5通目
どうしてあんなことを言ってしまったのか。
叶望さんが手紙を書くはずないのになんで話してしまったんだろう。
言ってしまった後悔と手紙が好きなことがバレた恥ずかしさと、もう顔が見られないという悲しさが複雑に入り混じって頭の中を一周する。マクラを抱えて叫んでいたら、また母にうるさいと怒られた。
「何どうしたの」
母がそう聞いてきた。手紙の話をすると馬鹿にされるので「バイトの先輩が辞めちゃって寂しいだけだよ」と答えると、ふ~んと言われた。
「こないだご飯一緒に行った人でしょ、コロナ怖いって言ってたのにあんたも人付き合いいいから。またご飯誘われたらアレだし、落ち着くまで会わなくて良いんじゃない?」
と母が言うと、あ!おじ恋始まっちゃう!!と今流行っているテレビドラマを見るために居間へ走っていった。
母はコロナのことに対し過敏に反応している。
その理由は父が基礎疾患を持っているからだ。父が55歳の時、パーキンソン病という難病で早期退職をした。母は専業主婦なので、父が退職後は貯金と年金で暮らしている。自分がコロナになることを恐れているは勿論だが、父にコロナがうつって死んでしまったりすると収入がなくなってしまうことが怖いのであろう、感染が広がる当初から過激に反応していた。
大学1年生の時にやっていた居酒屋のバイトを辞めた理由も母だ。コロナ前は大学がない時間をほとんどバイトに充て、週4日ほど働くなど自由な日々を過ごしていた。しかし、ダイヤモンドプリンセス号の事件が起きてからというもの、私が家に帰ってくるとドアの取っ手を消毒し、居間に入る前は必ずお風呂に入らされた。
「ミナちゃん、危ないよ。お皿から感染するかもしれないし、お酒飲んだらマスクつけない人いるでしょ、辞めた方が良いよ。」
母にそう言われるがまま辞めてしまった。居酒屋の店長や仲間たちは皆良い人たちだったのでやめるのは惜しかったが、仕方ないと自分に言い聞かせた。
また、母の言う通りになってしまうな。
案の定叶望さんと会うことはなく、連絡すらも一切取らなくなった。叶望さんが辞める際に言っていた美大の文化祭はコロナで開催されず、その次の年は開催されたが関係者以外立ち入り禁止。段々と叶望さんの存在が薄れていき、2年の月日が経ってしまった。
私は大学4年生になった。
コロナの人数は依然多かったが2年もあると人々に慣れが生じ、母もコロナを過剰に気にすることは無くなった。
大学もすべて対面授業になり日常を取り戻してきた。
私の大学は栄養士の資格養成学校であり、本来は様々な実習があるが、オンライン授業のおかげで知識は残っていない。対面でやっと調理実習をやった所、包丁を持つ手がぎこちなく教授にあきれられた。
大学4年生の3月といえば就職活動という大きなイベントがあるが、栄養士という資格を使って保育園の内定をもらうことが出来た。母が一人暮らしを許してくれないので、家から車で片道20分ほどのちょうどいい場所にある。資格というのは偉大だ、なかったら絶対に受かっていない。また、面接がほとんどWeb面接だったので、過剰に緊張せず行うことが出来たのであった。まさにコロナのおかげと言っても良い。
100均ショップでの仕事も様になっていた。初日にあれほど緊張したレジも随分と速くさばけるようになった。しかし未だポンコツである。売り場の場所を聞かれると答えられないし(秘儀「そこになければないですね。」を連発する)電話対応もろくにできない。発注もやり方がよくわかっていないのでパートの人かフリーターの佐竹先輩に助けを求める。あまりに基礎的なことを聞いてしまうと「3年目なのに知らないの~?」と佐竹先輩にどやされてしまうのであった。
佐竹先輩とシフトが被ったある日、
「ねえ、昔働いていた叶望さん、覚えてる?叶望さんの大学、今年文化祭やるんだって。一緒にいかない?」と言われた。私は「行きたいです!!」と即答する。佐竹先輩は叶望さんと同期で、一緒に4年ほど働いていたので仲が良かったのだ。それから叶望さんの話になり、昔話が始まった。バイトに入った理由は叶望さんがガチャガチャの指輪をしていたからだと言うと、「何それウケるんだけど」と腹を抱えて笑っていた。私はちょっとムッとした。
「叶望さんはさあ、中嶋さん(パートの年配女性)ともめなければずっとやってたのにね。本当にもったいない。」
私は驚いて佐竹先輩の顔を見た。
「なんですかそれ!!?そんな話知らないですよ」
「あれ、知ってると思ってた。中嶋さんって気分屋でしょ、叶望さんとシフト被った日に物凄くイライラしていた日があって。ちゃんと仕事をしていた叶望さんに向かって、やる気ないなら帰ればって言ったらしいんだよ。有り得なくない??それでキレた叶望さんが、訂正してくださいよって言っても謝らなくて。そのまま1ヶ月シフト別の日にしてやめちゃった」
あの時期にそんなことがあったなんて本当に知らなかった。私も中嶋さんは苦手だったが、まさか辞める理由になっていたなんて思いもしなかった。私も叶望さんの時と同じように「やる気ないなら帰れば」と言われたことがあったが、私が謝罪して事なきを得たのである。誤る理由などなかったのに。自分の意志の無さを思い知らされて心がズキズキする。
とにかく、叶望さんとまた会えることを喜んだ。母に文化祭へ行くことを話すと「人多いだろうから、くれぐれもうつってこないでね」と許可が出た。
10月中旬、ついに文化祭の日になった。叶望さんの美大は電車で片道1時間半かかる場所にあったので佐竹先輩と朝早くに集合し、10時の開館時間丁度に入場した。入口で消毒をした後、パンフレットを受け取って再入場可能になる紙のバンドを手に付ける。
いよいよ叶望さんと会えるのだ。とわくわくしながら校門をくぐった。