路地裏のパン ―― 空腹が、気高さより重くなる
雪原を越えて三日。
リリアンヌの靴底はすでに裂け、ドレスの裾には灰と泥がこびりついていた。
白い息を吐きながら、王都の外れに広がる雑多な街並みを見つめる。
かつて舞踏会へ向かう馬車の窓から眺めたときは、
この場所が“貧民街”と呼ばれていたことを、ただ遠い他人事のように思っていた。
だが――今は違う。
この街だけが、飢えを抱えた彼女を受け入れる唯一の場所だった。
腹の奥が、きゅうと軋む。
石畳を渡る風の向こうから、焼きたてのパンの匂いが流れてくる。
それは記憶の中の香り――
晩餐会で給仕が銀の蓋を開けた瞬間に立ち上る、
あの整った、完璧な香り。
(あの頃、わたくしは「味」よりも「体裁」で食べていた――)
あの晩餐では、食べ物は口に入れるためのものではなく、
貴族の格式を飾る道具だった。
一口ごとに、微笑みと気品を添えなければならなかった。
――だが今、そんな装いは意味をなさない。
痛みは胃を突き上げ、視界がわずかに揺らぐ。
背筋を伸ばして歩こうとするほど、体は前へ傾き、
気づけば、足が勝手に狭い路地の奥へと向かっていた。
そこは、パン屋の裏手だった。
煙突から流れる香ばしい匂いが、
空腹の痛みと混ざり合って、胸の奥を締めつける。
雪が舞う。
白い世界の中で、リリアンヌの黒髪だけが強く揺れた。
(飢えというのは、こんなにも静かで、
こんなにも残酷なものなのね……)
彼女は壁に手をつき、ゆっくりと膝を折る。
唇の内側を噛みしめ、吐く息が凍りつく音を聞いた。
気高さも、名誉も、血筋も――
空腹の前では、何の役にも立たない。
その現実が、冷たい雪よりも鋭く心を刺した。
パンの香りは、彼女の理性を削り取るように濃くなっていった。
小さなパン屋の裏口――そこに置かれた木籠の中には、
売れ残りのパンの欠片がいくつも積まれている。
冷えきった空気の中、
それらはまだ微かに温もりを残していた。
その匂いに引き寄せられて、
小汚れた子供たちが駆け寄り、
野良犬が尻尾を振りながら争うように鼻先を突っ込む。
その光景を、リリアンヌは路地の影から見ていた。
胸の奥がぎゅうと痛む。
手を伸ばせば、届く距離。
だが――その一歩が踏み出せない。
「……わたくしが、これを求めるなど――」
声は震えていた。
己に言い聞かせるように、あるいは祈るように。
貴族であった頃、
食卓に並ぶ料理は“与えられるもの”だった。
決して“求める”ものではなかった。
求めるという行為は、下層の者のすること――
そう、誰もが教えてくれた。
だが今、その教えがどれほど脆く空虚だったか、
骨身に染みてわかる。
指先が冷たく痺れ、
足が震える。
雪の上に倒れそうになりながらも、
リリアンヌは必死に姿勢を保った。
(誇り……わたくしの、最後の砦……)
しかし、その“砦”はすでに風にさらわれ、
今にも崩れ落ちそうだった。
胃の奥がうねり、視界がぼやける。
かつての気高さを守るために立っていた足が、
ついに力を失い、膝が雪を打つ。
パン屑を拾う子供がこちらを振り向いた。
その手に握られた小さな欠片が、
リリアンヌの目には、まるで聖餐のように見えた。
(ああ……わたくしは、どこまで堕ちれば――
“生きる”ことを赦されるのかしら……)
雪が静かに舞い落ち、
その頬を、涙とも冷気ともつかぬしずくが伝った。
風が吹き抜け、路地裏の雪が舞い上がった。
パン籠のそばにしゃがみ込んだまま、リリアンヌはもう立ち上がることができなかった。
その姿に気づいたのは、店の裏口から出てきた一人の少年だった。
まだ十にも満たないだろう。
小さな体に大きすぎる前掛けをつけ、
赤くかじかんだ手で籠を抱えていた。
彼は一瞬、見知らぬ女を警戒したように足を止めた。
だが、雪に濡れた裾と、唇の色、震える肩を見て――
ゆっくりと息を吸い、籠の中を探る。
そして、焦げすぎて客に出せなかった黒いパンを一つ、手に取った。
「これ……昨日の残りだけど、食べる?」
その言葉は、雪の音よりも小さく、けれど真っすぐに届いた。
