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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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二度目の幼少 ―― すべてが懐かしく、すべてが違う。

 ふ、と。


 意識の底で、なにかが軽く弾むような感覚があった。


 胸に貼り付いていた鉛のような重さが、すっとどこかへ溶けていく。

 代わりに――どこまでも澄みきった、薄い光のような世界が広がる。


(……ここは?)


 瞼を開けたとき、リリアンヌはもう座っていた。

 柔らかな感触が、ドレス越しに伝わる。見下ろせば、そこはよく刈り込まれた庭の芝生。


 さらり、と風が吹き抜ける。

 花壇の薔薇の葉が揺れ、陽光に濃淡の影が落ちる。


 彼女は、ゆっくりと瞬きをした。


 目の前には、白い木馬が一体。

 磨かれた木の体に、淡く剥げかけた金の塗装。

 その足元には、小さなティーセットのおもちゃ――手のひらに収まるようなカップとポットが、ちょこんと並べられている。


(……これは)


 見覚えがあった。


 何度も、何度も遊んだ。

 けれど、最後にこれを見たのは――はるか昔のはずだ。


 ふわり、と肩口でフリルが揺れる。

 リリアンヌは自分の身体に意識を向け、そっと顎を引いた。


 身にまとっているのは、子供用に仕立てられた、淡いクリーム色のドレス。

 胸元には小さなリボンがいくつも並び、袖口には丸いレース。

 膝のあたりでふくらんだスカートが、座り込んだ彼女の周囲に花のように広がっている。


 そこまで見て――彼女は、遅れて違和感に気づいた。


「……小さい」


 思わず、声に出ていた。


 自分の声が、少し高い。

 息を吸った胸の上下も、やけに短く、軽い。


「身体が……重心が違う……」


 細く呟きながら、両手を持ち上げる。


 陽の光が、手の甲に落ちた。

 そこにあるのは、森で凍えた夜の、血の気を失った指ではない。

 社交界の視線にさらされ続け、やつれと疲れを刻み込まれた手でもない。


 ふっくらとした、小さな子供の手。


 関節の線はまだ淡く、皮膚はつるりと張りつめている。

 大人の時よりも短い指が、ぎこちなく握られ、開かれる。


 リリアンヌは、その様子を他人事のように眺めてから、ゆっくりと庭を見渡した。


 石畳へ続く小径。

 夏を控えた芝生の青さ。

 風にきしむ古いブランコ。

 陽を受けて柔らかく光る、屋敷の白い壁。


 どれも、知っている。


 何度、夢に見たことだろう。

 何度、二度と戻れないと思い知らされた光景だろう。


「でも――この庭、この木、この匂い……」


 胸いっぱいに空気を吸い込む。

 若草と土、遠くの花の甘さが混ざった、懐かしい香り。


「全部、知っている」


 呟きは、かすかに震えていた。


 彼女の瞳に映る世界は、幼い姿に似つかわしくないほど、深く、慎重だ。

 まるで、一度すべてを失ってから、もう一度抱きしめるように。


 森で凍えた夜の冷たさ。

 王宮の玉座の間で浴びた、あの断罪の視線。

 婚約破棄を告げる声の震え。

 飢えにかじられた腹の痛み。

 差し出されたパンの温もり。

 凍った指先を包んだ、あの「誰か」の手の熱。


 それらは、霧散していなかった。


 幼い身体の奥底に、焼き付いた傷のように、そのまま残っている。


(二度目の幼少……?)


