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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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選ばなかった言葉 ―― 今度こそ、笑わないで生きてみよう。

小さな学びのサロンは、昼下がりの光で満ちていた。


窓から差し込む陽射しが、磨き上げられた机の上で柔らかく跳ねる。

壁際には礼儀作法や歴史書、詩集が整然と並び、淡い香水と紙の匂いが混ざり合っている。


少女期のリリアンヌは、その一角で姿勢よく椅子に腰掛けていた。

きちんと整えられたブロンドの髪、襟元までしっかりと留められた制服のリボン。

背筋を伸ばし、指先は膝の上で静かに組まれている。


講師が小さく咳払いをし、教卓の上の本を閉じた。


「では、ここまでとしましょう。しばし休憩を」


そう告げて部屋を出ていくと、閉じられた扉の音を合図に、教室のあちこちで小さな笑い声とさざめきが生まれる。

椅子を引く音、紙がめくられる音、友人同士が身を寄せ合って囁き合う気配。


そのときだった。


教室の端、書棚の近くで、小さな悲鳴とともに本の束が揺れた。


「きゃっ……!」


振り向いた先で、本の山を抱えていた少女がよろめき、抱えきれなかった一冊が床へと滑り落ちる。

ぱさり、と乾いた音。

その音が、なぜかやけに大きく響いた。


平民出身の特待生――エミリア。


粗末ではないが、他の貴族子女たちの衣服に比べると簡素な布地の制服。

淡い茶色の髪をきちんとまとめているが、指先は本を支えるにはまだ慣れていないのか、わずかに震えている。


エミリアは慌てて頭を下げた。


「も、申し訳ありません……!」


その謝罪の声よりも早く、近くの少女たちの囁きが飛ぶ。


「あら、またよ」


貴族少女Aが、扇子を唇に当ててくすりと笑う。


「本さえまともに運べないなんて、淑女の素質がないのね」


その隣で、貴族少女Bが肩をすくめた。


「でもあの子、“努力すれば身分を越えられる”と思っているのよ。

 滑稽だわ」


二人の笑いに、周囲の何人かが顔を見合わせ、小さく吹き出す。

笑い声は、机の間を小さく転がるように広がっていく。


――前の時間のわたくしは。


リリアンヌは、机の上に置かれた自分の両手を見つめた。

白く整った指、爪の先まで手入れが行き届いた手。

しかし、その掌にこびりついている感覚は、もうひとつの“記憶の手触り”だった。


(あの時のわたくしは……)


エミリアが慌てて本を拾おうと屈みこむ。

本の角が床を擦る音が、妙に耳につく。


視線の端で、貴族少女たちがこちらをうかがっているのがわかった。

彼女たちは、当然のように“中心”にいるリリアンヌの反応を待っている。


「リリアンヌ様も、そう思われますわよね?」


――かつて、同じ言葉を向けられた。


そのときの自分は、どうしたか。


思い出すまでもない。

完璧な微笑を浮かべ、睫毛を伏せ、少しだけあごを上げてこう言ったのだ。


本当の淑女なら、人前で慌ててはなりませんわ。


その一言で、教室の空気は凍りついた。

冷たい笑いが肯定され、エミリアはさらに小さく縮こまり――

そして、リリアンヌ自身は「高みに立つために、またひとつ何かを切り捨てた」のだ。


(……あの時のわたくしは、笑っていた)


今、目の前で広がる光景は、あの時とほとんど変わらない。

机の配置も、窓から差し込む光の角度も、少女たちの顔ぶれも。


違うのはただひとつ――リリアンヌの内側だけ。


(“何も言わない”という選択で、わたくしはあの子を見捨てた。

 笑って頷くことも、沈黙することも……全部、言葉なのね)


胸の奥が、きゅう、と痛くなる。


笑い声が、耳の奥で遠ざかったり近づいたりする。

教室のざわめきの中に、森の冷たい風の感触や、炊き出しの列で差し出されたスープのぬくもりが、ふと紛れ込んだ気がした。


パンを分けてくれた少年。

震える手で器を支えてくれた老婆。

凍えた自分の手を包んでくれた、あの温かい掌。


(――もう、一度、あの選択をしてしまったら。

 今度こそ、本当に“氷の令嬢”に戻ってしまうわ)


