『罪の名 ―― 「悪役令嬢リリアンヌ」──それが新しい肩書。』
春の風が学院の回廊を抜け、白いカーテンを静かに揺らしていた。
その風に乗って――新しい噂が、音もなく広がっていく。
「リリアンヌ・ド・カーネリアは、王子殿下を陥れたそうよ」
「セレナ様を追い落とそうとして、逆に自滅したんですって」
「やっぱりね。あの完璧さ、どこか作りものみたいだったし」
笑いと囁きが混じり合い、誰もがその話を「娯楽」として楽しんでいた。
まるで舞台の噂話――主人公はもう舞台にいないのに、物語だけが勝手に進んでいく。
リリアンヌは、静かに書架の影で立ち止まっていた。
白い手袋の指先が、古い書物の背表紙を撫でる。
だがその瞳には、どんな感情も映ってはいない。
匿名の手紙。捏造された書簡。
そのどれもが彼女の“物語”を新たに作り替えていた。
事実はどうでもよかった――人々が求めるのは、ただ“悪役”の存在なのだ。
(否定すれば、また“言い訳の悪役”になるだけ……)
唇が、かすかに震えた。
けれどそれは、悲しみでも怒りでもなかった。
ほんの少しだけ、笑みを浮かべたようにも見えた。
(……ならば、黙っていましょう。
沈黙はきっと、この世界で最も上品な反論だから。)
窓の外で、春の光が冷たく揺れた。
学院の空気は、まるで一枚の薄氷のように澄んで、脆かった。
昼下がりの教室。
光が差し込む窓辺で、少女の声が震えていた。
「どうして……どうして皆、簡単に信じてしまうの!?」
マリアの声は涙で掠れ、指先は机を握りしめていた。
その周囲には、冷ややかな視線。
教師も、級友も――目を逸らし、沈黙で距離を取る。
「匿名の手紙なんて、いくらでも作れるでしょう!?
リリアンヌ様がそんなことをするはず――!」
「……もうやめなさい、マリア。」
低い声が、柔らかくその叫びを包んだ。
リリアンヌが歩み寄る。
その歩幅は、かつての貴族令嬢らしい気品に満ちていたが、どこか儚い。
彼女はマリアの肩にそっと手を置き、微笑む。
「いいのです、マリア。――物語には、悪役が必要ですわ。」
マリアの瞳が大きく見開かれる。
「でも……あなたが“悪役”になる必要なんて――!」
「必要なのですよ。
だって、人々は“誰かを罰することで”安心するのですもの。
誰かが悪になれば、世界は少しだけ秩序を取り戻す。
それがこの学院の――いいえ、この国の礼儀なのですわ。」
その声は穏やかで、まるで遠い昔にすべてを悟った聖女のようだった。
マリアは言葉を失い、ただその手を掴む。
しかし、リリアンヌの手は驚くほど冷たく、まるで氷の彫像のようだった。
「リリアンヌ様……そんな風に笑わないで。お願い、戦って……!」
「戦う? ふふ……もう十分に戦いましたわ。
あとは静かに、終幕を見届けるだけ。」
風がカーテンを揺らし、花の香りが二人の間をすり抜けていった。
その香りの中で、リリアンヌの笑みは――凍えるほどに美しかった。
朝靄の残る学院の中庭。
掲示板の前に、人の輪ができていた。
誰かが笑いながら指を差す。
「見て、これ。上手くできてるじゃない。」
そこには雑な筆致で書かれた言葉。
――《悪役令嬢リリアンヌ、学院を去れ》
赤いインクはまるで血のように滲み、紙の端を風が揺らしている。
だが、それが剥がされることはなかった。
皆が「ただの冗談」と言いながら、眺め、笑い、写真を撮る。
その無邪気な笑い声が、静かな断罪の鐘のように響いていた。
さらに数日後、講堂の壁に一枚のポスターが貼られた。
洒落た筆記体で書かれたタイトル――
《悪役令嬢と純白の王子》
手描きのイラストには、冷たい笑みを浮かべる黒衣の令嬢と、白薔薇を抱く王子。
それはまるで劇の宣伝のように美しく――しかし、酷く残酷だった。
「次の文化祭の劇、これにすればいいんじゃない?」
「リリアンヌ役、誰がやる? 雰囲気ぴったりの子、いるよね。」
軽い笑い声が交わされ、誰も悪意を自覚しない。
けれど、その笑いこそが“真の悪意”だった。
リリアンヌは、廊下の奥からそれを見つめていた。
視線を向ける者はなく、誰も彼女を名指ししない。
