図書室の午後 ―― 知識を選び、虚飾を棄てる。
午後の鐘が、遠くでひとつ鳴った。
授業の終わりを告げる合図とともに、学び舎の廊下はいっせいに華やいだ声で満ちていく。
談話室へ向かう足音、庭園でのティータイムを約束し合う笑い声、次の舞踏会の噂話――。
かつてのわたくしなら、その流れに迷わず乗っていたはずだった。
「ここで顔を出しておけば」「あの子たちと仲良くしておけば」
そうやって、“殿下の婚約者にふさわしい立場”を守るために、休憩時間すら計算に入れていた。
けれど、今。
リリアンヌは人の波からそっと身を外し、別の方向へ歩き出した。
向かう先は、学び舎の奥――静かな図書室。
◇
重い扉を押し開けると、空気が一段階、ひんやりと落ち着く。
高い天井まで届く書架が、規則正しく並んでいる。
窓から斜めに差し込んだ陽光が、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせ、革表紙の背を淡く照らしていた。
紙とインク、それから古い木の混ざった匂い。
さっきまで耳をくすぐっていた笑い声は届かず、ここにはページをめくる小さな音だけがある。
「……やっぱり、落ち着きますわね」
誰に聞かせるでもない声で、リリアンヌはぽつりと呟いた。
図書室の一角には、彼女のために用意された席がある。
窓にいちばん近い机。光が強すぎず、目に優しい場所。
椅子の背には、侍女が置いていった薄手のショールが掛けられていた。
いつもなら、「お嬢様はこちらが一番お似合いです」と言われて、
“それらしく見える位置”として選ばれていた席。
今日だけは、その場所が“避難場所”のように思えた。
リリアンヌはスカートの裾を整えて椅子に腰を下ろし、深く息を吸う。
胸の中に残っていた、王城の庭園でのざわめきが、少しずつ遠のいていくのを感じた。
(“殿下にふさわしい教養”を、身につけなければ――)
それは、ずっと自分の中で鳴り響いていた呪文のような言葉だ。
どんな本を読むか、どんな話題を用意するか。
それはすべて、「殿下の隣に立つため」の準備だった。
けれど、庭園で殿下と向き合った今日、リリアンヌは思い知ったのだ。
殿下は殿下のまま、きっと立派な王子になられる。
それでも――その隣に立つ自分の生き方まで、誰かの好みに委ねる必要はないのだと。
視線を上げると、目の前には書架の列。
歴史書、礼儀作法書、詩集、哲学。
背表紙に刻まれた金文字が、光を受けて静かに輝いている。
(もう、“殿下のために”選ぶのはやめましょう)
胸の内で、そっと言葉を置く。
(わたくしは――)
(自分の頭で考えて、選べるようになるために。
自分で、自分の人生を選び返すために。
そのために、知りたい)
そう思った瞬間、心の奥で、固く張り詰めた糸の一本がふっと緩むのを感じた。
虚飾のためではなく、誰かの期待のためでもなく。
ただ、自分が「必要だ」と信じた知識を求める午後。
リリアンヌはそっと席を立ち、本の森の中――静かな避難場所のさらに奥へと歩き出した。
本棚の列のあいだを歩きながら、リリアンヌはそっと指先を伸ばした。
革表紙の感触。金の刻印。
礼儀作法書、宮廷史、王家の系譜、英雄譚、古い詩集、哲学書――
整然と並んだ背表紙が、まるで「これこそが貴族の教養」と言いたげに沈黙している。
指が、ひときわ豪奢な装丁の詩集で止まった。
(……この詩集)
前の人生の記憶が、鮮やかによみがえる。
◇
【フラッシュバック】
“ユリウス殿下は古典詩を好まれるらしいですよ”
そう耳にしてから、リリアンヌはその詩集を慌てて取り寄せた。
ページをめくる。
難解な比喩、美しいだけの甘やかな言葉。
意味の半分も、胸に落ちてはいなかった。
それでも――
「こちらの詩集は、もう何度も読み返しましたの」
そう言えるように、冒頭の数編だけを繰り返し暗記した。
詩そのものよりも、その詩を口にする“自分の姿”ばかりを思い描きながら。
別の日には、王家の歴史書。
(殿下のご先祖の偉業を、すらすらと言えれば、きっとお喜びになるわ)
そう信じて、年号と戦績ばかりを必死で詰め込んだ。
ページの隅には、当時の自分の癖の強い書き込みが残っている。
“ここを言えば褒められるかも”
“殿下との会話用”
……そこに、“自分のための学び”という言葉は一つもなかった。
