声 ―― 「貴女の物語は、まだ終わっていません」
意識の縁で、小さな灯がゆらめいている。
リリアンヌは、そのか細い光を追うように、ゆっくりと瞼の裏を揺らした。
柔らかい感触が背中にある。布の擦れる音。
わずかに腕を動かそうとすると、氷のように重たい。
けれど、指先だけがかすかに震えた。
次いで、耳に届くのは――薪がぱちりとはぜる乾いた音。
暖炉の火が生きている。
ふんわりとした温もりが、先ほどまで身体を支配していた死の冷たさを押し返していく。
(……あたたかい……)
その感覚が信じられなくて、胸の奥がじんと痛んだ。
森で凍えた夜の感触が、まだ皮膚に張り付いている。
“誰かが助けてくれた”
そんな当たり前の推測すら、今の彼女には夢のようにぼやけていた。
どこか遠く、霧の向こうから聞こえてくる声のように、
思考がはがれ落ちていく。
それでも、唇だけが震える。
「……ここは……?」
自分でも驚くほど弱い、か細い囁きだった。
声になったのかどうかすら曖昧なほどに。
それでも――その問いは、確かに空気を震わせた。
意識はまだ深い霧の底に沈んでいた。
温度だけが、確かに現実と夢の境目を教えてくれる。
先ほどまで身体を蝕んでいた冷たさは、もうどこにもなかった。代わりに、ゆるやかな暖かさが頬を包んでいる。
リリアンヌのまつげは震えた。けれど瞼は重いまま、うっすらと閉じた世界はひらかない。
そのとき――。
「……大丈夫。もう、凍えてはいない……」
男の声が、遠くとも近くともつかないところから、そっと降りてきた。
柔らかく、低く、静かに燃える薪の音のような響き。
その声だけが、ぼやけた世界のなかでひどくはっきりしていた。
胸の奥に落ちてくる。
凍えてはいない。
本当に?
リリアンヌは確かめたくて、指先をわずかに動かした。ゆるやかな布の感触が触れる。それは、冷たい地面の荒い土や氷の感触とはまるで違うものだった。
――誰かが助けてくれた。
そう理解するには、まだ思考がゆっくりすぎる。
けれど、あの声だけが、彼女の曖昧な現実に静かに輪郭を与えた。
(……あの人……森で……?)
意識のどこかで問いが浮かぶ。
声に似ている気がした。
あのとき、凍えた手を包んだ温もりと、同じ気配がした。
しかし瞼は重いまま、声の主の姿は見えない。
ただ、その声に含まれる“確かな力”だけが、彼女をこの世界に繋ぎ止めていた。
――焚き火のように。
――祈りのように。
そしてリリアンヌは、まだ名も知らぬその声に、そっと身を預けた。
どれほど時間が流れたのか、リリアンヌにはわからなかった。
ただ、暖炉の揺らめく熱だけが、世界と自分を細い糸でつないでいる。
夢か現か。
その境界に漂う彼女の耳に――あの声が、そっと降りてきた。
「貴女の物語は……まだ終わっていませんよ」
ひどく穏やかで、優しい響き。
なのにその言葉には、慰めの柔らかさよりも、事実を確認するような冷静さがあった。
――まだ終わっていない。
まるで、当然のことを告げるように。
その口調は、彼が彼女の未来をすでに知っていて、
それを“ただ伝えているだけ”のようだった。
リリアンヌの胸が、微かに震えた。
(……わたくしの、物語……)
意識の霞の向こう側へ、彼女は手を伸ばす。
終わりかけたはずの自分の時間が、どこかでまだ続いていると言われた。
その言葉は、凍えた心の奥深くに、灯火のように落ちていく。
――まだ終わっていない。
まるで、彼女の命の一行が、静かにページをめくられたかのようだった。
意識はまだ深い霧の中にあった。
けれど、彼の言葉――「貴女の物語は、まだ終わっていませんよ」――が
ゆっくりと、心の底へ沈んでいくにつれて、
リリアンヌの記憶の扉が静かに揺れはじめる。
幼い頃の、暖かな午後。
母の膝に凭れ、絵本を読んでもらっていたあの幸福な時間。
そのとき、母はたびたび言っていた。
――人はやり直せるものよ。何度だって。
優しく、包み込むような声。
幼い彼女の心を、未来へ押し出してくれた言葉。
今、暖炉の音と混じりながら届く“彼”の声が、
その母の声と重なっていく。
遠いはずの記憶が、現実に滲み出し、
まるで目の前に母が立っているかのように錯覚してしまう。
(……お母様……?)
