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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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乞う声 ―― 「どうして、私はこうなったの」

吹雪は夜を白く塗りつぶし、風はまるで亡霊のように荒れ狂っていた。

リリアンヌは外套の裾を押さえながら、雪に埋もれた道を進む。

指先の感覚はとうに失われ、息を吐くたびに白い霧が揺れる。


やがて、崩れかけた石造りの建物が見えた。

十字架の半分が欠けた古い教会。

――風除けくらいにはなるだろう。


重い扉を押し開けると、冷気と一緒に過去の埃が舞い上がった。

天井はところどころ抜け落ち、祭壇にはひびの入った聖母像。

その顔は雪の粉を被り、まるで泣いているようだった。


リリアンヌは破れた長椅子の隅に腰を下ろし、

冷たい石の床に膝を抱えた。

心臓の鼓動が、暗闇の中でやけに大きく響く。


外では風が唸り、窓の隙間から雪が舞い込んでいた。

――そのとき。

その風の音に混じって、かすかな嗚咽が聞こえた。


最初は幻聴かと思った。

だが、確かに人の声だ。

震えながら、すすり泣く女の声。


(……誰? こんな吹雪の夜に、人が……?)


彼女は慎重に立ち上がり、

足音を殺して声のする方へと歩みを進めた。

祭壇の裏――崩れた柱の影に、小さな影がうずくまっている。


それは一人の女だった。

みすぼらしい麻布のような服を纏い、

泥にまみれた髪が肩に張り付いている。

その手は凍え切って紫色に染まりながらも、

壊れた聖母像に向かって祈りを捧げていた。


震える声が、かすかに漏れる。


「……神さま……どうか……どうか……」


リリアンヌは息を呑み、立ち尽くした。

その姿は、あまりにも痛々しく、

まるで世界に取り残された魂のようだった。


女は、雪明かりの中でゆっくりと顔を上げた。

頬はこけ、唇は血の気を失い、瞳だけが異様なほど濡れていた。


リリアンヌと目が合うと、女は一瞬びくりと身を引き、

まるで獣のように震える声で呟いた。


「……お願い……食べ物を……せめて……少しだけ……」


その声は、かすれ、ひび割れ、祈りとも泣き言ともつかない響きだった。


リリアンヌは黙って腰の袋を探る。

そこには、旅の途中で手に入れた固い黒パンが一切れだけ。

彼女はためらいなくそれを取り出し、差し出した。


「……これしかありませんが。」


女はその手を見つめ、

おそるおそるパンを掴むと、

まるで聖遺物に触れるように両手で包み込んだ。


「ありがとう……ありがとう……神さま……」


パンの端を口に運ぶと、女の頬を涙が伝った。

その涙が、乾いた唇に落ち、塩のように滲む。

音もなく、ただ震えながら食べ続ける。


リリアンヌはその姿を見つめながら、

胸の奥が締めつけられるのを感じた。


――彼女はかつて、貴族の侍女だったという。

仕えていた主が粛清され、財産は没収され、

屋敷を追われたのだと。

それから街を転々とし、乞うことにも疲れ、

この廃れた教会に辿り着いたという。


「あの方のドレスを……磨いていたのに……

いまは……自分の服さえ……」


嗚咽が、崩れた祭壇に反響する。

凍てついた空気が、女の声の震えをすくい上げるように震えた。


リリアンヌはそっと拳を握りしめた。


(この人は……かつての“わたくし”かもしれない……)


