眠れぬ夜 ―― 過去が夢となって追ってくる。
その夜、リリアンヌは安宿の屋根裏部屋で身を横たえた。
軋む木枠の細いベッド。薄すぎて頼りない毛布。外から聞こえる、風が家々の隙間を抜ける音。
眠れるはずだった。
身体は疲れている。今日も多くの「傷」を背負った。
なのに――まぶたは重くならない。
静けさが深くなるほど、心のざわめきが浮き彫りになっていく。
> (眠りたい……はずなのに、胸が苦しいのはなぜ?
この痛みは……誰の手が残した影なの?)
リリアンヌは小さく息を吐き、揺れるランプの火を指先でそっと吹き消した。
ぱち、と音を立てて光が消える。
たちまち、闇が襲うように広がっていく。
屋根裏部屋の空気が変わった。
夜の静寂が、まるで厚い布のように肌へまとわりつく。
その瞬間だった。
胸の奥に、重い影がじわりと沈んでいく。
理由もなく知らない痛みが、心の底からゆっくりと浮き上がる。
眠りへ誘われるどころか、むしろ深い穴へ落ちていくような感覚。
リリアンヌは毛布を胸元で握りしめ、震える吐息を漏らした。
> (いや……来ないで。
今夜だけは、思い出したくないのに……)
しかし闇は、彼女の心の底に眠るものを容赦なく呼び覚まそうとしていた。
眠りへ堕ちた瞬間だった。
暗闇が波紋のように揺れ、鮮やかすぎる光景が、まるで刃のようにリリアンヌの意識へ突き刺さる。
――豪奢な舞踏会。
天井に吊るされた金のシャンデリア。
磨き抜かれた大理石の床。
貴族たちが爪先立ちするように笑い、囁き、見栄と虚栄で飾られた夜。
その中央に、若き日のリリアンヌが立っていた。
完璧な微笑を浮かべ、宝石のような冷たい瞳で周囲を見渡している。
だが、夢は“あの日”の視点ではない。
今の彼女が、あの日の自分を外側から見下ろしていた。
「見ているのは……わたくし」
気づいた瞬間、胸が締めつけられた。
取り巻きの貴族たちが、弱い者たちを嘲笑っている。
転んだ侍女の足元に、わざとドレスの裾を広げて笑いものにする令嬢。
歯を食いしばって耐えるしかない下級貴族の少年。
そして――若きリリアンヌは、それを黙認し、
ときに冷ややかな笑みで加担していた。
> 「それが身分というものよ。
努力では越えられない“差”を教えてあげなくては。」
その声が、夢の中に鋭く響く。
今のリリアンヌの肌が、ぞくりと粟立った。
> (わたくし……こんなにも、冷たかったの?
こんな言葉を、本当に……?)
恐る恐る視線を上げたそのとき――
夢の中の“氷の令嬢”が、ふいに振り返った。
その瞳がまっすぐ、今の彼女を捉える。
澄み切った宝石のような、しかし底冷えするほど傲慢な眼差し。
誰も寄せつけない孤高。
そして、その実――
誰より孤独で、誰より弱い自分を隠すための凍りついた仮面。
今のリリアンヌは息を呑む。
夢の中の“かつての自分”が、口角をわずかに上げた。
その微笑みは――氷でできた刃そのものだった。
舞踏会の幻が霧のようにほどけ、視界がゆっくりと歪んでいく。
気づけば、玉座の間――あの“夜”が訪れていた。
高い天井。
冷たい石壁。
無数の視線が突き刺さる、断罪の場。
王太子が玉座の前に立ち、怒りで顔を紅潮させていた。
> 「リリアンヌ、お前の罪は数えきれぬ!」
その声が雷のように響き、夢の空気を震わせる。
若き日のリリアンヌは、必死に首を振る。
唇は震え、声はひび割れ、床に縋りつくように叫んでいた。
> 「ちがいます……わたくしは、そんな……!
王太子殿下、どうか――どうかお聞きくださいまし!」
過去の自分が、あの日のように、必死に「誇り」を守ろうとしている。
見苦しいほどに。
哀れなほどに。
だが――今のリリアンヌは、その姿に触れることも、声をかけることもできなかった。
ただ、遠くから見つめるしかなかった。
玉座の間の床が突然、暗闇に裂ける。
若きリリアンヌが後ずさりする。
今のリリアンヌも、その引力に吸い寄せられる。
逃げても逃げても、足元の闇は追ってくる。
目を逸らしても、過去の自分が背後から迫ってくる。
やがて、あの冷たい声が耳元に囁いた。
> 『あなたは“悪女”よ。
どれだけ施しを受けても、罪は消えないわ。』
氷の刃のような声。
胸の奥の傷を容赦なく抉る声。
リリアンヌは息を吸おうとするが、空気が肺に入らない。
心臓が冷え、視界が黒く沈んでいく。
> (やめて……!
もう、過去には……戻りたくない……!)
