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悪役令嬢 ――リリアンヌ・フォン・セレスティア物語――   悪役令嬢が出来るまで…  作者: 南蛇井


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最後の一杯 ―― 彼女の紅茶は、少し甘く、少し苦かった。

一日の終わりを告げるように、壁の時計が、短い針と長い針を静かに重ねていた。

 閉店まで、あとわずか。


 一日分のカップが静かに重なり合い、洗い場のほうで水の音だけが小さく響いていた。

 ついさきほどまで店内を満たしていた子どもたちの笑い声は、もう路地の向こうに遠ざかっている。残っているのは、本を開いたまま静かにページをめくる客が一人と、カウンターの内側で帳簿をつける女主人だけだ。


 リリアは、羽根ペンの先についたインクを軽く払うと、帳簿を閉じて息をついた。

 今日の日付の横には、細かな数字がびっしりと並んでいる。売上、仕入れ、使った茶葉の量。公爵家の頃から慣れ親しんだ数字の羅列は、今ではこの小さな店の一日を形づくる証拠だ。


 帳簿を所定の場所に戻し、視線を棚へと移す。

 ガラス越しに並ぶ茶葉の瓶が、ランプの灯りを受けて、琥珀色や深い褐色の影を落としている。


「……この銘柄は、そろそろ追加が必要ですわね」


 リリアは背伸びをして、よく出るブレンドの瓶を手に取る。軽く振れば、中で茶葉がさらりと音を立てた。その重みと音で、だいたいの残量がわかる。


 明日の朝に仕込む分、補充のメモを頭の中で並べていると、店の奥から椅子の脚を引きずる音がした。


「そろそろラストオーダーですかねえ」


 ミラが肩に布巾をかけたまま、空いたテーブルの椅子を一脚ずつ逆さにして上げていく。

 慣れた手つきで運ぶ背もたれが、窓の外の薄闇と重なるたび、店内の景色は少しずつ「営業中」から「一日の終わり」へと姿を変えていった。


「ええ。あと一組いらっしゃるかどうか……といったところでしょうね」


 リリアは瓶を棚に戻しながら、ちらりと窓の外に目を向ける。


 夕闇に溶けかけた空を背に、白薔薇の看板が、風に揺れていた。

 ランプに照らされた花弁の意匠は、昼間よりもわずかに柔らかく見える。かつて公爵家の紋章として掲げられていたそれと同じ形なのに、今ここにあるのは、この小さな紅茶店の目印にすぎない。


 ガラス越しの路地を、帰り支度を整えた人々が足早に通り過ぎていく。

 笑い声、今日の出来事を語る声、少し疲れたため息。それらがすべて、厚い扉とカーテンを一枚隔てた向こう側にある。


 こちら側では、湯気の匂いと、茶葉の乾いた香りだけが、静かに空気を満たしていた。


「ふう……」


 ミラが最後の一脚を持ち上げ、テーブルの上に載せる。


「今日もよく喋って、よく笑って、よく飲んでいきましたねえ、みんな。あとは、どんなお客さんが“締め”に来るか、ですか」


「“締め”だなんて、物騒な言い方はおやめなさいませ」


 リリアは小さく笑い、カウンターの内側でポットを一つ洗い終えると、伏せて水切りに並べた。

 その手つきは、一日の終わりに向かっているはずなのに、不思議と慌ただしさとは縁がない。今日も、明日も、その次の日も――同じように湯を沸かし、茶葉を計る自分の姿を、どこかで知っているからだ。


