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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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53/75

小さな親切 ―― その温もりが、最も痛かった。

夜がようやく明けきらぬ王都の街を、リリアンヌは静かに歩いていた。

 石畳には昨夜の雨の名残が光り、どこか遠くで車輪の音がかすかに響く。

 空気は凍えるほど澄みきっていて、吐く息が白く揺れた。


 道端には、濡れた木箱。軒先には、雨をしのいで眠ったのだろう人々の影。

 リリアンヌはその一人一人を見つめながら、胸の奥で小さな痛みを覚えていた。


 ――傘の少年のことを、思い出していた。


 あの夜。

 自分の肩に傘の端を差し出してくれた、あの小さな手のぬくもり。

 見知らぬ者の優しさが、どれほどの温かさを持っているのか――

 リリアンヌは、そのとき初めて知ったのだった。


 だが今、その記憶がかえって心を刺す。

 彼女は胸の奥でそっと呟く。


 (あの子の優しさが、こんなにも胸に残るなんて――)


 朝の風が、濡れた髪を揺らす。

 空を見上げると、灰色の雲の切れ間からわずかな光がこぼれていた。

 それはまるで、彼女の記憶の中の少年の笑顔のようで。


 リリアンヌは微笑もうとしたが、唇は震えただけだった。


 (優しさは……ときに、痛みになるのね)


 そう思いながら、彼女は歩を進める。

 靴の裏が濡れた石畳を踏むたび、かすかな水音が響いた。

 その音が、まるで――

 自分の心の奥に残る、消えぬ“孤独”の響きのように聞こえた。


広場の片隅に、人々の列ができていた。

 湯気の立ち上る大鍋の前で、薄汚れた器を手にした男や女、子どもたちが、

 静かに順番を待っている。


 鉄の鍋から漂う香りは、素朴で、それでいて胸を焦がすように懐かしい。

 塩気の薄いスープ――だが、その匂いは確かに“生きている”匂いだった。


 リリアンヌは、列の少し離れた場所で立ち止まった。

 寒さよりも、自尊心の方が彼女の足を凍らせていた。


 (……わたくしは、そこに並ぶべき人間なのかしら)


 彼女の手は、もう何も持っていない。

 名も、家も、誇りさえも手放して、それでもまだ“気高さ”だけを握りしめていた。

 それが今、この湯気の向こうに溶けていく気がして――

 足を踏み出すことができなかった。


 そのとき、列の向こうから穏やかな声がした。

 「お嬢さん、冷えているだろう。ここにおいで。」


 声の主は、白い髭をたくわえた老司祭だった。

 背は小さく、肩は丸い。だがその目は春の陽のように柔らかかった。


 「……いえ、わたくしは――」

 リリアンヌは小さく首を振る。だが、司祭はゆっくりと微笑んだ。


 「遠慮はいらん。腹の音は、神の呼び声じゃよ。」


 その言葉に、胸の奥がかすかに鳴った気がした。

 否応なく頬が熱くなり、彼女は目を伏せる。

 次の瞬間、司祭が差し出した器の中から、白い湯気が立ちのぼった。


 両手で受け取ると、その熱が指先から腕へ、そして心臓の奥へと染み込んでくる。

 リリアンヌはそっと唇を寄せた。


 口に広がるのは、驚くほど優しい味だった。

 ただの塩と野菜の煮汁――それなのに、なぜか涙がこみ上げる。


 (……温かい。

  けれど、どうしてこんなにも、胸が痛むの……?)


 その温もりは、飢えを癒すものではなく、

 かつて彼女が忘れてしまった“人の手の温かさ”を呼び覚ますものだった。


 そしてリリアンヌは、そっとスープの湯気の向こうに、

 少年の差し出した傘の記憶を見た――

 あの夜の雨よりも冷たく、そして優しい痛みを胸に抱きながら。



リリアンヌは器を両手で包みこみ、そっと唇を寄せた。

 湯気が頬を撫で、舌に触れるのは淡い塩の味。

 刻まれた野菜の欠片が、かすかに舌先でほどけていく。


 決して豊かな味ではない。

 けれど、飲み下した瞬間、喉の奥から胸の奥へと、

 やわらかな熱が流れ込んでいった。


 (……美味しい。こんなにも、優しい味があるのね)


