表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

9-サドンデス



『クラブ選手権決勝にふさわしい! ここから先はサドンデスという名の延長戦です! 6分間のガチンコ勝負! 先にゴールを決めた方の勝利! どちらかがシュートを決めた時点で試合終了、クラブチーム王者の称号を手にします! そして、1週間後の全日本選手権大会へ出場権が決まります! 逆境から食らいついたNEO、このまま王者の首を食い千切るか! 絶対王者カメリアルズが新生チームにとどめを刺すか!』

『楽しみですね』


 一華と伶歌はフィールドの中央で向き合った。2人の間を、冷たい風が吹き抜ける。

 サドンデスはシュートが決まった時点で勝敗が決まる。実質このドローを獲得した側が、圧倒的に勝利に近づく。

「いち。これで最後。決着つけよう」

「……」

 一華は伶歌の言葉に違和感を覚え、顔を(しか)めた。真意を測ろうと伶歌の眼を見つめるが、直ぐに逸らされ繋がりを絶たれた。2人はクロスの面を合わせ、力を込める。

 ピッ ピピピッ

 ボールは2人の間に落ちた。両人の頭よりも高く上がらなければ、ドローは繰り返される。

 ピッ ピピピッ

 ボールは2人の肩の高さまで浮いて、落ちた。会場全体の緊張が高まる。広いフィールドの真ん中でクロスを押し付け合う2人の攻防を、固唾を飲んで見守った。

 ピッ ピピッ

 ボールが上がらない。ドローサークル周りの選手は笛が鳴ると同時に飛び出し、中断されては戻る。何度ドローが繰り返されても、最初の一歩に全力を込める。ここで集中力を切らした方の負けだ。

――これで最後

 一華は先程伶歌が口にした言葉を反芻した。口の中が痛いくらいに乾いていた。走ってもいないのに、妙に息が上がる。じっとりした汗が、顔の輪郭を伝う。

 この感覚は身に覚えがあった。身体が何かを感じ取って勝手に身を強張らせている。早くそこから逃げろと、警報を鳴らしている。こういう時は決まって、良くないことが起きる。

 ピッ

「あ……」

 一華が思考を淀ませている間に、ドローが再開された。

 ボールは高く頭上に飛びあがった。一華の位置からは届かない、伶歌の真上だ。伶歌は素早くクロスの持ち手を変え、落下するボールの下にヘッドを滑り込ませた。

 一華は、鼓膜を震わす自分の心臓音をかき消すように、深く息を吸った。全身に血潮を迸らせ、かっと目を見開いた。


 一華は伶歌に覆い被さるように、落ちてくるボールに手を伸ばした。

「⁉」

 伶歌は一華の重みに耐えられず体勢を崩した。転びかけてつんのめり、立て直した時には、一華が片手でクロスを操りボールを掴んでいるところだった。

「この……」

 破天荒なプレーに悪態をつき、我武者羅に手を伸ばす。一杯に伸ばしたクロスの先が、一華のクロスの端を引っ掻いた。

 ボールは弾かれて一瞬宙に浮いたが、まるで自分の意志を持つ生き物のように、一華のクロスに戻っていった。

 フィールドに沈みゆく伶歌を背に、一華は地面を蹴った。

 ドローサークル周りの選手たちは激戦を繰り広げる2人の一挙一動を注意深く見ながら、次の動きを窺っていた。地面に落ちたボール(ダウンボール)を取りに寄るか、攻撃に出るか、守備にでるか。

 一番最初に動いたのはアリアナだった。瞬時に守備体勢をとり、伶歌の代わりに一華の前に回り込む。

「一華ちゃん!」

 一華の後ろから、ドローサークル周りの選手ではないはずの叶恵が姿を現した。ドロー後に誰かがボールを保持した時点で、フィールド内の全ての選手にフィールドを3分割する(リストレイニングライン)を跨ぐ権利が与えられる。一華がボールを獲得したときには、叶恵は一華のオプションを作るために走り出していた。

 叶恵の登場によりボール周辺の攻撃値が高まったNEOが、攻撃サイドへ駒を進めた。

 カメリアルズの守備陣は身を固くした。

 10年来一度も、クラブ決勝戦でここまで苦しめられたことはなかった。ましてやサドンデスにもつれ込み、最初の攻撃権を奪われることなど、経験したことのない異常事態だった。

 試合が始まる前は、会場の誰もがカメリアルズの勝利を予想していた。そして今や、初めて見る王者の醜態に、均衡を崩す風雲児の登場に、歴史の変わる瞬間を期待し、少なからず興奮していた。

 当たり前の勝利、そのプレッシャーが、カメリアルズの選手の心を蝕んだ。


 NEOの攻撃陣はボールを回してボールマンが変わるたびに、そのボールマン中心に大きな渦を巻くように動いた。

『フェード!』

『フェード⁉』

 富山が突然発した単語を、山岸はオウムのように返した。

『NEOのボールを持っていない選手(ノンボールマン)の動きをよく見て下さい。ボールマンから離れるようにはけて(フェードして)いきます。あれでは、ボールマンがゴールに攻めてきたときに、隣の守備がフォローに寄れません』

