二度目の幼少 ―― すべてが懐かしく、すべてが違う。
ふ、と。
意識の底で、なにかが軽く弾むような感覚があった。
胸に貼り付いていた鉛のような重さが、すっとどこかへ溶けていく。
代わりに――どこまでも澄みきった、薄い光のような世界が広がる。
(……ここは?)
瞼を開けたとき、リリアンヌはもう座っていた。
柔らかな感触が、ドレス越しに伝わる。見下ろせば、そこはよく刈り込まれた庭の芝生。
さらり、と風が吹き抜ける。
花壇の薔薇の葉が揺れ、陽光に濃淡の影が落ちる。
彼女は、ゆっくりと瞬きをした。
目の前には、白い木馬が一体。
磨かれた木の体に、淡く剥げかけた金の塗装。
その足元には、小さなティーセットのおもちゃ――手のひらに収まるようなカップとポットが、ちょこんと並べられている。
(……これは)
見覚えがあった。
何度も、何度も遊んだ。
けれど、最後にこれを見たのは――はるか昔のはずだ。
ふわり、と肩口でフリルが揺れる。
リリアンヌは自分の身体に意識を向け、そっと顎を引いた。
身にまとっているのは、子供用に仕立てられた、淡いクリーム色のドレス。
胸元には小さなリボンがいくつも並び、袖口には丸いレース。
膝のあたりでふくらんだスカートが、座り込んだ彼女の周囲に花のように広がっている。
そこまで見て――彼女は、遅れて違和感に気づいた。
「……小さい」
思わず、声に出ていた。
自分の声が、少し高い。
息を吸った胸の上下も、やけに短く、軽い。
「身体が……重心が違う……」
細く呟きながら、両手を持ち上げる。
陽の光が、手の甲に落ちた。
そこにあるのは、森で凍えた夜の、血の気を失った指ではない。
社交界の視線にさらされ続け、やつれと疲れを刻み込まれた手でもない。
ふっくらとした、小さな子供の手。
関節の線はまだ淡く、皮膚はつるりと張りつめている。
大人の時よりも短い指が、ぎこちなく握られ、開かれる。
リリアンヌは、その様子を他人事のように眺めてから、ゆっくりと庭を見渡した。
石畳へ続く小径。
夏を控えた芝生の青さ。
風にきしむ古いブランコ。
陽を受けて柔らかく光る、屋敷の白い壁。
どれも、知っている。
何度、夢に見たことだろう。
何度、二度と戻れないと思い知らされた光景だろう。
「でも――この庭、この木、この匂い……」
胸いっぱいに空気を吸い込む。
若草と土、遠くの花の甘さが混ざった、懐かしい香り。
「全部、知っている」
呟きは、かすかに震えていた。
彼女の瞳に映る世界は、幼い姿に似つかわしくないほど、深く、慎重だ。
まるで、一度すべてを失ってから、もう一度抱きしめるように。
森で凍えた夜の冷たさ。
王宮の玉座の間で浴びた、あの断罪の視線。
婚約破棄を告げる声の震え。
飢えにかじられた腹の痛み。
差し出されたパンの温もり。
凍った指先を包んだ、あの「誰か」の手の熱。
それらは、霧散していなかった。
幼い身体の奥底に、焼き付いた傷のように、そのまま残っている。
(二度目の幼少……?)
