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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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光 ―― 世界が崩れ、やがて新しい朝が来た。

リリアンヌは、柔らかな寝具に身を沈めていた。

 しかし、その安らぎは夢の中へは届かない。


 ――空が、裂けていく。


 黒い亀裂が夜空を走り、そこから眩しいほどの光が逆流するように漏れ出した。

 光はひとつ、またひとつと飛散し、彼女が知る世界を切り裂いていく。


 石造りの城の回廊が、まるで紙のようにひび割れて砕け落ちる。

 煌びやかな舞踏会のホールが、音もなく崩れ去る。

 母が微笑んだ思い出の庭園が、淡い花弁ごと風に千切られるように消えていく。


「……やめて……」


 夢の中の少女の声は震えていた。

 伸ばした指先のすぐ先で、また一枚、記憶が剥がれ落ちる。


「……わたくしの……世界が……」


 崩れていくのは建物でも景色でもない。

 それは、彼女が積み上げ、しがみつき、時に押しつぶされた――

 過去そのものだった。


 ひとつ失うたび、胸の奥が冷たく空洞になっていく。

 夢の中の世界は、静かに、しかし確実に消滅していった。




夢の世界が瓦礫となって散らばる中、

 そのただ中に――ひと筋だけ、柔らかな光が残っていた。


 形はない。姿も影もない。

 ただ、懐かしい“声”だけがそこにあった。


「――大丈夫。」


 その声音が空気を震わせた瞬間、

 崩れ落ちていた景色が一瞬だけ揺らぎ、色を取り戻しそうになる。


「あなたの中の光は、まだ消えてはいませんよ」


 母の声だった。

 手を伸ばしても触れられず、振り向いても姿は見えない。

 けれど、その響きは幼いころと変わらないまま、

 落ちていく彼女の心をそっと掬い上げる。


 冷たく閉じていた胸の奥に、

 ほんの一滴、ぬくもりが染み込んだ。


 崩れゆく夢の瓦礫の中で――

 その声だけが、彼女を照らす小さな灯だった。


光へ向かって、リリアンヌはそっと手を伸ばした。

 母の声が残した柔らかな輝き――その一滴に触れたくて。


 だが次の瞬間、

 ぱきん と乾いた音を立てて、足元の床が砕けた。


「きゃ――っ!」


 悲鳴を上げる間もなく、身体は虚空へと落ちていく。

 景色は光から闇へ、音は温もりから無音へ。

 支えはどこにもなく、ただ深い闇が彼女を呑み込もうとする。


 ――そのときだった。


 闇の中から、温かい手が伸びてきた。


 ひどく懐かしい、けれど最近触れたような……

 そう、あの森で凍えた彼女の手を包んでくれた“彼”の感触。


 幻だとわかっていても、

 その手は力強く、優しく、彼女を引き留めようとした。


(……もう……落ちなくていい……)