机の下で、リリアンヌはそっと指先に力を込めた。

自分の手が震えているのを、誰にも気づかれないように。


(選ばなかった言葉が、わたくしを作ったのなら――

 今度は、別の言葉を選ばなければ)


彼女はゆっくりと息を吸い込み、視線を上げた。


エミリアが、床に落ちた本へと手を伸ばしている。

その背中は、小さく、頼りなく震えていた。




教室の空気が、ふっと静まり返ったように感じた。


エミリアが落とした本は、まだ床に転がったまま。

彼女は小さな肩を震わせながら、必死にそれを拾おうとしている。

周囲では、貴族の少女たちが扇子で口元を隠し、笑いをこらえるでもなく、むしろ楽しげにその様子を眺めていた。


「またよね、あの子」


「本ひとつまともに運べないなんて……」


くすくすと漏れる笑い声。

それは、ささやきなのに氷のように冷たく、教室の床を這うように広がっていく。


リリアンヌは、自分の胸の奥から湧き上がった感覚を、よく知っていた。


――これは、二度目だ。


(あの時と、まったく同じ……)


視界が少しだけ揺らいだ気がして、彼女は瞬きを一度だけ深くゆっくりとした。

その瞬間、意識はふっと“過去”へと沈んでいく。


◇ ◇ ◇


――前の人生の、同じ教室。


窓から差し込む光も、机の並びも、少女たちの笑い声も、今と変わらない。

違うのは、リリアンヌ自身の“内側”だけだった。


前の時間軸のリリアンヌは、完璧な姿勢で椅子に座っていた。

背筋は弓のようにまっすぐ、顎はわずかに上げられている。

微笑は、まるで彫像のように崩れない。


床に本を落としたエミリアが、震える声で謝る。


「も、申し訳ありません……!」


貴族少女AとBが、同じように笑い声を漏らす。


「平民は、本ひとつ持つのにも苦労するのね」


「努力すれば身分を越えられる、ですって。

 勘違いもここまで来ると、可哀想だわ」


少女たちの視線が、一斉にリリアンヌへと向く。

教室の“基準”を決めるのは、いつも彼女だった。


リリアンヌ様は、どう思われます?


――その問いかけは、声に出さずとも伝わってくる。


前のリリアンヌは、その期待をよく理解していた。

だからこそ、微笑みを崩さないまま、ほんの少しだけ視線を下げて言う。


「本当の淑女なら――」


エミリアはびくりと肩を震わせる。

教室の空気が、一瞬で張り詰めた。


「人前で慌ててはなりませんわ」


その一言で、笑いは“嘲り”へと形を変えた。

扇子の影で、誰かの口元が意地悪く歪む。

エミリアはかすかに顔を伏せ、落とした本を抱えたまま、小さな声で「はい……」と呟く。


前のリリアンヌは、その様子を見ても心を動かさない。

それどころか――


(これでいいのよ。

 わたくしは、公爵令嬢。

 高みにいる者は、甘さを見せてはならない)


そう自分を納得させるように、さらに微笑を深くしたのだった。


冷たい空気は、その瞬間、決定的な形で教室を支配した。


◇ ◇ ◇


「――」


現在のリリアンヌは、ハッと小さく息を呑んで意識を戻す。


目の前には、同じように本を拾おうとしているエミリア。

同じように笑っている貴族の少女たち。

同じように、教室の空気を決める位置に座っている“自分”。


(あの瞬間、わたくしは、“上に立つ側”を選んだ)


机の下で、幼い手がぎゅっと握られる。

ふっくらとした子どもの指なのに、その内側には、森で凍えた夜の記憶や、乞われて受け取ったスープの温もり、震える老婆の手が確かに息づいている。


(あの言葉を、選んだ。

 誰かを切り捨てるための、正しさの形を)


