転生 ―― 目を開けると、見慣れた天蓋があった。
瞼の裏に、まだ、焚き火の赤い残光が揺れていた。
ぱち、ぱち、と薪のはぜる音――
……のはずなのに。
まぶたを押し上げた瞬間、リリアンヌの視界を満たしたのは、
煤けた小屋の梁ではなく、見慣れた**“豪奢な天蓋”**だった。
淡いクリーム色の布地に、金糸で編み込まれた蔦と薔薇の模様。
縁には細かなフリンジが揺れ、その向こうには、朝の光を柔らかく遮るレースのカーテン。
(……え……?)
思考が、そこでいったん止まる。
ゆっくりと瞬きをしても、景色は変わらない。
天蓋の中央には、小さな宝石を模したガラス飾り――
光を受ければ虹色にきらめくその細工を、彼女はよく知っていた。
――彼女が「死んだはずの夜」まで、毎朝見上げていたもの。
(ここは……?)
喉が乾いて、声にならない。
それでも、無意識のうちに身体は上半身を起こしていた。
背中に触れるのは、ふかりと沈み込む羽毛の感触。
さらさらと肌を撫でるシーツは上等な絹で、
顔をかすめるのは、どこか懐かしい香油と石鹸の匂い。
(この香り……公爵家専属の調香師が整えた、寝具用の……)
鼻腔に広がるその匂いが、記憶の底を叩く。
昨夜までいたはずの小屋には、乾いた薪と煙と、
粗末な毛布に染みついた草と土の匂いしかなかった。
それなのに今、ここには――
昔、当たり前のように身を浸していた“貴族の生活の匂い”が満ちている。
視線を巡らせれば、見知らぬはずのない物ばかりが、そこにあった。
壁際には彫刻の施された姿見。
窓辺には、季節の花を挿した陶器の花瓶。
ドレッサーの上には、母から贈られた銀細工のブラシと、小さな香水瓶。
そして――
(……わたくしの部屋……公爵令嬢リリアンヌの、“私室”そのもの……)
胸の内で、ゆっくりと言葉が形を成していく。
けれど、それは現実と噛み合わない。
森で倒れ、凍え、誰かに抱き上げられた“感覚”は、まだ鮮やかに皮膚の下に残っている。
暖炉の前、小さな小屋。
粗い毛布のごわつき、誰かの手の温もり。
あの夜の心細さと、救われたという安堵。
(確かに……あの小屋で、眠ったはずですのに……)
今あるのは、あまりにも違うぬくもり。
柔らかすぎるベッド、過不足なく整えられた室温、
高価なカーテンを透かして差し込む、上品な朝の光。
森の厳しい冷気との落差が、逆に現実味を奪っていく。
布団の上に置いた自分の手が、かすかに震えているのに気づき、
リリアンヌはぎゅっと握り込んだ。
指先に感じるのは、かつて覚えたことのある滑らかさ――
荒れた肌でも、凍えかけた感覚でもない。
(……まるで時間そのものが、どこかで“ひび割れて”……
わたくしだけが、違う場所に滑り落ちたみたい)
小屋で感じていたはずの温もりと、今ここにある豪奢な現実。
その二つのあいだに生じた、目に見えない“ずれ”が、
まるで骨の内側から軋みを立てるように、彼女の意識を揺らす。
「……え……? ここは……?」
ようやく漏れた声は、自分でも驚くほど澄んでいた。
森でかすれた声ではなく、社交界にいた頃の、よく通る令嬢の声音。
その“違和感”が決定的な証拠となる。
小屋の続きとしては、あまりにも不自然な朝。
しかし、この部屋にあるすべては、
“かつての公爵令嬢リリアンヌ”の世界と寸分違わぬものだった。
昨日までの自分の感覚と、今目の前にある光景とのあいだに生じた、
説明のつかない裂け目――
その「時間の齟齬」が、じわじわと彼女の背筋を冷やしていくのだった。
胸の鼓動が、ひとつ大きく跳ねた。
リリアンヌは、ゆっくりと視線を落とす。
絹の上で、掛け布団をつかんでいる自分の手――その指先を、まじまじと見つめた。
「……え?」
思わず、声が漏れる。
そこにあったのは、森を彷徨い、凍え、傷みきった手ではなかった。
爪は綺麗な楕円で、ささくれひとつ見当たらない。
指の節は細く滑らかで、ひび割れた跡も、赤く凍傷めいた痕もない。
肌はうっすらと薔薇色を帯び、張りを湛えた――十代後半の、若い令嬢の手。
昨夜、小屋で感じていた荒れた感触は、どこにもなかった。
震える息を吐きながら、リリアンヌはその手の甲をなぞる。
骨ばって浮き出ていたはずの部分は、程よく肉付きがあり、
飢えや疲労の影は、微塵も読み取れない。
「ち、違う……」
絞り出すような声が、喉から漏れた。
「これは……森で死にかけた時のわたくしの手では、ありませんわ……」
