凍える拍手 ―― 誰もが幸福そうに、彼女の破滅を祝った ――白薔薇が散ったあとに訪れるのは、沈黙ではなく、拍手だった。
学院最大の催し――「春季栄誉授与式」。
青と白の幕が張り巡らされた大講堂は、香水と花々の匂いに満ち、貴族子弟たちの笑い声が絶えなかった。
この日ばかりは、学問も礼儀も全てが装飾の一部であり、煌びやかさこそが正義だった。
壇上の中央、学院長が高らかに名を告げる。
「セレナ=ド・ヴァルティエ。
学問・礼節・奉仕のすべてにおいて模範たる功績を称え、ここに栄誉を授ける。」
その瞬間、無数の拍手が広がった。
淡い金髪を結い上げた少女――セレナが、上気した頬を隠すように微笑む。
その背後には、王子アレクシスの姿。
金糸の装飾が施された礼装を身にまとい、彼は誇らしげに隣の少女を見つめていた。
リリアンヌ・カーネリアは、静かに席に座っていた。
一年前、この壇上に立ち、同じように白薔薇のブローチを受け取った自分を思い出す。
当時はこの場の誰もが彼女の名を讃え、その笑みを羨んだ。
――だが今、彼女を見る者はいない。
周囲の令嬢たちは、あえて彼女に視線を向けない。
けれどその沈黙には、奇妙な安堵が含まれていた。
「これで秩序は戻った」――そんな安堵の空気が、リリアンヌの存在を静かに締め出していく。
彼女はその波を拒むこともなく、ただ手元のプログラムを閉じた。
花の刺繍が施された紙の端に、指先が触れる。
胸の奥に微かな痛みが走る。
(この場にわたくしがいなくても、世界はこうして回っていくのね……)
壇上では、セレナが深く一礼し、アレクシスの隣で光を浴びていた。
その姿は眩しく、完璧で、そして――残酷なほどに美しかった。
白い光が壇上を包んでいた。
春の陽が差し込み、天井のステンドグラスが淡い虹を描き出す。
その光の中心に、セレナ=ド・ヴァルティエが立っている。
彼女の前に学院長が進み出て、手にしていた小箱を静かに開いた。
中には、一輪の白薔薇を模した銀細工のブローチ。
学院最高の名誉――「高貴なる美徳の象徴」。
「セレナ=ド・ヴァルティエ。
その気品、学識、慈愛を称え、ここに“白薔薇の印”を授与する。」
大講堂に、ため息のような感嘆が広がる。
セレナは深く一礼し、涙を浮かべるように微笑んだ。
その仕草はまるで“理想の令嬢像”そのもの。
彼女が身に着けた瞬間、会場の誰もが「新たな時代の始まり」を信じた。
アレクシス王子が壇上に歩み出る。
彼の足音が、静まり返った講堂に響く。
柔らかな眼差しでセレナを見つめ、声を放った。
「貴族の理想は、愛と献身です。
セレナ嬢はそれを身をもって示してくれました。
我々は、彼女のような存在をこそ誇りに思うべきでしょう。」
その言葉に、誰もが頷き、微笑んだ。
次の瞬間、波のような拍手が広がる。
ぱち、ぱち――。
最初は穏やかに、やがて大講堂を埋め尽くすほどの音に変わっていく。
拍手は祝福の音でありながら、どこか無機質で、凍えるように冷たい。
リリアンヌは静かに目を閉じた。
掌の上で、かつて自らが受け取った“同じ白薔薇”の記憶が甦る。
それを胸に飾った日、自分もまたこの拍手を浴びたのだ。
――だが今、それは祝福ではなく、断罪の合図にしか聞こえなかった。
(彼らは幸福そうに笑う。
けれど……その音の下で、何かが確かに凍えていくのを感じる。)
凍える拍手が、彼女の過去を塗りつぶしていく。
その音は、まるで――“古い薔薇が枯れ落ちる”音のようだった。
拍手が鳴り止まない。
まるで氷の粒が砕け散るような、乾いた音がホールを満たしていた。
祝福のリズム――しかし、そこには熱も情もなかった。
一糸乱れぬ均一な音。
幸福の形をした、完璧な“音の壁”。