『えっと、つまり、ああやってボールを持っていない選手(ノンボールマン)がフェードをすることで、一華選手が打ちやすいようにスペースを作っているってことですか?』

『まぁ、普通に考えればそうですけど、ほら。NEOですから。わからないですよ』

 今やNEOという言葉が、“新しい“や、“普通じゃない“ことの代名詞となっていた。

 ついに一華がボールを受け、一華の隣にいた碧依と深雪がものすごいスピードでゴール前を横断した。


――NEOが最終的にシューターに選ぶのは、一華さん。あの人の位置を絶えず共有して下さい。他は捨てていいです。止められますから。

 カメリアルズの守備陣はドロー開始直前に、そう董に告げられていた。はけていく(フェードする)碧依と深雪を無視して、一華の攻撃に備えた。

 しかし一華は、ゴール前でぽっかりとフリーになった深雪に、柔らかいパスを投げ入れた。さっきまで深雪をマークしていたアリアナは守備の統制を破り、深雪にプレッシャーをかけに戻った。

 深雪はアリアナの圧力から逃げるように身を翻し、シュートフォームをとった。

 カメリアルズの守備陣の脳裏には、同点に追いつかれたときの深雪のシュートシーンが蘇った。

(まさか本当に、深雪が……打つのか……? アリアナだけじゃ守れない……!)

 伶歌は瞬時に見切をつけ一華から離れ、地面を蹴って深雪のクロスに襲い掛かった。すると深雪は、くるりとゴールに背を向け、伶歌と向き合った。

「⁉」

 深雪の紺碧の瞳が、伶歌の眼を真っ直ぐ見た。

 深雪は一体いつから、こんなにも強い眼をするようになったのだろうか。

「そうやって仲間を信じきれない弱さが、あんたたちの弱点よ」

 深雪は距離を詰める伶歌の脇から、ボールをふわりと浮かせて一華に戻した。

 一華はボールを掴みとり、その場でクロスを振り上げシュートフォームをとった。地面にスパイクの針を食い込ませ、焦らすようにゆっくりと、身体でクロスを引っ張る。

 ピ――ッ

 会場にホイッスルが鳴り響いた。一華は動きを留めた。

「カメリアルズ背番号0、フリースペーストゥゴールの侵害(フリスぺ)とみなします。ボールマンの4m後ろへ」

 会場の人々は悲鳴にも似た驚嘆の声を上げた。

 シュート体勢にある選手とゴールの間に、マークマンのいない状態で存在してはいけない。そのルールを犯せば、ボールマンにフリーシュートの権限が与えられる。

 このシュートが決まれば、試合終了。クラブチームの新しい王者が誕生する。

 伶歌はボールを弄ぶ一華を睨み、ぎり、と奥歯を噛んだ。長い髪を靡かせてゴールから離れ、一華の脇を通り、指示を受けた場所へ向かった。

 かつてはかけがえのない友人であり、時を経て、互いに超えるべき好敵手となった2人。容姿も性格も似たところのない、対照的な2人。もう二度と、互いを仲間と呼び合うことはない2人。

 2人はすれ違う瞬間、同じ日のことを思い出していた。



    *


「伶歌って、大事なときのシュート外さないよね」

 一華がセーラー服の裾をぱたぱたと仰いで、服の中に空気を送り込む。都立中学の、無地の生地で誂えた地味な制服。空気の流れを良くしようと、肩に斜めがけにしているエナメル素材の大きなバッグを持ち上げて、肌と服の間に隙間を作る。

「うん……。すごく集中できるときがあるんだよね。時間が止まって感じる。周りの動きが遅く見える……」

 白いブラウスにチェック柄のベストを着こんだ伶歌が、まっすぐ前を見て返した。別々の中学校に通う2人の、同じ大会の試合帰り。夕暮れに吹き抜ける、温く、湿った風が幼い2人の汗ばんだ頬をくすぐる。

「あぁ~。たまにあるよね。あ、アイス食べない? 今日2人とも勝ったご褒美」

 一華が親指でくいっと、アイスキャンディーの自販機を指した。今日はお互いのチームが、トーナメントの駒を一つ進めていた。

「負けても食べてるくせに」

 伶歌は息をついて足を止めた。一華は返事を聞かずに、自販機に小銭を押し込んでいた。


    *



 一華がゴールの正面にあるフリーシュートのスタートライン(センターハッシュ)に立つと、ざぁっと強い風が吹いた。一華は目を瞑り、風に身を任せた。


 突如、静寂が訪れた。

 会場に訪れている人々の気配が消えた。近くにいたはずのカメリアルズの選手も、目の前にいたゴーリーも消えた。心安い仲間も、丁寧に整備された人工芝も、何も見えなくなった。

 冷たい鉄製のゴールだけがそこに留まり、風を吸い込んでいる。


 この世界では、自分以外の物体は怠惰なナマケモノのようにゆっくりと動く。

 そして難しいことを考えなくても、身体が勝手に動く。身体は頭と違って、何をするべきか知っているようだ。

 勝ちたい試合の大事な場面で、この世界はやってくる。死ぬかもしれないと思ったときにも、やってくる。自分で呼んだ覚えも、来てほしいと願った覚えもない。ただそこに現れる。