胸の奥が、ぞわりと粟立つ。
彼女は布団を払いのけ、半ば掴むようにして自分の腕や脚に視線を這わせた。
痩せこけたはずの太腿は、ドレス姿を前提に鍛えられた、ほどよい柔らかさと張り。
膝には、転んでついた泥の痕も、最近の打ち身も見当たらない。
足首の皮膚は白く滑らかで、雪に裂かれた傷も、歩き続けてできたマメも消えている。
(……まるで、“あの頃”に戻ったみたい……)
嫌な予感に背中を押されるようにして、彼女はベッドから降りた。
足元には、厚手の絨毯。冷たさは一切なく、ふんわりと足裏を包み込む。
よろめきながらも、壁際の姿見へと歩み寄る。
そこに映った“それ”を見た瞬間――
リリアンヌの呼吸が、音を立てて止まった。
鏡の中に立っていたのは、
> ボロ布のような外套も、凍えた頬も、やつれた目元も持たない、
完璧なまでに整えられた一人の令嬢。
光を受けてさらさらと流れる、淡い金の髪。
ゆるく巻かれたその髪は、寝乱れてさえ上質だとわかる艶を帯びている。
睫毛は長く、瞳は深いラベンダーの色に静かに揺れていた。
頬はうっすらと紅潮し、唇には乾きの亀裂すらない。
どこにも、寒さで荒れた痕跡はない。
スープに並び、路地裏でパンを乞うような日々の影など、一片も刻まれていなかった。
「……これは……」
鏡に手を伸ばす。
指先がガラスに触れ、冷たい感触が現実を主張する。
「……わたくしの“過去の身体”……?」
社交界で「氷の令嬢」と囁かれていた頃、
影絵のように語られていた、公爵令嬢リリアンヌ・ド・ヴェルヌの姿――
その“像”が、今、鏡の中で呼吸している。
傷一つない喉元。
ネックレスの痕さえ残らない鎖骨のライン。
舞台の上に立つために磨き上げられた、美しい容姿そのもの。
(……転生……?)
一瞬、そんな言葉が頭をよぎる。
だが、すぐに首を横に振った。
まったく別の世界に生まれ変わったわけではない。
これは、自分が生きてきたその“場所”と“部屋”であり――
目の前の顔も、確かに自分が知っている“昔の顔”だった。
森で凍え、落ちぶれた「元・公爵令嬢」の身体は、どこにも存在しない。
(違う……これは、“死んで別の世界へ行った”のではなくて――)
思考が、ひりつくような結論へと近づいていく。
(時間が――巻き戻っている。
わたくし自身が、“あの頃”へと引き戻されている……?)
森の小屋で感じた暖炉のぬくもり。
凍った手を包んだ誰かの温度。
「貴女の物語は、まだ終わっていませんよ」と告げた声。
それらすべてが、夢のような遠さでありながら、
確かに彼女の中に“昨日の記憶”として息づいている。
だというのに、身体も部屋も、世界の時間だけが――
違う地点へ巻き戻されてしまったかのように。
鏡の中の少女は、信じられないというように瞳を見開き、
唇をわななかせながら、かすかに呟いた。
「……いったい……いつの、わたくしなのですの……?」
十代後半の、まだ断罪の夜を迎える前の“リリアンヌ”。
その姿で立つ自分自身を見つめながら、
彼女はようやく――
これは“転生”ではない。
時間そのものがねじれ、巻き戻っているのだ。
――その残酷で、同時に途方もなく奇妙な真実に、
指先からゆっくりと触れ始めていた。
部屋の空気が――おかしい。
リリアンヌは鏡から目を離し、ゆっくりと振り向いた。
そこに広がっているのは、見慣れたはずの自分の寝室。
だが、そのどこかに、**「昨日までの自分」**が確かに息づいている気配があった。
視線が、机の上で止まる。
「……っ」
そこには、一通の手紙が置かれていた。
上質な封筒。家の紋章入りの封蝋は、乱暴に割られ、
中から引き抜かれた便箋が、無造作に机に放り出されている。
見覚えがあった。
(この手紙は――)
震える指で、彼女は便箋を持ち上げる。
そこに綴られているのは、王太子からの冷ややかな文言。
婚約者としての立場を利用しているのではないか、
近頃の立ち振る舞いについて慎め、といった内容――
そして最後に、冷たい「忠告」とも「警告」ともつかない一文。
――本来なら、怒りに任せて破り捨てたはずの手紙。
婚約破棄の夜より前、彼女はこの手紙を破り、
紙片を暖炉に投げ込んだ。
その“後悔”を、彼女はよく覚えている。
(なのに……どうして……)
そこにあるのは、破られても燃やされてもいない、
“まだ決断を下す前”の、まっさらな手紙だった。
手がじわりと汗ばむ。
リリアンヌは、視線を机の隅へ滑らせた。
