表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

46/75

使用人の視線 ―― あれほどの忠誠は、一夜で冷たくなった。

夜が明けきらぬ頃、リリアンヌはゆっくりと支度を整えていた。

 鏡の中の自分は、どこか遠い他人のように見える。


 昨日――父から告げられた「縁籍除名」。

 それは名と血と、すべての絆を奪い去る宣告。

 そして今朝、彼女は“元カーネリア家の娘”として、最後の朝を迎えていた。


 静まり返った廊下に、靴音が響く。

 その音が、かつては誇らしく響いた自分の歩みの名残であることに気づくと、

 胸の奥にかすかな痛みが走った。


 廊下の端では、侍女たちが花瓶を替えていた。

 いつもなら彼女の姿を見つけると微笑み、

 「おはようございます、お嬢様」と声をかけてくれる。


 だが――今日は、誰も顔を上げなかった。

 彼女の靴音が近づくたびに、彼女らは背筋を伸ばし、

 まるで何も見なかったかのように手を止める。


 リリアンヌは足を止め、そっと息を吐く。

 > (あの“お嬢様”という言葉の響きが、

   もう誰の口にも戻らないなんて……)


 いつからだろう。

 微笑が、礼が、声が、

 すべて“名”に向けられていたのだと気づいたのは。


 彼女が再び歩き出すと、廊下の空気がわずかに揺れた。

 その動きはまるで――彼女という存在を避けるために

 屋敷全体が呼吸を変えているかのようだった。


 > (わたくしが消えても、この家は完璧に動き続ける。

   ……まるで最初から、わたくしなどいなかったみたいに。)


 リリアンヌは視線を上げ、

 高い天井の装飾を見つめながら静かに微笑んだ。


 ――屋敷全体が、“彼女がいなかった世界”として動き始めている。

 その静寂の中で、彼女はただ一人、

 過去の自分を置き去りにして歩き続けた。


最後のトランクに、淡い薔薇色のリボンが収められた。

 それは幼い日の記念として、リリアンヌがいつも鏡台の隅に飾っていたもの。


 荷造りをしているのは、侍女アリス――

 幼い頃からずっと、リリアンヌの側に仕えてきた女性だった。


 かつては彼女の髪を編みながら、

 「お嬢様は、きっと素敵な奥様になりますわ」と笑ってくれた人。

 その声が、今はもう響かない。


 アリスの指先は震え、包みの紐を結ぶたびに小さな音を立てた。

 そのぎこちなさが、言葉以上に距離を物語っていた。


 リリアンヌは、静かにその背に声をかけた。

 > 「アリス……いろいろとありがとう。

   あなたのおかげで、どんな朝も穏やかに迎えられましたわ。」


 アリスはびくりと肩を震わせ、一歩下がった。

 やがて、ゆっくりと目を伏せたまま言う。


 > 「……もう、“お嬢様”とはお呼びできません。

   申し訳ございません。」


 部屋の空気が凍るように静まり返る。

 リリアンヌは一瞬だけ息を止め、

 それから微笑みを浮かべた――まるで、冷たい花びらを包み込むように。


 > 「いいのです。呼び方が変わっても、

   あなたが手を貸してくれたこと、わたくしは忘れませんわ。」


 アリスの唇が震える。

 けれど言葉は、喉の奥で凍ったまま。


 深く礼をして、彼女は背を向けた。

 扉が閉まる音が、静かに響く。


 ――その背中には、忠誠の影ではなく、

 “恐れ”という名の距離が滲んでいた。


 リリアンヌはただ、残された空気の中で小さく呟く。

 > 「仕方のないことですわね……

   人は、氷のように冷たくなることで、自分を守るのだから。」


 手に残るのは、アリスが結んだ最後の紐の感触。

 それはかつての温もりの名残であり、

 決して戻らぬ日々の証でもあった。


昼下がりの陽が、長い食卓に淡い光を落としていた。

 銀器のきらめき、パンを裂く音、スープの香り。

 すべてが“日常”のようでいて――その中心には、目に見えぬ緊張が漂っていた。


 リリアンヌが静かに扉を開けた瞬間、

 ざわめきがすっと消えた。

 十数人の使用人たちは、まるで息を合わせたように視線を落とす。


 昨日まで彼女の席だった場所――

 上座のすぐ横、窓際の明るい一角。

 そこに歩み寄った彼女が椅子に手をかけると、

 年長の給仕がすぐに立ち上がり、無言でその椅子を片付けた。


 金属の脚が床を擦る音だけが、やけに大きく響く。


 > 「……ここは、もう公爵家の方の席ではありません。」


 淡々と告げる声。

 そこに敵意はなかった――だが、敬意もまたなかった。


 リリアンヌは一瞬、指先にかけた力を抜き、

 静かに微笑んだ。


 > 「ええ。ならば、ここは“過去のわたくし”の場所でしたわね。」


 誰も返さない。

 ただ、一瞬だけスプーンの動きが止まり、

 すぐに、再びスープをすくう音が戻ってきた。


 その音は、あたかも「何事もなかった」と言い聞かせるように均一で、

 彼女の存在を“空気”のように扱うための儀式にも思えた。


 リリアンヌは空いた端の席に腰を下ろし、

 パンを小さくちぎって口に運ぶ。

 味はしない――けれど、不思議と涙も出なかった。


 > (わたくしがここで何を食べても、

   もう誰の記憶にも残らないのね。)


