざった色。


(今は……もう少し、ちゃんと“聞いて”みようかしら)


噂は、ただの悪意だけではない。

「何を怖れているか」

「何を欲しているか」

その断片が、無防備な形でこぼれ出る場所でもある。


それを完全な敵として拒むのではなく、

自分の立ち位置を測り直すための“材料”として見てみる。


リリアンヌは、教科書の端を指で押さえながら、

ふっと小さく息を吐いた。


(噂に振り回されるのではなく、噂の中で――

 “本当のわたくし”で笑えるようになりたい)


まだ、その「笑い」がどんな形になるのかはわからない。

それでも、前の人生のように、

誰かを傷つけるための微笑みや、

自分を守るための仮面ではない何かを――


今度こそ探してみようと、彼女は静かに思った。



教室の扉を開けた瞬間――

ざわ、という小さな波が立った。


ほんの刹那。

ページをめくる音も、笑い声も、机を引く音も止まる。


その「一瞬の沈黙」に、リリアンヌは覚えがあった。

前の人生でも、何度も、何度も味わった感覚。


すぐにざわめきは戻る。

だが、耳を澄ませば、名前の破片があちこちで弾けている。


「リリアンヌ様……」「公爵令嬢……」「殿下の……」


それらに混じって、少しだけ熱を帯びた囁きが交じる。


「最近、少し雰囲気が柔らかくなられたって聞いたけれど……」


「でも、やっぱり“殿下の婚約者候補”よ?

 気を抜くと後ろから刺されるわ」


「ねえ、あの特待生の子を庇ったって噂、ほんとうなの?」


笑いながら、ささやきながら。

彼女たちは視線だけをこちらへ滑らせてくる。

正面からは決して見ない。

けれど、彼女の一挙手一投足に、教室の空気の一部が引き寄せられていく。


リリアンヌは、ゆっくりと自分の席に向かいながら、

その断片をひとつずつ拾い上げるように耳に入れた。


(……ああ、そうね)


前の人生の自分なら――


「“殿下の婚約者候補”」の部分だけを、

都合よく甘い蜜として舌の上で転がし、


「後ろから刺されるわ」

「庇ったって噂」など、棘を持つ言葉には怯え、

微笑みで必死に塗りつぶそうとしていた。


“見下されてはいけない”

“嫌われてはいけない”

“完璧でいなければ――”


噂は敵であり、恐怖そのものだった。


今、同じ言葉を聞きながら、

リリアンヌの胸の内は、以前ほど騒がしくない。


(褒めているようで、みんな怖がっているのね)


“殿下の婚約者候補”という存在を、

羨み、怯え、距離を測ろうとしている。


(それに――)


「あの特待生を庇ったって噂、ほんとうなの?」


そのささやきに、彼女の指先がわずかに止まる。


(わたくしの“優しさ”も、“気まぐれ”も、“偽善”も――

 ここでは全部、噂という形で量られる)


それは腹立たしさではなく、

むしろ「この場所のルール」を改めて確認している感覚だった。


席に腰を下ろし、教科書を静かに机に置く。


黒板の前では、まだ先生は来ていない。

教室は、噂話と笑い声で満ちている。


(昔のわたくしなら、ひとつひとつに怯え、

 取り繕い、微笑みで塗りつぶしていたでしょう)


「いいえ、そんなことありませんわ」

「皆さまと同じですわ」

「殿下はただ、ご厚意で――」


耳障りのいい言葉を積み上げ、

“正解の仮面”を被ることだけに必死だった自分が、

どこか遠くに感じられる。


今のリリアンヌは、軽く視線を巡らせる。

自分を見ないふりをしながら盗み見てくるクラスメイトたちの顔。

そこに浮かぶのは、好奇心、警戒、憧れ、打算――

さまざまな感情の混ざった色。


(今は……もう少し、ちゃんと“聞いて”みようかしら)


噂は、ただの悪意だけではない。

「何を怖れているか」

「何を欲しているか」

その断片が、無防備な形でこぼれ出る場所でもある。


それを完全な敵として拒むのではなく、

自分の立ち位置を測り直すための“材料”として見てみる。


リリアンヌは、教科書の端を指で押さえながら、

ふっと小さく息を吐いた。


(噂に振り回されるのではなく、噂の中で――

 “本当のわたくし”で笑えるようになりたい)


