最後の祈り ―― 「もう一度やり直せるなら……」
湖を離れると、森の空気は途端にひんやりと澄んだ。
リリアンヌは細い獣道のような小径をゆっくりと歩いていく。足取りはまだおぼつかないが、それでも確かに、先ほどまでの沈み込みとは違う「進む」動きがあった。
胸の奥――そこに生まれた小さな光は、まだ頼りなく揺れている。
指先で触れればすぐ潰れてしまいそうな、 fragile な輝き。
森は静かだった。
風が枝葉を揺らすたび、光と影が足元を流れるように移ろっていく。
その度、遠い日の記憶が、ふっと浮かび上がり、また霧散していった。
思い出したくない過去。
それでもどこかで、向き合わねばならないと思っている過ち。
まだ整理できていない無数の後悔。
(……やり直せるなら、わたくしは……どこからやり直したいのかしら)
彼女は心の中でそっと呟いた。
しかし答えは、風に紛れてどこにも見つからない。
歩みは続く。
けれど、胸の中の問いは沈まぬまま、静かに揺れ続けていた。
森の奥へ進むにつれ、空気はどこか懐かしい匂いを帯び始めた。
風が通り抜ける音が少し変わる――それが、リリアンヌには“知っている場所”へ足を踏み入れた合図のように思えた。
木々の間から、ひっそりとそれは姿を現す。
小さな礼拝堂の廃墟。
壁の半分はすでに崩れ落ち、苔むした石と草花が建物の境界を曖昧にしている。
屋根はところどころ抜け、差し込む光が床へ不規則な模様を描いていた。
ふと、足元でキラリと色彩が揺れた。
見ると、壊れたステンドグラスの欠片が夕陽を受け、淡い青や朱色を放っている。
まるで――失われた祈りの残響。
リリアンヌはそっと指先でその欠片に触れた。
冷たい。
けれど、それ以上に胸の奥がきゅっと痛む。
(……ここに、来たことがあるわ)
遠い記憶の扉が開く。
幼い自分の手を引く、優しい母の姿。
森の中を歩くとき、母はいつも歌を口ずさんでいた。
そしてこの礼拝堂で、二人で小さな祈りを捧げた――たった一度きりの、静かなひととき。
懐かしさが胸をあたため、同時に鋭い痛みが心臓を刺す。
(どうして……今になってこんな場所に来たのかしら)
問いが浮かぶ。
しかし答えは出ない。
夕陽だけが、崩れた礼拝堂の中を寂しく照らしていた。
森の奥へ進むにつれ、空気はどこか懐かしい匂いを帯び始めた。
風が通り抜ける音が少し変わる――それが、リリアンヌには“知っている場所”へ足を踏み入れた合図のように思えた。
木々の間から、ひっそりとそれは姿を現す。
小さな礼拝堂の廃墟。
壁の半分はすでに崩れ落ち、苔むした石と草花が建物の境界を曖昧にしている。
屋根はところどころ抜け、差し込む光が床へ不規則な模様を描いていた。
ふと、足元でキラリと色彩が揺れた。
見ると、壊れたステンドグラスの欠片が夕陽を受け、淡い青や朱色を放っている。
まるで――失われた祈りの残響。
リリアンヌはそっと指先でその欠片に触れた。
冷たい。
けれど、それ以上に胸の奥がきゅっと痛む。
(……ここに、来たことがあるわ)
遠い記憶の扉が開く。
幼い自分の手を引く、優しい母の姿。
森の中を歩くとき、母はいつも歌を口ずさんでいた。
そしてこの礼拝堂で、二人で小さな祈りを捧げた――たった一度きりの、静かなひととき。
懐かしさが胸をあたため、同時に鋭い痛みが心臓を刺す。
(どうして……今になってこんな場所に来たのかしら)
問いが浮かぶ。
しかし答えは出ない。
夕陽だけが、崩れた礼拝堂の中を寂しく照らしていた。
礼拝堂跡の中央、光の差し込む場所に立つと――
ふいに、胸の奥で何かがほどけた。
風が一陣吹き、舞い上がった埃が光を受けてきらめく。
その粒子の揺らぎを見ているうちに、忘れていたはずの声が、どこからともなく蘇ってきた。
優しく、包み込むような声。
「リリアンヌ。人はね、間違えるものなのよ」
幼い頃の情景が鮮やかに広がる。
まだ小さな自分が、この場所で母のスカートの裾を握りしめていた。
母はしゃがみ込み、目線を合わせ、そっと彼女の両手を包んだ。
「でもね……」
温もりが指先に重なる感覚まで蘇る。
「やり直したいと思える心は、美しいものよ。
あなたには、その心があるわ。だから――」
母は微笑み、娘の額へ軽く口づけた。
「あなたは優しい子よ、リリアンヌ。
それは、誰に何を言われても失われたりしない。」
