王子との再会 ―― あの日と同じ微笑み、でも心は凪いでいた。
王都へ続く石畳の道を、馬車が一定のリズムで進んでいく。
車輪がわずかにきしむ音と、馬の蹄が刻む響き。薄いカーテン越しに差し込む光が、揺れるたび、リリアンヌの頬をかすめた。
彼女は窓辺に寄り、外の景色を見つめている。
見慣れた並木道、遠くに見え始めた白い城壁。その光景は、確かに一度見たことがあるものだった。
(あの日と同じ道。
あの日と同じ、王城)
胸の内でそう呟き、そっとまぶたを伏せる。
(でも――わたくしは、もう“同じわたくし”ではない)
膝の上で、幼い指が布切れをぎゅっと握りしめていた。
豪奢なドレスには似つかわしくない、粗い織りの小さなハンカチ。ほんの少し触れるだけで、ざらりとした素朴な感触が指先に伝わる。
森の夜。冷え切った自分の手を包んだ、あの温もりの記憶がよみがえる。
(殿下に会うのは、“憧れの王子様”に会うためではなく……)
リリアンヌは、震えないように、そっと息を整えた。
(わたくしが、どんな人と人生を結ぼうとしていたのか、確かめるため)
向かいの席では、父が背筋を伸ばして座っている。
漆黒の上着に金糸の刺繍、貴族として隙のない身なり。彼は窓からちらりと城壁を確認すると、娘へと視線を戻した。
「陛下も殿下も、幼い頃から君の評判を耳にしておられる」
低くよく通る声が、揺れる車内に落ちる。
「礼節を忘れなければ、何も心配はいらない」
以前のリリアンヌなら、この一言でさらに緊張を高めていたことだろう。
“期待に応えなければ”と、自分の心を締め上げていたはずだ。
けれど今、彼女の胸に広がっているのは、張り詰めた不安ではなく、静かな波紋のような緊張だった。
リリアンヌは、膝の上からそっと視線を上げる。
「ええ」
柔らかく微笑み、はっきりとした声で続けた。
「わたくしは――わたくしのままで参りますわ」
父の眉が、ほんのわずかに動く。驚きとも評価ともつかぬ沈黙が、短く挟まれた。
やがて彼は、ふっと目を細める。
「……そうか。それがいちばん、陛下もお好みになろう」
リリアンヌは小さく頷き、再び窓の外へ視線を戻した。
城壁の向こうに、白い尖塔が顔を出す。
前の人生では――あの塔を、“自分の物語のすべて”だと思っていた。
今は違う。あれは数ある選択肢のひとつに過ぎない、と知っている。
膝の上の粗いハンカチに、彼女はそっと力を込めた。
(王子殿下は、きっとあの日と同じ微笑みを向けてくださるでしょう。
でも、揺れるかどうかは――もう、わたくし次第ですわ)
馬車は、王城の大門へと近づいていく。
鼓動は確かに速い。けれどその奥には、静かな決意の凪が広がっていた。
王城の高い塔を背に、庭園は静かな午後の光に満ちていた。
格式ばった挨拶と一連の儀礼を終え、リリアンヌは侍女に付き添われて庭の奥へと歩いていく。
石畳の道の両側には、季節の花々が整然と並び、奥へ進むほど香りが濃くなっていった。
「こちらで、殿下をお待ちくださいませ、お嬢様」
侍女がそう告げて一礼すると、静かに下がっていく。
残された先には、白い東屋――ガゼボがひっそりと佇んでいた。
優雅なアーチに蔦が絡み、周囲には手入れの行き届いた薔薇の列。
少し離れたところでは、丸い噴水が小さく水音を立てている。
ふ、と胸の奥が震えた。
(……本当に。なにもかも、同じ)
リリアンヌは東屋のそばまで歩み寄り、周囲をゆっくりと見渡す。
(薔薇の配置も、東屋の影の落ち方も――
あの日と、寸分違わない気がいたしますわ)
記憶が、鮮やかによみがえる。
――前の人生で、初めてここを訪れた日。
幼い自分は、胸が張り裂けそうなほど高鳴らせて、この白い東屋の前に立っていた。
“王子殿下にふさわしい令嬢”であるかどうか。
笑顔は崩れていないか、姿勢は美しいか、言葉遣いは完璧か。