 それは贅沢でも、技巧でもない。

 誰かが「生きてほしい」と願って煮込んだ味だった。


 隣に腰を下ろしていた老婆が、皺だらけの笑みを浮かべる。

 「初めてかい? ここでは皆、少しずつ分け合うのさ。」


 リリアンヌは驚いて顔を上げる。

 「……分け合う、ですか。」


 老婆はうなずきながら、匙を小さく回した。

 「ええ。誰も持っていないから、みんなで“持つ”のよ。

  たったそれだけで、少しは生きやすくなるんだよ。」


 その言葉に、リリアンヌの指が震えた。

 彼女は目を伏せ、うつむきながら微笑む。

 けれど、その微笑みの奥には、

 湯気よりも熱い涙がこみ上げていた。


 (わたくしは、分け合うことを知らずに……

  ずっと“奪う側”で生きてきたのね)


 かつての晩餐会、煌びやかな銀の皿の上で、

 彼女は「足りない」と思ったことが一度もなかった。

 けれど今、たったひと匙のスープが、

 その全てよりも深く、心を満たしていく。


 リリアンヌは静かに息を吐き、空を仰ぐ。

 崩れた雲の切れ間から、わずかに光が差し込んでいた。


 それはまるで――

 失われたもののすべてを赦すような、淡い光だった。



ふと、器を持つリリアンヌの指が震えた。

 冷え切った手から、湯気が逃げていくのがわかる。

 それを見た隣の老婆が、ゆっくりと身を寄せ、

 皺だらけの手で彼女の器をそっと支えた。


 「手が冷たいわ。貸してごらん。」


 掠れた声。

 けれど、その手のひらは驚くほどあたたかかった。

 骨ばっていて、力も弱い。

 それなのに、確かなぬくもりがあった。


 リリアンヌの呼吸が止まる。

 胸の奥で、何かが軋むように痛んだ。


 (――誰かの手の温もりを、いつから……忘れていたのかしら)


 かつて、母の手は香油の匂いがした。

 幼い頃の彼女は、その手を掴むたび、安心して眠った。

 けれど、あの日。

 「あなたは、もう家の娘ではありません」と告げられたとき、

 その手は冷たく、遠い壁の向こうにあった。


 思い出が、痛みを連れて蘇る。

 リリアンヌは唇を噛み、俯いた。

 目の前の湯気が滲み、視界が霞んでいく。


 ぽたり――。


 涙がひとしずく、器の中に落ちた。

 薄いスープに溶けて、跡形もなく消えていく。


 (痛い……でも、これが“生きている”ということなのね)


 老婆は何も言わず、ただ優しく彼女の手を包んでいた。

 その沈黙の中に、言葉より深い祈りがあった。


 器の底が見える頃、スープの湯気はすっかり消えていた。

 リリアンヌはゆっくりと立ち上がり、両手で器を返す。

 老司祭が受け取りながら、穏やかに微笑んだ。


 「お嬢さん、温まったかね。」

 「……はい。とても。」


 その声はかすれていた。

 寒さのせいではない。

 胸の奥に広がる、得体の知れぬ熱のせいだった。


 リリアンヌは裾を整え、深く頭を下げた。

 「ありがとう……ございます。」


 老司祭は少し目を細めて、

 まるで長い年月を見透かすような瞳で言った。


 「神は、パンを分ける人の手に宿る。

  あなたも、いつか――誰かに分けてやりなさい。」


 その言葉が、胸の奥でゆっくりと響く。

 リリアンヌは微笑もうとしたが、うまくできなかった。


 (あの温もりが、こんなにも痛いのは……

  きっと、わたくしがまだ“赦されていない”から)


 指先に残る、老婆の手のぬくもり。

 それは心地よいはずなのに、どうしようもなく胸を締めつける。


 彼女は小さなパンの欠片を布に包み、静かに歩き出した。

 雨上がりの通りに光が差し、石畳の水たまりがきらめく。

 その光が、頬を伝う涙をそっと照らしていた。


ラストモノローグ


「親切は、傷の上に触れるようなもの。

 その温もりは、ときに痛みを伴う。

 けれど――痛みを知ってこそ、人は“誰かに手を伸ばす”ことを覚える。


 あの一杯のスープの味を、

 わたくしはきっと忘れない。

 それは、赦しの味だったのだから。」



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