リリアンヌは列席者の中で、ただ静かに座っていた。
金糸の刺繍を施された制服の袖口をそっと整え、背筋を伸ばす。
周囲の人々は視線を合わせようとしない。
それでも、彼らの拍手が示す意味は痛いほど分かっていた。
――この拍手は、新しい薔薇のため。
――そして、古い薔薇を土に還すため。
隣に座るマリアが、堪えきれずに小さく囁く。
「……皆、嬉しそうに笑って。
まるであなたが……いなくなったことを祝っているみたい。」
その声には怒りと悲しみが混ざっていた。
だがリリアンヌは、わずかに首を振り、穏やかに微笑む。
「ええ、それでいいのですわ。
世界は常に、“都合のよい幸福”を選びますから。」
舞台の上で、アレクシスとセレナが手を取り合う。
その光景は絵画のように美しく、誰もが心から拍手を送る。
だがリリアンヌの耳には、もう音としてすら届かない。
ただ、胸の奥に冷たい波が静かに広がるだけ。
彼女は立ち上がらず、掌を胸に当てる。
礼を示すでもなく、抗うでもなく。
ただ――沈黙の中で、祈るように目を閉じた。
(この音に呑まれぬように。
わたくしの心だけは、凍りつかぬように……)
瞳を開けたとき、拍手はまだ続いていた。
その中に、彼女の涙はなかった。
けれど、その瞳には確かに宿っていた――
失われた誇りの代わりに、淡く、揺るぎない決意が。
式典が終わったあとも、リリアンヌだけは席を立たなかった。
煌びやかな照明が一つ、また一つと落ちてゆき、
壇上には――白薔薇のブローチが、ひとつだけ取り残されていた。
あの輝きは、かつて彼女が手にしたもの。
栄光の象徴。誇りの証。
そして今は、別の誰かの胸を飾る“過去”の遺物。
会場を出ていく生徒たちは笑い、語らい、
拍手の名残がまだ木霊している。
幸福なざわめきの中で、リリアンヌはひとり、静かに息を吐いた。
(花は――渡された瞬間に枯れるもの。
でも、“誰にも渡さない誇り”だけは、
凍りついても消えないのですわ。)
指先が、膝の上でわずかに震えた。
だがそれは寒さのせいではない。
心の奥に、氷のように澄んだ決意が形を成していた。
観客席の灯りがすべて落ち、広い講堂に静寂が満ちる。
その中で、リリアンヌはようやく立ち上がった。
椅子の軋む音が、まるで“終幕”を告げる鐘のように響く。
扉の向こうには、まだ微かな拍手の余韻。
外の風は冷たく、冬の名残を運んでいた。
だがその冷気さえ、彼女の頬を凍らせることはできない。
凍りついた微笑のまま――リリアンヌは静かに歩き出す。
その姿は、冬の中に咲いた最後の花。
もう誰の手にも触れられぬ、孤高の白。
そして、その白はやがて、夜の闇に溶けていった。
式典の終わった夜、学院の庭園には冷たい風が吹いていた。
月明かりの下、リリアンヌはひとり、凍りついた噴水のそばに立つ。
水面は氷に覆われ、まるでこの世界の心そのもののように静まり返っている。
遠くでは、まだ祝宴の笑い声が響いていた。
人々は幸福そうに笑い、祝杯を上げ、
その裏でひとりの令嬢の破滅を“秩序の回復”と呼んでいた。
リリアンヌは瞳を閉じる。
その微笑はもう、誰のためのものでもない。
「人は――誰かの破滅を見て、安堵のため息をつく。
それを“幸福”と呼ぶなら、わたくしはもう笑いません。」
吐息が白く溶けて、空へ消えていく。
彼女は胸に手を当て、祈るように囁いた。
「拍手の音に凍えながらも、
沈黙の奥で祈るのです。
――いつか、この氷が解け、
真の誇りが芽吹く日を。」
氷の下で、まだわずかに水が流れている音がした。
それは、冷たくも確かな“生”の鼓動。
風が花壇を揺らし、凍てついた白薔薇の枝に月光が落ちる。
散り果てたはずの花の根元に、
ほんの小さな――春の芽が、静かに息づいていた。