胸の奥が、ちくりと鋭く痛む。


(今度は――)


リリアンヌは、自分の唇の形を意識する。

“あのとき”と同じ言葉が、反射のように喉元まで上がりかけて――

そこで、彼女はそれを飲み込んだ。


(今度は、あの言葉を、選ばない)


「リリアンヌ様も、そう思われますわよね?」


貴族少女Aが、期待に満ちた目でこちらを見る。

教室の視線が、また一斉に集まる。


――ここが分岐点。


前の人生では、気づくことさえなかった瞬間。

今は、はっきりと見えている。


「……」


リリアンヌは、ゆっくりと息を吸い込んだ。

胸の中で、冷たい空気と、炊き出しの湯気のあたたかさが混ざり合う。


机の下で握られた幼い手に、さらに力がこもる。


(笑って黙ることも、冷たく責めることも――

 どちらも“言葉”になる。

 わたくしは、あの時、沈黙と嘲りを選んだ)


だからこそ、今度は。


(今度は、別の言葉を選ぶ)


彼女は視線をそっと落とし、床に膝をつきかけているエミリアの姿へと向けた。

そのまなざしは、かつての“氷の令嬢”のものではない。

まだ幼い少女でありながら、すでに幾度も人生をやり直した者の、静かな覚悟を宿していた。


教室の小さな笑い声が、さざ波のように広がっていく。


エミリアが胸いっぱいに抱えていた本の山は、少しのバランスの崩れであっけなく床に散らばった。

ぱらぱらと開いたページが、光を受けて白くきらめく。


「またよ」


貴族少女Aが、扇子で口元を隠しながらささやく。


「本さえまともに運べないなんて、淑女の素質がないのね」


「でもあの子、“努力すれば身分を越えられる”と思っているのよ。滑稽だわ」


貴族少女Bが、くすりと笑う。

その笑いは、あくまで上品な音色を装っているのに、刃のように薄く鋭い。


教室の視線が、じわりとひとつの方向に集まっていく。


――リリアンヌへ。


「リリアンヌ様も、そう思われますわよね?」


貴族少女Aの声音には、「そうでしょう?」という確信が滲んでいた。

今までなら、その期待は裏切られたことがない。

完璧な笑顔で場を仕切り、冷ややかな一言で、教室の空気を“決定”する――

それが、彼女たちがよく知るリリアンヌ・ド・ヴェルヌだった。


その視線に晒されながら、リリアンヌは静かに椅子から立ち上がる。


椅子の脚が床をこする、かすかな音。

それだけで、さざめきがぴたりと止む。


期待する笑顔。

同調の微笑。

軽い嘲り。

――そのどれかが、いつもなら彼女の顔に浮かぶはずだった。


だが、今日は違う。


リリアンヌの唇は、微笑の形を取らない。

顎も、わずかに上がらない。

澄ました目元に、冷たい輝きも浮かばない。


その顔は――ただ、まっすぐだった。


「……」


教室の空気が、すっと引き締まる。

誰かが固唾を飲む気配さえ、感じられた。


リリアンヌは、ゆっくりと言葉を選びながら口を開く。


「……わたくしは、そうは思いませんわ」


その一言は大きな声ではなく、しかし教室の隅々にまで行き渡った。

扇子の影で、誰かの指先がぴくりと震える。


「え……?」


貴族少女Aが、思わず間の抜けた声を漏らす。


リリアンヌは、彼女たちを見るでもなく、床に膝をつきかけているエミリアへと視線を落とす。

その瞳には、かつてのような“高みからの冷笑”は微塵もない。


「本を落とすことは、誰にだってありますもの」