リリアンヌは、小さな指をぎゅっと握りしめる。
掌に爪が食い込む、わずかな痛みが、彼女を現実へと引き戻す。
(わたくしは、本当に……)
初めて見るはずの庭で、
初めて着るはずのドレスを身にまといながら――
(“最初から”やり直しているのね)
心の奥でそう言葉にした瞬間、
柔らかな風が吹き抜け、白い木馬のたてがみが、さやりと揺れた。
庭の奥から、風とは違う、柔らかな気配が近づいてきた。
「リリアンヌ。そんなところにいたのね」
その声を聞いた瞬間――胸の奥で、時間が止まった。
ゆっくりと振り向く。
そこに立っていたのは、陽光を背に受けた、一人の女性。
薄い水色のドレスに、上品なレースのショール。
淡い金の髪をゆるくまとめ、その隙間からこぼれる髪が光を受けて透けている。
それは、何度も夢に見て、何度も失ったはずの姿だった。
(……お母様……)
喉が、きゅう、と締め付けられる。
胸の奥から、押し込めていたものが一気に込み上げてくる。
気づいたときには、もう立ち上がっていた。
芝に足を取られながら、幼い足がよろよろと前へ進む。
身体は小さいのに、その一歩一歩に乗る感情は、大人になったあとの重さだ。
「お母様――!」
声が裏返るほどに張り詰めていた。
彼女は勢いのまま、母の胸元へ飛び込む。
「きゃっ」
いつもより強く抱きつかれて、母は少しよろめいた。
しかしすぐに体勢を整え、驚いたように目を瞬かせたあと、くすりと笑う。
「まあ、どうしたの? 今日はずいぶん甘えん坊さんね」
細い腕が、リリアンヌの小さな背を包み込む。
その掌が、そっととんとんと背中を撫でるたび、柔らかな温もりが布越しに伝わってくる。
「寒かったのかしら?」
首筋に触れる声は、低すぎず、高すぎない心地よい高さで――
森の夜に思い出した、あの“手の温度”と同じ、安心の色をしていた。
リリアンヌは、ぐっと唇を噛みしめる。
嗅ぎ慣れた香りが、鼻先をかすめる。
清潔なリネンの匂いと、ほんの少しだけ混ざった花の香油の香り。
それは、病に伏せる前の、まだ元気だった頃の母の匂いだ。
(……本物)
胸の奥で、はっきりとした確信が芽生える。
(夢でも、幻でもない……)
指先で、母のドレスの布地を握る。
指に感じる布の厚み、縫い目の感触。
耳元で聞こえる、母の心臓の規則正しい鼓動。
そのすべてが、「ここにいる」と告げていた。
昔の幼い自分なら、ただ甘えて笑っていたかもしれない。
けれど今、彼女の胸に溢れるのは、懐かしさと喜びと――取り返しのつかなかった悔いだ。
あのとき――。
もっと素直に、もっと言葉にしておけばよかったと、森で何度も噛みしめた後悔。
それが、喉元までこみ上げてくる。
「……お母様」
声が震えて、掠れる。
母は、そっと距離を取るように肩に手を置き、しゃがみ込んで視線を合わせた。
柔らかな灰青の瞳が、まっすぐこちらを覗き込む。
「どうしたの、リリアンヌ?」
その問いかけが、堤防を壊した。
「わたくし……」
幼い体の中で、深く息を吸う。
胸の奥に積もっていた言葉たちが、ようやく順番を得たように喉をこじあけて出てくる。
「わたくし……お母様のこと、大好きですわ……」
一拍、風の音だけが流れた。
母の瞳が、わずかに見開かれる。
次の瞬間、その目尻がやわらかく細まり、唇が優しく綻ぶ。
「まあ」
小さく漏れた驚きの声は、すぐに温かい笑みに溶けた。
「それは、とても光栄ね」
そっと、両手でリリアンヌの頬を包む。
親指の腹で、まだ涙にもなっていない潤みをそっと拭うように撫でる。
「わたしも、リリアンヌのことが――大好きよ」
その言葉が、胸の奥までまっすぐ落ちていく。
かつては、当たり前のように聞き流していたはずの言葉。
もう二度と聞けないと思っていた言葉。
今、その一つ一つが、痛いほど愛おしくて、切ない。
(……やり直す、というのは)
リリアンヌは、母の胸元に額を押し当てながら、そっと目を閉じる。
(こうして、もう一度、言えなかった言葉を言うことなのね)
庭を渡る風が、二人の周りをくるりと巡る。
白い木馬の影が芝に揺れ、小さなティーカップがかちゃりと微かな音を立てた。
懐かしさと、痛みと。
その両方を抱え込んだまま――彼女の「二度目の幼少」は、静かに動き始めていた。
