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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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王子との再会 ―― あの日と同じ微笑み、でも心は凪いでいた。

 王都へ続く石畳の道を、馬車が一定のリズムで進んでいく。

 車輪がわずかにきしむ音と、馬の蹄が刻む響き。薄いカーテン越しに差し込む光が、揺れるたび、リリアンヌの頬をかすめた。


 彼女は窓辺に寄り、外の景色を見つめている。

 見慣れた並木道、遠くに見え始めた白い城壁。その光景は、確かに一度見たことがあるものだった。


(あの日と同じ道。

 あの日と同じ、王城)


 胸の内でそう呟き、そっとまぶたを伏せる。


(でも――わたくしは、もう“同じわたくし”ではない)


 膝の上で、幼い指が布切れをぎゅっと握りしめていた。

 豪奢なドレスには似つかわしくない、粗い織りの小さなハンカチ。ほんの少し触れるだけで、ざらりとした素朴な感触が指先に伝わる。


 森の夜。冷え切った自分の手を包んだ、あの温もりの記憶がよみがえる。


(殿下に会うのは、“憧れの王子様”に会うためではなく……)


 リリアンヌは、震えないように、そっと息を整えた。


(わたくしが、どんな人と人生を結ぼうとしていたのか、確かめるため)


 向かいの席では、父が背筋を伸ばして座っている。

 漆黒の上着に金糸の刺繍、貴族として隙のない身なり。彼は窓からちらりと城壁を確認すると、娘へと視線を戻した。


「陛下も殿下も、幼い頃から君の評判を耳にしておられる」


 低くよく通る声が、揺れる車内に落ちる。


「礼節を忘れなければ、何も心配はいらない」


 以前のリリアンヌなら、この一言でさらに緊張を高めていたことだろう。

 “期待に応えなければ”と、自分の心を締め上げていたはずだ。


 けれど今、彼女の胸に広がっているのは、張り詰めた不安ではなく、静かな波紋のような緊張だった。


 リリアンヌは、膝の上からそっと視線を上げる。


「ええ」


 柔らかく微笑み、はっきりとした声で続けた。


「わたくしは――わたくしのままで参りますわ」


 父の眉が、ほんのわずかに動く。驚きとも評価ともつかぬ沈黙が、短く挟まれた。


 やがて彼は、ふっと目を細める。


「……そうか。それがいちばん、陛下もお好みになろう」


 リリアンヌは小さく頷き、再び窓の外へ視線を戻した。

 城壁の向こうに、白い尖塔が顔を出す。


 前の人生では――あの塔を、“自分の物語のすべて”だと思っていた。

 今は違う。あれは数ある選択肢のひとつに過ぎない、と知っている。


 膝の上の粗いハンカチに、彼女はそっと力を込めた。


(王子殿下は、きっとあの日と同じ微笑みを向けてくださるでしょう。

 でも、揺れるかどうかは――もう、わたくし次第ですわ)


 馬車は、王城の大門へと近づいていく。

 鼓動は確かに速い。けれどその奥には、静かな決意の凪が広がっていた。



 王城の高い塔を背に、庭園は静かな午後の光に満ちていた。


 格式ばった挨拶と一連の儀礼を終え、リリアンヌは侍女に付き添われて庭の奥へと歩いていく。

 石畳の道の両側には、季節の花々が整然と並び、奥へ進むほど香りが濃くなっていった。


「こちらで、殿下をお待ちくださいませ、お嬢様」


 侍女がそう告げて一礼すると、静かに下がっていく。


 残された先には、白い東屋――ガゼボがひっそりと佇んでいた。

 優雅なアーチに蔦が絡み、周囲には手入れの行き届いた薔薇の列。

 少し離れたところでは、丸い噴水が小さく水音を立てている。


 ふ、と胸の奥が震えた。


(……本当に。なにもかも、同じ)


 リリアンヌは東屋のそばまで歩み寄り、周囲をゆっくりと見渡す。


(薔薇の配置も、東屋の影の落ち方も――

 あの日と、寸分違わない気がいたしますわ)


