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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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凍った手 ―― その手を握る誰かの温もり

夕陽が森の端へ沈みかけ、リリアンヌは祈りの余韻を胸に抱きながら、ゆるやかな帰り道へ足を踏み出した。祭壇の残骸にこびりついていた冷気がまだ身体に残っている気がしたが、それでも心だけはどこか軽く――ほんの少しだけ、前へ進む力が戻っていた。


だが、その温もりは森が一呼吸するたびに奪われていく。


ひゅう、と風が細く鳴く。

次の瞬間、森全体に白い霧がふわりと広がり、足元から冷たさが這い上がってきた。


「……寒い……」


思わず吐いた声は、白い霞になって消えた。


薄手の外套は、ささやかな抵抗にしかならなかった。袖越しでも指先の冷たさは明らかで、少し動かすだけで軋むような痛みが走る。


リリアンヌ(心の声)

「こんなに寒いだなんて……早く戻らなければ……」


けれど思うほど身体は動かない。

祈りに全てを費やした疲労が、足に鉛を流し込んだようにまとわりつく。


ふらり――。


視界が揺れ、つま先が石を踏み損ねる。ぎゅっと体を縮めるが、寒さは容赦なく肩から背へと染み込んでいった。


「……だめ……こんなところで立ち止まったら……」


言葉とは裏腹に、歩みはさらに遅くなる。まるで森そのものが彼女の外套を引っ張り、帰り道へ進ませまいとしているかのようだった。


木々の静けさが耳鳴りを誘い、冷気が肺を刺す。


指先は、もう痛みすら消えかけていた――。


リリアンヌは震える指先を胸元へ寄せ、息を吹きかけようとして――ふと固まった。


「……手袋……?」


青ざめた指を見つめた瞬間、脳裏に祈りの場面が蘇る。

崩れた礼拝堂跡で、跪く前に外した手袋。

祈るときに邪魔だからと、石壇の端にそっと置いた――あれを。


置いてきてしまった。


「……うそ……」


思わず歩みを止め、振り返る。しかし、戻るべき礼拝堂はすでに薄霧の向こう、遠すぎる。疲労した足は、引き返すという選択肢を拒むように重たかった。


冷たい風が頬を打ち、むき出しの指を容赦なく刺す。


リリアンヌ(心の声)

「……なんて間抜けなのかしら……」


そう呟いた声は、情けなさよりも痛みに震えていた。


かつての彼女は違った。

宝石の縁どられた手袋を気まぐれに替え、侍女たちが何枚も予備を持ち歩いていた。

手袋を失くしたところで、笑って済ませられた。

寒さなど、そもそも感じる必要もなかった。


――なのに今は。


薄い布一枚を失くしただけで、命の危険すら感じる。


その現実が胸にじくじくと刺さった。

弱さを認めざるを得ない状況が、痛いほどの孤独とともに心を締め付ける。


足先まで冷たくなっていく。

それでも進むしかないとわかっているのに、身体が思うように動かない。


リリアンヌは唇を噛みしめ、凍えた両手をぎゅっと握り合わせた――

まるで自分で自分を奮い立たせるように。




森の冷気は、もはや肌を刺すというより――骨そのものを掴んで締めつけてくるようだった。


リリアンヌはよろめき、近くの木に手をつこうとしたが、

かじかんだ指はうまく力を入れられず、ほとんど倒れこむように幹へ寄りかかった。


「……っ……」


吐息は白く、荒く、途切れがち。

視界がゆらゆらと波打つ。

木の幹に額を預けたまま、脚の感覚がじわりと消えていくのが分かった。


立っているのか、崩れ落ちているのか――

自分の身体の境界さえ曖昧になっていく。


リリアンヌ(心の声)

「(……わたくし……今……ひとり……?)」


その問いは、言葉として形になる前に、

霧のように胸の中へ沈んでいった。


森には誰もいない。

夕暮れの色も、霧の向こうに薄れてゆく。

助けを求める声を出そうとしても、喉は凍りついたように硬く、震えて音にならない。


胸の奥で広がっていくのは、寒さだけではなかった。


――孤独の恐怖。


それは冷気よりも鋭く、深かった。

凍える体の芯まで入り込み、心を締めあげていくように。


「氷の令嬢」と呼ばれていた頃の記憶がふっとよぎる。


冷たく、隙を見せず、誰にも寄りかからない――

そんな仮面を誇りにさえしていた自分。


でも今は。


本当に冷たく、

本当に凍え、

本当にひとりだった。


「……皮肉ね……」


震える唇が小さく動いた。

かつての“氷”は強さの象徴だったのに。

今の“氷”は、ただの弱く脆い孤独そのものだった。


視界の端がゆっくりと暗くかすみ、

重いまぶたが落ちかける。


その瞬間――

森の冷気がさらに深まったように感じられ、

リリアンヌの身体は、そっと地面へ崩れ落ちた。


乾いた枝が――パキ、と小さく割れる音。


それは、冷たさに沈んでいた意識の底へ、針の先ほどの温度を落とし込むように届いた。


リリアンヌの身体はほとんど動かない。

顔を上げる力も、瞼を完全に開く力も残っていなかった。


けれど、耳だけが反応した。


また一歩。

霧に包まれた森の奥で、確かに誰かがこちらへ歩いてくる。


(……だれ……?)