まだ、その「笑い」がどんな形になるのかはわからない。

それでも、前の人生のように、

誰かを傷つけるための微笑みや、

自分を守るための仮面ではない何かを――


今度こそ探してみようと、彼女は静かに思った。



廊下に、朝の光が長く伸びていた。


授業開始の鐘が鳴る前、教室へ向かう生徒たちの足音と笑い声が、石畳にさらさらと流れていく。


その流れの少し端で、リリアンヌは一人、教科書を抱えて歩いていた。

曲がり角を抜けたところで、ぱっと小さな影が立ち止まる。


「リリアンヌ様!」


特待生エミリアだった。

慌てて頭を下げ、両腕に抱えた本が少し揺れる。


「おはようございます。その……昨日の本、ありがとうございました。

 お借りしたところ、とても分かりやすくて……」


息を詰めるような早口。

声の端に、緊張と、押し殺した喜びがにじんでいる。


リリアンヌは、ふっと表情を和らげた。


「それはようございましたわ。

 エミリアが“役に立つ”と思ってくださるなら、わたくしも嬉しく思います」


そう言って、ほんの一瞬、視線を合わせる。

その短いまなざしに、「身分」ではなく「学ぶ者同士」としての対等さを込めるように。


エミリアは、驚いたように目を見開き、すぐに俯いてしまう。


「わ、わたしなどが、その……恐れ多いことで……」


「いいえ」


リリアンヌは、穏やかに首を振った。


「昨日の中庭で教えてくださった村の話、とても興味深うございましたもの。

 また、続きを聞かせていただけると嬉しいですわ」


エミリアの肩が、ぱっとわずかに緩む。

けれど同時に、彼女は廊下の端に向かってそっと視線を走らせた。


そこには、こちらを“見ていないふり”をしながら、確かにこちらを意識している貴族少女たちの姿があった。



少し距離を置いた柱の陰。


貴族少女たちは、教科書を抱えたまま、ひそやかに囁き合う。


「見た?」貴族少女Aが、眉をわずかに寄せる。


「あの特待生……まるでお友達みたいにリリアンヌ様と話していたわ」


隣の少女Bが、唇をとがらせる。


「身分をわきまえないにも程があるわね。

 特待だからって、勘違いしているんじゃなくて?」


「でも……」もう一人、少女Cが小さく首を傾げる。


「今のは、リリアンヌ様のほうから声をかけておられたようにも見えましたわ」


「それは……」少女Bは一瞬口ごもり、すぐに別の言葉を選ぶ。


「どちらにせよ、“公爵令嬢に取り入ろうとしている”と見られても仕方ないですわ。

 平民出身の子が、礼を尽くして距離を保っていれば、誰も何も言わないのに」


「そうよね。

 でも……リリアンヌ様って、昔から“殿下の婚約者候補”として特別視されているもの。

 あの子と親しくしているところを見られたら、周りが色々言うのは当然かもしれないわ」


ささやきながらも、彼女たちの目は不安を帯びていた。


(公爵令嬢の機嫌を損ねたくない)

(でも、公爵令嬢に近づこうとする誰かも怖い)


そんな矛盾した感情の揺れが、噂の形で表に出ている。



廊下の空気の微妙な張り詰め方に、リリアンヌは気づいていた。


エミリアの視線が、何度も左右へ揺れる。

肩は小さくすぼまり、握った本の端が白くなるほど力がこもっている。


(感じているのね。

 “自分のいる場所”が、誰かの目にはどう映っているのかを)


リリアンヌは、あえて周囲に視線を巡らせなかった。

エミリアの怯えた様子だけを、まっすぐ見つめる。


「エミリア」


名前を呼ばれ、少女はびくりと顔を上げる。


「……は、はいっ」


「昨日の要点のまとめ、とても分かりやすかったですわ。

 先生に見せても、“よく学んでいる”と褒められるに違いありません」


その言葉は、周囲の耳にもかすめて届いた。


貴族少女たちのささやき声が、わずかに音程を変える。


「……褒めておられるわ」「やっぱりあの子――」


エミリアは、顔を赤くしながら、首を横に振る。


「そ、そんな……。わたしなんて、まだまだで……」


「“まだまだ”と思える人は、きっと伸びていきますわ」


リリアンヌはそれだけ言うと、軽く会釈して教室の方へと歩き出した。


背後で、エミリアが深く頭を下げている気配がする。



教室へ戻る途中、リリアンヌは自分のポケットにそっと指を忍ばせた。


粗い布のハンカチの感触が、指先に触れる。


(噂はいつだって、“立場の弱い方”から責める形に流れていく)