宝石箱がある。
象牙色の小箱。
蓋の縁には繊細な金細工、中央には小さな薔薇の彫刻。
――母から贈られた宝石箱。
彼女は、その箱を見た瞬間、喉の奥がきゅっと締めつけられた。
ゆっくりと蓋を開ける。
中には、柔らかなベルベットの上に、一筋の銀の鎖。
小さな青い宝石をあしらったペンダントが、
朝の光を受けて、わずかに瞬いていた。
母の形見。
王都を追われ、逃げる途中で――
盗賊に襲われた際、奪われてしまったはずのもの。
「……そんなはず……ありませんわ……」
彼女はペンダントをそっと拾い上げる。
感触も、重みも、冷たさも、記憶のとおり。
小さな宝石に、指先が震えながら触れる。
もう二度と手に入らないはずのもの。
あのとき、雪の上に落ちて、二度と見つからなかった光。
それが今、何事もなかったかのように、
**「昨日の続き」**として、ここに存在している。
机、カーテン、窓辺の花。
香水瓶の配置も、開きかけた本のしおりの位置も――
どれもこれもが、“婚約破棄の夜を迎える前”のまま。
まるで、
> 彼女が死へと向かうその直前で、
> 世界の時間だけがそっと巻き戻されているかのように。
リリアンヌは、ペンダントを握りしめた手を見つめながら、
ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……どうして……」
握った手が、かすかに軋む。
「取り戻したはずのものが……」
零れ落ちた言葉は、微かに震えていた。
「全部……ここに、揃っているのですの……?」
雪の中で失ったもの。
断罪の中で捨てられたもの。
自分で破り、燃やし、諦めたはずのもの。
それらがすべて、
> 「まだなにも失っていませんよ」と告げるように
彼女の周りへ整然と並び直している。
これは、夢ではない――と、直感が告げていた。
夢なら、細部はぼやける。
香りや触感、紙のざらつきまでは再現されない。
けれど今、手紙の繊維の感触も、
ペンダントの冷たい重みも、
寝具に染み込んだ薔薇の香りさえも、あまりにも鮮明だった。
(世界は……死んだわたくしを、なかったことにして……)
胸の内で、誰にも聞かれない問いが生まれる。
(それとも――“もう一度、やり直しなさい”とでも……?)
森で聞いた声が、遠い記憶の底から呼び起こされる。
――貴女の物語は、まだ終わっていませんよ。
その言葉と、
死ぬ前の世界が“続いている”この部屋の光景が、
静かに重なり合っていくのだった。
扉の向こうで、軽やかなノックの音がした。
「お嬢様、失礼いたします」
澄んだ声。
リリアンヌが、あまりにもよく知っている声。
返事をするより早く、扉が静かに開き、
端正に身なりを整えた侍女――ソフィが姿を現した。
栗色の髪をきっちりとまとめ、
白いエプロンドレスは皺ひとつない。
その姿は、彼女の記憶の中の「いつもの朝」と寸分違わない。
「……ソフィ?」
名前を呼んだ自分の声が、ひどく心許なく聞こえる。
しかしソフィは、何の違和感も覚えていない様子で、
柔らかな微笑を浮かべて、ベッド脇へ歩み寄った。
「おはようございます、お嬢様。
少しお寝坊でいらっしゃいますわ。体調はお悪くありませんか?」
その口ぶりも、昨日までと変わらない“日常”の一部のようだった。
昨日――。
リリアンヌの胸が、ぎゅっと縮む。
(昨日? ……昨日のわたくしは、あの森で……)
凍える夜。
倒れかけた木立。
冷たい土の感触と、最後に触れた誰かの温もり――
断片的な記憶が、脳裏に鮮烈に蘇る。
けれど今、目の前のソフィの瞳には、
森で倒れた主を案じた形跡など、かけらもない。
当たり前の朝を迎えた人間の、当たり前の表情。
「本日は、午後に殿下とのお茶会がおありですわ。
その前にドレスのお支度と、侍従長様との打ち合わせが――」
さらりと言われた「殿下」という単語に、
リリアンヌの心臓が、びくりと跳ねた。
「……婚約者、殿下?」
自分でも驚くほど、掠れた声が漏れる。
ソフィはきょとんと目を瞬いたあと、小さく微笑んだ。
「ええ。第一王子殿下にございます。
……お嬢様、眠気が残っていらっしゃるのでは?」
その反応に、リリアンヌの背筋を冷たいものが走る。
(違う……違うわ。
殿下は、わたくしとの婚約を――あの夜、玉座の間で……)
鋭く突きつけられた断罪の言葉。
「悪女」「罪」「婚約破棄」の響き。
王宮の大広間で浴びた視線の刃。