 時計の針が、また一つ、静かに進んだ。

 店の扉の上に吊られた小さな鈴が、まだ鳴るかどうかを確かめるように、わずかに揺れている。


扉の上の小さな鈴が、からん、と一拍遅れて鳴った。

 閉店まで、あとほんの少し――そんな時刻の音だ。


 ミラが椅子を持ち上げかけた姿勢のまま、ぴたりと動きを止める。


「……あら」


 扉が静かに開き、夜気が細い筋になって店内に流れ込んでくる。

 その向こうから、一人の客が足を踏み入れた。


 旅装の上着の裾には、遠くの道の埃が薄く残っている。

 肩口には、うっすらと夜露がついていた。外は、思っていたより冷え込んでいるのかもしれない。


「……まだ、間に合いますか?」


 少し掠れた声だった。

 長く歩き続けたあとの喉の渇きと、躊躇の色が混ざっている。


 リリアは、カウンターの内側でそっとポットから手を離すと、いつものように微笑みを整える。


「ええ。ようこそおいでくださいました」


 視線がふわりと客の全身をなぞる。濡れた肩、少し冷たそうな指先。

 扉の向こうの夜気をひとまとまりに連れてきたような、その佇まい。


「本日の――“最後の一杯”になりそうですわ」


 その言葉に、客の肩がわずかに緩む。


「そう……ですか。それは、光栄だ」


 彼は扉を静かに閉め、カウンターに一番近い席へと歩み寄った。

 ミラが「お、ラストのお客さんですね」と、片付けの手をさりげなく緩める。逆さにしようとしていた椅子を、音を立てないよう元に戻した。


「椅子、もう上げちゃってました?」

「いえ、まだ“上げる直前”でしたから。どうぞお掛けくださいな」


 軽口に、小さく笑みを返しながら、客は腰を下ろす。


 目の前に差し出されたメニューに、視線を落とした瞬間――その瞳に、わずかな迷いが灯る。

 ページをめくる指先が、一文ごとに止まっては、次へと移る。


 疲れているのは身体だけではないのかもしれない。

 一日の終わりに飲むべき一杯を選ぶことさえ、少しだけためらうような、そんな様子だった。


 リリアは、その迷いを邪魔しない距離を保ったまま、カウンター越しに静かに問いかける。


「本日は、どのようなお疲れを、お連れですか?」


 メニューの選び方ではなく、

 “最後の一杯”をふさわしくするために必要な情報を、そっと差し出すように。


 客は顔を上げ、リリアと視線を合わせた。

 その瞳の奥に、まだ言葉になっていない何かが、かすかに揺れている。



客は、しばらくメニューとにらめっこしていた。

 ページを行ったり来たりして、やがて観念したように息を吐く。


「……すみません」


 顔を上げたときの笑みは、どこか困ったようで、どこかくすぐったそうでもある。


「どれも、おいしそうで。

 ――選べなくて」


 ミラが洗い場のほうで、見えないところで「出た出た」と肩を竦める気配を漂わせる。

 「全部おいしそう問題」は、この店では珍しくない。


 リリアは、そんな客の逡巡を責めるでもなく、いつもの調子で問いかけた。


「お好みの甘さや香りは、ございますか?」


 客は、しばし視線を宙にさまよわせる。

 窓の外、薄闇の中で白薔薇の看板が揺れるのが、ちらりと瞳に映った。


 そして、ふと何かを思い出したように、ぽつりと言葉が零れる。


「そうですね……」


 一拍置いて。


「今日は、少し甘くて、少し苦いお茶が飲みたいです」


 ミラはシンクの前で、思いきり顔をしかめる。


(……また難しいこと言い出しましたね、この人)