前の人生の記憶が、胸の奥で冷たい影を揺らす。


婚約破棄のあと。

「氷の令嬢」「殿下を縛り付けようとした悪女」「没落貴族の娘」――

そんな言葉が、まるで遊び道具のように飛び交っていた。


そのとき矢面に立たされていたのは、表向きには自分だったが、

実際には、家臣や使用人、関わりのあった人々にも飛び火していた。


にもかかわらず、自分は何もできなかった。

ただ黙って、噂の流れに飲まれていくしかなかった。


(前の人生で、わたくしはただ黙って、その流れに乗っていた)


エミリアのような、立場の弱い者に向かう視線を、

“見なかったこと”にしていた。


(今度は――“誰の肩に重みが乗っているか”を、見誤らないでいたい)


噂の矢は、いつだっていちばん柔らかいところを狙う。

王子でも、公爵令嬢でもない。

守る力のない者へと、重さが集中していく。


教室の扉の前で、リリアンヌは一度だけ立ち止まり、静かに息を整えた。


(噂そのものを消すことは、きっとできない。

 けれど――誰の上に積み重なっていくのかだけは、見ていられる)


そして、出来る範囲で、少しずつ手を伸ばす。

笑って見過ごしてしまっていた過去の自分とは、違う選び方をするために。


彼女は扉に手をかけ、いつもの落ち着いた表情で教室へと足を踏み入れた。


昼の鐘が鳴り終わった中庭は、ほどよいざわめきに包まれていた。


陽の光を受けて白い石畳が淡く輝き、小さな噴水の水音が、ティーカップの触れ合う音にまじって聞こえる。


リリアンヌは、同級生たちと共に丸テーブルを囲んでいた。


純白のクロス。小さな花瓶。焼き菓子の盛られた銀皿。

一見すれば、のどかなご令嬢たちの茶会――だが、その実態は「学園女子の情報網」の中心地である。


「ねえ、聞いた? 今朝の歴史の授業で――」


貴族少女の一人が、楽しげに話し始める。


「あの伯爵家のご令嬢が、堂々と居眠りなさっていたそうよ。

 先生に当てられても、まるで夢の続きを話しているみたいで、クラス中が笑いを堪えるのに必死だったとか」


「まあ、あの方らしいわね」


別の少女が、口元に扇子を当ててクスクスと笑う。


「試験前だというのに、“復習は夜会の噂話で十分ですわ”なんて言っていたもの」


笑い声が、テーブルの上に軽やかに散っていく。


続いて、矛先は男子生徒へ。


「某男爵家のご子息も愉快よ。

 十位にも入っていない試験結果を、“答案の配り間違いがあったに違いない”って自慢していたらしいわ」


「自慢ではなく、言い訳ではなくて?」


「どちらにせよ、笑い話にはなりますわね」


くすくす、ひそひそ――

中庭のあちこちで立ち上る噂の煙が、このテーブルの周りで少し濃くなる。


リリアンヌは、カップを両手で包みながら、その煙の流れを静かに見ていた。


(無邪気な笑い。

 けれど、そのうち――)


予感した通り、話題は少しずつ、別の方向へ傾いていく。


「そういえば」

先ほどから中心で話していた貴族少女Aが、意味ありげに声を潜めた。


「特待生の子の噂、聞きまして?」


テーブルの上に、目に見えない緊張が走る。


「貴族令嬢方に“取り入ろうとしている”って話?」

少女Bが身を乗り出す。


「そうそう。朝、廊下で見た方もいるそうよ?

 公爵令嬢リリアンヌ様と、まるでお友達のように話していたって」


視線が、自然とリリアンヌへ集まる。


(来たわね)


前の人生であれば、ここで彼女は完璧なタイミングで笑い、

「まあ、可愛らしい方ですものね」

「でも、身の程はお分かりになっていると信じたいですわ」

――そんな一言を添えて、場の空気を整えていた。


毒にも薬にもなる“優雅な一刺し”。


それが「氷の令嬢」の役割だった。


「ねえ、リリアンヌ様」


貴族少女Aが、期待を含んだ目で口を開く。


「特待生のこと、どう思われまして?