声は穏やかだった。

けれど、その奥には、森の夜を越えてきた人間の重さがある。


「“落としたあと、どうするか”で、その人がわかると思いますわ」


短い沈黙が、教室の中央にぽたりと落ちる。


笑い声は、もうどこにもなかった。

代わりに、誰もがどう表情を作ればいいのか分からず、その場に立ち尽くしている。


リリアンヌは椅子の脇をすり抜け、エミリアの傍へ歩み寄った。

床に散らばった本のうち、一冊をそっと拾い上げる。


その仕草は、幼い少女には不釣り合いなほど慎重で、丁寧だった。


「エミリア」


名前を呼ばれ、エミリアはびくりと顔を上げる。

その瞳は怯えと驚きで揺れていたが、そこに“期待”だけは一切なかった。

今までの経験から、この場面で自分に向けられるものが、優しい言葉ではないと知っている目だった。


しかし――


「わたくしも、一緒に運びますわ」


リリアンヌは、淡々と言った。


「本は、大切なものですもの。ひとりで抱えるには、少し多すぎましたわね」


エミリアは、言葉を失ったように瞬きを繰り返す。


「……お、お嬢様……?」


「立てますか?」


リリアンヌは、片手に本を抱えたまま、もう片方の手を差し出した。

細く白いその指は、まだ子供のものだが――

それでも、震えるエミリアの手を受け止めるには十分な温もりがある。


エミリアはおそるおそる、その手を取った。


「……あ、ありがとうございます……」


かすれた声が、教室に溶ける。


その瞬間、教室の空気が、前の人生とはまったく違う方向へと動き始めた。


「リ、リリアンヌ様……?」


貴族少女Aが戸惑いを隠せずに呼びかける。


「でも、その……身分をわきまえない子は――」


「身分をわきまえることと、本を大切に扱うことは、別の話ですわ」


リリアンヌは振り返り、静かに言う。

その声音には、棘がない。

だからこそ、その言葉は鋭く教室に届いた。


「本を落とすことを笑うより、拾ってあげられるほうが、淑女として“美しい”と、わたくしは思いますの」


彼女の顔には、まだ笑みはない。

微笑もうとすれば、過去の自分に引きずられてしまいそうで――

今はただ、真っ直ぐでいたかった。


(今度は、笑って誰かを傷つけない)


(“何も言わない”という残酷な選択を、繰り返さない)


教室の隅で、ひとりの少女がそっと息を吐いた。

別の席では、侍女の子弟が、驚いたように目を丸くしている。


「……そう、ですわね……」


貴族少女Bが、困ったように扇子を閉じる。


「エミリアさん、次は気をつけてくださいませね」


その言葉は、さっきまでの嘲りではなく、ぎこちないながらも“注意”に近いものだった。


エミリアは、小さく頭を下げる。


「はい……気をつけます……」


リリアンヌは、エミリアと共に本を抱え、教室の後ろにある棚まで歩いていく。

その背中は、まだ小さい。

けれど、前の人生で「笑って見過ごした」自分とは、もう別人だった。


(前のわたくしは、この瞬間、何も変えなかった)


(今度は――ほんの少しでも、誰かの記憶の中に“別の選択”を残してみせる)


棚に本を戻しながら、リリアンヌはそっと息を整える。


胸の奥で、いつか森の小屋で聞いた声が、かすかに響いた気がした。


『貴女の物語は――ここからですよ』


(ええ。ここからですわ)


(わたくしは、今度こそ――笑わないで、生きてみる)


