友の微笑み ―― 「ごめんなさい」と言ったのは、彼女ではなかった。
街の外れ。かつて貴族たちが愛した庭園の片隅に、今は誰も訪れぬ温室があった。
ひび割れたガラスの向こうで、蔦が静かに絡み合い、忘れられた季節の香りがほのかに残っている。
リリアンヌは、扉を押して中へ入った。
湿った土の匂いと、崩れかけた植木鉢。
――ここは、あの頃の“約束”の場所。
セリアと並んで、花を植えた。
春が来たら咲かせようと笑い合った。
未来を語ることが、幸福の形だと信じていた。
けれど今、その未来はどこにもない。
ガラス越しの光が、彼女の金の髪を淡く照らす。
風が吹き抜け、蔦が揺れ、静寂が再び訪れる――そのとき。
背後から、かすかな足音。
リリアンヌがゆっくりと振り向くと、
そこに立っていたのは、かつての友――セリアだった。
かつて明るい笑顔で世界を照らした少女は、
今はためらいがちに手を胸の前で組み、
唇を噛みながら、ようやく声を絞り出す。
> 「……リリアンヌ。本当に、あなたなのね。」
再会の言葉に、リリアンヌは微笑を返す。
けれど、互いの間を隔てる空気は、昔よりもずっと冷たかった。
セリアの瞳には、懐かしさよりも――罪悪感の影が揺れていた。
まるで、“ごめんなさい”という言葉を言い出す前に、
その重みで息を詰まらせているかのように。
朽ちた温室の片隅、割れたガラス越しに午後の光が差し込んでいた。
蔦の影が二人の足元を横切り、まるで過去の記憶が形を変えて這い寄ってくるようだった。
リリアンヌとセリアは、向かい合って座る。
小さな木の椅子――かつて一緒に花を植えたときに使っていたもの。
だが今、その間に咲くのは沈黙だけだった。
セリアが唇を噛み、ようやく声を絞り出す。
> 「ごめんなさい……リリアンヌ。あのとき、わたし……何も言えなかったの。
> あなたが非難されるのを、ただ見ているしかなかった……!」
リリアンヌは微笑みを浮かべた。
それは優しさというよりも、終わりを受け入れた者の穏やかさ。
> 「いいのよ。
> あなたまで傷ついてほしくはなかったもの。」
けれど、その言葉はセリアの涙を止められなかった。
彼女の肩が小刻みに震え、堰を切ったように嗚咽がこぼれる。
> 「――あの告発文を、提出したのは……わたしの婚約者よ。
> 王家のご機嫌を取るために、あなたを犠牲にしたの。」
リリアンヌの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。
だが、彼女は何も言わなかった。
ただ、指先で膝の上の布をなぞりながら、
そっと瞳を閉じる。
> (そう……わたくしの罪は、“彼”の都合で作られたもの。
> けれど、それを赦せないのは――わたくしではなく、きっとこの世界の方ね。)
目を開いたとき、リリアンヌの表情には怒りも憎しみもなかった。
ただ、ひとつの真実を見届けた者の静かな哀しみが宿っていた。
風が、壊れかけた温室の天井をくぐり抜ける。
乾いた蔦が揺れ、枯れた花びらが二人の間をひらりと舞った。
セリアはもう、立っていられなかった。
椅子を離れ、膝をつき、震える手でリリアンヌの指を掴む。
> 「謝らせて……お願い。
> あなたにだけは、本当に“ごめんなさい”が言いたいの。」
その声は、懺悔というより、祈りに近かった。
罪を赦されたいのではなく――ただ、彼女の胸に触れたかったのだ。
リリアンヌは静かにその手を包む。
冷たい指先を、まるで幼い日の友をあやすように温めながら、微笑む。
> 「“ごめんなさい”を言うのは、あなたではありませんわ。
> でも――あなたが泣いてくれるなら、それで十分です。」
セリアの瞳から、またひとすじの涙が落ちる。
それは陽光を受けて、ガラスの破片のようにきらめいた。
> (ああ、この微笑み……。
> あの頃と何も変わらない――
> まるで、時間が一度だけ優しく戻ったみたい……)
風が吹き抜け、蔦の葉が音を立てて散る。
その一瞬、世界はまるで永遠の午後のように静かだった。
リリアンヌはそっと目を細める。
> (この微笑みは、あの頃の“友”のまま。
> 嘘でも、幻でも――わたくしには、それでいいのですわ。)
彼女の頬に、遅れて一枚の蔦が落ちる。
その緑の影が、涙とともにゆっくりと溶けていった。
沈黙が、ふたりの間に降り積もっていた。
風は止み、壊れた温室の硝子越しに、灰色の空がのぞいている。
リリアンヌとセリアは、ゆっくりと立ち上がり、互いに歩み寄った。
抱きしめ合った瞬間――
それは懐かしさでも赦しでもなく、
まるで“物語の幕が閉じる”ときに響く静寂のようだった。
> セリア:「……もう、会えないのね。」
> リリアンヌ:「ええ。でも、わたくしの中では――ずっと会っていましたわ。」
リリアンヌの声は穏やかで、まるで春の終わりの風のように柔らかかった。
セリアは何も言えず、ただその香りと体温を胸に刻む。
やがて、抱擁がほどける。
リリアンヌは一歩下がり、静かに微笑むと、温室の出口へと向かった。
足音が消える。
開け放たれた扉の外で、枯れた蔦が風に揺れる。
彼女の姿が完全に見えなくなったあとも、
セリアはその場に立ち尽くしていた。
そして――リリアンヌが座っていた椅子にそっと手を伸ばす。
木の表面に、ほんのりと温もりが残っている。
> (この温もりが、消えてしまう前に……
> どうか、もう一度だけ――あの笑顔を思い出させて。)
だが、指先にあった熱は、すぐに空気へと溶けていった。
温室の中には、ただ風と、花のない庭の匂いだけが残った。
街外れの石畳を、リリアンヌはゆっくりと歩いていた。
夕暮れの光が、かつての庭園の影を淡く染めていく。
風が通り抜け、頬を撫でるたび、遠い記憶の匂いがした。
ふと、彼女は足を止める。
静寂の中、確かに――誰かの声が、風に溶けて届いた気がした。
> 「――ごめんなさい。」
その言葉は、あまりにも優しく、あまりにも遠かった。
振り向いても、そこには誰もいない。
ただ、沈みゆく陽光の中で、蔦の葉が金色に揺れていた。
リリアンヌは目を閉じる。
そして、ゆっくりと微笑む。
> (ああ……“ごめんなさい”って言ったのは、
> あの子ではなく、きっと“過去のわたくし”だったのね。)
彼女の瞳に、もう涙はなかった。
ただ静かに、穏やかに――心の奥の痛みが溶けていく。
そして、薄紅の空を仰ぎながら、
小さく呟く。
> 「赦しとは、他人のための言葉ではなく、
> 自分を許すための祈り。
> もう誰も謝らなくていい。
> わたくしが、わたくしに微笑むことで――
> すべてを終わらせましょう。」
その瞬間、風が再び吹き抜けた。
どこかで小鳥の声が響き、落ち葉が一枚、リリアンヌの肩に舞い落ちる。
彼女はそれをそっと指で払った。
歩き出す足取りは、もう迷いの影を残していなかった。