 平民が“学園”という場に混じるのは、やはり無理があると思いません?」


テーブルを囲む少女たちの表情には、

「同意してほしい」という甘えと、

「自分たちの価値観を肯定してほしい」という不安が混ざっている。


返ってくるはずの台詞を、ほとんど決まった答えとして待っている目。


――そこで、リリアンヌは“笑わなかった”。


唇に、礼儀のための微笑を形づくることはしない。

代わりに、肩の力を少し抜いて、自然な声で言葉を紡ぐ。


「そうですわね……」


小さく間を置いてから。


「わたくし、少し違う考えを持っておりますの」


空気が、静かに沈む。


扇子の動きが止まり、銀のスプーンが皿の上で小さく鳴る。


「たしかに、身分が違えば、礼儀作法や常識にも差は出ますわ」

リリアンヌは認めるべきところは認めたうえで、淡々と続けた。


「でも昨日、図書室でその特待生のノートを拝見しましたの。

 ──あれほど自分の頭で考えて書き留めている生徒は、そう多くはありませんわね」


一人の少女が、思わず目を丸くする。


「ノート……でございますの?」


「ええ。領地経営の初歩の本について、

 “自分の村ではこうなるはずだ”と考えを書き加えておられました」


リリアンヌは、軽く笑みを含ませながらも、目だけは真剣だ。


「教科書を丸暗記するより、よほど難しいことですわ。

 わたくし、感心いたしましたもの」


「そ、それは……努力家、ということかしら」


貴族少女Bが、曖昧に相槌を打つ。


「努力家、だけではなくてよ」


リリアンヌは、わざと少しおどけるような調子で言った。


「正直に申し上げますと――

 もし“身分”だけで人を測るのなら……」


そこまで言って、わざと自分の胸元を指先で軽く示す。


「“公爵令嬢なのに、あの特待生より勉強していない”と噂されてしまいそうで、

 少し怖くなりましたもの」


くすり、と自嘲気味の笑いを添えて。


「だって、わたくし、昨日の時点では

 “領地の村で実際にどう運用されているか”なんて、何ひとつ存じませんでしたもの」


「えっ……」


「まあ……」


テーブルの上に、妙な間が生まれた。


公爵令嬢が、平民出の特待生と自分を同じ“学ぶ側”として並べた。

その事実が、少女たちの固定観念を少し揺らす。


「そ、そんなことは……」

少女Cが慌てて首を振る。


「リリアンヌ様ほどのお立場なら、

 現場の細かいことまでご存じでなくとも……」


「いいえ」


リリアンヌは、ふっと目元を和らげる。


「知らないまま“分かっている顔”をしているほうが、よほど怖いですわ」


少女たちは、顔を見合わせて苦笑した。


「……それは、たしかに」


「わたくしたちも、試験前に“だいたい理解しましたわ”って言いがちですものね」


笑いが起こる。

だがそれは、誰かを刺すための笑いではなく、

自分たちの浅はかさを少しだけ笑う、照れくさい笑いだった。


リリアンヌは、その空気の変化を感じ取り、心の中でそっと息をつく。


(噂を“否定”するだけでは、噂を話している側も身構える)


「そんな言い方をしてはいけません」

「特待生を悪く言うなんて、みっともないですわ」


そう頭ごなしに言えば、きっとこの場は凍りつくだろう。

彼女たちは「責められた」と感じ、

次からはリリアンヌの前で本音を隠すようになる。


(だから、少しだけ“笑い”として返す)


自分も同じ土俵に降りる。

「身分」という高みから裁くのではなく、

「知らないことだらけの一人の生徒」として、自分も笑いの対象に含める。


(嘲笑ではなく、自分も含めた“苦笑い”にしてしまえば――)


噂は、人を裁く刃物ではなく、「話題」に変わる。


傷つけるための噂話から、

自分たちの未熟さや矛盾を少しずつ認め合う、拙い会話へ。


「それに――」


リリアンヌは、最後に一つだけ、針先ほどの言葉を添えた。


「もし本当に“取り入ろうとしている”のだとしたら、

 わたくしなどより、もっと物分かりのよさそうな方を選ばれると思いますわ」


「まあ!」


思いがけない自己評価に、テーブルの空気がふっと緩む。


「そんなこと、ありませんわ!」


「リリアンヌ様ったら……」


今度の笑いには、先ほどまでの棘はない。


リリアンヌは、カップに残った紅茶を一口含みながら、

ポケットの中の粗い布の存在を、そっと意識した。


(前のわたくしは、“仮面の笑み”で、誰かを切り捨てる側に立っていた)