 口に出さない代わりに、布巾をぎゅっと絞る音に、ささやかなツッコミを込めておく。


 だが、カウンターの内側のリリアは、その曖昧な注文に眉一つ動かさない。

 むしろ、目元にふわりと笑みを深めた。


「“少し甘く、少し苦い”――」


 彼女は繰り返し、言葉の手触りを確かめるように口の中で転がす。


「承りましたわ」


 ころん、とポットの蓋を指先で軽く鳴らしながら、静かに続けた。


「少々、お任せいただいてもよろしいかしら?」


 客は、意外そうに目を瞬く。


「お任せ……ですか?」


「ええ。本日の“最後の一杯”ですもの。

 あなたの今日に、ちょうどよい甘さと苦さになるように、お淹れいたしますわ」


 言い切る声音には、紅茶屋としての揺るぎない自負があった。

 それは、かつて帳簿と冬の配給を前にしていた“公爵令嬢”の声音ではなく――

 一日分の「今日」を見送ってきた、この店の女主人のもの。


 客は、少しだけ肩の力を抜いて笑った。


「……じゃあ、それで。

 “少し甘くて、少し苦い”やつを、お願いしてもいいですか」


「かしこまりました」


 リリアは軽く一礼し、奥の棚に並ぶ茶葉の瓶へと向き直る。

 どの香りを軸にして、どの渋みを背骨にするか。

 “人生の今日”にふさわしい一杯を、静かに思案しながら。


 ミラはその背中をちらりと見て、心の中で小さくため息をつく。


(……こういう曖昧な注文、いちばん嬉しそうな顔するんだからなあ、うちの店主は)


 洗い場の水音が、また小さく店内に戻ってくる。

 その音を背景に、“最後の一杯”の準備が、ゆっくりと始まった。


リリアは、棚の前で足を止めた。

 磨き上げられた木の板の上に、茶葉の瓶が整然と並んでいる。

 ラベルに灯りが反射して、細い文字が柔らかく滲んだ。


 細い指先が、ガラスの表面をなぞるように移動していく。


 ひとつ――

 ほのかな花の香りを閉じ込めた茶葉の瓶に、視線が留まる。

 蓋を少しだけひねると、微かに甘い香りが空気ににじんだ。


(……この優しい香りは、あの子たちの笑い声のようですわね)


 孤児院の子どもたちが、冬を越えた春先に見せた、くすぐったそうな笑顔。

 あの顔を思い出すたび、胸のあたりがほんのり温かくなる。


 別の瓶に手を伸ばす。

 中身は、力強い色をした茶葉だ。蓋を開ければ、きゅっと背筋を伸ばしたくなるような、しっかりした香りが立つ。


(こちらは、辺境で夜通し帳簿と向き合っていた頃の、眠れない夜の味ですわ)


 冷たい灯りの下、パンと薪を数え続けた冬の記憶。

 指先のかじかむ感覚と、目の奥に残る疲労と、それでも手を止められなかった焦燥。


 さらにもうひとつ、小さな瓶を選ぶ。

 中には、乾かした柑橘の皮。ころりと小さな欠片が陽の欠片のようにころがっている。


(そして、こちらは――新しい生活の朝の匂い、かしら)


 追放でも、罰でもなく。

 自分で選んだ「紅茶屋としての一日」を始めた、あの朝の空気。

 少しひんやりとして、それでいてどこかすっきりとした、未知の道の匂い。


 リリアは、小さく息を吸う。


(甘さだけでは、きっと物足りない。

 苦さだけでは、とても飲み干せない)


 花の香りの茶葉を、ベースにひとさじ。

 その上から、強い渋みの茶葉を、ほんの少し――指先で摘まんで足す。


(この街で過ごした日々も。

 公爵家で、あるいは辺境で過ごしてきた日々も――)


 計量スプーンの中で、二種類の茶葉が静かに混ざり合う。

 色の違う葉が寄り添い、一つの影をつくった。


(どちらも混ざり合って、今のわたくしの味になるのですわ)


 柑橘の皮を、最後にひとかけ。

 甘さと苦さの境目に、小さな明かりを灯すように。


 温めておいたポットに、ブレンドした茶葉をそっと落とす。

 ケトルから、お湯が細く静かに注ぎ込まれた。


 とぷ、とぷ、と小さな音が響く。

 透明なガラスの中で、茶葉がふわりと舞い上がり、やがてゆっくり沈んでいく。

 水色は少しずつ、淡い金色から、深みを帯びた琥珀へと変わっていった。


 ランプの光に透かすと、その琥珀色の奥には、ほんのわずかな影が差している。

 それは、渋みの予告のようでいて、不思議と柔らかい輪郭をしていた。


 リリアは、砂糖壺の蓋に指をかける。

 すくい上げたスプーンを、ポットではなく、そっとソーサーの端に置いた。


(甘さは……控えめに。

 けれど、最後のひと口に、少しだけ名残が残るように)