 代わりに何を奪われるのだろうと危惧しながらも、この世界に足を踏み入れずにはいられない。現れたら最後、無視することは許されない。誰に言われたわけでもない、ただそう、生まれたときから決まっている。これが何だとか、考える必要などないのだ。


 一華はスタンディングシュートの体勢を取る。クロスから伝わるボールの呼吸。この音のない世界では、耳は使い物にならない。感覚で声を聞き取る。


――これで最後


 どこまでもクリアで色鮮やかなこの世界に、突然どす黒い稲妻が落ちた。それを合図に辺りは暗闇に包まれ、足元にあったはずの地面がなくなった。

――私、転校する

――私、バスケ辞める

――私、ラクロス部辞める

――これで最後

 誰もいないと思っていた世界には、伶歌がいた。姿は見えない。ずっと昔からいたのだろうか。伶歌を探して足を動かした。ちっとも前に進んでいない。痛いくらいに足を回しても、空を蹴るだけだ。足は昔から、速かったはずなのに。

 一華は怖くなった。地面を蹴れば前に進む。進み続ければ、見えなかったものが見えてくる。そんな当たり前が、当たり前でなくなった。

 後ろを振り返った。何もない。

 もう一度前を見た。何もない。

 叫び声を上げてみた。何かが変わるかもしれない。腹の底から助けを求めたはずなのに、何も聞こえなかった。

 一華は何もない空間を彷徨った。動き回っているような気もするし、その場から一歩も動いていない気もする。

 一華はしゃがみこんだ。

 自分はここで、何をしているのか。何を目的に、何を頑張っていたのか。忘れてしまった。


「……か! ……一華! 踏ん張れ!!!!」


 一華は薄く瞼を上げた。どこか遠くの方から、確かに声がした。自分よりも高い、鼻にひっかかるような声。この声は知っている。くだらないことで引き笑いしたり、人を優しく包み、誰かを思い遣って震えたりする。深雪だ。深雪の声だ。

 突然、世の中の有象無象が形を成した。強い風が頬に当たるのを感じる。固い地面が、足の裏を押し返す。

 一華は白昼夢から引き戻された。

 目の前には相手ゴーリーの険しい表情。掌には使い慣れたクロスの感触。そして、自分の身体が傾いているのに気が付いた。

「ッ!」

 一華は歯を食いしばり、力の限り膝をひっぱり、倒れる身体を支えた。衝撃が古傷に響き、思わず片目を瞑った。

 クロスからボールが離れかけた。腕と肩を身体に引き寄せ、自分から離れたがるボールを無理矢理クロスの先に引っ掛けた。


 ボールは一華のクロスの先端から下向きに飛び出し、ゴーリーの手前に強く打ち付けられた。打ち付けられた角度と同じように鋭角に跳ね上がり、ネットを押し上げた。


 審判が両腕で大きくバツ印をつくった。

 試合終了の合図だ。



 グラウンドに横たわる一華に、NEOのメンバーが覆い被さった。


 メンバーに抱き着かれて、滅茶苦茶に撫でまわされる一華を後ろから見ながら、伶歌は地面に膝をついた。空を仰ぐと、海のように深い青が広がっていた。

「はぁ。楽しいな。ラクロス……」


 NEOのメンバーは試合終了の整列に向かう。

 一番後ろにいた一華が振り向き、膝に手をついて立ち上がる伶歌を見た。

「一華! これあんたのじゃないの? すぐ失くすんだから、ちゃんと持っておきなさいよ!」

 何か言いかけていた一華は、深雪にせっつかれ、生返事をしながらメンバーの元へ向かった。


 伶歌は一華の背中を目で追った。霞む視界の中で、大きな背中にはためく背番号1はやけに眩しく、やけに懐かしく感じた。

――いち、あんたは弱さも、かっこ悪さも、泣き顔も、全部持って歩いてる。隠したり、偽ったり、絶対しない。出会ったときからからずっと。きっとこれからもずっと。

 だから私、安心して笑えたよ。あんたがいてくれて、私はたくさん笑えたよ。これからも、もっと一緒に……

「いち!」

 一華は立ち止まり、振り向いた。

 伶歌は目尻に皺を寄せ、不器用に目を細めて笑った。

「……またね!」

 一華は不思議そうに伶歌を見た。グラウンドに西日が射しこみ、2人の間の空気は朱く煌めいた。



 その夜、伶歌は自宅の玄関前に倒れているところを、帰宅した夫に発見された。その時すでに息はなく、搬送された病院で死亡が確認された。急性硬膜外血腫だった。


翌朝、知らせを受けた一華を待っていたのは、冷たくなった伶歌の亡骸だった。

 一華に遅れて病室に駆け込んだ深雪と翠は、仰向けに横たわる友人を見て言葉を失くした。

「死後頭部CT検査の結果、血腫が確認され、脳が強く圧迫されていたことが確認されました。チームメイトの方の話によれば先週末、隣のフィールドで練習していた男子ラクロスのシュートボールが、ボール拾いをしていた伶歌さんの頭に当たったと。現時点で考えられる原因はそれです。男子のラクロスボールスピードは時速150㎞を超えますからね。ヘルメットを被っていない状態で直接それが当たったとすれば……。おそらくこの1週間頭痛や意識障害はあったのではと思いますが、もしかすると本人には自覚症状もないまま……」