◇
現在の図書室に、意識が戻る。
リリアンヌは、詩集からそっと手を離した。
(あの頃のわたくしは――)
(本の中身ではなく、「読んだと“言えること”」のほうばかり大事にしていた)
「読んだことがありますわ」と微笑むための読書。
「ご立派です」と評価されるための暗記。
知識さえも、宝石やドレスと同じように、
“飾り”として身につけていただけだった。
どの本を選ぶかより、
その本を持っている自分が、誰の目にどう映るか――そればかり。
背表紙に並ぶ金文字を見つめながら、リリアンヌは小さく息を吐く。
「……あの頃のわたくし、なんて忙しなく見栄を張っていたのかしら」
自嘲ではなく、少しだけ哀れむような響きで。
それでも、その過去を否定しきれないのは――
その虚飾のなかにも、幼い自分なりの“必死さ”があったことを、今は知っているからだった。
リリアンヌは、いつもの癖で「王家年代記」と刻まれた分厚い背表紙に手を伸ばしかけ――その途中で、指先をぴたりと止めた。
(また、同じところに戻るところでしたわね)
指をそっと引っ込める。
代わりに、視線だけを棚の列の奥へと滑らせる。
少し外れた一角。
そこには、装丁こそ地味だが、見慣れない題名が並んでいた。
『領地経営概論』
『都市と貧民層の実態』
『慈善院と救済制度の歴史』
『飢饉期の対策と穀物備蓄』
革表紙の間には、羊皮紙ではなく粗めの紙を使った本も混ざっている。
そのさらに端には、
『旅人の見聞録』
『民間伝承集』
といった、“宮廷の話題”にはあまり上らない種類の本。
(……こんな本、前のわたくしはほとんど目もくれなかった)
華やかな舞踏会。
王城の噂話。
誰がどの宝石を身につけ、どのドレスが流行しているか――
その陰で、炊き出しの列に並ぶ人々。
冷たい石畳に膝をついていた老婆。
固くなったパンを分けてくれた少年。
あの人たちが、どんな暮らしをしているのか。
どうしてそこまで追い詰められていたのか。
(わたくしは――何ひとつ、知ろうともしなかった)
指先が、ゆっくりと別の背表紙に触れる。
『領地経営概論』
取り出してみると、重みはあるが、王家史ほど装飾的ではない。
中を開けば、税の仕組み、収穫量の記録方法、飢饉の際の施策……文字がぎっしりと並んでいる。
次に、『都市と貧民層の実態』。
目次には、「スラムの形成」「失業と流民」「教会と施し」などの項が並ぶ。
(炊き出しの列……あれは、こうした“仕組み”の果てに生まれた光景だったのね)
今さらながら、あの薄いスープの匂いが鼻の奥に蘇る。
肩を寄せ合って並んでいた人々の、疲れ切った横顔も。
そして、棚の端から『旅人の見聞録』を一冊。
各地の村や街の暮らし、風習、土地ごとの食べ物。
そこには“王族の宴席”には出てこない料理や、名前もないような小さな集落の話が書かれている。
腕に、どさり、と心地よい重みが集まった。
リリアンヌは、自分の抱えた本の山を見下ろす。
(王子殿下が好まれる古典詩集でもなく)
(舞踏会で話題にしやすい宮廷史でもなく)
(今日、わたくしが必要だと思ったのは――)
森で出会った人々。
飢えた瞳と、分け与える手の温かさ。
(あの人たちの暮らしを、何ひとつ知らなかったわたくしが、公爵令嬢として“立派”だなんて、笑わせますわ)
胸の奥で、静かに熱が灯る。
「王族好み」の書架から、彼女は半歩、意識して身を離した。
自分の足で歩いて、実務書と記録の棚のほうへと席を移す。
机の上に本を並べながら、リリアンヌはそっと息を吸う。
(わたくしは今――)
(“誰かに見せるため”ではなく)
(“誰かを守るため”に、知識を選ぼうとしている)
その自覚は、まだほんの小さな一歩にすぎない。
けれど、その一歩は確かに――前の人生のどんな読書とも、違う方向を向いていた。
図書室の奥。
窓から少し離れた机に、小さな島のように本が積み上がっていた。
その本の山に埋もれるようにして、ひとりの少女が座っている。
平民出身の特待生――エミリア。
細い肩に、必死さがにじむ。
硬い表紙を押さえる指は、ペンだこで少し赤くなっていた。
(エミリア……)
リリアンヌは、本を抱えたまま足を止める。
思わず、棚の影に半歩だけ身を隠した。
前の人生なら、この距離のまま視線をそらしていただろう。