午後の陽射しが、テラスの白いテーブルクロスをやわらかく照らしていた。
小さな銀のポットから、侍女が丁寧に紅茶を注ぐ。
カップの中で、淡い琥珀色の液面がふるりと揺れた。
「熱いから、気をつけてね、リリアンヌ」
母がそう言って、微笑みながらシュガーポットを近づけてくれる。
テーブルの上には、小さな焼き菓子と、花の形をしたビスケットが並んでいた。
幼いリリアンヌは、背凭れに足が届かない椅子にちょこんと座り、両手でカップを持ち上げる。
けれど、その瞳には、年相応とは思えない静かな光が宿っていた。
(……こんな時間も、あったのね)
カップから立ち上る湯気と、一緒に蘇る記憶。
前の人生で、この光景を何度も当たり前のように通り過ぎていたことを、彼女はよく知っている。
少し離れた場所で、若い侍女たちが、盆を片付けながらひそひそと声を交わした。
「お嬢様、最近すこし落ち着いてこられましたわね」
侍女Aが、ちらりとこちらを窺いながら言う。
「前はもっと……わがままで、すぐご機嫌を損ねて――」
「まあ」
隣の侍女Bがくすくすと笑う。
「でも、それも可愛らしいものよ。
お嬢様は、“大きくなったら立派なご令嬢に”と皆が期待しているのですから」
「そうですわね。奥様も、よくおっしゃっていましたもの。
“誇り高きヴェルヌの娘に”って」
その言葉に、リリアンヌの指が、そっとカップの縁で止まる。
(……そう、だったわね)
遠くを見るふりをして、庭の薔薇を眺める。
しかしその視線の先には、咲き誇る花ではなく、過去の自分が映っていた。
(あの頃のわたくしは――)
少しでも気に入らないことがあれば眉をひそめ、
玩具が思い通りにならなければ侍女を困らせた。
(“立派な令嬢でいなければ”と、
誰かの期待に応えることだけを考えていた……)
誇りとは、弱さを見せないこと。
令嬢とは、人前で涙をこぼさないこと。
そう信じて疑わなかった幼い頃の自分が、テラスの片隅に幻のように立っている気がした。
母の声が、ふわりと彼女に戻ってくる。
「リリアンヌ、こちらのビスケットはいかが?」
「あ……ありがとうございます、お母様」
小さな指でビスケットを受け取る。
口に含むと、ほろりと崩れて甘さが広がる。
けれど、その甘さの奥に、別の味が滲んでいた。
(でも今は――)
テラスの陰で、侍女Aがせわしなく盆を抱え直す。
ふと、その手の甲に、小さな傷跡があることにリリアンヌは気づいた。
前の時間軸なら、きっと見えもしなかった細かな傷。
今は、それがひどく胸に引っかかる。
(誰かの期待より、
誰かの涙を見ないようにする自分でありたい)
カップの中で揺れる紅茶に、幼い自分の顔が映る。
その表情はまだあどけないのに、瞳の奥だけが大人びている。
同じ屋敷、同じ庭、同じテラス。
同じ風が吹き、同じようにカップが並び、人々は「立派な令嬢になる日」を当たり前の未来として語る。
だが――世界の見え方は、まるで違っていた。
前の彼女は、この場所で“高く積み上げる誇り”だけを見ていた。
今の彼女は、その土台にある“誰かの小さな痛み”を見てしまう。
母が優しく問いかける。
「どうしたの、リリアンヌ? 今日は少し、静かね」
リリアンヌははっとして、微笑みを作る。
「いいえ……ただ、とても……幸せだと思っていましたの」
「まあ」
母は目を細め、柔らかく笑う。
「それは、わたしにとっても幸せね」
テラスの端で、侍女たちが顔を見合わせる。
「……やっぱり、少し変わられましたわよ。お嬢様」
「ええ。なんだか、前よりも――」
「――本物の“お嬢様”になられたみたい」
その言葉に、リリアンヌは胸の内で、そっと小さく首を振る。
(いいえ。わたくしはもう――
“誰かより上に立つための令嬢”ではなく)
紅茶を一口含み、静かに息を吐く。
(誰かの涙を見過ごさない、“ただの人間”でありたいのですわ)
そう願う心だけは、前とは決定的に違っていた。
母が「少しお部屋に戻ってくるわ」と席を立ち、テラスにはリリアンヌひとりが残された。
風がレースのカーテンを揺らし、庭の薔薇がやさしく首を振る。
銀のティースプーンが、空になりかけたカップの縁で小さく光っていた。