 担当医が検査結果を淡々と告げた。

 一華は最後まで聞かずに、伶歌のいる病室から逃げ出した。


 病室に残された深雪と翠は、茫然と立ち尽くした。

 2人にとっては大学時代、青春を共にした仲間。何をさせても群を抜く才能、その美しさに、魅了され続けてきた。皆がするのと同様に2人も、その背中の後ろを走っていた。

 状況に理解が追いつくと深雪は膝から崩れ落ち、浅い呼吸を繰り返した。

「深雪。深雪、落ち着いて。ゆっくり……息を吐いて……」

 翠が深雪の背中を摩った。

「す、すい、はぁ……どうしよ、うっ……はぁ」

「うん……落ち着いて……」

 無意識に握った掌は、互いに震えていた。

「一華が……」

「わかってる。わかってるけど、落ち着いて。息を整えて」

 翠は、一華の出て行った扉を見た。

「……今はまだ、届かないよ。私たちの声は……」


 一華は病院をふらふらと彷徨った。目の前の空き缶のゴミ箱に気が付かずぶつかり、そのままがたがたと音を立てて雪崩れ込んだ。廊下を行き交う足音はどれも忙しなく過ぎ、誰もいない待合室のゴミ箱に埋もれる人間を、気に留める者はいなかった。


「なにしてるの?」

 しばらくして誰かが、横たわる一華を覗き込んだ。一華が瞼を上げると、色白の幼女が不思議そうな顔をして立っていた。

「おねえちゃん、ラクロスしってるの?」

 幼女は、一華のジャージの胸のマークを指さして聞いた。交差するクロスの刺繍が施してある。

 一華は何かを返そうとして幼女の顔を見て、口を開けたまま固まった。

 突如腹から込み上げた焼けるような感覚に、がっと口を塞いだ。窓際に駆け寄り、吐瀉物を外へ吐き出した。

「真凛ちゃーん? 神谷真凛ちゃーん。やだもうどこに行ったのかしら」

 一華の後ろで、看護師たちが声を落として慌ただしく廊下を駆けていった。

「ねぇ本当なの? 新棟で男性が飛び降りたって……その人って……」

「えぇ。命は取り留めたようよ……」

「小さい娘さんいるのになんで……」

「そりゃ飛び降りたくもなるわよ。だって奥さんの死因……」


 一華は深く息を吸い、胸を抑えた。一華が振り返ると、幼女はすでにいなくなっていた。



「それで、一華は……?」

 平日の夜。NEOのメンバーは、駅構内のチェーンコーヒーショップの一角に集まっていた。様々な路線やバスが行き交う、東京の中心とも言えるその駅には、帰路につく勤め人の足音が忙しなく響き渡っている。

 環の質問に深雪は、首を横に振った。環はグレーのタイトスーツに身を包み、赤色フレームの眼鏡をかけていた。手には何も持っていない。高層ビルが立ち並ぶ環の職場の駅は、ここから電車で十数分。このあとも会社に戻り、一仕事するのだろう。

「今日も帰ってなかった」

 深雪は、テーブルに置いた自分の手に目線を落とした。力をいれて、無理矢理震えを押さえた。


 伶歌が死んで、一華は姿を消した。

「でも清華さんに連絡したら、居場所に心当たりあるような言い方だったから、だから……後を追うとか……そ、そういうことは……」

 唇が震え、最後まで言えなかった。メンバーを安心させようとしているのに、これでは逆効果だ。奥の席から、啜り声が聞こえた。

「……私、一華ちゃんにたくさん助けてもらったのに……一華ちゃんが苦しんでるのに……何もできないのかな……」

 叶恵がぼたぼたと大粒の涙を溢した。誰も、何も返すことができなかった。

 ここにいる誰もが、迷ったときには一華を指標にした。どうにも動けなくなったときには、手を差し伸べてもらった。目が眩むような笑顔に、何度も救われてきた。

 その一華が、灯りを見失い暗闇に身を投じている。手を伸ばして助けたい。でもどうすることもできずに、ただ崖の縁から谷底を覗いて立ち尽くしている。

 電車の停発車音が鉄筋コンクリートを伝い、この駅構内のカフェに留まることなく鳴り響いていた。窓の奥の眠らない街の明りが、まるで別の世界の営みのように揺れ、現実味のないものに感じられた。

