優しい母 ―― 初めて、その愛に気づく。
朝の読書室には、紙の擦れる音と、ペン先のかすかなかき混ぜだけが満ちていた。
大きな机に、幼い身体がひとつ。
リリアンヌは背筋を伸ばし、分厚い礼儀作法の本を横目に見ながら、筆写の課題に向かっていた。
まだ書き慣れない指先は、ところどころで震える。
丁寧に、丁寧に――そう思えば思うほど、文字の端が歪んでいく。
「……ん……」
小さく息を詰めて、はねを整えようとして、逆に線をよじらせてしまう。
白い紙の上で、黒のインクがじわりと広がった。
そのとき。
――コン、コン。
控えめなノックが扉を震わせる。
リリアンヌの肩が、びくりと跳ねた。
「どうぞ……」
自分でもわかるほど、声が硬い。
扉が開き、柔らかな布の擦れる音とともに、母が読書室へ入ってくる。
薄い昼光の中、母のシルエットが伸び、机の上に影を落とした。
「リリアンヌ、勉強は進んでいる?」
その穏やかな声が、耳を叩いた瞬間――
彼女の脳裏に、別の“朝”がよみがえる。
***
『もっときれいな字を心がけなさい。あなたは公爵家の娘なのだから』
かつての母の声。
同じ読書室、同じ机。
あのときのわたくしは、唇を尖らせて、紙ではなく母を睨みつけた。
『……わたくしの字は、これで十分ですわ』
“認めてくれない”――
その一念だけで、母の言葉の、その先を切り捨てた。
***
今、影が同じ角度で机に落ちる。
リリアンヌは、無意識に背中を強ばらせていた。
喉の奥が、ぎゅっと詰まる。
「また、足りないと言われる」そんな、昔の恐れが、反射みたいにせり上がってくる。
だが――彼女は、指先に力を込めた。
(あの時のわたくしは、母の言葉の“半分”しか見ていなかった……)
ペンを置き、そっと振り向く。
そこに立っているのは、記憶のとおりの人。
けれど、前の人生のどの瞬間よりも、鮮やかに見える。
「……お勉強は、進んでいますわ、お母様」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
まだ、この胸のざわめきに、上手な名前をつけられないまま――
リリアンヌは、母の言葉を“最後まで聞こう”と決めていた。
インク壺が、かすかにコトリと鳴った。
ほんの少し手元が狂っただけ――のはずだった。
だが、揺れたインクは躊躇なく壺の縁を越え、紙の端に黒い滴をこぼす。
じわり、と。
真っ白な余白の上に、黒が花のように滲んで広がっていく。
「あっ……!」
リリアンヌは椅子から半分浮きかけた。
胸が、一瞬で冷たく縮む。
(また……やってしまいましたわ……)
前の人生で、何度も繰り返した失敗。
そのたびに、母の眉がきゅっと寄って――
「もっと丁寧に」と叱られた記憶が、反射のように蘇る。
思わず、肩がこわばった。
机の向こう側に立つ母が、滲んだインクへ視線を落とす。
細い眉が、ほんのわずかに寄る。
――来る。
心がそう身構えた、その次の瞬間。
「リリアンヌ」
呼ばれた声は、思っていたよりもずっと、静かだった。
「“間違えた紙”は捨てて構わないわ」
母はそう言って、滲んだ紙にそっと指先を添え、こちらへ引き寄せる。
「でも――間違えた“心”は、放っておいてはいけないの」
リリアンヌは、ぱちりと瞬いた。
インクの染みを責める言葉が、来ない。
破れた紙でも、汚した机でもなく――
“心”という、見えないものを指さされた。
母は、傍らの束から新しい紙を一枚取り出し、リリアンヌの前に滑らせる。
さらり、と白が目の前に広がった。
「字が乱れたのは、焦っていたからでしょう?」
穏やかな視線が、リリアンヌの顔を見上げる。
「『早く終わらせたい』と思うのは、悪いことではないわ」
やわらかな声。
責め立てる調子ではなく、事実をなぞるだけの、落ち着いた響き。
「でも、“丁寧でありたい”と思う心を、忘れないで」
その一言が、静かに胸に落ちた。
前の時間軸では――
きっとわたくしは、この言葉の前半だけを聞いていた。
『字が乱れている』『もっときれいに』