すべてが、夢にしては生々しすぎる傷となって、
今も胸の奥を抉っている。
だというのに――。
ソフィは、まるでそんな夜が「まだ訪れていない」かのように、
ごく自然に続ける。
「お嬢様、昨日もお話ししたではありませんか。
本日の茶会で、殿下がお招きになる客人の件……
“地方伯爵家の令嬢たちにも、礼を欠いてはなりません”と」
「きのう……」
喉の奥で、言葉が凍りつく。
(昨日? ……昨日のわたくしは、王都の外れでスープを……
その前は、凍った森で、あの人の手を――)
時間の感覚が、ぐらりと揺れた。
ここにいる自分は、明らかに**“婚約破棄と追放の後”**を知っている。
噂にまみれ、冷たい視線を浴び、
飢え、凍え、祈り、誰かに手を握られたあとのリリアンヌだ。
けれど、部屋の空気も、ソフィの態度も、
机の上の手紙も、宝石箱も――
すべてが、あの断罪の夜の「前日」に戻っている。
「ソフィ……わたくしは、その……」
“もう婚約者ではないのだ”と言いかけて、
言葉が、喉でからりと空転した。
もし、この世界が本当に“死の前日の続き”をなぞっているのだとしたら――
ここでそれを口にすることは、自分自身の狂気の証明になるだけかもしれない。
ソフィは、心配そうにリリアンヌを覗き込んだ。
「お顔色が優れませんわ。
……本日は、ご気分が優れないと殿下にお伝えしましょうか?」
その問いかけもまた、あまりにも“普通”だった。
森で倒れた彼女のための気遣いではない。
いつもの、少し体調が悪い朝の公爵令嬢への、
当たり前の、穏やかな配慮。
(世界が……やり直されている……?)
リリアンヌは、知らず指先に力を込めた。
シーツの上に置かれた自分の手は、やはり若く、傷ひとつない。
死の間際まで握りしめていた“悔い”や“後悔”だけが、
この世界に持ち込まれた唯一の異物のように、胸の奥で疼いている。
「……いいえ」
かすかな声で、彼女は首を振った。
「殿下とのお約束は……そのままにしておいてちょうだい、ソフィ」
ソフィの目が、安堵と共に優しく細められる。
「かしこまりました、お嬢様。
では、朝食とお着替えのご用意をいたしますわ」
深く一礼し、侍女は部屋を出て行く。
扉が閉まる音が、静かに響いた。
残されたリリアンヌは、しばらくその音の余韻を聞いていた。
――世界は、確かに“死の前日”に戻っている。
だが、彼女の心だけは、あの森を通り抜けた後のままだった。
扉が閉まったあとも、しばらくのあいだ――
部屋の中には、ソフィが立っていた気配だけが、淡く残っていた。
リリアンヌは、ゆっくりと自分の両手を見下ろす。
白く、張りのある指先。
関節はまだ華奢で、皮膚にはひび割れひとつない。
深い皺も、凍傷の跡も、荒れた爪もどこにも見当たらない。
まるで、王都の舞踏会に出ていた頃の――
「氷の令嬢」と呼ばれていた時代の手そのもの。
「……夢、では……ないのね」
自分の頬を、そっとつまむ。
軽い痛みが走る。それは、凍えた夜に感じた痛みよりずっと穏やかで、現実的だった。
だが、その穏やかな現実感に反して、胸の奥にはあまりにも鮮烈な記憶が渦巻いている。
森の冷気。
凍てつく風。
崩れかけた礼拝堂で捧げた、あの拙い祈り。
――「もう一度……やり直せるなら……」
崩れたステンドグラスから差し込んだ夕陽。
凍りついた手に触れた、誰かの温もり。
(あれほど……はっきりと、感じたものが……)
リリアンヌは、胸もとをぎゅっと握りしめた。
あの夜、森の中で死にかけた感覚。
足先から奪われていく体温。
孤独に飲み込まれかけた瞬間――差し伸べられた、あの手。
低く穏やかな声が、耳の奥で蘇る。
『貴女の物語は……まだ終わっていませんよ』
焚き火のように暖かい声。
静かでありながら、芯のある、まっすぐな言葉。
そして、小屋の中で聞いた、あの囁き。
『……生きる選択をしてください。
貴女の物語は――ここからですよ』
そのすべてが、夢や幻覚にしてはあまりにも具体的で、
皮膚の内側にまで染み込んでいる。
――にもかかわらず。
今、彼女の身体は「死ぬ前」に巻き戻っている。
部屋も、持ち物も、人間関係も、世界の時間も、
あの断罪の夜の少し前へと、綺麗に巻き戻っている。
ただひとつ、巻き戻らなかったものがある。
彼女自身の「記憶」だけが、すべてを抱えたまま、ここに在るのだ。
(森で倒れたことも……スープの列も……
白鳥の湖も、小さな傘も、崩れた教会での祈りも……)