自分のすべてを「試される場」だと信じて、震える心を見ないふりをしていた。
そのときの自分の顔が、まるで鏡越しに見えるような気がした。
張り詰めた笑み。
期待と不安と、認められたいという渇きが混ざり合った、痛いほどの表情。
今のリリアンヌは、そっと目を閉じて、胸の奥まで空気を吸い込む。
薔薇の香りと、噴水の湿った涼しさが、肺の中へゆっくりと満ちていった。
(でも、ひとつだけ違う)
まぶたの裏で、自分の心に言葉を落とす。
(今のわたくしは、“殿下に選ばれるため”ではなく――)
ゆっくりと瞼を開き、白い東屋を正面から見据える。
(“わたくし自身が、殿下を選ぶに値するかどうか”を見るために来た)
風がひとすじ吹き抜け、薔薇の花弁がかすかに揺れた。
噴水の水音が、以前よりも穏やかに聞こえる。
同じ庭園、同じ東屋、同じ待ち合わせ。
けれどそこに立つ少女の心だけが――前とはまるで違う静けさを湛えていた。
その気配に、リリアンヌは自然と背筋を伸ばした。
石畳を踏む、規則正しい足音。
東屋へと続く小径の向こうから、光を連れてくるようにひとりの少年が現れる。
金色の髪――
陽光を含んで淡く揺れ、歩みとともにさらりと肩のあたりで流れる。
仕立ての良い王族の制服は、まだ少年らしい細い肩を包みながらも、その一挙手一投足に染み込んだ育ちの良さを隠しきれていない。
彼は東屋の前で足を止めると、絵画から抜け出した王子のような仕草で、柔らかく微笑んだ。
「初めまして、公爵令嬢リリアンヌ。
こうしてお会いする日を、楽しみにしていました」
――あの日と、まったく同じ言葉。
前の人生の記憶が、胸の奥でぱっと花開く。
初めてこの声を聞いたとき。
彼女は、その一言すべてを「自分だけに向けられた特別な好意」だと信じて疑わなかった。
その笑顔は、自分だけのもの。
その言葉は、自分だけを照らす光。
そう信じてしまったからこそ――
やがてその視線が、少しずつ別の令嬢へ向いていく痛みを、耐えがたい裏切りのように感じたのだ。
今、リリアンヌは同じ微笑みを、違う目で見つめている。
(……変わらないわ)
金の髪も、澄んだ瞳も、淀みのない立ち居振る舞いも。
そして何より――
(完璧で、優しくて、“誰にでも向けられる”笑顔)
その笑みは、間違いなく王子として磨かれたものだ。
相手を安心させ、好意を抱かせるための、徹底された「王族の顔」。
(わたくしは、それを“殿下だけの誠実”だと思い込んでいた)
あの頃の自分は、その「誰にでも向けられる優しさ」を、
“自分への特別な選別”だと錯覚していたのだ。
けれど、だからといって――彼を責める気持ちは、不思議と湧いてこない。
これは「王子ユリウス」としての微笑み。
舞台の上で役割を果たす人の、当然の表情。
リリアンヌは、胸の内でそっと息を整えると、スカートの裾を両手でつまみ上げた。
背筋を伸ばし、膝をしなやかに曲げる。
流れるような所作で、完璧なカーテシー。
「お招きいただき光栄に存じます、ユリウス殿下」
その声は柔らかく、礼を欠くところはひとつもない。
けれど、前の人生で震えていたような熱は乗っていなかった。
それは冷たさではなく――
「過剰な期待」を含まない、静かな水面のような落ち着き。
ユリウスは、その挨拶に満足げに微笑み、ゆるやかに頷いた。
「どうか、今は難しいことはお忘れになって。
王城の庭を、ただ楽しんでいただければ嬉しい」
――あの日と同じ、優しい言葉。
けれどリリアンヌの心は、波ひとつ立たない静かな凪のまま、その言葉を受け止めていた。
白い東屋の中、細工の施された小さなテーブルに、香り高い茶と焼き菓子が並べられていた。
庭園を撫でる風が、薔薇の匂いをふわりと運んでくる。
向かいに座るユリウス殿下は、姿勢を崩すことなくティーカップを持ち上げ、ほんの一口だけ口を湿らせる。