 リリアンヌは、小さな指をぎゅっと握りしめる。

 掌に爪が食い込む、わずかな痛みが、彼女を現実へと引き戻す。


(わたくしは、本当に……)


 初めて見るはずの庭で、

 初めて着るはずのドレスを身にまといながら――


(“最初から”やり直しているのね)


 心の奥でそう言葉にした瞬間、

 柔らかな風が吹き抜け、白い木馬のたてがみが、さやりと揺れた。


 庭の奥から、風とは違う、柔らかな気配が近づいてきた。


「リリアンヌ。そんなところにいたのね」


 その声を聞いた瞬間――胸の奥で、時間が止まった。


 ゆっくりと振り向く。


 そこに立っていたのは、陽光を背に受けた、一人の女性。

 薄い水色のドレスに、上品なレースのショール。

 淡い金の髪をゆるくまとめ、その隙間からこぼれる髪が光を受けて透けている。


 それは、何度も夢に見て、何度も失ったはずの姿だった。


(……お母様……)


 喉が、きゅう、と締め付けられる。

 胸の奥から、押し込めていたものが一気に込み上げてくる。


 気づいたときには、もう立ち上がっていた。


 芝に足を取られながら、幼い足がよろよろと前へ進む。

 身体は小さいのに、その一歩一歩に乗る感情は、大人になったあとの重さだ。


「お母様――!」


 声が裏返るほどに張り詰めていた。


 彼女は勢いのまま、母の胸元へ飛び込む。


「きゃっ」


 いつもより強く抱きつかれて、母は少しよろめいた。

 しかしすぐに体勢を整え、驚いたように目を瞬かせたあと、くすりと笑う。


「まあ、どうしたの? 今日はずいぶん甘えん坊さんね」


 細い腕が、リリアンヌの小さな背を包み込む。

 その掌が、そっととんとんと背中を撫でるたび、柔らかな温もりが布越しに伝わってくる。


「寒かったのかしら?」


 首筋に触れる声は、低すぎず、高すぎない心地よい高さで――

 森の夜に思い出した、あの“手の温度”と同じ、安心の色をしていた。


 リリアンヌは、ぐっと唇を噛みしめる。


 嗅ぎ慣れた香りが、鼻先をかすめる。

 清潔なリネンの匂いと、ほんの少しだけ混ざった花の香油の香り。

 それは、病に伏せる前の、まだ元気だった頃の母の匂いだ。


(……本物)


 胸の奥で、はっきりとした確信が芽生える。


(夢でも、幻でもない……)


 指先で、母のドレスの布地を握る。

 指に感じる布の厚み、縫い目の感触。

 耳元で聞こえる、母の心臓の規則正しい鼓動。


 そのすべてが、「ここにいる」と告げていた。


 昔の幼い自分なら、ただ甘えて笑っていたかもしれない。

 けれど今、彼女の胸に溢れるのは、懐かしさと喜びと――取り返しのつかなかった悔いだ。


 あのとき――。

 もっと素直に、もっと言葉にしておけばよかったと、森で何度も噛みしめた後悔。


 それが、喉元までこみ上げてくる。


「……お母様」


 声が震えて、掠れる。


 母は、そっと距離を取るように肩に手を置き、しゃがみ込んで視線を合わせた。

 柔らかな灰青の瞳が、まっすぐこちらを覗き込む。


「どうしたの、リリアンヌ?」


 その問いかけが、堤防を壊した。


「わたくし……」


 幼い体の中で、深く息を吸う。

 胸の奥に積もっていた言葉たちが、ようやく順番を得たように喉をこじあけて出てくる。


「わたくし……お母様のこと、大好きですわ……」


 一拍、風の音だけが流れた。


 母の瞳が、わずかに見開かれる。

 次の瞬間、その目尻がやわらかく細まり、唇が優しく綻ぶ。


「まあ」


 小さく漏れた驚きの声は、すぐに温かい笑みに溶けた。


「それは、とても光栄ね」


 そっと、両手でリリアンヌの頬を包む。

 親指の腹で、まだ涙にもなっていない潤みをそっと拭うように撫でる。


「わたしも、リリアンヌのことが――大好きよ」


 その言葉が、胸の奥までまっすぐ落ちていく。


 かつては、当たり前のように聞き流していたはずの言葉。

 もう二度と聞けないと思っていた言葉。


 今、その一つ一つが、痛いほど愛おしくて、切ない。


(……やり直す、というのは)


