父の判決 ―― 名誉のために、娘を捨てる。
母との面会から、まだ幾晩も経たぬうちに――
リリアンヌのもとに、再び屋敷の紋章入りの封書が届いた。
封蝋の赤は、まるで血のように濃く、
そこに刻まれた「公爵印」は、すでに情を許さぬ冷たさを帯びていた。
差出人は、父。
カーネリア公爵・グレゴール。
文面には、簡潔な一文だけが記されていた。
――「家名に関する最終決裁を行う。直ちに本邸へ参上せよ。」
形式的な言葉。だが、その一語一句が「判決」の響きを帯びている。
それは“呼び出し”ではなく、“裁き”の通告にほかならなかった。
◆
馬車が屋敷の門をくぐる。
幼い頃、幾度もその門をくぐり、父の帰りを待ち焦がれた道。
けれど今、衛兵も、門番も、誰一人として声をかけなかった。
ただ、儀礼的に鉄の扉を開くだけ――まるで亡霊を迎えるかのように。
中庭に咲く薔薇の花壇が、かつてよりも整然としている。
だが、その整いすぎた姿が、なぜだか息苦しく感じられた。
(父の前に立つのは、幼い日以来かしら……)
(あの頃は、褒めてもらいたくて、報告書の言葉一つにも震えていたのに。)
――父の筆跡を真似して、こっそり書類の練習をした幼少の記憶が蘇る。
丁寧で、厳格で、そして少しだけ温かかった彼の字。
だが今から渡される書面に記される文字は、
きっと“父の字”ではなく、“公爵の印”なのだ。
屋敷の扉をくぐった瞬間、彼女は悟る。
ここはもう――“娘”ではなく、“罪人”として迎えられる場所なのだと。
屋敷の奥、天井まで届く重厚な扉の前で、執事が恭しく告げる。
「――公爵閣下のもとへ」
扉が開かれた瞬間、空気が変わった。
冷たく張りつめた沈黙。香の煙さえも直線を描いて揺れない。
そこは、もはや家庭の一室ではなかった。
カーネリア公爵家の威信と血統を象徴する、“権威の法廷”だった。
壇上には、玉座にも似た椅子に腰かける父――グレゴール公爵。
その右には家宰、左には顧問弁護士。
まるで裁判の開廷を告げるように、彼らの前には分厚い書類が積まれていた。
父の視線は、娘ではなく、書面の上に落とされている。
家宰が静かに告げた。
「――リリアンヌ・ド・カーネリア嬢、入室を許可いたします。」
彼女はゆるやかに進み出て、膝を折り、深く礼をした。
「リリアンヌ・ド・カーネリア、参上いたしました。」
しかし、返る声はなかった。
父はただ、冷たい目で書類を一枚めくり、低く言葉を発した。
「リリアンヌ・ド・カーネリア。」
「お前の行いにより、家は多大な信用を損ねた。」
静かな声だった。怒りも、悲しみも、そこにはない。
まるで“公爵”という仮面が、自動的に告げているかのように。
「よって、正式に“縁籍除名”とする。
以後、カーネリア家の系譜よりお前の名を抹消する。」
家宰が、淡々と補足する。
「本件は王家の記録にも反映されます。今後、カーネリア家との一切の関係を主張することはできません。」
――“縁籍除名”。
それは、家の記録から“存在”を削除すること。
生まれなかった者として、歴史の頁から名を消されるという、
貴族社会における最も重い刑罰だった。
死しても墓に刻まれる名が、彼女からは奪われる。
それは、死よりもなお冷たく――“記録上の死”だった。
沈黙の中で、リリアンヌはそっとまぶたを閉じる。
(ああ、これが父の“裁き”なのね……。
――怒鳴られるよりも、この静けさの方が、ずっと痛いわ……)
その瞬間、彼女は理解していた。
今日ここで立ち会っているのは、“家族”ではない。
権威という名の仮面を被った“国家の一部”なのだと。
重く沈黙した謁見の間に、リリアンヌの声が静かに響いた。
控えめでありながら、はっきりと届く声。
「お父さま……“名誉”とは、それほどに脆いものなのでしょうか?」
わずかに空気が揺れた。
家宰が一瞬だけ目を伏せ、弁護士が筆を止める。
グレゴール公爵は、机の上に置いた両手を固く組み、ゆっくりと娘を見た。
その瞳は、かつて幼い彼女を誇らしげに見下ろしていた、あの温もりを失っている。
残っているのは――立場と責務だけ。
「名誉とは、家を守る盾だ。」
低く、鋼のような声。
その言葉に揺らぎはなく、娘を“理屈”で切り捨てるための刃のようだった。
「お前は――その盾に、傷をつけた。