(今は――仮面を手放すことで、噂そのものの形を、ほんの少しだけ変えられるかもしれない)


風が吹き抜け、木陰の葉がさらさらと鳴る。


彼女は、取り繕いの笑みではない、

ほんの少し照れくさい、本物の笑いを唇に浮かべていた。


昼食後の教室は、午前の熱気が少し抜けて、どこか緩んだ空気に包まれていた。


窓際では数人の生徒が集まって昼の続きの噂話をし、

中央の席では、男子たちが課題の答え合わせをしている。


その喧噪から少し離れた隅の机で、エミリアは一人、本を開いていた。


分厚い教本。細かく書き込まれた余白のメモ。

けれど、その指先はページの端をぎゅっとつまんだまま、ほとんど動かない。


視線も文字の上を滑っているだけで、焦点が合っていない。


(……聞こえているのね、きっと)


教室のあちこちから漏れ聞こえる、くぐもった「特待生」という単語。

それが彼女の肩を、少しずつ重くしているのが、遠目にもわかった。


リリアンヌは、自分の席に置いていた本をそっと閉じ、

ためらいのない足取りでエミリアの机へ向かう。


「エミリア」


呼びかけると、少女はびくりと肩を震わせ、慌てて立ち上がりかけた。


「っ……あの、公爵令嬢様……!」


椅子がきい、と小さな音を立てる。


「お、お話ししたいのは山々ですが、その……」


エミリアはぎゅっと本を抱きしめ、唇を噛んだ。


「きっと、わたくしとお話ししているところを見られると……

 リリアンヌ様まで、良くない噂を立てられてしまいます」


その声には、「自分が傷つく」のではなく

「相手を巻き込みたくない」という焦りが色濃くにじんでいる。


前の人生の自分なら、その申し出に甘えただろう。


(そうね、噂は困りますものね――と、

 微笑みながらひとつ距離を置いてしまった)


そして、守りたい人から先に離れていった。


噂の嵐は、それでおさまることもなく、

結局は自分自身も守り切れなかったのに。


「そうですわね」


リリアンヌは、あっさりと認めた。


エミリアの顔が、引きつる。


「もう、すでにいくつかは立っておりますでしょうね」


「……っ!」


エミリアは顔色を変え、深く頭を下げかける。


「わ、わたくしのせいで……本当に、申し訳――」


その言葉の続きを、リリアンヌは軽く首を振って遮った。


「エミリア」


声は柔らかいが、その芯は揺れていない。


「でも、“噂があるから話さない”という理由で、あなたと距離を取るほうが――」

リリアンヌは、少しだけ首を傾げて微笑まずに言う。


「わたくしは、ずっと恥ずかしいですわ」


エミリアは、ぽかんと目を瞬かせた。


「恥ずか……しい、ですか?」


「ええ」


リリアンヌは、椅子を引き、彼女の向かいの席に腰を下ろす。


視線の高さを合わせ、逃げ場を塞ぐのではなく、「隣に立つ」位置まで降りていく。


「噂というのは、いずれ風向きが変わるものですわ」

指先で、机の上の本の角を軽く叩きながら、穏やかに続ける。


「今は、あなたが“取り入ろうとしている”だの、

 わたくしが“特待生を可愛がっている”だの、好きに言うでしょう」


「……」


エミリアは、唇を噛んだまま黙って聞いている。


「けれど、一年も経てば、同じ人たちが

 “そういえば昔、そんな噂もあったわね”と笑い話にするのですわ。

 噂の内容そのものなんて、案外、すぐに薄まってしまいます」


リリアンヌは、ふっと目を細めた。


(前は、その薄まっていく“噂”だけを恐れて、

 今そばにいる人の顔を、ろくに見ていなかった)