その仕草一つとっても、王族として仕込まれた優雅さが滲んでいた。
「リリアンヌ嬢は――」
カップを受け皿に戻す、かすかな音。
その流れのまま、彼はあの日と同じ問いを投げる。
「将来はどのようなご令嬢になりたいとお考えですか?」
……来たわ。
リリアンヌは、胸の内で静かに目を閉じるような感覚を覚えた。
前の人生の記憶が、鮮やかに重なる。
――同じ場所。
――同じ椅子。
――同じ質問。
あのときの自分は、迷いなど一欠片もなく、すぐに答えていた。
『殿下の隣にふさわしい、完璧なご令嬢でありたいと存じますわ』
それが、“殿下中心の人生”のスタートだった。
彼の望む「完璧さ」に、自分を合わせようとすることこそが、愛だと信じて疑わなかった。
今、リリアンヌは一拍だけ、意図的に沈黙を置く。
テーブルの上で指先を重ね、粗い布のハンカチの感触を思い出す。
凍えた夜、握りしめた温もり――
そして、母が言ってくれた言葉。
(“自分で自分を好きになれる人になってほしい”――でしたわね、お母様)
ゆっくりと顔を上げ、リリアンヌはユリウスを正面から見つめた。
「そうですわね……」
彼女の声は穏やかで、芝に落ちる陽光のように柔らかい。
だが、その奥には、前とは違う芯がある。
「殿下の隣に恥じぬようにあることも、大切でしょうけれど――」
一度、言葉を区切る。
胸の奥に浮かんだ本音を、そのまま形にする勇気を、そっと手探りで掴む。
リリアンヌは、少しだけ顎を上げ、真っ直ぐに王子の瞳を見た。
「それ以上に、わたくしは――」
庭園の風が、一瞬だけ止んだように感じられた。
「“自分で自分を好きだと胸を張れる生き方”をしたいと考えております」
ユリウスのまつげが、かすかに震える。
「……自分で、自分を、ですか?」
彼の中にはない発想だったのかもしれない。
王族として、“他者からどう見られるか”“国にとってどうあるべきか”という問いは、何度も投げかけられているだろう。
だが「自分で自分を好きでいられるか」という軸は、彼の世界にはまだ薄かった。
「はい」
リリアンヌは逃げずに、静かに続ける。
「誰かに褒められるための淑女ではなく――
恥ずかしくないと、自分で思える淑女でありたいのです」
東屋の中に、ふっと沈黙が落ちる。
噴水の水音と、遠くで鳴く鳥の声だけが、時間をつないでいた。
やがてユリウスは、教本に載っていそうな、整った笑みを浮かべる。
「……立派なお考えですね、リリアンヌ嬢」
言葉は丁寧で、失礼なところはどこにもない。
けれど、その笑みの奥には、どこか“そこから先には踏み込まない”薄い壁のようなものがある。
理解しようとしないわけではない。
ただ、共感して自分のものにしようとするほどには、まだ彼の中で切実な問題ではないのだ。
――ああ。
リリアンヌは、胸の内で静かに納得する。
(そうだった)
この距離感。
この、いつも少しだけ遠くから「正しい言葉」だけをくれる感じ。
(殿下は、決して悪い方ではない)
王子として模範的で、怠惰ではなく、努力もしている。
民のことも国のことも、それなりに真剣に考えているのだろう。
そこに嘘はない。
(ただ、いつも少し遠くから、“正しい言葉”だけをくれる方)
森で差し伸べられた、震えるほど温かいあの手とは違う。
冷たくはないけれど、こちらの体温にまで触れてくるほど近くはない。
(わたくしが勝手に、そこに“救い”まで見てしまっただけ)
前の人生では、その「正しさ」を、自分を救ってくれる魔法のように思い込んでいた。
彼の微笑みの向こうに、自分の孤独を埋めてくれる何かを、勝手に期待していたのだ。
今、自分は、その期待を手放して座っている。
ティーカップを持ち上げた指先は、震えていない。
胸の奥は、驚くほど静かだ。
(あの日と同じ微笑み。
でも――わたくしの心は、もう波立たない)