 食器の音が響く中、

 彼女だけが静かに微笑んでいた。

 その微笑は、かつての誇りの残響。

 そして、“見えない壁”を越えられぬ者への最後の礼儀だった。


玄関の扉が見える。

 その向こうには、もう“家”の庇護はない。

 リリアンヌは、最後の荷を持ったまま静かに振り返った。


 廊下の奥――

 白い手袋をはめた執事ローレンスが、

 まっすぐな背筋のまま、彼女の前に立っていた。


 彼の髪には白いものが混じり、長年の仕えぶりを語っている。

 かつては彼の一声で屋敷全体が動いた。

 だが今、その声は震え、低く絞り出すようだった。


 > 「……お嬢様。」


 呼びかけの瞬間、

 ローレンスの喉が詰まった。

 その称号が、もう許されぬ言葉であることを知っていたから。


 それでも、彼は続けた。


 > 「この屋敷の誰もが、あなたに忠誠を誓っておりました。

   けれど――“家”という鎖は、思った以上に重いのです。」


 その声には、悔恨の色があった。

 彼自身もまた、その鎖のひとつであることを理解していた。


 リリアンヌは黙ってその言葉を受け止め、

 やがて、かすかな微笑みを浮かべた。


 > 「わかっています。

   人は……恐れの中でしか仕えることができないものですもの。」


 ローレンスの眉がかすかに震える。

 忠誠と恐れ――それは、彼が最も嫌う混ざりものだった。

 それでも否定はできない。

 彼の忠誠が“家”という檻の内側でしか生きられなかったことを。


 > 「お許しください……何も、守れず。」


 その言葉とともに、老執事は深く、深く頭を下げた。

 白い手袋が、床に触れるほどに。


 リリアンヌは小さく首を振り、

 その肩にそっと手を置いた。


 > 「あなたの忠誠は、確かにわたくしの中に残ります。

   ――もう、誰にも命じられずに生きてくださいませ。」


 ローレンスの瞳に、一瞬だけ光が宿った。

 だが、それが涙なのか誇りなのか、

 誰にもわからなかった。


 リリアンヌが扉を開けると、

 冬の風が屋敷の奥まで吹き抜けた。

 ローレンスはその場に立ち尽くし、

 去っていく背に、静かに祈りを捧げた。


 > 「……お嬢様。

   どうか、鎖のない世界で。」


重い扉が、静かに開いた。

 冬の朝の光が、屋敷の暗がりを裂くように差し込む。

 その光の中に、リリアンヌの影がゆっくりと伸びていく。


 彼女は一歩、また一歩と玄関の敷居を越える。

 背後で、衣擦れの音がかすかに響く。

 ――それは見送りではなく、ただ“日常”が動いている音だった。


 誰も声をかけない。

 誰も視線を向けない。

 昨日まで彼女に頭を下げ、名を呼び、仕えていた者たちが、

 まるでそこに彼女がいないかのように、沈黙の中に立っていた。


 > (これほど多くの人に囲まれていたのに――

   今は、ただの一人の足音しか響かない。)


 足元の石畳が、冷たい。

 その冷たさが、不思議と心地よくもあった。

 名も、地位も、温もりさえも失った彼女にとって、

 それはようやく“現実”を感じられる感触だった。


 門の前に立ち、リリアンヌは振り返る。


 屋敷の窓はすべて閉ざされ、

 カーテンの隙間からも光は漏れてこない。

 まるで巨大な墓標のように、

 静かで、重く、息づかいのない建物がそこにあった。


 その沈黙の中に、

 彼女は確かに、かつての“忠誠”の名残を見た。

 笑顔、挨拶、仕える手。

 それらすべてが今は凍りつき、

 それでも消えはしなかった記憶として胸に残っている。


 > 「忠誠とは、与えられた名に仕える心。

   けれど、それが剥がれ落ちたとき――人の温度も消える。

   あれほどの忠誠が、一夜で冷たくなったとしても。

   わたくしは、信じましょう。

   あの微笑の一つ一つが、かつて本物だったことを。」


 風が吹き抜ける。

 マントの裾がはためき、彼女の髪が陽の光を受けて揺れた。


 その瞬間――

 屋敷の影が、遠ざかる。

 忠誠の墓場を後にして、

 リリアンヌ・ド・カーネリアは“誰の娘でもない”世界へと歩き出した。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