 記憶が、鮮やかによみがえる。


 ――前の人生で、初めてここを訪れた日。

 幼い自分は、胸が張り裂けそうなほど高鳴らせて、この白い東屋の前に立っていた。


 “王子殿下にふさわしい令嬢”であるかどうか。

 笑顔は崩れていないか、姿勢は美しいか、言葉遣いは完璧か。

 自分のすべてを「試される場」だと信じて、震える心を見ないふりをしていた。


 そのときの自分の顔が、まるで鏡越しに見えるような気がした。

 張り詰めた笑み。

 期待と不安と、認められたいという渇きが混ざり合った、痛いほどの表情。


 今のリリアンヌは、そっと目を閉じて、胸の奥まで空気を吸い込む。

 薔薇の香りと、噴水の湿った涼しさが、肺の中へゆっくりと満ちていった。


(でも、ひとつだけ違う)


 まぶたの裏で、自分の心に言葉を落とす。


(今のわたくしは、“殿下に選ばれるため”ではなく――)


 ゆっくりと瞼を開き、白い東屋を正面から見据える。


(“わたくし自身が、殿下を選ぶに値するかどうか”を見るために来た)


 風がひとすじ吹き抜け、薔薇の花弁がかすかに揺れた。

 噴水の水音が、以前よりも穏やかに聞こえる。


 同じ庭園、同じ東屋、同じ待ち合わせ。

 けれどそこに立つ少女の心だけが――前とはまるで違う静けさを湛えていた。



 その気配に、リリアンヌは自然と背筋を伸ばした。


 石畳を踏む、規則正しい足音。

 東屋へと続く小径の向こうから、光を連れてくるようにひとりの少年が現れる。


 金色の髪――

 陽光を含んで淡く揺れ、歩みとともにさらりと肩のあたりで流れる。

 仕立ての良い王族の制服は、まだ少年らしい細い肩を包みながらも、その一挙手一投足に染み込んだ育ちの良さを隠しきれていない。


 彼は東屋の前で足を止めると、絵画から抜け出した王子のような仕草で、柔らかく微笑んだ。


「初めまして、公爵令嬢リリアンヌ。

 こうしてお会いする日を、楽しみにしていました」


 ――あの日と、まったく同じ言葉。


 前の人生の記憶が、胸の奥でぱっと花開く。


 初めてこの声を聞いたとき。

 彼女は、その一言すべてを「自分だけに向けられた特別な好意」だと信じて疑わなかった。


 その笑顔は、自分だけのもの。

 その言葉は、自分だけを照らす光。

 そう信じてしまったからこそ――

 やがてその視線が、少しずつ別の令嬢へ向いていく痛みを、耐えがたい裏切りのように感じたのだ。


 今、リリアンヌは同じ微笑みを、違う目で見つめている。


(……変わらないわ)


 金の髪も、澄んだ瞳も、淀みのない立ち居振る舞いも。

 そして何より――


(完璧で、優しくて、“誰にでも向けられる”笑顔)


 その笑みは、間違いなく王子として磨かれたものだ。

 相手を安心させ、好意を抱かせるための、徹底された「王族の顔」。


(わたくしは、それを“殿下だけの誠実”だと思い込んでいた)