そのとき――
「し、失礼いたします……お嬢様……」
おずおずとした声とともに、ひとりの侍女がテラスに姿を現した。
年の若い、新米の侍女。胸元には、まだ馴染みきらないエプロンの皺が残っている。
彼女は両手で盆を抱え、その上に新しいお茶菓子の皿を載せていた。
緊張のせいか、足取りはぎこちない。
(……この子)
リリアンヌは、その顔に微かな見覚えを感じた。
前の時間軸では、名前さえ覚えようとしなかった少女の一人。
侍女は深く息を吸い、テーブルの傍まで来る。
そして、盆をそっと置こうとした、その瞬間――
カタリ。
皿がわずかに傾き、クッキーが一枚、縁の上で危うく揺れた。
音は本当に小さなものだったが、侍女の肩がびくりと跳ねる。
「ひっ……! も、申し訳ございませんお嬢様!」
少女は顔色を失い、慌てて盆を押さえ込んだ。
目には、今にも泣きそうな怯えと、自分を責める色が浮かんでいる。
――前の時間軸なら。
ここで幼いリリアンヌは、眉をひそめ、冷たい声で言っていた。
“慎みなさい”
“ヴェルヌ家のテーブルで、そのような失態は許されませんわ”
その一言一言が、周囲に「氷の令嬢」と囁かせる種になっていた。
(わたくしは、そうやって……
“当然のように”、人を傷つける側だったのね)
脳裏に浮かぶのは、炊き出しの列で震えていた老婆の手。
焦げたパンを差し出してくれた少年の、細い腕。
スープの温もりが、胸の奥をじんわりと刺したあの日。
リリアンヌは、ふっとまぶたを伏せ、小さく息を吸い込む。
「いいえ。大丈夫ですわ」
静かな声が、テラスに落ちた。
侍女はびくりと顔を上げる。
怒鳴り声でも、叱責の言葉でもないことに気づいて、ぽかんと目を丸くした。
リリアンヌは、ふっくらした幼い自分の指をそっと膝の上で組みながら、続ける。
「落ちていませんもの。ちゃんと、守れましたわ」
「え……?」
「わたくしも、よく物を落として叱られましたもの。
気をつければ、次はきっと大丈夫ですわ」
それは、過去の自分へ向ける言葉でもあった。
侍女の唇が、かすかに震える。
大きな瞳に、光がにじんだ。
「あ、ありがとうございます……お嬢様……!」
彼女は深く、深く頭を下げる。
その背中は、先ほどまでの強張りを少しだけ解かれていた。
リリアンヌは、その小さな変化を見つめながら、心の中でそっと呟く。
(この“ほんの一言”が――
この子の、明日を変えられるかもしれない)
前の人生では、無数の「ほんの一言」で、どれだけ人を傷つけてきたのだろう。
思い返すほどに、胸が冷たく締めつけられる。
(ならば今度は、
同じくらいの数だけ――誰かを救う言葉を選びたい)
侍女が盆を抱え直し、何度も振り返りながらテラスを去っていく。
その足取りは、さっきより少しだけ軽かった。
テラスには再び静かな時間が戻る。
紅茶の表面に映る自分の顔を、リリアンヌは見つめた。
幼い頬、幼い口元。けれど、その瞳の奥には、森で凍えた夜も、炊き出しの列も、湖の冷たさも――全部が映っている。
(小さな違いが、未来を大きく変えるかもしれない)
そう思うと、胸の奥で、ほんの少しだけ勇気の灯が強くなった気がした。
しばらくして、テラスのカーテンがふわりと揺れた。
「お待たせしてしまったわね、リリアンヌ」
優しい声とともに、母が戻ってくる。
その背後では、侍女たちがそっと行き交いながら、ささやくような視線を交わしていた。
「――ねえ、今のお嬢様、聞こえた?」「あれほど優しく……」
その小さなざわめきは、決して悪意ではない。
驚きと、安堵と、少しの嬉しさが混じった、柔らかな空気。
母は、そうした変化を誰よりも敏感に感じ取る人だった。
椅子に腰を下ろし、向かいに座るリリアンヌの顔をじっと見つめる。
その視線は、飾りではない“本当の心の在り処”を探るように、静かであたたかい。
「リリアンヌ」
「はい、お母様」
「今日は、とても穏やかに笑うのね」
紅茶のカップに映る自分の笑みが、そっと揺れる。
リリアンヌは思わず瞬きをした。
「そう……見えますか?」
母は微笑んだ。
春の陽だまりのように、柔らかく、包み込む笑み。
「ええ。前よりも……なんだか、