 完全に溶かしてしまうのではなく、飲む人が自分で加減できる余地を残しておく。

 それは、彼女がこの店で覚えた「距離の取り方」でもあった。


 蒸らしの時間を、静かに数える。

 店内には、水音も話し声もなく、ただ時計の針が時を刻む音だけがある。


 頃合いを見て、リリアはポットの蓋をそっと開けた。

 立ち上る湯気に、花の甘さと、茶葉の苦みと、柑橘のかすかな爽やかさが折り重なって混ざる。


 その香りを、ひと息だけ肺に吸い込んでから、彼女は小さく微笑んだ。


「……少し甘く、少し苦く。

 本日のわたくしの精一杯、というところですわね」


 カップに注がれた紅茶は、琥珀色の表面に、ランプの光を細く揺らめかせていた。

 そこには、過去と今と、そしてこれからの道のりが、静かに溶け合っている――

 そんな気が、リリアにはしていた。



湯気の向こうで、客のまつげがかすかに揺れた。

 カウンター越しにカップがそっと置かれる。


「お待たせいたしました。

 本日の“最後の一杯”でございますわ」


 リリアの声は、いつもよりほんの少しだけ、柔らかかった。


 客は「ありがとうございます」と小さく頭を下げ、両手でカップを包みこむ。

 指先に、陶器越しの温もりがじわりと染みてくる。


 まずは、香り。

 そっと鼻先を近づけると、ふわりと甘さが立ちのぼった。


(……花の匂い?)


 最初に届くのは、柔らかな甘い香り。

 けれど、その奥には、かすかな陰りのような、落ち着いた渋みの気配が潜んでいる。


(甘いだけじゃないな)


 客は、ひと呼吸おいてから、ゆっくりとカップを傾けた。


 熱すぎないよう、慎重に含んだ琥珀色の液体が、舌の上を滑っていく。

 最初の一瞬、舌先に触れるのは、ほのかな甘さだった。

 花の蜜を薄く溶かしたような、やわらかい甘み。


 次いで、喉の奥へ流れ落ちていくその途中で、静かな苦みが輪郭を現す。

 尖った棘ではなく、ゆるやかに沈んでいく石のような、重みのある渋み。


(……ああ)


 胸の内側で、なにかがほどける音がした気がした。


(甘いだけじゃない)


 仕事で笑顔を貼りつけたまま飲む砂糖たっぷりの菓子のような甘さではない。

 形だけ慰めてくる言葉のような、軽さもない。


(でも、ちゃんと……苦いだけでもない)


 今日一日のことが、舌の上で少しずつほどけていく。

 うまくいかなかったこと。

 飲み込むしかなかった言葉。

 誰にも見られないところで、そっと握りしめた拳。


 そういうものを、否定せずに、そのまま受け止めるような苦みだった。


 飲み込んだあと、喉の奥から胸にかけて、じんわりとした温かさが広がっていく。

 それを追いかけるように、ほんの少しだけ残った甘さが、余韻として口の中に留まる。


(……今日みたいな日には)


 客は、カップの縁を指先でなぞりながら、そっと目を細めた。


(こういう味が、ちょうどいい)