リリアンヌは、顔を上げた。
少年の瞳に映る自分は、もはや“元令嬢”の姿ではなかった。
ただの、飢えた旅人――いや、ひとりの人間。
喉の奥が焼けるように熱くなる。
唇を噛みしめ、声が出ない。
誇りが、喉を塞ぐ。
「いいえ」と言えば、それで楽になれる。
けれど――その手が、ほんの少し震えているのを見た瞬間、
何かが静かに崩れた。
「……ありがとう。」
ようやく絞り出したその一言が、
雪よりも静かに空気へと溶けていった。
パンは固く、焦げた苦味が口の中に広がる。
だが、噛み締めるたびに、
熱が喉を通り、胃の奥へと染み渡っていく。
その温かさが、涙を呼んだ。
(甘い……でも、こんなにも苦い味を、
わたくしは、今まで知らなかった……)
涙が落ち、焦げた表面を濡らす。
それでも、彼女は止めなかった。
飢えた体が、誇りよりも先に“生”を求めていた。
そして、少年はただ黙って彼女を見つめていた。
その小さな手には、まだほんのりとパンの温もりが残っていた。
雪が静かに降り続いていた。
焦げたパンの温もりが、リリアンヌの掌から少しずつ逃げていく。
それでも、心の奥には――
確かな熱が残っていた。
彼女は、ふと顔を上げ、少年を見つめる。
その小さな体は薄着のまま、頬を真っ赤に染めて震えていた。
さっき渡されたパンを、まだ食べずに両手で握りしめている。
「あなたも、食べなさい。」
リリアンヌはそっと言いながら、
自分が口にしていたパンの半分を差し出した。
少年は驚いたように目を瞬かせた。
「え? でも、それ……あんたが食べてたのに。」
「生きることは、分け合うことですわ。」
そう言って微笑む彼女の声は、
まるでかつての舞踏会で語った言葉のように上品で――
それでいて、今の彼女自身の祈りのように静かだった。
少年は、しばらく黙っていたが、やがて照れくさそうに笑った。
「貴族みたいなこと言うね。」
その一言に、リリアンヌの胸が微かに震えた。
懐かしい痛みと、どこか温かいものが混ざり合う。
(――貴族みたいなこと、ですって。)
彼女は小さく笑みを漏らし、視線を雪へと落とす。
粉雪が二人の足もとを覆い、
焦げたパンの欠片が、まるで小さな供物のように埋もれていく。
(生きるとは、誇りを失うことではなく――
分け合う勇気を持つことなのね。)
その心のつぶやきは、まるで祈りのようだった。
それは神への懺悔ではない。
己の罪を赦すためでもない。
ただ、“生きる”という行為そのものを肯定するための、
ひとりの女の、静かな祈りだった。
雪の街角を離れ、リリアンヌは静かな裏路地を歩いていた。
吐く息は白く、指先はもう感覚を失いつつある。
それでも、胸の奥には確かなものがあった。
懐の中――そこには、焦げた小さなパンの欠片。
それは少年から受け取った、たった一度の“施し”であり、
そして、自らが返した“分け合い”の証だった。
彼女は立ち止まり、両手でその温もりを包み込む。
指先に感じる、わずかな硬さ。
それを見つめながら、ふっと微笑む。
「これは、わたくしの“生きるための証”ですわね。」
風が吹き抜け、髪が頬にかかる。
頬の冷たさより、胸のあたりの熱のほうが強い。
空腹は、まだ癒えない。
腹の奥が痛み、体は重い。
だが、もうそれを恥だとは思わなかった。
「空腹が気高さより重くなる――
その痛みこそが、人である証なのね。」
かつては誇りで飢えを隠し、
虚飾で自分を飾り立てていた。
だが今、飢えの痛みは生の証であり、
凍える夜に燃える心の灯火となっていた。
リリアンヌは、雪明かりの中を歩き出す。
足跡は細く、弱々しく続いていく。
けれど、その一歩ごとに、確かに命の音が刻まれていた。
ラストモノローグ
「気高さは、飢えを知らぬ者の飾り。
けれど、空腹を知ったとき、人は初めて“生”を学ぶ。
誇りを食べても飢えは癒えない。
ならば、分け合うために、わたくしは生きよう。
名を捨てても、心まで凍らせぬために。」
そして、雪の街を包む静寂の中で――
焦げたパンの香りだけが、かすかに、温かく残っていた。




