王都の噂 ―― 「あの悪女、今は乞食だそうよ」
朝の王都は、いつもより賑やかだった。
露店の軒からは蒸気が立ちのぼり、焼きたてのパンと香草の匂いが混じる。
リリアンヌはその中を、布袋を胸に抱きながら歩いていた。袋の中には、昨日分けてもらった小さなパンの欠片が入っている。
人々の声がざわめきとなって、風のように流れていく。
だが、その中に混じる一つの言葉が、彼女の足をかすかに止めた。
「ねぇ聞いた? あの“氷の令嬢”が、いまじゃ物乞いだって!」
リリアンヌの背筋を、冷たいものが撫でていく。
すぐに別の声が続く。
「まさか……あのリリアンヌ・ド・ヴェルヌが? 嘘でしょう?」
「ほんとよ。あんなに気取っていたのに、今じゃスープに並んでるってさ。」
乾いた笑いが、石畳に跳ねる。
リリアンヌは顔を伏せたまま、ただ歩みを止めなかった。
風が、ドレスの裾をすり抜けていく。
それでも姿勢だけは崩さずに。
(……そう。王都は今日も、変わらず残酷ですわね。)
どこか遠くで鐘が鳴った。
市場の喧噪が、それにかき消されるように薄れていく。
リリアンヌはほんの少しだけ空を仰いだ。
灰色の雲の向こうに、微かな光が見えた気がした。
人の流れの中に、ふと見覚えのある顔があった。
金糸の刺繍が施された上等な外套、髪には真珠の飾り。
――マルグリット。
かつて、ヴェルヌ家の侍女頭として、誰よりも近くにいた女。
彼女もまた、リリアンヌに気づいた。
その瞬間、表情が凍りつく。
「……本当に、あなたが……?」
言葉の続きが出てこない。
リリアンヌは、ゆっくりと微笑んだ。
その微笑みは、もう誰にも見せることのなかった静かなものだった。
「ええ、わたくしです。見苦しい姿で――お恥ずかしいわ。」
マルグリットの唇が震えた。
ほんの一瞬、迷いのような光がその瞳に宿った。
だがすぐに、背後にいた取り巻きたちの視線を意識したのか、顔をそむけた。
「行きましょう。……関われば、こっちまで笑われます。」
その声は、まるで冷たい刃のようだった。
リリアンヌは何も言わず、ただその背中を見送った。
彼女の胸の奥で、かすかな音がした。
――崩れる音。
名誉でも、信頼でもない。もっと脆く、もっと深い何かが、静かに壊れていく音だった。
(昔は、あの人にドレスの裾を持たせていたのに……)
通りの風が吹き抜け、濡れた石畳を冷たく撫でていく。
リリアンヌはほんの少し背を伸ばし、歩き出した。
その姿勢だけが、彼女の最後の誇りを支えていた。
――冷たく澄んだ宮廷音楽が、氷柱のように響いていた。
回想の幕は、あの夜会の大広間から静かに上がる。
純白のドレスを纏ったリリアンヌは、完璧な曲線を描く微笑を浮かべ、舞踏会の中央を優雅に歩いていた。
視線は自然に集まり、誰もが称賛と畏怖を込めて彼女を“氷の令嬢”と呼んだ。
けれど、あの微笑の裏側を知る者は誰もいない。
(わたくしは、気高くなければならない。
心を許せば、弱さが露わになる。
誰かに情けをかけられることが、何よりの――恥だったから)
心の奥でそう唱えながら、完璧な礼節の仮面を貼りつけ続けた。
孤高さは誇りであり、同時に鋭い刃でもあった。
誰も近づかせず、誰にも触れさせない。
そうして立ち続けることだけが、彼女の世界で許された生き方だった。
――そして現在。
貧民たちの列に並ぶ自分を、リリアンヌはふと外側から眺めるような気持ちになる。
薄い外套に身を丸め、冷たい風に髪を乱されながら、人々のざわめきと土埃にまみれる自分。
(恥を知って……ようやく“人”になれたのかもしれませんわね……)
その思いが胸に浮かんだとき、驚くほど心は静かだった。