 誰かに「大変でしたね」と言葉で言われるよりも、

 何も聞かれず、何も問われず、ただこの一杯を差し出されるほうが、

 よほど報われた気がする夜もある。


 もう一口、ゆっくりと口に運ぶ。

 さっきよりも、甘さと苦さの境目が、少しだけ馴染んで感じられた。


 ふっと、肩の力が抜ける。

 客は思わず、笑みをこぼしていた。


「……本当に、少し甘くて、少し苦いですね」


 カウンターの向こうで、リリアが目を細める。


「お気に召しましたなら、何よりですわ」


 それ以上、彼女は何も聞かなかった。

 今日がどんな日だったのか、どうして「少し甘くて、少し苦い」などという曖昧な注文をしたのか――

 客のほうも、語るつもりはなかった。


 ただ、カップの底に近づいていく琥珀色を眺めながら、

 今夜の自分の一日が、少しだけましな終わり方をしたように思えた。


 最後の一滴まで飲み干したとき、胸の奥には、ほんのわずかな疲労と、

 それをやわらかく包む甘さが、静かに同居していた。


 カップの中の琥珀色が、ゆっくりと減っていく。

 壁の時計の針が、小さく「コ、コ」と音を立てながら進んだ。


 客はしばらく黙っていたが、最後のひと口を残したところで、そっとカップを置いた。


「……ちょっとだけ、元気が出ました」


 ぽつりと落とされた言葉は、湯気よりも控えめで、けれど確かな温度を持っていた。


 カウンター越しに、それを聞いたリリアが、静かに微笑む。


「それでしたら、この一杯の役目は果たせたようですわね」


 “最後の一杯”という言葉が、店の空気のどこかで、かすかに響きを増す。


 客は、名残惜しそうにカップの底を一度覗き込み、それから席を立った。

 レジの前で財布を開きながらも、どこか顔つきが軽くなっている。


 支払いを済ませ、ドアへ向かいかけて――ふと、振り返った。


「……そういえば」


 リリアが首をかしげる。


「はい。どうかなさいまして?」


「ここ、“噂の令嬢の店”って聞いて来たんですけどね」


 ミラが、洗い場のほうでわずかに肩を跳ねさせる。

 リリアは、声色を変えずに「まあ」と小さく目を丸くした。


「それは、それは。

 噂というものは、よく歩き回るものですわね」


 客は少しだけ照れたように笑い、言葉を続ける。


「でも、たぶん、明日からは――」


 一拍置いて、


「“少し甘くて、少し苦い紅茶を出す店”って、言うことにします」


 その言い方は、宣言というより、“自分の中での結論”をそっと口にしたような響きだった。


 リリアの唇が、やわらかく弧を描く。


「それは、とても光栄な噂ですわ」


 恭しく、けれどどこか茶目っ気を含んだ一礼。

 客も思わず笑って頭を下げる。


「ごちそうさまでした。

 いい“最後の一杯”でした」


 ドアが開き、夜の空気が一筋、店内に流れ込む。

 白薔薇の看板の下を、客の背中が通り過ぎるのがガラス越しに見えた。


 カラン、と控えめなベルの音。

 ドアが閉まると同時に、店内の時間が一つ、静かに区切られる。


 ミラが洗い物の手を止め、ぽつりと言う。


「……いいラストでしたね、今日の一日」


 リリアは、さきほど客が座っていた席に目をやる。

 そこには、薄く輪を描いたカップの跡と、かすかな紅茶の香りが残っている。


「ええ」


 彼女はゆっくりと瞬きをしてから、微笑んだ。


「わたくしにとっても、少し甘くて、少し苦い一日ですわ」


 甘いのは――

 最後に「元気が出た」と言ってもらえたこと。

 “噂の令嬢”ではなく、“少し甘くて、少し苦い紅茶を出す店”として覚えられること。


 苦いのは――

 今日もまた一日が終わってしまうこと。

 積み重ねたカップの数の分だけ、過ぎていった時間を意識してしまうこと。


 けれど、その両方を抱えたまま締めくくられる一日なら――