誰かを傷つけるための笑顔ではなく、

いつか、本当に誰かを守れる笑顔を、選べるようになるその日まで。



貴族少女たちの視線が、教室の空気の中でゆらゆらと揺れた。


さきほどまで、床に散らばった本を笑いの種にしていた口元が、今は一様に固く閉じられている。


「リリアンヌ様……?」


最初に声を漏らしたのは、貴族少女Bだった。

扇子を持つ手が、かすかに震えている。


「いつもなら……」


その横で、貴族少女Cが囁く。


「“お手本”のように皆をまとめてくださるのに……」


“お手本”――それは、褒め言葉でありながら、同時に彼女たちの中にある「型」の名前でもあった。


高貴で、冷静で、少し冷たくて。

弱さに肩入れすることなく、場を凛と保つ存在。

彼女たちの知るリリアンヌ・ド・ヴェルヌは、そういう役割を一度も外したことがない。


その像が、今、音もなく揺らいでいた。


エミリアを助け、笑わずに本を拾い上げた令嬢。

それは、彼女たちの知る「氷の令嬢」のどこにも当てはまらない。


「……どういうこと、かしら」


誰ともなく漏れた呟きが、教室の真ん中に落ちる。


氷のような畏怖ではなく、

どう扱えばいいのかわからない“困惑”が、その場を満たしていく。


そのとき。


コン、コン。


教室の扉が軽くノックされる音がした。

次の瞬間には、皆の背筋が反射的に伸びる。


「では、続きの講義を始めましょう」


戻ってきた講師が、何事もなかったかのように教壇に立つ。

さきほどのざわめきは、規律の下にあっさり押し込められた。


椅子が一斉にきしみ、視線が前を向く。

だが――その空気は、数分前とは確かに違っていた。


エミリアは、そっと自分の席に戻る。

手の中にある本は、さっきよりもずっと重く感じられた。


(落とした本を拾ってもらえることが、こんなに……)


ページを開こうとする指先が、微かに震える。

彼女は視線を本の上に落としながら、こっそりと前方の席を見上げた。


そこには、背筋を伸ばして座るリリアンヌの後ろ姿。


整えられた金の髪。

真っ直ぐ前を向いた横顔のラインは、いつも通り完璧で、隙がない。

それなのに――さっき本を拾い上げた、その小さな手の温度だけが、妙に現実味を帯びて思い出される。


(どうして、助けてくださったの……?)


エミリアは胸の内で問いかける。


(あの方は、皆の中心で、一番遠い人なのに)


届かない高嶺の花であり、冷たい象徴。

そう思っていた人が、自分と同じ高さにしゃがんで、本を拾ってくれた。


その“高さの変化”を、彼女はまだ言葉にする術を持たない。

ただ、心のどこかで何かがほどけていくのを感じていた。


教壇から講師の声が響く。


「先ほどの章の復習ですが――」


カリカリとペンの音が教室を満たしていく中、

リリアンヌは前を見据えたまま、膝の上で小さく拳を握った。


(“氷の令嬢”と呼ばれる道は……)


胸の奥で、過去の光景がよみがえる。

黙って見ていた場面。

笑って同調した瞬間。

一言で誰かを突き放した記憶。


(こうして作られていったのね)


たった一度の、何でもないように見えた沈黙。

何でもないように笑った一瞬。

そのひとつひとつが重なって、“あのリリアンヌ”が形作られていった。


(さっき、わたくしは――その道から、少しだけ外れた)


ノートに文字を書きながら、心の中で静かに区切りをつける。


選ばなかった言葉。

選ばなかった笑み。

拾わなかった本。

差し出さなかった手。


それらすべてが、“前の人生の軌道”をつくっていたのなら――


(今度は、別の言葉と、別の沈黙を選ぶ)


黒板の文字を写すペン先が、ほんの少しだけ強く紙を押した。

誰も気づかないほどの、ささやかな力。


だが、その小さな力こそが、

「氷」ではなく「揺らぎ」を生む令嬢としての、新しい一歩だった。



屋敷に戻ると、夕陽はすでに西の空を赤く染めていた。


授業用の鞄を侍女に預け、リリアンヌは廊下を歩く。

絨毯の上を進む足音は静かだが、その胸の内には、教室のざわめきがまだ残っている。


「――リリアンヌ?」


ノックをする前に、書斎の扉の向こうから声がした。

母の声だ。


「お入りなさい」


促されて扉を開けると、窓際の椅子に腰かけた母が、閉じかけていた本をそっと膝に下ろした。

柔らかなランプの灯りが、母の横顔を縁取る。


「今日は、学校でなにかあった?」


ストレートな問いかけに、リリアンヌは一度だけ瞬きをした。


(……気づかれている)


