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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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優しい母 ―― 初めて、その愛に気づく。

朝の読書室には、紙の擦れる音と、ペン先のかすかなかき混ぜだけが満ちていた。


大きな机に、幼い身体がひとつ。

リリアンヌは背筋を伸ばし、分厚い礼儀作法の本を横目に見ながら、筆写の課題に向かっていた。


まだ書き慣れない指先は、ところどころで震える。

丁寧に、丁寧に――そう思えば思うほど、文字の端が歪んでいく。


「……ん……」


小さく息を詰めて、はねを整えようとして、逆に線をよじらせてしまう。

白い紙の上で、黒のインクがじわりと広がった。


そのとき。


――コン、コン。


控えめなノックが扉を震わせる。


リリアンヌの肩が、びくりと跳ねた。


「どうぞ……」


自分でもわかるほど、声が硬い。

扉が開き、柔らかな布の擦れる音とともに、母が読書室へ入ってくる。


薄い昼光の中、母のシルエットが伸び、机の上に影を落とした。


「リリアンヌ、勉強は進んでいる?」


その穏やかな声が、耳を叩いた瞬間――

彼女の脳裏に、別の“朝”がよみがえる。


***


『もっときれいな字を心がけなさい。あなたは公爵家の娘なのだから』


かつての母の声。

同じ読書室、同じ机。

あのときのわたくしは、唇を尖らせて、紙ではなく母を睨みつけた。


『……わたくしの字は、これで十分ですわ』


“認めてくれない”――

その一念だけで、母の言葉の、その先を切り捨てた。


***


今、影が同じ角度で机に落ちる。

リリアンヌは、無意識に背中を強ばらせていた。


喉の奥が、ぎゅっと詰まる。

「また、足りないと言われる」そんな、昔の恐れが、反射みたいにせり上がってくる。


だが――彼女は、指先に力を込めた。


(あの時のわたくしは、母の言葉の“半分”しか見ていなかった……)


ペンを置き、そっと振り向く。


そこに立っているのは、記憶のとおりの人。

けれど、前の人生のどの瞬間よりも、鮮やかに見える。


「……お勉強は、進んでいますわ、お母様」


自分でも驚くほど、声は静かだった。

まだ、この胸のざわめきに、上手な名前をつけられないまま――

リリアンヌは、母の言葉を“最後まで聞こう”と決めていた。




インク壺が、かすかにコトリと鳴った。


ほんの少し手元が狂っただけ――のはずだった。

だが、揺れたインクは躊躇なく壺の縁を越え、紙の端に黒い滴をこぼす。


じわり、と。


真っ白な余白の上に、黒が花のように滲んで広がっていく。


「あっ……!」


リリアンヌは椅子から半分浮きかけた。

胸が、一瞬で冷たく縮む。


(また……やってしまいましたわ……)


前の人生で、何度も繰り返した失敗。

そのたびに、母の眉がきゅっと寄って――

「もっと丁寧に」と叱られた記憶が、反射のように蘇る。


思わず、肩がこわばった。


机の向こう側に立つ母が、滲んだインクへ視線を落とす。

細い眉が、ほんのわずかに寄る。


――来る。


心がそう身構えた、その次の瞬間。


「リリアンヌ」


呼ばれた声は、思っていたよりもずっと、静かだった。


「“間違えた紙”は捨てて構わないわ」


母はそう言って、滲んだ紙にそっと指先を添え、こちらへ引き寄せる。


「でも――間違えた“心”は、放っておいてはいけないの」


リリアンヌは、ぱちりと瞬いた。


インクの染みを責める言葉が、来ない。

破れた紙でも、汚した机でもなく――

“心”という、見えないものを指さされた。


母は、傍らの束から新しい紙を一枚取り出し、リリアンヌの前に滑らせる。


さらり、と白が目の前に広がった。


「字が乱れたのは、焦っていたからでしょう?」


穏やかな視線が、リリアンヌの顔を見上げる。


「『早く終わらせたい』と思うのは、悪いことではないわ」


やわらかな声。

責め立てる調子ではなく、事実をなぞるだけの、落ち着いた響き。


「でも、“丁寧でありたい”と思う心を、忘れないで」


その一言が、静かに胸に落ちた。


前の時間軸では――

きっとわたくしは、この言葉の前半だけを聞いていた。


『字が乱れている』『もっときれいに』

『公爵家の娘なのだから』


そういう響きだけを拾って、「また叱られた」と拗ねていた。


(でも……)