「し、試合はどうしますか」

 沈黙を破り、潤が話し合いの活路を見出した。

 5日後、このチームは全日本選手権大会を控えている。日本一を決定する、ラクロス界最高峰の戦い。この日のために鍛錬し、身を削り、あらゆることを犠牲にしてきた。

「……き、棄権だろ……」

 環が眼鏡の奥で、瞼を伏せた。

「お前等3人にはきつすぎるだろ」

 伶歌と同じ天王大出身の3人、一華、翠、深雪の心中を慮った。

「でも……相手の学生たちは、ここに全てをかけてきた。その子たちにとっては学生最後の大会だよ。日本一獲るために生きてるくらい、準備してきてるのに」

 志麻が、静かに意見した。

「それに、この舞台に立ちたくても、立てないチームもある……」

 千尋や光、碧依が顔を上げた。ここを目指して夢半ばで敗れた者もいる。その無念を思えば、決勝戦が不戦勝であっていいはずがない。

「だって……試合にでれる状況じゃないだろ? 人が死んでるんだぞ。協会は何て言ってる? 中止にしないのか?」

「しないよ……最後の大会は一番お金が動くんだもん。例え出場チームの選手だとしても、目を瞑るよ」

 叶恵が丸渕の眼鏡を外し、手の甲で目を覆った。

「でも……一華もいなくて、どうすんのさ」

 環はジャケットのポケットから薄いハンカチを取り出し、叶恵に渡した。

 志麻は目線を落とした。

 敵への敬意も大事。蹴落としてきたライバルたちの想いも大事。チームメイトも大事。何を優先するべきかわからなくなって、一同はまた押し黙った。

「人数上、一華さんがいなくても、試合はできます」

 ダオが抑揚のない声を出した。

「お2人が出れるのなら」

 ダオが翠と深雪を交互に見た。少しの間、沈黙が流れた。遠くで、列車の出発音が鳴り響く。

「……私に勝ったからには、頂点取ってきて」

 翠が初めて口を開いた。一同の視線が翠に集まった。

「伶歌ならそう言う」

 メンバーの瞳に僅かに、しかし確かに(ともしび)(とも)った。

「私は」

 深雪が、血の通い始めた唇を動かした。

「私は、一華のいないラクロスなんかつまらない」

 深雪は射るように、メンバー全員の瞳を見た。

「だから待とう。最高の状態で、待とう。一華が、自分に打ち勝つまで」

 メンバーは静かに頷いた。それぞれの瞳に燈った灯は、ゆっくりと巻き上がり、猛火へと変わった。




 清華は、都心の一等地に広がる墓地に足を踏み入れた。嗅ぎ飽きた線香の匂いと、知らない甘い花の香りが鼻孔で混ざり合う。多分、金木犀。もうそんな季節か。ここには何度も足を運んでいるが、この季節に訪れるのは初めてだった。

 カツカツと、石段にヒールの音を響かせ進んだ。幾つになっても、ここに来ると、心臓がきゅっと締め付けられる。仕事上普段から死と向き合っているはずなのに、この心の所作に慣れることはない。いや、慣れる必要はないのかもしれない。むしろ忘れるな、ということなのか。それにしても、感情を司るのは脳のはずなのに、心臓が傷むというのはどういうメカニズムなんだろう。そう言えば、感情が心臓疾患に影響するなんて論文が出ていたな。今度一華にも教えてげよう……。


 名前のわからない大きな針葉樹の、その麓に鎮座する黒い墓石の傍に、一華はいた。墓石の石段にもたれかかり、力なく四肢を投げ出している。焦点の定まらない視線が、少し遠くの空間を彷徨っている。

 清華はつかつかと一華に迫った。膝立ちで一華の胴体を跨ぎ、胸倉を掴んで引き寄せた。持ち上げられても自分の身体に力を入れようとしない一華を見て、目頭に力をいれた。空になった身体と、何も宿っていない眼に、魂を呼び寄せるように声を張り上げた。

「伶歌は死んだ!」

 一華の目が見開かれ、焦点が戻った。黒く揺らめく瞳が、声の主を探した。薄く、輪郭のぼやけた瞳。怯えて、逃げまどう瞳。

 清華は一華のこの瞳を、前にも見たことがある。

 幼い頃目の前で両親を亡くした一華が、夜な夜な携えていた瞳。伶歌に出会ってから、見せなくなった瞳だ。嗚呼神様いるなら、もうこれ以上、この子から大切なものを奪わないで。

「教えたでしょ? 時間は絶対に、前にしか進まない! 前を見なさい!」

 一華は清華の言葉を遮るように、ぎゅっと目を瞑った。そして消え入るように言葉を溢した。

「もういいでしょ……? もうできない……」

 一華が絞り出した言葉に、清華は掴んでいた服を離した。そして踵を返し、一華から離れた。


 才ある者は孤独だ。

 一華のいる世界は、一華が見ている世界は、常人が暮らしているこの世界とは違う。そこで起こる物事は、大抵の人は理解できない。理解できないものを、人は忌み嫌う。マイノリティと位置づけ、無意識に迫害する。

 しかし一華が常人の塀を乗り越えてこの世界から逸脱しても、そこには伶歌がいた。広大無辺に広がる孤独の海で、伶歌は一華にとってたった1人の同志だった。その同志を失い、一華は今、闇の中にいる。

 一華と伶歌。2人は限りなく近い、そして決して交わることのないそれぞれの道を歩いていた。時に戦線から逸脱しても、互いを信じて待っていた。その支えを今、失った。立ち止まることの許されないその世界で、一華は右も左もわからずに蹲っている。

 才に恵まれ、塀の向こうで燦然と輝く妹。才を与えられるのがなぜ自分じゃなかったのかと、嫉妬に狂いそうなこともあった。同時に、頭では理解できてしまう。自分ではその孤独とプレッシャーに、耐えることはできなかったと。