『公爵家の娘なのだから』
そういう響きだけを拾って、「また叱られた」と拗ねていた。
(でも……)
今のリリアンヌは、じっと母を見つめる。
その視線が向けられている先は、滲んだ紙ではなかった。
インクに汚れた机でも、失敗した文字でもない。
まだ書きあげてもいない、これからの一行。
“どうありたいか”を選ぼうとしている、自分の心のほうを見ている。
(ああ……)
胸の奥で、静かな気づきが形になっていく。
(お母様は、ただ“完成した文字”だけを見ていたわけではなかったのね……)
“できたもの”を責めていたのではなく、
“これからのわたくし”を、まっすぐに見ていたのだと。
母はふっと微笑み、インクの染みのある紙をそっと脇へ置いた。
「さあ、もう一度。ゆっくりでいいのよ」
新しい紙の白さが、やけに眩しい。
リリアンヌは深く息を吸い込み、ペンを持つ指先に、今度は静かな力を込めた。
焦りではなく、「丁寧でありたい」という決意を、そっと添えながら。
リリアンヌは、新しい紙にそっとペン先を置きながら、ふいに胸の奥がきゅっと疼くのを感じた。
(……今のお母様の言葉……どこかで、聞いたことがある)
インクが紙をかすめる感触とともに、視界の端がぼやけていく。
――そして、記憶の幕が静かにめくられた。
◇ ◇ ◇
【前の人生】
同じように机に向かっていた。
けれど、あのときの自分は今よりずっと背が伸び、ドレスも大人びていた。
指先も、こんなにふっくらとはしていない。
机の上には手紙の下書きや書類、整然と並んだペン。
窓の外には、落ちかけた夕陽。
ソファに腰掛けている母は、前よりも少し痩せていて、肌の色もどこか薄い。
立ち上がるのがつらいのか、座ったままこちらを見ていた。
「リリアンヌ、もう少し丁寧に……」
穏やかな声だったはずなのに、そのときのわたくしには尖った棘のように聞こえた。
「あなたなら、もっと美しく書けるはずよ」
ペンを握る手が、ぴくりと揺れる。
(――また“もっと”ですの?)
疲れていた。
社交界の視線も、婚約者の期待も、貴族令嬢としての役割も。
何もかもをこなさなければならない毎日に、すでに心が擦り減っていた。
前のわたくしの口から、冷たい言葉が零れ落ちる。
「……お母様は、いつも“もっと”ばかりですわ」
部屋の空気が、ぴんと張り詰める。
母の顔が、ふと陰る。
叱るでも責めるでもなく――ただ、少しだけ寂しそうに。
「あなたには、それだけの力があると思っているからよ」
その言葉も、確かに聞こえていた。
けれど、そのときのリリアンヌは、心の中で乱暴に塗り潰してしまう。
(もっと、もっとって……結局、今のわたくしを認めてくださらないだけですわ)
都合の悪い優しさから目を逸らし、
自分を守るために、「期待ばかりで厳しい母」というラベルを貼った。
――そうして、記憶は上書きされたのだ。
母の「あなたならできる」という信頼も、
「もっと美しく書けるはず」という励ましも、
全部まとめて、「責められた」「足りないと言われた」に変換して。
◇ ◇ ◇
現在の読書室に、ふっと意識が戻る。
目の前には、今の母。
インクの染みを脇に寄せ、新しい紙を差し出してくれた、その手。
(……わたくしは――)
胸の奥に、じくりとした痛みが広がる。
(お母様の“厳しさ”しか見ようとしなかった……
本当は、その言葉の中にあった“信じてくれている気持ち”から、目を背けていたのね)
あのときも、“もっと”と言われた。
けれど、それは「今のあなたはダメ」という否定ではなく――
「あなたなら、ここまで届く」と信じてくれている前提の言葉だったのだ。
それに気づこうとしなかったのは、母ではなく、自分自身。
「……お母様」
思わず、声が漏れる。
母が不思議そうに首をかしげる。
「なあに、リリアンヌ?」
リリアンヌは、かすかに震える指で新しい紙を押さえ、唇を結んだ。
(今度は――塗りつぶさない)
(都合の良い形に、勝手に塗り替えてしまった記憶を……