今のリリアンヌは、じっと母を見つめる。


その視線が向けられている先は、滲んだ紙ではなかった。

インクに汚れた机でも、失敗した文字でもない。


まだ書きあげてもいない、これからの一行。

“どうありたいか”を選ぼうとしている、自分の心のほうを見ている。


(ああ……)


胸の奥で、静かな気づきが形になっていく。


(お母様は、ただ“完成した文字”だけを見ていたわけではなかったのね……)


“できたもの”を責めていたのではなく、

“これからのわたくし”を、まっすぐに見ていたのだと。


母はふっと微笑み、インクの染みのある紙をそっと脇へ置いた。


「さあ、もう一度。ゆっくりでいいのよ」


新しい紙の白さが、やけに眩しい。

リリアンヌは深く息を吸い込み、ペンを持つ指先に、今度は静かな力を込めた。


焦りではなく、「丁寧でありたい」という決意を、そっと添えながら。


リリアンヌは、新しい紙にそっとペン先を置きながら、ふいに胸の奥がきゅっと疼くのを感じた。


(……今のお母様の言葉……どこかで、聞いたことがある)


インクが紙をかすめる感触とともに、視界の端がぼやけていく。


――そして、記憶の幕が静かにめくられた。


◇ ◇ ◇


【前の人生】


同じように机に向かっていた。

けれど、あのときの自分は今よりずっと背が伸び、ドレスも大人びていた。

指先も、こんなにふっくらとはしていない。


机の上には手紙の下書きや書類、整然と並んだペン。

窓の外には、落ちかけた夕陽。


ソファに腰掛けている母は、前よりも少し痩せていて、肌の色もどこか薄い。

立ち上がるのがつらいのか、座ったままこちらを見ていた。


「リリアンヌ、もう少し丁寧に……」


穏やかな声だったはずなのに、そのときのわたくしには尖った棘のように聞こえた。


「あなたなら、もっと美しく書けるはずよ」


ペンを握る手が、ぴくりと揺れる。


(――また“もっと”ですの?)


疲れていた。

社交界の視線も、婚約者の期待も、貴族令嬢としての役割も。

何もかもをこなさなければならない毎日に、すでに心が擦り減っていた。


前のわたくしの口から、冷たい言葉が零れ落ちる。


「……お母様は、いつも“もっと”ばかりですわ」


部屋の空気が、ぴんと張り詰める。


母の顔が、ふと陰る。

叱るでも責めるでもなく――ただ、少しだけ寂しそうに。


「あなたには、それだけの力があると思っているからよ」


その言葉も、確かに聞こえていた。


けれど、そのときのリリアンヌは、心の中で乱暴に塗り潰してしまう。


(もっと、もっとって……結局、今のわたくしを認めてくださらないだけですわ)


都合の悪い優しさから目を逸らし、

自分を守るために、「期待ばかりで厳しい母」というラベルを貼った。


――そうして、記憶は上書きされたのだ。


母の「あなたならできる」という信頼も、

「もっと美しく書けるはず」という励ましも、

全部まとめて、「責められた」「足りないと言われた」に変換して。


◇ ◇ ◇


現在の読書室に、ふっと意識が戻る。


目の前には、今の母。

インクの染みを脇に寄せ、新しい紙を差し出してくれた、その手。


(……わたくしは――)


胸の奥に、じくりとした痛みが広がる。


(お母様の“厳しさ”しか見ようとしなかった……

 本当は、その言葉の中にあった“信じてくれている気持ち”から、目を背けていたのね)


あのときも、“もっと”と言われた。

けれど、それは「今のあなたはダメ」という否定ではなく――


「あなたなら、ここまで届く」と信じてくれている前提の言葉だったのだ。


それに気づこうとしなかったのは、母ではなく、自分自身。


「……お母様」


思わず、声が漏れる。


母が不思議そうに首をかしげる。


「なあに、リリアンヌ?」


リリアンヌは、かすかに震える指で新しい紙を押さえ、唇を結んだ。


(今度は――塗りつぶさない)


(都合の良い形に、勝手に塗り替えてしまった記憶を……

 少しずつ、正しい形に戻していきたい)