心の声は弱く、溶けてしまいそうだったが、

足音だけは確かな現実として近づいてくる。


落ち葉を踏む音がすぐ目の前で止まった。


ほんのわずかな気配――

しかしそれは、冬の森ではあり得ないほど“温かかった”。


「……こんなところで、どうしたんだ?」


低すぎず高すぎず、優しげで、驚いたような響き。

若い男――そう分かるだけの余裕は、かすかに残っていた。


顔は見えない。

形も影も、霧の向こうにぼんやりとかすむばかり。


だがその声は、凍りついた世界に差しこむ炎のようだった。


リリアンヌの胸の奥で、

小さく、小さく――氷がひび割れる音がした気がした。



パキ――。


乾いた枝が踏まれ、静まり返った森に小さく響いた。


その音は、凍りつこうとしていたリリアンヌの意識の表面に、

わずかな波紋を描く。


身体はもう動かなかった。

頭を上げる気力も、指一本すら思うように動かせない。


けれど――耳だけが反応した。


(……いまの音……?)


ふらつく意識の奥で、微かな緊張が走る。


また一歩。

そしてもう一歩。


森の奥から近づいてくる足音は、冷え切った夕暮れの空気と不釣り合いなほど、

どこか“温度”を帯びていた。


落ち葉を踏む気配が、彼女のすぐ近くで止まる。


リリアンヌは、霧でぼやける視界のまま、ただその存在を感じ取った。


「……こんなところで、どうしたんだ?」


若い男の声。

驚きと心配が混ざり、だが優しさを含んだ音色。


声だけが、彼女に触れた。


そのあたたかさは、凍えた心臓の奥に小さく火を灯すようだった。


(……あたたかい……声……)


誰なのかは、まだ見えない。

ただ――

世界にたったひとつ残った温もりのように、彼女の意識に染み込んでいった。


薄闇が濃くなるにつれ、世界は白く霞み、

リリアンヌの視界は輪郭を失っていった。


足元の冷えはもう感じない。

寒ささえ、遠い感覚になりつつあったそのとき――


ふいに、指先へ“熱”が触れた。


ほんのひと欠片の温もり。

しかしそれは、凍りついた身体にとって炎のように鮮烈だった。


誰かの手が、そっと彼女の手を包み込んでいる。


(……あたたかい……)


心の中で、言葉がほろりとこぼれる。


その手は迷わなかった。

彼女の冷えきった指を一つずつ確かめるように包み込み、

逃がさぬよう優しく握りしめる。


その温度が、凍って痛むはずだった感覚をゆっくりと溶かしていく。


まるで――

「生きていていい」と告げる証のように。


リリアンヌの喉から、声にならない息が漏れた。


頼りたい。

縋りたい。

いまだけでいいから、この温もりに触れていたい。


彼女は弱々しく、それでもはっきりと、相手の手を握り返した。


その瞬間、かすかに指先が震え、

彼女は確かに“つながった”のだと感じた。


温もりに触れた指先から、

ゆっくりと血が戻るように、世界がほんの少しだけ色を取り戻した。


誰かが、自分の手を握っている――

その事実だけで、胸の奥の張りつめた孤独がふっと緩んでいく。


リリアンヌの頬が、わずかに緩んだ。

その表情は、微笑みとも、安堵の影ともつかないほど儚い。


(……あたたかい……

 こんな温もり、いつから忘れていたのかしら)


瞼が落ちていく。

心も、ゆっくりと眠りの底へ引き込まれていく。


意識が完全に手放されるほんの一瞬前――

唇だけが、小さく震えた。


「……もう……ひとりは……いや……ですわ……」


それは誰に向けた言葉でもなかった。

母でも、過去の誰かでもない。

心の底に沈んでいた“本音”が、零れ落ちただけだった。


その声を聞いた人物は、ふっと息を呑む。

一瞬だけ、沈黙が降りた。


そして次の瞬間、彼女の身体が崩れ落ちないよう、

その腕がしっかりと、だが優しく支える。


「……大丈夫だ。ひとりにしない。」


低く落ち着いたその声は、

意識の遠ざかったリリアンヌには届かなかったが――


確かに彼女の身体を包み込む“温もり”として、

しっかりとそこにあった。



森の冷気が深く沈み込むように満ちる中、

その人物は、倒れかけたリリアンヌの身体をためらいなく抱き上げた。


細い身体は驚くほど冷たく、軽い。

抱えた腕に伝わるその冷えに、彼は小さく息を吸う。


「……こんなになるまで、ひとりで歩いていたのか」


その声は、彼女の耳には届かない。

けれど、抱き上げた腕は揺るぎなく、確かなものだった。


足音が森の静寂を踏みしめるように響く。

一歩、また一歩と、彼は迷わず森の出口へ向かって歩き出す。


木々の影の間を抜けるたび、

月明かりが彼の肩とリリアンヌの髪をかすかに照らした。


彼の顔も、名も、まだ明かされない。

けれど――その歩き方は迷いがなく、

まるで彼女を「届ける場所」を心得ているかのようだった。


腕の中で、リリアンヌの手がかすかに揺れた。

それを落とさないよう、彼はそっと包むように握り直す。


その温もりだけが、闇の中で確かな光のように際立っていた。


「冷たさに沈む手を、引き上げたのは――

 ただの偶然か。

 それとも……祈りの答えか。」


月は静かに照っていた。

彼らを導くように。









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