少しずつ、正しい形に戻していきたい)
「いいえ……なんでも、ございませんわ」
小さく微笑み、ペン先をそっと走らせる。
前の人生では、“厳しい”としか思えなかった声。
今、同じ響きの中に、確かな温度がある。
それをちゃんと感じ取れるようになった自分に、
ほんの少しだけ、救われたような気がしていた。
勉強を一区切りつけると、母はペンを置く音を合図にするように、柔らかく微笑んだ。
「少し、休みましょう」
促されるままに立ち上がると、窓際の小さなソファへと手を引かれる。
レースのカーテン越しに、午前の光がやわらかく差し込み、埃の粒が金色に舞っていた。
テーブルには、すでに用意されていたティーセット。
母は自分用のティーカップに紅茶を注ぎ、リリアンヌには、子ども用に薄めたミルクティーをそっと差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます、お母様」
カップを両手で包むと、湯気と一緒に、甘い香りが胸に広がった。
そのぬくもりに、なぜだか少しだけ泣きたくなる。
ふと、母が視線を窓の外へ投げる。
遠くを眺めるような、少しだけ翳りを帯びた横顔。
「リリアンヌ」
「はい?」
「わたしね、時々……あなたに、厳しく聞こえることを言ってしまうでしょう?」
その言葉に、心臓が一度、大きく跳ねた。
(……気づいて、いらしたのね)
前の人生では、何度も同じことを思っていた。
「また叱られた」「また期待を押し付けられた」と、勝手に決めつけていた。
今は、その問いかけに、恐怖ではなく――ただ静かな緊張が宿る。
「……はい。ですが、その……」
否定しようとして、言葉がつかえる。
母は、そんな彼女のもどかしさを見透かしたように、やわらかく首を振った。
「本当はね」
カップのふちにそっと指先を添えながら、母は静かに続ける。
「“立派なご令嬢”であることよりも――
あなたが、自分で自分を好きになれる人になってくれたら、それでいいの」
リリアンヌは、思わず息を呑んだ。
(……今、なんと?)
これまで一度も聞いたことがない気がして、
けれど、きっとどこかで似たような思いを滲ませていたのかもしれない、とも感じる。
母は少し笑う。
その笑みは優しくて――けれど、うっすらと影を落としていた。
「貴族の娘としての作法や顔つきは、周りがいくらでも褒めてくれるわ」
「……はい」
「でも、“自分で自分を褒められる生き方”をしているかどうかは……
あなたにしか決められないでしょう?」
その言葉が、胸の最も痛む場所に、そっと触れてくる。
婚約破棄の夜。
乞食と嘲られた路地裏。
炊き出しの列に並んだあの日。
そして、森で凍えて――死ぬように眠りかけた夜。
(わたくしは……)
リリアンヌは、ミルクティーの中の淡い渦を見つめながら、静かに思う。
(わたくしは、自分で自分を嫌いになる道ばかり、選んでいた……)
誰かに好かれるための微笑み。
侮蔑とともに浮かべた完璧な冷笑。
羨望されるためだけの振る舞い。
そのどれもが、“自分で自分を褒められない”選択ばかりだった。
とくん、と胸が鳴る。
気づかぬうちに握りしめていた拳の上に、ふわりと温もりが重なった。
母の手だ。
細くしなやかな指が、彼女の小さな手を包み込む。
「だからね、リリアンヌ」
母は、まるで秘密を打ち明けるような声で言う。
「あなたが選んだ道が、たとえ周りから見て“間違い”に見えたとしても――」
言葉が一拍置かれる。
リリアンヌは息を殺して、続きを待った。
「あなた自身が『よかった』と思えるなら、それがいちばんよ」
世界から求められる「正しさ」ではなく、
自分の心が「よかった」と言えるかどうか。
今まで一度だって、そんな物差しで自分を測ったことがあっただろうか。
(お母様は……)
リリアンヌは、じわりと視界が滲むのを誤魔化すように、瞬きをした。
(ずっと……わたくしが、自分で自分を嫌いにならないように――
そのために、厳しい言葉を選んでくださっていたの……?)