「いいえ……なんでも、ございませんわ」


小さく微笑み、ペン先をそっと走らせる。


前の人生では、“厳しい”としか思えなかった声。

今、同じ響きの中に、確かな温度がある。


それをちゃんと感じ取れるようになった自分に、

ほんの少しだけ、救われたような気がしていた。


勉強を一区切りつけると、母はペンを置く音を合図にするように、柔らかく微笑んだ。


「少し、休みましょう」


促されるままに立ち上がると、窓際の小さなソファへと手を引かれる。

レースのカーテン越しに、午前の光がやわらかく差し込み、埃の粒が金色に舞っていた。


テーブルには、すでに用意されていたティーセット。

母は自分用のティーカップに紅茶を注ぎ、リリアンヌには、子ども用に薄めたミルクティーをそっと差し出す。


「どうぞ」


「ありがとうございます、お母様」


カップを両手で包むと、湯気と一緒に、甘い香りが胸に広がった。

そのぬくもりに、なぜだか少しだけ泣きたくなる。


ふと、母が視線を窓の外へ投げる。

遠くを眺めるような、少しだけ翳りを帯びた横顔。


「リリアンヌ」


「はい?」


「わたしね、時々……あなたに、厳しく聞こえることを言ってしまうでしょう?」


その言葉に、心臓が一度、大きく跳ねた。


(……気づいて、いらしたのね)


前の人生では、何度も同じことを思っていた。

「また叱られた」「また期待を押し付けられた」と、勝手に決めつけていた。


今は、その問いかけに、恐怖ではなく――ただ静かな緊張が宿る。


「……はい。ですが、その……」


否定しようとして、言葉がつかえる。

母は、そんな彼女のもどかしさを見透かしたように、やわらかく首を振った。


「本当はね」


カップのふちにそっと指先を添えながら、母は静かに続ける。


「“立派なご令嬢”であることよりも――

 あなたが、自分で自分を好きになれる人になってくれたら、それでいいの」


リリアンヌは、思わず息を呑んだ。


(……今、なんと?)


これまで一度も聞いたことがない気がして、

けれど、きっとどこかで似たような思いを滲ませていたのかもしれない、とも感じる。


母は少し笑う。

その笑みは優しくて――けれど、うっすらと影を落としていた。


「貴族の娘としての作法や顔つきは、周りがいくらでも褒めてくれるわ」


「……はい」


「でも、“自分で自分を褒められる生き方”をしているかどうかは……

 あなたにしか決められないでしょう?」


その言葉が、胸の最も痛む場所に、そっと触れてくる。


婚約破棄の夜。

乞食と嘲られた路地裏。

炊き出しの列に並んだあの日。

そして、森で凍えて――死ぬように眠りかけた夜。


(わたくしは……)


リリアンヌは、ミルクティーの中の淡い渦を見つめながら、静かに思う。


(わたくしは、自分で自分を嫌いになる道ばかり、選んでいた……)


誰かに好かれるための微笑み。

侮蔑とともに浮かべた完璧な冷笑。

羨望されるためだけの振る舞い。


そのどれもが、“自分で自分を褒められない”選択ばかりだった。


とくん、と胸が鳴る。


気づかぬうちに握りしめていた拳の上に、ふわりと温もりが重なった。


母の手だ。


細くしなやかな指が、彼女の小さな手を包み込む。


「だからね、リリアンヌ」


母は、まるで秘密を打ち明けるような声で言う。


「あなたが選んだ道が、たとえ周りから見て“間違い”に見えたとしても――」


言葉が一拍置かれる。


リリアンヌは息を殺して、続きを待った。


「あなた自身が『よかった』と思えるなら、それがいちばんよ」


世界から求められる「正しさ」ではなく、

自分の心が「よかった」と言えるかどうか。


今まで一度だって、そんな物差しで自分を測ったことがあっただろうか。


(お母様は……)


リリアンヌは、じわりと視界が滲むのを誤魔化すように、瞬きをした。


(ずっと……わたくしが、自分で自分を嫌いにならないように――

 そのために、厳しい言葉を選んでくださっていたの……?)