 自分は塀のこちら側から、無責任に檄を飛ばすことしかできない。その閉ざされた心に、届くことを願って。

「いつまでもメソメソしてんじゃないわよ。伶歌はあんたのそんな姿見て、喜ぶと思う?」

 結局、伶歌の力を借りた。

 一華は静かに目を開けた。何もない遠くの一点を見つめて、溢れ出すものを堪えるように、唇の内側を噛んだ。深く深く息を吐いて、墓石から身体を起こした。

「……清華、時間は誰にでも平等に与えられているって言わなかった……? 平等じゃなかったよ……」

 一華は視線を落としたまま、静かに紡いだ。

 清華は顎を引き、目を窄めた。

「……平等よ。誰の時間も平等に進んで、終わるリスクも平等にあるのよ。私もあんたも、明日死ぬかもわからない。だから今を、生きるのよ。生きてる者が、今を創るのよ」

 20年前に事故で両親を亡くした時も、10年前に祖母が寿命を迎えた時も、一華に同じことを言った。その度に一華の涙を拭って、手を引っ張って歩かせた。

 疲れたら立ち止まって休んでいいのは、凡人だけだ。天才はずっと歩き続けて、授かった力を世のために消費しなければならない。新しい刺激を受け、別の新しいものを作り続けることだけが、天才に許された生き方なのだ。立ち止れば、腐敗してゆくだけだ。


 一華は息を吐いて、膝を立てた。震える脚に手をついて、ゆっくりと起き上がる。上手く力が入らずよろけると、何か固い物にぶつかった。

 嗅ぎ慣れた匂いが鼻孔をくすぐる。この匂いは知っている。優しくて暖かい、大地の香り。

 顔を上げると、一樹が一華の傍らに屈み、背中に腕を回し身体を支えていた。

「一樹……」

 一華は一樹の名前を呼んだ。固く結んだ唇、眉間の皺、何かを訴えるように薄く開いた瞼。見慣れた顔のはずが、どこか別の人のように見えた。

「……前を見るのも立派だが、少しは周りも見ろって」

 一樹にそう言われ、一華はおもむろに首を動かした。

 そこにはNEOのメンバーの強く、優しい姿があった。腕を組み、口元には笑みを浮かべて、一華と肩を並べている。挑戦的に笑う深雪、まっすぐ前をみる翠、親指を立てて片目をつむる環、ほほ笑む志麻、心配そうにのぞき込む叶恵、無邪気にはしゃぐ後輩たち……。どんな自分も許してくれる仲間、奈落の底からも助けてくれる仲間、これからの時を共に生きていく仲間……。みんなが笑うなら、何もいらないと思える仲間が……。

 喉が鳴り、堪えていたものが溢れ出した。頬に熱いものが伝い、顎から落ちた。

「………。私……、行かなきゃ……」

 手首の裏で目尻を擦った。一樹の腕から離れ、背を向ける清華を追い越し、立ち並ぶ墓石の間を駆け抜けた。



「一樹も行って」

 一樹は横目で清華を見た。

「いつまでたっても、頼りにされないって思ってる?」

 図星を指され、いたたまれなくなって目を逸らした。

「あんたたちが高校1年生のとき、一樹の日本一決定戦かなんかに、一華が来たでしょ?」

 突然10年以上前の昔話を振られ、眉間に皺を寄せた。



    *


――11年前。

 一樹は不良仲間と共に地元の私立高校に進学し、そこでアメリカンフットボール部に入部し、青春時代を過ごした。1年目の冬、部活の仲間たちとともに過酷な練習を乗り越え、トーナメントを勝ち上がり全国大会に出場した。歴史の浅いチームだったが、それぞれの能力を最大限に発揮し、全国優勝を手にした。

「よーっし! このまま打ち上げいこうぜ~!」

 抱き合い、歓喜し、涙を流し、ひと段落して会場を後にしたときだ。仲間たちの一番後ろにいた一樹は、少し離れたところに見覚えのある後ろ姿を見つけ、目を見開いた。

「おいっどこいくんだ? おい!」

 一樹は呼び止める仲間を無視し、その後ろ姿目掛けて駆け出した。ずっと心の中で、強く輝いていた存在。どこにいても、どんなに離れていても、その光は失われない。熱いくらいに煌めき続ける。太陽。なあ、なんでお前が、ここに――?

 息を切らし夢中で追いかけ、名前を呼んだ。

 当人は大して驚きもせずに、振り向いた。

「……一華……」

「一樹。見てたよ。おめでとう」

 一華は目尻に皺を溜めて笑った。一樹はその笑顔を見て、声を聞いて、肺のあたりの温度がぐっと上がるのを感じた。

 久々だな。高校はどうだ? ラクロスってやつ、頑張ってるのか? どんな友達とつるんでんだ? 毎日、そうやって笑えてるのか? もう行くのか? また会えるか?