「だから、わたくしが気にしているのは――」


彼女は、机越しにそっと自分の胸元を指さす。


「“今、この瞬間、誰の隣にいるか”のほうですわ」


エミリアの瞳が、大きく揺れた。


「噂は、いつか消えますもの。

 でも、その時に振り返ってみて――」


リリアンヌは、きっぱりと言葉を結ぶ。


「“あの時、守りたい人から先に離れてしまった”と気づくほうが、

 わたくしは、ずっと怖いです」


教室のざわめきが、遠のいたように感じられた。


エミリアは、両手で本の端を握りしめたまま、うつむく。


長い睫毛の影が、頬に落ちる。


「……でも、わたくしは」


掠れた声がこぼれる。


「公爵令嬢様のようなお立場ではありません。

 いつ、学園にいられなくなってもおかしくない身です」


「だからこそ、でしょう?」


リリアンヌは、肩をすくめるように笑った。


「あなたが、ここで必死に学んでいることを、わたくしは知っていますもの。

 昨日のノートも――とても、格好良かったですわ」


「か、格好……?」


不意の言葉に、エミリアは顔を上げる。


「“立派な身分”だからではなく、“立派な努力”をしているから。

 そんな人との会話を、噂のせいでやめてしまうなんて……」


リリアンヌは、いたずらを打ち明ける子供のように、少し唇を尖らせた。


「そのほうが、わたくしの誇りに傷がつきますもの」


エミリアの瞳に、わずかな光が宿る。


「……リリアンヌ様は、噂が怖くないのですか?」


正直な問いだった。


前の人生のリリアンヌなら、「怖いに決まっている」と即座に答えただろう。

噂に怯え、噂にしがみつき、噂で自分を飾ろうとした。


今の彼女は、少しだけ考えてから、言葉を選ぶ。


「怖くないわけでは、ありませんわ」


真正面から否定はしない。


「でも、“噂されないため”に、何も言わず、誰にも近づかずにいる自分のほうが――

 もっと、嫌いになりそうです」


それは、前の人生の自分への、静かな告白でもあった。


「だから、わたくしは今度は違う方を選びますの」


リリアンヌは、まっすぐエミリアを見る。


「噂に飲まれないように、先に決めておきたいのですわ。

 “どちらの自分を好きでいられるか”を」


エミリアは、ぎゅっと本を抱きしめたまま、小さく息を吸い込む。


そして、おずおずと、けれど確かに頭を下げた。


「……そんなふうに言っていただけるような者ではありませんのに」


「そう思うのなら、勉強を続ければよろしいでしょう?」


リリアンヌは、軽く冗談めかして言った。


「わたくしのほうが怠けていたら、その時こそ、噂にしても構いませんわ。

 “公爵令嬢よりよく学ぶ特待生がいる”って」


「そ、それは……!」


エミリアの頬が、ほんのり赤くなる。


その色は、さっきまでの羞恥や恐怖ではなく、

くすぐったさと、少しの嬉しさを混ぜた色だった。


「さあ、午後の授業もありますし」


リリアンヌは、立ち上がりながら微笑む――今度は、仮面ではない、穏やかな笑みで。


「噂は噂、授業は授業ですわ。

 終わったあと、また図書室で続きを話しましょう?」


「……はい」


エミリアの返事は小さいが、その声には先ほどよりも芯があった。


教室のざわめきは、まだ完全には消えない。

けれど、その中で二人の間だけは、静かな共犯関係のように結ばれた。


(前は、噂の風向きに合わせて、立ち居振る舞いを変えていた)


(今度は――噂の風がどう吹いても、隣にいる人を間違えないように)


ポケットの中で、粗い布のハンカチが、指先に触れる。


リリアンヌは、自分の歩き出した道が

前の人生とは違う方向へ、確かに少しずつ曲がっていっていることを感じていた。


放課後の陽射しは、昼間より少しだけ傾いて、学園の中庭をやわらかく染めていた。


講義棟の屋上近くにある、小さなテラス。

花壇と古びたベンチがひとつ、それから、風に揺れる蔦の絡まる手すり。


ここは、噂話に夢中な生徒たちがわざわざ足を運ぶような場所ではない。


リリアンヌは、そのベンチに腰を下ろし、

手すり越しに見下ろせる中庭を、遠いもののように眺めていた。


下では、制服姿の生徒たちが小さな群れをつくって歩いている。

笑い声。ささやき声。ひそひそと耳打ちする仕草。


――そのどこかできっと、今日も「リリアンヌ」という名前が飛び交っているのだろう。


(噂は、いつだって――人の形より先に、名前だけを大きくしていく)