期待されていたのではない。

追い立てられていたのでもない。


「あなたならできる」と信じてくれたからこそ、

「もっと」と言ってしまった人。


「お母様……」


掠れた声で呼ぶと、母は穏やかに視線を戻し、首をかしげた。


「なにかしら?」


リリアンヌは、胸の奥から溢れそうな言葉を、慎重にすくい上げる。


「……お母様は、わたくしが“立派なご令嬢”になることが、一番のお望みかと……ずっと、思っておりましたわ」


「まあ」


母は少し驚いたように目を丸くし、それから、くすりと小さく笑った。


「もちろん、あなたが礼儀正しく、美しくいられたら嬉しいわ。

 でもね、リリアンヌ」


その目が、真っ直ぐに彼女を射抜く。


「わたしの誇りは、“立派なご令嬢の娘”であることじゃないのよ」


ゆっくりと言葉を選ぶように、母は続ける。


「あなたが、あなた自身の人生を選んで――

 それで笑っていられるなら。

 それが、わたしのいちばんの誇り」


言葉の意味が、胸の中で静かにほどけていく。


“あなたの幸せが、わたしの誇り”


そう言われたも同じだった。


前の人生で、一度でもこの意味を真っ直ぐに受け取れていれば――

わたくしは、あんなふうに自分を追い詰めなかったのだろうか。


婚約者の顔色に怯え、

噂話に怯え、

「令嬢として完璧でなければ愛されない」と信じ込んだ、あの愚かな自分。


(お母様は、ずっと……わたくし自身の“幸せ”を、見ていてくださったのに)


じんわりと涙がこみ上げる。

けれど、こぼすのが惜しくて、ぎゅっと瞬きを重ねた。


「……わたくし、少しずつ……」


リリアンヌは、握られた手に自分からも力を込める。


「“自分で自分を嫌いにならない道”を、選んでみたいと思いますの」


母の瞳が、やわらかく細められる。


「ええ。きっと、あなたなら選べるわ」


その声は、未来を知っている人のように穏やかで、確信に満ちていた。


リリアンヌは、ミルクティーをひと口だけ口に運ぶ。


甘さが舌に広がり、胸の奥の痛みが、ほんの少しだけ溶けていく気がした。


母に手を包まれたまま、指先からじんわりとした熱が腕をのぼっていく。


胸のあたりが、じわ、じわ、と焼けるように苦しい。

それは嫌な痛みではなく――

長いあいだ閉じ込めていた何かが、軋みを立てて動き出す感覚だった。


「お母様……」


自分でも驚くほど、声が震れていた。


母はカップをそっとソーサーに戻し、完全にこちらへ向き直る。


「なにかしら、リリアンヌ?」


その優しさに触れた瞬間、堰が切れそうになる。


(言ってしまいたい)


森で凍えたことも。

婚約破棄されたことも。

人を傷つけてきたことも。

お母様の言葉から、何度も何度も目をそらしたことも。


全部――ここで、打ち明けてしまいたかった。


「わたくし……たくさん、間違えて……」


そこまで言って、喉が強く締まった。


この人生では、まだ何ひとつ“起きていない”。


冷たく振る舞ったあの日々も、

母の言葉を拒んだあの夜も、

まだ先にあるはずの、未来の罪。


(これは……まだ、起きていないこと)


この優しい母の前で、

自分だけが知っている“別の時間”の話をすることが、ふいに恐ろしくなった。


唇の裏側を噛みしめる。


言葉が、喉の奥で絡まり合ったまま、石のように動かない。


「……いえ」


かろうじて、別の言葉をひねり出す。


「その……きっとこれからも、“間違えるかもしれません”わ」


母の睫毛が、ぱちりと上下する。


少しだけ目を丸くしてから、ふっと口元を緩めた。


「まあ。ずいぶん“謙虚なご令嬢”になったのね」


わざと軽く、冗談めかした声音。


張り詰めていた空気が、ほんの少しだけほどける。


リリアンヌの胸の奥の硬い塊が、わずかに形を変える。


母は、カップを手から離し、その両手で今度はしっかりと彼女の手を包み直した。


「でもね、リリアンヌ」


視線が正面から絡み合う。


「いいのよ。間違えるということは――」


柔らかい声で、ひとつひとつ言葉を置くように続ける。


「あなたがちゃんと、“自分で選ぼうとしている”証だから」


リリアンヌは、思わず俯いた。


前の人生の自分が、頭の中で立ち上がる。


誰かに言われた通りにしか動かなかったくせに、

うまくいかないときだけ、世界と母を責めていた愚かな令嬢。


(選んでいなかったのは……わたくしのほうだったのに)