――やさしい子。
その言葉が、当時のリリアンヌには少し誇らしく、少し照れくさかった。
だが今、その記憶は胸を締めつけるように痛む。
崩れた礼拝堂を見まわしながら、現在のリリアンヌは小さく息を吸った。
(……お母さま。あのときの言葉を理解できるようになるまで、こんなに時間がかかってしまいましたわ)
指先が震える。
涙ではない。
ただ、胸の奥に長く積もっていた氷の層が、ゆっくりと溶け始めている。
(わたくし……やり直したいと、初めて心から思えています)
母が言った「優しさ」はまだ自分に残っているのだろうか。
その問いが静かに胸に浮かび、彼女はそっと目を閉じた。
崩れた壁の隙間から、斜めに差し込む光が祭壇跡を照らしていた。
かつて神像が置かれていた台座は半ば崩れ、苔が柔らかく緑を広げている。
そんな朽ちかけた場所であっても、どこか神聖な気配だけは残っていた。
リリアンヌはそっと歩み寄り、静かに膝をついた。
跪く瞬間、古い石がかすかに軋む音がした。
両手を胸の前で組み合わせる。
これは礼拝の作法として身についていた動きだが、
今の彼女の姿勢は形式ではなく、自然と“祈り”そのものになっていた。
唇が震えながら開かれる。
「……もう一度……やり直せるなら……」
声は湖の風のように弱く、頼りない。
しかし、その弱さこそが彼女の本心だった。
「わたくしは……逃げないで……向き合いたい……」
祈りというより、願望。
それは揺らぎ、折れそうで、息のようにかすかな言葉。
「過去にも……誰かにも……そして……自分自身にも」
言い終えた途端、胸の奥に引き結んでいた何かがほどけていく。
それは赦しでも救いでもない。
ただ、これまで押し込めていた“泣き声”のような願いだった。
崩れた礼拝堂は静かだった。
鳥の声も、風の音も、すべて遠くに沈んでいく。
けれどその静寂の中で――
彼女の小さな祈りだけが、確かに息づいていた。
弱くてもいい。
揺らいでもいい。
これは、再生へ向けた最初の一歩なのだから。
祈りの言葉が胸の奥に沈んでいくその瞬間――
森のどこかで風が生まれ、礼拝堂跡をそっと撫でた。
崩れたステンドグラスの破片が、風に揺られて
カラン…… と透き通った音を立てる。
まるで誰かが指先で軽く触れたような、優しい響きだった。
リリアンヌははっと顔を上げる。
礼拝堂には誰もいない。
石壁の崩れた隙間から、夕陽が淡く差し込んでいるだけ。
――それでも。
胸の奥にふいに温かい気配が芽生えた。
誰かがそっと背に手を添え、
「大丈夫」と語りかけてくれているような、不思議な感覚。
恐怖ではない。
孤独でもない。
むしろ――
(……わたくし、ひとりではない……?)
そんな予感が、静かに満ちていく。
風がもう一度吹き抜け、ステンドグラスの欠片が淡く光る。
それは、祈りに応えるようにも、
これから訪れる“何か”の前触れのようにも思えた。
リリアンヌは胸に手を当て、そっと目を閉じる。
まだ見ぬ誰か。
あるいは、再び現れる誰か。
その影が、もうすぐ彼女の物語に触れる――
そんな確かな予兆が、風と共に彼女の世界を静かに揺らしていた。
しばらく静かに膝をついていたリリアンヌは、そっと両手を床から離した。
胸の奥に浮かんだ“気配”の余韻を抱えたまま、ゆっくりと立ち上がる。
崩れた天井。その向こうに広がる空は、夕暮れの光で淡く染まっていた。
瓦礫の影と光の境が、まるで彼女の現在と未来の境目のように思える。
リリアンヌは深く息を吸い、静かに心に語りかけた。
(いつか必ず……
“やり直せた”と言える日まで……歩いてみましょう)
儚い。それでも、確かに輪郭を持ち始めた決意だった。
そのとき、ふと視界に柔らかな輝きが降りてくる。
光の粒――夕陽がどこかのステンドグラス片に反射したのだろう。
それが彼女の髪にそっと落ち、淡い金色の線を描いた。
リリアンヌは驚いたように瞬きし、そして微笑む。
まるで、祈りが小さな形を得て返ってきたように――
その光は、ほんの一瞬で消えてしまったが、
胸の中に残った温もりは確かだった。
彼女は崩れた礼拝堂を後にしながら、静かに歩き出す。
弱くとも、一歩。
揺らいでも、一歩。
そうして進む道の先に、
いつか“やり直せた”と胸を張って言える日の光が
きっと待っているのだと、彼女は信じ始めていた。