期待されていたのではない。
追い立てられていたのでもない。
「あなたならできる」と信じてくれたからこそ、
「もっと」と言ってしまった人。
「お母様……」
掠れた声で呼ぶと、母は穏やかに視線を戻し、首をかしげた。
「なにかしら?」
リリアンヌは、胸の奥から溢れそうな言葉を、慎重にすくい上げる。
「……お母様は、わたくしが“立派なご令嬢”になることが、一番のお望みかと……ずっと、思っておりましたわ」
「まあ」
母は少し驚いたように目を丸くし、それから、くすりと小さく笑った。
「もちろん、あなたが礼儀正しく、美しくいられたら嬉しいわ。
でもね、リリアンヌ」
その目が、真っ直ぐに彼女を射抜く。
「わたしの誇りは、“立派なご令嬢の娘”であることじゃないのよ」
ゆっくりと言葉を選ぶように、母は続ける。
「あなたが、あなた自身の人生を選んで――
それで笑っていられるなら。
それが、わたしのいちばんの誇り」
言葉の意味が、胸の中で静かにほどけていく。
“あなたの幸せが、わたしの誇り”
そう言われたも同じだった。
前の人生で、一度でもこの意味を真っ直ぐに受け取れていれば――
わたくしは、あんなふうに自分を追い詰めなかったのだろうか。
婚約者の顔色に怯え、
噂話に怯え、
「令嬢として完璧でなければ愛されない」と信じ込んだ、あの愚かな自分。
(お母様は、ずっと……わたくし自身の“幸せ”を、見ていてくださったのに)
じんわりと涙がこみ上げる。
けれど、こぼすのが惜しくて、ぎゅっと瞬きを重ねた。
「……わたくし、少しずつ……」
リリアンヌは、握られた手に自分からも力を込める。
「“自分で自分を嫌いにならない道”を、選んでみたいと思いますの」
母の瞳が、やわらかく細められる。
「ええ。きっと、あなたなら選べるわ」
その声は、未来を知っている人のように穏やかで、確信に満ちていた。
リリアンヌは、ミルクティーをひと口だけ口に運ぶ。
甘さが舌に広がり、胸の奥の痛みが、ほんの少しだけ溶けていく気がした。
母に手を包まれたまま、指先からじんわりとした熱が腕をのぼっていく。
胸のあたりが、じわ、じわ、と焼けるように苦しい。
それは嫌な痛みではなく――
長いあいだ閉じ込めていた何かが、軋みを立てて動き出す感覚だった。
「お母様……」
自分でも驚くほど、声が震れていた。
母はカップをそっとソーサーに戻し、完全にこちらへ向き直る。
「なにかしら、リリアンヌ?」
その優しさに触れた瞬間、堰が切れそうになる。
(言ってしまいたい)
森で凍えたことも。
婚約破棄されたことも。
人を傷つけてきたことも。
お母様の言葉から、何度も何度も目をそらしたことも。
全部――ここで、打ち明けてしまいたかった。
「わたくし……たくさん、間違えて……」
そこまで言って、喉が強く締まった。
この人生では、まだ何ひとつ“起きていない”。
冷たく振る舞ったあの日々も、
母の言葉を拒んだあの夜も、
まだ先にあるはずの、未来の罪。
(これは……まだ、起きていないこと)
この優しい母の前で、
自分だけが知っている“別の時間”の話をすることが、ふいに恐ろしくなった。
唇の裏側を噛みしめる。
言葉が、喉の奥で絡まり合ったまま、石のように動かない。
「……いえ」
かろうじて、別の言葉をひねり出す。
「その……きっとこれからも、“間違えるかもしれません”わ」
母の睫毛が、ぱちりと上下する。
少しだけ目を丸くしてから、ふっと口元を緩めた。
「まあ。ずいぶん“謙虚なご令嬢”になったのね」
わざと軽く、冗談めかした声音。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけほどける。
リリアンヌの胸の奥の硬い塊が、わずかに形を変える。
母は、カップを手から離し、その両手で今度はしっかりと彼女の手を包み直した。
「でもね、リリアンヌ」
視線が正面から絡み合う。
「いいのよ。間違えるということは――」
柔らかい声で、ひとつひとつ言葉を置くように続ける。
「あなたがちゃんと、“自分で選ぼうとしている”証だから」