どれもこれもが、胸の内側で鮮やかに息づいている。
寒さも、空腹も、優しさの痛みも、夜の悪夢も、
ひとつ残らず、忘却に飲まれてはいない。
――だからこそ、この光景は“奇跡”であると同時に、“恐怖”でもあった。
「第二の……人生……」
唇から、震えるように言葉が零れる。
それは、誰かが与えてくれた“やり直し”なのか。
それとも、彼女自身の祈りが呼び寄せた“罰”なのか。
けれど少なくとも、ひとつだけ確かなことがあった。
(あの人は……“いた”)
森で手を伸ばしてくれた男。
小屋で、凍えた体に布団を掛け、
「まだ終わっていない」と言ってくれた声の主。
この時間に巻き戻った世界の中で、
彼がどこかに現実として存在しているということだけは、
不思議な確信となって胸に残っている。
なぜなら、彼の言葉は――
『貴女の物語は……まだ終わっていませんよ』
――まさに今の、この状況そのものだったから。
(これはただの夢や幻ではない……
“わたくしの物語は続いている”という証……)
リリアンヌは、そっと目を閉じる。
身体は若く、傷のない“過去”の姿に戻っている。
けれど心だけは、凍てつく夜と、祈りと、光の崩壊を知ってしまった“後”のまま。
記憶だけが、そのまま引き継がれた、歪な転生。
その歪さが、やがて彼女を救いにも、破滅にも導くかもしれない。
それでも――。
(……あの人が、この世界のどこかにいるのなら)
胸の奥で、小さな光がまたひとつ灯る。
森で差し出された温もりが、たしかに現実に存在すると信じられるなら、
この“やり直し”は、ただの悪い冗談でも、残酷な罰でもなくなる。
それは、彼女にとって――
「もう一度、生きる選択をしなさい」という、世界からの回答のように思えた。
「……わたくしの、第二の人生……」
そっと呟き、リリアンヌは胸もとを押さえる。
そこには、森で死にかけた夜の記憶も、
誰かの手のあたたかさも、母の声も、崩れた世界の光も――
ひとつ残らず、生々しく息づいていた。
それこそが、この“巻き戻った世界”における
彼女だけの武器であり、呪いであり、救いだった。
胸の鼓動が、ひとつ、ふたつと落ち着いていく。
けれど、落ち着ききらない何かが、喉の奥にひっかかったままだった。
リリアンヌは、ふと視線を動かす。
寝台の上――自分の右手のすぐそば、枕元のあたりに、
見慣れた光沢のシーツやレースの間に、ひとつだけ場違いな“色”が紛れ込んでいるのに気づいた。
「……?」
そっと身を乗り出し、その小さな違和感を指先でつまみ上げる。
それは、貴族の寝室には似つかわしくない、
粗い織りの、素朴な布切れ――ハンカチだった。
白とも、生成りとも言い難い、少しくすんだ布地。
糸目が大きく、ところどころに微かなほつれがある。
端は拙いながらもきちんと縫われているが、
刺繍も紋章もない、ただの“生活のための布”。
この部屋に満ちている香油や香水とは違う、
焚き火の煙と、少しだけ乾いた草のような、素朴な匂いがかすかに残っている。
その匂いを吸い込んだ瞬間――
「……っ」
胸の奥が、きゅうっと縮んだ。
思い出す。
森の中の、小さな小屋。
低い天井と、煤のついた梁。
粗末だが清潔にたたまれていた寝具。
そして、自分の凍えた指先を包んでくれた、あのあたたかい手。
(これは……あの小屋で……)
リリアンヌは、震える指で布を撫でる。
ざらり、とした感触が、指先から腕へ、そして心臓へと伝わる。
同じ素材。
同じ縫い目。
同じ、質素であたたかな存在感。
あの夜――
彼が、冷えた自分の手を包み、その上から布をかけてくれたとき、
たしかに感じた布のざらつきと温もりが、今ふたたび蘇る。
「どうして……」
喉がひゅっと鳴る。
この世界の貴族社会に、こんな布はまず置かれない。
侍女たちが使う布ですら、もう少し細かい織りで、端には簡素な刺繍が施されている。
ましてや、
公爵令嬢の私室の寝台に、こんな“ただの布”が無造作に置かれることなど、ありえない。
ありえないはずなのに――。
「どうして……これが、ここに……?」
声に出した瞬間、全身の血の気が引いていくのを感じた。
これは、夢の続きではない。
ただの記憶の残像でもない。
森の夜と、この巻き戻った“過去”の世界が、
どこかで確かにつながっているという、動かぬ証拠。
その事実に、背筋がぞくりと震えた。
(世界は……完全に巻き戻ったわけではない……?)
