6. 暗殺者
あれから数日。
1ヶ月以上前に負ったハンナの怪我ですらまだ治り切っていないというのに、彼は傷跡さえ残らず治癒していた。
「…どういうこと?」
「どうって暗殺者なら普通だけど。」
さも当然だと言う彼の言葉にそんな設定あったかと思い出してみる。
暗殺者は確かに乙女ゲーム内に出てくる存在だが、名前や容姿が描かれるわけもなく。
あの一度だけの出演だった。
「そろそろ移動しようか。」
「…移動?」
「うん。この辺りの獲物は粗方狩ったし、…するのは僕のポリシーに反するからね。」
何をすると言ったのか小さくてよく聞こえなかったが、いきなり抱きかかえられるとそのまま山を降りていってしまう。
遠くになっていく小屋を見ながらどこに連れて行かれるのかと意識を遠くに向けた。
足元が悪いはずなのに軽い身のこなしで降りていく彼に感心しながら久々の平らな地面に視線を向けると、空から男性が降ってくる。
驚きすぎてわっと声を上げたハンナに可愛げの欠片もないとケラケラ笑うニコライ。
失礼だと抗議の声をあげようとしたが、降ってきた男性が歩み寄ってきた。
「その女、誰だ?」
「お前に関係ないでしょ。」
「なるほど。今日は新月だから流石に獣じゃ満たされねえよな。俺にも分けろよ。」
「ヤダ。これは俺のだから手を出したりしたら殺すよ。」
「…っじょ、冗談に決まってるだろ!そんな怒るなよ。」
彼らのこの会話。
獣じゃ満たされないというワードが引っ掛かってしまったがなんのことだろうか。
猪や熊の燻製に兎の丸焼きばかりでは飽きたという意味かとも考えたが、それにしてはなんだか不穏だとニコライを見るとにんまりと笑みを浮かべたままハンナを見ている。
「ヒルベルトも同業者だから心配いらないよ。もし敵になったとしても瞬殺できるから。」
「俺も純血の暗殺者だぞ!瞬殺はされねえ。それにお前、この前の依頼で怪我したんだろ?腕が鈍ってるなら尚更…。」
「やってみる?」
雰囲気を変え、背中がぞわりとするくらいの殺気を出した彼にハンナはもちろん、ヒルベルトと呼ばれた彼すら動くことができなかった。
ナディアを襲った時ですら感じなかったそれは彼の本気度が伝わってくるようで、あの時は手加減していたのだと理解する。
逃げるように何処かに去って行った彼を見送ると目的地へ向かい始めたようだ。
辿り着いたのは人気のない山奥の廃城で、迷うことなく一室へと入っていくとベッドの埃を軽く払ってから彼女を座らせた。
「次のお家はここだよ。久々に来たからちょっと掃除しないとなぁ。」
「…なんで。」
「ん?」
「…私を殺さなかったの。簡単だったはずでしょ。」
「そうだね。」
「あの時殺しておけば良かったのに…。」
「なんでだろ。もしかしたらヒルベルトが言うみたいに獣じゃ満たされないのかもね。」
彼はそう言うと暖炉に火を付けるための薪を取りに行くようで部屋から出ていく。
どういう意味だと問いたかったが、逃げるようにいなくなったところを見るとあまり突っ込んでほしくないのだろう。
小さくため息を溢してから部屋の掃除をするべく立ち上がると、近くにあった箒で部屋中の埃を落としていった。
1時間ほどするとだいぶ綺麗になったようで、あとは水拭きをすれば完璧だと腰に手を当てていると大量の薪を持ったニコライが戻ってくる。
「綺麗になったね。」
「あとは水拭き。小屋から汚れたタオル持ってこれば良かった…。」
「隣の部屋に小屋と同じだけの物は揃ってるよ。一応ここも俺の隠れ家だし。」
「隠れ家なら私に教えたらダメなんじゃないの。」
「ハンナは俺から逃げられないし、問題ないでしょ。」
「…逃してほしいんだけどね。」
「諦めて生きたほうが楽しいよ。」
「いつ殺されるかもわからないのに楽しめるわけ無いでしょ。」
「そっか…ちゃんと言葉にしないとね。俺が本当に殺すつもりならとっくに殺してる。だから安心して。」
歪な笑みを浮かべながら言われる安心という言葉ほど信用ならないものはないと言えばカラカラと楽しげに笑い声をあげるだけで、そのスタンスを変えるつもりはないようだ。
あれから彼が薪割りついでに取ってきた兎の肉と野草の残りを廃城に生えていた朴の木から取った葉で包み焼きにしていく。
20分ほどで出来上がったそれを開いて軽く塩を降れば完成だ。
侍女として給仕も手伝っていたため、もっと手の込んだ料理も作れるが、調理器具はもちろん野菜や調味料等も揃っていない。
「美味しそう。」
「味の保証は出来ないけど、どうぞ。」
皿を手渡せば小さく挨拶してから食べ始めた。
どうだろうか。
不味くはないはずだけど。
そう思いながら自分も肉と野草をフォークで刺して口に含んで見る。
「美味い!」
「…そう?兎の丸焼きより臭みは消えたけど、ローズマリーとかあればもう少し美味しくなりそう。」
顎に手を当てながらそんなことを考えている彼女を楽しげに見る彼は何を考えているのだろうか。
食事を終えるとニコライは剣を磨き始め、ハンナは隣の部屋で見つけた新しい本を意気揚々と読み進めているようだ。
夜も更け、本を読みながら何度も欠伸をしている彼女はついにこくりこくりと居眠りを始める。
寝ればいいのにと思いながらも触れれば目を覚ましてしまうのだろうと視線を窓の外へと向けた。
今日は新月だ。
瞳孔が開いていくのを感じ鼻孔を擽る甘い匂いに小さくため息を溢す。
前回は彼女が大怪我を負っていたこともあり、他で抑えていたが血の流れていない状態なら大丈夫だろう。
そう自負していたのに、兎だけじゃ足りないと疼いている。
ベッドの側面に身体を預け本格的に寝に入ったハンナの首筋から目が離せなくなっていた。
「…怒るかな。」
ぽつりとそう呟いてからゆっくりと彼女に近付いていく。
首筋の血管が脈打つたびに主張し始めた牙に我慢の限界だと口を開けるとハンナの首筋に齧り付いた。
「…痛っ。え、なに?」
「ふぇ、ふぁ。」
「は?なんて言ってるかわかんないし、痛いから離して!」
抵抗する彼女をしばらく抑えていたが、血を失う感覚と牙から入れられた鎮静作用のある毒が効いたようで、身体から力が抜ける。
「人間の血は脂肪分多くて嫌いだったのに。ハンナのは俺の好みなんだよなぁ。なんでだろ。」
「…。」
「あー鎮静作用効きすぎちゃった?まぁ、初めてならしょうが無いよ。新月の時だけにするつもりだったけど、これからは主食にしよう。」
ハンナを抱き上げ、一緒にベッドに寝そべると虚ろだった彼女の瞼が閉じていく。
このまま寝てしまおうとニコライも同様に目を閉じるのだった。