喉に張りついていた言葉が、形を変えて溢れ出す。


「……それでも」


声が震えて、情けないほどか細くなる。


「それでも、見捨てずにいてくださるのですか?」


それは、本来ならずっと前――

母が病に倒れ、もう手を握ることも難しくなっていた頃に、

本当は聞きたかった問いだった。


どくん、と心臓が痛む。


母は一瞬だけ、黙った。


驚いたのか、言葉を選んでいるのか、

その沈黙が怖くて、リリアンヌは指先に力を込める。


逃げないように。

また、冗談でごまかしてしまわないように。


小さな手が震えているのを感じ取ったのだろう。

母は、そっと立ち上がると、彼女の椅子のそばに膝をついた。


視線の高さが、同じになる。


「リリアンヌ」


名前を呼ぶ声は、驚くほど近く、あたたかい。


そして――母は彼女の額に、そっと唇を寄せた。


一瞬、そこだけ世界が止まったように感じる。


くすぐったいほどの息づかい。

離れたあとに残る、柔らかな体温。


「ええ」


耳元で、静かな肯定が落ちてくる。


「何度だって」


その言葉は、穏やかなのに、とても強かった。


「間違えても、転んでも、泣いてしまっても――」


母は、彼女の頬にかかる髪を指で払う。


「あなたが、自分で立ち上がろうとするかぎり。

 わたしは、あなたを見捨てたりしないわ」


堰が切れた。


視界がぼやけ、涙がぽろりとテーブルの上に落ちる。


「お母様……」


掠れた声で呼んだその名前には、

前の人生で言えなかった「ごめんなさい」と、「ありがとう」が、ぐしゃぐしゃに混じっていた。


けれど、それを言葉にするには、まだ勇気が足りない。


“前の人生の罪”は、まだこの世界には存在していないから。


(――それでも)


リリアンヌは、握られた手を離さないまま、胸の中でそっと誓う。


(いつか必ず。この人生で、ちゃんと償える自分になりますわ)


母の温もりを、今度こそ取りこぼさないように。

優しさに気づかなかった、あの愚かな令嬢とは違う道を歩めるように。


額に残るやわらかな感触が、「それでいいのよ」と告げている気がした。



母が出ていった扉が、静かに閉まる。


その音が最後の余韻となって、読書室はふたたび静寂に包まれた。


窓から差し込む陽の光が、机の上のまっさらな紙を白く照らしている。

さっきまでインクの染みで汚れていた場所に、今は何も書かれていない――

「やり直していい」と許された証のようだった。


リリアンヌは、そっと自分の手を見下ろす。


まだ幼く、少し震えの残る指。

その上に、つい先ほどまで母の温もりが確かに乗っていた。


ゆっくりと、拳を開く。


指先に残る名残りのぬくもりが、空気へと溶けていく。


(お母様は――)


胸の奥で、言葉がひとつひとつ、形をとりはじめる。


(わたくしに、“立派さ”を教えたかったのではなくて)


前の人生の記憶が、ぱらぱらと紙吹雪のようによみがえる。


「もっと美しく」

「もっと丁寧に」

「もっと、誇り高く」


あの言葉の数々を、自分はずっと“理想を押しつけるための鞭”だと思っていた。


(そうじゃなかった)


インクの滲んだ紙を横に避け、新しい紙を差し出した母の手。

「捨てていい」と言いながら、その眼差しは“次の一枚”を見ていた。


(お母様は――わたくしに、“自分を好きでいられる強さ”を教えようとしていたのね)


婚約破棄のあと、噂と嘲笑の中で沈んでいった前の人生。


あのとき、心のどこかで決めつけていた。


――きっとお母様なら、こんなわたくしを軽蔑なさるわ。


汚れた名前。

落ちぶれた令嬢。

「氷の令嬢」と呼ばれ、最後には誰も手を取ってくれなかった自分。


(でも、本当は違っていたのね)


何度間違えても、

何度転んでも、

「見捨てない」と言い切った声。


“立派なご令嬢”よりも先に、

“自分で自分を褒められる生き方”を、と願ってくれたまなざし。


それら全部を、自分はひとまとめにして――


「厳しさ」と、呼んでしまっていた。


「……違う」


思わず、唇から音が漏れる。


誰もいない読書室に、幼い声がかすかに響いた。


「本当は……“愛”だったのに」


胸の奥に、文字が浮かぶ。


期待でもない。

義務でもない。

“こうあるべき”という鎖でもない。


もっと静かで、もっとしなやかで、

間違えても、汚れても、消えないもの。


(あれは――母の、愛)