いつもの自分なら、「特に変わりございませんわ」と微笑んで済ませるところだ。

決まりきった言葉で、決まりきった報告をして。

“何も問題ない優等生”を演じて終わらせる。


でも今日は、胸のあたりに小さな引っかかりが残っている。

それを、誰かに触れてもらいたいような――そんな、くすぐったい痛み。


「……授業の合間に」


リリアンヌは、少しだけ視線を落としながら口を開いた。


「一人の子が、本を落としてしまいましたの」


母はわずかに首をかしげる。


「まあ、それで?」


続きを急かすようでいて、責める気配のない声音。

安心に包まれた誘導。


リリアンヌは、さきほどの教室の光景を思い出す。


床に散らばる本。

貴族の少女たちの笑い。

視線を集める自分。


「前の……いえ、これまでのわたくしなら……」


言いかけて、言葉を選ぶ。


「その子を咎めて、皆と一緒に笑っていたと思いますわ」


母の瞳が、すっと細くなる。責めているのではなく、よく見ようとする目だ。


「でも今日は……」


リリアンヌは息を吸いなおす。


「笑わないで、ただ本を拾いましたの」


そこまで言って、肩の力が少し抜ける。


「それだけ、ですけれど」


自分で口にしてみると、本当に些細なことに思えてしまう。

誰かを庇い立てしたわけでもない。

勇ましい言葉を叫んだわけでもない。


ただ、笑わなかった。

ただ、本を拾った。


それだけ。


母は、ふっと口元をゆるめた。


「それだけ、ではないわ」


柔らかな否定だった。

リリアンヌは思わず、顔を上げる。


母は本から手を離し、指先を組んで娘をまっすぐ見つめた。


「笑いながら人を裁くのは、たやすいこと」


その言葉は、責めるでも説教するでもない。

ただひどく静かで、真ん中を射抜いてくる。


「でも、笑わずに誰かの隣に立つのは、少し勇気がいるでしょう?」


リリアンヌの胸が、きゅっと縮まった。


(……笑わずに、隣に立つ)


教室でエミリアのそばに歩み寄った瞬間。

こちらを見上げる驚きと戸惑いの瞳。

その周囲で、居心地悪そうに揺れていた貴族少女たちの視線。


確かに、少し怖かった。

いつものように笑ってしまえば、何も揺らがないで済んだのに。


母はそんな娘の心の動きを、読み取ったように目を細める。


「あなたは今日、“強くなる前の顔”をしたのね」


「……強くなる前、の顔?」


リリアンヌは思わず聞き返した。


母はゆっくりと頷く。


「ええ。守られているだけの子どもだった頃の顔とも違うの」


指先で空気をなぞるように、言葉を紡ぐ。


「誰かを守りたいと思い始めた人の顔よ」


空気が、静かに震えた気がした。


守られているだけの子ども。

それは、以前の幼い自分――何も知らず、すべてを与えられていた頃。


“強くなった顔”。

それは、前の人生の終盤、氷のように固まった自分の顔。

誰も寄せつけないことで、自分を壊さないようにしていた顔。


(その間に……“強くなる前の顔”が、あったのね)


誰かの涙に気づいてしまって。

誰かの震える手を見て、何かしたいと思って。

けれどまだ、うまく手を伸ばせない時期。


今、母はその状態を「前」と言った。


――強くなる前。


「……わたくし、そんな顔をしていましたの?」


かすかに震える声で尋ねると、母は微笑んだ。


「ええ。とても、いい顔よ」


そう言われて、リリアンヌは言葉を失う。


胸の奥で、固く結ばれていた何かが、きゅ、と鳴ってほどけていく。


(笑わなかった、ただそれだけなのに……)


