使用人の視線 ―― あれほどの忠誠は、一夜で冷たくなった。
夜が明けきらぬ頃、リリアンヌはゆっくりと支度を整えていた。
鏡の中の自分は、どこか遠い他人のように見える。
昨日――父から告げられた「縁籍除名」。
それは名と血と、すべての絆を奪い去る宣告。
そして今朝、彼女は“元カーネリア家の娘”として、最後の朝を迎えていた。
静まり返った廊下に、靴音が響く。
その音が、かつては誇らしく響いた自分の歩みの名残であることに気づくと、
胸の奥にかすかな痛みが走った。
廊下の端では、侍女たちが花瓶を替えていた。
いつもなら彼女の姿を見つけると微笑み、
「おはようございます、お嬢様」と声をかけてくれる。
だが――今日は、誰も顔を上げなかった。
彼女の靴音が近づくたびに、彼女らは背筋を伸ばし、
まるで何も見なかったかのように手を止める。
リリアンヌは足を止め、そっと息を吐く。
> (あの“お嬢様”という言葉の響きが、
もう誰の口にも戻らないなんて……)
いつからだろう。
微笑が、礼が、声が、
すべて“名”に向けられていたのだと気づいたのは。
彼女が再び歩き出すと、廊下の空気がわずかに揺れた。
その動きはまるで――彼女という存在を避けるために
屋敷全体が呼吸を変えているかのようだった。
> (わたくしが消えても、この家は完璧に動き続ける。
……まるで最初から、わたくしなどいなかったみたいに。)
リリアンヌは視線を上げ、
高い天井の装飾を見つめながら静かに微笑んだ。
――屋敷全体が、“彼女がいなかった世界”として動き始めている。
その静寂の中で、彼女はただ一人、
過去の自分を置き去りにして歩き続けた。
最後のトランクに、淡い薔薇色のリボンが収められた。
それは幼い日の記念として、リリアンヌがいつも鏡台の隅に飾っていたもの。
荷造りをしているのは、侍女アリス――
幼い頃からずっと、リリアンヌの側に仕えてきた女性だった。
かつては彼女の髪を編みながら、
「お嬢様は、きっと素敵な奥様になりますわ」と笑ってくれた人。
その声が、今はもう響かない。
アリスの指先は震え、包みの紐を結ぶたびに小さな音を立てた。
そのぎこちなさが、言葉以上に距離を物語っていた。
リリアンヌは、静かにその背に声をかけた。
> 「アリス……いろいろとありがとう。
あなたのおかげで、どんな朝も穏やかに迎えられましたわ。」
アリスはびくりと肩を震わせ、一歩下がった。
やがて、ゆっくりと目を伏せたまま言う。
> 「……もう、“お嬢様”とはお呼びできません。
申し訳ございません。」
部屋の空気が凍るように静まり返る。
リリアンヌは一瞬だけ息を止め、
それから微笑みを浮かべた――まるで、冷たい花びらを包み込むように。
> 「いいのです。呼び方が変わっても、
あなたが手を貸してくれたこと、わたくしは忘れませんわ。」
アリスの唇が震える。
けれど言葉は、喉の奥で凍ったまま。
深く礼をして、彼女は背を向けた。
扉が閉まる音が、静かに響く。
――その背中には、忠誠の影ではなく、
“恐れ”という名の距離が滲んでいた。
リリアンヌはただ、残された空気の中で小さく呟く。
> 「仕方のないことですわね……
人は、氷のように冷たくなることで、自分を守るのだから。」
手に残るのは、アリスが結んだ最後の紐の感触。
それはかつての温もりの名残であり、
決して戻らぬ日々の証でもあった。
昼下がりの陽が、長い食卓に淡い光を落としていた。
銀器のきらめき、パンを裂く音、スープの香り。
すべてが“日常”のようでいて――その中心には、目に見えぬ緊張が漂っていた。
リリアンヌが静かに扉を開けた瞬間、
ざわめきがすっと消えた。
十数人の使用人たちは、まるで息を合わせたように視線を落とす。
昨日まで彼女の席だった場所――
上座のすぐ横、窓際の明るい一角。
そこに歩み寄った彼女が椅子に手をかけると、
年長の給仕がすぐに立ち上がり、無言でその椅子を片付けた。
金属の脚が床を擦る音だけが、やけに大きく響く。
> 「……ここは、もう公爵家の方の席ではありません。」
淡々と告げる声。
そこに敵意はなかった――だが、敬意もまたなかった。
リリアンヌは一瞬、指先にかけた力を抜き、
静かに微笑んだ。
> 「ええ。ならば、ここは“過去のわたくし”の場所でしたわね。」
誰も返さない。