ようやく、その感情に名前がついた。


頬を伝うものに気づいて、あわてて手の甲で拭う。


涙の跡が消えたあとも、目の奥の熱はすぐには引かなかった。


けれど、その熱はもう、

前の人生のような自己嫌悪の焼け跡ではない。


(わたくしは……)


リリアンヌは、まっさらな紙に向き直る。


小さな手でペンを握り、震えを押さえながら、一文字目を書き始めた。


(この愛に、ふさわしい生き方を、今度こそ選んでいきたい)


それは“完璧な令嬢”になるためではなく――

“自分で自分を嫌いにならないため”の文字。


かつては気づかなかった、その違いを抱きしめながら。


窓から入る光が、紙と、小さな背中とをやわらかく照らしていた。



夕暮れが、礼拝堂の小さな窓を紫色に染めていた。


まだ背の届かない窓枠に向かって、リリアンヌは小さな靴音を響かせる。

石床はひんやりとしているのに、胸の奥だけは、昼間からずっと温かいままだ。


彼女は窓の下で立ち止まり、そっと両手を胸の前で組んだ。


(お母様の時間は――)


まぶたの裏に、別の時間軸の光景がふっとよみがえる。


枕辺に座る、自分。

細くなった手を握ってくれている母。

外は、もう季節の境目もわからないほど、ただ白く滲んでいた。


――その先の記憶は、意図的にぼやけている。

はっきり思い出してしまえば、今のこの温かさまで砕けてしまいそうで。


(前の人生では、それほど長くなかった)


胸の奥で、その言葉だけが静かに輪郭を持つ。


だからこそ、今度は――


「だから今度こそ」


唇が、小さな声をこぼした。


「その残された時間のすべてを……

 “愛されていたことを知るわたくし”として、過ごしたいですわ」


祈りというにはたどたどしく、誓いというには幼すぎる言葉。

けれど、それは紛れもなく、今のリリアンヌの、精一杯の願いだった。


彼女はそっと目を閉じる。


(そして――)


暗闇の中に、焚き火の赤と、粗い布の感触が浮かぶ。

凍えた手を包んでくれた、あの温もり。


(いつかまた森で、あの方に出会えたなら)


小さく、胸の奥で息を吸う。


「胸を張って言えるわ」


心の中で、はっきりと言葉にする。


『わたくしは、優しい母に愛されて育った娘です』――と。


それはまだ、誰にも聞こえない内緒の宣言。

けれどそこには、“母から受け取った愛を、今度は誰かを支える力に変えたい”という、静かな決意が宿っていた。


自分のためだけに抱きしめるのではなく。

いつか、泣きそうな誰かの隣で、その愛を灯してみたい――と。


礼拝堂の古びた壁に、遠くから足音が反響する。


「リリアンヌ。そろそろ夕食よ」


廊下の向こうから届く母の声は、前よりも近く、前よりもやわらかく聞こえた。


リリアンヌはぱっと目を開ける。


夕暮れの光が窓から差し込み、彼女の瞳に小さな光を映す。


「はい、お母様!」


今度は迷わない。


小さな足で石床を蹴り、礼拝堂の扉へと駆けだす。

走りながら、胸の中でそっともう一度つぶやいた。


(わたくしは、もう二度と――

 この愛を、“厳しさ”だけだなんて取り違えたりしませんわ)


扉の向こうで、母が微笑んで待っている。


その顔を見た瞬間、リリアンヌの口元に浮かんだのは、

飾り気のない、ただの“子どもの笑顔”だった。


かつての人生では、一度も見せたことのない種類の笑顔。



彼女はようやく気づいた。


厳しさに見えていた言葉のひとつひとつが、

どれほど不器用で、どれほど深い愛だったのかを。


二度目の幼少期――

リリアンヌは今度こそ、その愛を失う前に、ちゃんと抱きしめようとしていた。


その選択が、やがて母の病の日々へ、

婚約の日々へ、

そして森で再び出会う“あの人”へとつながっていくことを、

このときの彼女はまだ知らない。




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