 リリアンヌは、母の胸元に額を押し当てながら、そっと目を閉じる。


(こうして、もう一度、言えなかった言葉を言うことなのね)


 庭を渡る風が、二人の周りをくるりと巡る。

 白い木馬の影が芝に揺れ、小さなティーカップがかちゃりと微かな音を立てた。


 懐かしさと、痛みと。

 その両方を抱え込んだまま――彼女の「二度目の幼少」は、静かに動き始めていた。



 午後の陽射しが、テラスの白いテーブルクロスをやわらかく照らしていた。


 小さな銀のポットから、侍女が丁寧に紅茶を注ぐ。

 カップの中で、淡い琥珀色の液面がふるりと揺れた。


「熱いから、気をつけてね、リリアンヌ」


 母がそう言って、微笑みながらシュガーポットを近づけてくれる。

 テーブルの上には、小さな焼き菓子と、花の形をしたビスケットが並んでいた。


 幼いリリアンヌは、背凭れに足が届かない椅子にちょこんと座り、両手でカップを持ち上げる。

 けれど、その瞳には、年相応とは思えない静かな光が宿っていた。


(……こんな時間も、あったのね)


 カップから立ち上る湯気と、一緒に蘇る記憶。

 前の人生で、この光景を何度も当たり前のように通り過ぎていたことを、彼女はよく知っている。


 少し離れた場所で、若い侍女たちが、盆を片付けながらひそひそと声を交わした。


「お嬢様、最近すこし落ち着いてこられましたわね」


 侍女Aが、ちらりとこちらを窺いながら言う。


「前はもっと……わがままで、すぐご機嫌を損ねて――」


「まあ」


 隣の侍女Bがくすくすと笑う。


「でも、それも可愛らしいものよ。

 お嬢様は、“大きくなったら立派なご令嬢に”と皆が期待しているのですから」


「そうですわね。奥様も、よくおっしゃっていましたもの。

 “誇り高きヴェルヌの娘に”って」


 その言葉に、リリアンヌの指が、そっとカップの縁で止まる。


(……そう、だったわね)


 遠くを見るふりをして、庭の薔薇を眺める。

 しかしその視線の先には、咲き誇る花ではなく、過去の自分が映っていた。


(あの頃のわたくしは――)


 少しでも気に入らないことがあれば眉をひそめ、

 玩具が思い通りにならなければ侍女を困らせた。


(“立派な令嬢でいなければ”と、

 誰かの期待に応えることだけを考えていた……)


 誇りとは、弱さを見せないこと。

 令嬢とは、人前で涙をこぼさないこと。


 そう信じて疑わなかった幼い頃の自分が、テラスの片隅に幻のように立っている気がした。


 母の声が、ふわりと彼女に戻ってくる。


「リリアンヌ、こちらのビスケットはいかが?」


「あ……ありがとうございます、お母様」


 小さな指でビスケットを受け取る。

 口に含むと、ほろりと崩れて甘さが広がる。


 けれど、その甘さの奥に、別の味が滲んでいた。


(でも今は――)


 テラスの陰で、侍女Aがせわしなく盆を抱え直す。

 ふと、その手の甲に、小さな傷跡があることにリリアンヌは気づいた。


 前の時間軸なら、きっと見えもしなかった細かな傷。

 今は、それがひどく胸に引っかかる。


(誰かの期待より、

 誰かの涙を見ないようにする自分でありたい)