今日、自分が選ばなかった笑み。

飲み込んだ冷たい一言。

代わりに差し出した、小さな手。


その全部が、自分の中でまだ定まっていない“何か”を揺らしていた。


母は、そこにそっと名前を与えてくれたのだ。


――誰かを守りたいと思い始めた人の顔。


「リリアンヌ」


呼びかけられ、顔を上げる。


「あなたは間違えたこともあるかもしれないけれど」


母はゆっくりと言う。


「“次は違う選択をする”と決めた瞬間から、人は少しずつ強くなるのよ」


その言葉は、礼拝堂で聞いたあの声や、

森で伸ばされた温かい手の記憶と重なりながら、静かに胸へ落ちていく。


リリアンヌは、そっと唇を結んだ。


そして、かすかに、けれどはっきりと頷く。


「……わたくし、もう少し……笑わないで、立ってみたいと思いますわ」


傷つけるための笑みではなく。

取り繕うための笑みでもなく。


その場から逃げないための、沈黙と視線と、ほんの小さな手の動きで。


母は、その返事を聞いて満足そうに目を細めた。


「ええ。それでいいのよ」


暖かなランプの光に包まれた書斎で、

少女の心に、生まれたばかりの“強さの輪郭”が静かに形を取り始めていた。


夜の帳が、屋敷を静かに包み込んでいた。


子ども部屋の灯りはすでに落とされ、窓辺から差し込むのは、淡い月と星の光だけ。

リリアンヌは小さな足を窓枠に揃え、膝を抱えて座っていた。


ガラス越しに見上げる夜空には、いくつもの星が瞬いている。

かつては、退屈な夜を飾るただの“飾り”だと思っていた光。


今は――どこか遠くの世界と、自分をそっと結んでくれるように感じる。


ふと、掌の中にある感触に意識が向いた。


ぎこちない織り目の、ざらりとした布。

貴族の屋敷には似つかわしくない、粗い布地の小さなハンカチ。


森の夜。

凍えかけた自分の手を包んでくれた、あの温もりの残り香。


「……わたくしは……」


胸の奥で、静かに言葉が形を取る。


「笑って、人を切り捨ててきた」


教室で、舞踏会で、サロンで。

誰かがつまずくたび、誰かが失敗するたび、自分は微笑んでいた。


直接、手を下さなくても。

その場にいるだけで、笑って黙認することで――誰かを、孤立させてきた。


「笑っていれば、何も傷つかないと思っていた」


完璧な笑みは、鎧だった。

誰にも弱みを見せず、誰にも哀れまれず、誰の同情も受け取らないための、冷たい盾。


「本当は、わたくし自身がいちばん……傷ついていたのに」


笑っている限り、自分は“悪女”にも、“氷の令嬢”にもなれる。

そう信じ込んで、その役を演じ続けた。


けれど――森の夜、スープの列、少年の傘、老婆のパン。

あの一つひとつの温もりが、“笑みの下で冷え切っていた自分”を暴いてしまった。


リリアンヌは、そっと目を閉じる。


まぶたの裏に、今日の教室の光景がよみがえる。

床に散らばった本。

うつむくエミリア。

期待するような顔で、こちらを見る貴族の少女たち。


そして――笑わなかった自分。


声にはならない息が、胸の奥でひとつこぼれ落ちる。


「今度は――笑わないで、生きてみよう」


心の中でそう呟くと、静かな決意が、細い身体の芯にすっと通るのを感じた。


「誰かを嘲るための笑みも」


審判のような微笑。

“正しい側”に立つことで、他人を裁くための表情。


「自分を守るための仮面の微笑みも」


本当は怖いのに、平気そうな顔でやり過ごすための笑み。

心が擦り切れていくのを、ごまかすための笑み。


「できるだけ、手放していきたい」


代わりに、何かを得られるかどうかはわからない。

友人かもしれないし、孤立かもしれない。

救われる誰かかもしれないし、傷つく自分かもしれない。


それでも――森で、あの人の手が自分を選んだように。


「その代わりに……」


リリアンヌは指先に少しだけ力をこめる。


「泣いている人の隣で、ただ“黙って立っていられる”わたくしでありたい」


何も気の利いたことが言えなくても。

完璧に場を収められなくても。

ただ隣にいて、本を一緒に拾い上げることくらいは、できるはずだ。


ぎゅっと握られたハンカチが、きし、と小さく音を立てる。


その粗い布の感触は、貴族らしさとは程遠い。

けれど今のリリアンヌにとって、それはどんな宝石よりも“確かなもの”だった。


(あなたが差し伸べてくれた手のように……)