 あの頃の自分は、その「誰にでも向けられる優しさ」を、

 “自分への特別な選別”だと錯覚していたのだ。


 けれど、だからといって――彼を責める気持ちは、不思議と湧いてこない。


 これは「王子ユリウス」としての微笑み。

 舞台の上で役割を果たす人の、当然の表情。


 リリアンヌは、胸の内でそっと息を整えると、スカートの裾を両手でつまみ上げた。

 背筋を伸ばし、膝をしなやかに曲げる。


 流れるような所作で、完璧なカーテシー。


「お招きいただき光栄に存じます、ユリウス殿下」


 その声は柔らかく、礼を欠くところはひとつもない。

 けれど、前の人生で震えていたような熱は乗っていなかった。


 それは冷たさではなく――

 「過剰な期待」を含まない、静かな水面のような落ち着き。


 ユリウスは、その挨拶に満足げに微笑み、ゆるやかに頷いた。


「どうか、今は難しいことはお忘れになって。

 王城の庭を、ただ楽しんでいただければ嬉しい」


 ――あの日と同じ、優しい言葉。


 けれどリリアンヌの心は、波ひとつ立たない静かな凪のまま、その言葉を受け止めていた。


白い東屋の中、細工の施された小さなテーブルに、香り高い茶と焼き菓子が並べられていた。

 庭園を撫でる風が、薔薇の匂いをふわりと運んでくる。


 向かいに座るユリウス殿下は、姿勢を崩すことなくティーカップを持ち上げ、ほんの一口だけ口を湿らせる。

 その仕草一つとっても、王族として仕込まれた優雅さが滲んでいた。


「リリアンヌ嬢は――」


 カップを受け皿に戻す、かすかな音。

 その流れのまま、彼はあの日と同じ問いを投げる。


「将来はどのようなご令嬢になりたいとお考えですか?」


 ……来たわ。


 リリアンヌは、胸の内で静かに目を閉じるような感覚を覚えた。


 前の人生の記憶が、鮮やかに重なる。


 ――同じ場所。

 ――同じ椅子。

 ――同じ質問。


 あのときの自分は、迷いなど一欠片もなく、すぐに答えていた。


『殿下の隣にふさわしい、完璧なご令嬢でありたいと存じますわ』


 それが、“殿下中心の人生”のスタートだった。

 彼の望む「完璧さ」に、自分を合わせようとすることこそが、愛だと信じて疑わなかった。


 今、リリアンヌは一拍だけ、意図的に沈黙を置く。


 テーブルの上で指先を重ね、粗い布のハンカチの感触を思い出す。

 凍えた夜、握りしめた温もり――

 そして、母が言ってくれた言葉。


(“自分で自分を好きになれる人になってほしい”――でしたわね、お母様)


 ゆっくりと顔を上げ、リリアンヌはユリウスを正面から見つめた。


「そうですわね……」


 彼女の声は穏やかで、芝に落ちる陽光のように柔らかい。

 だが、その奥には、前とは違う芯がある。


「殿下の隣に恥じぬようにあることも、大切でしょうけれど――」


 一度、言葉を区切る。

 胸の奥に浮かんだ本音を、そのまま形にする勇気を、そっと手探りで掴む。


 リリアンヌは、少しだけ顎を上げ、真っ直ぐに王子の瞳を見た。


「それ以上に、わたくしは――」


 庭園の風が、一瞬だけ止んだように感じられた。


「“自分で自分を好きだと胸を張れる生き方”をしたいと考えております」


 ユリウスのまつげが、かすかに震える。


「……自分で、自分を、ですか?」


 彼の中にはない発想だったのかもしれない。

 王族として、“他者からどう見られるか”“国にとってどうあるべきか”という問いは、何度も投げかけられているだろう。

 だが「自分で自分を好きでいられるか」という軸は、彼の世界にはまだ薄かった。


「はい」


 リリアンヌは逃げずに、静かに続ける。


「誰かに褒められるための淑女ではなく――

 恥ずかしくないと、自分で思える淑女でありたいのです」


 東屋の中に、ふっと沈黙が落ちる。


 噴水の水音と、遠くで鳴く鳥の声だけが、時間をつないでいた。


 やがてユリウスは、教本に載っていそうな、整った笑みを浮かべる。


「……立派なお考えですね、リリアンヌ嬢」


 言葉は丁寧で、失礼なところはどこにもない。

 けれど、その笑みの奥には、どこか“そこから先には踏み込まない”薄い壁のようなものがある。


 理解しようとしないわけではない。

 ただ、共感して自分のものにしようとするほどには、まだ彼の中で切実な問題ではないのだ。


 ――ああ。


 リリアンヌは、胸の内で静かに納得する。


(そうだった)


 この距離感。

 この、いつも少しだけ遠くから「正しい言葉」だけをくれる感じ。


(殿下は、決して悪い方ではない)


 王子として模範的で、怠惰ではなく、努力もしている。

 民のことも国のことも、それなりに真剣に考えているのだろう。

 そこに嘘はない。


(ただ、いつも少し遠くから、“正しい言葉”だけをくれる方)


 森で差し伸べられた、震えるほど温かいあの手とは違う。

 冷たくはないけれど、こちらの体温にまで触れてくるほど近くはない。


(わたくしが勝手に、そこに“救い”まで見てしまっただけ)


 前の人生では、その「正しさ」を、自分を救ってくれる魔法のように思い込んでいた。

 彼の微笑みの向こうに、自分の孤独を埋めてくれる何かを、勝手に期待していたのだ。


 今、自分は、その期待を手放して座っている。


 ティーカップを持ち上げた指先は、震えていない。

 胸の奥は、驚くほど静かだ。


(あの日と同じ微笑み。

 でも――わたくしの心は、もう波立たない)


