公文書 ―― 婚約解消の署名は、涙で滲んだ。
春の終わり。
花びらが風に流れる静かな午後、カーネリア家の館に一通の封書が届いた。
厚手の羊皮紙に刻まれた金の印章は、王家の紋――冷ややかな威厳を湛えている。
侍女が震える指で封を差し出すと、リリアンヌは淡く微笑み、静かに受け取った。
封を切る音は、まるで長い夢が終わる音のように、やけに重く響いた。
「婚約解消の正式手続きを執り行う」
ただそれだけ。
一行の文に、情の余地も、言い訳もなかった。
傍らで文面を読んだマリアが、声を失う。
「そんな……あんな形で断たれて、まだ“書面”まで?
これ以上、何を奪うつもりなの……!」
しかし、リリアンヌはただ微笑を浮かべた。
その笑みは悲しみではなく、すでにすべてを受け入れた者の静かなもの。
「形式とは、感情の代わりに人がすがる最後の拠り所ですの。
……彼がそれを求めるなら、わたくしもまた応じるまでですわ。」
マリアは言葉を失い、ただ彼女の横顔を見つめる。
そこには、涙も怒りもなかった。あるのは、白磁のように冷たく澄んだ決意。
リリアンヌは机の上に手紙をそっと置くと、
純白の手袋を取り出し、ゆっくりと指を通す。
柔らかな絹が肌を包み、その手はもう“公の顔”を取り戻していた。
ひとつ深く息を吸い、鏡の前に立つ。
「これで、本当に終わりを迎えますのね……」
小さく呟く声は、春の風に紛れて消えていった。
だが、その胸の奥で――まだ、微かな鼓動が残っていた。
それは愛でも未練でもなく、ただ“誇り”という名のものだった。
王都の中心、陽光を遮る厚いカーテンと重厚な家具に囲まれた一室。
その空気には、華やかさではなく、冷え切った形式の匂いが漂っていた。
机の上には、王国の印章が刻まれた公文書。
その脇に、二脚の椅子――まるで“かつての絆”が座るための、最後の舞台のように並んでいた。
リリアンヌは扉を静かに押し開ける。
その先にいたのは、かつて彼女が“殿下”と呼んだ青年――アレクシス王子。
彼は硬い表情のまま立ち上がり、一瞬、何かを言いかけて口を閉じた。
書記官が咳払いをし、冷たい声で読み上げを始める。
「本日をもって、アレクシス王太子殿下およびリリアンヌ・ド・カーネリア両名の婚約を、
相互の合意により解消とする。」
その言葉が、ゆっくりと空気を凍らせていく。
羽根ペンの先が、静寂を切り裂くように書記官の手で動いた。
アレクシスがペンを取る。
白い羊皮紙の上に、金糸の袖口が微かに震える。
ためらいの影がその横顔を掠め、しかし――やがて筆は動き出した。
“アレクシス・ヴァルティア”
その署名は、美しく整っていたが、どこか脆く、滲んだ。
彼はペンを置き、息を整えるように小さく目を閉じる。
書記官が視線をリリアンヌに向けた。
彼女は黙って一礼し、手袋をしたままペンを取る。
動作は完璧、優雅。だが、指先が――ほんのわずかに震えた。
(筆跡に心が映るのなら……この震えは、未練かしら。それとも、赦し?)
