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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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夜の逃走 ―― ドレスを脱ぎ捨て、雪の道を走る

王都の大広間に、弦の音が流れていた。

 煌びやかなシャンデリアの下で、人々は優雅に舞い、笑い、祝福を装っていた。

 だがその光の中心に立つ女――リリアンヌ・カーネリアの姿を見た瞬間、会場の空気はわずかにざわめいた。


 誰もが彼女を知っている。

 かつて公爵家の令嬢と呼ばれ、誰よりも美しく、誰よりも気高いと讃えられた女。

 ――そして、今はすべてを失った、恥辱の名で呼ばれる存在。


 招待状が届いたとき、彼女はすでにその意味を悟っていた。

 これは栄誉ではなく、嘲り。

 貴族社会という舞台が、堕ちた花を飾り立てて笑うための“夜会”だった。


 絹のドレスが舞踏の光にきらめく。

 だがリリアンヌの瞳は、氷のように静かだった。

 ――その沈黙を、王太子の声が裂いた。


「身分を偽り、この場に立つとは――恥を知れ。」


 楽団が一斉に音を止めた。

 杯を掲げていた者たちの手が止まり、会場のざわめきが凍りつく。

 視線という無数の刃が、彼女の肌に突き刺さった。


 リリアンヌは、ゆっくりと一歩前に出た。

 その姿には怯えも屈辱もなく、ただ静かな決意だけがあった。

 ――舞踏の終わりを告げるように、彼女は深く一礼する。


「恥を知るのは、人を見下す心のほうですわ。」


 一瞬、誰も息をしなかった。

 王太子の表情が凍り、笑い声が消える。

 そして、リリアンヌは背筋を伸ばし、ドレスの裾を掴んで踵を返した。


 群衆が左右に割れ、赤い絨毯の上に彼女の足音だけが響く。

 その音は、かつての令嬢の優雅な歩みではなかった。

 ――鎖を断ち切る者の、孤独な解放の音だった。


 扉が開き、冷たい夜気が吹き込む。

 灯の海の中で、彼女だけが闇のほうへと歩み去る。

 誰も引き留めなかった。

 そしてその背に、最後の楽の音が、まるで嘲笑のように消えていった。


 夜の王都に、雪が降り始めていた。

 白い粒が静かに舞い、石畳を覆い隠していく。

 その中を、ひとりの女が駆けていた。


 ――リリアンヌ・カーネリア。

 かつて公爵家の名を背負い、今は“罪人”の影を背負う者。


 屋敷の裏門を抜けた瞬間、背後から鋭い声が響く。


「待て! その女を捕らえろ!」


 振り返ることなく、彼女は夜の街へと飛び込んだ。

 雪の降りしきる石畳を、薄いドレスの裾を翻しながら。


 冷たい風が頬を刺し、髪を乱す。

 だがその痛みが、むしろ生の証として彼女を駆り立てる。


 ――重いドレスが足を絡め取る。

 リリアンヌは決然と手を伸ばし、布を裂いた。

 絹が裂ける乾いた音が、夜に吸い込まれる。


 > 「もう、この衣もいりませんわ。」


 宝石の縫い付けられた靴が雪に沈み、動きを鈍らせる。

 彼女はためらいなくそれを脱ぎ捨てた。

 裸足が雪を踏み、白の上に赤が滲む。

 足裏を裂く冷たさと痛み――それが、彼女にとっての“現実”だった。


 路地裏を縫うように走る。

 灯の届かない細道を、肩で息をしながら駆け抜ける。

 衛兵たちの声は次第に遠のき、代わりに雪の音だけが残る。


 > (わたくしは逃げているのではない……)

 > (ただ、“自分の名”を取り戻しに行くの。)