“誰かを許した後の顔”をしている気がするわ」
「――っ」
リリアンヌの胸が、どきりと鳴った。
(誰か、というより――
わたくしはまだ、自分を許せてはいないけれど……)
森で凍えた夜。
広場の炊き出しで受け取った一杯のスープ。
“氷の令嬢”と囁かれた自分の噂。
そして、誰かの手を、何度も振り払ってきた過去。
それらはまだ、容易に癒える傷ではない。
けれど、母の前でまで取り繕うことは――もう、したくなかった。
リリアンヌは、小さく息を吸い込み、テーブルの縁にそっと指を添える。
幼い指先が、かすかに震えているのが自分でもわかった。
「お母様」
「なあに?」
「わたくし……今まで、ずいぶんと間違えてきた気がいたしますの」
母の瞳が、すこしだけ見開かれる。
幼い娘の口から出るには、あまりに“重い”言葉。
でもそこにあるのは、自分を責めるだけの悲鳴ではなく――確かに、未来へ向かおうとする意思だった。
「だから、これから少しずつ……やり直してみたいのですわ」
侍女たちの気配が、遠くで静まり返る。
風の音さえ、息を潜めたようだった。
母はしばし黙り、娘の顔をじっと見つめる。
そして、どこか懐かしむように、優しく目を細めた。
「……そう」
その一言のあと、母はそっと手を伸ばし、テーブル越しにリリアンヌの小さな手を包み込む。
温かい。
礼拝堂跡で思い出した、あのぬくもりと同じ温度。
「人はね、リリアンヌ」
母の声は、柔らかく、しかし芯がある。
「人は、間違えるものよ」
その言葉に、リリアンヌの喉がきゅっと鳴る。
礼拝堂の廃墟で、夢の中の母が囁いた言葉と――まったく同じだった。
「でも、“やり直したい”と思える心は、とても美しいの」
テラスに、静かな光が差し込む。
ティーカップの中の茶が揺れ、金色の反射が二人の手の上に踊った。
リリアンヌは、胸の奥で何かが「カチリ」と音を立ててつながるのを感じた。
(あの時、わたくしが聞いた言葉は――
やっぱり、夢なんかではなかったのね)
森で倒れ、礼拝堂で祈り、再び目覚めたこの「二度目の幼少」。
そのすべてが、今この瞬間へと結びついている。
「お母様……」
思わずこぼれた声は、幼子の高さと、大人の深さを同時に含んでいた。
母はただ、微笑んで首を横に振る。
「難しく考えなくていいのよ、リリアンヌ。
少しずつ、“もう一度”を選んでいけばいいの」
包まれた手の温かさが、胸の奥まで沁み込んでいく。
それは、前の人生ではとうに失われてしまったはずのぬくもり。
(今度こそ――この手を、手放さない)
その決意はまだ言葉にはならない。
けれど、彼女の瞳の奥で、確かな光として灯り始めていた。
夕刻。
空の端が、ゆっくりと金色から橙へと溶けていく。
屋敷の窓辺に腰かけたリリアンヌは、両手を膝の上で組み、静かに外を見つめていた。
磨き上げられたガラスの向こうには、よく知った庭が広がっている。
きちんと手入れされた花壇、石畳の小道、白い木馬。
少し離れた芝生には、幼い子どもたちが数人、声を上げて走り回っていた。
近隣貴族の子女たち。
それから、許しを得て一緒に遊んでいる、使用人の子どもたち。
笑い声が、ガラス越しでも届いてくる。
弾けるように無邪気で、世界の残酷さをまだ何ひとつ知らない音。
(……ああ)
リリアンヌは、そっとまぶたを伏せた。
(わたくしも、あんなふうに笑っていたのね。
“何も知らない子ども”として――ただ与えられる側で)
窓に映る、自分の幼い顔。
ふっくらとした頬、まだ細くなりきっていない首筋。
けれど、その瞳の底には、森の闇も、凍てつく夜も、婚約破棄の宣告も――全部が沈んでいる。
「……すべてが懐かしい……」
唇から、ふと音がこぼれた。
この屋敷も。
磨かれた床も。
侍女たちの足音も。
廊下に漂う花の香りも。
そして、母の笑顔も。
「この屋敷も、この空気も、お母様の笑顔も」
ひとつひとつ、言葉にして確かめるように紡ぐ。
「でも――すべてが違って見える」
胸の奥で、静かに何かが反響した。
以前の幼いリリアンヌは、この景色を“当たり前”だと思っていた。
食卓に並ぶ料理も、用意されたドレスも、自分のために動く人々の労力も――ただ“当然”のものとして受け取っていた。
けれど今は違う。
