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へんな怪談集

おいしかったです

作者: 夏野 篠虫

 数年前、古くから付き合いのある友人と飲食店に行った時の話です。


 仕事終わりに駅で合流してお店を案内してもらいました。一人では入りにくいオーラを放つ昭和期の雑居ビルの地下一階に降りました。長い廊下の両側には居酒屋、小料理屋、寿司屋、スナック、バーなど多種多様な店が看板を出していました。その中でも一番奥にあるのが友人お気に入りのお店でした。

 中に入ると橙色の裸電球がいくつかぶら下がり、曲名も歌手名も思い出せないくらい昔の、けれど有名な洋楽が聞こえました。年代物の木製のL字カウンターが手前から奥に折れ曲がる形で伸びていて、席は10席もなかったと思います。壁には品書きと店主の趣味なのか映画ポスターが何層にもなって貼られていました。カラオケスナックのようでしたがカラオケはありません。おばんざい屋と言うのでしょうか。早い時間帯だったからか先客はおらず、カウンターの内側に黒のエプロンを着けた50代らしき女性店主が作業をしてました。ショッキングピンクに濃緑色(のうりょくしょく)のツタをあしらったどこで買ったか分からない長袖ワンピース、真っ白な肌に真っ赤な口紅、勝気なショートヘアをした、良くいえば個性的な店主でした。

「いらっしゃい――あれめずらしい、今日はお友達と一緒なの?」

 友人に話しかけるその声は想像以上に丁寧でしたが高音で、かなり酒焼けしたしゃがれ声でした。

 お互い軽く社交辞令を済ませて席に座り、勝手の分からない私は飲み物だけ決め、注文は友人に任せました。

「じゃあとりあえずビールと、こっちはレモンサワーで」

「はーいちょっと待ってね〜…………はいどうぞ。それと、お通しね」

 注文票に手書きでメモを取り、2種類のグラスを用意してサーバーと冷蔵庫からそれぞれ注ぎレモンを(しぼ)る無駄のない動き。長年飲食業に携わってきた人だとすぐ分かりました。

 乾杯を済ませて一口飲み込み、次いでお通しを口にしました。よくある煮物系のお惣菜のようで、きちんと作られています。外見や雰囲気で人は判断できないと改めて思いました。

 調理も店主一人で行うため、提供スピードはゆっくりです。数多いメニューから友人がいくつか選び、お酒を飲みながら友人と話していました。近況報告から始まり友人が上司の愚痴を言ういつもの流れです。

 そうこうしている間に料理が出てきました。一見よくわからない和え物らしいのですが、正直見た目はよくありません。友人がうまいよと勧めるので食べてみると、美味しいのです。それもかなりの美味しさでした。

「あのこれ、すごいおいしいですね」

「そう? お口にあってよかった」

 いい意味で期待を裏切られるような感じでした。私はすっかりそのお店と店主を気に入りました。


 料理にお酒に友人の話……と盛り上がる中で私は先程から”我慢”していたのを思い出しました。

「すみません、お手洗いは……」

「右奥ね、曲がって右側にドアあるから」

「ありがとうございます」

 特別アルコールに強くないうえ、一杯目を空きっ腹で飲み始めたのでいつもより酔いが回っていました。席を立ったとき足元が少しだけふらついたのです。

 その様子を見た店主が声をかけてくれました。

「あなた、足元気をつけなさいよ。中入ったら座って用足しなさい。あと一応上、天井に気をつけて」

「天井……? なにかあるんですか?」

「いいから、ずっと上を見とけば大丈夫よ。理由はあとで言うから」

 店主は碁石のような黒目で少し口角をあげながら、そう謎の忠告をしました。私にはよく理解できませんでしたが、隣の友人は訳知り顔で黙っていたのと店主も説明してくれると言っていたので、そして何より我慢も限界だったため駆け足でトイレに駆け込みました。

 なんてことない飲食店のトイレでした。特徴という特徴もなく、洋式便器が一個と手洗い場が一つだけ。ベージュの壁紙に同業者の店舗情報などのチラシが貼られていました。

 私は座って用を足しました。座った拍子にドア付近の下の方の壁と床に染みのような汚れを見たのですが特に気になりませんでした。居酒屋のトイレなんて誰が何をしていてもおかしくありません。

 それと、忠告通り何かあるといけないと思い、座っている間はずっと上を向いていました。ぼんやり温まった頭を仰向けにして、眩しくないように電球を避けて天井を見続けました。

 立ち上がり、いつまで上を気にすればいいのかわかりませんでしたが、手を洗う時もなるべく上を見ていました。なぜそこまで律儀(りちぎ)に従っていたのかはわかりません。酔っていたからとしか言えませんが、忠告するときの店主の表情から無意識に何かを感じていたのかもしれません。