 カップの中で揺れる紅茶に、幼い自分の顔が映る。

 その表情はまだあどけないのに、瞳の奥だけが大人びている。


 同じ屋敷、同じ庭、同じテラス。

 同じ風が吹き、同じようにカップが並び、人々は「立派な令嬢になる日」を当たり前の未来として語る。


 だが――世界の見え方は、まるで違っていた。


 前の彼女は、この場所で“高く積み上げる誇り”だけを見ていた。

 今の彼女は、その土台にある“誰かの小さな痛み”を見てしまう。


 母が優しく問いかける。


「どうしたの、リリアンヌ? 今日は少し、静かね」


 リリアンヌははっとして、微笑みを作る。


「いいえ……ただ、とても……幸せだと思っていましたの」


「まあ」


 母は目を細め、柔らかく笑う。


「それは、わたしにとっても幸せね」


 テラスの端で、侍女たちが顔を見合わせる。


「……やっぱり、少し変わられましたわよ。お嬢様」


「ええ。なんだか、前よりも――」


「――本物の“お嬢様”になられたみたい」


 その言葉に、リリアンヌは胸の内で、そっと小さく首を振る。


(いいえ。わたくしはもう――

 “誰かより上に立つための令嬢”ではなく)


 紅茶を一口含み、静かに息を吐く。


(誰かの涙を見過ごさない、“ただの人間”でありたいのですわ)


 そう願う心だけは、前とは決定的に違っていた。



 母が「少しお部屋に戻ってくるわ」と席を立ち、テラスにはリリアンヌひとりが残された。


 風がレースのカーテンを揺らし、庭の薔薇がやさしく首を振る。

 銀のティースプーンが、空になりかけたカップの縁で小さく光っていた。


 そのとき――


「し、失礼いたします……お嬢様……」


 おずおずとした声とともに、ひとりの侍女がテラスに姿を現した。

 年の若い、新米の侍女。胸元には、まだ馴染みきらないエプロンの皺が残っている。


 彼女は両手で盆を抱え、その上に新しいお茶菓子の皿を載せていた。

 緊張のせいか、足取りはぎこちない。


(……この子)


 リリアンヌは、その顔に微かな見覚えを感じた。

 前の時間軸では、名前さえ覚えようとしなかった少女の一人。


 侍女は深く息を吸い、テーブルの傍まで来る。

 そして、盆をそっと置こうとした、その瞬間――


 カタリ。


 皿がわずかに傾き、クッキーが一枚、縁の上で危うく揺れた。

 音は本当に小さなものだったが、侍女の肩がびくりと跳ねる。


「ひっ……! も、申し訳ございませんお嬢様!」


 少女は顔色を失い、慌てて盆を押さえ込んだ。

 目には、今にも泣きそうな怯えと、自分を責める色が浮かんでいる。


 ――前の時間軸なら。


 ここで幼いリリアンヌは、眉をひそめ、冷たい声で言っていた。


 “慎みなさい”

 “ヴェルヌ家のテーブルで、そのような失態は許されませんわ”


 その一言一言が、周囲に「氷の令嬢」と囁かせる種になっていた。


(わたくしは、そうやって……

 “当然のように”、人を傷つける側だったのね)


 脳裏に浮かぶのは、炊き出しの列で震えていた老婆の手。

 焦げたパンを差し出してくれた少年の、細い腕。

 スープの温もりが、胸の奥をじんわりと刺したあの日。


 リリアンヌは、ふっとまぶたを伏せ、小さく息を吸い込む。


「いいえ。大丈夫ですわ」


 静かな声が、テラスに落ちた。


 侍女はびくりと顔を上げる。

 怒鳴り声でも、叱責の言葉でもないことに気づいて、ぽかんと目を丸くした。


 リリアンヌは、ふっくらした幼い自分の指をそっと膝の上で組みながら、続ける。


「落ちていませんもの。ちゃんと、守れましたわ」


「え……?」


「わたくしも、よく物を落として叱られましたもの。

 気をつければ、次はきっと大丈夫ですわ」


 それは、過去の自分へ向ける言葉でもあった。


 侍女の唇が、かすかに震える。

 大きな瞳に、光がにじんだ。


「あ、ありがとうございます……お嬢様……!」


 彼女は深く、深く頭を下げる。

 その背中は、先ほどまでの強張りを少しだけ解かれていた。


 リリアンヌは、その小さな変化を見つめながら、心の中でそっと呟く。


(この“ほんの一言”が――

 この子の、明日を変えられるかもしれない)


