冷たい雨 ―― 見知らぬ少年が傘を差し出した。
――雨が、街を灰色に沈めていた。
春の匂いが混じるはずの風は冷たく、湿り気を帯びて肌を刺す。
リリアンヌはフードを深く被り、王都の外れにある市場の通りを歩いていた。
活気のあるはずの往来も、空が曇ると同時に人々の足が早まる。
雲の底が低く垂れこめ、最初の雨粒が肩を打った。
ぽつ、ぽつ――そして、すぐに細かな雨が一面を覆う。
軒下へと駆け込み、壁に背を預ける。
すぐ隣を、傘を差した人々が通り過ぎていく。
誰もが急ぎ、誰もが俯き、誰もが“誰か”を見ていない。
濡れた石畳に映る影だけが、互いに触れ合っては、すぐに離れていった。
リリアンヌは静かに目を閉じた。
(――こんなに多くの人がいるのに……)
(どうして、誰も“誰か”を見ないのかしら)
雨脚が強くなる。
屋根の端から落ちる水滴が、細い糸のように揺れながら落ちていく。
その音の向こうで、馬車の車輪が水たまりを弾き、
商人が布を急いで片付け、子どもが母の手を引いて駆ける。
彼女は、ただそのすべてを見ていた。
誰の傘にも入らず、誰の声にも呼ばれず――
それでも、そこに立ち続けていた。
冷たい雨が頬を伝い、首筋を滑り落ちる。
それが涙なのかどうか、もうわからない。
孤独は、音もなく降る雨のように、
静かに、けれど確かに、彼女の心の奥に染み込んでいった。
――そのとき、不意に光が遮られた。
雨雲に覆われた空の下、彼女の前に小さな影が差す。
顔を上げると、そこには――まだ十にも満たないだろう、
小柄な少年が立っていた。
破れた帽子を深くかぶり、薄い上着は雨で濡れている。
それでも、彼は両手でしっかりと一本の傘を掲げていた。
骨が歪み、布の端には小さな穴が開いた古びた傘。
それでも彼の腕の中では、まるで宝物のように見えた。
少年は少しうつむきながら、
それでも勇気を振り絞るように、か細い声で言った。
「お姉さん……風邪ひくよ。入って。」
リリアンヌは、返す言葉を失った。
まるで自分が“見えない存在”でなくなったかのように、
その言葉が心の奥に真っ直ぐ届く。
彼女の肩に、傘の端がそっとかかる。
打ちつけていた雨の音が、少しだけ遠のいた。
代わりに――少年の濡れた呼吸の音が近くに感じられる。
「……あなたが、傘を?」
問いかけると、少年は小さく頷いた。
「これ、古いやつだから。大人の人は、使ってくれないんだ。」
その無邪気な言葉が、なぜか痛かった。
リリアンヌは唇を震わせ、
指先で傘の布に触れる。
破れた穴から、雨の雫がひとつ、彼女の手の甲に落ちた。
(どうして……)
(どうして、わたくしなんかに――)
声にならぬ問いが、胸の奥に滲んでいく。
それでも彼女は、その傘の下から離れなかった。
ほんの少しでも、誰かの優しさがそこにあったから。
――雨の帳の中、二人は小さな傘の下に寄り添って立っていた。
傘の布地はところどころ破れており、
雫がぽた、ぽた、と二人の肩や髪に落ちる。
それでも、そこは確かに“雨宿り”だった。
世界の冷たさから、ほんの少しだけ守られた小さな場所。
リリアンヌは濡れた髪を指で払いながら、
そっと少年の横顔を見つめる。
彼の頬は雨と涙の区別がつかないほど濡れているのに、
その瞳だけは不思議と澄んでいた。
「あなたの家は?」
問いかけると、少年は少し迷ったあと、
遠くの通りを指さした。
「あっち。……でも、おばあちゃん、もう歩けないんだ。
だから、パンを買って帰るの。」
その言葉に、リリアンヌは目を伏せた。
ポケットの中に残るのは、旅の途中で拾った硬貨が数枚。
彼女自身も、ほとんど何も食べていない。
けれど――その小さな手が差し出した傘の温もりを思い出すと、
迷いは霧のように消えていった。
リリアンヌは硬貨を取り出し、少年の手のひらにそっと載せる。
「これで、二人分のパンを買いなさい。」
少年は目を丸くして彼女を見上げた。
「でも……お姉さんこそ、お腹すいてるでしょ?」
リリアンヌは微笑んだ。
ほんのわずかに震える唇で、けれど穏やかに。
「わたくしの分は――あなたの優しさで、もう満たされましたわ。」
一瞬、少年の表情がきょとんとする。
だが次の瞬間、照れたように笑い、
「変な人だなぁ」
と小さくつぶやく。
リリアンヌもつられて笑った。
二人の肩を濡らす雨はまだ冷たい。
けれどその笑い声だけが、
世界のどこかで、小さく灯をともすように響いていた。
――やがて、空を覆っていた灰色の雲が少しずつほどけていった。
雨粒の音が静まり、路地の水たまりが陽の光を映しはじめる。
リリアンヌの肩にかかっていた傘の端が、
ふと離れ、静かに閉じられた。
少年が小さな手で傘を畳みながら、
照れくさそうに笑う。
「……もう、やんだね。」
リリアンヌは頷き、濡れた髪をそっと耳にかけた。
雨上がりの光が、ふたりの頬を優しく撫でていく。
少年は一歩、彼女の前に出て、
少し躊躇いがちに口を開いた。
「また会える?」
その問いに、リリアンヌは微笑む。
かつての貴族の笑みではなく――
人として、ひとりの女としての、静かな優しさを宿した笑み。
「ええ。もし、どこかで雨が降ったら――
そのときは、また傘を分けてちょうだい。」
少年は目を輝かせて、
「うん、約束だよ!」
と答えると、ぴょんと大きく跳ねて通りへ駆け出した。
濡れた石畳の上を走る足音が、
だんだんと遠ざかっていく。
リリアンヌはその背中を見送りながら、
胸の奥に残る温もりにそっと手を当てた。
それは確かに、誰かに傘を差し出された日の――
冷たい雨の中で見つけた、ひとしずくの光だった。
(……わたくしは、まだ“人の心”を捨ててはいなかったのね。)
微かに笑みを浮かべて空を見上げる。
淡い雲の隙間から、青がのぞいていた。
――路地には、まだ雨の名残が光っていた。
石畳の隙間に小さな水たまりができ、そこに淡い空の色が揺れている。
つい先ほどまで冷たく感じた風が、いまはどこか柔らかい。
リリアンヌは濡れた髪を指で払い、そっと空を仰いだ。
「見知らぬ人の傘が、こんなにも温かいなんて……
きっと、この世界はまだ――捨てたものではありませんわね。」
風が通り抜け、彼女のマントをわずかに揺らす。
その足元には、雨を踏んだ跡が淡く残っていた。
歩を進めるたびに、足跡が水面に波紋を描き、
やがて陽光に溶けて消えていく。
けれど、その消えゆく軌跡の上には、
確かに一筋の光が差していた。
ラストモノローグ
「人は、孤独の中でもふと誰かに傘を差し出す。
その小さな行為が、どれほどの心を救うか――
きっと、彼は知らないでしょう。
けれど、あの傘の下で感じた温もりこそ、
わたくしが“生きる”と決めた理由のひとつになりました。」
そして彼女は、もう一度、空を見上げる。
雨上がりの空は、やさしい青を取り戻していた。




