灯りの消えた屋敷 ―― 生まれた家の窓が、もう光らない。
夜明け前の雪原を、リリアンヌはひとり歩いていた。
空は薄墨のように静まり返り、遠くの地平線がわずかに白み始めている。
息を吐くたび、白い霧が立ちのぼり、それが風に散っていく。
丘を登りきったとき、彼女はふと足を止めた。
眼下に、あの屋敷が見えた――
カーネリア公爵家。
彼女が生まれ、育ち、そして捨てられた家。
今、その屋敷は闇の中に沈んでいた。
窓という窓がすべて閉ざされ、灯りの一つも見えない。
まるで、誰も住んでいない廃墟のようだった。
リリアンヌの記憶の中のその家は、いつも明るかった。
夜更けまで響く音楽と笑い声。
金の燭台が壁に影を揺らし、香水の甘い香りが廊下を満たしていた。
――あの家は、眠らない光の城だった。
だが、今見えるのは、沈黙と闇。
かつての栄華を包み隠すように、雪が静かに屋根を覆っている。
リリアンヌは、冷たい風に頬を打たれながら、
ゆっくりとその屋敷に向かって囁いた。
「わたくしが出て行ったからではないわ……」
声は凍てついた空に吸い込まれていく。
「きっと、家そのものが“名誉”の炎に焼かれ尽くしたのね。」
唇にかすかな微笑が浮かぶ。
それは悲しみではなく、遠い祈りのようなものだった。
かつて光に溢れていたその家は、今、闇に沈んで眠っている。
そして彼女は――
その闇の外で、生きることを選んだのだ。
冷たい風の中、リリアンヌは丘の上で目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、幼い日の夜――まだ世界があたたかかったころの記憶。
あの冬の晩、雪は静かに降っていた。
幼いリリアンヌは、母の膝に抱かれながら、窓の外を眺めていた。
窓の向こうには、雪の庭を照らす無数の灯り。
枝に吊るされたランタンの光が、白い地面に反射してきらめいている。
> 「お母さま、この家は……星のようね。」
幼い声に、母はそっと微笑んだ。
柔らかな指が、リリアンヌの金の髪を撫でていく。
> 「そうね。あなたがいる限り、この家の灯りは絶やさないわ。」
母の声は、暖炉の火のように優しく、
外の雪明かりと溶け合いながら、永遠に続くように思えた。
――けれど、それはもう届かない声。
あの時の灯りも、あの手のぬくもりも、今は遠い幻。
丘の上で、リリアンヌはかすかに微笑んだ。
それは、失ったものを悼む微笑ではなく、
確かに存在した“愛”を胸に抱く微笑だった。
(“あなたがいる限り”――そう言ってくださったのに。
ならば、わたくしがいなくなった今、
灯りが消えるのも当然ですわね……)
雪が舞う。
そのひとひらひとひらが、かつての光の名残のように、
リリアンヌの肩に静かに降り積もっていった。
雪を踏みしめるたびに、かすかな音が夜の静寂を裂いた。
リリアンヌは丘を降り、かつて自分が“娘”として暮らした屋敷の門へと歩を進める。
かつては衛兵が立ち、犬が吠え、馬車の車輪が鳴り響いていた門前。
今は、ただの白い墓標のように沈黙していた。
門扉の金細工は黒ずみ、紋章の刻まれた鉄の装飾は、冬の霜に覆われている。
見張りの姿もなく、犬の遠吠えもない。
雪の重みで軋む木の音だけが、彼女を迎えた。
リリアンヌはゆっくりと門柱に手を置く。
冷たさが掌を刺し、その痛みがかえって現実を確かめさせる。
> 「……静かすぎますわね。」
誰も答えない。
窓はすべて閉ざされ、あれほど光に満ちていたステンドグラスも、
今は煤け、ひび割れ、月明かりさえ拒んでいる。
風が吹き抜け、マントの裾を揺らした。
その風の音が、まるで鐘のように――名の終わりを告げる鐘のように響く。
> 「この家も、もう“貴族”という夢から覚めたのね。」
声は雪に吸い込まれ、誰にも届かない。
リリアンヌはほんの一瞬だけ目を閉じた。
かつての宴の音、笑い声、シャンデリアの輝き――それらが幻のように遠ざかっていく。
そして彼女は、そっと微笑む。
まるで、永い夜に眠る家に別れを告げるように。
> (眠りなさい、カーネリアの名よ。
わたくしが“光”だった時代は、もう過ぎたのだから……)
雪が再び舞い、屋敷の影を包み込んだ。
光のないその屋敷は、もはや誰の誇りでもなく、
ただひとつの“終わった名”として、沈黙の中に沈んでいた。
リリアンヌは雪の上に膝をつき、冷たい空気の中でそっと息を整えた。
胸の奥に、微かな重みがある。
それは旅立つ前の夜、ずっと懐に忍ばせていた小さな燭台――
かつて父が贈ってくれた、銀細工の誕生日の品だった。
彼女はそれを掌に包み込み、指先で埃を払いながら微笑む。
> 「覚えていますか、お父さま。
あの日、あなたは“この光が、おまえを守る”とおっしゃったのよ。」
言葉は雪に溶け、返事はない。
それでも彼女は、ひとつ頷いて蝋燭に火をともす。
ぱち、と小さな音を立てて炎が揺れた。
風に煽られながらも、白い息のようにかすかに明滅し、
やがて夜の闇に細い光の柱を描く。
リリアンヌはそれを見つめ、門前の雪の上にそっと置いた。
まるで墓碑の前に花を供えるように。
> 「この光は、“娘”としてのわたくしの最後の証。
どうか、これで眠ってくださいな――“家”という名の亡骸よ。」
その声は祈りのようでもあり、別れの呟きのようでもあった。
風が止み、雪がしんしんと降り始める。
炎は震えながらも、なお真っすぐに立ち上がり、
最後の瞬間まで、凛とした美しさを保っていた。
――そして、ふっと、音もなく消えた。
闇が戻る。
だがリリアンヌの瞳の中には、まだその灯りの残像が揺れていた。
それはもう屋敷を照らす光ではなく、
彼女自身の心の奥に宿った、消えない“誇り”の焔だった。
屋敷の灯りは、二度と戻らなかった。
雪に埋もれた窓も、沈黙を保ったまま。
かつて幾千の蝋燭が輝き、舞踏の笑い声がこだましたその家は、
今や凍てついた時間の中で、ひとつの記憶として眠っている。
けれど――空の端が、かすかに染まり始めていた。
夜を割るように、薄明の光が雲を金色に染めていく。
その光を見上げながら、リリアンヌは小さく息を吐いた。
> 「灯りは消えても、夜が明ける。
ならば――この世界のどこかに、新しい窓を探せばいい。」
彼女は雪を踏みしめ、静かに背を向けた。
振り返ることはしない。
その足跡は、もはや“帰る道”ではなく、
まだ名も持たぬ未来へと続く一筋の道となっていた。
風が吹き抜ける。
その音は、まるで屋敷の亡霊たちが最後に見送る祈りのよう。
リリアンヌはマントを翻し、遠くの朝の光の中へと消えていく。
ラストモノローグ
「灯りが消えるのは、終わりではなく――
次の夜明けを迎えるための準備。
わたくしが生まれた家が眠りにつくなら、
今度は、わたくしが新しい灯をともしましょう。
たとえこの身が“罪の名”を抱いたままでも、
それでも、美しく――燃えるために。」