「わたくしはもう、“知らない子供”ではないから」
窓に映った自分が、少しだけ真剣な顔になる。
「奪われる痛みも、飢える苦しみも、
誰かが差し出してくれたパンの温もりも……知っている」
パン屋の少年が差し出してくれた焦げたパン。
炊き出しの列で受け取った、薄いけれど温かいスープ。
雨の日、傘の少年が肩に差し出してくれた、あの小さな影。
凍えかけた森で、自分の手を包んでくれた、知らない男の掌の熱。
どれも、公爵令嬢だった頃の彼女なら決して触れなかった世界。
そのすべてが、今のリリアンヌの中に“積もって”いる。
「……だから」
指先で、窓ガラスを軽くなぞる。
外の子どもたちの笑顔が、指先の向こうで揺れた。
「だからこそ、今度は違う幼少期を生きたいのですわ」
独りごとのように、少し笑ってみせる。
「この二度目の幼少を、
わたくしは“やり直し”ではなく――」
言葉を区切り、胸の奥でそっと噛みしめる。
「“積み重ね”として生きていきたい」
前の人生で得た痛みも、後悔も、優しさも。
全部なかったことになどしない。
なかったことにしてしまえば、自分が歩いてきた道も、差し出された手も、すべてを裏切ることになるから。
それらを抱えたまま、もう一度歩く。
同じ庭を、同じ屋敷を、同じ人々を――違う心で見つめながら。
(これは、“二度目の幼少”――
でも、ただのやり直しではありませんわ)
窓の向こうで、子どもたちが笑いながら転び、誰かがその手を引き起こす。
(わたくしも、今度こそ。
誰かを突き放すのではなく、その手を取る側でありたい)
そんな小さな決意が、夕暮れの光の中で静かに形を結ぶ。
すべてが懐かしく、すべてが違う。
その矛盾こそが、リリアンヌの“第二の人生”の始まりだった。
夜の帳が、屋敷をそっと包み込んでいた。
子ども部屋の天蓋ベッドの中で、リリアンヌは小さな身体を毛布にくるみ、静かに横たわっている。
窓の外では、虫の声がかすかに鳴き、遠くで時計塔が時を刻む音がした。
枕元には、場違いなほど素朴な布切れがひとつ。
この屋敷のどこにも似合わない、粗い織りのハンカチ。
それを、幼いリリアンヌの手がぎゅっと握りしめていた。
指先に残るのは、森の夜の冷たさ――
そして、その冷たさを溶かしてくれた、あの温かな手の記憶。
(……わたくしはもう)
瞳を閉じたまま、心の中で言葉を結ぶ。
「わたくしはもう、同じ道を繰り返さない」
胸の奥で、ゆっくりと決意が形を取っていく。
「あの婚約の日々も、王都の噂も、森の夜も……」
婚約者の冷たい宣告。
“氷の令嬢”と囁かれた視線。
飢えと孤独に震えた路地裏。
そして、凍りついた森の中で、ただ一つ差し伸べられた手の温もり――。
「すべてを知ったうえで、別の選択をしてみせるわ」
小さく、けれどはっきりとした意思が、幼い胸に宿る。
そのとき、ふっと耳の奥で、懐かしい声が響いたような気がした。
『貴女の物語は――ここからですよ』
焚き火の前で聞いたような、低く穏やかな男の声。
現実か、ただの記憶の残響かはわからない。
けれど、その言葉は、今も確かに彼女を支えている。
リリアンヌは、薄闇の中でかすかに微笑んだ。
「ええ。ここからですわ……」
子どもの声でありながら、その響きには“前の人生”を知る女の芯がある。
「“二度目の幼少”から始まる、わたくしの物語」
粗い布のハンカチを、もう一度強く握りしめる。
それは、森で出会った“彼”と、この世界をつなぐ唯一の証のように思えた。
やがて、まぶたの裏に、まだ訪れていない未来の影が霞のように浮かぶ。
――再び訪れる婚約の日々。
――かつてとは少し違う選択肢の数々。
――そして、どこかで必ず交わるはずの、“あの手”との再会。
それらをぼんやりと感じながら、リリアンヌの意識は、ゆっくりと眠りの底へ沈んでいく。
二度目の幼少。
そこから、彼女の第二の時間軸がもう一度動き出す。
やがて、婚約者との関係も、王都の運命も、そして森で出会う“彼”との物語も――前とは違う旋律で奏でられていくのだろう。
そのことを、まだ彼女自身は知らない。
ただひとつ知っているのは、
——もう、同じ終わり方だけはしない、ということだけだった。