風に揺れる木々の葉を目で追いながら、彼女は静かに思う。


(“公爵令嬢リリアンヌ”という名札だけが、一人歩きしていた)


(その後ろにいる“わたくし”が、どんな顔で、どんな声で、

 何を見て、何を選んでいたのかなんて――誰も知らなかった)


前の人生の、婚約破棄の瞬間が、胸の奥でひそやかに疼く。


王子の冷たい宣告。

ざわめき。

「やっぱり」「聞いていた通りね」と、勝手な物語を重ねていく視線。


(だから、あの日――)


手すりを握る指に、自然と力がこもる。


(婚約破棄の噂が広まったとき、人々は簡単に、

 わたくしを“悪役”に塗り替えた)


冷たく。傲慢で。自業自得だと。


(彼らにとって大事だったのは、“王子の婚約者”という役と、

 “婚約を破棄された女”という役のほうだった)


(“リリアンヌ”という一人の人間ではなく)


ふっと、息を吐く。


今日の昼休みの光景が脳裏に蘇る。

中庭のテーブル。噂と笑い。

「特待生」「取り入る」「身分をわきまえない」という言葉たち。


(前のわたくしなら、同じように笑っていた)


(恐れから。外されるのが怖くて、“笑う側”に居続けた)


けれど今日は、違う言葉を選んだ。


「公爵令嬢なのに、あの特待生より勉強していないと噂されるほうが怖いですわ」――そんな冗談すら言えた自分を、今も思い出して、内心で少しだけ苦笑する。


(うまくやれたかどうか、正解かどうかなんて、まだわからない)


(でも――)


彼女は、ポケットに手を差し込み、粗い布のハンカチの端を指先でつまんだ。


森の夜。焚き火のぬくもり。

「貴女の物語は――ここからですよ」と告げた、あの声。


(今度は――噂が先に走っても、かまわない)


胸の内で、はっきりと言葉にする。


(そのあとから、ちゃんと歩いて行って、“本当のわたくし”で訂正していけばいいだけの話ですもの)


下から、笑い声がひときわ大きく響いてくる。

誰かの失敗談か、誰かの噂話か。


リリアンヌは、そちらに顔を向けたまま、ふっと目を細めた。


(噂を恐れて笑うのではなく)


(“噂の自分”と“本当の自分”に差があるのなら――

 いつか、その差に人が気づくように、生きていけばいい)


「……そのためには、そうですわね」


小さく、誰にも聞こえない声で呟く。


「わたくしが嘘をつかないこと、かしら」


誰かを貶めるための笑いも。

自分を飾るためだけの笑顔も。

噂に合わせて形を変える“仮面の微笑み”も。


「いらなくなったものが、ずいぶん多いですわね」


自嘲とも、安堵ともつかない息がこぼれた。


(だからこそ――)


今度は、はっきりとした形で、心の中に宣言を刻む。


(わたくし自身が、“ごまかさないで笑う”ことを、やめないでいたい)


噂を恐れて、引きつった笑顔で取り繕うのではなく。


誰かを傷つけないふりをしながら、見て見ぬふりをするのでもなく。


自分の選んだ言葉と、選ばなかった沈黙に責任を持って――それでも、笑う。


「噂に振り回されて笑うのではなく、

 “真実を持って、笑い返す”くらいで、ちょうどよろしいですわね」


テラスに、静かな風が吹き抜ける。


リリアンヌはゆっくりと立ち上がり、制服の裾を軽く払った。


下で、誰かがまた「リリアンヌ様」と囁いたような気がする。

その名にどんな色の噂が重なっているのか、今の彼女にはすぐにはわからない。


けれど――。


(名札がどう語られていても、

 わたくし自身がどう歩くかは、わたくしが決める)