これが、二度目の人生で踏み出した、最初の「違う答え」。
リリアンヌは、自分で選んだ言葉の重みを確かめるように、小さく息を吐いた。
庭園の空気は、相変わらず絵画のように整えられていた。
つややかな葉を揺らす生け垣、規則正しく咲き誇る薔薇、
噴水からこぼれる水音が、静かな楽曲のように背景を満たしている。
東屋の白い柱にもたれかかるように、柔らかな日差しが落ちていた。
テーブルを挟んで向かいに座るユリウス殿下は、
完璧な姿勢のまま、穏やかな微笑を崩さない。
会話は、王道中の王道をなぞっていく。
「最近のご学問のご様子はいかがですか、リリアンヌ嬢?」
「王都の冬の舞踏会は、今年も盛大になると伺っています。
あなたのようなご令嬢が加われば、きっと一層華やぐことでしょう」
「礼儀作法の先生が、あなたの立ち居振る舞いをよく褒めておられましたよ」
一つひとつの言葉は、どれも申し分ない。
誰が聞いても、「なんて優しい王子なのだろう」と思うはずだ。
――前の人生の、あのわたくしのように。
あの時のリリアンヌは、殿下の一言一句を、
すべて“特別な好意”として受け取っていた。
自分だけが選ばれたような、浮き立つような幸福感。
同じ言葉を、きっと他の令嬢にも向けているのだと気づきもしなかった。
今、リリアンヌは少し違う角度から彼を見ている。
(殿下は……本当に、よくお出来になるわ)
ティーカップに口をつける仕草、
話題を一つも途切れさせない会話の運び、
どこにも突っ込みどころのない礼儀正しさ。
(“王子としての殿下”は、完璧)
それは人柄というより、訓練の成果だと、今はわかる。
彼は国の“顔”として、そう在ることを求められているのだ。
(わたくし個人を見ているというより――
“公爵家の娘”として、定められた距離で接しておられるのね)
前の人生では、その距離感さえ、嬉しかった。
「皆と同じ距離」の中に、自分が含まれていることを誇りに思っていた。
けれど今は、その均一な距離の冷たさにも、気づいてしまっている。
「リリアンヌ嬢は、将来――」
区切りよく話題を切り替えながら、ユリウスは微笑を深める。
「きっと、王都の誰もが認める立派なご令嬢になられるでしょうね」
「……恐れ多いお言葉ですわ、殿下」
リリアンヌは、丁寧に首を傾げる。
声色は柔らかいが、その中に“盲目的な喜び”はない。
(褒め言葉も、前は全部“愛情の証”だと思っていた)
今はただ、それを「社交上、最適な評価」として受け止めることができる。
噴水の飛沫が、風に乗ってわずかに頬をかすめた。
ひんやりとした感触が、内側の静けさを逆に際立たせる。
ふと、ユリウスの瞳に、わずかな熱が宿る。
「リリアンヌ嬢は、噂に違わぬ立派なご令嬢のようだ」
その言葉に、前の人生では心臓が跳ね上がった。
頬が熱くなり、「わたくしは選ばれた」と浮き立った。
「これから、良い関係を築いていければ嬉しく思います」
――それは、婚約への“前向きな前置き”とも取れる台詞。
あの日も、まったく同じ言葉を聞いたのだ。
だが、今。
(――ああ)
リリアンヌは、胸の内でそっと目を閉じる。
(やっぱり、“殿下は変わらない”のね)
王子として模範的であり、
誰に対しても失礼なく、
教養と善意を備えた立派な青年。
それは否定しようもない彼の本質だ。
(変わったのは、わたくしのほう)
前の人生で、森の中で差し伸べられた“あの手”を知ってしまった。
自分が壊れたあと、それでも「生きる選択を」と言ってくれた声を知ってしまった。
――だからこそ、わかってしまう。
ユリウスの微笑は、悪くない。
けれど、今の彼女の心を救い上げるためのものではない。
胸の中は、不思議なほど静かだった。
嫉妬も、陶酔も、自己否定も――何ひとつ湧き上がってこない。
ただ、目の前の事実を、そのまま受け止めているだけ。