 前の人生では、無数の「ほんの一言」で、どれだけ人を傷つけてきたのだろう。

 思い返すほどに、胸が冷たく締めつけられる。


(ならば今度は、

 同じくらいの数だけ――誰かを救う言葉を選びたい)


 侍女が盆を抱え直し、何度も振り返りながらテラスを去っていく。

 その足取りは、さっきより少しだけ軽かった。


 テラスには再び静かな時間が戻る。


 紅茶の表面に映る自分の顔を、リリアンヌは見つめた。

 幼い頬、幼い口元。けれど、その瞳の奥には、森で凍えた夜も、炊き出しの列も、湖の冷たさも――全部が映っている。


(小さな違いが、未来を大きく変えるかもしれない)


 そう思うと、胸の奥で、ほんの少しだけ勇気の灯が強くなった気がした。


 しばらくして、テラスのカーテンがふわりと揺れた。


「お待たせしてしまったわね、リリアンヌ」


 優しい声とともに、母が戻ってくる。

 その背後では、侍女たちがそっと行き交いながら、ささやくような視線を交わしていた。


「――ねえ、今のお嬢様、聞こえた?」「あれほど優しく……」


 その小さなざわめきは、決して悪意ではない。

 驚きと、安堵と、少しの嬉しさが混じった、柔らかな空気。


 母は、そうした変化を誰よりも敏感に感じ取る人だった。


 椅子に腰を下ろし、向かいに座るリリアンヌの顔をじっと見つめる。

 その視線は、飾りではない“本当の心の在り処”を探るように、静かであたたかい。


「リリアンヌ」


「はい、お母様」


「今日は、とても穏やかに笑うのね」


 紅茶のカップに映る自分の笑みが、そっと揺れる。

 リリアンヌは思わず瞬きをした。


「そう……見えますか?」


 母は微笑んだ。

 春の陽だまりのように、柔らかく、包み込む笑み。


「ええ。前よりも……なんだか、

 “誰かを許した後の顔”をしている気がするわ」


「――っ」


 リリアンヌの胸が、どきりと鳴った。


(誰か、というより――

 わたくしはまだ、自分を許せてはいないけれど……)


 森で凍えた夜。

 広場の炊き出しで受け取った一杯のスープ。

 “氷の令嬢”と囁かれた自分の噂。

 そして、誰かの手を、何度も振り払ってきた過去。


 それらはまだ、容易に癒える傷ではない。


 けれど、母の前でまで取り繕うことは――もう、したくなかった。


 リリアンヌは、小さく息を吸い込み、テーブルの縁にそっと指を添える。

 幼い指先が、かすかに震えているのが自分でもわかった。


「お母様」


「なあに?」


「わたくし……今まで、ずいぶんと間違えてきた気がいたしますの」


 母の瞳が、すこしだけ見開かれる。


 幼い娘の口から出るには、あまりに“重い”言葉。

 でもそこにあるのは、自分を責めるだけの悲鳴ではなく――確かに、未来へ向かおうとする意思だった。


「だから、これから少しずつ……やり直してみたいのですわ」


 侍女たちの気配が、遠くで静まり返る。

 風の音さえ、息を潜めたようだった。


 母はしばし黙り、娘の顔をじっと見つめる。

 そして、どこか懐かしむように、優しく目を細めた。


「……そう」


 その一言のあと、母はそっと手を伸ばし、テーブル越しにリリアンヌの小さな手を包み込む。


 温かい。

 礼拝堂跡で思い出した、あのぬくもりと同じ温度。


「人はね、リリアンヌ」


 母の声は、柔らかく、しかし芯がある。


「人は、間違えるものよ」


 その言葉に、リリアンヌの喉がきゅっと鳴る。

 礼拝堂の廃墟で、夢の中の母が囁いた言葉と――まったく同じだった。


「でも、“やり直したい”と思える心は、とても美しいの」


 テラスに、静かな光が差し込む。

 ティーカップの中の茶が揺れ、金色の反射が二人の手の上に踊った。


 リリアンヌは、胸の奥で何かが「カチリ」と音を立ててつながるのを感じた。


(あの時、わたくしが聞いた言葉は――

 やっぱり、夢なんかではなかったのね)