 全ての言葉が喉を一気にせりあがってきて、形を成さずに口の中でつっかえた。

「おーい! お前、彼女いたのか⁉」

 背後から、仲間たちの野暮な声が聞こえた。

「そっそんなんじゃねーって! ただの幼馴染だよ!」

 つい反射的に、大声でつき返した。一華は一樹の肩越しに、一樹の仲間たちに目をやった。そして何か合点がいったように、睫毛を伏せて息をついた。

「一樹、私来年も見に来る。またここで会おう」

 一華は一樹とは対照的に、落ち着いた様子で言葉を紡いだ。言葉にならなかった一樹の心の声に応えるように、1年後の約束をした。

「え? あ、……おう!」

 一樹は名残惜しむように、一華を見送った。何かもっと言うべきことがあったはずだが、乾いた口からは白い息が漏れるだけだった。

 一華の背中は、すぐに人込みに紛れて見えなくなった。


    *



「あの頃、一華は高校でラクロス部を一から創ることになって、上手くいかずに悩んでた。その時、あの子が言ったのよ。一樹ならどうするかなって。それで私が行かせたの。あんたの試合があるって知ってね」

 一樹は驚いた。なぜあそこに一華がいたのか、長年の謎だった。確かに清華なら、一樹の所在を調べて高校アメフトの全国大会のチケットを入手することなど、造作もないだろう。

 いやそんなことより、あいつが、俺がどうするかと考えた? あの、世の中の理を全て本能で察知しているような、あいつが? 自分の進む道を自分で歩いて作ってゆく、あいつが?

「それで帰ってきて、悩んでたことなんか忘れたみたいに、すっきりした顔してた。自分らしくやるって。そうじゃないと何しても意味ないって。一樹はそうしてたって」

 一樹の心臓は、ひっくり返りそうなくらいに激しく脈打った。自尊心がむくむくと湧き上がり、言いようのない喜びが身体に満ちた。

 あの時はただ、急に出てきてやっぱり道標になってくれるんだな、変わらないな。そう思っただけだ。まさか自分の生き方が、一華に影響を及ぼしていたとは思いもよらなかった。

――いつも頼りにしてるよ?

 一華がアメリカから帰ってきたと聞いて、仕事中にも関わらず駆けつけたあの日。適当なその場の返事だと思っていた言葉。自分の自信のなさに、いい加減嫌気が差した。そうだ。一華は、嘘をついたりしない……。

「わかる? 何かを施したり与えたりすることだけが、愛じゃないのよ。あんたは充分、あの子の傍にいる資格はあるわよ」

 一樹は清華の言葉を最後まで聞かずに、固い石畳を蹴った。脚がもつれそうになりながらも、全速力で街に出た。

 本当は一華の抱えてるものを、全部取り除いてやりたかった。楽になって、軽くなって、笑っていてほしかった。でも進み続ける限り、どんなに強い人間にだって、困難は降りかかる。時間は止まらない。だったらせめて、倒れないようにただ背中を支えていたい。



 一樹の背中が見えなくなってから、清華は目の前の黒い墓石を仰いだ。20年前に交通事故で死んだ、両親の墓だ。

 一華と清華はまるで瓜二つの姉妹だった。両親ですら、たまに呼び間違えるほどだった。まだ2人が幼かった頃の、淡い、穏やかな思い出。都内の裕福な家庭。大きなマンションの一角。毛の長い大型犬を飼っていた。休日はピクニック、海水浴、動物園……家族4人で温かな時間を過ごした。


 人はいとも簡単に死ぬ。ある日突然、二度と会えなくなってしまう。

 彼らはどこへ行ったのだろう。両親は、伶歌は、一体どこに行ったのだろう。

 死んだ人間に比べて、自分は価値のある人間なのだろうか。意思を継いで、彼らの分まで生きていくほどの、高尚な人間なのだろうか。

 だめだ。守るべきものがないと、自分は強くいられない。一華がいないと、どうしようもないことを考えしまう。

 思考が乱れ狂い、誰も見ていないことをいいことに、声をあげて泣いた。



「……今日は、差し入れくれないの?」

 清華は鼻を啜り、両親の墓石から目を離さず言った。

「……ごめん。聞き耳立てるつもりはなかった」

 針葉樹の幹の影から姿を現したのは、亮介だった。

「泣き顔なんて一華にも見せたことないわ。金とるわよ」

「喜んで貢ぎたいくらい美しかったよ」

「どうかしてるわね」

 亮介は清華に近づくと墓石の前に膝を付き、両手を合わせて頭を垂れた。

 清華は足元に跪く男に一瞥をくれ、長い髪を翻しその場を去ろうとした。

「裕也が病院の屋上から飛び降りた」

 亮介の言葉に、清華は足を止めた。

「自分のシュートボールで妻を死に追いやった、その自責の念に耐えられずにな。自殺は未遂に終わったが、意識不明の昏睡状態。そして5歳の、幼い娘がいる」

 清華は顔を歪めた。否が応でも、幼くして両親を失った自分たちと重ねてしまう。自分の存在が、両親をこの世に留ませる力にならなかったという事実無根の無能感を、その娘は生涯背負って生きていくだろう。