死ぬ前の部屋。
死ぬ前の身体。
死ぬ前の人間関係。
それらすべてが“元どおり”に戻っているように見えるのに、
この布だけが、森の夜から、そのままここに“持ち込まれている”。
まるで、誰かが――
(“彼”が……)
森で彼女を抱き上げ、
小屋へ運び、
暖炉の火のそばで手を包み、
「生きる選択をしてください」と囁いた、あのとき。
彼と共にあったはずの布が、
時間も場所も歪めて、この寝台の上に残されている。
それは、彼がたしかに“存在していた”という烙印のようであり、
彼女の祈りが世界に刻んだ“綻び”の証拠のようでもあった。
(これは……偶然? それとも――祈りの、答え……?)
リリアンヌは、布を胸もとにそっと抱きしめる。
粗く、温度のない布――のはずなのに、
抱き寄せた瞬間、胸の奥にじんわりとした温かさが広がった気がした。
森で凍えた夜。
礼拝堂で捧げた「もう一度やり直せるなら」という願い。
崩れゆく世界の夢の中で聞いた、母の声。
そして、彼の声。
『貴女の物語は……まだ終わっていませんよ』
今、そのすべてが、この小さな布一枚に結びついている。
世界は、ただ巻き戻されただけではない。
どこかに“断層”があり、
その継ぎ目を縫い合わせるように、この布がそこに置かれている。
(……わたくしの歩いてきた時間は、消えていない)
胸を押しつぶすような安堵と、
足元をすくわれるような恐怖が、同時に込み上げる。
もし、すべてが夢で、
あの夜も祈りも彼の手も、何もかも幻想だったなら――
彼女は、今ここで、元の残酷な日々に戻るしかなかっただろう。
けれど、この布がある。
彼女の、確かな第二の人生の跡が、
この天蓋付きの寝台の上で、静かに存在を主張している。
「……わたくしの物語は……」
リリアンヌは、握りしめた布を見つめながら、かすかに笑う。
「やはり……まだ終わっていませんのね」
その微笑みは、かつて社交界で浮かべていた“完璧な仮面”とはまったく違う。
畏れと戸惑いと――それでも、ほんの少しの期待が混じった、人間らしい表情だった。
粗い布が、彼女の指の中でしわをつくる。
それは、単なる布切れなどではない。
森の夜と、祈りと、彼と、この世界をつなぐ“継ぎ目”。
この布がある限り、
彼女が歩んだ“最初の物語”は決してなかったことにはならない。
そして同時に、これから始まる“二度目の物語”が、
前の人生と切り離された幻想ではなく、
確かに連続した「続き」であることを、静かに示していた。
リリアンヌは、握りしめた布から目を離せなかった。
粗い織り目が、細い指の中でくしゃりとしわをつくる。
綺麗とは言えない。高価でもない。
けれど、その感触は――あまりにも鮮明だった。
森の中。
凍てついた夜気。
消えかけた指先。
そして――あの、驚くほど温かい手。
掌の中の布が、じんわりと熱を帯びていくような錯覚とともに、
胸の奥で、ひとつの声がはっきりと蘇る。
『……生きる選択をしてください。
貴女の物語は――ここからですよ』
「――っ」
短く、息が詰まった。
あの夜、朦朧とした意識の中で聞いた、低く穏やかな声。
焚き火のような、静かなのに決して消えない熱を持った言葉。
それは、死に沈みかけた自分を、
まるで水面の上へ引き上げる手のように、確かに掴んでくれた。
今、その声が、
この絹と金糸に満たされた世界の中で――
再び、彼女の胸奥に響いている。
リリアンヌは、ぐっと布を胸元へ押し当てた。
心臓の鼓動が、その小さな布越しに伝わる。
どくん、どくんと、早まっていく拍動が、
まるでその言葉への答えを、自ら刻みつけているかのようだった。