ただ、一瞬だけスプーンの動きが止まり、
すぐに、再びスープをすくう音が戻ってきた。
その音は、あたかも「何事もなかった」と言い聞かせるように均一で、
彼女の存在を“空気”のように扱うための儀式にも思えた。
リリアンヌは空いた端の席に腰を下ろし、
パンを小さくちぎって口に運ぶ。
味はしない――けれど、不思議と涙も出なかった。
> (わたくしがここで何を食べても、
もう誰の記憶にも残らないのね。)
食器の音が響く中、
彼女だけが静かに微笑んでいた。
その微笑は、かつての誇りの残響。
そして、“見えない壁”を越えられぬ者への最後の礼儀だった。
玄関の扉が見える。
その向こうには、もう“家”の庇護はない。
リリアンヌは、最後の荷を持ったまま静かに振り返った。
廊下の奥――
白い手袋をはめた執事ローレンスが、
まっすぐな背筋のまま、彼女の前に立っていた。
彼の髪には白いものが混じり、長年の仕えぶりを語っている。
かつては彼の一声で屋敷全体が動いた。
だが今、その声は震え、低く絞り出すようだった。
> 「……お嬢様。」
呼びかけの瞬間、
ローレンスの喉が詰まった。
その称号が、もう許されぬ言葉であることを知っていたから。
それでも、彼は続けた。
> 「この屋敷の誰もが、あなたに忠誠を誓っておりました。
けれど――“家”という鎖は、思った以上に重いのです。」
その声には、悔恨の色があった。
彼自身もまた、その鎖のひとつであることを理解していた。
リリアンヌは黙ってその言葉を受け止め、
やがて、かすかな微笑みを浮かべた。
> 「わかっています。
人は……恐れの中でしか仕えることができないものですもの。」
ローレンスの眉がかすかに震える。
忠誠と恐れ――それは、彼が最も嫌う混ざりものだった。
それでも否定はできない。
彼の忠誠が“家”という檻の内側でしか生きられなかったことを。
> 「お許しください……何も、守れず。」
その言葉とともに、老執事は深く、深く頭を下げた。
白い手袋が、床に触れるほどに。
リリアンヌは小さく首を振り、
その肩にそっと手を置いた。
> 「あなたの忠誠は、確かにわたくしの中に残ります。
――もう、誰にも命じられずに生きてくださいませ。」
ローレンスの瞳に、一瞬だけ光が宿った。
だが、それが涙なのか誇りなのか、
誰にもわからなかった。
リリアンヌが扉を開けると、
冬の風が屋敷の奥まで吹き抜けた。
ローレンスはその場に立ち尽くし、
去っていく背に、静かに祈りを捧げた。
> 「……お嬢様。
どうか、鎖のない世界で。」
重い扉が、静かに開いた。
冬の朝の光が、屋敷の暗がりを裂くように差し込む。
その光の中に、リリアンヌの影がゆっくりと伸びていく。
彼女は一歩、また一歩と玄関の敷居を越える。
背後で、衣擦れの音がかすかに響く。
――それは見送りではなく、ただ“日常”が動いている音だった。
誰も声をかけない。
誰も視線を向けない。
昨日まで彼女に頭を下げ、名を呼び、仕えていた者たちが、
まるでそこに彼女がいないかのように、沈黙の中に立っていた。
> (これほど多くの人に囲まれていたのに――
今は、ただの一人の足音しか響かない。)
足元の石畳が、冷たい。
その冷たさが、不思議と心地よくもあった。
名も、地位も、温もりさえも失った彼女にとって、
それはようやく“現実”を感じられる感触だった。
門の前に立ち、リリアンヌは振り返る。
屋敷の窓はすべて閉ざされ、
カーテンの隙間からも光は漏れてこない。
まるで巨大な墓標のように、
静かで、重く、息づかいのない建物がそこにあった。
その沈黙の中に、
彼女は確かに、かつての“忠誠”の名残を見た。
笑顔、挨拶、仕える手。
それらすべてが今は凍りつき、
それでも消えはしなかった記憶として胸に残っている。
> 「忠誠とは、与えられた名に仕える心。
けれど、それが剥がれ落ちたとき――人の温度も消える。
あれほどの忠誠が、一夜で冷たくなったとしても。
わたくしは、信じましょう。
あの微笑の一つ一つが、かつて本物だったことを。」
風が吹き抜ける。
マントの裾がはためき、彼女の髪が陽の光を受けて揺れた。
その瞬間――
屋敷の影が、遠ざかる。
忠誠の墓場を後にして、
リリアンヌ・ド・カーネリアは“誰の娘でもない”世界へと歩き出した。