「なぜ私に言うの」

「裕也、大学の同期だろう。そして、一華ちゃんに伝えるのに、俺の口からじゃ荷が重いな」

 清華は息をついた。

「天才が孤立する理由がひとつわかったわ」

「一華ちゃんは、孤立なんかしないさ。心強い仲間がいる。数多のライバルも、強火の幼馴染もね。もう、君が強く見せる必要はない」

 清華は亮介に鋭い視線を投げた。

「君は華だ。もう、戦わなくていい」

 亮介は極めて真摯に、清華を見つめていた。

「だから俺の後ろに下がってろって? ばかね。そんな時代は終わったのよ」

 清華は、一華と一樹が走っていった方へ視線を走らせた。

「わからない? 誰も経験したことのない時代が始まるわ」

 冷たい風に髪を攫われ、清華はうなじを抑えた。

「わかるよ。でも、これが俺さ。どんな時代が来ようともね」

 慮外な答えに清華はまた亮介に視線を戻し、ふ、と頬を緩めた。

「いい度胸ね。生き遅れても知らないわよ」

 亮介は軽快に石畳を踏み、既に歩き出している清華を追った。

「心配してくれるなんて、やっぱり優しいね」

「誰にでもそういうこと言うんでしょ? ってよく言われない?」

「あはは。言われるね。人を選んで言うよりいいだろう? たった1人を大切に扱うなんて、恰好悪くてできないよ」

「すぐに恰好とか気にするわよね」

 清華は言いながら、これは自分にそっくりそのまま返ってくる言葉だと思った。

「仕方ないだろ? そういう人間なんだ」

 亮介の柔らかい言葉に、足を止めた。もう、恰好つけなくていいのなら、少しは素直に生きてみようか。せめて思っていることを言えるようには、なってみようか。

「ねぇ。私本当は、漫画家になりたかったの」

「へぇ。それは意外だ。なぜ医者に?」

 唐突な告白にも、亮介はいつもの調子でおどけるように首を傾げた。

「高校を出たら専門学校に行きたかったんだけど、成績が良いんだから、医学部か、法学部か、さぁどこにいく? って周りの人が当たり前みたいに用意してくれた。厚意を裏切ることもできなかったし、そういう普通から逸脱することも怖くて、自分を貫くことができなかった。大した信念もなかったし。私には一華を守る使命があるって、言い訳してね」

 清華は亮介を追い抜いた。2人は墓地を出て、路上に違法に駐車してあった亮介の白いスポーツカーに乗り込んだ。

「今から行けば?」

「え?」

 車の窓越しに街並みを眺めていた清華は、運転席の亮介を見上げた。

「今から学校に行くくらいの金、稼いでるだろ。そうやって後々に選択肢が増えるように、当時の周りの人はその道を進めてくれたのさ」

 明日の天気の話でもするように、のほほんと宣う。

「考えたこともなかったわ」

 清華と亮介は車から降りて、荘厳なスタジアムを見上げた。歓声やアナウンスが響いて混ざり合っている。

「人は言い訳を並べて挑戦から逃げる。最大の敵は自分。誰だってそうさ。でも信念なんかなくたっていいじゃないか。やりたいことをやったらいい。ほら、医療系の漫画なんてどう? そうそう誰もが描けるもんじゃないだろ」

 2人は観客席の裏を回って、メインスタンドへ続く階段を登った。

「まさか。描くならラクロスしかないわ」

 階段を登りきってゲートを出ると、わっと騒音に包まれた。凍てつく風が頬に突き刺さる。

「主人公は、一華ちゃん? 好きだねぇ。せっかく解放してあげたってのに」

 亮介は自分のコートをふわりと清華の肩にかけた。

「ふは。頼んでないっての」

 清華はコートを首元まで引っ張り、フィールドを見下ろした。



 全日本選手権大会はハーフタイムを迎えていた。

 NEOの選手たちは息を切らしながら、ドリンクを取りにベンチに集まった。そしてフィールド入場口の奥から、待ちわびた人物が歩いてくるのに気が付いた。

「い、一華……!」

 翠がいの一番に一華の腰に飛びついた。深雪も続いて駆け寄り、翠ごと抱きしめた。

「待たせてごめん」

 一華は翠と深雪を受け止めて笑いかけた。

「そういうの、試合のあとにしろっての」

「まぁまぁ。環こそ、泣くのはあとにしてよ」

 志麻が環にタオルを手渡した。

 一華は仲間1人1人を見て、顔を綻ばせた。

「みんな待っててくれてありがとう」

 メンバーは唇を噛み、かける言葉を飲み込んだ。

 一華はフィールドを見渡した。ごうと寒風が吹き、群青色のユニフォームを巻き上げる。

「行こう」

 彼女たちは強く凛々しく、熱い光の射すフィールドへ足を踏み入れた。


 一華はスタジアムの蒼い芝生を踏み、足を止めた。

「……」

 フィールドの広さ、クロスの重み、人々のざわめき……どれも、一華にとって初めて感じる彩度を放っていた。真冬の突き刺すような風でさえ、その存在を鮮明に主張していた。乾いた空気を胸一杯に吸い込むと、肺が突然の刺激に驚くように震える。全ての物体から、呼吸が聞こえた。


「一華!」

 名前を呼ばれて、一華は振り返った。顔を上げると、息を切らした一樹がスタンドの手すりから身を乗り出していた。

「お前言ったよな。ラクロスは自分で面白くしていくものだって」

 一樹は強く、覚悟を決めたような表情をしていた。どこか自信なさげで、周りの雰囲気に流され、1人で悶々と悩む幼馴染は、今はどこにもいなかった。

「楽しめよ」

 一樹は自分の胸の前で拳を握った。一華は慈しむように微笑むと、片手を上げフィールドに向き直った。

「あとな、無茶するなよ!」

 一華は再び振り向き、いたずらっぽく鼻に皺を寄せた。

「それは約束できないな」

 そう言い残すとクロスを担ぎ、仲間の元へ向かって走っていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