母の沈黙 ―― 「あなたは、もう家の娘ではありません」
婚約解消から、まだ数日しか経っていなかった。
けれど、その短い時間のあいだに、世界は驚くほど色を失っていた。
午前の陽を浴びてゆっくりと進む馬車の中で、リリアンヌは一通の封筒を膝に置いていた。
それはカーネリア公爵家の封蝋が押された、正式な召喚状――“家族として最後の面談”という名目の呼び出し。
文面は丁寧で、礼を尽くした形式を守っていた。
だがその一文一文から滲み出るのは、血の通わぬ距離と冷たさだった。
> 「家族としての義務を果たすため、帰還せよ。」
義務――その言葉に、リリアンヌは小さく息を吐く。
家族に呼ばれながらも、そこに“娘”という言葉はなかった。
車窓の外では、懐かしい街並みがゆっくりと後ろへ流れていく。
子どもの頃、父に連れられて馬に乗った通り。
母に褒められた刺繍店。
笑い声が満ちていた日々は、すべて遠い夢のように霞んでいた。
やがて馬車は、公爵家の高い門前に止まる。
黒い鉄門には、家の象徴たる紅のカーネリアの紋章が刻まれている。
門番が彼女の姿を認めると、一瞬だけためらいを見せ、それから無言で門を開いた。
その音が、まるで冷たい鐘の音のように響く。
リリアンヌは軽く顎を上げ、背筋を伸ばす。
かつてこの門を通るたび、屋敷の使用人たちは彼女に敬意を込めて微笑んだ。
けれど今、誰もが視線を逸らし、ただ形式的に頭を下げるだけ。
馬車の窓から差し込む光は柔らかいのに、どこか心まで凍えるようだった。
> (懐かしいはずの家が、まるで知らない場所のよう……)
馬車が中庭に止まると、リリアンヌはそっと手袋の裾を整え、深呼吸をひとつ。
扉が開かれる音がして、彼女は静かに外へ降り立った。
――この邸で、最後の「娘」としての時間が始まろうとしていた。
重厚な扉が静かに開く。
その奥、かつてリリアンヌが幼いころから慣れ親しんだ“母の間”――公爵夫人エリザヴェートの私室があった。
そこはいつも花々の香りに包まれ、柔らかな旋律が流れる穏やかな空間だった。
春ごとに白百合と薄桃の薔薇が飾られ、リリアンヌがピアノを弾くと、母は優しく頬を撫でてくれた。
だが、今。
部屋の空気は凍りついたように重く、花もなく、香も焚かれていなかった。
まるで香りすら、この家から彼女を拒んでいるかのように。
窓辺の椅子に座る公爵夫人エリザヴェートは、深い紫のドレスに身を包み、背筋を伸ばしたまま微動だにしない。
銀糸を織り込んだ髪が陽光を受けて淡く光り、その横顔には一分の隙もない貴族の威厳があった。
リリアンヌは静かに一礼し、口を開く。
> 「お久しゅうございます、お母様。」
返事は、なかった。
ただ、机の上に整然と並べられた書類へと、エリザヴェートの指先がゆるやかに向けられる。
音もなく、まるで冷たい風がそこを指し示すように。
> 「これは――あなたの退籍手続きに関する文書です。
……署名を。」
その声は、まるで刃物のように淡々としていた。
かつて子守唄を歌ってくれたあの柔らかな響きはどこにもない。
リリアンヌはわずかにまつげを伏せる。
机の上の書類には、すでに父の署名が記され、赤い家紋の印が押されていた。
空欄はひとつ――“リリアンヌ・ド・カーネリア”の署名欄だけ。
長い沈黙が、二人のあいだに落ちる。
窓の外では風が枝を揺らしているのに、その音さえ届かない。
母は表情を変えず、ただ視線だけで促した。
> 「家の名を背負う者として、最後まで礼を欠かぬように。」
――その言葉の裏に、“あなたはもう娘ではない”という冷酷な宣告が隠れていた。
リリアンヌはゆっくりと椅子に腰を下ろし、筆を取る。
手袋越しの指がわずかに震えたが、それを悟られぬように、背筋を伸ばしたまま書き始めた。
> (ああ……この家の娘としての最後の文字を、今、わたくしは記すのね。)
筆先が紙を走る音だけが、静まり返った部屋に響いた。
――母の沈黙が、まるで冷たい祈りのように彼女を包み込む中で。
ペンを握ったまま、リリアンヌはふと顔を上げた。
静寂のなかで、母の横顔だけが薄光の中に浮かんでいる。
> 「お母さま……」
声は震えていなかった。
それでも、胸の奥で小さな鼓動が痛みに似た音を立てる。
> 「お母さま。……わたくしは、そんなにも“恥”になりましたの?」