「特待生」としての彼女を“眺める”だけで、“話しかける”ことはしなかった。
(身分が違うから――そうやって、自分に言い訳をして)
机の上では、エミリアが真剣な顔でノートを取っている。
開かれている本のタイトルが、ちらりと目に入った。
『領地運営の初歩』
その横には、
『村落構造と収穫高の管理』
『地方行政官の役割』
など、実務寄りの書物が積まれている。
リリアンヌは、胸の奥が少しだけきゅっとなった。
(……偶然かしら。同じ棚の本を、選んでいるなんて)
迷いが、ひと呼吸分だけ続く。
けれど、今度は――その迷いに、負けない。
リリアンヌは腕に抱えた本を持ち直し、静かな足音でエミリアの机へと近づいた。
「ごきげんよう、エミリア」
不意に名前を呼ばれて、エミリアの肩がびくりと跳ねる。
慌てて立ち上がろうとして、椅子の脚をきいと鳴らしてしまった。
「っ、こ、ごきげんよう、公爵令嬢様……! し、失礼いたしました……!」
エミリアは、慌てながらも深く頭を下げる。
その仕草は少しぎこちないが、真面目さが滲んでいた。
「お構いなさらないで。勉強中でしたのでしょう?」
リリアンヌは、机の上の本へ視線を落とす。
「こちらは……領地運営の本、ですのね?」
「は、はい……! まだ難しくて、全部は理解できていないのですけれど……」
エミリアは、恥ずかしそうに笑いながらノートを押さえた。
「将来、故郷の村で、字の読める人がほとんどいなくて……。
役所から届く書類も、誰もちゃんと内容を説明できないことが多いんです。
だから、いつか戻ったときに――少しでも皆の役に立てたらと思って……」
その言葉は、飾り気がない。
けれど、真っ直ぐで、刺さる。
(故郷の村のために――)
(わたくしは、そんなふうに“誰かの暮らし”を思って本を開いたことが、あったかしら)
前の人生。
彼女が本を開いた理由はいつも、「殿下の話題についていくため」「賢く見えるため」「公爵家の娘として恥ずかしくないため」。
どれも、自分の外側にある評価のためだった。
目の前の少女は違う。
手元の紙には、丁寧な文字で図が描かれている。
村の畑の区画を簡略化したような図と、その横に「収穫量」「税」「備蓄」といった単語が並ぶ。
「まぁ……」
リリアンヌは思わず、ノートを覗き込む。
「このまとめ方、とても分かりやすいですわね」
「えっ……!」
エミリアが、目を丸くした。
「畑の区画の図と、穀物の量を並べて書いてらして。
数字だけ並べるより、ずっとイメージしやすいですわ。
先生方も、こうして教えてくださればよろしいのに」
「そ、そんな……ただ、私が数字だけだと分からなくなってしまうから、勝手に描いているだけで……」
エミリアの頬が、ぽっと赤くなる。
「いえ、本当に素敵な工夫ですわ。
――もしよろしければ、その書き方、わたくしも真似してみたいくらいです」
「公爵令嬢様が……わ、私の真似を、ですか……?」
信じられない、という顔。
リリアンヌは、ふっと微笑んだ。
「身分は関係ありませんもの。
“理解するための工夫”に、貴族か平民かは関わりませんわ」
自分で言いながら、その言葉が自分の胸にも落ちていくのを感じた。
(この子は、“出世のため”ではなく――)
(“誰かの暮らしを良くするため”に学んでいる)
(わたくしが“見栄”のために積み上げてきた知識とは、根っこが違う)
エミリアは、戸惑いながらも、そろそろとノートをこちらへ向ける。
「で、でしたら……少しだけ、お見せします。
この章のところ、村で曾祖父から聞いた話を思い出しながら書いたので……
もしかしたら、本に書かれていることとは違うかもしれませんけれど」
「教えていただけてうれしいですわ。
わたくし、村の暮らしのことをほとんど存じませんもの」
リリアンヌはそう言って、椅子を少しだけ引き寄せた。
まるで、身分という見えない線を一歩またいだような感覚。
静かな図書室の片隅で、公爵令嬢と特待生の少女が、ひとつのノートを挟んで肩を寄せる。
本棚の影に差し込む午後の光が、二人の手元を柔らかく照らしていた。
図書室の扉が、そっと軋む音を立てた。
静かな空気を破らないように、それでも自分たちの存在を示すように――
数人の貴族令嬢たちが、ひらひらとレースのついた裾を揺らして入ってくる。
昼下がりの光の中、宝石のようなブローチや髪飾りがきらりと瞬いた。