インクが紙に触れ、淡い香りが立つ。
そして一文字ずつ、彼女の名が記されていく。
“リリアンヌ・ド・カーネリア”
すべてを書き終えた瞬間、部屋の空気がさらに静まった。
まるで世界そのものが、二人の関係の終焉を見届けるために息を潜めているかのようだった。
書記官が公文書を巻き取り、印章を押す。
乾いた音が響く――それは“約束の死”の音だった。
リリアンヌはわずかに視線を上げ、アレクシスと目を合わせる。
その瞳に、憎しみも涙もなかった。
ただ、最後の誇りだけが静かに宿っていた。
「……これで、正式に終わりましたのね。」
アレクシスは答えない。
ただ小さくうなずき、目を逸らす。
机の上に落ちた一滴のインクが、涙のように滲んでいた。
羽根ペンの先が、最後の一筆を描き終える。
その瞬間、リリアンヌの視界が、ふっとにじんだ。
――インクが、紙を染める。
けれど、それは黒ではなかった。
淡く、透明な滴が、彼女の筆跡の上に落ちて――
“リリアンヌ・ド・カーネリア”の名を、静かに滲ませた。
書記官が息を呑む音が、室内に小さく響く。
しかし、誰も言葉を発しなかった。
彼女もまた、何も言わない。
(涙など、記録には残らない。
けれど――この滲みだけは、わたくしの“本心”の証。)
リリアンヌは軽く手袋で目元を拭い、滲んだ文字を見つめた。
それはもはや、完全な署名ではなかった。
だが、彼女にとってそれは“完璧な別れの印”だった。
アレクシスは、隣でその紙に目を落とす。
インクのにじみを見つめ、唇をかすかに動かす。
何かを言おうとして――声が喉に詰まった。
沈黙の中で、やがてようやく絞り出すように言葉がこぼれる。
「……ありがとう。リリアンヌ。」
その声は、祈りにも似ていた。
だが彼女は、静かに微笑むだけだった。
「いいえ、殿下。――こちらこそ、幸福な夢を。」
リリアンヌの声音は凍るほど穏やかで、残酷なほど優しかった。
それは、かつての恋を葬るための最も美しい別れの言葉。
沈黙の中、窓の外では風がそっとカーテンを揺らしていた。
滲んだ署名が乾くことのないまま、
彼女の“最後の涙”は、公文書の一部となって永遠に残った。
書記官が手際よく羊皮紙を巻き取る。
厚みのある赤い蝋が、燭台の火でゆっくりと溶かされ、
その滴が、二人の名前を刻んだ文書の端に落ちた。
“じゅ”――と小さく音を立て、蝋が冷えてゆく。
そして、王家の紋章が刻まれた印章が押される。
続いて、カーネリア公爵家の紋章。
重ねられた二つの印は、赤と金の対比の中で永遠に封じられた。
――その瞬間、空気が変わった。
まるで、時の流れまでもが一度だけ静止したように。
書記官が淡々と告げる。
「……以上をもって、両名の婚約解消を正式に記録いたします。」
ペンが置かれ、蝋が冷えきる音だけが響く。
それは確かに、ひとつの“物語の終わり”の音だった。
リリアンヌは椅子から静かに立ち上がる。
ゆっくりと裾を整え、優雅に一礼する。
「これで、すべてが終わりましたわね。」
その声は澄んでいて、どこまでも穏やか。
けれど、そこに宿る静けさは、冬の湖面のように深く冷たい。
アレクシスは俯いたまま、何も言えなかった。
指先がわずかに震え、唇が動くが、言葉にはならない。
――沈黙が、最後の会話となった。
扉へ向かうリリアンヌの背に、柔らかな光が射す。
白い手袋がドアノブに触れたとき、
背後で重い扉が静かに閉じられた。
“カタン”
その音は、まるで愛という名の棺が閉ざされる音のようだった。
リリアンヌは振り返らない。
ただ、胸の奥でそっと呟く。
(――さようなら、わたくしの初恋。)
そして、静かな足音だけを残して、彼女は王城を後にした。
夜の帳が静かに落ちる頃、
リリアンヌは灯りの下、机に広げられた一枚の文書を見つめていた。
王家の紋章。
公爵家の印章。
そして、自らの署名――わずかに滲んだ筆跡。
彼女は指先で、その滲みをそっとなぞる。
インクの乾いたざらつきが、指先にかすかに残る。
「紙の上の別れほど、冷たいものはありませんわね。」
その声は、ため息のように小さく、
部屋の中にだけ、ゆっくりと溶けていった。
だが、彼女の唇はふっと柔らかく緩む。
「けれど――涙で滲んだなら、それもまた、人の温度。」
蝋燭の灯が揺れ、机上の文書に淡い影を落とす。
その影は、まるで誰かの手がまだそこにあるかのようだった。
リリアンヌは静かに文書を折り、封筒に戻す。
その手つきは、まるで一輪の枯れた花を
そっとガラスの器に収めるように慎重で、優しかった。
引き出しを閉じるとき、
“カチリ”という音が夜の静寂を切り裂く。
それは決して哀しみの音ではなく、
“区切り”の音――未来へと続くための、最後の鍵音だった。
彼女は椅子にもたれ、窓の外を見上げる。
雲間から月が覗き、淡い光が頬を照らした。
瞼を閉じると、わずかに震える息が漏れる。
けれど、その顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。
ラストモノローグ:
「愛は口約束で始まり、署名で終わる。
けれど、文字の奥に滲む涙は、誰にも消せない。
わたくしの“終わり”が、彼の未来を守る印となるなら――
この公文書こそ、最も美しい遺書ですわ。」