 トイレから戻って席に着くと、友人と話しながら調理中の店主は手を止めずに私へと話しかけました。

「おかえり。ちゃんと上を見てた?」

「ええ、まぁはい。でもなんともなかったですよ」

 すると店主は火がついたように笑いだしました。荒れた喉が締まり、まるで古い笛を吹いているように空気が漏れていました。

「やっぱりマジメねぇあなた! なあんにもないわよ、上には! 下よ下、ホントは下を見ちゃダメなのよ」

「下に何かあるんですか? 普通な感じでしたけど……」

「シミ、見えなかった? あのシミを見ると嫌ぁ〜なものを感じる人もいるみたいだから初めての人には忠告してるんだけど」

 そう言われてすぐに壁と床に(またが)る赤茶色の汚れを思い浮かべました。

「あぁ……ありましたね、ドア開けてすぐの下の方に。でもそれなら初めから下に気をつけろって言った方が良くないですか?」

「そのまま言うとほら、余計気になってみんな下を見ちゃうのよ。ダメって言われるほど人間気になっちゃうもんでしょ? 『鶴の恩返し』とかそうじゃない」

「はあ確かにそうですね……じゃああのシミはなんなんですか、ただの汚れにしか見えませんでしたけど」

 そう聞いた途端、ふっと店主から笑みが消えました。明るい店内の電球が切れたような気がしました。

 少しためを作って店主は口を開きました。

「ここ始めてもう12年くらいになるんだけど、オープンしてすぐからの常連がいたのよ。その時40くらいの、ふつうの会社員って感じの人でね。仕事はうまくいってたみたいで、ただずっと独身だったんだけど。週に2回は来てたかしら。冴えない格好のわりによく喋る人だったわ」

 私は頷くだけで、黙って聞いてました。

「何年も通ってくれるからあたしや他の常連とも仲良くなって、休みの日もみんなで飲みに行ったり旅行とかね、行くくらいだったんだけど……死んじゃったのよ、そこで」

 店主は指を差しながら唐突に言いました。人差し指はお店のトイレを示していました。

「え、そこでって、え?」

「真夏だったわ、彼、いつもどおりここで飲んでたのよ。トイレ行ってくるって普通に歩いて行ったの。ほんといつもと同じ感じで。店も遅い時間で、今日は閉めようと思ってたからドア越しに声かけたのよ。『済ませたらそのまま帰っていいからね~会計はツケでいいから』って。信頼してたし前にも似たことあったから。『ありがとう。さよなら』って返事を聞いて、裏口だけ閉めずに鍵は植木鉢の下に入れといて、お金とかだけ持って帰ったの」

 友人は何度も話を聞いているようでした。ちびちびとお酒を飲んでました。

「次の日は定休日で、あたしも予定があったから店には行かなくて。その翌日は早めに行ったのよ、片付けとか仕込みがあったから、

ね。裏口が開いたままだったから変ねって思ってんだけど、中入ったらもう臭いがすごくって、流しに捨てといた生ごみとか食べかすが腐ってたのよ。でもそれを片付けてもまぁだ臭うのよ。なんだろうどこだろう~って探したら、どうもトイレの中なのよ。だからね、あたしは――

「あっ、も、もう大丈夫です、わかりましたから……」

 先が読めてしまったので、私は失礼を承知で話を(さえぎ)りました。常連さんはトイレの中で亡くなっていた、しかも死因は多分、自殺だろうと思いました。トイレの壁と床の汚れは、真夏の夜昼(やちゅう)に蒸されてあっという間に腐ってしまった時のものなんだと、想像できてしまいました。話をされたことで、会ったこともないし顔も名前も知らない常連さんの存在が私の頭の中で形作られたと思ったら急に膨らんで思考を圧迫するのです。

 酔いは醒めてしまいました。

冷静になり、初対面なのに嫌な態度を取ってしまったと反省していましたが、店主はこう言いました。

「あらごめんなさい。気分が悪くなっちゃったかしら。あれ見ても平気そうだったから話したんだけど」

「……いえ、お気になさらず、大丈夫です。すみません話を止めてしまって」

「それは別にいいのよ、たくさん話してることだし」

 常連が自分の店で亡くなったという事実を語るには店主の様子は明るく感じました。和やかな表情と口ぶりは昔のことだからというだけではないようでした。

「あのシミは、なぜそのままにしてあるんですか。よくないものなら消してしまった方がいい気がしますけど……あ、すみません勝手なことを言って」

「消した方がいい。その通りよねぇ。でもね、あたしはこう思っちゃうのよ。せっかくうちを死に場所に選んだ人が最期に残した跡を消しちゃったら、その人の存在まで無かったことになるような気がしてねぇ。ずっと消せないままなのよ」

遠くを見つめるような 店主の言葉を聞いて、ずっと黙っていた友人が鼻を啜りだしました。横を見ると泣いていたので驚きました。

「なぁあ? いい人だろ? 人間やっぱり、心がこう、キレイでないと、だめなんだよぉ、そう思うだろ〜?」

 そう言われて、私はそうだよねと同意したような、相槌を打っただけのような気がします。この辺り以降はあまり覚えていないのです。




 店主は果たして”いい人”なのでしょうか。

 亡くなった人の痕跡を残しておくことがその人のためになるのでしょうか。形見なら理解できます。故人の大切にしていた品物を同じように丁寧に扱い保存するのは供養にも哀悼の意にもなると思います。

 でも、(うじ)が湧き腐敗した遺体の体液が染み付いて(けが)れた思念となって残っているものをそのままにしておくのは違うのではないでしょうか。

 とっておきの美談のように語る店主とそれに酷く共感する友人。私と比べてどちらの感覚がおかしいと思いますか?



 あの店に行ったのはその一度きりでした。案内してくれた友人とは今でも付き合いがあり、お勧めの飲食店を紹介してもらっています。とびきり美味しい店や食べたことのない品を提供する店にも行きました。

しかし、あの店で出された料理の美味しさは異常なほど鮮明に記憶されて忘れられません。

 忘れたくてもそれは、気持ち悪いほど美味しかったのです。




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