 リリアにとって、それは悪くない“ラスト”だった。


 ミラが椅子を上げながら、軽く笑う。


「さ、店の“物語”は本日ここまで。続きはまた明日ですね」


「そうですわね」


 リリアはカウンターの内側から、そっと灯りを一段落とす。

 白薔薇の看板が、外の薄闇の中でゆらりと揺れた。


 今日の店にとっての“最後の一杯”は、もう空になっている。

 けれどその味は、どこかの夜道を歩いていく一人の胸の中で、

 しばらくのあいだ、少し甘く、少し苦く、温もりを残し続けるのだろう。


 そして明日になれば、また新しい一日が始まる。

 物語としては終わりに向かう頁であっても――

 紅茶屋としてのリリアには、まだ続きの“今日”がある。


 そう思うと、彼女はもう一度、静かに微笑んだ。


片づけがだいたい終わったころ、

 カウンターの上には、カップがひとつだけ残っていた。


 それは、先ほどの客に出したものと、ほとんど同じ配合で淹れた――

 リリア自身のための“最後の一杯”。


 店内の灯りはすでに落とされ、

 カウンター上の小さなランプだけが、琥珀色の紅茶を透かしている。


 リリアは椅子に腰かけ、両手でそっとカップを包み込んだ。

 先ほどよりも、少し温度の下がった湯気が、ふう、と静かに揺れる。


(わたくしの紅茶は、きっとこれからも――

 少し甘く、少し苦いままなのでしょう)


 カップの縁に口を寄せながら、心の中で言葉を紡ぐ。


(誰かの今日の苦さを、全部消し去ることはできません)


 辺境の冬の夜。

 王宮のざわめき。

 “悪役令嬢”と囁かれた日々の棘。

 それらが、完全に消えることはない。


(けれど、その隣に、ひとかけらの甘さを添えられるなら――

 この店を選んだ意味は、十分ですわ)


 たとえば、少しだけ元気を取り戻した人の肩の軽さ。

 “噂の令嬢”ではなく、“おいしい紅茶を淹れる人”として笑われる瞬間。

 アイスティーで頬を緩ませる子どもたちの声。


 それらを思い浮かべながら、リリアは静かにひと口、紅茶を飲む。


 最初に舌の上にひろがるのは、やわらかな甘さだった。

 ふわりと広がって、ほんの少しだけ胸の奥を撫でていく。

 そのあとから、遅れて追いかけてくるように、静かな渋みが喉を通り抜ける。


 飲み込んだあと、胸のあたりに残る温度が、

 今日一日のざわめきを、少しずつほどいていく。


(……ええ。悪くない“最後の一杯”ですわね)


 彼女は自分にだけ聞こえる声で、ほんの少し冗談めかしてそう呟くと、

 残りをゆっくり、丁寧に飲み干した。


 舌の上に残ったわずかな渋みと、

 喉の奥に広がる柔らかな甘さが、

 一日の終わりと、明日への続きとを、そっと結びつけていた。


 空になったカップをソーサーに戻し、

 リリアは立ち上がって、ランプの火を少しだけ絞る。


 窓の外では、白薔薇の看板が夜風に揺れ、

 その影がガラス越しに、店内の床へと長く伸びていた。


 ミラが「お先に失礼します」と手を振って出ていき、

 扉が閉まると、店はほんの一瞬、完全な静寂に包まれる。


 その静けさの中で、リリアはカウンターを一度だけ軽く撫でた。

 今日、ここで重なり合った声と笑顔の名残りに触れるように。


 ランプの灯りとともに、今日の店の物語は静かに幕を閉じる。

 けれど、明日また扉が開けば――

 彼女の紅茶は、きっと同じように、少し甘く、少し苦い。


 その味を思い出せる誰かがいるかぎり、

 噂に揺れた令嬢の名は、やがて“今日の一杯”の記憶に溶けていく。


 そして、この小さな紅茶店の物語は、まだ終わらないのだ――

 そう思いながら、リリアは最後の灯りを落とし、

 静かな夜の中へと、そっと扉を閉めた。


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