(生きる選択を――)
それは、あの夜だけのことではなかったのだ。
森で死にかけた自分。
乞う女の涙を見た自分。
路地裏でパンを分け合った自分。
王都の噂に傷つきながら、それでも歩いた自分。
湖で沈みかけ、水の冷たさに救われた自分。
礼拝堂で「やり直したい」と祈った自分。
そのすべてが、今、この天蓋の下へとつながっている。
「……わたくし……」
かすれた声が、喉の奥から漏れた。
口に出すのが、怖い。
もしこれがただの悪い夢なら、
願った瞬間に、すべてが粉々に砕けてしまいそうで。
けれど、
掌の布は、消えなかった。
指先の感触も、胸に響く彼の声も、消えてくれない。
ならば――これは、恐れるべき幻想ではない。
掴み取るべき現実だ。
「……わたくし……やり直せるの……?」
今度は、はっきりと声に出した。
天蓋の向こうにいる誰かに問うように。
崩れた夢の底から見上げた光に問いかけるように。
震える唇から零れた言葉は、
部屋の静寂の中で、驚くほど澄んだ響きを立てた。
かつての“氷の令嬢”が決して口にしなかった種類の願い。
敗北でも、屈辱でもなく――
希望を含んだ問い。
胸の奥に、熱いものがこみ上げる。
「この世界でも……」
言いかけて、彼女はぎゅっと目をつむった。
瞼の裏に浮かぶのは、森の中で感じた手の温もり。
名前も、身分も知らない。
けれど、あの夜、たしかに自分を“見捨てなかった”人。
彼の言葉が、再び、心の中で重なる。
『貴女の物語は――ここからですよ』
その一節が、胸骨の内側に焼きつく。
逃げるための第二の人生ではない。
復讐のためのやり直しでもない。
生きるための、物語の続き。
息を吸う。
肺いっぱいに、懐かしいはずの香油の匂いが満ちる。
だが今、それはもう“窮屈な檻の匂い”ではなかった。
「この世界でも……」
リリアンヌは、ゆっくりと目を開く。
若く、傷一つない自分の指が、粗い布を握りしめているのを見つめながら――
「この世界でも……あの方に……」
声が震える。
それでも、言葉は止まらない。
「もう一度……会える……?」
問いかけた瞬間――胸の奥で、何かが“確かに鳴った”。
答えは、まだ誰もくれない。
天井も、壁も、窓も、ただ静かに彼女を包んでいるだけ。
それでも、リリアンヌにはわかっていた。
この問いを口にできた自分は、
もう昨日までの自分ではないと。
握りしめた布の温もりが、
恐れよりも、期待の方をわずかに大きくしていく。
(もし……もう一度、会えるのだとしたら)
森で差し出された手に、
今度は凍えた本能ではなく、
自分の意志で、しっかりと応えたい。
逃げるためでも、すがるためでもなく。
生きることを選んだ自分として。
胸の奥に、小さな、しかし鋭い確信が灯る。
――“生きろ”という言葉は、あの夜だけのものではなかった。
それは今この瞬間、
巻き戻った世界の中で、再び彼女の背を押している。
リリアンヌは、そっと布を唇に寄せる。
「……ええ。もし許されるのなら――」
誰にともなく、けれどたしかに“誰か”へ向けて、囁く。
「わたくしは、もう一度……生きてみせますわ。
あなたに、胸を張って会えるように。」
その言葉とともに、
彼女の瞳の奥に、先ほどよりもはっきりとした光が宿った。
それはまだ頼りない。
けれど、確かに燃え始めた“再生の灯”。
「貴女の物語は――ここからですよ」
あの声の意味を、
リリアンヌ自身が、ようやく自分の言葉として掴み始めていた。
扉の向こうから、控えめなノックの音がした。
「……お嬢様?」
ソフィの、おずおずとした声が続く。
「本当に、ご体調はよろしいのですか?
