表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

56/75

湖のほとり ―― 白鳥が飛び立つ。彼女は沈む。

夜明けの色がまだ薄く、街の屋根をかすめるように青白い光が広がっていた。

その静謐の中で、リリアンヌはゆっくりと歩き出した。


昨夜、涙を洗い流すように冷たい水で顔を拭ったあと――

胸の奥に沈んでいた何かが、ようやく動き出したのを感じた。


そして今、彼女は“心を落ち着ける場所”を求めていた。


人々の喧噪から少し離れた町外れに、静かな湖があるらしい。

かつて貴族として生きていた頃には行くことのなかった場所。

名もない庶民が、小さな憩いを求めて足を向ける程度の場所だった。


靴の裏で小石が転がる。

土の匂いは宮廷の大理石には決してなかった感触で、

リリアンヌはその“素朴さ”を妙にありがたく感じた。


やがて、木々の隙間から光が反射する気配が見えた。

湖だ。


視界が開けた瞬間、リリアンヌは息を呑む。


湖のほとりは、驚くほど静かだった。

水面は鏡のように滑らかで、わずかな風が通るたび

薄い銀の膜が揺れ広がっていく。


彼女はそっと一歩、また一歩と水辺へ近づいた。


冷たい風が頬を撫でる。

その感触に、胸の奥の固くこわばったものが

解ける音がしたような気がした。


リリアンヌはゆっくりと深呼吸をする。


湖の匂い。

草の匂い。

土の匂い。

今までの人生で、ほとんど知らなかった世界の香り。


そして――

静かに目を閉じ、心の中で呟く。


(ここなら……わたくしの心の音が、聴こえる気がしますわ)


風の音が、まるで返事をするようにそっと彼女のスカートを揺らした。



湖の静けさに身を浸していると、

ふと視界の端に白い影が揺れた。


リリアンヌはそっと顔を向ける。


湖面には、白鳥の群れがゆるやかに浮かんでいた。

陽の光を柔らかくまとい、

水鏡の上に純白のシルエットを落としている。


その姿は――

かつて“氷の令嬢”と称えられた彼女自身の象徴と重なった。

白く、優雅で、触れがたいほどに静かで。


胸の奥が微かに疼く。


一羽の白鳥が、風を読むように

ゆっくりと首をもたげた。

次の瞬間、しなやかな羽が大きく広がる。


水を蹴る音が小さく響き、

白鳥の体が湖面からふわりと浮かび上がる。


力強く、しかし優美な軌跡。

風と一体となり、空へと吸い込まれていくようだった。


リリアンヌは思わず見惚れていた。


(わたくしも……かつては、あのように。

 誰よりも高く、美しく舞っているつもりだったのに)


その白鳥は、空の彼方へゆっくりと溶けていった。

広い青空の中、やがて小さな白い点となり、

ついには見えなくなる。


まるで、かつての自分の姿が

静かに遠ざかっていくのを見送っているかのようだった。


白鳥の飛び去った空をしばらく見上げたまま、

リリアンヌの胸の奥に、

じわりと黒いものが広がっていった。


ふらりと力が抜けたように、

彼女は湖の縁に座り込む。

湿った草がスカートの裾を濡らすことさえ気にならなかった。


膝を抱え、額を落とし、

小さく震える息を吐き出す。


(わたくしは……何を失ったのかしら)

(誇り? 名誉? それとも……自分自身?)


湖は黙って水を揺らし、

その揺らぎの中に映るのは、

疲れ果てた“ただの女”の顔。


高慢な笑みも、完璧な姿勢も、

誰より美しくあろうとした仮面も――

もうどこにもなかった。


それなのに、涙は出ない。

ただ胸の奥が重く沈み、湖底へ引きずられるようだった。


その時、突然の突風が湖面を走る。

映っていた彼女の姿はぐしゃりと歪んで消えた。


(……もう、何も残っていないのね)


思わず手が伸び、

水面に触れた指先が冷たさに震える。

けれど、その手はただ水をかき乱すばかりで、

何ひとつ掴めなかった。


胸の奥の沈みは止まらず、

彼女の足がふらりと動く。


湖の浅瀬へ、ひと足。

冷たい水が靴へ染み込み、

ふた足目には裾まで濡れた。


けれど、それでも歩みは止まらなかった。


まるで沈む心に引かれるように――

彼女は、静かな湖へと足を踏み入れていくのだった。



足首まで水に沈んだ瞬間だった。

湖の冷たさが、鋭い刃のように皮膚を刺し、

リリアンヌの体がびくりと震えた。


「……冷たい」


声に出した瞬間、

胸の奥まで凍りついていた思考が、

ひとつ、亀裂を入れられたようにほどけていく。


その冷たさは、

沈みかけていた心を引き戻す手のようだった。

まるで、積もった濁りを洗い流すかのように、

澄んだ痛みが全身に広がっていく。


リリアンヌはゆっくりと浅瀬を離れ、

濡れた靴と裾を見下ろした。


(わたくし……まだ、戻る道を探しているのね)


溺れたいわけではない。

すべて捨てたいわけでもない。

ただ――立ち上がり方を忘れていただけ。


湖を見やると、

先ほどまで停滞していた鏡のような水面は、

風に揺られて柔らかい波紋を広げていた。


それはまるで、

彼女の心のどこかが動き始めた証のようにも見えた。

 湖面を渡る風は冷たく、しかしどこか柔らかかった。

 ゆっくりと波が寄せては返し、そのたびに淡い光がきらめく。白鳥が沈んだ場所――あの冷たさを知った場所を、リリアンヌはそっと振り返った。


 けれど、もう立ちすくみはしなかった。


 水に濡れた靴が重い。それでも、一歩、また一歩と前へ進む。

 声にして宣言するような大きな決意はない。ただ、胸の奥でほんの小さな灯が、かすかに脈打っている。


(沈んでも……また浮かび上がれるはず)


 そう思えたのは、あの瞬間だった。

 底へ沈んだとき、すべてが終わったと思った。世界も、自分も、役目も、感情も……。

 けれど、触れた水底は、思ったよりずっと冷たくて、痛みがあって――それが逆に、彼女を現実へ引き戻したのだ。


「……わたくしは、まだ……」


 遠くで、水音が弾けた。

 白鳥がひと羽、湖面を走り、そして空へ舞い上がる。大きな翼を広げ、夕陽を受けて白銀に光った。


 それは、まるで祝福の合図のようで。


 リリアンヌは立ち止まり、そっと瞼を閉じる。

 濡れた睫毛が震え、胸の奥の灯が、もう少し大きく息をする。


 ――沈んでも、また。


 彼女は小さく息を吐き、背筋を伸ばした。

 振り返らない。湖はもう、過去だ。


 歩き出す足元に、確かに力が戻っている。


ラストモノローグ


「白鳥が飛び立つたびに、心が沈んだ。

 けれど沈むことは、終わりではない。

 水の底に触れたとき、冷たさが教えてくれた。


 ――わたくしはまだ生きている。

 まだ、浮かび上がれるのだと。」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