けれど――その沈黙こそが、すべてを物語っていた。
彼女は静かに教室に戻り、鏡の前に立つ。
そこに映るのは、完璧に整った髪、微笑みの形を保った唇、
そして――少しだけ疲れた瞳。
指先で頬をなぞり、リリアンヌは自分に囁く。
「わたくしは――悪役令嬢。」
その響きを噛みしめ、ほんの少し笑った。
それは哀しみでも、怒りでもない。
ただ、誇りを守るための最後の化粧のような笑み。
「ならば、せめて“気高く、美しく”終わらせてみせましょう。」
風が窓を叩き、鏡の中の彼女が微かに揺れた。
それはまるで、ひとりの少女が“物語の登場人物”へと変わる瞬間のようだった。
春の陽光が差し込む教室。
窓辺の席で、リリアンヌは静かに本を開いていた。
その姿は変わらず端正で、指先の動き一つにまで気品が漂う。
だが、その美しさは今や“罪”として囁かれている。
授業中、教師が名指しで彼女の意見を遮った。
「――カーネリア嬢、そのような理論は、もはや古いものです。
君はもう時代に取り残されているのですよ。」
周囲の生徒たちが小さく笑う。
けれどリリアンヌは、何も言わない。
ただ微笑みを浮かべ、淡い声で答える。
「ええ、先生。古きものには古き美しさがございますもの。」
その一言は、まるで冬の氷をすべらせる刃のように静かで鋭かった。
彼女の沈黙は屈服ではなく、矜持。
戦わぬことでしか守れぬ誇りが、そこにあった。
放課後。
廊下の片隅で、マリアが彼女を待っていた。
目には涙を浮かべ、握りしめた拳が震えている。
「どうして……どうして、戦わないんですか?
皆が嘘を言ってるのに、貶めてるのに……!」
リリアンヌは足を止め、そっと彼女の頬を撫でる。
微笑は穏やかで、どこか遠くを見つめていた。
「戦いは、彼らの物語の中のこと。
わたくしの物語は――もう、静かに終わっているのですわ。」
マリアは何も言えず、唇を噛みしめた。
リリアンヌの瞳の奥には、凍てついたような光が宿っている。
それは、痛みも悲しみも越えた者のまなざしだった。
(悪役とは、結末のために生まれる役。
けれど、その“演技”の中にも真実はあるのです。)
教室の窓の外で、白い花弁がひとひら風に舞った。
それはまるで、彼女の沈黙が形になって空へ昇っていくようだった。
夜。
学院の塔の最上階、リリアンヌの部屋には静寂だけがあった。
暖炉の火はすでに落ち、窓辺から射す月光が、彼女の白い頬を淡く照らしている。
机の上には、一冊の小さな日記。
革の表紙は何度も開閉された跡を残し、角はすこし擦れていた。
彼女はゆっくりと羽根ペンをとり、最後のページをめくる。
『今日、わたくしは“悪役令嬢”になりました。
けれどもし、この罪の名が誰かの幸福を守るのなら――
それもまた、一つの救いなのでしょう。』
ペン先が止まり、静かにインクの光が揺れる。
その文を見つめたリリアンヌは、ふっと息を吐き、微笑を浮かべた。
悲しみでも諦めでもない。
――まるで、自分の役目をようやく受け入れた者の穏やかな微笑だった。
(罪とは、罰ではなく――名。
ならばこの名を、美しく、凛として背負いましょう。)
彼女は日記を閉じ、窓の外を見上げる。
雲の切れ間から、冷たい月が光を落としていた。
その光に照らされ、彼女の姿はまるで氷の彫像のように静謐で――しかしどこか神々しかった。
ラストモノローグ
「罪とは、罰ではなく――名である。
わたくしの“罪の名”が、世界の均衡を保つのなら。
この肩書を、最後まで美しく着こなしてみせますわ。」
彼女は椅子を立ち、月明かりの下を歩く。
その背中には、一片の迷いもない。
静寂の中、カーテンが揺れ、夜風が彼女の髪を撫でた。
翌朝――。
学院の中庭では、新しい噂が口々に囁かれていた。
誰もが彼女を、もう一つの名で呼ぶ。
「“悪役令嬢リリアンヌ”――。」
その言葉に嘲りの色はなく、
どこか畏れと敬意が混ざっていた。
そしてその日、学院の歴史にひとつの物語が刻まれる。
――白薔薇の令嬢、リリアンヌ・ド・カーネリア。
罪の名を纏い、美しく堕ちた者として。
それは、終焉ではなく。
新たな伝説の、幕開けだった。