その問いに、エリザヴェートの手がわずかに止まる。
しかし、視線は娘には向けられない。
整然と並ぶ書類の端を指でなぞりながら、彼女は短く息を吸った。
やや間を置いて、まるで結論を告げるように言う。
> 「恥ではなく、――傷です。」
> 「王家との縁が断たれた今、あなたを守る理由はもうありません。」
その声には怒りも悲しみもなかった。
ただ、家の存続を守る者としての冷たい理性だけがあった。
その瞬間、リリアンヌの胸の奥で何かが音を立てて切れた。
母の声を、もう“母”として聞けなくなった。
> (ああ……そうなのね。
お母さまは、“家”の代弁者であって――
わたくしの“母”ではなかったのね……)
その悟りは、涙よりも静かで、刃よりも深かった。
リリアンヌは視線を落とし、改めてペンを持つ。
手の中で重みを持つのは、ただの筆記具ではなく、
血のつながりを断ち切るための“儀式の道具”だった。
彼女の指先が、紙の上にそっと触れる。
――インクが広がる音がした。
その音は、まるで心臓の鼓動が遠ざかっていくように静かだった。
静かな部屋に、ペン先が紙を滑る音だけが響いていた。
リリアンヌは言葉ひとつ発さず、淡々と署名を終える。
インクの香りがわずかに漂い、それが冷たい空気と混じって、
どこか遠い季節の記憶を呼び起こすようだった。
――かつて、この部屋で母と共に過ごした春の日々。
花の香り、笑い声、そして小さな手を握ってくれた温もり。
すべては、いまの沈黙の中に溶けていた。
書類を整え、彼女は静かに母のもとへ差し出す。
その瞬間、指先がふと母の手に触れる。
わずかなぬくもり――しかし、それは一瞬で断ち切られた。
エリザヴェートはわずかに息を呑み、
まるで触れたことそのものを拒むように手を引く。
> 「あなたは、もう家の娘ではありません。」
その言葉は刃よりも冷たく、
部屋の空気を静かに裂いた。
けれど、不思議と涙は出なかった。
胸の奥に広がるのは悲しみではなく、
永く続いた夢から目覚めるような、静かな諦観だけ。
リリアンヌは小さく息を吸い、微笑んだ。
その微笑みは、敗北ではなく、祈りに似ていた。
> 「ええ。――けれど、“あなたの娘だった”ことは、消えませんわ。」
深く一礼し、顔を上げたとき、
母の瞳にかすかな揺らぎが宿っていた。
だが、それが涙なのか、ただの光の反射なのか――
リリアンヌには、もう確かめる術はなかった。
扉へと歩み去る娘の背に、母は何も言わなかった。
ただ、沈黙だけがふたりの最後の抱擁として残った。
重く静まり返った応接間を、リリアンヌはゆっくりと背を向けた。
ドレスの裾が床をかすめるたびに、微かな衣擦れの音が響く。
そのとき――背後で椅子の脚がきしむ音がした。
彼女は思わず振り返る。
母、エリザヴェートが立ち上がりかけていた。
唇をわずかに開き、何かを言おうとする。
だが、声にはならなかった。
ただ、噛みしめた唇の白さだけが、
残りわずかな情の証のように見えた。
リリアンヌはそっと微笑む。
言葉よりも深い沈黙が、母のすべてを語っているように思えた。
扉が閉まる。
音は小さく、けれどその響きは心の奥に長く残った。
> (母の沈黙――それが、この家における最後の“愛”なのかもしれませんわね……)
廊下を抜け、玄関の扉を開ける。
外の風が頬を撫で、髪を柔らかく揺らした。
閉ざされた空気の中にいた身体が、
ようやく息を吸える場所に戻ったように感じる。
彼女は一度だけ屋敷を振り返り、
その重厚な門の向こうに別れを告げた。
> 「これでようやく、自由になれますわ。
――家の名ではなく、“わたくし自身”として。」
その微笑は、哀しみではなく、決意の色を帯びていた。
風が吹き抜け、リリアンヌの髪を金糸のように煌めかせる。
彼女は静かに歩き出した。
名を捨てた娘ではなく、名を得た一人の人間として。
ラストモノローグ
「沈黙は、時に最も残酷な言葉。
けれどその冷たさを知ったからこそ、
わたくしは“声”を得たのかもしれません。
たとえ誰にも届かなくとも――
この胸の奥で、生きている限り、わたくしは消えませんわ。」
その声なき声は、春風の中に溶け、
やがて、ひとりの“娘”が“人”へと還る音となった。