「まあ、今日はずいぶん人がいますのね」
「先生が仰っていたでしょう? “これからは本への親しみが重要だ”って。
だから、わたくしたちも“読書に親しむ令嬢”を演じませんと」
笑い混じりのささやきに、リリアンヌは顔を上げる。
エミリアとのノートを一旦閉じ、軽く会釈を返した。
令嬢たちは、慣れた足取りで本棚の“見栄えのいい区画”へ歩いていく。
そこには、装丁の美しい詩集や、有名どころの哲学書、王家の英雄譚など――
「持っているだけで話題になる」本が整然と並んでいた。
「この詩集、殿下もお好きだそうよ」
「ええ、舞踏会の折に話題に出たって聞いたわ。
これを机の上に置いておけば、“殿下と趣味が合う”ってアピールできますものね」
「こっちの哲学書も良いわよ。
タイトルを口にするだけで、先生方の目の色が変わりますもの。
“よく勉強している”って」
くすくす、と笑いがこぼれる。
そのうちの一人が、リリアンヌのほうへ視線を向けた。
「リリアンヌ様は、もうお席をお取りになっていたのですね」
「ごきげんよう。まあ、そのご本は……」
彼女の視線が、リリアンヌの机の上の背表紙をなぞる。
『領地税と救済策』
『都市貧民の実態』
『慈善院の設立例』
――詩集でも、英雄譚でもない。
「ずいぶんと……実務的なご本をお読みなのですね」
令嬢は上品な笑みを浮かべたまま、首をかしげる。
「てっきり、殿下のお好みに合わせて選書されているのだとばかり思っておりましたわ。
リリアンヌ様ほどの方なら、きっと――」
前の人生なら、ここで迷いなく笑っていた。
(ええ、殿下がお好きだと伺いましたから)
(殿下とお話を合わせられるように、と思いまして)
そんな台詞を、何度口にしたか知れない。
“公爵令嬢リリアンヌ”という仮面に、ぴたりと貼り付いた笑顔で。
けれど今、リリアンヌは――ほんの一瞬だけ、呼吸を整えた。
胸の内側で、母の声がよぎる。
『“自分で自分を褒められる生き方”をしているかどうかは……あなたにしか決められないでしょう?』
(そうですわね――)
(今、ここでどんな答えを選ぶのかも、きっとその一部)
リリアンヌは、ゆっくりと顔を上げた。
「いいえ」
柔らかながら、はっきりとした声。
「今日は、“殿下のお好み”ではなく――」
令嬢たちの視線が、すっと彼女の口元に集まる。
「“わたくしが知らなければならないこと”の本を選びましたの」
一瞬、時間が止まったようだった。
「……え?」
「“知らなければならないこと”、と仰いますと……?」
戸惑いを隠せない声が、どこかから漏れる。
リリアンヌは、机の上の本の背表紙を指先で撫でた。
「領地に暮らす人々のこと。
飢えたとき、どんなふうに助けを求めるのか。
税が重くなったとき、誰がどこで泣いているのか――」
ふと、炊き出しの列に並ぶ人々の顔が、記憶の底から浮かび上がる。
パンを抱えて笑っていた少年の、細い腕。
冷たい夜に、焚き火のそばで震えていた老女。
「……それを、わたくしは何も知りませんでした」
自嘲でも、劇的な悲壮感でもなく、ただ事実を言うような声で。
「ですから、今はまず“そこから”学びたいと思いまして」
令嬢たちは、互いの顔を見合わせた。
「リリアンヌ様……変わられたのね」
「ええ、なんというか……ずいぶん“真面目”になられたと申しますか」
「でもほら、リリアンヌ様ほどの方がそう仰るのなら、
わたくしたちも、たまにはこういう本を手に取ってみるのも――」
囁き声が、小さな波紋のように広がる。
そこには、露骨な嘲りはない。
ただ、「よく分からないものに対する戸惑い」と、「少しの尊敬」と、「少しの距離」が混ざり合っていた。
リリアンヌは、その反応を、必要以上に気にしなかった。
(前のわたくしなら、今の一言で一日中悩んでいたでしょうね)
(“変わった”と言われることが怖くて――)
(皆と同じように、詩集を開いて見せたはず)
心の中で、静かに言葉を結ぶ。
(虚飾のための知識は、もういらない)
(“教養ある令嬢”に見せるための本ではなく――)
(“誰かの明日を変えるかもしれない知識”を選びたい)
「リリアンヌ様」
そっと袖を引く、小さな気配。
隣に座るエミリアが、不安そうにこちらを見上げていた。
「わ、私……お邪魔でしたら、席を移ります……?