叫びは声にならず、夢の闇に飲み込まれた。
そして――彼女は深い深い暗闇へ、落ちていった。
舞踏会の光が遠ざかり、金色のシャンデリアが霧に溶けるように消えていった。
残されたのは、胸の中にまとわりつく重い影だけ。
――ドン、と何かが落ちる音。
視界が切り替わる。
次の瞬間、リリアンヌは玉座の間に立っていた。
赤い絨毯、厳格な石の柱、冷たい空気。
あの夜。
すべてが始まり、すべてが壊れた夜。
王太子が玉座の手前に立ち、怒りで顔を歪ませる。
> 「リリアンヌ、お前の罪は数えきれぬ!」
その声が天井に反響し、夢の世界に雷鳴のように響き渡る。
若き日のリリアンヌ――
かつての“氷の令嬢”が、涙で頬を濡らしながら、必死に言葉を紡いでいた。
> 「違います……わたくしは……!
殿下、どうかお聞きくださいませ……!」
その姿は、惨めだった。
いや――“今の彼女”から見れば、痛いほど哀しかった。
膝をつき、床に手をつき、なおも自分を守ろうとする若き自分。
あの頃は、それが“誇り”だと思っていた。
けれど今はただ、崩れていく氷像のように見える。
夢のリリアンヌの叫びは、誰にも届かない。
そして――今のリリアンヌにも、触れられない。
ただ、見ていることしかできない。
場面が急に、黒い津波のように変わった。
床の赤い絨毯が裂け、深い暗闇が口を開ける。
若きリリアンヌが後ずさる。
それにつられて、今のリリアンヌも後退する――しかし、逃げ場はない。
暗闇の淵から、あの声が響く。
> 『あなたは“悪女”。
どれだけ誰に優しくしても、罪は消えない。』
まるで、過去の自分が囁いているようだった。
> 「やめて……」
心の中で叫んでも、声は空気に溶けるだけだった。
足元が崩れ、指先から温度が消え、世界が暗く染まっていく。
過去のリリアンヌが、氷の瞳でこちらを見つめていた。
美しいのに、ひどく冷たい――あの頃の彼女そのままの眼差しで。
> 『あなたは変われない。
どれだけ施しを受けても、何も赦されない。』
胸が痛む。
息が苦しい。
夢だと分かっていても、逃げられない。
> (……いや。戻りたくない……!
わたくしは、もう――違うのに……!)
その叫びは誰にも届かず、暗闇が視界いっぱいに広がった。
リリアンヌは、夢の底へと真っ逆さまに落ちていった。
闇は静かで、外の風の音さえ聞こえない。
深夜の空気を裂くようにして――リリアンヌははっと目を開いた。
胸が波打ち、喉がつまる。
肩が小刻みに震え、息は荒く、まるで走り続けた後のよう。
握りしめていた毛布は、指の跡が残るほど強く握り込まれていた。
> 「はぁ……っ……いや……いやよ……」
声はかすれ、涙で濡れていた。
夢の中の“氷の令嬢”――冷たい笑み、氷の瞳。
あの無機質な自分が、まだ胸の奥に爪を立てている。
どれだけ目をそらしても、まぶたの裏に焼きついて離れない。
> (……わたくしを嘲笑っていた……
まるで、今のわたくしなんて偽物だとでも言うように)
喉の奥がキュッと締めつけられる。
リリアンヌは毛布を胸の前まで引き寄せ、その中に顔を埋めた。
どうしようもなく子どものように、声を殺して泣くしかできなかった。
> (……あんな自分を……本当に捨てられるのかしら)
ひと粒、またひと粒と涙が頬を伝い、毛布に吸い込まれていく。
嗚咽を必死に押し殺すたび、胸が痛んだ。
自分を縛る影は、まだ消えていない。
この涙も、きっとその影が落とす冷たい雨のようなもの。
それでも――
凍えて震える体を抱きしめるようにしながら、リリアンヌは静かに息を絞り出した。
> 「……変わりたい……のに……」
深夜の静寂は、その小さな祈りすら吞み込んでしまうように冷たかった。
外の空気がわずかに揺れた。
夜明け前、窓の隙間から淡い青が流れ込み、薄暗い屋根裏部屋に静かな光を落とす。
リリアンヌは、涙の跡が残るまま、ゆっくりと身を起こした。
まだ胸の奥は重い。夢の影は確かに残っている。
けれど――もう、あの暗闇に沈んだままではいたくなかった。
冷たい水を顔にあてる。
ひやりとした感触に、思考が澄んでいく。
鏡もない。
けれど、水面に映る揺らいだ自分の影を見ている気がした。
> (逃げても、夢は追ってくる……
なら――逃げないわ。向き合わなければ。)
深く息を吸い込み、肺に朝の冷たい空気を満たす。
それはまるで、濁った心を浄化するような呼吸だった。
階段を下り、まだ薄闇の残る外へ出る。
東の空は淡い光を含み、世界が静かに目を覚まそうとしていた。
その光を胸いっぱいに吸い込みながら、リリアンヌは静かに呟いた。
> 「……わたくしは、変わります。
過去を忘れるのではなく――超えるために。」
言葉は小さかったが、確かな芯を持っていた。
一晩の悪夢が、心にある裂け目を見せつけた。
だがそれは同時に、向き合うべき方向を照らす光でもあった。
この夜はきっと、彼女にとって特別な印として刻まれるだろう。
逃避でも自己欺瞞でもない。
“真の反省”が始まった最初の夜として。
ラストモノローグ
「夜は夢を通して、過去を突きつける。
逃げた罪も、見なかったふりをした弱さも。
けれど――目覚めたとき、わたくしは知った。
過去は敵ではない。
それを超えようとする心こそが、明日を作るのだと。」