殿下がお待ちで――」
殿下。
その呼び名に、心臓がわずかに跳ねた。
かつて、すべてを奪い、すべてを終わらせた存在。
婚約破棄の言葉と共に、彼女の世界を崩壊させた“起点”。
けれど今――リリアンヌは、握りしめた粗い布を見下ろす。
森の夜の温もり。
「生きる選択をしてください」と告げた声。
崩れた世界の瓦礫の上に差し込んだ、新しい朝の光。
すべてが、彼女の中でひとつの線を結んでいく。
(ここからが……“最初の一歩”)
逃げることもできる。
体調不良を理由に会わずに済ませることもできる。
かつての自分なら、きっとそうしていただろう。
けれど――それでは、何も変わらない。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
鏡に映るのは、十代の、完璧な令嬢の姿。
けれど、その瞳の奥に宿る光は、
もう“従順で弱いだけの令嬢”のものではなかった。
「……ソフィ」
リリアンヌは、静かに声をかける。
扉の向こうで、小さな返事が跳ねた。
「は、はいっ、お嬢様」
「会いましょう」
部屋の空気が、かすかに揺れた気がした。
ソフィは一瞬息を飲んだようだったが、それでも職務として問い返す。
「……本当に、よろしいのですか?
殿下とのご予定は、無理にでもお断りできますが――」
以前なら、そこで曖昧に笑って、
“どうにでもしてちょうだい”と逃げるように言っていたかもしれない。
だが今、リリアンヌははっきりと首を振る。
「いいえ」
その一言に、震えはなかった。
彼女はベッドから静かに降り、床に足をつける。
ふわりと広がる寝間着の裾。
身体は若く、軽くなっているはずなのに――
胸の奥には、かつてよりもずっと重い“覚悟”が宿っている。
「殿下には、お会いしますわ」
扉の向こうで、ほっと息をつく気配がした。
だが次に続いた彼女の言葉は、ソフィの予想を易々と裏切る。
「でも――」
リリアンヌは、指先の布を強く握りしめた。
森で差し出された手の温度を、確かめるように。
「昨日までとは違う話を、させていただくわ」
声音は穏やかだった。
けれど、その奥に潜むものは、鋭く強い。
従うための対面ではない。
命じられるための茶会でもない。
自分の意志を告げに行くための、“最初の選択”。
ソフィは、しばし言葉を失ったようだったが、
やがてかすかな感嘆を含んだ声で答える。
「かしこまりました、お嬢様。
では、支度を整えてまいります」
足音が遠ざかっていく。
部屋に静寂が戻ると、リリアンヌは小さく息を吐いた。
(これが……)
震える胸に手を当てる。
(わたくしの、“第二の人生”の最初の一歩……)
恐怖がないわけではなかった。
これから向かう先には、かつて自分を断罪した言葉が待っている。
けれど、あの森の夜を経た今――
彼女はもう、ただ黙って突きつけられるのを待つだけの存在ではない。
礼拝堂で願った。
“もう一度やり直せるなら、逃げないで向き合いたい”と。
その願いに、世界がこうして応えてくれたのなら――
今、背筋を伸ばさずにいてどうするのか。
リリアンヌは、そっと目を閉じる。
『貴女の物語は――ここからですよ』
あの声が再び胸の中で響く。
森で差し出された手。
崩れゆく夢の中で、彼女を落下から引き留めた幻の温もり。
そのすべてが、いま彼女の背中をそっと押している。
「……ええ。見ていてくださいませ」
誰にともなく、そう呟く。
あの“彼”にか、
それとも、もういないはずの母にか。
あるいは、崩れた過去の自分に向けてか。
答えはわからない。
だが、その囁きはたしかに、
未来へ向いた声だった。
リリアンヌは顔を上げる。
天蓋越しの光が、彼女の瞳に反射し、細く強い輝きを宿す。
手の中の粗い布は、
豪奢なこの部屋の中で、唯一“今の彼女”を証明するものだった。
決して元の世界に戻ったのではない。
過去と現在と未来が、一本の線でつながったのだ。
扉の向こうには、
“かつての運命”の続きが待っている。
けれど、そこへ向かって歩き出す足取りは、
もう誰の物語でもない――
彼女自身が選び取る、リリアンヌ・ド・ヴェルヌの物語。
◇ ◇ ◇
こうして、彼女の第二の人生の最初の一歩が始まる。
婚約者との再会が、
過去と決別するための“最初の戦場”になることも。
そしてその先に、
森で凍えた夜、
その手を握ってくれた“あの男”との再会が待っていることも――
このときの彼女は、まだ知らない。