 これが、二度目の人生で踏み出した、最初の「違う答え」。


 リリアンヌは、自分で選んだ言葉の重みを確かめるように、小さく息を吐いた。




 庭園の空気は、相変わらず絵画のように整えられていた。


 つややかな葉を揺らす生け垣、規則正しく咲き誇る薔薇、

 噴水からこぼれる水音が、静かな楽曲のように背景を満たしている。


 東屋の白い柱にもたれかかるように、柔らかな日差しが落ちていた。


 テーブルを挟んで向かいに座るユリウス殿下は、

 完璧な姿勢のまま、穏やかな微笑を崩さない。


 会話は、王道中の王道をなぞっていく。


「最近のご学問のご様子はいかがですか、リリアンヌ嬢?」


「王都の冬の舞踏会は、今年も盛大になると伺っています。

 あなたのようなご令嬢が加われば、きっと一層華やぐことでしょう」


「礼儀作法の先生が、あなたの立ち居振る舞いをよく褒めておられましたよ」


 一つひとつの言葉は、どれも申し分ない。

 誰が聞いても、「なんて優しい王子なのだろう」と思うはずだ。


 ――前の人生の、あのわたくしのように。


 あの時のリリアンヌは、殿下の一言一句を、

 すべて“特別な好意”として受け取っていた。


 自分だけが選ばれたような、浮き立つような幸福感。

 同じ言葉を、きっと他の令嬢にも向けているのだと気づきもしなかった。


 今、リリアンヌは少し違う角度から彼を見ている。


(殿下は……本当に、よくお出来になるわ)


 ティーカップに口をつける仕草、

 話題を一つも途切れさせない会話の運び、

 どこにも突っ込みどころのない礼儀正しさ。


(“王子としての殿下”は、完璧)


 それは人柄というより、訓練の成果だと、今はわかる。

 彼は国の“顔”として、そう在ることを求められているのだ。


(わたくし個人を見ているというより――

 “公爵家の娘”として、定められた距離で接しておられるのね)


 前の人生では、その距離感さえ、嬉しかった。

 「皆と同じ距離」の中に、自分が含まれていることを誇りに思っていた。


 けれど今は、その均一な距離の冷たさにも、気づいてしまっている。


「リリアンヌ嬢は、将来――」


 区切りよく話題を切り替えながら、ユリウスは微笑を深める。


「きっと、王都の誰もが認める立派なご令嬢になられるでしょうね」


「……恐れ多いお言葉ですわ、殿下」


 リリアンヌは、丁寧に首を傾げる。

 声色は柔らかいが、その中に“盲目的な喜び”はない。


(褒め言葉も、前は全部“愛情の証”だと思っていた)


 今はただ、それを「社交上、最適な評価」として受け止めることができる。


 噴水の飛沫が、風に乗ってわずかに頬をかすめた。

 ひんやりとした感触が、内側の静けさを逆に際立たせる。


 ふと、ユリウスの瞳に、わずかな熱が宿る。


「リリアンヌ嬢は、噂に違わぬ立派なご令嬢のようだ」


 その言葉に、前の人生では心臓が跳ね上がった。

 頬が熱くなり、「わたくしは選ばれた」と浮き立った。


「これから、良い関係を築いていければ嬉しく思います」


 ――それは、婚約への“前向きな前置き”とも取れる台詞。


 あの日も、まったく同じ言葉を聞いたのだ。


 だが、今。


(――ああ)


 リリアンヌは、胸の内でそっと目を閉じる。


(やっぱり、“殿下は変わらない”のね)


 王子として模範的であり、

 誰に対しても失礼なく、

 教養と善意を備えた立派な青年。


 それは否定しようもない彼の本質だ。


(変わったのは、わたくしのほう)