水面に風が止んだときのような、凪いだ心。
リリアンヌは、わずかに微笑み、ゆっくりと言葉を返した。
「こちらこそ、殿下」
ほんの少しだけ、言葉を選ぶ。
「どうか、わたくしたちにとって――」
“殿下にとって”“王家にとって”ではなく。
「悔いのない関係を築けますように」
「恋」も「憧れ」も、「永遠」も――
何ひとつ、あえて口にしない。
ユリウスは、その選び方の意味までは、まだ深くは悟らないようだった。
ただ、「礼儀正しい返事だ」と受け取り、満足そうに頷く。
「ええ。そうであることを、私も願っています」
あの日と同じ微笑みが、目の前にある。
けれど、胸の内には、前とは違う風景が広がっていた。
(憧れは――もう終わったのだわ)
静かに、優しく、それを自分で認める。
これは失恋ではない。
彼を嫌いになることでも、責めることでもない。
ただ一人の王子を、
「国の顔として優秀な方」として、
改めて冷静に評価し直しただけ。
(そしてわたくしは――)
凪いだ湖面に、一滴だけ新しい水が落ちる。
(わたくし自身の人生を選ぶために、ここに座っている)
遠くで、鐘楼の鐘が時刻を告げた。
庭園の薔薇が風に揺れ、赤い花弁が一枚、そっと芝生へと舞い落ちる。
リリアンヌの心は、波一つ立たず、静かにその音を聞いていた。
庭園での茶会が終わり、形式通りの別れの挨拶を交わすと、ユリウス殿下は侍従を伴って別の回廊へと去っていった。
王子の背が柱の影に消えると同時に、さきほどまでの“王城の中心”であるような感覚が、嘘のように遠のいていく。
「リリアンヌ様、こちらでございます」
付き従う侍女に促され、リリアンヌは静かな回廊を歩き始めた。
人通りの少ない中庭へと続く石畳。
高い塀越しに差し込む光が、床に長い影を落としている。
さっきまでの華やかな庭園とは違い、ここには鳥の声と、風の通り抜ける音だけがある。
ふと、リリアンヌは足を止めた。
「……リリアンヌ様?」
「ごめんなさい。少し、風に当たりたくなりましたの」
侍女にそう告げて、中庭の方へ数歩だけ近づく。
石で縁取られた小さな花壇には、淡い色の花が揺れていた。
先ほどの薔薇ほど華やかではないが、どこかささやかな強さを感じさせる小花たち。
(前のわたくしなら――)
そっと目を伏せる。
(今ごろ、胸を押さえて座り込んでいたでしょうね)
「殿下が褒めてくださった」
「殿下が微笑んでくださった」
その一つひとつを宝物のように反芻して、世界のすべてを王子の言葉で塗りつぶしてしまっていた。
「“殿下さえ見ていてくだされば、それでいい”」
かつて自分が胸の奥で繰り返していた呪文を、
今はどこか他人事のように思い返す。
(そうやって、世界を勝手に狭くしていた)
父の期待も、母の願いも、
街で出会った人々の涙も笑顔も――
全部、「殿下の視線」の価値に比べれば些末だと、心のどこかで切り捨てていた。
(でも今は――)
胸の奥に、別の声がふっとよみがえる。
昨日、読書室で聞いた、母の柔らかな声。
『“自分で自分を褒められる生き方”をしているかどうかは……
あなたにしか決められないでしょう?』
思い出した瞬間、肩から力が抜けるようだった。
リリアンヌは、中庭を吹き抜ける風に顔を向ける。
幼い頃よりほんの少し大人びた横顔に、静かな微笑が灯る。
(今日のわたくしは――)
庭園での会話を振り返る。
“殿下にふさわしいご令嬢でありたい”と、
前の人生の自分は迷わず答えた問い。
今度の自分は、違う言葉を選んだ。
『“自分で自分を好きだと胸を張れる生き方”をしたいと考えております』
(殿下の好みに合わせて、言葉を飾らなかった)
“王子に気に入られそうな答え”ではなく、
“自分が本当に願っていること”を、そのまま口にした。
それは、婚約の道から見れば、賢くない選択かもしれない。