リリアンヌ様がお友達とお話なさりたいなら――」
リリアンヌは、首を横に振って微笑む。
「いいえ。エミリア。
もしよろしければ――教えてくださるかしら?」
「え……?」
「さきほどのノートの続き。
故郷の村のお話、とても興味がございますの」
エミリアの瞳が、驚きと少しの喜びで大きくなる。
リリアンヌは、机の上の“飾りにならない本”たちに、そっと触れた。
その表紙は地味で、背表紙は装飾も乏しい。
けれど今は、どんな宝石よりも尊いものに見える。
虚飾を飾るための書物ではない――
誰かの現実に手を伸ばすための、扉。
「……では、この章から」
エミリアがノートを開き、リリアンヌが身を乗り出す。
図書室の午後。
窓から差し込む光が、二人の影を、同じ机の上に重ねていた。
図書室の静寂の中に、紙をめくる音がふたつ、重なった。
ひとつは、リリアンヌの前に開かれた、領地税制についての分厚い本。
もうひとつは、エミリアが必死に書き込みを続けている、ところどころインクの染みたノート。
「……ここですわ」
リリアンヌは、指先で本の一節を軽く叩いた。
「『不作の年における税の軽減措置は、領主の裁量に委ねられる』――
この部分、わたくしも気になっておりましたの」
エミリアはびくりと肩を揺らし、慌ててノートを閉じかける。
「も、申し訳ありません、お嬢様。
わ、私のような者が、勝手に口を挟んでしまって……」
「違いますわ、エミリア」
リリアンヌは首を振り、そっとノートの端を押し戻した。
「ぜひ、教えていただきたくて申し上げたのです。
あなたのノート、とても整理されていて――読みやすいですもの」
「よ、読みやすい……?」
エミリアは目を丸くする。
「はい。ここをご覧になって」
リリアンヌは、彼女のノートの一ページを指さした。
「“条文”の下に、“村での実際の運用例”を書き足していらっしゃるでしょう?
『去年の不作のとき、村長がこう決めた』『隣村はこうだった』と」
そこには、震える字ながらも細かいメモがびっしりと並んでいた。
――“不作の年、税を払えない家は、翌年に繰り越し”
――“だが、繰り越しが続くと土地を手放すことになる家もある”
「わたくしの本には、“理想的な運用”しか書かれておりませんの。
けれど、あなたのノートには“現実”がある」
リリアンヌは、ゆっくりと微笑んだ。
「ですから――もしよろしければ、その“現実”を、わたくしにも分けていただけません?」
エミリアは、しばらく言葉を失っていた。
やがて、おそるおそるといった様子で、ノートを自分のほうへ引き寄せる。
「……私の村では、去年、干ばつが続いて……
そのとき、村長さんがこの条文を持って領主様のところへ行ったんです」
震えながらも、エミリアの声には、故郷を語るあたたかさが宿っていた。
「本に書いてある“裁量に委ねられる”っていう言葉を、
村長さんは、“お願いできる余地がある”って解釈して」
「領主様はどうなさったのかしら?」
リリアンヌは、自然と身を乗り出していた。
「半分は軽減してくださって……残りは、数年かけて少しずつ返す、という形に。
でも、その間に病気になったり、家族を亡くした家もあって……」
言葉がそこで、少しだけ詰まる。
エミリアは、申し訳なさそうに笑った。
「すみません、お嬢様。こんな暗いお話……」
「いいえ」
リリアンヌはすぐさま否定した。
「むしろ――“そこから先”を知らなければ、わたくしたちが本を読んでいる意味がございませんもの」
そう言って、自分のノートを開く。
白紙のページに、ペン先を置いた。
「村長が条文を使った例」
「領主が軽減した割合」
「それでもこぼれ落ちた人々」
ひとつずつ、エミリアの言葉をそのまま写していく。
エミリアは、目を丸くしたまま、その様子を見つめていた。