名も、家も、仕える理由も失った女。

その姿に、彼女は自分の未来の影を見るような錯覚に囚われた。


風が吹き抜け、聖母像のひび割れた頬をなぞった。

その下で、二人の女はただ黙って座り、

失われた“祈り”の余韻に包まれていた。

女は、手の中の黒パンを食べ終えると、

まるで糸の切れた人形のように肩を落とした。

その指先には、まだパン屑がいくつか残っている。

彼女はそれを見つめたまま、ふと、かすれた声で言った。


「……どうして……私はこうなったの……?」


声は風に溶け、崩れた教会の壁にぶつかって消えた。

それはリリアンヌに向けられた問いではなかった。

神にでも、運命にでもなく、

ただ空虚な夜に投げ捨てるような、痛みそのものの声だった。


彼女の瞳は、涙で曇り、

それでもどこかに答えを探すように、彷徨っていた。


「あの頃は、主の傍にいれば……幸せになれると思ってたの。

なのに、どうして……何もかも、なくなってしまったの……?」


リリアンヌはその言葉を黙って聞いていた。

胸の奥に、冷たい痛みが広がる。

かつて自分も、同じ問いを抱いた夜があった。

名誉、家、愛――それらが崩れ落ちたあと、

彼女は何度も「どうして」と空に問うた。

だが、答えは一度も返ってこなかった。


長い沈黙のあと、リリアンヌはそっと口を開いた。


「“どうして”は……誰にもわかりません。」


その声は、風よりも静かで、けれど凛としていた。


「でも――“どう生きるか”なら、

それは今、この瞬間からでも選べますわ。」


女は顔を上げた。

涙に濡れた頬が、月明かりに照らされる。

しかし、彼女はその言葉の意味を理解できなかった。

理解したくなかったのかもしれない。


彼女は次の瞬間、声を上げて泣き崩れた。

震える肩を抱きしめる者は誰もいない。

リリアンヌはただ、静かにその場に立ち尽くし、

凍てついた空気の中で、その涙の音を聞いていた。


やがて、女の涙が石畳に落ち、

ひと粒、ふた粒と、雪の上で凍りついていく。

その白い結晶が、月光を受けて儚く光った。


(“どうして”と問うのは、人の弱さ。

けれど、“生きたい”と願うのは――まだ、炎の証。)


リリアンヌは静かに目を閉じ、

吹雪の向こうでかすかに鳴る鐘の音を、祈りのように聞いていた。


リリアンヌは、泣き崩れる女の姿を見下ろしていた。

その肩は細く、髪は乱れ、かつての侍女としての誇りのかけらさえも残っていない。

だが――その姿が、あまりにも懐かしく思えた。


(この震え、この絶望……知っているわ。

あの夜、わたくしも同じ場所にいた。)


かつて、すべてを失った夜。

名誉も、立場も、誰かの愛情さえも奪われたあの瞬間――

誰に助けを求めても、届かなかった。

冷たい廊下の片隅で、声にならぬ声を押し殺して泣いた。

その時の己の影が、今、目の前にいる女の中で生きていた。


リリアンヌはふと、唇をかすかに震わせた。


(もしあのとき、誰かが手を伸ばしてくれていたら……

わたくしは、いまこの人のように“乞う声”をあげていたでしょうね。)


雪が降り積もる。

白い世界の中で、彼女はそっと膝をついた。

自分のマントを外し、女の肩にそっと掛ける。

その布はまだ温もりを残しており、女は驚いたように顔を上げた。


リリアンヌは静かに言う。


「この夜が明けたら――あなたは歩きなさい。」


女の瞳が、かすかに揺れた。

リリアンヌは続ける。


「もう、誰かに乞うのではなく。

自分のために、立ちなさい。」


言葉は優しく、それでいて、刃のように真っ直ぐだった。

女は唇を噛み、震える声で「歩けるかしら……」と呟いた。


「ええ。歩けますわ。」


リリアンヌは微笑む。

それは、自分自身に向けた言葉でもあった。

かつて倒れたまま動けなかった“過去の自分”へ――

いまようやく、差し伸べることのできた手だった。


風が静かに吹き抜ける。

壊れた教会の天井から、月光が差し込んだ。

白い光の中で、二人の影が寄り添うように重なり、

やがて、ひとつの祈りのように溶けていった。


夜が、ようやく終わろうとしていた。

吹きすさぶ吹雪は静まり、壊れた天窓の向こうから

淡い光が差し込む。


冷たい石の床の上、女は丸くなり、

幼子のような安らかな寝息を立てていた。

その頬にはまだ涙の跡が残っていたが、

その顔はもう、絶望の色をしていなかった。


リリアンヌはしばらく彼女を見つめていた。

そして、静かに立ち上がる。

マントを羽織り直し、冷たい空気を吸い込む。


(“どうして”という問いを抱えたままでも――

  人は、生きていけるのかもしれない。)


振り返ると、崩れた祭壇の隙間から

朝の光がこぼれていた。

それはまるで、凍りついた時間を

少しずつ溶かしていくようだった。


リリアンヌは一歩、また一歩と雪の中へ踏み出す。

足跡が、白の大地に小さな軌跡を刻んでいく。

振り返ることはなかった。

その足跡はやがて、陽光に溶け、

どこにも残らず消えていった。


ただ、風だけが、彼女の髪を優しく撫でた。

それはまるで――見えぬ誰かが「ありがとう」と囁いたかのように。


ラストモノローグ


「わたくしも、かつて“どうして”と問いました。

答えは、どこにも見つからなかった。

けれど、あの問いを投げかけた日々こそが、

わたくしが生きていた証なのだと思います。


乞う声が、いつか祈りに変わるその瞬間まで――

わたくしは歩き続けましょう。

闇の中でも、声を持つ者として。」




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