 前の人生で、森の中で差し伸べられた“あの手”を知ってしまった。

 自分が壊れたあと、それでも「生きる選択を」と言ってくれた声を知ってしまった。


 ――だからこそ、わかってしまう。


 ユリウスの微笑は、悪くない。

 けれど、今の彼女の心を救い上げるためのものではない。


 胸の中は、不思議なほど静かだった。


 嫉妬も、陶酔も、自己否定も――何ひとつ湧き上がってこない。

 ただ、目の前の事実を、そのまま受け止めているだけ。


 水面に風が止んだときのような、凪いだ心。


 リリアンヌは、わずかに微笑み、ゆっくりと言葉を返した。


「こちらこそ、殿下」


 ほんの少しだけ、言葉を選ぶ。


「どうか、わたくしたちにとって――」


 “殿下にとって”“王家にとって”ではなく。


「悔いのない関係を築けますように」


 「恋」も「憧れ」も、「永遠」も――

 何ひとつ、あえて口にしない。


 ユリウスは、その選び方の意味までは、まだ深くは悟らないようだった。

 ただ、「礼儀正しい返事だ」と受け取り、満足そうに頷く。


「ええ。そうであることを、私も願っています」


 あの日と同じ微笑みが、目の前にある。

 けれど、胸の内には、前とは違う風景が広がっていた。


(憧れは――もう終わったのだわ)


 静かに、優しく、それを自分で認める。


 これは失恋ではない。

 彼を嫌いになることでも、責めることでもない。


 ただ一人の王子を、

 「国の顔として優秀な方」として、

 改めて冷静に評価し直しただけ。


(そしてわたくしは――)


 凪いだ湖面に、一滴だけ新しい水が落ちる。


(わたくし自身の人生を選ぶために、ここに座っている)


 遠くで、鐘楼の鐘が時刻を告げた。

 庭園の薔薇が風に揺れ、赤い花弁が一枚、そっと芝生へと舞い落ちる。


 リリアンヌの心は、波一つ立たず、静かにその音を聞いていた。


 庭園での茶会が終わり、形式通りの別れの挨拶を交わすと、ユリウス殿下は侍従を伴って別の回廊へと去っていった。


 王子の背が柱の影に消えると同時に、さきほどまでの“王城の中心”であるような感覚が、嘘のように遠のいていく。


「リリアンヌ様、こちらでございます」


 付き従う侍女に促され、リリアンヌは静かな回廊を歩き始めた。


 人通りの少ない中庭へと続く石畳。

 高い塀越しに差し込む光が、床に長い影を落としている。

 さっきまでの華やかな庭園とは違い、ここには鳥の声と、風の通り抜ける音だけがある。


 ふと、リリアンヌは足を止めた。


「……リリアンヌ様?」


「ごめんなさい。少し、風に当たりたくなりましたの」


 侍女にそう告げて、中庭の方へ数歩だけ近づく。


 石で縁取られた小さな花壇には、淡い色の花が揺れていた。

 先ほどの薔薇ほど華やかではないが、どこかささやかな強さを感じさせる小花たち。


(前のわたくしなら――)


 そっと目を伏せる。


(今ごろ、胸を押さえて座り込んでいたでしょうね)


 「殿下が褒めてくださった」

 「殿下が微笑んでくださった」

 その一つひとつを宝物のように反芻して、世界のすべてを王子の言葉で塗りつぶしてしまっていた。


「“殿下さえ見ていてくだされば、それでいい”」


 かつて自分が胸の奥で繰り返していた呪文を、

 今はどこか他人事のように思い返す。


(そうやって、世界を勝手に狭くしていた)


 父の期待も、母の願いも、

 街で出会った人々の涙も笑顔も――

 全部、「殿下の視線」の価値に比べれば些末だと、心のどこかで切り捨てていた。


(でも今は――)


 胸の奥に、別の声がふっとよみがえる。


 昨日、読書室で聞いた、母の柔らかな声。


『“自分で自分を褒められる生き方”をしているかどうかは……

 あなたにしか決められないでしょう?』


 思い出した瞬間、肩から力が抜けるようだった。


 リリアンヌは、中庭を吹き抜ける風に顔を向ける。

 幼い頃よりほんの少し大人びた横顔に、静かな微笑が灯る。


(今日のわたくしは――)


 庭園での会話を振り返る。


 “殿下にふさわしいご令嬢でありたい”と、

 前の人生の自分は迷わず答えた問い。


 今度の自分は、違う言葉を選んだ。


『“自分で自分を好きだと胸を張れる生き方”をしたいと考えております』


(殿下の好みに合わせて、言葉を飾らなかった)


 “王子に気に入られそうな答え”ではなく、

 “自分が本当に願っていること”を、そのまま口にした。


 それは、婚約の道から見れば、賢くない選択かもしれない。

 王城の駆け引きという意味では、隙を見せた発言だったのかもしれない。


 それでも。


(少なくとも、その一点だけは――)