「お嬢様が……私の話なんて、ノートに……?」
「“お嬢様”としてではなく、“知らないことを学ぶ者”として書いているのですわ」
リリアンヌは顔を上げた。
「この本を書いた学者は、きっと王都で立派な方なのでしょう。
けれど、あなたの村の土の匂いや、人々の息づかいを知っているのは――あなたですもの」
エミリアの頬が、かすかに紅潮する。
「わ、私なんて……
ただ、村の皆に“役に立つようになれ”って送り出されただけで……」
「だからこそ、ですわ」
リリアンヌは、そっと微笑みを深めた。
「知識は、誰かを飾るためだけのものではなくて――
誰かの暮らしの中で、初めて本当の意味を持つのだと、最近ようやく思い始めましたの」
「……誰かの、暮らしの中で」
エミリアが、小さく復唱する。
図書室の窓から、午後の光が斜めに差し込み、机の上を白く染めていた。
本から反射した光が、エミリアの黒髪の一房を淡く照らす。
リリアンヌは、ページの端に小さく書き加えた。
――“エミリアの村の例(実際の運用)”
それは、ただのメモに過ぎない。
けれど、彼女にとっては、“本の世界”と“現実の世界”とを結ぶ、初めての架け橋だった。
「リリアンヌ様」
少しして、エミリアが恐る恐る口を開く。
「この章の“施療院”のところは……
私のほうが、少しだけ詳しいかもしれません」
「まあ」
「村の神殿に、簡単な施療院があって……
そこの手伝いをしていたので、先生に少し教えて頂いたことがあるんです」
「でしたら、ぜひお願いしますわ」
リリアンヌは、ペンを構え直した。
「わたくしは文字から学びます。
エミリアは、経験から学んでいる。
そのふたつを合わせれば――きっと、ひとりで読むより、ずっと遠くまで見通せますもの」
エミリアの表情に、遠慮がちだった光が、少しだけ強くなる。
「……はいっ」
ふたりの間に置かれた本とノートが、まるでひとつの机の上の“共同作業”のように見えた。
身分は違えど、同じ行を追い、同じ欄外に書き込み、同じ問題に眉を寄せる。
リリアンヌの胸の内に、静かな実感が滲む。
(こうして学ぶことが――)
(誰かの顔も、声も、暮らしの匂いも知らないまま詰め込んだ“見栄の知識”ではなく)
(誰かの明日と、確かにつながっている“教養”なのかもしれない)
机の上に広がる文字と、インクのしみと、小さな書き込みたち。
それらはどれひとつとして、飾りにはならない。
だが、確かに――未来へ伸びていく糸のように、ふたりの手の中に結ばれていた。
放課後の鐘の余韻が、静かな図書室の天井に薄く残っていた。
「本日の閲覧は、そろそろおしまいですよ」
司書が穏やかに声をかけると、散っていた貴族の少女たちは、思い思いの本を抱えて出入口へ向かっていく。
「殿下ご推薦の詩集は、やっぱり借りておきましょうか」
「ええ、舞踏会の話題にもなりますものね」
ひそひそとさざめく声が、閉じかけたドアの向こうへ消えていった。
残された静寂の中で、リリアンヌはゆっくりと立ち上がる。
机の上には、今日開いていた本が二冊。
ひとつは、金の装飾が施された、薄い詩集。
王家の紋章が型押しされている“いかにも”な一冊。
――「殿下もお好みだと伺いましたの」と、誰かが嬉しそうに言っていた本。
もうひとつは、装丁こそ質素だが、厚みと重みのある書物。
『領地と民衆の暮らし ―― 税と救済の実例』と、地味な文字で題が記されている。
リリアンヌは、先に詩集を手に取った。
薄いページをぱらぱらとめくると、甘やかで美しい言葉が並んでいる。
一度は覚えたはずの一節が、記憶のどこかから浮かび上がる。
――“薔薇のように咲き誇る姫君に、永遠の忠誠を”
(前の人生のわたくしなら――)