いつか再び、あのぬくもりに辿り着けるだろうか。

彼に、今度の自分を見せることができるだろうか。


「……見ていてくださいますか?」


星空に向かって、誰とも知れない存在に問いかける。


返事はない。

けれど、夜風がカーテンを揺らし、ほんの少しだけ頬を撫でていった。


それはまるで、「ええ」と微笑んでくれた母の手のひらと、

「貴女の物語は、ここからですよ」と告げた彼の声が、

遠いどこかで重なったような気配だった。


リリアンヌはそっと目を開き、もう一度、星空を見上げる。


「今度こそ――笑わないで、生きてみますわ」


誰にも聞こえない、小さな誓い。


粗い布のハンカチを胸に抱きしめたまま、

少女は静かにベッドへ潜り込み、その決意を胸に眠りへと落ちていった。


夜の灯りが落とされ、子ども部屋は静かな暗がりに沈んでいた。


窓辺のカーテンの隙間から、わずかな月光が差し込み、ベッドの縁と枕の端だけを淡く縁取っている。


リリアンヌは布団の中で、仰向けになって目を閉じていた。

胸の上には、いつものように粗い布のハンカチ。小さな両手で、それをそっと包み込むように握っている。


今日一日の光景が、まぶたの裏を静かに流れていく。


教室。

床に落ちた本。

笑う声。

そして――笑わなかった、自分。


(……前とは、違う一日でしたわね)


かつての人生の同じ場面。

あのときは、完璧な微笑みとともに、「本当の淑女なら人前で慌ててはなりませんわ」と言ってしまった。


その一言で、ひとりの少女を“教室の外側”へ押し出した。


けれど今日は――その言葉を選ばなかった。


「……」


暗闇に慣れた耳に、ふっと、遠い記憶のような声が重なる。


――それは、森の夜に聞いた、あの低く穏やかな声。


『貴女の物語は――ここからですよ』


はっきりとした現実の音ではない。

けれど、胸の奥ではっきり響く“記憶の残響”。


リリアンヌは、目を閉じたまま、小さく息を吸い込む。


(ええ)


心の中で、その声に応える。


「ええ。今日、わたくしはひとつだけ――」


暗闇の中で、彼女の唇が、誰にも聞こえないほど小さく動いた。


「“前の人生で選んでしまった言葉”を、選ばずに済みました」


あの教室で。

皆の前で。

“氷の令嬢”への道を固めた一言を、飲み込んだ。


代わりに、ただ本を拾い上げて、隣に立った。


たったそれだけ。

誰が見ても、些細な違いに過ぎないかもしれない。


けれど――


「この小さな違いが、いつか――」


胸の上のハンカチを握る手に、そっと力がこもる。


「――あの方と再び出会う道につながると信じて」


自分を見捨てなかった手。

凍てついた夜に、何の見返りも求めずに差し伸べられた温もり。


その温もりと並ぶ自分でありたい。

胸を張って「また会いたい」と言える自分でいたい。


たとえそれが、遠い未来の話だとしても。


窓の外で、夜空を横切るように、ひとすじの光が流れた。


誰も気づかない、小さな流れ星。

儀礼も祈りも知らないただの光が、まるで彼女の新しい未来をひそやかに祝福するように、空を掠めて消えていく。


リリアンヌは、そのことを知らないまま、静かに微笑んだ“気配”だけを、暗闇に残す。


布団の中で丸くなり、ハンカチを胸に抱きしめながら、ゆっくりと呼吸が穏やかになっていく。


“選ばなかった言葉”が、確かにひとつ。


そのささやかな違いが積み重なって、やがて――

“氷の令嬢になりそこねた令嬢”としての彼女を、新しい物語へと導いていくことを、まだ彼女自身は知らない。


ただ静かな夜だけが、その始まりを見守っていた。



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