舞踏会で見せたあの完璧な微笑よりも、ずっと自然で、ずっと穏やかだった。
涙は出なかった。
けれど、冷たい氷の殻がひとひら溶け落ちていく音だけが、確かに胸の奥で響いていた。
その日の王都は、朝から薄曇りだった。
冷たい風が石畳を撫で、落ちた木の実を転がしていく。
人々のざわめきの中、リリアンヌはフードを深くかぶり、視線を落として歩いていた。
“乞食”という言葉が、さっきまで耳に残っていたせいか、いつもより世界が硬く感じる。
そのとき――。
「お姉さん!」
弾む声が、曇天を突き抜ける。
ふり返ると、あの日、雨の中で傘を差し出してくれた少年が、こちらへ駆け寄ってくるところだった。
泥だらけの靴も気にせず、まっすぐに。
「この前のパン、おいしかったよ!」
息を弾ませながら、少年は嬉しそうに笑った。
その無垢な笑顔に、リリアンヌの心がふっとほどける。
「そう……それは良かったわ。」
かつて舞踏会で浮かべた“完璧な微笑”とは違う。
作り物の仮面ではなく、自然に生まれた微笑だった。
少年はポケットを探り、小さな赤いリンゴを取り出した。
表面に指先で磨いた跡があり、いかにも大切に持ってきた様子だ。
「これ、半分こ!」
差し出された小さな手。
リリアンヌは一瞬、動きを止める。
周囲の視線が、刺さる。
“乞食に恵んでいる”とでも言うかのような、冷たいざわめきが耳の端をかすめる。
(“乞食”と呼ばれたこの手に……
また、こんな優しさが向けられるなんて)
かつて彼女が最も軽蔑したはずの“施し”。
だがそれは、彼女にとって初めての――本物の善意だった。
リリアンヌは小さく息を吸い、そっとリンゴを受け取った。
「ありがとう。……あなたの心は、とても高貴ですわ。」
その声は震えていたけれど、悲しみではない。
少年は照れたように頬をかき、無邪気に笑う。
かつて“氷の令嬢”と呼ばれ、誰に心を開くこともなかったリリアンヌ。
今その胸には、初めてあたたかな灯がともりつつあった。
夕暮れの王都は、茜色に染まりつつあった。
露店の呼び声もまばらになり、石畳に長い影が伸びる。
リリアンヌは市場の喧噪から少し離れた場所に歩みを止め、古い噴水の縁にそっと腰を下ろした。
手の中には、少年から受け取ったリンゴの半分。
かじると、わずかに酸味が舌に触れ、その素朴な味が胸の奥まで染みていく。
(人の言葉は、刃のように鋭くとも――
優しさは、静かにその傷を癒してくれるのね)
風が、ひとつ。
裾を揺らし、金の髪を夜へと誘うように撫でていく。
そのとき、遠くからまた聞こえてくる声があった。
「リリアンヌ様は、もう終わりだってさ。」
嘲るような笑い混じりの噂。
かつてなら、その一言だけで胸の奥が凍りついただろう。
誇りを傷つけられたと、怒りに震えたかもしれない。
けれど今の彼女は、声の主を振り返ることさえしない。
リンゴをかじる音だけが、静かな夕暮れに溶けていく。
(終わりではありませんわ。
これは、わたくしの“始まり”なのです)
侮蔑も噂も、風のように吹き抜けるだけ。
リリアンヌの瞳は、もう誰の影も映さず、ただ自分の未来だけを見据えていた。
日が沈む頃、彼女はゆっくりと立ち上がる。
背筋はまっすぐに、しかしかつての氷のような硬さはない。
静かで、柔らかく、それでいて折れない強さがそこにあった。
ラストモノローグ
「噂は風のように吹き抜ける。
けれど、心に残るのは、風ではなく“手”の温もり。
誰かが笑っても、誰かが見下ろしても――
わたくしはもう、恥じはしません。
誇りとは、奪われるものではなく、選ぶものなのですから。」