王城の駆け引きという意味では、隙を見せた発言だったのかもしれない。
それでも。
(少なくとも、その一点だけは――)
指先が、わずかに胸元の布をつまむ。
(今の自分を、少し好きになれそうですわ)
誰かに褒められるためではなく、
誰かの期待に応えるためでもなく。
自分で自分を振り返って、「悪くない」と思える選択をした。
それはまだ、とても小さな一歩に過ぎない。
けれど、前の人生では一度も踏み出せなかった一歩だ。
「……行きましょうか」
リリアンヌは振り返り、侍女に微笑む。
その笑顔は、さっき王子に向けたものよりも、ずっと自然で、柔らかかった。
母の言葉と、森で差し伸べられた手の記憶。
それらが静かに背中を押すのを感じながら、
彼女は王城の回廊を再び歩き出した。
帰り道の馬車は、行きよりも静かだった。
窓の外には、夕焼けに染まる王都の街並み。
石畳の道を車輪が進むたび、光の粒がゆっくりと後ろへ流れていく。
向かいの席では、父が目を閉じて腕を組んでいる。
長い一日の公務の疲れか、表情はいつもよりわずかに緩んでいた。
ときおり馬車が揺れるたび、その肩もほんの少しだけ揺れる。
リリアンヌは窓辺にもたれかからず、背筋を伸ばして座っていた。
膝の上には、小さな粗織りのハンカチ。
この場に似つかわしくない、素朴な布切れ。
けれど、彼女にとっては何よりも確かな「現実」の手触りだった。
(……殿下は、殿下のまま)
指先で、ハンカチの端をそっと撫でる。
(きっと、国にとって良い王子になられる方ですわ)
ユリウスの整った横顔を思い出す。
どこを切り取っても非の打ちどころがない、「王子」という役割に完璧に収まった少年。
礼儀正しく、優しく、常に正しい言葉を選ぶ。
それは、王として必要な器の一つの形だろう。
(でも――)
リリアンヌは、窓に映る自分の顔へ視線を移した。
そこには、以前のように陶酔した少女の顔はない。
少し緊張を残しながらも、どこか落ち着いた瞳の自分が映っている。
(わたくしの人生を共に歩む人かどうかは、
“これからの選び方”で決めていけばいい)
王族だから。
皆が羨む婚約だから。
そういう理由ではなく。
自分が胸を張って、「この人と歩きたい」と言えるのかどうか。
そして、その隣に立つ自分を、自分で好きでいられるのかどうか。
――その答えは、今日一日で決めてしまう必要はない。
むしろ、これから先の無数の選択の積み重ねで、静かに形を帯びていくのだろう。
馬車が少し大きく揺れた瞬間、
胸の奥に、柔らかな男の声がふっとよみがえった。
『貴女の物語は――ここからですよ』
森の、あの夜。
凍りついた世界に差し込んだ焚き火の光と、温かい手の感触。
決して夢ではなかった、と確信させるように、
記憶の中の声は、今も変わらず穏やかだ。
リリアンヌはハンカチを握りしめ、窓に映る自分の瞳をまっすぐ見つめる。
「……ええ」
小さく、誰に向けるでもなく呟く。
「殿下との出会いも、母の言葉も、
あの森の夜も……全部抱えたうえで、わたくしは進んでいきますわ」
誰かを切り捨てるためではなく。
どれか一つをなかったことにするためでもなく。
自分の犯した過ちも、与えられた愛も、
心を救ってくれた温もりも――すべて抱えて、そのうえで選んでいく。
馬車の窓の外、空の色は橙から群青へと、ゆっくりと溶け合っていく。
やがて、遠くに公爵邸の屋根が見え始めたころ。
ナレーションが、そっと彼女の物語をなぞる。
――あの日と同じ微笑みを前にしても、
リリアンヌの心は、もう揺れなかった。
彼女はようやく知ったのだ。
『誰かに選ばれるための人生』ではなく、
『自分が選び返す人生』を歩き出しているのだと。
そして、その先で。
王子との関係も、森で出会う“彼”との未来も――
前とはまったく違う形へと変奏されていくことを、
まだ知らないまま。