 森で倒れ、礼拝堂で祈り、再び目覚めたこの「二度目の幼少」。

 そのすべてが、今この瞬間へと結びついている。


「お母様……」


 思わずこぼれた声は、幼子の高さと、大人の深さを同時に含んでいた。


 母はただ、微笑んで首を横に振る。


「難しく考えなくていいのよ、リリアンヌ。

 少しずつ、“もう一度”を選んでいけばいいの」


 包まれた手の温かさが、胸の奥まで沁み込んでいく。

 それは、前の人生ではとうに失われてしまったはずのぬくもり。


(今度こそ――この手を、手放さない)


 その決意はまだ言葉にはならない。

 けれど、彼女の瞳の奥で、確かな光として灯り始めていた。



夕刻。


 空の端が、ゆっくりと金色から橙へと溶けていく。

 屋敷の窓辺に腰かけたリリアンヌは、両手を膝の上で組み、静かに外を見つめていた。


 磨き上げられたガラスの向こうには、よく知った庭が広がっている。

 きちんと手入れされた花壇、石畳の小道、白い木馬。

 少し離れた芝生には、幼い子どもたちが数人、声を上げて走り回っていた。


 近隣貴族の子女たち。

 それから、許しを得て一緒に遊んでいる、使用人の子どもたち。


 笑い声が、ガラス越しでも届いてくる。

 弾けるように無邪気で、世界の残酷さをまだ何ひとつ知らない音。


(……ああ)


 リリアンヌは、そっとまぶたを伏せた。


(わたくしも、あんなふうに笑っていたのね。

 “何も知らない子ども”として――ただ与えられる側で)