リリアンヌは、思わず俯いた。
前の人生の自分が、頭の中で立ち上がる。
誰かに言われた通りにしか動かなかったくせに、
うまくいかないときだけ、世界と母を責めていた愚かな令嬢。
(選んでいなかったのは……わたくしのほうだったのに)
喉に張りついていた言葉が、形を変えて溢れ出す。
「……それでも」
声が震えて、情けないほどか細くなる。
「それでも、見捨てずにいてくださるのですか?」
それは、本来ならずっと前――
母が病に倒れ、もう手を握ることも難しくなっていた頃に、
本当は聞きたかった問いだった。
どくん、と心臓が痛む。
母は一瞬だけ、黙った。
驚いたのか、言葉を選んでいるのか、
その沈黙が怖くて、リリアンヌは指先に力を込める。
逃げないように。
また、冗談でごまかしてしまわないように。
小さな手が震えているのを感じ取ったのだろう。
母は、そっと立ち上がると、彼女の椅子のそばに膝をついた。
視線の高さが、同じになる。
「リリアンヌ」
名前を呼ぶ声は、驚くほど近く、あたたかい。
そして――母は彼女の額に、そっと唇を寄せた。
一瞬、そこだけ世界が止まったように感じる。
くすぐったいほどの息づかい。
離れたあとに残る、柔らかな体温。
「ええ」
耳元で、静かな肯定が落ちてくる。
「何度だって」
その言葉は、穏やかなのに、とても強かった。
「間違えても、転んでも、泣いてしまっても――」
母は、彼女の頬にかかる髪を指で払う。
「あなたが、自分で立ち上がろうとするかぎり。
わたしは、あなたを見捨てたりしないわ」
堰が切れた。
視界がぼやけ、涙がぽろりとテーブルの上に落ちる。
「お母様……」
掠れた声で呼んだその名前には、
前の人生で言えなかった「ごめんなさい」と、「ありがとう」が、ぐしゃぐしゃに混じっていた。
けれど、それを言葉にするには、まだ勇気が足りない。
“前の人生の罪”は、まだこの世界には存在していないから。
(――それでも)
リリアンヌは、握られた手を離さないまま、胸の中でそっと誓う。
(いつか必ず。この人生で、ちゃんと償える自分になりますわ)
母の温もりを、今度こそ取りこぼさないように。
優しさに気づかなかった、あの愚かな令嬢とは違う道を歩めるように。
額に残るやわらかな感触が、「それでいいのよ」と告げている気がした。
母が出ていった扉が、静かに閉まる。
その音が最後の余韻となって、読書室はふたたび静寂に包まれた。
窓から差し込む陽の光が、机の上のまっさらな紙を白く照らしている。
さっきまでインクの染みで汚れていた場所に、今は何も書かれていない――
「やり直していい」と許された証のようだった。
リリアンヌは、そっと自分の手を見下ろす。
まだ幼く、少し震えの残る指。
その上に、つい先ほどまで母の温もりが確かに乗っていた。
ゆっくりと、拳を開く。
指先に残る名残りのぬくもりが、空気へと溶けていく。
(お母様は――)
胸の奥で、言葉がひとつひとつ、形をとりはじめる。
(わたくしに、“立派さ”を教えたかったのではなくて)
前の人生の記憶が、ぱらぱらと紙吹雪のようによみがえる。
「もっと美しく」
「もっと丁寧に」
「もっと、誇り高く」
あの言葉の数々を、自分はずっと“理想を押しつけるための鞭”だと思っていた。
(そうじゃなかった)
インクの滲んだ紙を横に避け、新しい紙を差し出した母の手。
「捨てていい」と言いながら、その眼差しは“次の一枚”を見ていた。
(お母様は――わたくしに、“自分を好きでいられる強さ”を教えようとしていたのね)
婚約破棄のあと、噂と嘲笑の中で沈んでいった前の人生。
あのとき、心のどこかで決めつけていた。
――きっとお母様なら、こんなわたくしを軽蔑なさるわ。
汚れた名前。
落ちぶれた令嬢。
「氷の令嬢」と呼ばれ、最後には誰も手を取ってくれなかった自分。
(でも、本当は違っていたのね)
何度間違えても、
何度転んでも、
「見捨てない」と言い切った声。
“立派なご令嬢”よりも先に、
“自分で自分を褒められる生き方”を、と願ってくれたまなざし。
それら全部を、自分はひとまとめにして――