呼ぶように、すがるように。
リリアンヌの胸の奥で、小さな声が零れた。
まどろみの淵で、彼女は母の面影を追い、
その温かな声に――すがるようにしがみついた。
ふかふかとした布団のぬくもりの中で、
リリアンヌの指先が、かすかに震えた。
ほんの数ミリ――それだけの動き。
けれど、それは確かに“生”が戻りつつある徴だった。
凍りついていた血がゆっくりと温められ、
指先へ、そして身体へと巡りはじめている。
その小さな変化を、傍らの男は見逃さなかった。
ゆっくりと、まるで壊れものに触れるような仕草で、
彼はリリアンヌの手を包み直す。
その手はまだ冷たく、
それでも――もう、あの森の死の気配はない。
「……良かった。気づいているのですね」
低く、柔らかい囁き。
その声には安堵が滲み、
今にも消えてしまいそうな彼女を
必死に繋ぎ止めている気配があった。
凍える孤独から引き戻すように、
男の温もりはそっと彼女の手に寄り添い続ける。
その微かな接触だけで、
リリアンヌは――生きているのだと、はじめて実感した。
意識はまだ深い霧の中。
まぶたは重く、世界は光と影の境目で揺れている。
それでも――
リリアンヌの唇だけが、かすかに動いた。
吐息のような声が零れる。
「……どうして……助け……?」
言葉はつながらず、弱々しい。
それでも、その問いに込められた不安も、戸惑いも、
彼にはしっかり届いたらしい。
男は一瞬だけ息を飲む。
けれど、迷いのない返答が静かに落ちてきた。
「助けたかったからです。それでは、理由になりませんか?」
その声には飾りも、計算もない。
嘘をつく気配も、慰めだけを目的にした温度もない。
ただまっすぐで――
凍りついた心に触れても傷つけない、柔らかな力。
その善意の“芯”に触れた瞬間、
リリアンヌの胸がふるりと震えた。
名も知らぬ誰かの声が、
冷えきった心の奥へ、そっと火を灯すように。
男の指がそっと、リリアンヌの手を包み直した。
その温度は、森で彼女が失いかけた“生”そのもののように、
静かで、深く、じんわりと広がっていく。
冷たさに支配されていたはずの指先から、
胸の奥のどこかまで、ゆっくりと温もりが満ちていく。
(……あたたかい……)
意識の縁に立つリリアンヌは、
その温度にすがるように、わずかに指を動かした。
それに応えるように、男の手が少しだけ強く包み込む。
守るように。
失わせないように。
その安心に満たされながら、
リリアンヌの意識は再び静かに眠りへ沈んでいった。
まるで、眠りこそが“回復”であり、
次に目覚めたとき、何かが変わっていると告げられるように。
薄い灯りの中で、男が彼女を見下ろし、
誰にも聞こえないほど静かな声で呟いた。
「……生きる選択をしてください。
貴女の物語は――ここからですよ」
その言葉は夜の空気に溶け、
火の粉のように淡く揺れながら消えていく。
名前も顔もまだ知らない。
だが――彼が“彼女の物語の鍵を握る人物”であることは、
この一瞬だけで十分すぎるほど伝わる。
そうして、幕が静かに閉じた。
次の章が、息を潜めて待っている。