 言葉にならない声が響いた気がした。


 その温もりを確かめた瞬間――

 夢はふっと途切れ、闇が音もなく閉じた。


 闇がふっとほどけたあと、

 まぶたの裏に、やわらかな金色が滲んだ。


 ――ひなたのような光。


 リリアンヌは、重い瞼をゆっくりと開いた。


 天井は木の梁、窓辺には白い朝靄。

 暖炉にはまだ赤い火が残り、部屋全体がほんのりと温かい。

 森で凍え、冷え切っていた身体が嘘のように、

 ぬくもりに包まれていた。


「……朝……?」


 かすれた声が、誰もいない空気に溶ける。


 窓から差し込む朝の光が、

 彼女のほどけた銀髪に柔らかな輝きを落とした。

 光はゆっくりと彼女の頬をなぞり、

 夢の残滓に沈んでいた心まで、そっとあたためていく。



しばらく、リリアンヌはただ天井を見つめていた。

 夢の残滓は、まだ胸の奥に静かに張りついている。


 ――ひび割れた空。

 ――崩落していく世界。

 ――自分の存在さえ、砂のように消えていったあの感覚。


 それは過去そのものの象徴。

 すべてを失ったときの、心の底に刻まれた崩壊。


 けれど。


 窓辺から流れこむ朝の光は、

 その暗い残像をやさしく押し流していく。


 暖かい。

 眩しいほどに“生”の色をしている。


 リリアンヌは指先を胸に添え、

 ゆっくりと息を吸い込んだ。


「……世界は……終わっていなかった……」


 小さく震える独白が、

 まるで新しい命の鼓動のように部屋に広がる。


 夢の中で崩れた世界の“続き”が、

 確かにここにある。

 朝の光も、温もりも、呼吸も――

 すべてが、彼女がまだ“生きている”ことを告げていた。


 この気づきは、まだ弱々しいけれど、

 彼女の再生の根幹となって、

 静かに、しかし確かな力で根を伸ばし始めていた。


静まり返った小屋の中に、

 ――コン、コン、と規則正しい衝撃音が届いた。


 薪を割る、重くて安定したリズム。

 ひとつひとつが、胸の奥に残る不安を

 そっと押し鎮めてくれるようだった。


 リリアンヌは、掛け布を胸元まで引き寄せながら

 かすかに息を呑む。


 外に……誰かがいる。

 昨夜、自分を抱えて走った温かな腕の主。


 夢の中の幻ではなく、

 壊れた記憶の残像でもなく、

 実際に彼女を救い、ここへ運んでくれた“誰か”。


 薪を割る音がまたひとつ響く。

 その確かなリズムに合わせるように、

 胸の鼓動が少しずつ落ち着いていく。


「(あの声……あの手……本当に……)」


 リリアンヌの心の奥のつぶやきは、

 驚きとも安堵ともつかない震えを帯びていた。


 昨夜、闇から引き上げてくれた温もりは――

 確かに“現実”として、小屋の外に存在していた。


窓辺から差し込む朝の光が、

 そっと彼女の頬へ触れた。


 その温かな一条が、

 まだ冷え切った胸の奥へ、ゆっくり染み込んでいく。


 リリアンヌは、かすかにまばたきをした。

 その瞬間、彼女の表情に――

 本当に微細な、けれど確かな変化が生まれる。


 安堵。

 それは儚く、消えてしまいそうなほど小さな揺らぎ。

 けれど、久しく彼女の心には存在しなかったもの。


 暖炉の残り火、朝の光、薪を割る音。

 すべてが「生」という静かな現実の証拠となり、

 彼女の内側で凍っていた何かが、

 ようやく、少しだけ溶けた。


「……ありがとう、と……言わなければ……」


 声にはならない。

 喉はまだ痛み、体は鉛のように重い。

 それでも――言いたいと思った。


 誰かに向かって、

 あの温かい手の主に向かって、

 たった一言の感謝を伝えたい。


 その願いが胸に灯った瞬間、

 ようやく彼女の“再生”が始まったのだと、

 光が静かに告げていた。



暖かな光の中で、リリアンヌはそっと上体を起こした。

 まだ体は震える。

 力はほとんど戻っていない。


 それでも――昨日の、あの凍える孤独とはまったく違った。


 窓から差し込む光が、細かな粒子となって室内を舞う。

 木造の壁に反射し、床に淡い模様を刻み、

 まるで世界そのものが、

 「おかえり」

 と彼女を迎え入れているように見えた。


 心の奥に浮かんだ言葉が、

 自然と胸の中で形を成す。


「世界は……一度、崩れた。

 けれど――光は、その瓦礫の上にも必ず差し込むものなのね」


 かすかな息とともに、その思いが溢れた。


 その光の先に――

 昨日まで知らなかった“続き”がある。

 自分の人生の、新しい道が始まろうとしている。


 外から、薪を置く音がした。

 重く優しい生活の気配。


 彼女を救い、

 その手で温もりを戻してくれた人物が、

 この小屋のすぐ外に“確かにいる”。


 リリアンヌは胸に手を当て、

 微かな緊張と、同じほどの期待を抱いた。


(……会わなければ。

 きちんと、この命をつないでくれた方に)


 光が彼女の背を押すように揺れる。


 ――次の瞬間、扉の向こうで誰かが静かに動いた。


 新しい朝は、

 彼との本当の対面へとつながっていく。




 まるで――

 新しい一日の始まりそのものが、

 彼女の再生を祝福しているかのように。




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