 闇の中で、白い息がかすかに光る。

 遠くで鐘の音が鳴る。

 それは彼女の罪を告げる音ではなく、

 ――自由への門が開く合図のように響いていた。


王都の明かりが遠ざかるにつれ、世界は音を失っていった。

 門を越え、街を抜け、リリアンヌは雪原へと足を踏み出す。


 夜空には、淡い月。

 その光が、凍てついた大地を青白く照らしていた。


 風が頬を裂くように吹き抜ける。

 裂いたドレスの裾が翻り、解けたリボンが宙に舞う。

 肩が露わになり、肌を刺すような冷気が触れる。

 それでも、彼女は止まらなかった。


 裸足で踏みしめる雪は、鋭い刃のように痛い。

 それでも足を前に出すたび、何かが少しずつ剥がれ落ちていく。

 貴族の名、礼儀、虚飾、忠誠――

 すべてが、白い息とともに夜へと消えていく。


 やがて息が荒くなり、足が痺れ、体の感覚が遠のく。

 それでも、胸の奥だけが確かに熱かった。


 > 「寒い……けれど、あたたかい。」


 その呟きは、凍える風に溶けて消えた。

 けれど彼女の唇には、かすかな笑みが浮かんでいた。


 ――初めてだった。

 誰の命令にも従わず、誰の視線にも怯えず、

 ただ自分の意志だけで歩く夜。


 冷たさの中に宿る自由の温度が、

 彼女の心に火を灯していた。


丘を登りきったとき、世界は静寂に包まれていた。

 遠くで、衛兵たちの怒声が風にかき消されていく。

 もう誰も追ってこない。

 ただ、吹きすさぶ夜風だけが、彼女の背を押していた。


 息が白く散り、膝が雪に沈む。

 指先は凍え、震えながらも、リリアンヌは胸元へと手を伸ばした。

 ドレスの隙間から、銀の首飾りが覗く。

 ――カーネリア公爵家の紋章。

 その小さな徽章が、月光を受けて淡く輝いた。


 彼女は指先でそれを掴む。

 金属が冷たく、指に痛みが走る。

 けれど、その痛みが、確かに“自分のもの”のように感じられた。


 > 「もう、あなたの“娘”ではありませんわ。」


 小さく呟くと、リリアンヌは首飾りを雪の中に落とした。

 銀の鎖がほどけ、静かな音を立てて埋もれていく。

 指先に残った温もりを確かめるように、彼女は掌を見つめた。


 雪がその上に降り積もる。

 やがて、徽章の光は完全に消えた。


 立ち上がったリリアンヌの背後では、

 王都の灯が遠く霞んでいる。

 その光の下で、彼女のすべてが塗り替えられていくのを感じながら――

 彼女は、ゆっくりと夜の向こうへ歩き出した。


 もう、公爵家の娘ではない。

 けれど、ひとりの“リリアンヌ”として、確かに生きていた。



夜が、静かにほどけていく。

 東の空に淡い青が差し込み、雪原はゆっくりと黄金の光を帯び始めた。

 吹雪の名残が、きらきらと宙を舞い、まるで世界が新しい息を吸い込むようだった。


 リリアンヌはその中に立ち尽くしていた。

 裸足の足跡は赤く、長く続いている。

 けれど、血の色も朝日に溶け、やがて白に飲まれていく。


 彼女は両手を胸の前で合わせ、凍りついた指先に息を吹きかけた。

 吐息が淡い光を帯び、掌に戻ってくるように感じられる。

 その温もりを確かめながら、彼女はそっと微笑んだ。


 > 「これが、わたくしの“はじまり”なのね。」


 その声は雪の上で吸い込まれ、やがて遠くへ消えていった。


 遠方――王都の方角から、朝を告げる鐘の音が響く。

 かつては目覚めの合図だった音。

 今の彼女には、それが“過去の終焉”を告げる鐘にしか聞こえなかった。


 雪を踏む音が、再び一歩、また一歩と響く。

 振り返れば、足跡は一本の道となって、夜の名残の闇へと続いていた。

 彼女はもう、そこへ戻ることはない。


ラストモノローグ


「名を捨て、誇りを脱ぎ、血の足跡を刻んでも――

わたくしは、生きる。

誰の娘でもなく、誰の所有物でもない、ただの“わたくし”として。

この白の夜明けに誓いましょう。

世界のすべてが背を向けても、

わたくしは、わたくしを見失いません。」





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