 窓に映る、自分の幼い顔。

 ふっくらとした頬、まだ細くなりきっていない首筋。

 けれど、その瞳の底には、森の闇も、凍てつく夜も、婚約破棄の宣告も――全部が沈んでいる。


「……すべてが懐かしい……」


 唇から、ふと音がこぼれた。


 この屋敷も。

 磨かれた床も。

 侍女たちの足音も。

 廊下に漂う花の香りも。

 そして、母の笑顔も。


「この屋敷も、この空気も、お母様の笑顔も」


 ひとつひとつ、言葉にして確かめるように紡ぐ。


「でも――すべてが違って見える」


 胸の奥で、静かに何かが反響した。


 以前の幼いリリアンヌは、この景色を“当たり前”だと思っていた。

 食卓に並ぶ料理も、用意されたドレスも、自分のために動く人々の労力も――ただ“当然”のものとして受け取っていた。


 けれど今は違う。


「わたくしはもう、“知らない子供”ではないから」


 窓に映った自分が、少しだけ真剣な顔になる。


「奪われる痛みも、飢える苦しみも、

 誰かが差し出してくれたパンの温もりも……知っている」


 パン屋の少年が差し出してくれた焦げたパン。

 炊き出しの列で受け取った、薄いけれど温かいスープ。

 雨の日、傘の少年が肩に差し出してくれた、あの小さな影。

 凍えかけた森で、自分の手を包んでくれた、知らない男の掌の熱。


 どれも、公爵令嬢だった頃の彼女なら決して触れなかった世界。

 そのすべてが、今のリリアンヌの中に“積もって”いる。


「……だから」


 指先で、窓ガラスを軽くなぞる。

 外の子どもたちの笑顔が、指先の向こうで揺れた。


「だからこそ、今度は違う幼少期を生きたいのですわ」


 独りごとのように、少し笑ってみせる。


「この二度目の幼少を、

 わたくしは“やり直し”ではなく――」


 言葉を区切り、胸の奥でそっと噛みしめる。


「“積み重ね”として生きていきたい」


 前の人生で得た痛みも、後悔も、優しさも。

 全部なかったことになどしない。

 なかったことにしてしまえば、自分が歩いてきた道も、差し出された手も、すべてを裏切ることになるから。


 それらを抱えたまま、もう一度歩く。

 同じ庭を、同じ屋敷を、同じ人々を――違う心で見つめながら。


(これは、“二度目の幼少”――

 でも、ただのやり直しではありませんわ)


 窓の向こうで、子どもたちが笑いながら転び、誰かがその手を引き起こす。


(わたくしも、今度こそ。

 誰かを突き放すのではなく、その手を取る側でありたい)


 そんな小さな決意が、夕暮れの光の中で静かに形を結ぶ。


 すべてが懐かしく、すべてが違う。

 その矛盾こそが、リリアンヌの“第二の人生”の始まりだった。


夜の帳が、屋敷をそっと包み込んでいた。


 子ども部屋の天蓋ベッドの中で、リリアンヌは小さな身体を毛布にくるみ、静かに横たわっている。

 窓の外では、虫の声がかすかに鳴き、遠くで時計塔が時を刻む音がした。


 枕元には、場違いなほど素朴な布切れがひとつ。

 この屋敷のどこにも似合わない、粗い織りのハンカチ。

 それを、幼いリリアンヌの手がぎゅっと握りしめていた。


 指先に残るのは、森の夜の冷たさ――

 そして、その冷たさを溶かしてくれた、あの温かな手の記憶。


(……わたくしはもう)


 瞳を閉じたまま、心の中で言葉を結ぶ。


「わたくしはもう、同じ道を繰り返さない」


 胸の奥で、ゆっくりと決意が形を取っていく。


「あの婚約の日々も、王都の噂も、森の夜も……」


 婚約者の冷たい宣告。

 “氷の令嬢”と囁かれた視線。

 飢えと孤独に震えた路地裏。

 そして、凍りついた森の中で、ただ一つ差し伸べられた手の温もり――。


「すべてを知ったうえで、別の選択をしてみせるわ」


 小さく、けれどはっきりとした意思が、幼い胸に宿る。


 そのとき、ふっと耳の奥で、懐かしい声が響いたような気がした。


『貴女の物語は――ここからですよ』


 焚き火の前で聞いたような、低く穏やかな男の声。

 現実か、ただの記憶の残響かはわからない。

 けれど、その言葉は、今も確かに彼女を支えている。


 リリアンヌは、薄闇の中でかすかに微笑んだ。


「ええ。ここからですわ……」


 子どもの声でありながら、その響きには“前の人生”を知る女の芯がある。


「“二度目の幼少”から始まる、わたくしの物語」


 粗い布のハンカチを、もう一度強く握りしめる。

 それは、森で出会った“彼”と、この世界をつなぐ唯一の証のように思えた。


 やがて、まぶたの裏に、まだ訪れていない未来の影が霞のように浮かぶ。

 ――再び訪れる婚約の日々。

 ――かつてとは少し違う選択肢の数々。

 ――そして、どこかで必ず交わるはずの、“あの手”との再会。


 それらをぼんやりと感じながら、リリアンヌの意識は、ゆっくりと眠りの底へ沈んでいく。


 二度目の幼少。

 そこから、彼女の第二の時間軸がもう一度動き出す。

 やがて、婚約者との関係も、王都の運命も、そして森で出会う“彼”との物語も――前とは違う旋律で奏でられていくのだろう。


 そのことを、まだ彼女自身は知らない。

 ただひとつ知っているのは、


 ——もう、同じ終わり方だけはしない、ということだけだった。





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