(この一行を、殿下の声で脳内再生して、ひとりで酔っていましたわね)
自嘲ではなく、事実を確認するような心持ちで、本を閉じる。
指先に伝わる軽さが、かつての自分の「憧れの軽さ」と重なった。
リリアンヌは、詩集を抱えたまま、棚の前へ歩み寄る。
王家や宮廷詩人たちの名が並ぶ一角。その定位置に、そっと本を戻した。
――カチリ。
背表紙が、他の本とぴたりと列を揃える。
(読んでおかねば、と思っていた)
(“殿下の好み”を知るため、“賢く見える”ため……)
(けれど――)
彼女は、ほんの短い逡巡の後、手を離した。
詩集はそこにある。
必要なら、いつでもまた取りに来られる。
今の自分が抱えて帰らなければならないほど、切実に欲しているわけではない。
「……失礼いたします」
背後から控えめな声がして、エミリアが本の山を胸に抱えて小走りに通り過ぎていく。
彼女の本の背表紙には、“租税”“施療院”“飢饉”などの文字が見えた。
お辞儀を交わし、その背を見送ってから、リリアンヌは自分の机へ戻る。
残されたもう一冊――『領地と民衆の暮らし』を、しっかりと両腕に抱き上げた。
さきほどまで一緒にノートを覗き込んでいたエミリアの横顔が、ふっと脳裏によみがえる。
土と風の匂いがまだ残っていそうな村の話。
条文のすき間からこぼれ落ちた、人々の生活の現実。
(これは、“誰かに賢く見せるため”の本ではありませんわね)
(いつか―…領地を預かる者として、本当に知らなければならないこと)
胸の前に本を抱えたまま、出口へ向かって歩き出す。
図書室の扉をくぐると、廊下は夕刻の光で満たされていた。
窓から差し込む橙色が床に長く伸び、彼女の影も、抱えた本の影も、静かに揺れる。
歩きながら、リリアンヌはふとスカートのポケットに指を滑り込ませた。
指先が、ざらりとした布に触れる。
――粗い布のハンカチ。
森の夜、焚き火のそばで受け取った、あの温もりの名残。
(虚飾のための知識を棄てても――)
(わたくしから、何かが減るわけではないのですわね)
ポケットの中で、ハンカチをそっと握りしめる。
(むしろ、“本当に必要なもの”を抱えられる余白が、生まれるだけ)
腕の中の本は、重い。
だがその重さは、見栄のために積み上げた、あの軽い詰め込みとは違う。
ページの一枚一枚に、エミリアの村の風景や、まだ見ぬ領民たちの顔が、かすかに重なっているように思えた。
その瞬間、ふと――朧げな記憶がよぎる。
焚き火の赤い光。
夜の森の暗がり。
その向こうで、誰かの影が、膝の上に何かを広げている。
(……本?)
炎に照らされて、紙の白がちらりと揺れる。
男の低い声が、何かを読み上げているような、そんな気配。
けれど、その記憶はまだ霞がかっていて、輪郭を結ばない。
リリアンヌは、目を細めて歩みを緩め――やがて、そっと首を振った。
(今は、まだ思い出さなくてよろしいですわ)
(“いつか再び会えたとき”に、胸を張って語れるように)
(わたくしは今日選んだ、この一冊から積み重ねていけばいい)
廊下の角を曲がると、窓の外には、藍色に沈みゆく王都の屋根が連なっていた。
ナレーション:
かつて、“賢く見えるため”に積み上げた本の山は、
彼女の心を覆い隠すための、ただの飾りの塔にすぎなかった。
今、リリアンヌが腕に抱えている一冊一冊は、
いつか誰かを守るための橋へと姿を変えていく。
――図書室の静かな午後。
彼女は知識を選び、虚飾を棄てることで、
自分自身の未来の形を、少しずつ書き換え始めていた。
抱えた本と、ポケットの中のハンカチ。
ふたつのささやかな重みを確かめながら、リリアンヌはまっすぐ前を向いて歩いていく。
その足取りは、もう“誰かに見せるため”ではなく――
“自分で選び取った未来”へと向かうための、静かな一歩だった。