王家の信頼を失った以上、我らが生き残る術はない。」
リリアンヌは静かにまぶたを伏せた。
その声音には、怒りも悲嘆もない。ただ、淡い寂しさが滲んでいた。
「……では、わたくしが傷なのですね。」
父は何も言わない。
だが、その沈黙こそが答えだった。
彼の横顔に浮かぶのは、怒りではなかった。
――恐れ。
王家からの庇護を失った貴族の、ただの一人の人間としての恐怖。
それを隠すために、彼は“名誉”という名の鎧を着ている。
そして、その鎧の内側には、震える父の心があった。
(お父さまは“家”を守るために、娘を捨てたのではない……)
(“父である自分”を守るために、娘を見捨てたのだ……)
リリアンヌの胸に、静かな確信が落ちる。
その真実は、彼を責めるためのものではなかった。
――ただ、哀しみの形を、理解するためのもの。
彼女は静かに息を吸い、深く礼をした。
> 「どうか、ご安心くださいませ。
わたくしという“傷”は、今日限りでこの家から消えますわ。」
その声音には、敗北ではなく、透きとおるような誇りが宿っていた。
重く響く椅子の軋み。
グレゴール公爵が立ち上がった。
その動作には一分の迷いもなく、まるで儀式のように机上の書類へと手を伸ばす。
蝋の封を溶かし、印章を押す――鈍く赤い蝋の色が、まるで血のように広がった。
家宰がその書面を受け取り、封を閉じる。
「これをもって、カーネリア公爵家はお前との縁を永久に断つ。」
公爵の声は、まるで法の条文を読み上げるかのように乾いていた。
「以後、この屋敷、この名を口にすることも許さぬ。
お前は――今日この瞬間より、カーネリアの娘ではない。」
その言葉の終わりと同時に、
遠く、屋敷の塔の鐘が鳴り響いた。
低く、ゆっくりと、空気を裂くように。
偶然だったのかもしれない。
だがその音は、まるで判決を告げる鐘のように、部屋の隅々まで響き渡った。
リリアンヌは微かに目を伏せ、静かに膝を折った。
床に届くほど深く、頭を垂れる。
「……承知いたしました。」
その声は震えていなかった。
むしろ、どこか澄みきっていた。
ゆっくりと顔を上げ、父をまっすぐに見つめる。
その瞳には涙はなく――ただ、凛とした光だけが宿っていた。
「けれど――父の名を、わたくしは憎みません。」
グレゴールの眉が、わずかに動く。
それが驚きなのか、後悔なのか、誰にもわからない。
「なぜなら、それを愛していた記憶まで消してしまえば、
わたくしが“人”でなくなるからです。」
沈黙。
空気が凍りつく。
誰も言葉を発せず、ただ鐘の余韻だけが壁に反響する。
その音が消えるころ――
リリアンヌはゆっくりと立ち上がり、礼を尽くして一礼した。
“血の断絶”という名の宣告を受けた娘の姿は、
なぜかその場の誰よりも、気高く、美しかった。
扉が重く閉ざされる音が、謁見の間に静かに響いた。
リリアンヌの背が遠ざかっていく。
だが、グレゴール公爵は最後まで声をかけなかった。
手元に置かれた書類の角を指で押さえたまま――
その指先が、わずかに震えている。
家宰も顧問も、見て見ぬふりをした。
その震えこそが、鎧の下でまだ息づく“父”という人の名残だと、
誰も言葉にしなかった。
(あの人の“名誉”という鎧の下にも、
まだ“父”が生きているのかしら……)
リリアンヌは廊下を歩く。
絹の裾が床をかすめる音だけが、静寂の中に続いていく。
高い窓から差し込む光が、彼女の足もとに細い影を落とした。
その影は、家という灯を失った今、
以前よりも深く、そして――どこか解き放たれていた。
彼女は立ち止まり、ふと自分の影を見下ろす。
そこには、もう“カーネリア公爵家の娘”の形はなかった。
代わりに浮かぶのは、“一人の女”としての輪郭。
静かに息を吸い込み、微笑を浮かべる。
「これでいいのですわ。
わたくしは、ようやく“自分”になれたのですもの。」
そして、再び歩き出す。
背後で響くのは、重い扉の影――
まるで名誉という名の墓碑を背に、彼女が新しい墓標を超えていくようだった。
ラストモノローグ
「父は“名誉”を選び、わたくしは“誇り”を選んだ。
同じ高みにあるようで、その距離は永遠。
けれど、名誉が鎧なら――誇りは魂。
わたくしはもう、誰の名にも縛られぬ。
この“罪の名”とともに、生きてみせますわ。」