「厳しさ」と、呼んでしまっていた。
「……違う」
思わず、唇から音が漏れる。
誰もいない読書室に、幼い声がかすかに響いた。
「本当は……“愛”だったのに」
胸の奥に、文字が浮かぶ。
期待でもない。
義務でもない。
“こうあるべき”という鎖でもない。
もっと静かで、もっとしなやかで、
間違えても、汚れても、消えないもの。
(あれは――母の、愛)
ようやく、その感情に名前がついた。
頬を伝うものに気づいて、あわてて手の甲で拭う。
涙の跡が消えたあとも、目の奥の熱はすぐには引かなかった。
けれど、その熱はもう、
前の人生のような自己嫌悪の焼け跡ではない。
(わたくしは……)
リリアンヌは、まっさらな紙に向き直る。
小さな手でペンを握り、震えを押さえながら、一文字目を書き始めた。
(この愛に、ふさわしい生き方を、今度こそ選んでいきたい)
それは“完璧な令嬢”になるためではなく――
“自分で自分を嫌いにならないため”の文字。
かつては気づかなかった、その違いを抱きしめながら。
窓から入る光が、紙と、小さな背中とをやわらかく照らしていた。
夕暮れが、礼拝堂の小さな窓を紫色に染めていた。
まだ背の届かない窓枠に向かって、リリアンヌは小さな靴音を響かせる。
石床はひんやりとしているのに、胸の奥だけは、昼間からずっと温かいままだ。
彼女は窓の下で立ち止まり、そっと両手を胸の前で組んだ。
(お母様の時間は――)
まぶたの裏に、別の時間軸の光景がふっとよみがえる。
枕辺に座る、自分。
細くなった手を握ってくれている母。
外は、もう季節の境目もわからないほど、ただ白く滲んでいた。
――その先の記憶は、意図的にぼやけている。
はっきり思い出してしまえば、今のこの温かさまで砕けてしまいそうで。
(前の人生では、それほど長くなかった)
胸の奥で、その言葉だけが静かに輪郭を持つ。
だからこそ、今度は――
「だから今度こそ」
唇が、小さな声をこぼした。
「その残された時間のすべてを……
“愛されていたことを知るわたくし”として、過ごしたいですわ」
祈りというにはたどたどしく、誓いというには幼すぎる言葉。
けれど、それは紛れもなく、今のリリアンヌの、精一杯の願いだった。
彼女はそっと目を閉じる。
(そして――)
暗闇の中に、焚き火の赤と、粗い布の感触が浮かぶ。
凍えた手を包んでくれた、あの温もり。
(いつかまた森で、あの方に出会えたなら)
小さく、胸の奥で息を吸う。
「胸を張って言えるわ」
心の中で、はっきりと言葉にする。
『わたくしは、優しい母に愛されて育った娘です』――と。
それはまだ、誰にも聞こえない内緒の宣言。
けれどそこには、“母から受け取った愛を、今度は誰かを支える力に変えたい”という、静かな決意が宿っていた。
自分のためだけに抱きしめるのではなく。
いつか、泣きそうな誰かの隣で、その愛を灯してみたい――と。
礼拝堂の古びた壁に、遠くから足音が反響する。
「リリアンヌ。そろそろ夕食よ」
廊下の向こうから届く母の声は、前よりも近く、前よりもやわらかく聞こえた。
リリアンヌはぱっと目を開ける。
夕暮れの光が窓から差し込み、彼女の瞳に小さな光を映す。
「はい、お母様!」
今度は迷わない。
小さな足で石床を蹴り、礼拝堂の扉へと駆けだす。
走りながら、胸の中でそっともう一度つぶやいた。
(わたくしは、もう二度と――
この愛を、“厳しさ”だけだなんて取り違えたりしませんわ)
扉の向こうで、母が微笑んで待っている。
その顔を見た瞬間、リリアンヌの口元に浮かんだのは、
飾り気のない、ただの“子どもの笑顔”だった。
かつての人生では、一度も見せたことのない種類の笑顔。
*
彼女はようやく気づいた。
厳しさに見えていた言葉のひとつひとつが、
どれほど不器用で、どれほど深い愛だったのかを。
二度目の幼少期――
リリアンヌは今度こそ、その愛を失う前に、ちゃんと抱きしめようとしていた。
その選択が、やがて母の病の日々へ、
婚約の日々へ、
そして森で再び出会う“あの人”へとつながっていくことを、
このときの彼女はまだ知らない。