ポケットの中のハンカチを、そっと握り直す。


「噂は噂。わたくしは、わたくしですもの」


ひとりごとのようにそう言って、

リリアンヌは、真実を抱えたまま笑う練習をするように、口元をやわく持ち上げた。


それは、誰にも向けられていない――

けれど、誰に見られても恥ずかしくない笑顔だった。


翌日からの数日間は、特別な事件もなく過ぎていった。


けれど、学園の空気は、ほんの少しだけ違っていた。


***


廊下ですれ違うたび、耳の端に、かすかな囁きが引っかかる。


「ねえ、昨日の――」


「リリアンヌ様、特待生の子を……」


リリアンヌがノートを抱えて歩いていると、

ちょうど曲がり角の向こうで、数人の女子生徒が立ち止まっているのが見えた。


彼女たちは、リリアンヌの姿に気づくと、慌てて背筋を伸ばす。

しかし、完全に会話をやめることはできず、声の調子を落とすだけだった。


「……思っていたよりも、話しやすい方かもしれないわよ?」


「え? でも、“氷の令嬢”って……」


「この前、中庭でご一緒したとき、特待生のこと、悪く言わなかったわ。

 むしろ、勉強を褒めておられたの」


「それは……その、優雅な皮肉とかじゃなくて?」


「さあ……。でも、あの言い方は……なんというか……」


「“冷たい”っていうより……最近はむしろ、“よくわからない”のお顔よね」


「そうそう。“何を考えているのかわからない”って感じ」


「でも、前みたいに“近寄ったら切り捨てられそう”って怖さは、少し薄れた気がしない?」


くすくすという笑いと、曖昧な評価の混ざった声。


完全な好意ではない。

けれど、かつて貼られていた「冷たい」「恐ろしい」というラベルは、

少しずつ剥がれかけているようだった。


リリアンヌは足を止めず、何気ない顔で彼女たちの横を通り過ぎる。


しかし、断片的な言葉たちは、ちゃんと耳に届いていた。


(“氷の令嬢”どころか、“よくわからない人”になってきましたのね、わたくし)


心の中で、小さく笑う。


(けれど――)


階段を上りながら、そっとポケットに指先を滑らせる。

粗い布のハンカチの感触が、そこにある。


(“よくわからない”なら、上等ですわ)


一段一段、足を運びながら、胸の内で言葉を重ねる。


(噂だけで決めつけられるよりも、“よくわからない”と思われているほうが、まだまし)


(だってそれは――)


「わたくし自身が、これから説明していける余地が残っているということなのですもの」


ぽつりと零した言葉は、階段の踊り場でそっと消えていく。


***


その日の午後、教室の窓から射し込む陽の光はやわらかく、

チョークの粉が、光の筋の中で細かく舞っていた。


授業の合間の休み時間。

リリアンヌは、自分の席に腰を下ろしたまま、窓の外を眺める。


中庭では、また誰かが誰かの噂をしている。

笑い、囁き、首を寄せ合う仕草が見える。


(噂は、止めようとしても止まらない)


(なら、わたくしが変えるべきなのは――噂ではなく、噂の“後ろ側”)


「……噂に塗りつぶされる物語ではなく」


指先で、机の上を軽くなぞる。


「“わたくしが選んだ言葉”で語られる物語を、ここから紡いでいきますわ」


誰に聞かせるわけでもない、ひとりごと。


ちょうどそのとき――

遠い記憶の底から、あの夜の、あの声が、またそっと浮かび上がる。


『貴女の物語は――ここからですよ』


森の焚き火の温もりを帯びた、低く穏やかな声。


リリアンヌは、思わず目を閉じ、すぐにゆっくりと開いた。

窓から差し込む光がまぶしくて、視界が少しだけ滲む。


「ええ」


彼女は微笑んだ。

それは、誰かに見せるための完璧な笑顔ではなく、

胸の奥で静かに灯った確信を、そのまま表に出したような笑み。


「ええ。噂がどう語ろうと構いません」


「殿下との出会いも、学園での毎日も、

 お母様の言葉も、あの森の夜も――全部、わたくしが選んだ言葉で語り直してみせますわ」


窓の外では、風がひときわ強く木々を揺らした。


ナレーション:


かつて、噂を恐れて仮面の微笑みを貼りつけていた少女は、

今、噂の真ん中で、素顔のまま笑おうとしていた。


――“氷の令嬢”と呼ばれる道は、少しずつ形を変え、

やがて、王子との婚約ルートも、森で出会う“彼”との未来も、

噂ではなく、彼女自身の選んだ真実によって塗り替えられていく。


そのことをまだ知らないまま、

リリアンヌは、教室の光の中で、静かに、しかし確かに微笑んでいた。





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