 指先が、わずかに胸元の布をつまむ。


(今の自分を、少し好きになれそうですわ)


 誰かに褒められるためではなく、

 誰かの期待に応えるためでもなく。


 自分で自分を振り返って、「悪くない」と思える選択をした。


 それはまだ、とても小さな一歩に過ぎない。

 けれど、前の人生では一度も踏み出せなかった一歩だ。


「……行きましょうか」


 リリアンヌは振り返り、侍女に微笑む。


 その笑顔は、さっき王子に向けたものよりも、ずっと自然で、柔らかかった。


 母の言葉と、森で差し伸べられた手の記憶。

 それらが静かに背中を押すのを感じながら、

 彼女は王城の回廊を再び歩き出した。



 帰り道の馬車は、行きよりも静かだった。


 窓の外には、夕焼けに染まる王都の街並み。

 石畳の道を車輪が進むたび、光の粒がゆっくりと後ろへ流れていく。


 向かいの席では、父が目を閉じて腕を組んでいる。

 長い一日の公務の疲れか、表情はいつもよりわずかに緩んでいた。

 ときおり馬車が揺れるたび、その肩もほんの少しだけ揺れる。


 リリアンヌは窓辺にもたれかからず、背筋を伸ばして座っていた。

 膝の上には、小さな粗織りのハンカチ。


 この場に似つかわしくない、素朴な布切れ。

 けれど、彼女にとっては何よりも確かな「現実」の手触りだった。


(……殿下は、殿下のまま)


 指先で、ハンカチの端をそっと撫でる。


(きっと、国にとって良い王子になられる方ですわ)


 ユリウスの整った横顔を思い出す。

 どこを切り取っても非の打ちどころがない、「王子」という役割に完璧に収まった少年。


 礼儀正しく、優しく、常に正しい言葉を選ぶ。

 それは、王として必要な器の一つの形だろう。


(でも――)


 リリアンヌは、窓に映る自分の顔へ視線を移した。


 そこには、以前のように陶酔した少女の顔はない。

 少し緊張を残しながらも、どこか落ち着いた瞳の自分が映っている。


(わたくしの人生を共に歩む人かどうかは、

 “これからの選び方”で決めていけばいい)


 王族だから。

 皆が羨む婚約だから。

 そういう理由ではなく。


 自分が胸を張って、「この人と歩きたい」と言えるのかどうか。

 そして、その隣に立つ自分を、自分で好きでいられるのかどうか。


 ――その答えは、今日一日で決めてしまう必要はない。


 むしろ、これから先の無数の選択の積み重ねで、静かに形を帯びていくのだろう。


 馬車が少し大きく揺れた瞬間、

 胸の奥に、柔らかな男の声がふっとよみがえった。


『貴女の物語は――ここからですよ』


 森の、あの夜。

 凍りついた世界に差し込んだ焚き火の光と、温かい手の感触。


 決して夢ではなかった、と確信させるように、

 記憶の中の声は、今も変わらず穏やかだ。


 リリアンヌはハンカチを握りしめ、窓に映る自分の瞳をまっすぐ見つめる。


「……ええ」


 小さく、誰に向けるでもなく呟く。


「殿下との出会いも、母の言葉も、

 あの森の夜も……全部抱えたうえで、わたくしは進んでいきますわ」


 誰かを切り捨てるためではなく。

 どれか一つをなかったことにするためでもなく。


 自分の犯した過ちも、与えられた愛も、

 心を救ってくれた温もりも――すべて抱えて、そのうえで選んでいく。


 馬車の窓の外、空の色は橙から群青へと、ゆっくりと溶け合っていく。


 やがて、遠くに公爵邸の屋根が見え始めたころ。

 ナレーションが、そっと彼女の物語をなぞる。


 ――あの日と同じ微笑みを前にしても、

 リリアンヌの心は、もう揺れなかった。


 彼女はようやく知ったのだ。


 『誰かに選ばれるための人生』ではなく、

 『自分が選び返す人生』を歩き出しているのだと。


 そして、その先で。

 王子との関係も、森で出会う“彼”との未来も――


 前とはまったく違う形へと変奏されていくことを、

 まだ知らないまま。


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